育てているのは未来です

育てているのは未来です

徳永民平さん


 用があって松山の法人本部に来られた時、「ちょっといっしょに出かけようや」と声をかけられ、大街道にあったロンドン屋という店に連れて行ってもらって食事をご馳走になったことを記憶しています。
 民平さんは、詩集も何冊か出されていた愛媛では有名な詩人でした。当時は全国的にその時代を彩るような人がいろいろいましたが、民平さんもそのひとりで、他にも松山には、凡平さんとか、村口実さんとか、普通の人からみるとちょっと変った人生観で生きている人が何人もいました。私も下手な詩を書いていましたので、ガリ版刷りの詩集を見てもらったこともあります。どちらかというと私はそっち方向の人間だったのかも知れません。
その後、施設の行事があった時に何度か今治に行き、打ち上げで職員とお酒を飲んだ後、書斎で一泊させてもらったこともあります。6畳ほどの部屋でしたが、壁の棚には天井まで本が積み上げられていて圧倒されました。
 保育にかかわる仕事を始めてからは今治が遠くになり、施設長になった後は一度も施設に行ったことがありませんが、ある時期から民平さん自身が松山に住んで今治に通うようになったことから、松山の家には何度か行ったことがあります。少しお酒を飲みかわしながら、独特のポツポツとした口調で、文学とか人生とかを語るのを聞くのはとても楽しく、共感する部分もたくさんあって充実したひとときでした。
 私の方がだんだん忙しくなり、その後、長い間会う機会がなかったのですが、人づてに施設長を辞めたことを聞き、会いに行かなくては・・・と思っているうちにまた10年くらいがたち、その間に奥さんも亡くなったということを知りました。その後はひとり暮らしをしながら、芸術家としての活動をしていたそうです。数年前に、自分で生活するのも大変になったので、老人ホームに入所したと知人から教えてもらいました。
 それがどこかも知らないまま何年かたったころ、私は道後にある老人施設の中の保育園に呼ばれて、職員の方に保育のお話をするために出かけたことがあります。保育園は3階にあって一階のサロンのようなところを通り抜けてエレベーターに乗るのですが、サロンを通るときにそこでくつろいでいるお年寄りの中に、ふと私と目があったお年寄りがいてちょっと気になりました。しかし、案内してくれる人がいたのでそのまま保育園の方にいってしまったのです。
 しばらくして、民平さんが亡くなったという知らせが届きました。そして、道後の施設で目が合ったお年寄りが民平さんだったこと、通りかかった時に私の顔に気づいたのだろうということもわかりました。本当に申し訳なく残念なことですが、たまたま行った施設に民平さんがいるとはつゆとも思わず、その時に気づくことができなかったのです。
 その後、有志の方により「詩人徳永民平をしのぶ会」が催されたので、これにはどうしても行かなければ申し訳が立たないと参加しました。民平さんは、詩はもちろん、書にも長けていましたし、居合いもかなりの腕前でしたので、しのぶ会では福祉施設関係者に加えて、その方面からもたくさんの人が参加していました。その会の終わる頃、発起人の方から「遺品整理をしていましたらこれがありましたので」と渡されたものがありました。その封筒の中にあったのは、歳月の中で色褪せた、見覚えのある二十歳の頃のガリ版刷りの詩集でした。私は、声が出ませんでした。


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