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こんなに正統派の女の子は、いまどきちょっといない。物語のヒロイン黒沼爽子(貞子)は、ひざ下までの長いスカート、上まできちんとボタンをとめたブラウス、白い靴下。黒くてまっすぐな肩下までの髪。勉強は自主的にきちんとやるし、家の手伝いもするし、料理も作れる。学校の雑用係も、委員の仕事も、自分から買って出る。そして、ヒトのためになにか役立てないかと、いつも考えている。それにもかかわらず、貞子とあだ名され、彼女とかかわれば呪われるとか、霊感があるとか、噂され、嫌われている。物語を読み始めた時、なぜこんなに嫌われているのか不思議だった。でも、今の時代。女子高生の間では、制服のスカートは、ウエストをまくりあげることで、ミニにするのが流行っている。それはもう見事なくらい、ほとんどすべての女の子たちのスカートは、短い。場合によっては、下着の見えそうなぎりぎりの丈だったりする。こうなるともう、本音ではミニスカートがいやでも、足をだしたくなくても、自分の好みに関係なくスカートを短くせざるを得ない。こんな時代にスカートの丈をひざ下のままにしていたら、まず、周りから浮くに違いないし、ものすごく勇気のいる行為に違いない。実際、物語の中でも、爽子以外のすべての女の子たちは、いまどきのミニスカートなのだから。その上勉強はやる。委員はやる。髪は黒い。これでは、実際周りから『うざい奴』と、思われても仕方ないし、いい子ぶりっこと、思われて、嫌われるること必定だと言える。物語では、貞子の悪評ばかりが、オーバーに語られているので、爽子のこういう本質が見えにくい。けれどそんな中で、風早君だけは、真実を見抜く目を持っていたのだ。他人のために、クラスのために、自主的に働く爽子に気づいて、魅かれていく。ただ、周りは、彼のそんな心中がわからずに、ただ、優しいから、浮いてる子を放っておけなくて、優しくしているだけだというように見えてしまう。ほとんどの女の子がヒトによく見られようと、必死になっていて、そのためにミニスカートだったり、過剰におしゃれしていたりする中で、爽子だけが、人によい感じを与えるための制服の着こなしや、委員の仕事や、料理、友達のためのノート作りをしていたりする。けれど、高校生になった彼らは、少しだけ成長していて、やがて、風早君や、初めて爽子の友達になってくれたヤノピンや、吉田さんたちによって、爽子の本質がみえはじめ、彼女を受け入れ始めていく。爽子自身は、自分の制服が友達の中で、浮く着方だということも、自分がやってるもろもろの行為が逆に回りの同級生たちに、ある意味での不快感を与えていることにも、実は気づいていない。ただ、ヒトのために動いているだけなんだけれど。物語の進むうちにどんどん爽子が可愛くなっていく。そして、やがて、風早君のために、ミニスカートをはいたり、おしゃれをしたりするようになっていく。それから、この物語の大切なメッセージの一つが、思っていることは、ちゃんと言葉にして相手に伝えなくては駄目だよ、ということ。思いはきちんと言葉にして、相手に届けなければ。言わなくてもわかるとか、言うのは怖いから逃げちゃったりとか、そんなのは駄目だよってこと。一生けん命話した私の言葉は、あなたに、君にちゃんと届きましたか。届いてほしい。届けっ!十代のいろんな思い。恋心も、友情も、なかなか思い通りにいかないそんなエピソードのひとつひとつが、読みながら、ドキドキして、青春だなーっと何度も何度も、思いながら、爽子と、風早君の恋の行方を追いかけながら、作者のメッセージをたくさんたくさん、いただきました。ヒトと、本気でかかわるって難しい。いままで、ずいぶん逃げていたなと、反省もしましたが。現在12巻までです。続きがとーっても、楽しみです。。【送料無料】君に届け(7)価格:410円(税込、送料別)
2011年03月22日
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最近父性の物語を読むことあるいは、見ることが多い気がする。母性愛は有名で、そしてまた、そんなのは、幻想だという、反対論もあるけれど、父性が話題にされることは少ない。先日までみていた、『LOST』は、はじめロビンソンクルーソーの集団版の話かと思っていたら、物語の進んでいくうちにだんだんSFっぽい、ミステリアスな物語になってきた。でも、その物語の中で、たくさんいる登場人物たちの誰もがほぼ、父親とうまくいかずに悩んでいる。そういうエピソードが、毎回一人づつ、語られていく。物語の舞台となる島の中で、どうしても、子どもがうまれないのは、メインキャラクターの一人であるベンが、彼の出生にからんで、妻を失った父親にせめつづけられる彼の恨みがからんでいるよう思えるのだけれど、どうなのだろう。そういう父親というものが、子どもにあたえる影響のこわさとか。そして、ついこないだ読み終わった『プルートゥ』もまた、父性が絡んでいるように思えたのだ。かの巨匠手塚治虫の代表的な作品である『鉄腕アトム』を今話題の浦沢直樹が自分なりにアレンジして、書き上げたものだ。そのもともとのアトムのアニメも、原作も私は見たことも読んだこともないので、どこがどう同じで、どこがどう違うのか、わからない。それでも、アニメ化されていく中で、アトムというキャラクターが一人歩きをはじめて、どんどん美化されていき、作者である手塚虫がもともと考えたものとは、まったくちがうものになってしまったことに、手塚治虫がずっと、不満を持ち続けていたこともまた、割と有名な話だと、思う。作者にとっての作品もまた、自分の子どものようなもので、手塚が理想とするアトムにならなかったことが、彼には、とても苦々しいものだったみたいだ。物語の中でも、アトムを作った天馬博士は、アトムに対して、自分の望むものとはどこかちがうアトムに対して、イラついている。母親は、子育ての段階で、いかに子どもが自分の思うとおりにならないものか、つくづく味合わされて、とりあえず、そこそこに育ってくれればそれでいい、位に思っているものだけれど、父親というのは、息子に対して、要求がきびしいというか、もしかすると、理想の自分をみているのかなと、思う。父親は、娘にたいしては、ただ、かわいいだけなんじゃないかと思うんだけれど、息子に対しての、父の意識ってなんなんだろうと、いつも思う。で、名画なんかでもよく見かける放蕩息子の帰還とか、父息子のいざこざとか、反発とか、断絶とか、島崎藤村の「和解」という小説も、不仲になった父と息子が、最後に和解して、仲直りする物語だし。アニメの『鉄腕アトム』で、見ているときには、ロボットと人間がほぼ同じ立ち居地で、それぞれに人権がみとめられ、友達として、人間とロボットがなかよくしている状況は、ほほえましくて楽しく見えた。でも、『プルートゥ』で、えがかれたロボットと共存する社会はこんなに恐ろしくて怖い社会だったのかと、びっくりした。ロボットが子どもをもったり、家族をもったり、食事をしたり、どこまでいっても、所詮真似事で、人間と同じ暮らしをするイコール同等とは、思えないんだけな。そして、人間のための社会がいつのまにか、ロボットの社会にすりかわっていくのも怖い。そういうロボットたちをつくっている博士たちが、自分の作ったロボットをわが子のようにみている時、愛情なのか、不満なのか、理想どおりならないロボットたちにやっぱりイラついている。そういう物語だったりして、そこに、平和とか、戦争はよくないとか、憎しみやそんないろんなマイナスの感情を語っていたりする物語だったりする。父親は息子に対して、完璧な自分を求めているように見える。そこが母性と違うと思う。じっさいのところ、父親がわが子にたいしてもつ愛情とかって、どんなものなんだろうか。私は女だから、どう考えても、周りの男性たちをみていても、やっぱり、よく分からない。そして、そんな父性を問い直している物語のような気がする。ちなみに、このての物語で、戦争をする人類はおろかでとか、かたられるけれど、人類じゃなくて、戦争するのは、あくまで男性ですから。女性は戦争なんて、そもそも、やらないですから。「戦争をする男性はおろかである」と、書き直して欲しいよね。
2010年02月10日
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のだめの新刊がでたーっと、買ってみたら、グランドフィナーレだってー。なんと最終巻でした。まだまだ続くとおもっていたのに、なに、この終り方。いきなりなので、なにがなんだか良く分からない。こんど時間のある時、最初から通して読めば納得できるのかも。 最初読んでいた時は、まさかのだめがパリの「コンセルバトワール」までいっちゃうとは、思っても見なかった。 コンクールとか、いろいろでてくるけど、のだめは音楽は好きだけど、世界的に有名な音楽家、ピアニストを目指してたわけじゃなくて、幼稚園の先生になりたかっただけ。子どもたちにピアノを弾いてあげたり、自分の作った歌を歌ってあげたり、一緒に歌ったり、そんな風に素朴に、音楽を純粋に楽しみたかっただけ。音楽もスポーツも、もともとは、楽しむためにあるものだったのに、どうして、だんだん競争の道具になっちゃうんだろうね。特に日本はそうですね。運動部に入っても、大会で優勝するための苦しい練習ばっかり。コートや運動場がたらないから、基礎トレばっかり。テニスなら、テニス自体をやりたいのに。なんかまじめにがんばる方向に行ってしまう。 もっと、純粋に気楽に、ノンキに、音楽を楽しみたい。生きることを楽しみたい。 でも、のだめのおかげで、ふだんクラシック音楽に触れない人も、結構クラシックを聞いたり飼ったりした人が増えた気がする。なんか映画が楽しみ。
2009年12月01日
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あの人気子育て漫画「ママはぽよぽよザウルスがお好き」の思春期編です。 リュウ編と、アン編があるらしいのだけど、とりあえず、リュウ編だけ買えたのです。 子どもも二十歳になればいいかげん大人になって、手がかからなくなるかと、思っていたら、ぜんぜん!!!成人したはずなのに、精神年齢は未だに子供です。どうしてこんななんだろうと、悩んでいたら、リュウくんも、うちの息子とそっくりです。どこもおなじなんだと、ほっとしました。結構うちの息子と行動パターンが似ていて、安心しました。 高校の頃、時間割そろえるのがメンドウで、いつもカバンに全部の教科書入れてたりとか。大学生だと、昼間で寝てたりとか。出かける時、いろいろと忘れるので、結局母として、いろいろ声かけしちっゃたりとか。幼稚園時代から、小学校、中学校、高校と、その時のいろんなエピソードなんかも描いてありました。 そして、そんな男の子を育てる母親のいらいらや不安や、不満や、辛さも描いてあって、共感度タップリ。思春期でぜんぜん口を利かない息子の態度の悪さにいかったり、喧嘩して悲しくて泣いてたり、でも、成長して独り立ちして出て行こうとする息子にショックを受けてたり。息子と喧嘩したあと、毛布にくるまって泣いていたり、それがますます腹立たしくなって、さらに子どもに怒ったり。息子と喧嘩した夜は、息子が家出しちゃうんじゃないかと、心配で寝られなかったり。そんないろんなエピソードがすごく似てる。もっとも、うちは、二年間ほとんど口をきかないとか、家出しないか心配とか、そういうことは、とりあえずなかったけど。 男の子を育てているお母さんには、共感度200パーセントです。 で、買ってきたこの本を見てうちの子達も、「あ、ぽよぽよだ」と、言って、読んでいました。これを読んで、息子にも、子育てしている母親の心情や辛さをわかってほしいと、思いましたが、彼は、読みながら、母親ともめてるリュウの方に「うわ、ひでえ、リュウかわいそう。」と、逆の方に共感してました。子どもには、子どもの事情や、気持ちがあるんでしょうねえ。 とりあえずもう、これ以上子どもにあれこれ言いたくなーい。 早く大人になってほしいけど、出て行かれるのはさびしいし、でも、いるとうざいし。相変わらず子どもだし、えーーーーっとお。どうすればいいんだろう。 いつも行くクリーニングやさんのお姉さんに子育ては一生よっと、やっぱり言われました。彼女、男の子三人の母です。はぁっ。 ↑たぶん、表紙のリュウは、美化されすぎだと、思う。
