「斧琴菊」三代目が好んで使った役者文様「良き事聞く」にかけている ※
「わしをお父さんと呼べ」といわれ、夫人をお母さん、子息の梅幸さんと九朗右衛門さんを兄さんと呼ぶことになり、いよいよ寺島一家の一人として生活することになりました。
兄たちはそれぞれ別に家を持っていたので、父母の膝元で暮らすのは、橋蔵さんと小学生だった多喜子さんだけでした。多喜子さんは、お兄ちゃんができたと大喜びでした。
養子として城山町の二階の一間をあてがわれたのはいいのですが、橋蔵さんは、一か月余は夜中にハッと目を覚ましては、自分の頬をつねってみたということです。名門の出てもない下っ端役者の卵にとって六代目は天皇のような存在で、口もきけない雲の上の人であったわけですから、丹羽家の養子になれるなどという幸運は、どうしても信じられず、夢をみているのではないかと疑い、夜中に何度も何度も起き上がって頬をつねってしまったということを、話していました。
朝は六代目の靴を磨き、帰宅すれば服を脱がせて、丁寧にブラシがけをしました。
そういう生活の中でしたが、六代目は「これからの役者は、学問も大切」と、橋蔵さんを夜間の日大付属の中学校に通わせました。
六代目の稽古やしつけの厳しさは想像以上でした。橋蔵さんは、一瞬の間も神経の休まる時はないくらい、毎日が緊張の連続でした。
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◆10) 戦時中のエピソードから
黒羽二重の紋付、仙台平の袴をつけて正装した橋蔵さん
紋どころは"重ね柏"で、大川橋蔵を襲名したときに、六代目菊五郎さんよりいただいたものです (画像は1956年)
大川橋蔵を襲名した後の舞台は、戦時中のため興行もあまり出来ず、もう少し後になります。
その間、橋蔵さんは六代目と共に、空襲激しく疎開ということになり、勘三郎さんと久枝さんが疎開していた鎌倉へ、次に辻堂の借家へ、そこで終戦を迎えることになります。
厳しい稽古やしつけの毎日でしたが、その中にこんなエピソードがありました。
橋蔵さんは、養子に行ってからは城山町にいましたが、戦争は激しくなり東京は空襲で大変な状況になっていました。
ですから、勿論芝居も閉鎖になり、舞台に出ることが出来ないわけですから、六代目もほとんど家にいました。
その時分は、六代目は、航空本部の大佐でした。当時二階に下宿させていた将校さんが、今の戦況が思わしくないと話すのを聞きまして、六代目は涙をこぼして、こんなことを橋蔵さんに言ったのです。
「おい富成、尾上家からも、一人、軍神ぐらい出さなくちゃいかん。特攻隊に志願しなさい」
言われた橋蔵さんもその時には『はい、立派に戦死してきます』のような気持で、翌日航空本部に願書を取りに行ったりしました。
ですが、落ち着いて考えた時、「戦争に行って死んだなら、大川橋蔵を継いだ意味もなくなる」と思い、橋蔵さんは願書を出さなかったのです。
「あの時願書を出していたら、おそらく戦死していたでしょう」と橋蔵さんは振り返えり語っていました。
戦争で東京が空襲をうけました。城山町の家も焼夷弾を受け、火の粉が飛び散り、屋敷の方から火の手があがり、火を消すのに死に物狂いでした。大きな釣り堀の水を何杯も桶に汲んでは火を消し止めたということです。十六歳の小柄な橋蔵さんは頑張って火を消し止めたのです。
後日、六代目はよくやったというように、橋蔵さんの頭を痛いと思うぐらいに、撫でまわしていたといいます。
しばらくは勘三郎さんと久枝さんが疎開していた鎌倉にお世話になっていたようですが、いつまでもとはいかないので藤沢の辻堂に借家を見つけます。その借家は敷地は千坪、池があり防空壕もあり、六代目は大変気に入った様子だったといいます。その池のそばに大きな桃の木がありました。
九朗右衛門さんも毎日のように辻堂の家に来ては、橋蔵さんに勉強を教えたリ、一緒に遊んだりして、ちょうどいい弟ができたので大喜びでした。
食糧不足で育ち盛りの橋蔵さん達はいくら食べてもお腹が空く年頃です。橋蔵さんは、お手洗いに入る時に庭の桃の木に実がなっているのが見え、食べたくって仕方なかったようです。ある日のこと、鈴なりになっていた桃が、といってもまだ青い桃の実だったのですが、僅かの間に跡形もなく綺麗になくなっていたのです。
