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そして時は経ち、また私は大学のS教授の部屋にいた。私『すみません!せっかく紹介いただきました H設計事務所ですが 辞めることになりました』 2年前と同じシチュエーションだ。S教授『今度はこれからどうするつもりだ、あてはあるのか? そろそろお父さんの会社を手伝わなければ いけない頃じゃないのか?』私『実は父親の子会社があるのですが 今年がんばって1級建築士をとって その子会社を設計事務所にしようと 思っているのです』S教授『独立するのか?大変だぞ! 設計の仕事のあてはあるのか?』私『父親の会社の仕事はあるのでしょうが、 小さな会社なので他にもがんばって仕事を 作らなければと思っています』S教授『そうかー。それなら構造設計の仕事をする気はないか? OBが今度名古屋で構造設計事務所を開設したので その気があるなら何かと仕事はあると・・・』”願ってもない話だ!しかし構造設計事務所の仕事と いったらまた一から勉強だ””しかし木構造の伏せ図を描いたときは面白かったし、鉄骨や鉄筋の構造も覚えたら面白いかもな”そう考えをめぐらせた時間はほんの1,2秒だった(はずだ)。私 『は、はい、 お願いします』 (こんな展開になるとは、心の準備を 全然してなかったけどこれも流れだ)(あれ?2年前と似たような状況だなあ)S教授はメモをめくり、おもむろに電話を掛けだした。やっぱり2年前と同じシチュエーションだ。持つべきものはいい先生だなあ。そうして「オオシマ設計」は意匠設計、構造設計の両方とも仕事として始めたのだ。構造の仕事は思っていたより大変でした。パソコンソフトもいまよりずっと高価な時代でしたから、すべて手計算で構造計算をするわけです。(現在手計算で構造計算する人は少なくなって しまったでしょう)しかし会社には私一人、誰に聞くと言うわけにはいかずまずは手計算をするために、参考となる書籍を探すことから始まりました。そして探してきた書籍を読んでみると見たことある気がする計算式なのだが、それが実際に計算する前に理解しようとしてもさっぱりわからない!たった一つの式の意味を理解するのに結局1日かかってしまったこともありました。情けなくて涙がにじみそうでした。正直言うと単位ですら混乱していた。この式で使うこの符号はt(トン)なのかkgなのか,これはmなのかcmなのかでさえ・・・複雑な計算式の中で単位が一桁違うということはまるで意味がないわけですから、単位はもう本当に基本の中の基本なんですね。おかげで単位の大事さもよく身にしみました。学生時代に本当にサボっていたので、罰が当たったのですね。(こんなにお世話になるS教授の授業最中に抜け出してテニスをしに行った私が馬鹿だった!)1人で仕事を始めて、上司も、同僚もいない中で構造の基本を一つ一つ覚えていくしかなかったので、当初は一つの計算を終わるのに人の5倍くらい時間が掛かったのではないでしょうか。そうするうちに構造設計事務所からの仕事やまたその紹介で大手ゼネコンさんの構造設計部に出入をするようになっていろいろな会社の仕事方法も目にする機会が増えました。でも結果的に良いことのほうが多かったのです。なぜならば、そうこうするうちに、構造を知ることにより建物の全体像がよくわかることに気がつくようになりました。『なるほど、奥村組にいたとき現場であの仕様になっていたのはこういうわけだったのか!!』『設計事務所勤めの頃、構造をもっと理解していたらあのような不経済な図面は描かなかっただろうな』という事がわかるようになってきたのです。そうなると建築の面白さがまた変わって来たのですね。友人Wがこういったのを覚えています。(その友人WとはS教授の授業中にテニスに誘ってくれた張本人なのです。)『オオシマは学校では一番のほほんとしてたように見えたけど(勉強して無かったという意味だろう)社会に出てからは一番勉強してるんじゃないか?』さすが持つべきものは友人だ。そんな言葉が私を支えてくれてもいたのです。おかげさんで今では”構造に詳しい工務店の設計部長兼社長”HP上などでは住宅の調理人という意味で”シェフ・オオシマ”になっているわけです。この後はまたいろいろな人間ストーリーがからんで設計事務所、構造設計事務所で出会った人たちと再会するお話があったり、(このHPの施工例の中の1軒も実は設計士のお宅です)またこんなお客さんに出会えた!なんてお話がたくさんあるのですが、ちょっとHP上ではプライバシーの厳しいご時世で書けなくて残念なのです。ここでは書けないのですがいつかあなたに出会うときまでその話は大事に取っておきます