2009年10月09日
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『キャリアこぎつねきんのもり』の続編です。「きんのもり」の一巻では、四歳だったわらしちゃんは、とうと小学生になりました。すごいです。この話そんなに私は好きなわけじゃないんだけど、でも、わらしちゃんがかわいいという、それだけで読み続けています。というか、作者の石井先生が好きなので、このセンセイの作品は本屋でみたら、即買いなので、中身チェックなんてしないもん。 わらしちゃんなんと、小学校お受験してます。私立小学校なんて好きじゃないけど、まあ、このお話の場合は、主人公早歩さんの勤めているホテルに近いので、学校終わったら、バスでわらしちゃんがホテルに帰れるからという選択なので、ま、そういう選択もあるんですね。 でも、このお受験シーンがなかなか面白かったです。読んでいて、うちの息子も筑波大付属くらい受けてもよかったかもしれないと、思ってしまいました。おもしろそう。筑付なら、国立だから、安いし。でも、あそこは、中学、高校と上がるための内部進学にきびしい成績チェックがあるので、大変そう。ほかも、私立によっては、小学校受験では、むずかしいのに、上にいくほど、レベルや偏差値のたいしたことのない学校になっていくところもありなのでねえ。 それにしても、学力なんて、はかれないし、私立小学校っていったい、どうやって、選考するのでしょう。やはり、面接で、いかにもお金ありそうな家からえらぶとか?面接ってたぶん、やくざかどうかとか、危ない世界の人かどうかとかも、チェックしてそう。親の中には、いかにも、品のない人たちもいるし、この人若い頃は、ギャルだったのかなとか、そういう人もいるからねぇ。あ、こんなこと書くと、差別とか、いろいろクレームのコメントがきそうで怖い。 ただね。公立小って、おとなになったら絶対かかわらないような世界の人の子どもたちとかとも、同じ教室で、関わってかなきゃならないから。貧乏人や、危ないひとたちと、うちのかわいい子どもを接点もたせたくないと、思えば、私立入れるのでしょう。お金のある家はいいなぁ。でももちろん、うちの子達は、公立小で、問題なく、成長させていただきました。はい。 話がそれました。人に顔をみせるのもいやなほど、心に傷をもっていたはずのわらしちゃんが、いつのまにこんなにタフになったのでしょう。びっくりです。やはり、ホテルの保育室って、子どもながらにいろんな子どもたちとオープンに接している場所。子どものうちからいろんな人たちとかかわることのできるオープンな場所で育ててもらえるって、すごくラッキーなことだし、子どもにもいいことなんですね。うらやましい。日本は働かないかぎり、保育に預けるってできないからなぁ。その保育所自体不足してて、問題になってますからね。 しかし、中盤で早歩さんがわらしちゃんの人間関係で悩んだ時の十川さんのセリフ。 「人に好かれるように生きる学校生活は生き地獄ですよ。」 つて、うーん。すごい。この巻の中ですごくインパクトありました。私もほとんど人の機嫌をとるような行動のできない人間なので、もう少し他人の機嫌とるような行動とればもっとラクなんじゃとかずーっと、思っていたけど、そうでもないのかぁ。うちの母親なんか会うたんびにいかに他人の機嫌をとって、うまく立ち回ることが大事かをえんえんと説教してくれますが、聴いてる私はもう、しらけるばっかり。めんどくさいから、だまって聞き流してますが。 ま、だいたい自分の行動の基準を他人の機嫌取りにおいてたら、どうにもなんないものねえ。人の機嫌や価値観なんて、人によっても違うし、その時の気分や体調や都合でも変わるし、あくまでこっち側の想像でしか予測できないことを基準に動くなんて、…不可能です。 それにしても、十川さん。早歩さんのこと、好きだったんですね。それを思うと早歩さんの言動はある意味とっても残酷ですが、それがまた、たまらなくよかったりするのかもしれないし、はらはらしながらも、もしかしてたのしいのか? いえいえ。ほんとに最後には、二人がくっついてほしいなと、読者としては、心待ちにしつつ、ずーっと読んでます。この二人がカップルになりそうなのは、「きんのもり」の最初から想像はつくんだけど、最近の漫画ってたまに読者の期待を裏切ることがあるからね。 早歩さん。自分の産んだわけでもない子をここまで必死に育てていて、偉いです。早歩さんの場合は、恋愛と結婚すっとばして、いきなり子育てですからねぇ。今の私は、息子がかわいいながらも、早くでてかないかなあとか、時々考えることアルもので。ははははははは。子育てって自分の子でもたいへんですからねえ。ま、子どもが成人したら、そう思うのは、ふつうのことですが。 いるとうざいけど、いないと、さびしい。矛盾だらけ。
2009年09月19日
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漫画です。『オタリーマン』の理系版です。オタリーマンは読んだことないんだけどさぁ。 理系だ文系だと騒がれる昨今。(騒いでるのは私だけか) でも、その違いって実際どんなものなんだ。 理科をやるのが理系で、文学をやるのが文系? っていうか、理科をやる以外は、全部一緒くたに文系なのでは。 で、話題になる割りに分かってない、理系人間の実態が描いてあって、結構なるほどーーーーーーの世界です。 実際にSEの仕事をしている理系の人が書いた漫画。でも、この漫画の中では、理系以外の人イコール営業マンていう認識みたい。 遅刻ばかりして自己管理がゆるい理系と対照的に、早起きで自己管理できて、きれいな生活をしていて、人付き合いが上手でそつがない。というのが、漫画の中の営業系人間。 性格的にどうみても、理系なのに、経済学部なんかいっちゃって、将来は営業マンであろう息子に営業マンというものを認識させるのに、便利だったかも。私が口で説明しても、会社勤めもしたことのないやつに、営業とか、会社ってどんなものなのか、到底想像できないのだった。 で、理系か文系か悩んでいる娘にも読ませてみた。どう考えても、理系なんか無理だから、文系にしとけよという母の言葉をちっとも理解してない娘には、この本は逆に「理系---いいかも。」に、なってしまったような気がする。やばし。 この漫画では、理系が実際に何を勉強して、何をやるのか、何を要求されるのかは、わからんもの。 でも、理論屋で、理屈好きな理系なひとたちが、かわいい。現実にはうざがられてますが。 私、個人的な趣味としては、理系、好きなんですけどね。
2008年11月11日
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伝説の長編SFの文庫化なんだそうですが、いまどき、宇宙でのすったもんだの戦争のお話なんかを読むとすこぶる白々しくて陳腐だ。私が若い頃は、アポロが月まで飛んで、人類の未来は、宇宙へ出て行くことだったのに、いざとなってみると、NASAは、予算不足で縮小気味だし、ソ連はなくなっちゃったし、なんだか、宇宙開発なんてどこ吹く風。宇宙戦争なんて、『スターウォーズ』みたいなこと、とてもじゃないが、おこりそうにない。そう思ってたら、この本のあとがきで作者自らが、そう自白していて、うーんやっぱりそうだよね。と、思った。今時の若者は、自動車なんかには、興味を示さなくて、免許も取らないらしい。実際、うちの息子も免許なんてものには、とんと興味を示さない。小さい頃から親の車に乗せられて連れ回らされて、車は乗せられるものではあっても、自分で乗るものではないらしい。というか、子供時代ですでに、満足して、飽きちゃってて、満腹なのでしょうね。機械が当たり前のように日常の生活の中にある環境で育った彼らには、私たちが若い頃、これからどんどん世界が機械化されていって便利になっていくことへのわくわくした期待感なんてものは、ないらしい。 だからもう、いまさら、スペースオペラも、スターウォーズも、スタートレックも宇宙戦争も若い人たちには、当たり前すぎて未来なんてないみたい。 どうも、人類は、宇宙開発には、二の足を踏み始めたような。他の星に移住しないなら、もっと地球を大事にしないとね。第一爆発的に増えるはずだった人類も、すでに先進国では、少子化し始めて、減少の兆し。 もっとも、恐ろしいのは、水なのですが。昔は予想もしなかったけれど、よくよく考えてみると、人類がロケットを作って宇宙に出て行くということは、地球というカプセルの中から、貴重な水を持ち出してしまうという恐ろしい事実。地球に生命があるのは、なんといっても水があるから。この水が、地球というカプセルの中で、順繰りにめぐっているぶんには、どんなに無駄遣いしても、なくならないものなのだが、一旦、宇宙に持ち出したら、二度ともどせないし、地球の中の水がなくなったら、地球という環境のバランスはくるってしまう。水のない地球は、すでに、生命の星ではなくなってしまう。 だから、地球の水を確実に維持することを考えたら、宇宙開発はやらない方がいいはず。人類は宇宙になんかいかないで、地球の中におとなしくおさまっていた方が。それとも、他の星で、水の分子Hを、見つけられるのだろうか。 まったく宇宙に出ることなく、最終的な滅びに至るまで、地球の中で、引きこもりであり続ける人類って、こわいのか、普通なのか。微妙だ。 そんなこんなで、いまさら読むと、いろいろ矛盾だらけだし。素直に楽しく読めないものになってしまった、SF漫画。作者のいうとおり陳腐だし、細かいところでいろいろ矛盾だらけ。 それでも、この作者さんの漫画は、絵がしっかりしていて好きなのですけどね。 とりあえず、物語は、アステロイドベルトに殖民したベルターたちと、地球を支配する巨大コンピューターオーバーロードとの対決。そして、銀河の反対側からやってきた、機械生命体たちとの対決。機械生命体なんて、『トランスフォーマー』みたい。たぶん、この漫画の方が先。というか、この頃の漫画には、当たり前のように出てきた存在だと思うけど。 宇宙開発って、これからどうなるんだろう。 メガクロス(上) メガクロス(下)
2008年06月28日
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『コンスタンティン』とかぶる時間帯にNHK教育のETVで、石ノ森章太郎の特集をやっていた。内容のほとんどは、彼の代表作『サイボーグ009』だった。闇の武器商人「ブラックゴースト団」によって作られた9人のサイボーグたちが、そこから、脱出して、ブラックゴースト団と戦う物語だ。第一部のラストで、闇の武器商人と戦って、死んだはずの009、島村ジョーは、ファンの熱望で同じように、生き返るけれど、そのあとの新シリーズでは、タイムリーにも、『コンスタンティン』と同じように、天使が出てくる物語なのだ。天国にいるはずの天使は実は人間を地球上で、放牧して、育てていた、宇宙人だったという設定。 天使たちとの戦いは、やがて精神世界の描写へと変化して、作者の石ノ森章太郎自身もかきこなせなくなってしまっていくのだ。サイボーグは、機械と戦うのが本業なのに、精神世界の話になっちっゃたら、もうサイボーグである必要もなくなっちゃうし。 彼の息子さんが、残されたメモ書きから、小説として、サイボーグ戦士たちの結末を書き始めていて、出版し始めたらしいのだけど。はたしてどうなのだろう。読みたいような、読まない方がいいような。でも、興味深深。だけどね。
2008年05月28日