六代目は、桃が熟すのを楽しみにしていたのですから、「誰だ、おれの大切な桃をとってしまった奴は」とカンカンです。
誰も名乗りを上げるものはいません。ところが、その夜、御手洗いの辺りが騒々しく、九朗右衛門さん、橋蔵さん、多喜子さんの三人が交互にお手洗いに入っていたのです。
青くてかたい桃を大量に食べたのは三人だったのです。九朗右衛門さんが陣頭に立ち、橋蔵さんが木に登り、多喜子さんも一緒に食べたと分かり、三人は六代目から大目玉をくらったのでした。
戦時中で食べるものに飢えていた時代ですから、育ち盛りの三人には、桃が熟するまで待ちきれなかったのです。
また、皆でお鍋を囲んでの食事の時のことです。
六代目が盛んに「富成、お食べよ、お食べよ」と勧めました時、すぐに箸をつけますとはしたないと怒られることは橋蔵さんも分かっていました。一度目に言われた時はやり過ごし、三度ぐらい勧められて箸をつけるようにしなければいけないのです。
久しぶりの鳥鍋を囲んだ時のことです。六代目は大好物の鳥の卵をひとつ鍋の真ん中に入れ、「大好物だから、みんなは食べちゃいけないよ、いいね」と言ったのです。六代目が鍋を持ち上げ火の加減をみて、ぐるっと回し食べごろになったようで、「お食べよ、お食べよ」といわれ、橋蔵さんも自分の目の前のところに箸を入れ口に入れた瞬間、アッと思いました。たったひとつだけの卵が橋蔵さんの口に入ってしまったのです。びっくりして熱い卵を呑みこみそこは我慢をして食事をしていたのです。
そのうち、「さあ、そろそろ煮えたかな、おいしい卵を食べようか」と六代目が鍋の中を探りますが、卵がありません。「誰か食べたな。誰だ」とみんなの顔を一人ずつ見て、うつむいてしまった橋蔵さんを見て「親の好物を食べて、この親不孝者」と大目玉を食ったということです。
遊びたい盛りの年齢の橋蔵さんですから、遊ぶ時は無我夢中で遊んでいましたが、仕事をほって遊ぶとか、用事がある時間を忘れて遊び放けるということはなかったといいます。
芸道への精進に明け暮れます。
(私なりのニュアンスで雑誌等からのものを参照し、私なりの解釈と構成で書いております。ご了承ください)
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◆11)大川橋蔵を名乗っての「胡蝶」・・そして一番好きな役に
三味線をつま弾く橋蔵さん。小唄でも口ずさんで・・
聞いて見たくなりますね*芝自宅にて(1956年画像)
戦時中で舞台がなくても、六代目のしつけや稽古の厳しさに、そして身の回りのお世話と、橋蔵さんは神経の休まる時はないくらい毎日が緊張の連続でした。
橋蔵さんは小さい時から、ツメを噛む癖がありました。ツメを噛む子供には淋しがりやが多いといわれています。橋蔵さんは、ぼんやり物思いにふけっている時などは、気がつくとツメを噛んでいました。
(この癖は映画界に入ってからも、セットの隅でぼんやりしている時には見られた光景でした)
しかし、六代目の膝下にいた時はツメを噛む暇もないほどだったのです。
「お父さんは親獅子だ。子獅子のぼくを千尋の谷へ突き落として試しているのだ」そう思って、橋蔵さんは頑張りました。
といっても、橋蔵さんにだけ厳しいのではなく、兄たちや弟子たちに対してもそうだったのです。
「名実ともに立派な役者になるためには、当然の修業なのは分かっていましたし、もともと好きな道ですから、辛いと思ったことは一度もありませんでした」と、橋蔵さまは語っていました。
終戦をむかえ、再度芝居ができるようになってきました。
劇場再会を目前にして、芸道修行はさらに厳しくなっていくのでした。
(芸の道をとり、日大三中の夜間部は中退することになります)
当時の帝国劇場。戦争非常事態のため、閣議決定で1944年(昭和19年)に閉鎖。
1945年(昭和20年)8月終戦を向かえ早くも10月に再開場になりました。
1945年(昭和20年)10月、敗戦のあと生々しい帝国劇場で、「銀座復興」と「鏡獅子」の二つの狂言が歌舞伎復興ということで開けられました。本格的な芝居を観られるのを待っていたお客様は非常に喜び毎日超満員で、この興行は2ヶ月間打ち続けられました。
