ブランド品取扱所

ブランド品取扱所

ブランド会社の歴史



エルメス →高級馬具商として初代のティエリ・エルメスがパリに開業したのは、1837年のことでした。確かな職人の技術は誰もが認め、万国博覧会でのグランプリ受賞やナポレオン三世、ロシア皇帝ご用達を拝命するなど、最高級馬具店の地位を築いていきました。

20世紀初頭に旅行鞄やハンドバッグの製作を始め、時計、スカーフ、など次々にアイテムを広げました中でも、自社工場生産のバッグは世界中に愛好家が散在し、今や何年も待たなければお目当てのバッグが購入できないといった盛況ぶりです。近年ではプレタポルテも発表し、トータルファッションブランドとしてさらに躍進を続けています。

1837年、当時36歳だった馬具職人のティエリ・エルメスがパリ、ランパール通りに高級馬具のアトリエを開いた。エルメスの輝かしい歴史の幕開けである。
1880年には2代目のシャルル・エミールが現在エルメス本店のあるフォーブル・サントノーレに 移転。製造、卸だけでなく、直接販売を始めた。

1900年代、時代を見越したエルメスは事業を多角化し、3代目のエミール・モーリスは1903年にアメリカでフォードが自動車 の大量生産を開始したことから、馬車の時代が去り、自動車の時代が来る事を確信し、ライフスタイルもファッションも行動的になった女性たちに注目し、革のバッグやベルト、財布などの製作を始める。

1930年代までにはエルメスは革製品にとどまらず、時計、宝飾品、フレグランス、ウェア、食器など様々な分野にも進出、市場も世界中に広がっていった。
その後もクリスタルのサン・ルイ、靴のジョン・ロブなど有名なメーカーとの合併吸収も積極的に行っている。これは事業の拡大というよりも失われていく伝統を守りたいという、職人芸を何よりも大切にしてきたエルメス・スピリットの表れといえるだろう。それが、世界の王侯貴族をはじめ、あらゆる人々に愛されるエルメスの魅力である。

エルメスのバッグはすべて一人の職人により作られます。 縫製はクウジュ・セリエという手法を用い、1本の糸の両端に針を通し革に打たれた縫い目の両側から糸をクロスさせて縫っていくため多大な手間と熟練を要します。また、エルメスのバッグには、必ず製造刻印が入っている。ケリーやバーキンなら、クローシェの裏側に刻印されていて、四角のアルファベッドが製造年を表しその他がアトリエと職人を表します。エルメスの効率よりも品質が優先する職人気質を最もよく表した部分と言えるだろう。

ルイ・ヴィトン →1896年、世界で最初にモノグラム柄を用い、2代目のジョルジョ・ヴィトンが考案したL、Vと花と星を組み合わせた模様は王侯貴族をはじめ、上流社会の人々を魅了した長い歴史と伝統を持つブランドの精神、テイストはルイ・ヴィトンの神髄。

現在は、アーティスティック・ディレクターにたくさんの驚きをもたらしてくれるクリエーターマーク・ジェイコブスを起用。新しい息吹を感じさせるコレクションで、モード界に新風を吹き込きこんでいます。

1835年、ルイ・ヴィトンが14歳のとき徒歩でパリに向かい2年間働きながら旅を続け、ようやく1837年パリにたどり着き 荷造り用木箱製造兼荷造り職人の見習いとなる。上級階級の人々の「荷造り職人」となったルイ・ヴィトンは、頑丈で美しい木箱を作る技術で次第に頭角を現わしました。
1854年、パリに世界初の旅行鞄専門店を開業しました。荷造り用木箱職人として修行していた彼の作るトランクは斬新な工夫によってたちまち人気となりました。「トランクは豚革」という当時の常識を覆した丈夫で軽い防水性のキャンバス地を採用。さらには蓋が平らで積み重ねることができるデザインも人気を呼びました。