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かの有名なバレエ漫画『アラベスク』の作者山岸涼子先生が久々に書き上げた超力作のバレエ漫画です。タイトルの意味は「舞姫」なんだそう。二つくらい漫画大賞をとっている名作だそうです。 バレエ漫画といえば、少女マンガの原点。かつて、子供の頃、小学館の『小学○年生』の雑誌のどの学年向けでも、かならずのっていた、バレエ漫画。バレエは当時ではとっても贅沢ではなやかーで浮世離れしていて、少女のあこがれだっのです。最近はそこいらにもバレエ教室がいっぱいあって、バレエの習い事が簡単にできるようになりました。あこがれのバレエをわが子に習わせる母。いい年だけどきにせず習い始める中年の女性たち。バレエもみじかになりました。 で、主人公の少女六花(ゆき)も、バレエスタジオを経営する母のもとで姉の千花と一緒に日々バレエに打ち込む日々。でも、姉ほどの根性もなく、自分の体が実はバレエにはむかないと知って一時バレエをやめようとしたりする。このあたり、一度テニスがいやになってやめちゃう『エースをねらえ!』の岡ひろみと同じです。この手の話はかならず一回くらい主人公がやめようとする展開になるんですよね。そうじゃないとそれ以降すごくつらい練習の中でなんでヒロインは辞めないんだろうという読者の疑問をかわせなくなるからね。 そこに、転校生ですごくバレエのうまい少女空美(くみ)がやってきたりして、このあたり結構お決まりの展開なんですが、実はこの転校生の空美の家庭が、元名バレリーナをおばに持つ今はおちぶれた極貧の家庭だったりして、お金のためにに彼女は裸の写真を撮らされていたりします。このあたり、『白夜行』と、同じなのです。『白夜行』では、描写されていなかった、裸体撮影の状況がこの漫画では、克明に描かれていて、お金のために裸の写真をとられる少女の過酷さがよくわかりました。写真撮るだけで本番があるわけじゃないんだけど、小学生の少女には十分というか相当きつい話です。山岸涼子ってこういう過酷な描写の話を意外とよく描くんですよね。でも、二巻か、三巻以降で、なぜか、空美は引っ越してしまい、出てこなくなってしまいます。あまりの過酷な描写に、読者からクレームがついたのか、もともとそういう展開の予定だったのか、不明です。 もし、『白夜行』で、この描写があれば、ヒロイン雪穂の心理変化はかなり捉えやすかったけれど、そのあたりの実情を知らない読者が読むと、作者の書こうとして書かずにいる過酷な状況は想像するしかなくて、知らないとぜんぜん分からない。あの小説のむずかしさはそのあたりにあるんでしょうねえ。 なにしろ、裸体写真の撮影だけじゃなくて、その後、紐でしばったり、特別な器具をつけられていたり、そのあたりの過酷な部分の書き方が、山岸涼子ってうまいんですよね。 さて、そこまでひどいめにあってもなお、空美が従うのは、それにたえれば、バレエを習うことが出来たから。雪穂は耐え切れずに相手を殺してしまうけれど、この物語の空美はバレエをやりたいがために我慢しちゃうんですね。 そこまでしてもやりたいもの。バレエにとりつかれた少女たちの物語です。 そして、この後、もう一度バレエをやりはじめた六花と、その姉の千花は、コンクールに出たり、バレエ団の発表会に出ます。けれど、その発表会の舞台で転んで、膝をうった千花は、そのあとその膝が完治することなく、バレエのできない体になってしまいます。そして、自殺してしまうのです。そこまでしてでも、やるほどのものなのか。できなければ生きる意味もなくなるほどのバレエの魅力に取り付かれた物語なのか。 それほどまでしてやるものなのか。それとも、それほどまでになるほどの魅力をバレエはもっているのか。この展開を読者はどちらにとらえるものなのか。 さらに、もう一人の少女ひとみは、毎日バレエを踊っているのにどうしてもやせることが出来ず、踊れば踊るほど筋肉がついて固太りしてしまい、極度のダイエットからやがて拒食、摂食障害になってしまいます。踊りの技術自体はあるのだけれど、基本的に体質的にバレリーナに向く体をしていない。それならいっそもうあきらめてバレエをやめてもいいんじゃないのかなと思うのだけど、彼女はやめない。 そして、主人公六花もまた、体型的に無理と知りつつも、バレエを続ける中で、バレエ自体を創作し作り出す才能の萌芽をそのうちに見せ始めつつ、物語は終るのです。 物語にでてくる少女たちはどの子もみんななにかしかバレエを続けていく上での障害をもちつつ、それでも、バレエをやめることだけはできない。 それほどまでのバレエの魅力にとりつかれている舞姫たちの物語なのです。 一方で、しっかり者の長女千花は、勉強もバレエも懸命にやる。学校でのイジメにもたえて家族にもうちあけない。母は彼女にひたすらしっかりすること頑張ること、強さを要求し続ける。彼女の死後初めて千花がイジメに絶えていたこと、過酷なまでの強さを強いられ続けていたことにきずく。 それとは対照的に妹の六花は、二番目らしく、やや甘えん坊であまり頑張らない。ところが、バレエの舞台のいざ本番で、ひとみや千花がいろいろな理由で踊れなくなるにもかかわらず、なぜか彼女は本番に強い。気弱で、あがっしまったりしても、なぜか周りの人たちに助けられて、ぎりぎりのところで舞台を踊りきってしまうのだ。そして、踊ることだけでなく、振り付けを考え始めたり、独自の創造性のなかで新しいバレエをつくりはじめそうな予感を見せ始める。 千花が踊れなくなってもなお、彼女がバレエを続けることにこだわっている母が、六花がやめたいと言った時には、あっさりと認めてしまう。舞台のそでであがりそうになる六花をおもわず回りの大人たちがいろいろな手段で援助し、助言し、助けてしまう。まわりに助けられることも、自分の弱さもそのま素直に自分のものとして受け止めてなんらに迷わない六花のもつ、隠れた強さ。おもわず回りの人たちの力までを自分のもとにとりこんでしまう不思議さ。 六花の才能に見込んで数々の支援をおしまない先生たち。 甘えていて、甘やかされているようでいて、気がつくとそれなりに強くなって、成長していく六花。やさしい先生と厳しい先生とそれぞれのいろんな大人たちに囲まれて、やさしさを土台に厳しさを吸収していく。 バレエの物語とともに、バレエを通して人が成長していく上で、どんな接し方や育て方が子供にとっていいんだろうかと、考えさせられるような物語でもあるなと思う。 日本の子育ては基本的に厳しいけれど、厳しいだけじゃ駄目なんで、やさしくあたたかく見守りつつ、要所要所でポイント的にずばっと厳しいといいのかも。六花のお母さんは厳しいので、その厳しさに千花は育てられてるんだけど、六花の場合は、金子先生が母親代わりに彼女の甘えを受け止めてあげていて、その安心できる土台がある上で、他の厳しい先生の指導を乗り越えていくのです。 子育ての場では、男の子がいるとだいたい男の子というのは母親がいくら頑張っても容易に言うことをきいてくれなくて、四苦八苦させられるので、そのあとに女の子が生まれるとその聞き分けの良さに思わずびっくりするんです。なんて女の子って子育てが楽なノーって。でも、最初に女の子だと、女の子ってわりと聞き分けがよくてしつけも楽だし、親の命令をチャンと実行してくれるんですよね。で、ききわけがよいので、うっかりすると親の要求がどんどんエスカレートして厳しくなっていってしまうのです。このあたり親は気をつけないといけないんじゃないかと思うのですよ。それでも、姉妹で下の子になると親もなんとなく手をぬきはじめて甘くなっちゃうのだけど、なぜか長女には厳しくなりがち。それがこの物語にもあらわれていて、六花にはわりと甘いこのお母さんが、姉の千花には、最後まで厳しくて、結局自殺においこんでしまっていると思えました。 だから、姉妹の長女とか、第一子の女の子にはあまり厳しくしないよう、しつけとかいろいろ要求がエスカレートしてきて、きびしくなりがちなので母親は気をつけないといけないと思いますよ。 それにしても、こんなに細くなってこんな風にきれいに踊ってみたいものですねえ。 バレエに魅力があるのはわかるけど、やっぱり所詮習い事なんだし。物語とは別に現実にはほどほどにしといたほうがいいですけどね。
2008年05月01日
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銀座のトップホステスいずみ、イケメンの国際線パイロットゼウス、麻布に住むセレブでイケメンのロマンスグレーの紳士コウジュン、筋骨隆々でたくましくてイケメンで独特なファッションの個性的な爪師ハデス。でてくる登場人物たちはとても豪華で、一見、セレブなしゃれた恋愛ものに見えるのです。ところが実は、物語が進んでいくうちに、ファザコンのヒロイン、ファザコンの青年(ゼウス)、浮気性の男(コウジュン)、ブラコンの男(ハデス)という登場人物たちによるかなり危ない物語であることがだんだん分かってきます。このほかにも大人になってる息子(ハデス)からいつまでたっても子離れできない母親であるクラブ勤めの男とか。 ファザコンで年寄り好みでまだ若いのに50歳近い男(コウジュン)と結婚しちゃうヒロインいずみ。その彼女にプロポーズするのが、その義理の息子たち(ゼウス、ハデス)だったりする。 母親の身勝手とわがままのせいで、実の父と暮らすことのできなかったゼウスは、父親への憧憬からやがて異様なまでのファザーコンプレックスとなり、どうしても父離れができない。その妄執はやがて彼の人格を破壊していく。同じように母の身勝手でただ一人の兄と一緒に暮らして育つことの出来なかった弟ハデス。彼もまた兄へのブラザーコンプレックスから抜け出すことが出来ない。母の死によって初めて実の父と双子の兄弟ゼウスとハデスはやっと一緒に暮らすことが出来るようになるけれど、思春期になってから突然一緒に暮らしてもいきなり仲良く暮らせるはずもない。思春期までの貴重な時間を家庭、家族というオアシスですごすことの出来なかった彼らの喪失感は永遠に埋められない。 だから彼らの異常なまでのファザコンも、ブラコンも、かなり危なくて、そして悲しい。いずみもまた、不幸な家庭に育ち、自分を守ってくれる頼れる存在としての年上の男性への憧れと恋愛感情が同一化してしまう。いずみが手に入れたと思ったはずのオアシスもまた、実はあぶなく、いつ失われるか分からない危うさの上にある。 登場人物たち全てがあこがれ続け、得ることの出来ない家庭というオアシスは、手に入らないゆえにいっそう甘美な憧れの夢となって、スィートなスィートなその憧れのオアシスは、けれど永遠の蜃気楼のようになってたどり着けない。 物語は5巻でおわるけれど、彼らの喪失感と幻のオアシスは、永遠に続く。思春期までの時間を両親兄弟家族そろって楽しくぬくぬく暮らすって大切なことなのかなって思う。 めちゃくちゃ危ない設定がなかなか新鮮でおもしろかったです。
2008年03月27日
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まるでエロ雑誌のような少女マンガが増えている昨今。 久々に昔のような相手の指先にたまたまに触れるだけで、顔を見るだけで、声を聞くだけでどきどきする、そういう恋の序盤戦を細やかに描いた少女マンガを久しぶりに読むことが出来てすごーくうれしかった。 もっとも、彼氏の方はイケメンで料理が上手で恋のテクラックもうまい。自分の欠点を指摘されたら、さっさと認めて素直に直し始める。あまりにも出来すぎだけど、少女マンガだから、いいや。はらはらさせられつつ、いつまでもそれを引っ張り続けて読者をいらいらさせずに、さっと次へと話を進める展開の速さも、小気味いい。面白い。 たった二巻で終っちゃってるけど、お話にでてくるほかのキャラクターが脇役で終らせるとは思えない濃いキャラクターばっかりなので、当然シリーズ化するんじゃないかと、当然読者は期待して待っています。津田センセーよろしくお願いします。
2008年03月17日
