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20年12月31日 o氏から頂いた手記
望年の辞
人間にはちょうどよい「死に時」がある
こんなショッキングな、見出しが医師で作家の久坂部羊さんの著作にありますが、次のように書かれています。「達者でポックリ」は最高の死に方、人間には死に時があり、それを逃し、長生きすると、ろくなことはないと。
歳をとっても自分で歩けて、自分の面倒を見られているうちはいい。たとえば夕方になったら「ちょっと一杯やろうか」と下駄履きで、なじみの居酒屋に出かけて行ける様な、そうゆう気軽さ、自由さがあるうちは、長生きのし甲斐もあると。と
まさにその通りだと思います。考えさせられる見出しと内容でした。
何処に行くにも人の助けを借りて、人の世話になって、という状態になってしまったら本当に大変です。「要介護」「寝たきり」は、多くの場合、本人もまわりもつらく苦しいものだと思います。まわり迷惑かける「長生き」をするぐらいなら、死に時をうまくつかまえて、サッサとあちら側にいけたらいいなぁ~と私は思うのです。
長く患わず、人になるべく迷惑をかけないように、楽しく生きて最後はさっと行く。
つまり「達者でポックリ」です。この、ほどよいところでポックリいくことこそが「究極の健康法」つまり生き方の集大成では、なかろうかと思うのです。
ですが、誰しも」そうありたいとの願いは、そう上手くいくものではありません。「達者でポックリ」いくためには二つの大事な要素があります。ひとつは常日頃からの心構えを持つこと。もう一つは日ごろからから[養生」です。日々生きるためのエネルギーを高め、健やかで充実した「生」を送り、その日がきたら「寿命」を悟り、サッサと彼岸へ向かう、それが最高の「達者でポックリ」です。寝たきりにもならず、ボケにもならず、延命治療や、点滴漬けでつらい思いをせず、おだやかに亡くなりたい。高齢化社会を迎えた今、周りに迷惑かけることなく最後を迎えたい。最後まで元気に楽しく生き自然で理想的な「死」を迎えるためには、どうしたらよいか。死後の世界に転居だとおもえばいいのです。簡単です。「死後の世界について考える」と言っても、中には不安や恐怖ば先に立ってしまい考えるのが怖いという人も多いでしょう。私の古い知人に90を過ぎた老夫人がいます。色艶もよくて元気です。普段は「もうこの歳だからいつしんでもいい」が口癖ですが病院の定期検診で「胃カメラの検査を受ける段で「先生私はがんですか」」と青ざめて聞いたそうです「いつ死んでもいい」と言いながらいざとなると狼狽してしまうのです。人間ですから、それも当然でしょう。私たちは、いろいろな「場」に住んでいます。学校、会社、地域、家庭、趣味や習い事の集い、友人との会食、などすべて「場」であり、そこにいる一人ひとりの状態が「場」のエネルギーを作り出しています。 病気を治すにも、健康に生きるためにも、いい「場」に身を置くことが大切です。昔私は、「健康という名の病気」と言う小文を同人誌に書いたことがあります。現代人は「健康でありたい」という欲求が強い。あるいは、健康でなければ、ならないという思いが非常に強い。高齢になれば、少しの異常を病気に結びつけがちだ。しかし、健康という言葉の意味を考えると、どうも明確な定義がなく、一般に医者に検査してもらい「まあ、大丈夫ですよ」と言われた時に感ずるくらいである。検査で異常がなく、医学的に問題がないのに常に、頭痛やめまいを訴える人も多い。その人は、自分を健康健であると思うことはない。ストレスから来るものさえ医者に相談する。健康は、病院が定義するものではない。健康至上主義、絶対的健康という目にみえない目標を作り出してしまった。「健康という名の病気」にかぁっている人が多くないか。多くの人が、自分の健康に自信が持てないと口にする。多くの重い違いと作られた至上主義が健康に対する考えの多くのの誤解と知識の欠如に起因するように思う。私の健康であるという満足感は、医者に掛からず、薬飲まず、年2回の健康診断の結果を生かすことだとおもっている。健康管理は、指示された投薬に頼ることではない。どこも悪くないのに病院へ、出かける必要はない。「健康という名の(ことば)の病気」にはかかりたくはない。などと、自信をぶっつけたものでした。2008年が過ぎていきます。越年とは、思いたくない。通り過ぎていくのです。ただ、今日から明日え。昨日から、明日へ飛ぶ事はない。そして、これまでと、これからに、違いもない。ただ、残りと、余りを、考える年齢「」にだんだんと近づいて事だけは確かです。 私たちが、今考えなければいけないのは、健康であると言うことの答えは何処にもなく、あるのは、その人の生き方の中にあるのではないでしょうか。
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