1859年、ルイ・ヴィトンのアトリエをアニエールに設立。

その後ルイ・ヴィトンは、97年に再び商品化された市松模様「ダミエ」を考案。

1896年、ジョルジュ・ヴィトンのアイデアで、「モノグラム」が誕生しました。茶色の地に、ベージュでLVのロゴと日本の家紋からヒントを得た花の略図をあしらったモノグラムの柄は、キャンバス地にコーティングを施した素材にプリントされ、このブランドのシンボルとなったのです。

1986年、麦の穂をデザイン化した型押し革による「エピ」を発表。

1993年、メンズ向けの「タイガ」、カーフを使った格式高い「オペラ」シリーズと、そのラインナップを確実に広げていきます。

1998年、アメリカ人デザイナーであるマーク・ジェイコブス氏をアート・ディレクターに迎え入れ、プレタポルテへの参入を表明。「旅行」だけでなく日常にも取り入れられる幅の広いラインアップが、現代の新生ルイ・ヴィトンの飛躍へとつながったのです。中でも衝撃的だったのは、「ヴェルニ・シリーズ」の発表。エナメルのような光沢と息をのむほど鮮やかなカラーを持つヴェルニは、世界中で大ヒットし、新生ルイ・ヴィトンの誕生を多くの人々に印象づける結果となりました。

シャネル →服を通じて女性たちに新しい生き方、そして新しいスタイルを提案してきたシャネル。シャネルのブランドの歴史は、20世紀を生きた女性たちの歴史そのものと言っても過言ではありません。

ラガーフェルドがシャネルのデザイナーに就任して、今年で20年。シャネルのイメージに合わせて独特に解釈し、トレンドを鋭くとらえ、時代を超えて新しいスタイルを生み続けています。

1883年、フランスの田舎町に生まれたココ・シャネルことガブリエル・シャネルは小さいときから独立心が強く、その美貌とあふれる才能で経済力に富む男たちから保護を受け、初めての店となる帽子店を1910年にパリでスタートした。その後立て続けに1914年ドーヴィルや、1916年ビアリッツに店を出した。それまではシルクと宝石にくるまれていた女たちに、当時では考えられないジャージー素材の服を着せ、意表をついたコレクションで上流社会の話題を呼んだ。
1921年にはカンボン通りへとブティックをオープン、最初の香水となる、かの有名な「シャネル No.5」を発表。翌年には「シャネル No.22」続いて「ガーディニア」など立て続けに7つの香水を発表。

1924 パルファン・シャネル社創立。

1925年あたりから現在の“シャネル調”といわれる作風に磨きがかかり1926年にはシャネルの歴史に残る「リトルブラックドレス」を発表。

1928年にはツイードで仕立てた初めての紳士物のスーツを提案、最初のスーツには、シャネルのために特別にスコットランドで織り上げられたツイードが使用される。

1930年には映画スターのための衣装を作製するためハリウッドと契約、翌年、映画『今宵こそは』に出演の女優グロリア・スワンソンの衣装をシャネルが手がける。

1934年にはコスチューム・ジュエリー専門のアトリエを作り、コスチューム・ジュエリーのコレクションを展開するなど、着々と事業を拡大し、黄金時代を築いていく。

1935年には従業員数4,000人、年に28,000点もの作品を世界中に発売するなど全盛期となった。

1939年、第二次世界大戦が始まり、カンボン通りの5店の内、大成功を遂げていた31番地の香水とアクセサリーのブティック1店を除き、閉店。

1954年、カンボン通り31番地にメゾンを再びオープン。シャネル71歳。見事なカムバックを果たす。ジャージーを使用したスーツでコレクションを再開する。

1955年、ダラスにてスタンレー・ニーマン・マーカス氏により、20世紀の最も偉大なクリエイター」としてシャネルはモード・オスカー賞を授与される。
同年、男性用オードゥ トワレ《プール ムッシュウ》の発表。

1971年1月10日、シャネル死去87歳。シャネル追悼コレクション、大成功を収める。

1978年、プレタポルテ《シャネル ブティック》を発表。アクセサリーの販売を拡大する。現在、シャネルのブティックは世界中に60店鋪を超えるまでに成長。

1983年、フェンディやクロエのデザイナーとしても知られているカール・ラガーフェルドがシャネルのコレクションを担当する主任デザイナーに就任。パリのモンテーニュ大通り42番地に、2番目のシャネル ブティックをオープン。以後現在に至るまで、オートクチュールとプレタポルテ、化粧品、男性用オードトワレ、ジュエリー、ウォッチに至るまで幅広いアイテムで大きな成功を収めているのは周知のとおりである。