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ごく普通の主婦鮎川早紀は、ある日夫秀行から離婚したいと告げられる。けれど、いきなりの離婚では困るだろうから、離婚するのは、三年後の今日この日。それまでに自分の力で生きていけるように仕事を見つけて、準備をしておくことを約束することになる。 ぐうたらで、家事が嫌い。毎日の食事はスーパーの惣菜。片付けもろくすっぽしないで昼寝ばかり。夫との関係も冷めていたまさに倦怠期。 けれど早紀は、夫からの離婚宣言で、仕事探しを始め、家事をしっかりやって秀行の離婚の決意を変えさせようと努力する日々。 働き始めた早紀のために秀行も家事を手伝い始め、夫婦関係、家族関係は、修復され、良くなったかに見えた。 それぞれに相手のよいところを見直し、離婚はやめて、これからもやっていこう、と、それぞれが思っていたはずなのに、ちょっとした行き違いから、結局秀行によって離婚届は出されてしまう。本来なら、離婚しても、同じ相手とならすぐに再婚できるのだが、それを知らない二人は、半年待たないと再婚できないと思い込む。そうこうしているうちに、秀行は昔の知り合いの女性と結婚せざるを得なくなってしまう。 早紀もまた、彼女の天性の優しさにほれた裕福な年下の青年実業家にほれられて、結婚する。 前半の、早紀を中心とするごく普通の家庭の暮らしや、主婦の生活描写のリアルさが見事で、パートで働く大変さ、PTA、町内会などのこまごまとした主婦の雑仕事、子育ての日常的な大変さなどがよく描かれていて、共感しながら、読んでいた。二人はそれぞれに努力してお互いの今まで気づかなかったよいところに気づいたり、ぐうたらだった早紀が働いたり、PTA会長をしたりして、自立し始め、それぞれに見直していて、これは、離婚しないで終るだろうなと思っていたら、意外にばっさりと離婚になってしまった。しかも、そのあと、それぞれが別の人間と再婚。 それぞれの努力によって家族を築いていく物語ではなかったらしい。 三年たってもやはり、家事をきちんとやらない全てに大雑把でいい加減な早紀の性格がどうしても我慢できなかった夫秀行。 離婚されたくなくて、必死に家事をこなし、働いていた早紀はけれど、離婚が決まったあと、結局それまで働いていた医院にたいして、一言の断りもなく、姿をくらましてしまう。三年間努力したにもかかわらず、結局早紀の本質は変わっていない。家を出た後、拾ってもらった、義理の姉の霧子の家でハウスキーパーとして働く早紀は相変わらず、家事がいい加減でぐうたらなままだ。 夫の方は、仕方なく結婚した相手のあまりにもきちんとした家事ぶりに最初はなれることができず、つかれてしまうのだが、結局そのまま結婚生活は続く。なんだかんだいいながら、結局、彼は最初ののぞみどおり、家事をきちんとやってくれる妻と結婚したのだ。早紀の人としての優しさに気づいたけれど、やはり、家のことをきちんとしてくれる妻を彼は望んでいたのだろう。けれど、早紀とのことがあって、ある程度相手の大変さを思いやるやさしさをみにつけた秀行は新しい妻に対して以前よりずっと思いやり深く接することも出来るようになっていた。 そして、早紀のほうは、お金持ちなので、家事はやらなくてもいいから、心を和ませてくれる女性を望んでいた実業家と再婚する。早紀のぐうたらぶりは結局3年間の努力によっても変わらなかった。 相手のためにそして自分のために努力するのは大切なことだけれど、結局二人の人間が長い間一緒に暮らしていくには、相手のために頑張れるかよりも、相手の欠点をどこまで許せるかなのだろうか。 この結末を読むとどうやらそういうテーマに落ち着いてしまうようだ。 自分が望む部分を満たしてくれる相手を見つけること。そのうえで、それ以外の部分は許容していくこと。結婚相手はやはりそれなりに、そういう自分の望む条件をよくよく考えた上選ぶべきものなんだろうと思う。 夫が妻に望むのは、家事や家のことをきちんとやってくれる相手なのか、家に帰ったときくつろがせてくれる相手なのか。 妻が夫に望むものも、収入なのか、自分を理解してくれるやさしさなのか。 それにしても、前半のリアルな庶民の生活ぶりを描いていた物語が、後半から、殺人のからんだ、サスペンスストーリーに変化してしまって、読者としては、なんで?という意外な展開だった。 作者は当初は離婚せずに、仲直りしてハッピーエンドのつもりが人気がでて話を引き伸ばしているうちに、話がどんどん予定外の方向に進んで行ってしまったのだろうか。それとも、最初からこの結末が用意されていたのだろうか。 物語としては、面白かったけれど、美人でもないし、頭も良くない、だらけた普通の主婦に二人もイケメンのいい男が寄ってきたり、最後はものすごい金持ち男と再婚しちゃうシンデレラストーリーになってしまった。でも、現実の私たちにそんなことある分けない。離婚された後は、少ない収入にきゅうきゅうしながら、一人で孤独に生きていかなければならないし、子供といっしょだとしても、一人での子育ては大変だし、教育費はとほうもなくかかる。 だから、やっぱり、夫婦仲良く暮らせるように自分なりに自分のすべきことはきちんとして暮らしていくべきだよなあと思う。 それにしても、最初は悪役で登場する性格の悪い女性たちが、物語の進むにつれて、その生い立ちや裏側の部分の描写によって、なぜそんな性格になったのか、こんな行動をとるのか、その人物描写が非常に深くて見事だった。悪役が悪役だけで終らずにもそれぞれのいろんな人物の人生が描かれていたのがすばらしかった。 何年か前にテレビドラマ化されていたけれど、そちらの方は微妙にストーリーが違っていたようだ。
2007年11月28日
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平行して見てた、NHK大河ドラマのDVD『新撰組!』と一緒に子供たちも読みまくって、我が家は現在「新撰組」がマイブーム!!!!となっております。長男が言うには、「少女マンガのほうが絵がきれいで読みやすくていい。」だそうです。男の子でも、少年漫画のあの書き込みすぎの黒い汚い画面は不快なんですね。 とりあえず22巻まで読破。でも、娘の期末試験が終るまでは、新刊の23巻は買ってこれないよー。 新撰組のめんめんはほぼ歴史上に実在の人物なんだけど、ただ一人主人公の女の子『神谷清三郎』(女の子名おせいちゃん)だけが、フィクションです。しかも、このおせいちゃん。女なのに、男だらけの新撰組に男装して、男と偽って入り込んでいるという。まずありえない設定なんだけど、なにせ、少女マンガだから、でてくるのが全部男だけだとあまりにストーリーがむさくるしくなって、女の子には売れないだろうとは思うけど。 女の子の感覚で新撰組を見る。 という漫画です。 しかもしかもしかも、この主人公のおせいちゃんがなんとあの剣豪として名高く新撰組の中でも特に人気の沖田総司とラブラブであるという。ありえなーい設定がまたなぜかむちゃくちゃ面白いという。 さらに、当の二人は自覚してないんだけど、とにかく、コミックス何巻にもわたってずーっといちゃいちゃいちゃいちゃしているシーンばっかりだという漫画なんですねー。 状況としては、男同士(本当は違うけど)なんだけど、なにせ時代が時代なので、衆道として、ちゃんと回りは応援してくれちゃうという。今のように同性愛は変体扱いされてなくて江戸時代まではごくふつうの当たり前のこととして、社会的に認識されていたので。この頃は、異性同士も同姓同士も別に問題なかったみたい。さすがに結婚は異性じゃないとなかったみたいだけど。 ただのラブラブのハッピーラブコメに見えるんだけど、でも、沖田さんはあと数年で死んじゃうという史実。で、話が進むと沖田さんが死んじゃうので、物語の方は「金門の変」以来ちーっとも進まないという。でも、読者はそのあたりは知ってるので内心かわいそうではらはらします。 ぜんぜん明治維新の勉強にはならないし、娘は天下分け目の期末試験前だというのに、勉強もしないで、沖田さんとおせいちゃんの世界に埋没してしまっているという。 とにかく、娘は、試験が終ったら、日野市の新撰組資料館とか、高幡不動に行きたいそうで、それだけが楽しみのにわか新撰組ファンなのですね。はたして、いつまでつづくのやら…。 期末試験が終ったら、23巻買いますかね。 それにしても、この漫画の時代考証の精密さはすごいですよ。作者は時代物とか、歴史の勉強とか大きらいというわりに、下手な映画やテレビドラマよりよっぽど見事。 なにしろ女の子が男だけの新撰組にいるという設定で、じゃ女の子独特の生理とかどうするんだろうというあたり。人によっては適当にごまかして済ましてしまうはずの部分なのに、資料を読み漁って当時の生理のときの対処法とか、実に緻密に調べて、無理のない展開になっています。 そのほかにも、花町の細かいルールや、着物の着こなし、街中の公衆トイレまで出てくるという周到ぶり。 へんな時代物のテレビドラマや映画よりよーっぽどためになりますです。 こないだ生理でおなかいたーいといっていたら、息子に「お馬ですか?」とも聞かれてしまいました。なんか沖田さんに心配してもらってるおせいちゃんの気分です。
2007年11月21日
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話題作だというので読んでみた。というのは、いつものことなんだけど、タイトルから想像して幕末維新の話かと思っていたら、なんと、宮本武蔵の話だった。原作は吉川英二の有名な小説『宮本武蔵』。昔、映画で、連作五作くらいかけて作られていた。それを大晦日のテレビ東京のスペシャル企画で一日に一気に見た。しかし、当時みたものと、原作は同じなのに、なんだかぜんぜんちがう。 とにかく人を切るシーンがすごい。まさにそのものずばり、真剣を使っているのだから、当たり前なんだけど、切りつけるシーンの描写が本当にそのまま書かれているのだ。手を切り落とすシーン。体をばっさり斜め切りに真っ二つに切ってしまうシーン。内臓にきりこんでいくシーン。切りつけられていたがるシーン。「痛み」が、読んでいても、ダイレクトにこちらに伝わってくる。 時代劇のチャンバラなんかだと、よく剣を使ってのたちまわり。でも、切ったはずなのに、刀には血の一滴もついてないし、切られた人はわーっといって倒れるだけで、切られたようにも痛そうにも見えない。 あくまで殺陣なのだから。 いままでの漫画でも大概がそんなものだったような気がする。 しかし、この漫画はその剣によって人を切る、切られる部分の描写がすごい。とにかくいたそう。本当にナマの剣で切られるとこんななんだなと、そういう部分の描写がすごくみごと。 宮本武蔵といえば、剣の達人として有名だし、映画でも、剣の道を究めていったその人生が描かれていた。 けれど、実際には、真剣を使っての命を賭けての殺し合いだったというのは、なかなかショック。自分の人生をかけて剣の道を究め、自分の修行のために相手を殺すことになっているのに、そのことに対して、武蔵は特に気にしている様子もない。 剣の道を究めるために人殺しをし続けている物語なのだ。 そして、人を殺しても、使命手配されるわけでもないし、殺人罪で捕まるわけでもない。剣道の竹刀のようなものを使っての剣の修行なんていうのは、現代の話であって、この当時は真剣で戦うのが当たり前の時代だったようだ。ちょっとびっくり、っていうか、かなりびっくり。 何しろ時代は関が原の合戦前後から始まっている。国を支配するトップが先頭を切って殺し合いをしているのだから、そこいらの人間が剣で人を切ってもつかまらないし、お咎めなしなのも、当たり前かも。 でも、テレビの時代劇のチャンバラや、新撰組なんかをテーマにした漫画なんかみて、それほど大変なことだなんて思ってなかったけど、剣の道、真剣を使っての勝負ってこんなことだったんだあと、とにかくオドロキ。その描写がすごく克明に書かれている。剣がうまい、イコール、かっこいいなんてとんでもないことだ。 現代人はやーっぱり平和ボケしてる。 こんな風に平和で人を殺せばきっちり殺人罪として、つかまるという治安のいい社会を当たり前のことだと思い込んでいたけど、そんなこと全然ない。 そういう安心して暮らせる社会になったのなんて本当につい最近のことなのだ。 時代物をみると、その当時の社会の価値観がよくわかる。 いやはや痛い漫画である。 バガボンド(26)
2007年10月17日
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ずーっと読んできた『ドラゴン桜』がとうとう最終巻。ええええっ、もう?と思ったけど、ほんとに終った。東大二次試験のあたりなんか読んでてどきどきした。結果はそれなりに納得のものだった。 ずいぶん前に新聞でいまちょっと話題の面白い漫画だという記事を読んで本屋に買いに行って、一巻だけ買ってきて読んでみたら、面白くって、そのあと本屋に何度も通って何巻も買い足して読んでいった。 そのあと、がががーっと世の中でも話題になって、テレビドラマにもなったし。原作の結末はドラマと違う。水野も矢島もきっちり最期まで勉強しきって、チャンと受験して、合否も出た。 最期に龍山高校の満開の桜をみて、物語は終る。 この漫画で今までもんもんとしていた学歴や受験勉強へのはっきりした答を読み取れたとも思うし、いろいろとわからなかった勉強のしかたの参考にもなったし、受験の迷いへの答もあった。長男もこの漫画を読んで、ずいぶんいろいろと勉強へのモチベーションをあげてもらったりもした。 夏休みの長い自宅学習の疲れのたまっているこの時期にとうとう最終巻を読んで今一度気持ちに渇がはいったろうか。 東大なんて簡単だ。という初期のテーマとともに最終巻ではやっぱり早いうちからまじめに黙々とやった方がいいし、受験のために自分のすべてのエネルギーを費やしてがんばるのもいいという、主人公二人の一年間の受験勉強を通しての答もいい。 いろいろと役に立って、ちょうどわが子の受験の時期ともかさなって、印象に残る漫画だった。 受験生はこれからが本番だけど、漫画の方は一足先に結末を迎えた。 感慨深い最終巻でした。