2020.02.21
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私のその事務所での最後の仕事は大阪の分譲住宅会社の木造住宅の打ち合わせでした。図面を持って新幹線に乗って大阪に打ち合わせなんてかっこいいなあと思いつつ、どんな人と打ち合わせするのだろうという不安もあった。というのは、実は私はそのプロジェクトの担当ではなく、急遽ピンチヒッターとしての打ち合わせだったのです。私はそのプロジェクトの仕事の流れすらわからずに、所長の指示もほとんど無く、所長に『オオシマクン、大阪行って打ち合わせしてきてくれ!』との指示のみで新幹線に乗ったわけなのです。緊張の打ち合わせ。平面図、立面図など、持っていったものの説明を無難に進める私。”よしよし、これならスムーズに打ち合わせは終わりどこかで一杯飲めるなあ、奥村組時代の仲間に電話して今日はどこかでゆっくりして今晩は泊まっていくか・・・”と内心、他事を考え出したそのとき、『ところで、伏せ図は持ってきてないの?』『??? ふっ、ふせずですか』頭の中がぐるぐる回りだした。”ふせずって、伏せ図だよなあ、土台とか梁とかの構造骨組みの図面だよなあ、存在は知っていても描いたこと一度も無いじゃないかあ、そもそも大工さんが描く図面だよなあ、設計事務所ではあまり描かないよなあ”実は日本の大学教育では木造の構造については授業自体無いことをご存知でしょうか?そして設計事務所でも・・・私みたいに設計マンが伏せ図を描いたことが無いこと自体は業界的には普通のことなのです。『伏せ図が必要なのですか?』『おかしいなあ、頼んであったのに・・ しょうがないなあ、ここで描いていってよ!オオシマサン』 おかしいと思うのはこちらのほうデイ!と言いたくなる気持ちは分かってもらえるだろうか?描いていってよと言われて、私はどうすべきだったのだろう?伏せ図を描く能力なんてマルでない私。しかしわざわざ大阪まで設計事務所員として出張してきて何も知らないーじゃあ、かっこ悪すぎる。でも恥を忍んで『すみません、伏せ図描いたことがないのです。』正直にそういうしか選択肢はやっぱり無いですよね。『えー、しょうがないなあ、今から一緒に仕上るか』その後、担当者が私にレクチャーしながらようやく必要な伏せ図が1棟分出来上がった。全部で10何棟の区画のたった一つが終わった。『もう時間も遅いので、今日は持ち帰ってあとの図面を仕上てきてください』レクチャーしながらなのでもう1棟でも時間は随分かかってしまった。担当者に残業させてしまった事と、また図面の納期を伸ばさざるを得なくなってしまった事もありダブルでばつの悪いこと。しかし担当者さんはありがたくも居酒屋に誘っていただいて今度は私のペースで時間は過ぎた。『あんたみたいな人が私の娘の旦那ならなア』と冗談が出るくらいご機嫌な宴会でした。そうして名古屋に戻ってきたわけなのだが、残りの図面作成を考えると目の前はまた真っ暗に!1軒分を目の前で聞いただけでわかるほど木造が簡単な訳が無い。事務所の誰に聞いてもあまり知らないだろうし、また知っていても会社内のムード自体が所員同士が相談するという場ではなかったことで私はどうしたかというと・・・・父親に教えてもらったのだ。父親は14歳から大工でそのときは工務店の社長だった。プロが身近にいたわけだ。そして初めて父親から建築のことを教わった日が来たわけです。そして木構造のおもしろさが判った気になった日でもあったのです。結局、残りの10何棟の伏せ図を完成させたときに感じたのは疲労感より、達成感だった。『おもしろいじゃん!!』設計事務所に入って、初めての満足感が感じられたのだ。
2020.02.20
