出羽の国、エミシの国 ブログ

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2016年08月13日
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 「天皇を奉じた幕府が、諸藩を糾合して攘夷を実行する。」これが文久始めの全国一般の考えだった。
 この時、八郎たちの目標は攘夷に変わっていた。八郎たちなら時間さえあれば藩などの組織に所属していなくても自分たちで人を集めることができただろう。しかし、攘夷実行のためには時間がない。虎尾の会の仲間が幕府の画策により亡くなるものも出た、寺田屋事件でも挫折したがめげることはなかった。八郎の「急務三策」などが、文久の改革の幕府上層部に取り入れられた結果、八郎たち虎尾の会のメンバーは大赦を得て、堂々と活動ができるようになっていく。
 幕府は文久の改革に先立ち、天皇に和宮降嫁の条件の1つとして攘夷実行の誓約をさせられていた。八郎は「この幕府が攘夷を行うことを約束していること」に期待していた。幕府内の詳しい情報は、山岡、松岡から入ってくるし、幕府との接触も可能である、そうして危険な幕府に近づいていった。これが浪士組の画策とか策略と呼ばれるものとなる。(その詳細はまだまだ不明なことが多い。)
 世の多くの人々が外国人の目にあまる行為(生麦事件など)に辟易し、幕府が攘夷をするのを待ち望んでいた。しかし、攘夷がなかなか実行されない。それどころか幕府は攘夷を実行する気すらなかった、できなかったと言う方が正しいかもしれない。
 「天皇や人々の求める攘夷を実行したい。そして、幕府を自分たちで動かすことを考えた・・・」というように見える。幕府と接触することは、まさに虎の尾を踏む覚悟だったにちがいない。
 大川周明は、これを“天下危急の際に、隅々幕府が勅諚を奉じて攘夷を断行すると云ふ以上、短臂徒手(素手のこと/たんぴとしゅ)では何事も出来ないから、逆に幕府の力を利用して尊攘の素志を遂げようとしたものである。”と解説する。
 同時に幕府では、浪士の取締りに手を焼いていた。浪士の中には一芸一能の逸材も多く、これをよく活用すれば有用の力となる。たまたま、清河八郎より幕府へ浪士組結成の建白があったという。ちなみに八郎が提出した「急務三策」の内容は「攘夷」「大赦」「英才の教育」の3つで「浪士組結成」という具体的な内容は盛り込まれていない。
 また、 「江戸市中を徘徊する浪人の取締りに手を焼いた幕府・松平主税助がその浪士たちをもって一隊を編成し、将軍上洛の警衛として京都に派遣すれば、江戸市中の浪士は減り京都も静かになるという浪士組編制案を出した。その案は松平春嶽(慶永)の決定で実行に移された。」ともいわれる。
 他方で、獄中の石坂周造と池田徳太郎が「志士の大赦」と「浪士募集」の必要とを力説した書を獄吏ルートで提出したものが認められて、近衛関白から「浪士募集の命令」が下された。幕府はこれを無視できなかったはずだ。
 松平春嶽は、幕府内に反対があったがそれを抑えて「浪士組」をつくることにして松平主税介に浪士取扱を命じた。当初、松平主税介は宮和田光胤に浪士組責任者を依頼したが断られたという。そして、松平春嶽の内意によって浪士募集に清河八郎の協力を求めた。そのため、八郎は表面にこそ立たなかったが、この求めに応じ、同志の石坂周造、池田徳太郎、弟の熊三郎らを関八州に遣わして募集させるなどした。浪士募集の一切の計画は清河八郎の意中から出ていたと言われる所以だ。これまで諸藩の志士たちと広く交際してきたことも実をむすんだ。
 「・・・その結果、八郎の処罰は取消しとなった。八郎は浪士組取締役に山岡鉄太郎と松岡万を加え組織を固めた。」
 ちなみに浪士組と浪士募集について、
 柴田錬三郎は、「表面は松平、鵜殿(うどの)の名であったが、一切の画策 一切の謀議は黒幕の統帥清河八郎の胸中よりでた。・・・」と説明し、
 大川周明は、「一切の策略 ことごとく八郎より出で、八郎の旨(むね)を受けて 石坂周造、池田徳太郎の両人が、関東八州にかけて必死に遊説を試みた。」と説明する。
 幕府内の交渉は山岡と松岡が、公家への交渉は池田と石坂が・・・と、幕府と公家双方の2重の交渉ルートができ、公家ルートでの工作(関白の命で採用)が、名目上の浪士組の結成の根拠となり、幕府の組織として浪士組の募集がなされた、という構図となる。