2007年08月31日
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大企業をリストラされ、恋人と別れ、どん底のヒロイン小日向眞子。たまたまはいったカフェで働くことになる。やがた、その技量をかわれて、店長になり、いつか自分のお店を持ちたいと考え始める。 まあ、よくある、いまどきの自分探しの物語である。 恋人まっつあんのイタリア行きが決まった時、眞子は一緒に行くか、どうするか迷う。一諸に暮らそうという恋人からの言葉に迷う。生活に切羽詰って結婚したいと思う。 どうしてこんなに結婚イコール依存なんだか。結婚することが男の人から守ってもらえる楽な生活っていう描写はちよっとありきたりというか、ワンパターンというか。 結婚したって、ダンナは守ってくれないし、自分がしっかりして、ダンナも家族も守っていくくらいの覚悟がないと、やってけないんだけど。でもって、物語の中の恋人たちも、覚悟がいることがわかるから、結婚に踏み切れなくて迷う。戸惑う。決断できずにいたりする。 自己実現に夢中な主人公は、せっかくの恋人とのイタリア行きをやめて、自分のカフェを持つための道を選ぶ。 私だったら、恋人にくっついてイタリア行っちゃうけどな。カフェをもつなら、イタリアにいって二年間イタリアの本場のバールや、家庭料理の味、イタリアがもつ独特の雰囲気やセンスを学ぶいいチャンスなのに。 そういうものを身に着けて帰ってくれば、いいイタリアンカフェを作れるだろうになあ。 結婚は依存だとか、自分の道とか、なんであんなにかりかりしてるんだろう。 もうこういう価値観の物語じゃなくて、結婚しても、恋人や夫にくっついていても、どんなところに行っても、自分を生かして生きていけるようなそんな主人公の生き方を描いてほしいよなあ。 と、思ったのでした。
2007年07月12日
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ひさしぶりにいい漫画を読んだ。 家族を置いて家を出て以来音信不通だった父の訃報。母もまた、家を出てしまい、三人の姉妹は祖母に育てられる。訪れた父の葬式で出会う、母の違う妹。この出会いから物語は始まる。 吉田秋生は、まるで男性のような気性のこざっぱりした女性作家である。この名前から男女どちらかなのかわからないので、迷わされる。まして、最近は、『バナナフィッシュ』『YASHA』のような、すこぶるシビアで大人っぽい作品が多かったのでなおさらである。 で、今までの作品のイメージとは、かなり変えた、ごくふつうの二十代の三姉妹と、その異母妹との同居の日常を描いた、まるでちょっとした小説のような物語だった。そして、それにもかかわらず漫画独特のギャクもちょっとはいった面白さ。漫画を読みながら、声を上げて笑ったのは、久しぶりである。 ただ、今までのシビアで大人っぽい絵柄から、今回は、読者の対象が年齢的にさがっているからなのか、あるいは、シビアな絵では話と物語の雰囲気が重く暗くなりそうなのか、あえて、今までの吉田秋生とはちがう、目の大きな少女漫画らしいかわいらしいキャラクターが描かれていて、ちょっと危なげである。やたら大きな目の登場人物とは対照的に、背景は徹底的に写実的にリアルにかきこんであって、人物の描き方とのバランスがうっかりすると、おかしくなりそうな、そんな絶妙のバランスがなんとか、うまく、チンプにならずに、まとめられている。それがかえっていいのだけれど。時々描かれるシビアな描写と、コミカルなかわいい絵柄のギャグやジョークがいかにも吉田秋生らしくて、たのしい。 けれど、物語の内容自体は実はかなりきつい。それが心に重くかかるというよりは、すんなり入り込んできて、そして、いいこといってるなあと感心させられたり、する。こんな人物は、何処にでもいそうで、実はちょっといないかもと思う。すごくしっかりした長女と末の妹。ちょっとお茶らけた次女と三女の配分が面白い。 やっぱり吉田秋生は、いいなあ。 少女マンガ
2007年05月09日
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プロ棋士の屋敷伸之は16歳でプロ棋士となった非常に優秀な将棋指しです。しかし、プロになった後、伸び悩んだのです。そのあとが苦しかったようです。それで、伸び悩んだ彼はどうしたかというと、賭け事としての競艇にはまったのだそうです。毎日競艇ばっかりやっていた。一応プロ棋士なのでお金はあったのでしょうね。仕事で書く文章の中身まで競艇のことばかり書いてあったそうです。将棋雑誌に載せる将棋がらみの仕事の文までそうだったらしいです。そのまま屋敷は競艇にのめりこんでだめになってしまったのでしょうか。いな。競艇ばかりやって遊んでいたはずの彼は、その後将棋の腕も上がっていったのです。壁を乗り越えることが出来たのです。本来プロの棋士なんですから、もっと将棋の勉強をやって腕を上げていかなければならないはずの屋敷が、なぜ競艇によって腕をあげることが出来たのでしょう。そこには余白の時間によって彼が人間的に成長していく過程があったのだと思うのです。 目指すものがあるとしてそればっかりやっていたのではいつかどこかでゆきずまって、壁にぶち当たるものです。どんな世界でも。一つの世界で頂点に立つ、あるいは、トップクラスまで上り詰めるには、技術だけではなく、人間的な成長、人間としての厚みが必要とされるのだろうと思います。 この『Do Da Dancin’!』は、踊りの世界をテーマにした物語です。主人公鯛子はバレリーナをめざす途中で母を失い、それをきっかけにして、自分の目指す道を外れてしまった。やる気のないまま無為に八年という歳月を送り、もはやプリマへの道は閉ざされてしまった。 鯛子は長年お世話になったバレエ団をやめ、フリーのダンサーとしての道を模索し始める。北海道のバレエ団の公演に参加したり、友人四人でジャズダンスの公演をやってみたり。けれど、やはり自分が本当に求めるのはクラシックバレエのプリマになることであることを再確認した彼女はもう一度プリマを目指しはじめる。 いろいろな踊りの場を回っていく中で彼女はたくさんの人間関係をくぐり抜け、その人間的なやさしさと度量の深さで、その場の人間関係をまとめていくほどに人間的な成長をし、大人になっていく。 プロのプリマを目指すバレエエリートの少女たちが、時間の全てをバレエの練習に打ち込むあまり、それ以外の時間がとれず、人間的には未熟なまま成長し、芸術家ゆえのヒステリックでわがままな、バレエしかできないダンサーとなってしまう。そこには、また、干渉型の母親によって生き方をしばられ、あるいは、精神的にもろすぎて本番がこなせずにいるような、そんなプリマたちが多い。その中で、鯛子はしっかりと一人の大人の女として自己を主張し、自らの踊りの中に昇華させていく。ダンサーは踊りの技術だけではなく、一人の人間としての成長が自らの中で熟成したとき初めて、一つの完成された芸術になりうるのだろう。 すでにプリマとしては、時期をはずし、年齢的に機を逸してしまったようにみえる鯛子が、実は無駄に思えたその八年,九年という時間のなかで、あるいは戸惑い、あるいはさまよい、いろいろな場所や世界や人間を見ていく中で得たものが、やがて彼女の中で結晶し、一つの美しい芸術作品としての桜庭鯛子というダンサーを作り上げるという物語なのである。 プロのはずのプリマたちが青春の時間を全てバレエにつぎ込むことで失ってしまった人間的成長ゆえに、精神的に未熟なままで、周りからのフォローによってやっと仕事をこなしていき、どこかでかならずぶち当たるはずの壁をこえなければならないという一般的なコースとは逆に、鯛子はまず人として成長し、その後に一気にプロのプリマへの道を駆け上がっていこうとするそのマライマックス直前で彼女の成功を見せる前にこの物語は終る。 プロのプリマとなった彼女の大人としての踊りは私たち読者の想像に任されてしまったようだ。 無駄に思える寄り道の時間は決して無駄ではない。その余白こそが人を成長させる大切な時間なのだと私は思うし、この物語もまたそう語っているようだ。 少女マンガ
2007年04月04日
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今話題の『20世紀少年』の前に書かれたもので、これもかなり話題になり、全世界レベルで売れたそうです。 世界を破壊しようとする人間を主人公が追っていく。そして、その悪役の人間の正体がなかなかはっきりしない。名前のないどこか不透明な存在。『20世紀少年』とストーリーがとてもよく似ていて、今となっては『20世紀少年』の前哨戦のようにすら見えます。 物語が時間軸をさかのぼっていくというか、ことの発端に結末からさかのぼっていくように謎が解かれていく上に非常に長いストーリーなので、一読しただけではわからない。かなり複雑な物語です。それでつまり、読み終わった時にはよくわからなかったような…。 東ドイツ時代に東ドイツの中で感情を持たない戦士を育てるためのプログラムと実験によって誕生した少年ヨハン。彼はずば抜けて頭がいいために、東ドイツの軍上層部が期待する以上のカリスマを持った指導者候補の人間として、悪魔のような性格を持って成長する。彼にかかわる人間たちが次次と殺されているのに、なぜか彼の正体は誰にもわからない。殺人者としてつかまることもない。敏腕刑事ですら、犯人は天馬だと読みを間違える。その怪物のようなヨハンを抹殺するために神のように心の優しい主人公天馬は、自らの全てをかけてヨハンを追いかけていく。しかし、彼はあまりにも優しくてどうしても人を殺すことが出来ない。 人を殺すことに全く迷わない悪魔のようなヨハンと、医者として人を救い、あまりにもやさしくて人を殺すことのできない神のような男天馬。 そのヨハンを作ったやはり悪魔のような男、クラウス・ボッペは、すでに自分の過ちにきづき、山間の静かな村でひっそりと暮らしていた。子供たちが感情のない人間に育つための実験場としての孤児院511キンダーハイムを作ったのも彼だ。その彼が自分の過ちにきづいたのは、ヨハンとニナの母親に出会い恋を知った瞬間なのだが、いったいどうして彼がヨハンたちの母親に惚れたのか、その時彼の心の中にどんな変化が訪れたのか、どうしてその結果自分がそれまで行ってきた悪行にきずくことが出来たのか。そのあたりが書かれていないのが惜しい。その心理変化がわかりにくい。本当にそんなことで自分の人生を180度かえることができるものなんだろうか。 外伝で書いてほしいくらいなのですが。 そして、クラウス・ボッペほどの男が惚れたというヨハンの母親はどんな女性だったのか。ラスト近くで出てくる彼女は非常に知的で聡明でそして温厚で優しそうなのだけれど。その彼女がなぜヨハンたちを置いていなくなってしまったのか。 バラの館の大量殺戮の後の二人の行方がわかりづらい。 そして、ヨハンとニナが行く先々で二人の養父母を殺したのは本当にヨハンなのだろうか。 大人になってニナと再開し、ニナの話を聞いた途端殺戮をやめたのはなぜなのか。 私はヨハンが彼をキンダーハイムに追いやった関係者を調べ上げて殺しているように予測したんですけど。 そして、ラストで一つの村をみんな殺人に追い立てたのはなぜなのか。 いろいろと疑問残りまくりです。もう一回読まないとだめなのかな。 少年マンガ
2007年03月26日