その六代目の「鏡獅子」で当時の福助とともに胡蝶に扮したのが、大川橋蔵を名乗って初めてのこととなります。
本当は、大川橋蔵の名をもらった時に、15代目市村羽左衛門が口上を言ってくれて「曽我の対面」の股野の役で披露をしてくださるということになっていたらしいのですが、その興行が戦争中のために、稽古をしながらできなくなってその襲名ができなかったのです。そのため橋蔵さんの場合は派手な襲名披露はなかったのです。
六代目が10年前に見こんだ橋蔵さんでしたから、それだけに修業の厳しさは格別だったのです。
修業の厳しさといえば、火の気のない底冷えのする稽古場で、「鏡獅子」の胡蝶を教えてもらった時のことを橋蔵さんは忘れることはなかったのでした。
「胡蝶は女形の踊りですから、父は私をパンツ一枚の素っ裸にしておいて、両方の膝小僧をハンカチで縛り付けて踊らすのです。股が開くと男になってしまうからです。裸にするのは体の動きにごまかしができないようにして、基本を徹底させるためでした」
前にも書きましたように、稽古が一区切りつくと、決まってレモンの輪切りをかじらされました。
「どうだ、美味いか?」
「いえ、すっぱいです」
「じゃあ、もういっぺんやれ」
すっぱいと感じるうちは、まだまだ稽古が足りない、これを繰り返しているうちに、最後には、レモンが甘く美味しく感じられるようになれば、もう良いのです。
はじめは寒くてガタガタ震えていても、3時間もぶっ通しで踊っていると、大粒の汗がボタボタと床に落ちてくるのでした。
「父亡きあとの今となっては、この時の稽古が何よりも懐かしい思い出となり、胡蝶の踊りは私の一番好きな役になっています。父から手を取って教えられたのは、この胡蝶と「草摺引」の五郎の二つきりでした。もっと長生きしてもらって、もっといろいろ教わっていたら、とつくづく残念でなりません」と、のちに橋蔵さんは語っていました。
いよいよ劇場も芝居ができるようになってきました。東京空襲で焼亡した歌舞伎座が1951年(昭和26年)に再建されるまで東京劇場(東劇)で歌舞伎は行われました。その、東劇でも芝居ができるようになり、六代目と辻堂から東劇へ通っていましたが、自家火を出し鵠沼に引越し、ここから東劇へ通うことになります。
当時の東劇(東京劇場)
(私なりのニュアンスで雑誌等からのものを参照し、私なりの解釈と構成で書いております。ご了承ください)
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◆12)アカシアの花とともに・・やるせない初恋
細かいべんけい模様のちぢみ浴衣に「重ね柏」の紋の入った
団扇が涼しそうです。舞台の人には一番数の多い浴衣ですが、
橋蔵さんは二十数枚も持っていらっしゃいます。
(芝の自宅のお庭で、1956年)
修業に励む橋蔵少年が心に芽生えた女性への思いについてのお話です。
(少し前後するかもしれませんが)
橋蔵さんも、恋をする年頃でしたので
ご自分の中では、これが”初恋”と思う様な甘くせつないものがありました。
日大三中に在籍していましたが、芝居と掛け持ちでしたから、学業の方はどうしてもおろそかになっていました。
そのことを友達は同情してくれて、ノートを貸してくれたり、試験の時は上手にカンニングをさせてくれたといいます。
その頃でした、橋蔵さんに初恋らしいものがあったようです。
アカシアの花が咲く頃のことでした。橋蔵さんは友達の家へ借りていたノートを返しに行った帰途のこと、アメリカ大使館の近くの静かな路で、美しい女学生と出会ったのです。「すれちがったあと、思わず振り向いてしまったほど、澄んだ美しい瞳でした。とっさに、私は、こんな女(ひと)が自分の理想の女性なのだ」と思ったそうです。
橋蔵さんは、その時の気持ちをこのように語っています。
「年齢は二つか三つぐらい上だったのかもしれません。光った靴が、コツコツと石畳を踏んでいきました。その翌日から、学校の行き帰りに、遠回りをしてその路を通ることにしました。二度目にそのひとに逢えたのは十日ばかり過ぎてからでした。こんどは後ろ姿だけでしたが、やっぱりコツコツと石畳を踏んで行ったのです。その後ろ姿を思わず追った私は、そのひとが石の門の中へ消えてしまったあと、近寄って表札を見る勇気もなく、うら悲しい寂しい気持ちになってツメを噛んでいました」