グッチ →グッチは品質保証をするため、世界で初めてデザイナーの名前を入れて商品を販売した元祖となるブランドです。グッチのコンセプト「最上の伝統を最上の品質で、しかも過去のよいものを現代に反映させる商品作り」を象徴しています。

1995年からアメリカよりクリエイティヴ・ディレクターとしてトム・フォードを迎え、新生グッチは伝統を守りながらも新鮮な感動を併せ持つブランドとして世のお洒落さん達の心を魅了しています。

1921年、GUCCIの創業者グッチオ・グッチは故郷フィレンツェ(イタリア)で革製品の輸入・販売店を開業、翌年にはフィレンツェ伝統の職人技術による、ハンドメイドの高級革製品の店を開くことになりました。GUCCIの歴史はココから始まります。最高の皮職人達が創り出す革製品は、その品質の高さから大好評となり、一躍高級ブランドとしての地位を確立します。

1935年、国連による経済制裁で、イタリアは他国との貿易が禁止。皮革の入手が困難となったグッチの経営はたちまち危機に晒されたが、グッチオと彼の息子アルドは、在庫していた原皮を極力減らさないように、皮革以外の素材を組み合わせて製品を作ることを考えました。そうして生まれたのが、竹と革を組み合わせた、GUCCI最初のブランドアイコン製品である「バンブーバッグ」です。

1938年、フィレンツェでの圧倒的な成功を基に、ローマに新店舗をオープン。アルドは自社のバッグに自らがデザインを引き、創業者グッチオ・グッチのイニシャルのGをふたつ組み合わせた、いわゆるGGマークを完成させたのです。

1950年代に入り、ストライプ・ウエビングや、メタルビット付きモカシンシューズ等を発売しこれらも大ヒットとなりました。

1953年、GUCCIの創業者グッチオ・グッチが死去。グッチはその息子や孫に受け継がれ、同年『GUCCIニューヨーク店』オープン。コレに伴いGUCCIは『世界的な高級ブランド』として、その名を知られるようになります。 

この頃になると、『ローマの休日』で知られるオードリー・ヘップバーンや、アメリカの大女優でモナコ王妃となったグレース・ケリー達に愛用され、GUCCIはシックなハリウッドスタイルの代名詞になりました。

また、ジャッキー・ケネディ(故ジョン・F・ケネディ大統領夫人)がGUCCIのショルダーバッグを愛用、そのバッグは1999年に再登場し「ジャッキーバッグ」などの名前で知られており、クラシカルでモダンな定番アイテムとして人気が再燃しています。

1970年代、香港や東京といったアジアへの新規店舗をオープンさせました。 

しかし、この頃からGUCCI内部では経営的な内部紛争が絶えず、2代目アルド・グッチのやり方を快く思わない者も出てきます。これが実は後のGUCCIに大きなスキャンダルを起こし、GUCCIが深刻な経営の危機に陥る原因になります。

1980年代、今のGUCCIからは考えられない事ですが、実はこの時期GUCCIは深刻な経営の危機に陥ります。血族間での覇権争いによるスキャンダルや不況のあおり、またGGプリントのバッグが塩化ビニールによって大量生産され、希少価値が薄れ、GUCCIのブランドイメージは著しく低下しました。

1989年、ドーンメロー女史が副社長兼クリエイティブディレクターに就任。抜本的な企業改革に着手。市場に溢れ過ぎてしまった商品から種類を絞り、伝統的なバッグに現代的な味付けをして発表すると、世界的な話題になり、GUCCIには再び経営改善の兆しが現れます。

