北欧かぶれ

北欧かぶれ

2016年04月26日
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カテゴリ: ひとりごと
先日、図書館で見つけて借りた本。


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マリメッコで最も活躍したデザイナー、マイヤ・イソラ。


その生涯、デザイナーとしての仕事と功績、

そしてマリメッコで発表した約500もの作品が掲載されており、

とても読みごたえがありました。


10年前に発行された本なので

この本を読まれたことのある方はたくさんおられると思いますが、

みなさん、どういう感想をお持ちでしょうか。


私は。


・・・


マイヤの 男性遍歴 がとにかく気になって仕方なかったです。笑



そこ?

えっ、そこなの??


ですよね。


だってー

すっごいなーって思っちゃったんですー(*´з`)



ここからは興味のある方だけ、どうぞ♡(超長文です)



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1927年生まれのマイヤ・イソラ。


1945年7月、18歳で19歳年上の男性と結婚し、高校を中退します。

翌年の1月、娘のクリスティーナを出産。


Σ(゚∀゚)


まず、ここで「デキちゃった婚」が私の脳裏に浮上。笑


その後、マイヤは大学をあきらめ

ヘルシンキの美術工芸中央学校に進学します。

すでに夫婦生活は破たんしていて一緒に暮らしていません。


Σ(゚∀゚;)


当然、「子育てはどうなってんの?」と疑問がわきます。


1948年の夏、マイヤは生まれて初めてフィンランドを出て

美術の勉強のためノルウェーへ。


そして、その年の秋、離婚します。


(;´∀`)


そりゃそうなるね・・・という感想。笑



1949年、マイヤは学校で開かれたコンテストの審査員を通して

マリメッコの創業者であるアルミ・ラティアと出会います。

このあたりからマリメッコとの関係が始まります。


で、びっくりなことに

またまた学生の立場で結婚しちゃうマイヤ。


1949年、22歳で今度は11歳年上の男性と結婚。


互いに離婚歴のある2人はヨーロッパ中を放浪者のように旅し、

マイヤはこの男性から芸術に関する様々な事を学んだそう。


1952年には2人でマイホームを建てますが、

1955年に離婚する際にはこの家のせいで裁判が長引いたそうな・・・。

(その後、この家はマイヤのアトリエになります)


ちなみに、離婚理由は

「夫が芸術家、妻はその助手、という立場に反発を感じていたから」


\(゜ロ\)(/ロ゜)/


地味で物静かな印象だったとされるマイヤですが

実はそうでもないのかも。笑


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さて、マリメッコとの関係がより緊密になってきたのは

1956年のこと。


マイヤはいよいよマリメッコのデザイナーとして活躍し始めます。

(途中、一度マリメッコと勤務スタイルでモメて退社しますが

フリーランスという立場で活動することに落ち着きます。)


うーん、かなりの自由人?

懲りないのか、また結婚しちゃう。笑


1959年2月、仕事関係の男性と子連れ再婚します。

相手の男性には二人の息子がいました。


これまで娘クリスティーナとは暮らしていなかったマイヤ、

1960年暮れごろからやっと一緒に暮らし始めます。

(ただし、夏の間だけで、冬は何度か会うだけ・・・)


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そんなわけで娘クリスティーナも10代で結婚、出産します。

1964年、マイヤは36歳でおばあちゃんになります。


それでもこの母娘はとても仲が良かったというからスゴイ。

クリスティーナは回想しています。


「私が幼い時、マイヤは理想的なお手本だった。

青春期には友達だったし、仲間だった。姉妹のようにも見られた。

そして成人してからは、師であり、仕事仲間でもあった。」


(´Д`)


・・・

親は無くとも子は育つって感じですね・・・。


話を戻します。

やがてマイヤは結婚生活に嫌気がさします。


「どうして、二人の人間が全人生を一緒に過ごさなくてはならないのかしら」


のちに娘クリスティーナはこう言っています。


「父親、夫、恋人など、マイヤと男性との関係は熱愛であり崇拝でした。

マイヤは自らの作品に男性の存在を溶け込ませ、その一部にしていました。

そして、それと同時に、自分の独立性と自由を保とうとも努めていました」


・・・

つまり、ひとことで言うと、

「恋愛依存体質、でも自由でいたい、束縛されたくない」

ってことですよね?


どう考えても結婚に向いてなさすぎ。笑


1970年、マイヤは旅に出ました。

(離婚の時期は不明)


この時、パリで出会ったイスラム劇研究家のエジプト人男性アフメドとは

長く発展的な友情、そして恋愛へとつながっていき、

マイヤの作品にもアフメドの影響が色濃く出ました。


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1971年、パリからアルジェリアへ渡ります。


芸術家友達のフランス人男性と

のちに深い恋に落ちるモハメドという男性と暮らし始め、

ヴィラやビーチで自由気ままに過ごしながら芸術活動をしていきます。


(*´Д`)


南国でのバカンス、うらやましいけど・・・

なんかいろいろドン引き・・・


ちなみにこちらがモハメド↓↓


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ワーーーイーーールーーードーーー!!!!!!笑


でまぁ、モハメドに夢中のマイヤ(この時すでに45歳!)ですが

マリメッコの仕事も順調です。


マリメッコの女王、アルミ・ラティアはマイヤをとても信頼していて

アルジェリアにいるマイヤをサポートしていたようです。


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そんな最高の環境で過ごしていたマイヤですが、

1975年、恋人モハメドが別の女性(婚約者)と結婚。


傷心のマイヤはアルジェリアを去りました。。。

(ショックのあまり、マイヤはこの年マリメッコの仕事をしてません)



アルジェリアからパリに戻ってからは、

長らく友人であったアフメドと恋愛関係になります。


(;´∀`)


なんだこれ、ビバヒル??←古い

男友達が恋人に昇格するって思いっきり「あるある」。笑


1977年、そのアフメドとアメリカへ渡り、二人きりで過ごします。


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マイヤの男性遍歴についてはここまでしか書かれていません。

その後、アフメドとどうなったのかは分かりません。


もう50歳超えてますしね、

それ以上の色恋沙汰は知りたくない気もしますが。笑



1978年、この年はマリメッコとの共同作業がなく、

ここからマイヤは娘クリスティーナと二人組のデザイナーとして活動を始めます。

(2人の緊密な関係は、マイヤが引退する1987年まで続きました。)


1979年、マリメッコ創業者アルミ・ラティア死去。


あれだけ各地を放浪したマイヤですが

1979年以降はフィンランドに落ち着いたようです。


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引退後の1990年代後半、大型ファブリックパターンに関心が集まり

マイヤの1960年代のデザインが復刻され始めます。


2001年3月、マイヤ・イソラ死去。

娘クリスティーナ、孫娘エマ、ひ孫インミにみとられながら。



以上、

マイヤ・イソラのゴーイング・マイ・ウェイな生涯と

奔放な恋愛遍歴をまとめてみました。


・・・どうでしょう。


マイヤは少女漫画の主人公かっ!ちゅーくらい

ドラマチックにモテまくるわけです。笑


それが、彼女の作品に反映している、となれば。


ね??

これからウニッコを見るたびに

「ああ、男性遍歴が・・・」って思いますよね?笑





最後に。


マイヤの代表作「TANTSU」(1960/「ダンス」の意)が

どうしても「細胞分裂」に見えて仕方ない件。


ミトコンドリアっぽい・・・。


これがどうしてダンスなのか?

凡人には分かりません^^;


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ミトコンドリア↓↓

yjimage.jpg

(画像お借りしました)



おしまい。












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最終更新日  2016年04月26日 20時26分11秒


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