橋蔵さんは、その後も、学校の行き帰りに遠回りをすることを続けましたが、学校を休むことが多かったので、いつも運よくそのひとが路を歩いているはずもなく、むなしい日々が過ぎ去っていくばかりだったのでした。
そして、ある日もう一度そのひととすれ違ったのを最後に、橋蔵さんの初恋はあっけなく消えてしまいました。アカシアの花がけむるように散る頃のことでした。
舞台の都合で学校を続けて休むようになり、舞台だけに専念するために学校を中退したからでした。
「そのひとへの慕情は消え失せた今となっても、中学二年の時味わった初恋の甘くやるせない感覚は、心の片隅にまだ残っています」
一言も言葉を交わすことがなく姿だけを追ったそのひと・・・少年橋蔵さんがほんのひと時でも自身に戻れた時なのでしょう。
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13)たまには親子三人で楽しいことも
お伽の国の兵隊さん、おもちゃのマーチが鳴りわたり
橋蔵兵隊さんも顔を出してきました (1956年雑誌より)
ここで、またまたエピソードをご紹介いたしましょう。(戦時中と戦後の話が前後するところがあるかと思いますが、そこはご容赦願います)
当時の橋蔵さんにとっては、笑い事ではないのですが、のちに、その事柄を話すときの橋蔵さんは如何にも楽しそうで、微笑ましく思えました。
その日は大雨が降り、品川のダンスパーティーに行った皆が家へ帰れない時があったそうです。鵠沼の家に一人いた六代目は、可愛い子供達がどうかしてはいないかと心配で一晩寝ずに明かしたということでしたが、遊びに行った皆は悠々と朝帰って来たものですから、「もし、おれの家が洪水で流されたらどうする」と叱ったそうです。
橋蔵さんはそんな時一番責任を感じたでしょう。「お前ぐらい帰って来ればいいじゃないか」といわれて、何も言えなかったでしょう。
また、六代目のお伴をして、東京まで芝居に通っていた時、たまたま一人で帰りの汽車に乗り、ついうとうとしてハッと目を覚まし駅の名前を見てまだ安心というのでまた眠り、そんなことを繰り返しているうち、降りる駅を過ぎて平塚まで行ってしまいました。いくら遅くなっても六代目の家まで帰らなければならないのですが、汽車はなく、平塚から夜道を歩いて帰ったという事がありました。
それでも、親子三人で楽しいこともあったのです。
家の近くで釣りをする時は、二人のお弁当を運ぶのは千代さんの役目だったといいます。腰まで水につかり流れの急なところを頭にお弁当を乗せて渡って行くと、お弁当がとどくのを見計らって、橋蔵さんが木くずを集めて火を燃やし、午前中に釣った何尾か焼いているのです。
川砂利の上で、親子三人、水入らずで食べるお弁当の味は格別で忘れられない思い出の一つだと、千代さんが語っていました。
そして、千代さんが微笑ましく思っていたことがあります。
六代目は釣りに行かなければ、猟に行っていたということです。
「お父さま、弾はこれにしますか?」
「そうだね、こっちも少し持って行ってみよう」
などと、一生懸命研究をしている二人の姿はよいものでした。
いつも六代目の後ろをついて歩いた橋蔵さんの方が知っているので六代目はよく聞いていたといいます。
「富成、鮎をつける針はこうだったな」
「この弾は、チョッキのどっち側に入れておいた方が便利だろうか」と。
早朝暗いうちに鉄砲をかついで宿を出ます。一発うち、鳥が藪の中に落ちて行きますと、「富成、行って来い」ポインターが橋蔵さんより早く見つけるのに、必ず「富成、行って来い」と言う癖のある六代目だったといいます。
「ひどい言い方ですが、まさに、犬代わりの富成でした。しかし、それだけ富成が可愛かったんでしょうね」と千代さんは語っていました。
(私なりのニュアンスで雑誌等からのものを参照し、私なりの解釈と構成で書いております。ご了承ください)