1994年、トム・フォードが全てのデザインコンセプトをコントロールするクリエイティブ・ディレクターに就任してからGUCCIは再び快進撃を始めます。新生GUCCIの誕生です。トムフォードは、95年VH-1(VH-1 Fashion and Music Awards)のファッションズ・フューチャー・ベスト・ニュー・デザイナー賞、 96年VH-1 メンズウェア・アンド・ウィメンズウェア・デザイナー・オブ・ジ・イヤー、 99年VH-1 ウィメンズ・デザイナー・オブ・ジ・イヤー等を次々に獲得し、世界で最も注目されるデザイナーとして活躍。トム・フォードの活躍によりGUCCIは倒産の危機から世界最高の人気を誇るブランドとしての復活を遂げました。

プラダ →「日常を贅沢に飾る」をコンセプトとしているプラダ。創業者のマリオ・プラダの孫娘である現デザイナーのミウッチャ・プラダは、洗練されたライン、上質であり的確な素材選びにより徹底したミニマリズムからスポーツミックスまで最新鋭の技術を擁しています。

そして独特の女性の内面を表現するセンスにより、女性の心を魅了しています。

フェンディ →革新的な毛皮デザイン、優れたクリエーティビティ、そして、上質の皮革製品を生み出すイタリア伝統のクラフトマン精神により、ミラノコレクションの華として輝き続けているフェンディ。

現在はフェンディのアイコンとして親しまれるようになった「ダブルF」、350種類以上のバリエーションがあるバゲットパンに形がにていることから名付けられた"バゲット"は大人気商品となっています。

コーチ →日本でも有名なcoachは1941年マンハッタンのロフトからスタートしたアメリカの代表的高級レザーグッズブランドです。野球グローブにヒントを得て、ハードな使用に耐え、しなやかで色落ちしにくい独特の皮素材を開発。

'96年にはクリエイティヴディレクターにリード・クラッコフ氏を迎え、伝統的かつモダンなラインがますます充実しております。

バーバリー →美しいバランスを持つ独特の「バーバリーチェック」で有名な英国の伝統ブランド。第一次世界大戦でトレンチコートとして着用され、南極点到達などの冒険にも貢献。英国王室御用達ブランドとしても知られています。「バーバリーチェック」は傘、バッグやマフラーなどファッションアイテムにも展開し、現在、色の組み合わせは約20種で、300点以上の商品に使用されています。

バーバリーの愛好者は、作家、俳優、女優、政治家など各界著名人に多く好まれて、欧州22カ国の国王、東洋14カ国の君主など王室や貴族界にも愛好者は多いです。

ハンティング・ワールド →ハンティング・ワールドの設立者、冒険への憧れと野生動物の保護に対する思いを持ち続ける探検家ロバートM.リー(ボブ・リー)。彼の思いが込められたハンティングワールドのコンセプトはEXPLORATION(探検)、CONSERVATION(保護)EDUCATION(教育)です。

商品は機能的、そして厳密にチェックされており、世界中のファンに愛されているブランドです。

ジャンニ・ヴェルサーチ →"アトリエ・ヴェルサーチ"としてオートクチュール メゾンも開設している、驚くなかれの名門ブランドのジャンニ・ヴェルサーチ。ドナッテラ ヴェルサーチによる芸術的センスを誇るジャンニ・ヴェルサーチは常に美しいスタイルを演出します。

シンプルですが個性の強い美しさを哲学にミラノの人気ブランドの一つです。

ポール・スミス →イングランド中部のノッティンガムに生まれたポール・スミス。デザイナーとしてのスタートを切り常にトレンドを予知してきました。彼はポール・スミス・ルックを「ひねりのあるクラシック」と定義しています。

その、品質にひねりや、遊び心を加えたところが、日本のファンの心をつかみ、人気あるブランドになっています。

プリマクラッセ →一面に描かれた中世の世界地図の絵柄で親しまれるイタリアブランドのプリマクラッセ。大航海時代のロマンが薫る風格と感触が、当時の貴族たちの夢を現実に感じさせてくれます。世界中に名門のイタリアンブランドとして広く人気があります。

プリマクラッセに関しましては1点1点商品の絵柄が異なる為 出品画像と御購入商品の絵柄が異なります、御了承下さい。

ボッテガベネタ →業1966年に北イタリアのヴェネツィアに誕生したボッテガベネタ。ヴェネト州に伝わる革工芸の技術をアレンジして、イントレチャートラインというソフトなメッシュのバッグを開発し、幅広い層の人気を集めました。

デザイナー、トーマス・マイヤーがクリエイティブ・ディレクターに就任した2001年以降、快進撃を続けているボッテガ・ベネタ。要チェックブランドです!!

