育てているのは未来です

育てているのは未来です

今井先生


 私はくせのある年増の高校生でしたが、どこか気持ちの通じるところがあったのか、先生のほうで合わせてもらっていたのか、時々はご自宅におじゃましていっしょにお酒を飲んだりしながら楽しくすごさせてもらっています。先生には二人の男の子がいて、その頃は保育園に通っていましたが、その子も今はホルンとトランペットの奏者として活躍しています。若いときは、本当に助けていただくことばかりでした。
 そのころの定時制高校の生徒は、南予の田舎から松山に出て来た貧しい家庭の人が多く、昼間は、テイジンや井関農機、関洋紙店などに勤め、アフターファイブを遊び歩く人たちを横目に、夜学で真面目に学ぶ人ばかりでした。
 看護婦さんも多かったのですが、彼女たちは病院で見習い看護婦をしながら准看護婦学校に通い、准看護婦の資格を取ってから夜学に入学してきました。そして4年間の間に経験とお金を貯め、卒業後は正看護婦になるためにまた看護学校に入学したのです。男子にも、自動車会社の整備をしながら、付属の整備士学校で2年学んだ後に入ってくる人もいました。とにかくみんな、つつましく真面目でした。自己主張と権利意識ばかり強く、責任も努力も忘れてしまった若い人たちに出会うたびに、あの頃の日本人の魂はどこに消えたのかと思います。
 坂本九ちゃんの歌に「見上げてごらん夜の星を」というのがあります。まさにその通りでした。昼間の仕事に疲れた体を自転車に乗せ、昼間の高校生と入れ替わるように蛍光灯のついた教室で学び、4時限目の授業が終わってから10時までのわずかな時間に部活や生徒会活動をし、あんな素晴らしい青春はなかったと思います。
 今井先生はとても有能な教師でしたが、当時は学生運動が盛んな時期でしたから、組合活動をしている教師は、そういう方面に影響を与えることが無いように、都市部から離れた学校や定時制高校などが赴任先になることが多く、そんな理由から定時制高校の教師をしていたのだと思います。そのおかげで、私は一生の師と思える人に出会うことが出来たわけですが・・・・
 私は定時制高校に2年しかいませんでした。今考えると、卒業までいればよかったと思うのですが、資格試験のために高卒の資格が必要で通っていたので、大検に通ったのを機に中退したからです。その2年間の半分を、師弟を越える親しいお付き合いをさせていただいたわけです。教員の常で、その後いろいろな高校に転任されましたが、最後に赴任した時、その高校に私の長女が通うことになり不思議な縁を感じました。
 たった2年間でしたが、歳が近かったからか先生方にもいろいろな思い出があります。よく言い争った真面目な高木先生。繫多寺の和尚さんだった小林先生、キュートな大森先生、ハンドボールの野中先生、ユニークな英語の河野先生、生徒会ににらみを効かせていた菅先生。みなさん、今はどうしておられるのでしょうか。
 今井先生との出会いのおかげで、短い高校生活は本当に豊かで実りのある、その後の人生の道しるべになるような時間になりました。用があって近くを通ると、「行ってみようか」と思うことは多々ありますが、車で出かけているときはいっしょにお酒を飲むことも出来ないので素通りばかりです。必ず近々行きますので、どうかお元気でいてください。


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