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江戸城大奥。男三千人。 男の大奥というとんでもない設定を何かでチラッと読んで面白そうだなーとは思っていたんだけど、読みました。つまり将軍様は女。 いったいこの設定をどうやってつくったんだと思ったら、いろいろと作者が苦労している感じで面白かった。 つまり、日本の歴史はそのままに、ただ、男と女が逆転して社会構成されている。で、この男だけの大奥という設定を無理なく作るためにいろいろなストーリー上の仕組みを作るのに苦労しているのがわかる。 江戸自体初期。将軍家光の時代に「赤面疱瘡」という病気が流行る。この病気はなぜか若い男性だけがかかる。そして、かかったら最後絶対死んじゃう。この病気が日本中に大流行し、結局男性の人口がそれまでの四分の一に激減して、病気は終息する。ここまで男が減ると今までのように男に社会を任せておけないので、力仕事も社会のいろいろな重要な仕事も女性たちがまかなうようになる。男性は死亡率が高いので、家督を継ぐのも女。家長も女。そして、絶対数が少ない上に死亡率も高い男たちはつまり、種馬としての存在でしかなくなってくる。結婚も社会の上層や金持ちの商家くらいしか出来なくなってくる。子供のほしい場合は花街で男を買い、子種をもらってくるしかないし、貧しい武家に生まれた男子は種馬として毎日のように体を売られることになる。 いやー。要は大奥に男だらけで将軍が女という逆転の設定のためにここまで話の設定を作るのも楽じゃないなと。話の理屈にどこかで破綻が来ないように理屈合わせが並大抵じゃないくらいしんどそうです。そのぶん面白いけど。 現在二巻まで。この後どうなるんでしょうね。 ファンタジーというか、SFというか。とにかく男女逆転しているという以外は江戸時代の歴史はそのまんまなんですから。 そして、この社会構成ってミツバチとそっくりですね。さすがに人間には、一人の女だけに出産をまかせきるのはさすがに無理ですが。でも、オスが種付けの時だけしかいらないってとこもね。 男が少ない分社会的に貴重なわりになんだか大切にされてないのが不思議なんだけど。私は女なので読んでるとかなり面白いんだけど、男の人が読むとどんな気分になるんでしょう。聞いてみたい。 少女マンガ
2007年03月19日
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これで完結。これだけの長い話は珍しいですね。『ロッカーのハナコさん』(全部で9巻)以来でしょうか。でもハナコさんは全部描くのに時間や場所が結構飛んでますからね。某有名ホテルで働くキャリアウーマンの早歩はある日親戚の三歳の少女を預かる羽目になる。しかも少女はなんと狐のお面を付けていて、決して人に素顔を見せようとはしないのだった。はたして少女が心の傷をのりこえてお面をはずせる日は来るのだろうか。 いよいよわらしちゃんの素顔がみられる! 飛ばしてそこだけ見たい!という欲望を抑えて最初から順番にちゃんと読みました。ストーリーのナガレで見ないときっと面白くない。それに想像出来ない。どんな顔だろう。イメージとしては、どうしてだか、すこぐかわいい女の子が浮かんでたんですけど。 でも、実際のわらしちゃんは普通の、でもって眉毛の濃い~女の子だった。納得。だってすごーくがんこな女の子だったものね。 だって普通あそこまでお面をかぶって顔を見せないことにこだわりきるなんてなかなか出来ることじゃないですよ。普通はどこかで挫折しちゃうんじゃないかな。途中でめんどくさくなったり。 でもうちの子たちもすごく頑固者だったので、子供っていうのが大人からは想像もつかないくらいすごく頑固なものなのもわかります。 このお話では、ロリータ系のファッションがうまく使ってありました。ロリータは自己表現のための服だからです。 ホテルの保育室でわらしちゃんと一緒のえまちゃんて女の子がいるんだけど、両親が離婚してしまうんですね。で、この子がきているのがこのロリータ系のドレス。いつもこんな調豪華ホテルに来られる裕福な家の幸せそうにみえる少女が実は両親の離婚に傷ついていて、「私を見て」、という気持ちを表現しているのがこのドレスです。こんなに派手で、フリルだらけのドレスって絶対目立つし、誰もが振り返ってみてしまうでしょう。『下妻物語』でも書いたのですが、女の子の自己表現の現われなんですよね。大人の方はもちろんそんな考えはなくて、すっごくかわいいから着せたいと思うだけなんだけど。 で、ラストでわらしちゃんがやっぱりこのドレスを着てるんですね。 素顔を知らない早歩さんは最初わらしちゃんであることにきずかないわけ。早歩さんはわらしちゃんのためと思ってわらしちゃんをわらしちゃんの故郷の家に返して自分だけ帰ってきちゃったわけなので。そんな早歩のところにわら師ちゃんがひょっこり帰ってきたわけなんだけど。 でわらしちゃんも実はこんなロリータの服に憧れていたんですね。お面をかぶって誰にも顔を見られないようにして、自分の存在をかぎりなく無にしようとしていたはずのわらしちゃんも実は周りの人たちに「自分を見てほしい。きずいてほしい。大切にして愛してほしい」と思ってたわけで、ラストでロリータを着たわらしちゃんを見てあーなるほどなーと。なるほどこういう結末になるんだなと思いました。 もっとも、狐のお面をしていまどき珍しく着物着てる女の子の方がロリータよりよっぽど目立つし自己主張してるように見えるけどねえ。 でも子供にそんなことわかるわけないし。ちょっと「すずめのかくれんぼ」に似てますね。 作者の石井先生はもう少し違ったラストも考えていたみたいだけど。 んーでもなんでわらしちゃんがお面をはずせたのかがどうも今一つわからない。何でだろう。おかしいなあ。早歩さん自身の心理の変化は書かれているし、彼女の中でわらしちゃんの存在がすごく大きくなっている経過もわかるんだけど、一番重要で話のメインテーマのはずのお面をはずした時のわらしちゃんの心理の経緯がどうもわからなかったような。そのあたりの描写がないなあ。こまりました。 わらしちゃんがお面をしているように、他の普通の子供たちも見えないお面をしている子はいっぱいいる。あるいは大人だって。 まして子供は親の望んでいることを察知して「親の望むような自分」を全く無意識に演技している事だってある。普通にきちんと育ててもらって、愛してもらっている子供さえそうだ。そして、そういったことを理解してわかっていて、子供が素地のままであるようにと思っている親の子供でさえ、そうだ。 一見頑固でいうことを聞かなくて困っている子供でさえ、やはりどこかでお面をかぶっているような部分をもっていたりする。だから。子育てって難しい。 ところで、今回コミックスを買ってびっくりしました。だって私のハンドルネームが書いてあるんだもの!「みなさんのブログの感想読みました。ありがとう」って。作者石井先生ご本人からのメッセージがコミックスの余白のところに書いてありました。もちろん私だけじゃなくて他のかたがたのブログに対しても。前回の四巻の感想を書いた私の記事をまさか作者本人が読むだろうなんて考えもしませんでした。どびっくりーでした。こういう時ブロッグってすごいなーと思います。私はブログのこういうオープンなところが好きなので。誰が読んでるかわからないということをマイナスととるか、プラスととるかという意識の違いなんだけど、わたしはこの誰が読んでるかわからないってところが好きなんですよ。誰が読んでる川からないけど、でも、これを読んでいる人。私はこんな風に考えるけれど、貴方はどうですか。と。 それから、石井まゆみ先生の作品は大好きで、コミックスはもちろんレンタルじゃなくて全部買ってます。読めるものはたぶんみんな読んでます。石井先生これからもがんばってくださいね。 少女マンガ
2007年03月18日
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本屋で見かけ、古本屋で見かけ、どうも面白いらしいと思っていたのです。読もうかなと思っていたところで最近やっと読めるようになりました。 ツタヤがレンタルコミックをはじめるらしいと新聞で読んで「わーいいなレンタルなら安く読める」と期待していたら、よくよく考えるとWEAR HOUSEでもやってるかも。ってことにやっと気がついた。私がよく行くお店は小さいのでコミックスは置いてないんだけど、別のもう少し遠いお店は大きかったからもしかしてあるかも…と考えて行ってみた。ありました。アリマシタ。買うほどじゃないけど、読みたいって漫画がいっぱい。しかも、八冊セットで一週間で400円。安い。 だって買えば一冊400円はするし、コミックカフェだって一時間でやっと一冊読めることを考えると安くない。それに人気の青年コミックスはみんな巻数が多くて、買ってるときりがない。その割りに読み終わるともういいやっと思う。デモ、ブックオフで売っても思うほどの値段はつかない。漫画は普通の本より高い感じ。 で、レンタルで読みたかった『20世紀少年』を見つけた。なんと現在22巻まで出ている。それでもまだ完結していない。三週間かかってやっと読み終えた。もうあと一章で完結らしい。話はクライマックス寸前まで来ている。くううう。気になる。 今の40代の大人たちが少年だった頃の世界観を再現しまくり。ノスタルジーたっぷりの作品構成がおもしろい。 私たちが子供だった頃は、SF漫画が山盛り流行っていた。未来はきっと宇宙へどんどん出て行くような世界になると信じていた。でも、実際には、そのあと、予算不足で宇宙開発事業はどんどん削減され、SF小説もその後は逆に下降現象になっている。いまだにロケットは月まで行くのもやっとである。宇宙に住むなんてなんだかぜんぜん実現しそうにない。 科学いっぱいの未来はどうなっちゃったんだろう。ちょっとがっかりである。それでも、昔漫画やSFで予告されていたような、テレビ電話やリモコンは私たちの日常の中にごく自然に入り込んでいて、これがかつて予測された未来のものだってことに気づかないくらい。 『鉄腕アトム』の漫画に描かれていたような高層ビルの中の空中を道路が走り回っている景色も、流線型に近づいてきた乗り物も確かに現実になっている。最も私「アトム」は読んでないですけど。 そしてかつての昭和の少年だった主人公たちは現代では大人になり、物語はさらに未来になっていく。世界征服をたくらみ、人類滅亡を計画する世界最高の悪者ともだちに、主人公ケンヂとその友人たちが、かつての漫画のヒーローのように立ち向かっていく。 ケンヂは最初は町のしがないコンビニの店長でおよそかっこよくなかったのに、なぜか物語が進むにつれてどんどんかっこよくなっていく。武器を持っているわけでも、スーパーマンのように強いわけでも、超能力があるわけでもないのに。ただ、ギター片手に歌っているだけののそーっとしたミュージシャン崩れの中年おじさんなだけなのに。同じ町の同じ世代の一緒に遊んでいた少年たちが、未来で正義の味方と悪の帝王になる。彼らを分けたものはなんだったのか。誰もが正義の味方にあこがれていたはずなのに、悪者になってしまうその境界線はなんだったのか。 かつての昭和中期の懐かしい風景や子供の頃に見たたくさんの漫画なんかのエピソードが出てきて、四十代の私たちにはとても面白い。秘密の暗号を同世代の読者同士で共有しているような物語だ。 けれど、これを今の若い子たちがみると、わかるのだろうか。そういうことがわからなくても面白いだろうか。 しかし、実際に相当売れているようだ。結末が楽しみなんである。 少年マンガ人気blogランキングへ
2007年03月11日