ワコ →[WACO]は1993年頃~1996年頃まで免税店にて販売されておりました人気の良質高級ブランドです。バック本来の機能性をシンプルさの中に追求し、様々なライフスタイルに対応致します。実用性を基本に、トレンドをも意識したデザインになっております。コーディネイトした時に、でしゃばり過ぎない落ち着いた雰囲気。何処となく気品の感じられるバックです。

素材は良質牛革を使用し、さらに独自の製法により人気のグローブ革質に仕上げております。使い込むほど馴染み、年数が経つほど良い雰囲気がでます。

ロディス →ロディスはUSAのレザーグッズブランドです。カバンのみならず、サイフなど各種レザー商品を取り扱い、他の有名ブランドと同じ品質を兼ね備えたバックです。最高級のソフトレザーを職人が一つ一つ手作業で仕上げたハイグレードなバッグです。

その機能性と品質(高級牛革使用)は知る度に満足して頂けると思います。また、ビジネスや旅行などさまざまなスタイルに於いて、一年を通してお使い頂けます。

カルティエ →1847年、金細工師を父に持つルイ フランソワ カルティエが、宝石商で師匠のアドルフ ピカールから、パリ、モントルゲイユ街31番地のアトリエを譲り受ける。メゾンカルティエの誕生です。

1856年、大のカルティエびいきだった皇帝ナポレオン3世の従妹マチルド皇女が初めてカルティエを訪れ、夜ごと開かれる華やかな舞踏会の為の宝飾品を買い求める。

1859年、カルティエ、イタリアン大通り9番地に進出。

1874年、伝統を樹立する為2代目アルフレッド・カルティエが父から経営権を受け継ぎ店の経営を任される。

1888年、 最初のブレスレッド ジュエリー ウォッチを製作。

1898年、 アルフレッドの長男ルイ・ジョゼフ・カルティエ(1875-1942)が共同経営者となり、社名をアルフレッド・カルティエ・&フィスと命名しました。翌年新しい世紀の到来に向けてリュ・ド・ラ・ぺ13通りへの移転を決めました。

1902年、 カルティエ ロンドンがオープン。ロンドンで行われるエドワード7世の戴冠式のための王冠と、列席する世界中の王室から27ものティアラの注文を受けていたのです。

1904年、ルイ カルティエは友人である当時飛行家として一世を風扉していたブラジル人飛行士アルベルト サントス デュモンの「飛行機の操縦桿から手を離さずに見ることのできる時計が欲しい」というリクエストのためにレザーストラップ腕時計を製作。完成した時計は、とてもエレガントでありながら実用的。これがカルティエ初の男性用腕時計です。後の1911年、このモデルは「サントス デュモン」として発売されました。 同年ルイ フランソワ カルティエ死去。

1906年、 ジャック カルティエ、ロンドン店の経営者となる。抽象的、幾何学デザインの「アールデコ」ジュエリーを試作。初の量産型腕時計、ブレスレッド・ウォッチ「トノー」を製作。

1908年、ルイがパリのオークションで買い上げたブルーダイヤモンド「ホープ」をピエール・カルティエが販売。「C」を組み合わせたロゴマークが誕生する。

1911年、1904年の友人のために製作したモデルを原型にした腕時計「サントス・デュモン」を発表。

1912年、 パリ市議会、カルティエの「皇帝の卵」を皇帝ニコラス2世に贈呈(現在はニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されている)。最初のバケットカットのダイヤモンド創作。「コメット」クロックの発売。
1913年、28歳の天才時計師、モーリス・クーエが初のミステリークロック「モデルA」を発表。水晶の中に文字盤が浮いているように見えるため、この名がある。