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14)役者の心構えは、毎日の生活からも
暑い夏がやって来ました、打ち水をして、
橋蔵さんとご一緒に夕涼みはいかがですか。(1957年)
橋蔵さんが非常にものを壊すというか、粗雑に扱う年頃だったので、ものをもっと大事にしなければいけないと言い、こんなことがありました。
仙台に巡行に行き、六代目を食事に招待したいという豪商の家へ行った時のことです。十枚の家宝のお皿を見せたいというので、女中さんと一緒に橋蔵さんも手伝うようにいわれ蔵に行きました。一枚ずつ入っている塗りの箱を二つ持って部屋に入る時、廊下の敷居が普通の高さの倍もあって、箱を持っていたので下が見えなくて踏み外し、六代目とご主人の前に寝そべってすってんころりとひっくり返ってしまったのです。
すると、二枚のお皿のふたがバーンととれて、ポンと一枚がまっ二つに割れたのです。みんなは驚いて動きもしない。
橋蔵さんはハッと我に返り、「ごめんなさい。申し訳ありません」と言いますと、六代目がすぐさま「馬鹿者」と怒鳴り、「誠に申し訳ない、うちの者が粗相をいたしまして・・」と言いますので、橋蔵さんもご主人の顔を見ますと、何ともいわれない情けない顔をしていまして、「これは不可抗力ですから仕方ございません」と言っていました。そうなると、出ている料理を食べるという雰囲気ではなくなり、もう一度あらためてお詫びをするということで宿へ帰ってきて、「十枚の家宝のお皿を見せるために呼んだのが、目の前で割っちゃってね。「番町皿屋敷」だったら、もうお手打ちになっている」ぐらい大ごとだと叱られたのでした。
そのあとにも、大事にしていた盃を壊してしまいました。
六代目が愛好した馬じょう盃を、橋蔵さんが壊してしまったのです。
修理屋に持っていって修理し、その晩から、他によい盃がいくらでもあるのに、その盃で毎夜晩酌し、一年間同じことが続きました。
橋蔵さんもこれには参ったようです。「気をつけなくては」と自分を戒め、何事にも細心の注意を払うようになりました。
「それからは私も、ものを両手で持つようになって壊さなくなりました。しかって直されたんだと思います」
ものを大切に扱うことも出来ない者がいい役者になれるか、心や身の構えに隙があってはならない、という事だったのでしょう。
そんな橋蔵さんの厳しい修業の中の一つに、「人間、子、丑、寅に起きればよい」といわれたことがあります。12時から4時まで四時間寝ればよいということです。
そのため、六代目が「九代目団十郎のところで修業したとおりをこれからお前にする」と言って橋蔵さんにやらせたことは、
六代目の足を揉んで、寝静まってから部屋に帰って寝る。朝は一時間前に起き、身のまわりの世話をするのです。
年頃で眠いのですが、六代目は目の前で寝られるのが非常に嫌いな方でしたから、橋蔵さんは眠さを耐えたのでした。
六代目からの芸の上の教えは僅かではありましたが、役者としての心構えは・朝夕の生活の中から、無数に教えられてきました。
(私なりのニュアンスで雑誌等からのものを参照し、私なりの解釈と構成で書いております。ご了承ください)
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15)芝居は見て覚えろ
憧れのハワイ(1957年)
1960年(昭和35年)4月に映画に来てから
初めての海外旅行はハワイでした。
ハワイの後援会の皆様の大歓迎をうけました。
ある演目の舞台本番で、下働きのほんのちょい役で、お茶を運ぶだけでセリフのない女中に、舞台中央の六代目が、アドリブで声をかけてきたのです。
「あの屋根はどこのお寺の屋根かね」と声をかけられたのですからびっくり。橋蔵さんはその時は適当に短く答えて何とか繕ったのでした。そうなると、明日はもっとよい受け答えをしようと考えたのです。ところが、その日のその場面で、こう言おうと待ちかまえている橋蔵さんに、六代目は「おまえさん、在はどこだね」と来たのでした。
六代目が三味線をひいていていて、「今ひいているところを踊ってごらん」とポーンとお扇子をほうり、覚えたかどうか試したといいます。