 ところで幕府の浪士組の募集は、将軍家茂が上洛するための警護のためとか、京都警戒ための人材募集が目的であったともいわれる。この将軍の上洛は、攘夷実行が不可能(無理)であることを朝廷に説得するための上格だったのだが、結果として、逆に攘夷を実行することを約束させられてしまうという逸話だ。
 浪士募集には攘夷という建前の目的があったことはあまり知られていない。幕府には、浪士組で兵を集めたことは「朝廷や世間に対して攘夷の姿勢を見せ」られるというメリットになる。また、「江戸市中にさまよう憂国の志士、浪士たちを集めて京都にやっかいばらいできれば」という思惑もあったとされる。
 これまでのところを、より仮説を含めて踏みこんだ考えでまとめると、八郎たちは文久の改革をチャンスととらえ、(初の)攘夷実行のため危険な幕府に近づいていった。なんとか攘夷実行へとつなげたいが幕府はなかなか動かない。そんな時、急務三策などで提案してきたことの流れからか浪士組の責任者の話が持ち上がった。そして幕府が約束した攘夷実行とこの浪士組とが結びつく。浪士組(攘夷、将軍警護などの目的)を募集し結成した後には、幕府からの命令ではなく直接天皇から許し(勅諚)を得て幕府の約束していたとおり幕府の代わりに攘夷を実行する・・・そのようなストーリーだったように見える。
 偶然もあったのかもしれないが、おそらくほとんどが思いつきではなくある程度ははじめから山岡や虎尾の会の一部とは示しあわせた内容だったろう。虎尾の会の拡大版、浪士組を組織して強烈に攘夷へと進んだ。 八郎が虎尾の会とともに起こし 隠密無礼討ちで挫折した 虎尾の会事件の攘夷実行への再チャレンジとも捉えられる。
 ◎ 経緯は次のようになる。
・1862/ 1/ 3 (文2/11/14): 松平主税乃助(ちからのすけ)、講武所で浪士組の募集を始める
・1863/ 1/22(文2/12/ 3): 松平春嶽、松平主税之助を講武所剣術教授方兼任のまま、“浪士組取扱”に任命される
・1863/ 1/27 (文2/12/ 8): 幕府の浪士組募集の決議
・1863/ 1/28(文2/12/ 9): 主税助、「浪士取扱」に任命される
・1863/ 1/29(文2/12/10): 主税助、宮和田光胤に浪士組責任者の依頼をする
・1863/ 2/  1(文2/12/13): 宮和田光胤、主税助の屋敷へ行き、浪士組の依頼を断る
・1863/ 2/ 3(文2/12/15): 徳川慶喜、京畿警備のため、江戸を出発。
・1963/ 2/ 7 (文2/12/19): 浪士徴募の命令
  (文久2年12月ごろ、松平春嶽(慶永)と山内豊信は浪人牽制策として浪士組を作り、八郎と山岡鉄太郎などの協力を求めた)
・1863/ 2/12(文2/12/24): 鵜殿(うどの)鳩翁、浪士組取扱就任
・1863/ 2/14(文2/12/26): 池田、石坂、熊三郎の赦免
・1863/ 2/17(文2/12/29): 幕府の浪士募集の命令(板倉閣老から松平主税之助へ)
・1863/ 3/ 7(文3/ 1/18): 八郎の赦免
・1863/ 3/22(文3/ 2/ 4): 主税介、浪士取扱を辞任
・1863/ 3/23(文3/ 2/ 4): 英国軍艦、横浜港来航
・1863/ 3/22(文3/  2/ 4)~  
・1863/ 3/23(文3/  2/ 5): 浪士組採用試験(浪士組募集50人に対し、予想外の250人が集まる)
・1863/ 3/24(文3/ 2/ 6): 浪士組編成終了(結成)(234名八郎除く)
・1863/ 3/26(文3/ 2/ 8): 浪士組、京都へ出発
・1863/ 3/31(文3/ 2/13): 将軍・家茂が老中その他約3000人の供を従えて江戸を出発
・1863/ 4/10(文3/ 2/23): 浪士組、京都壬生寺に到着
・1863/ 4/21(文3/ 3/ 4): 将軍・家茂が 攘夷実行の不可能を説くために229年ぶりに上洛

 八郎は浪士組の責任者となった。幕府上層部と、八郎・虎尾の会との思惑は違う。違う思惑が複雑に絡み合い、浪士組の編成が進んで行く。幕府のこれまでの口約束だけの攘夷実行を、八郎たちが本気で行おうとしていたとは誰も想像だにしてなかっただろう。 そして、攘夷の実行と阻止について幕府との攻防、策の駆け引きが繰り広げられていく。
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最終更新日  2020年05月07日 22時44分58秒
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