1914年、 パンテール(豹)モチーフを初めて採用。当時の女性ディレクター、ジャンヌ・トゥーサンのあだ名がパンテールだったことによる。パヴェ ダイヤモンドとオニキスのパンテールがベゼルを飾る婦人用オーバル ブレスレット ウォッチを製作。

1917年、ピエール カルティエが55個と73個の2連真珠ネックレスをモートン F.プラント邸と交換したことによりカルティエ ニューヨーク店は5番街653番地に移転。

1919年、 腕時計「タンク」を発表。

1923年、門形ミステリークロック「ビリケン」誕生。

1924年、トリ二ティリング、いわゆる3連リングが誕生。ルイ・カルティエは、優れた詩人であり芸術家であるジャン・コクトーを称えてリングをデザインしました。それは、友情を表すホワイト、忠誠を表すイエロー、愛情を表すピンクとそれぞれ異なる色のゴールドを組み合わせ土星をモチーフに作られています。永遠の愛のシンポルであるカルティエ スリーゴールドの誕生です。

1925年、アルフレッド カルティエ死去。

1929年、カルティエ、サンモリッツに支店を開設。

1931年、グラモン公爵のために、初めてアカデミーフランセーズ会員の剣を製作。「ミステリー懐中時計」を発表。

1933年、 ジャンヌ トゥーサンがカルティエ高級宝飾部門の全権を委任。見えないセッティング(通称 "ミステリーセッテイング")の特許権取得。

1942年、ルイ カルティエ死去。同年ジャック カルティエ死去。

1945年、ピエール カルティエがカルティエ パリとカルティエ ニューヨークの社長に就任。ジャックの息子のジャン ジャック カルティエがカルティエ ロンドンを経営。

1948年、ルイの息子、クロード カルティエが、パリに戻った祖父のピエールからカルティエ ニューヨークの社長を引き継ぐ。

1955年、 ジャン コクトーのために、彼自身のデザインによるアカデミー フランセーズ会員の剣を製作。

1965年、ピエール カルティエ死去。

1967年、次々と新しいスタイルが生まれます。ロンドンのアトリエでは事故で大きく損傷してしまった腕時計からインスピレーションを得て、クラッシュウォッチが創作されました。変形したケースが目を引くこの腕時計は、今日、時計コレクターの垂涎の的になっています。

1968年、カルティエ ブランド初のオーバル型高級ライター(収納式ローラー)の誕生。

1970年、大ブームを起こし、すでに定番にもなっている、ビスで留められている「ラブブレスレット」や「ラブリング」が若きデザイナー、アルド・チプロによりカルティエニューヨークの為に作られました。

1972年、ジョゼフ カヌイを中心とする投資家グループがカルティエ パリを買取り、ロベール オックがカルティエ パリの社長に就任。カルティエ各店および代理店を通じて売る時計のニューコレクションを発表。

1973年、新コンセプト「レ マスト ドウ カルティエ」を発案推進したアラン・ドミニク・ベランは、伝統あるメゾン、カルティエに若さとモダニズムの息吹を吹き込み、以後カルティエに多大な影響を与えています。 同年ビアリッツとシンガポールに最初の「レ マスト ドゥ カルティエ」ブティックがオープン。

1976年、「レ マスト ドゥ カルティエ」ラインのヴェルメイユ腕時計のコレクションの発表。オーバルペン(楕円形万年筆)を発表。

1978年、スティール&ゴールドの腕時計「サントス」を発表。カルティエ スカーフ初のコレクションを発表。

1982年、ミシュリーヌ カヌイが宝飾部門の責任者となり「カルティエの芸術」をテーマとする彼女の最初のニュージュエリー コレクションを発表。

1985年、1943年の防水腕時計にヒントをえた腕時計「パシャ」を発表。

1986年、「パンテール」をテーマとする第3回ニュージュエリー コレクションを発表。 腕時計「マスト 21 ヴァンテアン」(オール スティール)を発表。 万年筆「パシャ ドゥ カルティエ」を発表。