帝劇で「娘道成寺」をやっている時です。橋蔵さんも小坊主で出ていました。初日がすんで二日目か三日目のことでした。家に帰って食事をしていた六代目が、いきなり橋蔵さんに「お前、道成寺を踊ってごらん」と言ったのです。
橋蔵さんは「えっ」と言ったきり、目を白黒してしまいました。
橋蔵さんとしては、もちろん何も教わっていないのですから当たり前なのです。
「同じ舞台に小坊主で出ているので、六代目の踊る姿をぼんやり眺めていたことはいたんですがね。踊れやしませんよ。踊れませんと謝ったら、六代目はひどく不機嫌で『そんなこって、お前、役者になるつもりか』と言いました。こたえましたね、この一言は・・・」と橋蔵さん。
「手をとって教えられてから踊るのなら、誰でも出来る。見て覚えるんだ、見て。初日から三日のうちに覚える、これが常識だ。自力でぶつかって、他人のいいところを貪欲に盗みとって、自分のものにしたときが、ほうとうに身についた芸になる。芸道に近道はない。遠回りをして苦しんで自分のものにする」と肚の底にしみるような響きのある声で六代目に言われたのです。
それからというものは、あくる月の踊りは「鏡獅子」「道成寺」「保名」といったものは、三日までに見るだけで覚える習慣をつけました。
「教わらないから知らない・・」では通らないのです。
橋蔵さんはこう語っていました、
「それ以来、私は父の舞台はもとより、他の方々の舞台を、生き手本だと思って、いつも舞台のソデから息をころして見つめ、一心に覚え込みました。それからというものは、あくる月の踊りは「鏡獅子」「道成寺」「保名」といったものは、三日までに見るだけで覚える習慣をつけました。『教わらないから知らない』では通らないのです」
「また父は、風邪を引いて熱があるからといって、舞台や稽古事を休ませるようなことはしませんでした」と。
「そのくらいのことで寝込むようなことじゃ、桧舞台は踏めない。役者は舞台で死ぬ覚悟でいなくてどうする」という具合でした。
不思議なことに、寺島の家へ来るまで病気ばかりしていた橋蔵さんでしたが、いつの間にか鍛えられ、その後一度も寝込んだことがありませんでした。「父がいうように病気は確かにある程度は気のもので、精神が緊張していれば吹き飛んでしまうのでしょう」
六代目が「アーッ」と言えば、間髪を入れずに痰はきを持っていく。中村錦之助さんの兄歌昇さん、亀之助さんと三人で競争して、六代目に小言を言わせまいと張り切ってやっていたそうです。
六代目はよくこの三人を応接間に集めては、演技の勉強の意味で、ジェスチャーをやらせたということです。
例えば「按摩がそばを食って腹痛を起こして、こいつぁたまらねえと便所へかけこんだというところをやって見ねえ」と言われた三人の青年は、全智全能をしぼって一生懸命仕草をしあったのでしょう。
橋蔵さんは六代目から「お前はかんが鈍い」とよく叱られていたが、次第に父の眉一つの動き、指の動きで、言われなくても用が足せるようになり、そればかりではなく、他人の気持ちを敏感に感じとれるようになり、全ての点でかんが鋭くなったといっていました。
「これは役者として大切なことで、父は日常の訓練によって、私を鍛えてくれたのです」
一旦楽屋に入ると、橋蔵さんは六代目がおとうさんであることを忘れ、その威厳に近寄りがたいものを感じるのでしたが、六代目菊五郎から寺島幸三にかえった時はほんとうに人情味のあるやさしい人だったといっていました。
「柳橋の祖父母にも心をかけてくれましたし、私のことにも、口では言わなくても、心の中であれこれと考えてくれるのでした。食膳に美味しいものがあると、『これはうめえぜ、食べてみな』と半分は私に分けてくれるというふうでした。考えてみると、父は無理を言ったり、自分の我儘な感情で私を叱ったりしたことは一度もなかったのです。すべて私の修業のためになることばかりでした」
当時を思い橋蔵さまはこう語っていました。
そして、母寺島千代さんの優しさについて「厳しい稽古のあとや芝居から帰ってきた時の母のいたわりは、祖母に甘えたのとは別な温かみを、私に感じさせるのでした」と。
(私なりのニュアンスで雑誌等からのものを参照し、私なりの解釈と構成で書いております。ご了承ください)