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原田梨花の文庫化第一作の『満月の夜』がかなり面白かった。だから、買ったのがこれ。 子供向けの漫画じゃなくて、レディース・コミックなので、主人公もそのほかの登場人物も大人。社会人。会社員。 ある日とつぜんの父親の死。その途端、親のコネで入った会社はクビになり、お金持ちだったはずの父の財産はほとんどは価値のない株券になっていて、建てたばかりの家は相続税も固定資産税も払いかねて売るしかなくて、ボーイフレンドには去られ、日々の生活費にも困るような状況で、母親は主人公をほっぽりだして家を出て恋人と結婚。残された主人公は、家を売り、税金を払いアパートを借りて、バイトをはじめる。 でもとにかくトロイ。二年の事務職にもかかわらず、エクセルもワードも出来ず、税金とかそのほかの請求書の計算も合わない。コピーをとっても枚数があわない。就職もなかなか決まらず、貯金を使い崩す経済状態。 もう、読んでるとどきどきです。生活のひっ迫感とか、親が死んだ途端に実は家にはお金がなくて途端に貧乏とか、思わず身につまされて、心臓がどきどき痛かった。とにかく身につまされるんだもの。私はもう結婚してるし、親が死んでチョク困るとかはなかったけど、それでも、この先どうなるかわからない不景気の現状なので、読みながら現実が背中をすりすりと歩いていくようでこの序盤が怖かった。 要するに世間知らずのお嬢さんが親の死をきっかけに現実をしり、苦労しながら成長していく話なのではあるのですけどね。でも今の世の中、きちんと働いていても、お金は足りなくて、主人公はかなり大人になったはずなのに、話しの終盤でもやっぱり家計の収支が合わなくて、主人公は相変わらずひいひい言ってたりする。 結婚しても、さらにいろいろ苦労はあって、だんな様が守ってくれるなんてのは、一世代前までの話なんじゃない。のかな。 なかなかのイケメンの男の人とお見合いして、でも結婚にも踏み切れず、好きな人には彼女がいて結婚しちゃうし。 人を好きになるってどういうこと。 たくさんのカップルが主人公の周りで結ばれていく中で、好きなはずなんだけど、惚れてるのかどうなのかわからない見合い相手との距離がどうしてもうまく縮められなくて悩む主人公。 ぐだぐた考えずにパーッと結婚しちゃえばいいのにーと思ったんだけど。 まあいまどきの人生は長いですからね。あせっても始まらないかもしれないねえ。 主人公を助けてくれる二人の幼馴染は主人公とは正反対にすごくしっかりしているばりばりのビジネスマンとビジネスウーマンなので、やさしいなあと思っていたら、実はこの人たちもみんなかつて親に死なれて苦労したり、つらかったり、留学先の外国でお金なくて困ったり、やっぱり主人公と同じ体験をしていたんだった。 かつての自分が目の前にいるみたいだからやさしかったんだね。 ほんと身につまされます。 さらに主人公を助けてくける非情に徹しきれない優しい弁護士さんも加わって、主人公の家で四人で食べるおなべパーテイーがすごく楽しそうでおいしそうでうらやましかった。 ラストはきっちり二人が結ばれるシーンがなくて、ほのめかしたまま。たぶんちゃんとうまくいくだろうとは思うけど、最後までぐずぐずのままの二人が本当にこのあとうまくいくのか、読者としては不安この上なくて、やっぱり出来ればきっちり、二人が結婚するまでを書いてほしかったのになと思っちゃうんですけどねえ。 恋と人生に悩む大人初心者の二十代の若者たちの心の軌跡の描写がうまい。 ストーリーの設定自体は目新しいものじゃないれど、それでもぐいぐい読まされる作者の力量に拍手。 それにしたってこの二人の仲がなかなか進まないのは、この二人のせいばかりじゃない。恋人にもあえないくらい忙しくて風呂にも入れず自宅にも帰れないなんておかしいよ。主人公だって正社員として働いているのに貯金崩さないと生活できない。物語のための設定だけじゃない信憑性があるって言うか、今の世の中ってほんとにこんななんだもの。仕事が忙しすぎておちおち恋も出来なきゃ、結婚もままならないし、まして子作りどころでもないわけで、少子化なのもうなずけるってもんです。しかも、親が死んだら、住んでる家も売り飛ばさなきゃならない今の世の中っておかしいと思う。税金高すぎだよ。 今の社会の実情もありありと物語っていて違和感なしなのがなんともいえないです。 青年マンガ
2007年02月16日
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地球に隕石が降り、人類の滅亡の危機が訪れることを知った政府は選び抜いた若者を冷凍睡眠によって遠い未来に送ることを決める。そして、7人を一チームとして、5チームが送り出された。その中で特に一チームは、過酷な未来で行きぬけるようにと前もって教育したチームであった。アウトドアや、サバイバル、医療から食料などすべての知識を仕込まれて徹底的に教育された彼らは、最後に七人だけが選ばれて、未来に行くことが出来る。そして、過酷な最後の試験が始まる。しかし、その試験はあまりにも過酷すぎて、試験が終わった時、選ばれた7人はすでに精神的にも肉体的にも疲弊し切ってしまっていた。 過酷な試験の後にげっそりと疲れきった7人の描写を見るに至って、私はやはりそうだよなと思うとともに、今の過酷な受験によって子供時代のすべてを費やして勉強した挙句、就職する頃には、すっかり疲れきって働く気も失せてしまったイマドキのエリートを想像した。ソコまで行かなくても、志望校に合格した頃には、すっかり勉強にいやになっている子供を思った。 まあ現代は、学校の教育内容の削減のせいで、学校の勉強だけでは、受験のための学習内容が不十分であるために塾に行かせざるを得ない状況がある。 しかし、それでも、中学一年からあるいは小学校の四年から週に三回も夜の家族の団欒をしてすごすはずの時間を塾に行かせるということがいやで、週一数学だけ塾通いというくらいである。どうしようかなと迷ってます。甘いのを重々承知で悩んでます。 週三日の通塾さらに、春夏秋の休みもすべてほぼ毎日塾があるとなると、子供はいつ、子供時代の無限の時間をのんびりと味わうのだろうかと、思い、合格する頃には、うんざりぎみの子供が頭に浮かんできて考えてしまうのである。 徹底的に仕込めば仕込むほどいいかというと必ずしもそうではないかもしれない。 この物語でも、訓練生たちを指導した教官の一人は、そのあまりの過酷さに疲れきった姿や、一緒に寝起きをともにした同胞が目の前で死んでもまったく気にもしないような訓練生の姿に疑問を感じ始める。 そして、自分の子供も、セブンシード計画のメンバーに入ることになっているのだが、彼らのような過酷な訓練はせずに、普通の愛情をかけて普通に育てたいと考えるようになる。そうして育てられたのが、この物語のヒロインの一人花である。 花は2巻から登場して、ごくごく普通の少女なのだけれど、読んでいると、なかなかどうして逞しい。元教官だった父親から、いろいろとサバイバルのための基本的なことは仕込まれてもいる。 親が愛情込めて、普通に育てていくことで得られる、内面的な強さというものは、過酷な訓練によって教えられた技術よりずっと、人の生きる力を育てるのではないかと、そういう物語なのだと思う。 現在9巻まで出ているけれど、まだまだ続きそうです。過酷な訓練を受けたチームがこれから、未来世界でどう生き抜いていくのか。 見ものですね。田村由美の漫画はハードでパワフルで面白いです。 9巻がなかった↑
2006年10月22日
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なんとこんな昔の少女漫画が最近映画化されたんだって。 キリスト教による幼稚園から大学までの一貫教育を行う天下のお嬢様学校「聖ミカエル学園」に通う、ハグレモンの女の子三人のお話 ビックリ何ですけど、家捜ししてみたら、ちゃんと我が家にありました。三冊きちんとそろって。しかも、内容すっかり忘れてました。私が買った本なんだから、絶対読んでるはずなのに、ほんとに見事に内容覚えてませんでした。だから、読み直したんだけど。歳月とは恐ろしいものだ。なにしろ初版は、1989年ですからね。三十年近く前。なぜいまさら映画化なのだ。しかも、内容は原作とは別物に近いらしい。ま、所詮映画化なんてそんなもの。もう私は期待してません。 でも、原作を読み返してみると、これが結構馬鹿にできない。 川原泉といえば、おちゃらけ漫画ばっかり描いている楽しい漫画家さんだけど、でもこの作品。ぬぬ。おぬしできる。どうしてどうして、学のあるのがばればれです。おちゃらけたふりして、何してんですか。 だってね。イエス・キリストがユダヤ人の商人に税金払いたくないと聞かれたときの有名な名セリフのエピソード「カイザルのものはカイザルに」とか、サムソンとデリラの話とか、知の無知の話とか。 うーん。なかなかどうして。 映画見るより、原作読んだほうがいいよ。絶対。 それにしても、あんなお嬢さん学校、ほんとにいまだにあるのかしら。庶民の私なんかにわかるわけもない。 少女マンガ
2006年09月30日
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インドといえば世界三代差別国の一つだ、と私は思う。 後の二つは南アフリカと、イギリス。南アの人種差別はイマドキの地球で、今なお続くというみごとなもので、そして、先進国でありながら、そして同じイギリス人同士でありながら、社会的差別が存在するイギリスもすごいと思う。うーん。差別ていうのとちょっと違うかな。そして、今 IT産業で世界的に注目をあびているけれど、今だに続くカースト制度を思うと私はそれほどインドの将来性、可能性を、明るく期待していいのかわからない。 そのカーストが何千年と揺らぐことなく続いているというのはすごいとしか言いようがないのだけれど、資本主義世界の激しい競争社会を考えると、カースト制度によって激烈な競争社会がある程度緩和されているとも考えられるのではないだろうか、と考えてみて、なんとも複雑な気分である。 それでも、生まれた我が子の、手や足を切り落とさなければならないような、そんな社会はいつまで続くのだろう。それともさすがになくなっただろうか。最近の事情をきちんと調査してるわけではないので、このあたり今ひとつ不確かですみません。 イギリス人でありながら、インドの盗賊団に混ざって、インド人としてインドで生きていこうとする主人公カシュウとともに、イギリス植民地下のインドの人々の過酷な現実が、腹立たしい。 毎度西洋の植民地化に泣かされるアジアの国々の話ばかり見ているのは何でかなあと思うんですけどね。 でも、今まで、植民地インドで、白いドレス白いスーツで優雅に紅茶を飲む支配者サイドのイギリス人の優雅な生活とラブストーリーなんかの映画を何度となく見てきたけれど、支配される側のインドの人々の暮らしぶりを描いた話は珍しい気がする。 神坂智子が書いたインドの物語で秀逸なのが、『蒼のマハラジャ』である。インドのマハラジャとイギリス人少女の恋と結婚そして、植民地下でゆらぐインドの中で、必死に自分達の藩王国を守ろうとする二人の物語である。 アラビアのロレンスの物語や、マルコポーロの生涯を描いた『カラモランの大空』など、歴史を描いた神坂智子の作品はどれもすばらしいのです。 天竺夜話シリーズを読みながら、今回も私は植民地インドにおけるイギリスの悪行ぶりに怒りたっぷりなのでした。 そういえばこのお話の中に、ヘディンまで登場していた。さまよえる湖ロプノールを発見したことで有名な探険家だと思ったけど、このヘディンを神坂智子は、現地のインド人をただの人夫として、西洋人とは明らかに差別している、そういう西洋人として描き出していた。ヘディンの書いた著作の中にそれを匂わせるものがあって、神坂智子をイラつかせたのだろうか。ヘディンの探検家としての業績は確かにすばらしいものなのかもしれないのだけれど、西洋文化が世界を明確にしようとする一方で、混沌のままにいきていく方がいいと思うアジアやそのほかの世界の国々が、西洋世界に搾取されていくことへの怒りなのだろうか。 未だに続く中東戦争や朝鮮半島のいざこざ。 アラビアやインドや中国や朝鮮や、西洋諸国が世界中を蹂躙して自国の富のためにしてきたことの全てを清算しないかぎり、世界が平和になり、世界政府が出来上がる日はこないのかもしれない。 漫画(マンガ、まんが)、コミック、コミックス歴史
2006年07月24日