1993年、10月23日カルティエ、ピアジェ、ボーム&メルシエ、ダンヒル、モンブラン、クロエ、カール ラガーフェルド、スルカ、ハケット、シーガーが参加するヴァンドーム グループ設立。 クロノリフレックス ムーブメント ウォツチ「パシャ、クーガー ドゥ カルティエ、ディアボロ」を発表。「マスト・ウォッチ」と「エリプス」リングを創作。 パステル調のクロコダイルの「ミニ パンテール ドゥ カルティエ バッグ」を発表。

1994年、ジュエリーのニューコレクション、「ゴールド チャーム」。アールデコ、サンペテルスブルグ、パールをテーマにした3つのジュエリー ウォッチ コレクション。ジュエリー「ナチュラ」コレクションを発表。 サントス デュモン ウォッチの90周年を記念して、プラチナとピンク ゴールドの限定版サントス デュモンを製作。男性用レザーグッズコレクション「ゴールド オン ブラック」を発表。

1995年、ウォッチのニューコレクション、「パシャ」と「パシャC」を発表。万年筆「ルイ カルティエ」を発表。 パルファン「ソー プリティ ドゥ カルティエ」を発表。

1996年、ウォッチのニューコレクション、「タンク フランセーズ」を発表。

1997年、カルティエは創業150周年を迎える。ブレスレット「アニバーサリー」発表。

2002年、新作時計「ロードスター」発表。

クリスチャン・ディオール →1905年、フランスのノルマンディーで裕福な実業家の家に生まれる。外交官を志して、政治学院に学ぶが、在学中に当時、台頭していたシュールレアリスムに魅せられ、友人と画廊を開設。ダリやコクトーなど多くの芸術家と親交を深めるが、30年代の恐慌に見舞われ失職。このとき、友人からデッサンを習い、1938年、ロゲール・ピゲに見込まれてモード界に入る。後に、ルシアン・ルロンのメゾンへ移る。

1946年、当時41歳のクリスチャン・ディオール(1905年1月21日生まれ)は、フランスの大実業家マルセル・ブサックと出会い、パリ・モンテニュー通り30番地クリスチャン ディオール オートクチュール メゾンが誕生する。

1947年、記念すべき第1回目の1947年春夏コレクションにて「コロールライン」と「エイトライン」を発表。丸みを帯びた肩に胸、ウエストは細く絞られ、スカートは布を贅沢に使い、ペチコートで膨らませたラインが踵まで伸びる女性らしさを引き出した華麗なスタイルだった。シャネルによって機能的な美しさがアピールされた後に、ディオールはフェミニンな美しさを改めて強調したのである。これを、ハーパース・バザール誌の編集長カーメル・スノウが「ニュー・ルック」と呼び、「クリスチャン・ディオールは、モード界に革命を巻き起こした」と絶賛した。
ディオールは、アメリカ、ダラスで、モード界のオスカーであるニーマン・マーカス賞を受賞。3つのアトリエ、90人の従業員、そして130万フランの年商、フランスのオートクチュールの輸出総額の75%を占めるに至った。

1948年、アメリカにおいてライセンス生産を開始。「クリスチャン・ディオール・ニューヨーク」を設立、そこがニューヨークの靴下会社プレスティージ社と契約し「クリスチャン・ディオール」ブランドのナイロンストッキングの製造を許可した。これが、ブランドによるライセンス生産のはしりといわれる。
また、バルファン クリスチャン ディオール社が設立される。オートクチュール、プレタポルテ、アクセサリーを扱う。
クリスチャン ディオール バルファン ニューヨーク社を設立。
パリ本社に、クリスチャン ディオール毛皮部門を設立。
続いて、48年にはジグザグライン、50年パーティカルライン、51年オーバル、52年シニュアス、53年チューリップ、54年Hライン、55年Aライン、56年アローラインと次々に発表し、センセーショナルを起こした。このシーズンごとに新しいラインを名づけて発表するというのもディオールがはじめたことである。これはマスコミにも一般大衆にもわかりやすくするためで、ディオールは戦後のファッション界が一部のお金持ちのためではなく、一般大衆の手にゆだねられることをこの時点で理解していたのである。