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16)有望視されはじめた橋蔵さんに六代目との別れが
大川橋蔵を名乗ってからは、文字通り音羽屋の御曹子という名門をバックに順調そのものの足取りをみせました。
1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)、1949年(昭和24年)前半にかけては、橋蔵さんにとって最良の年であったでしょう。
三越劇場や東横ホールが歌舞伎界の若手俳優の育成の足場になり、数々の自主公演がなされ、十二人会という同じ年頃の俳優の会があり、青年歌舞伎時代が到来しました。
当時、三越劇場が入っていました
青年歌舞伎パンフレット用写真から
1948年(昭和23年)2月、三越劇場で当時の坂東光伸と踊った「三社祭」の悪玉善玉(一日替)は、若さと美貌を謳歌する舞台をみせて、絶賛を博し、有望な若手として注目され出し、青年歌舞伎で主役級の役がまわってくるようになるのです。
橋蔵さんは、義兄の尾上梅幸を尊敬していたので、行く末は女形一本で進むつもりでいました。
このあたりから、青年歌舞伎が脚光を浴び始め、演劇雑誌も若手のことを取り上げるようになってきました。
たぬきの会、橋蔵さんは笛を担当です(1949年(昭和24年)2月号より)
(A)画像
(B)画像
(A)(B)画像 「吉原雀」舞台より(1949年(昭和24年)2月号より
古く紙も悪いので画像を拡大すると、ちょっと見にくいです。感じだけでもとってください。
「吉原雀」鳥売り (1949年(昭和24年)1月 於:歌舞伎座)
青年歌舞伎で人気が出てきて、これからと有望視される芸の成長盛りの橋蔵さんに二つの、それも不可抗力な試練が襲ってきたのです。
一つは、最愛の恩師であり、父である六代目菊五郎の死です。
長らく病床にあった六代目が、新橋演舞場の傍に家をもとめ「竹心庵」と名付けたところで1949年(昭和24年)7月10日他界しました(享年65才)。
尊敬してずっと師事してきて、養子にいってからは、この人のためなら命を捨ててもいいというつもりで、必死になって仕えて来ました。その自分が頼っていた立派な方がなくなって、もうほんとうにその時は失望したのでした。
「これから自分はどうなるのだろうかということを考えますとね、非常に不安にもなったりいたしました」と橋蔵さん。
幾日もの間、魂の抜けたように宙を見つめている橋蔵さんを見て、母千代さんが叱責したのです。
「若いあなたがそんなことでどうしますか。お父様に申し訳ないじゃありませんか。意気地なし、あなたがそんなに意気地なしだとは思わなかった」
いつも優しかった母千代さんが、蒼白になって橋蔵さんを叱るのでした。その言葉に、ハッと我を取り戻した橋蔵さんでした。
のちによく、「菊五郎の晩年が知りたかったら、橋蔵に聞くといい」と言われていました。
丹羽家に養子入りしてからというものは、橋蔵さんはいつも六代目の身近にありました。
「息をぬく暇もありません。おまけに父は金バクつきの怒りん坊でせっかちですからね。たえず八方に気を配って、オホンといえば煙草盆を運ぶことが身につきました」と橋蔵さんは述懐していましたが、この日常の習練が、一方では六代目のお気に入りで、外出時も必ず橋蔵さんにカバンを持たせて連れ歩いたのです。
橋蔵さんにとって、六代目は、日常、舞台を通じての”すべて”であったので、六代目の死は橋蔵さんの生活のリズムを一瞬にして失わせるものだったのです。
そして、六代目が存命中は橋蔵さんの目に美しく映し出されていた周囲が変わってきたのです。六代目がいなくなると、とたんに醜く、ぶっきら棒にも、意地悪くにも映って来たのです。それがはっきりと出て来たのは、1955年(昭和30年)秋の頃になります。
もう一つの不可抗力の試練は、次回に書いていきます。
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17)からは ☆大川橋蔵☆(生立ち・・・映画界へ入るまで) ❷に書いています。
☆大川橋蔵☆(生立ち・・・映画界へ入るまで)❷ 17)~