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名古屋にノホホンと帰ってきた私は大学の先輩の設計事務所にもぐりこんだまでは良かった。入社して驚いた。所員が皆若い。所長は16年違いだから当時42歳くらい。(私は当時26歳)所長を除くと所員の一番年齢の上のものが1人。あとは同級生が1人、私より1歳したが1人!さぞかし和気あいあいした職場と想像されても不思議はないのですが、実は地獄だったのです。所長は設計事務所らしくなく、朝はきっちり8時30分から仕事を始めて、夜は5時に終われという。拘束時間は本当に少なかった。しかし最初の週で生まれて始めてのひどい肩こりに襲われ、整体に通うことに。それより何より時間の経つのが物凄く長く感じられるのだ。人間関係は仕事内容より比重が多きことを学びましたね。でもその事務所での仕事で私のその後の建築人生を方向付ける出来事が起こったのですから、その事務所には感謝しなくてはいけませんね。私のその事務所での最後の仕事は大阪の分譲住宅会社の木造住宅の打ち合わせでした。図面を持って新幹線に乗って大阪に打ち合わせなんてかっこいいなあと思いつつ、どんな人と打ち合わせするのだろうという不安もあった。
2020.02.19
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『卒業後わたしは』 ゼネコン→設計事務所の経緯ゼネコンは株式会社★★★という会社でした。関西の会社でした。就職会社決定のときは忘れられません。1982年夏、ゼミのS教授に呼び出されての会話。S教授 『オオシマクンは、関西にある★☆★に行かないか?』私 『はあ』S教授 『求人がきているのだが、それをみると どこそこ の求人内容が合っているかと・・・』私 『どういう求人だったのですか?』S教授 『どうって・・・(笑) とにかくお前に合ってるから・・(笑)』その後就職担当のX教授に合って私 『S先生に★☆★はお前に合ってるといわれたのですが、 どういう意味でしょうか、わかりますか?』X教授 『はははは、★☆★の就職担当さんが私に言ったのは ”とにかく元気な人をお願いいたします” ということだったのだ』 職場の人間には恵まれました。結構かわいがってもらって、なおかつ名古屋へ週末に帰る新幹線代もありがたく、4人で何時間も向かい合って座っているうちに・・・(こんなん書けないか!)仕事は毎日鉄筋の本数を数え、配筋写真を撮り、コンクリートのミキサー車の台数を数え、現場でトラブルがあると最初にすっ飛んで行く役目でした。周りに恵まれて楽しい思いが多かったのですが、大きな会社ゆえに建物全体部分に係わるという実感が無かったのでしょう。考えてみればお客さんの顔が見えない仕事に達成感が無かったというのが本音でしょう。そして実務経験が2年過ぎ1級建築士の受験資格ができたことも手伝ってか、お客様の要望と自分の提案がぶつかってもいいから、結果”良いものができたね”と直接お客様に言われること仕事をしたいと思い始めてそれには設計を学び設計士としての仕事がしたいという思いがだんだんと沸いてきたわけです。そして若き私(当時26歳)は入社2年で『私はこのままではいけない』と衝動的に退社を決意。就職のお世話をしていただいた大学にも連絡しないで決めた馬鹿者でした。先に転職先を決めるわけでもなく、名古屋に帰ってきた私は早速S教授に謝りに学校へ行きました。私 『すみません、折角推薦していただいて入った会社を 2年で辞めてしまいました』S教授 『そうか、今後はどうするつもりだ』教授は怒るわけでもなく淡々とつづく会話。私 『実は、まだ何も決めてないのです。 設計の勉強をしたいなと 漠然と思っているのですが・・・』S教授 『オオシマクン時間あるか? 2期生で設計事務所を開いている先輩がいるが 人が欲しいといってたが、逢ってみるか?』私 『は、はい、 (こんな展開になるとは、 心の準備が全然してなかったけど、これも流れだ) お願いします』S教授はメモをめくり、おもむろに電話を掛けだした。こういった経緯で設計事務所に入所し、それからは勉強、勉強の嵐が私を待ち受けていたのだった。
2020.02.18
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