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2021.09.09
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カテゴリ: 宜野湾市

(野嵩の屋号図/西門ガジュマル)

沖縄本島中南部の宜野湾市東方の石灰岩大地で、米軍普天間基地に隣接する地域に「野嵩(のだけ)集落」があります。「野嵩」は方言で「ヌダキ」と言い、1671(康熙10)年に宜野湾間切が設置される以前は中城間切に属していました。戦前まで「野嵩集落」の主導者達は「アシビ(歌、三線、踊りなどを楽しむ祭事)こそムラの繁栄とムラの人の健康に繋がるもの」と認識して、本島中部において群を抜く「アシビ」の地域として賑わいました。


(イーヌタキ/上ぬ毛のうたき)

「野嵩一区公民館」西側の山頂に「イーヌタキ」の拝所があり「イーヌモー御嶽」や「上ぬ毛のうたき」とも呼ばれています。集落の「北の神」と言われるこの御嶽は、1982(昭和57)年の改修でコンクリート製の祠が建てられました。マールアシビ(豊年祭)の前に演者達が「イーヌタキ」に登って歌い、ムラヤー(当時の公民館)まで声が届くかを調べて祭りの配役を決めるビーシラビ(声調べ)が行われました。現在「イーヌタキ」の祠内には霊石が祀られています。


(ミーガー跡)

「ミーガー跡」は「野嵩一区公民館」の北側に位置しています。首里王府の指令で新松川(屋号)の祖先が掘った井戸だと伝えられています。水量は豊富で沖縄戦の最中には多くの人が利用しました。市道の建設により井戸は埋め立てられ現在は碑と祠が建てられています。「ミーガー跡」から「イーヌタキ」に向かう坂道があり、この付近は"字野嵩西門原"と呼ばれていた事から「西門坂(イリジョウビラ)」と地域住民から親しまれています。


(トゥニムートゥ)

(根屋/ニーヤーの拝所)

「野嵩一区公民館」の敷地内に「トゥニムートゥ」と呼ばれる拝所があります。集落の守り神である"天の神、地の神、竜宮の神"が祀られており、旧暦8月15日の「ウチチウマチー」と呼ばれる収穫祭に祈願されます。さらに東側には「根屋/ニーヤーの拝所」があります。集落の発祥に関わる家の拝所で、マールアシビ(豊年祭)の際に祈られます。拝所の内部には4基のウコール(香炉)が祀られ、それぞれ花瓶と湯呑みが設置されています。


(ヌンドゥンチ)

更に東に進むと左側に「ヌンドゥンチ(ノロ殿内)」があります。「野嵩ノロ」を輩出した家でマールアシビ(豊年祭)行列の出発点となっています。「ヌンドゥンチ」とその斜め向かいの東中加(屋号)の仏壇を拝んでからエイサーを踊りながら練り歩く「道ジュネー」が始まるしきたりになっていました。また「ヌンドゥンチ」ではマールアシビの衣装や旗頭、五穀豊穣をもたらす来訪神のミルク(弥勒)の面を管理していました。


(野嵩クシヌカー)

「ヌンドゥンチ」の東側に宜野湾市指定史跡の「野嵩クシヌカー」と呼ばれる立派な石積みの井泉があります。「野嵩集落」の"ムラガー"で住民の生活用水、赤ちゃんのウブミジ(産水)、正月のワカミジ(若水)を汲む井戸として人々の暮らしを支えてきました。水量が豊富で沖縄戦の最中は軍作業の洗濯場として利用されていました。「野嵩集落」で最も規模が大きいこの井泉は現在でも枯れる事なく水が湧き出ています。


(ハウスナンバー32)

(MP事務所)

1945(昭和20)年4月1日に沖縄本島に上陸した米軍は、3日後「野嵩集落」に民間人収容所を設置しました。そのため集落は攻撃対象にならず破壊を免れた民家の母家をはじめ、家畜小屋に至るまで収容所として使われました。この家のヒンプン(衝立)に記された「32」は収容所を管理する米軍が付けた番号で、当時163番まであった番号は現在32番のみ現存しています。この家の東側には「MP(憲兵隊)事務所」として利用されていた屋敷があり、戦後は集落の警察署として使われていました。


(ウガンヌカタ/う願のかた)

「野嵩集落」の北東端で、県道29号線(那覇北中城線)と県道35号線(本町通り)の交差点「安谷屋(南)」付近の丘稜に「ウガンヌカタ(う願のかた)」の御嶽があります。集落の「東の神」であると言われ旧暦8月15日の「ウチチウマチー(収穫祭)」の際に祈願されています。この行事では集落の住民が「ウガンヌカタ」に神酒を貰いに行く伝統のしきたりがありました。現在、拝所の祠内には霊石が祀られています。


(野嵩石畳道/袖離れ坂)

「ウガンヌカタ」から県道29号線を渡った東側に「野嵩石畳道」があります。琉球王国時代に整備された首里から中城間切への宿道の一部で「野嵩集落」から「我謝橋」までの高低差34m、長さ120mの急坂に造られた石畳道です。古老によると「護佐丸・阿麻和利の乱(1458年)」の際、阿麻和利の軍勢により敗れた護佐丸の妻子が石畳道を渡って逃げていました。その時に追っ手に射かけられた弓矢により彼女の着物の袖が引き離された事から「袖離れ坂(スディバナビラ)」と呼ばれています。


(ウフグティ)

「野嵩集落」の最南端にある墓地群に「ウフグティ」と呼ばれる牛が座っているように見える巨大な石灰岩が集落の「南の神」として祀られています。隣接する北中城村「新垣集落」に向いていおり、名前の由来は「ウフ(大きい)」「グティ(牡牛)」と伝わっています。普天間川を挟んで「新垣集落」の「ガンワー」と呼ばれる岩が吠えると「野嵩集落」に病気が流行ると言われ、「ウフグティ」が天から落ちてきて「新垣集落」に吠えると病気がなくなったと伝わっています。


(ビンジリの拝所)

「野嵩集落」の最西端で米軍普天間基地沿いの場所に「ビンジリの拝所」があります。集落の「西の神」と言われ、元々は山林でしたが普天間飛行場の建設用に採石されて大きな窪地になっていました。現在は埋め土で平地になり駐車場として整備されています。西側に隣接する「新城集落」に向けて建てられおり、集落の西側から悪霊を追い払う魔除けや守り神として崇められていました。「ビンジリ」とは霊石信仰の「ビジュル」を意味し、現在は拝所として住民に祈られています。


(メーヌカー)

(地頭火の神)

「ビンジリの拝所」から集落の中心部へ東に進むと「メーヌカー」の井泉があります。石積みの"ムラガー"で生活用水、ウブミジ(産水)、ワカミジ(若水)を汲む場所として人々の暮らしを支えてきました。「メーヌカー」の北側には「地頭火の神」があり「野嵩集落」の火の神を祀る集落の守り神と言われています。「野嵩集落」では戦中戦後の混乱期には伝統行事も途絶えましたが、生活が安定した今日では「ちなひちもうい」「ウチチウマチー」「マールアシビ」が復活して「野嵩集落」の人々の暮らしに大切に受け継がれているのです。






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最終更新日  2022.03.06 23:18:25
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