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最終巻がでたー。読みました。読み終わりました。ぜーんぶ。 でも、なんか不満。アーんなにすごかった頭脳戦はどこいっちっゃたのですか。ホントにほんとに大場先生は最初から、この結末の予定だったのでしょうか。だとするとやっばりライトは極悪非道の大量殺人者なんですね。ちぇーっ。だって最後のライトのあがきっぷりはみぐるしーもの。 最初の頃のライトってかわいかったのにね。と、一、二巻、あたりをしばし読み直す。 ところで、それにしたって今までのライトからすると、最終巻のライトは手抜かり多すぎ。あんなに気抜いてたら、ニアにやられちゃうの無理ないですね。 みんなが死ぬまで待ちきれずにニヤついたりしてるしね。 高田さんが死んだ場合すぐに、みかみくんと連絡取れるように、考えてあってもいいと思うんだけど。なんで、そういうの考えてないんでしょうね。 エルとライトの対決より、ページ数少ないし、物足りません。 それに、最後のニアの言葉もいまいち説得力ないような、こじつけのような気がするのです。 メロとニアの二人が協力したから勝てたって言うけど、二人で相談したわけでもないし、メロは結局死んじゃってるし。最後の決定はリュークがしてるしね。リュークは何しにきたんでしょう。暇つぶしだけじゃ納得いかないぞー。 せっかくこれだけの設定のお話なんだから、もっと深く掘り下げて書き込んで欲しかったと不満なのは、私だけなんでしょうか。 私はね、キラの世界だと言って犯罪者を殺し続けた挙句、どんなに悪を消そうとしてても、今度は善人だと思っていた人間の中から犯罪者に変化していくような状況に、人間の中の悪の部分が決してなくなることのない現実にライトが気づいて苦悩していくあたりとか、そして、じゃあ今まで自分がやっていたことはなんだったんだろうと苦悩しはじめるあたりとか見たかったんですけど、そこまで行くと、やっぱり、エルやニアの存在ってなにってことになっちゃうかしら。 もう一回全巻見直しかな。DEATH NOTE
2006年07月17日
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ホテルで働くキャリアウーマン早歩は、ある日、両親をなくした遠縁の少女を引き取ることになる。 少女は四歳、その心の傷ゆえに狐の面をかぶり、けっして人に顔を見せようとしない。 働きながら子供を育てるのは大変なことです。彼女の職場の人たちはやさしいので、職場の中に四歳の少女を同伴させて働くことを承認して、少女をかわいがってくれますけれど、保護者として、義理の母としてさほもまた、子育てに悩む日々を送るのです。 ってかわいいーーーーーー四歳の女の子ってかわいいじゃんかよー。抱っこも出来るし、ちっちゃいし。 うちのお嬢さんなんてもう、十二歳だし、かわいがってあげようとすると
2006年07月04日
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七巻全巻ブックオフでいっきに買って半日で一気に読んでしまった。 映画『最終兵器彼女』を見たので、そうなるとやっぱり原作を読みたくなるということで、買ってきました。 やっぱり原作も切ないねえ。読んでて何回も涙出ちゃった。 デモね、もう一軒行ったゲームやさんで売ってたやつの方が安かった。ガーンちきしょうー。もう買っちゃったじゃないか。 原作のラストはやっぱりうわさどおり映画とは違ってまして、原作の後半の方に進んでくると映画とはテーマが違うような気がした。 だって最後には地球は、人類は、滅んでしまうんだ。 地球の人類の最後のアダムとイブの物語だったんだ。 それにしたって二人が本当に結ばれるのは七巻になってから。シュウジはちせが大人になるまで待ってたんだねえ。連載にして二年ストーリーのなかでも、一年くらいはかかってそうだし、途中二人だけで新婚さんのように暮らす日々も三週間近くあったわけで、その間もずーっとシュウジは我慢してたわけだから、すごいというか、かわいそうというか、かなりしんどかったんではないでしょうかね。 七巻で二人が再会するシーンで、ちせは、ハイヒールはいてるし、自衛隊の制服もタイトスカートだし、作者としてはちせが大人になったことを衣装で示してますけどね。ちせが大人になったんだってことがわかったからこそ、シュウジは初めてちせとの最後の一線を越えることをふみきれたようです。だって青年誌の連載だったので、二人の性交渉の描写はそのものずばり、何ページにもわたってすごく細かく丁寧にお互いの心情や感情や感覚に至るまで非常によく描写されているのですね。 あんまりにもちせが子供で幼くてシュウジはどうしても手が出せなかったようです。未経験の普通の男の子だったら、欲望に任せて、いっちゃったと思うんだけど、シュウジくんの場合ふゆみ先輩との経験がすでにありますので、そのあたりが違うんでしょうねぇ。 それで最初は自分に自信がなくて、謝ってばかり泣いてばかりのちせですが、兵器としてだけでなく、人間としても成長していくようです。 二人の恋のアドバイザーとして、シュウジの先輩ふゆみさんと、ふゆみさんのだんな様のテツさんが登場してくるわけですが。 お互いの恋が傷つけあうだけのものであることの辛さに、シュウジとの別れを決めたちせですが、戦場で自衛隊のテツに会い、テツによって恋は傷つけあうものなのだと教えられるのでした。テツさんがちせに大人になれと無言のうちに伝えているのが、デパートでちせにやたら大人っぽい服を着せようとするあたりなんだけど。 それで、五巻あたりから、戦闘でそれまで普段着だったちせは自衛隊の服を着るようになってくるあたりで戦闘員としての覚悟ができはじめているようだし、テツさんが選んだ大人っぽいドレスや、ハイヒールをはいていて、ああ、ちせは必死に大人になろうとしてるんだなあというのがせつせつと伝わって来るんだけどね。 そんでもって、今まで強くなりたいと言いながら泣いてばかりいたはずのちせがだんだん戦闘員として、上官として自分の立場ととか、なすべき仕事とか、自覚していくようになってくるのです。 一番最初の二人で逃げようとした時は、あえなく失敗してしまうけれど、六巻では、二人は駆け落ちというか逃亡に成功してわずか十数日間だけ、まるで新婚さんみたいに暮らすことが出来て、読者としては思わず良かったねと思うけれど、それだって働きながら、生活していく辛さをたっぷりと味わうことにもなるわけで、そして、ちせがだんだん壊れていってしまい、ちせを自衛隊に返さなければならなくなった時、やはり逃げられない現実を認めなければならないことをシュウジは自覚せざるをえない。 このお話の中で、シュウジって主人公のはずなのに、そして彼女のちせは兵器として苦しみながら、必死に戦っているというのに、シュウジはなーんにもしてないんですよねえ。本人もそのことはしっかり自覚してるしね。それでも、そんな状況の中でも、いらだちながらも、両親を思いやったり、好きでなくても、彼に助けを求めてくる女性達をやさしくいたわったり、自分のプライドもかなぐり捨てて、後輩のために土下座したり、確かに彼もまた、成長していて、大人になり始めているのですね。一人教室でワインをがぶ飲みしてるシュウジをみながら、シュウジが大人になったんだなあと思いました。 シュウジと結ばれた後、ちせは人類全ての母として、人類の責任を自分ひとりで背負う覚悟をするのですね。 兵器として、戦闘を繰り返しながら、自分の愛するものを守るための戦闘であっても、死ぬのが味方か敵のどちかかなのであって、どちらであろうと殺すことにかわりはないんだということにきずき始めます。 そして、兵器として悩んでいたちせですが、自衛隊のメンテナンスの人が言います。「人間は生み出すことと壊すことしか出来ないんだよ」と。だから、「殺人をしつづけてる兵器としてのちせもまた、人間そのものなんだ」と。 このとき既にちせは自分が人類を滅ぼす役目を背負っていることにきずいたんでしょうか。 リンゴを食べてしまったためにエデンをでて、地上に降りていかざるを得なかったアダムとイブ。 そして、また、イブつまりちせは、地に増えて、授けたはずの知恵を失い地球全てをこわそうとする人類全てをかたずけて、アダムつまりシュウジとともに、エデンへ帰っていったのでした。 でも、こんなことのないように最終戦争なんかが起きない事を祈るばかりです。 漫画(マンガ、まんが)、コミック、コミックスオベリスク スモールオベリスク 160cm 第一ビニール 05P19Dec15価格:925円(税込、送料別)
2006年06月30日
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古典文学『とはずがたり』の漫画化です。『源氏物語』などの名作は大和和紀さんの『あさきゆめみし』で、有名ですが、『とはずがたり』ともなるとあまり知っている人は少ないでしょうね。 主人公は後深草院の寵姫、『二条』です。時代は鎌倉時代初期。まだ第一巻ですので、幼い頃から「若紫」のように後深草院の元で育てられた二条は14才となり、裳着の儀(いまでいう成人式です)を終えて成人したのを待っていたように後深草院のものとなってしまいます。そして、こののち、後深草院と亀山帝(院の弟)との抗争が南北朝の戦いへとなっていくわけで、ラブラブの恋愛物語と歴史ものの二面性を持つ物語ですね。 古文というと嫌われる度合いの高い科目で、なんだか日本語でありながら日本語ではないよくわからない科目であり、さらにわからない古語を暗記させられるいやーな科目というイメージがあります。しかーし、実はほとんどの有名な古典文学は恋物語がほとんどで、読んでいくと今の道徳観では想像もつかないような男女間の恋が語られています。「いやーいいんですかい。こんなことやってて」と、思うような展開が多いんですから、本当は面白いんですけどね。学校でも、そういう話をやればもう少し生徒もくらいついてくると思うんだけど、一番楽しい肝心なところをセンセーは授業で説明しないんだモノナ。だって、突然ゴーカン同然で手籠めにするは、姉妹だろうと両方奥さんにするは、愛人はぞろぞろいて同居してるは、愛人なのに主従関係だったり、目当ての姫君を落とすためにその侍女とまずは肉体関係結んでたり、古典文学の世界って美しい恋物語っていうより実際にはもうめちゃくちゃなんですけどね。そんなことばっかりやってるから、儒教なんかで、いろいろ道徳とかいい始めないとならなかったんでしょうねえ。 というわけで、このお話では、後深草院は自分の閨(寝室のことだな)の教育係だった大納言典侍(だいなごんのすけ)が、初恋で、でも所詮結婚とかできるわけでもなく、大納言典侍の娘だというだけで、二条を自分の寵姫にする。母子両方と関係してるわけで、今の感覚でいえばそんなのあり?ってかんじですけど、この頃はこんなことはごろごろあったのですよねぇ。 しかも、後深草院から二条の父親に「あんたの娘早く頂戴ね」って話があって、父親の方は準備万端整えておく。なににも知らない二条は突然実家の自分の寝室に後深草院がやって来るわけですね。 この当時は今みたいに戸籍とかないから、戸籍での入籍がイコール結婚になるわけでもないし、盛大な結婚式なんてやるわけでもないから、男女の肉体関係が成立した段階でイコール結婚なんですね。それでも、一応三日間連続して女のところへ通い続けないといけないわけなんですけどね。そうしないとただのお遊びって事で終わりになっちっゃて婚姻にならないらしい。 で、初日はショックを受けた二条の拒否で婚姻は成立しない。しかも、この当時夜をともにした男女というのは明け方の別れの折に歌を取り交わすのが通例なんですけど、そのとき書いた二条の歌を院に届ける前に父親が読んでるんですね。だから、二人の間になんにもなかったのが親にばればれ。もうプライバシーもへったくれもあったもんじゃないですね。さすがに二日目ともなるとそうもいかないので院も強硬手段にでるわけで、このあたり、『源氏物語』で、源氏が若紫を奥さんにするあたりと同じです。 ところで、このあと、源氏は後ろ盾の全くない若紫をきちんと結婚という形をとって奥さんにするのですが、後深草院と二条の場合は公式な婚姻にならない。二条の父親は将来大臣になる可能性を持っていたのですが、この時はまだ大臣になっていないために、二条は正式な入内という形をとれないまま、女房として院の後宮にはいることになります。愛人関係がそのままイコール主従関係ってどういうこと? このあたりも現代人には理解をこえてるんだけどね。二条は女房として院に雇用されている形で後宮にいて、にもかかわらず、夜は院と寝室をともにするわけです。ほれてるほれてるといいながら、二条の扱いが結構いいかげんでして、なぜに?と思うわけだけど、この当時の院は政治的権力もあまりなくて、父親の帝の寵愛をうけて元皇子としてやりたい放題好きなように生きてた光源氏とは、やはり微妙に立場とか、奮える権力に限度もあったんでしょうかねえ。 それでもね、かなーり院の寵愛をうけている二条ですが、このあと二巻では初恋の相手との浮気がはじまるらしい。そして、ますます歴史的にも話が展開しそうで、楽しみな二巻ですね。うっふっふ。
2006年06月01日
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