1954年、ロンドンにクリスチャンディオール支社を設立。パリ本社では、1、000人の従業員、29のアトリエ、5つのビルを持つまでになった。

1957年10月24日ディオールは53歳の若さで心臓発作により急逝する。若干21歳のイブ・サンローランが引き継ぐことになった。これにより、デザイナーの死後もメゾンは残り、ブランドを引き継ぐというビジネスモデルが成立することとなった。その後、マルク・ボアン、ジャンフランコ・フェレと引き継がれ、1997年からはジョン・ガリアーノがデザイナーとして君臨しています。

ブルガリ →ブルガリ家はギリシャの銀細工師の家系であった。創始者ソティリオ・ブルガリは、ギリシャのエピルスという小さな村で、銀製品を作る家に生まれた。幼い頃から秀でた才能を発揮したソリティオは、後に父の仕事を継承。だが1876年にセルビアがトルコに宣戦布告し、バルカン戦争が勃発。バルカン半島の戦争が激しくなると、一家は紛争の絶えない街を出てイタリアに移住した。

ローマに移住したソリティアは1884年にシスティーナ通りに最初の店をオープン。古代ローマとギリシャの文化が融合したブルガリジュエリーの誕生です。その後、息子のコンスタンティノとジョルジョの協力を得、1905年にはコンドッティ通りに店を移転する。これが現在のブルガリの本店である。

1932年、ソリティオ死去。父親の死後、兄弟が1932年にコンドッティ通りの本店を改装した際には、当時最も権威のある百科事典『トレカンティ』の「店」の項目に「美しくエレガントなファサード付きのインテリアのジュエリー店」として紹介されるという名誉も受けた。

20世紀初頭、宝飾品に魅せられた兄弟は、当時の宝飾界を支配していたアール・デコ、アール・ヌーヴォー、ロココといったフランスの宝飾様式を離れ、同じ形のモチーフを精巧に重ねて壮大に仕上げるというギリシャ建築の手法にヒントを得、ギリシャやローマの古典主義、イタリアン・ルネッサンス、そして19世紀ローマ派の金細工師たちに触発されたユニークなスタイルを宝飾に取り入れた斬新なコレクションを発表。その代表作の筆頭は、ローマやギリシャのアンティーク・コインをモダンジュエリーに取り入れたコレクション。肖像が描かれたコインが宝石のように美しくマウントされたコレクションは、歴史の素晴らしさを受け継ぎながら、それらをモダンなデザインにして蘇らせる…といったブルガリ・スタイルを確立する。

1970年代になると、海外第1号店のニューヨーク店、パリ、ジュネーブ、モンテカルロ店をオープン、ブルガリは国際的に発展を遂げる。

1977年に初めて発売されたブルガリ・ブルガリシリーズの時計も、その洗練されたデザイン力が高く評価され、20余年の間に時計のブランドとしても名を馳せるようになった。最高級の素材を用いながらカジュアルに仕上げたソロテンポやアルミニウムは、セレブリティにも幅広く愛されている。

1984~85年パオロ・ブルガリがグループの会長に、ニコラ・ブルガリが副会長に、そして二人の甥であるフランチェスコ・トラーパニが社長に就任して現体制が整った。

現在では時計をはじめ、香水、アイウェア、ホームウェア、バッグ、ホテル業とブルガリは総合ブランドとしての地位を確立しつつある。歴史からのインスピレーションに創造の源を見いだし、伝統的な細工技術と斬新なデザインを持つブルガリによって生み出された斬新なブルガリスタイルは世紀を超えて世界中の女性たちに愛され、21世紀に入った今もなお宝飾界をリードするジュエリーメゾンとして君臨し続ける。

ロレックス ROLEX
1905年にドイツ人ハンス・ウィルスドフが
ロンドンに店を構えてロレックスの歴史は始まりました。
3つの偉業を成し遂げました。
・腕時計で世界初の精度証明書
・世界初の真の防水腕時計ケース-オイスター
・パーペチュアルローターによる自動巻きメカニズムの発明

オメガ OMEGA
1848年にルイ・ブランが時計組立工房を設立
1903年にオメガに社名変更
1932年にシーマスターの前身マリーン開発
1948年にシーマスター開発
1970年にクォーツ時計を発表
月に降りた時計会社として有名である



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