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意識が新しいことに目覚めて広がりはじめている。とっても高い上空を飛行中の気分です。きっと、私は成功するだろう。衣食住の欲が薄い自分。最低限の保障で幸せをつくれる自分。人の本来の欲望は、世の中のために役立ちたい。神様に褒められることをしていきたい。それが一番気分のいい生き方なのである。私の根底にある基本的考え。まずキレイな環境づくり、モノの整理整頓。人と組む。時の時に打って出る。休みの本日は、整理整頓と環境づくりをする日だ。ココロの整理として、ここ数日の反省日記を書く。この時間も、非常に有意義な時間なのである。ここでイメージすることは、よい形となって、よりよく実現していく。人の背後に活躍する霊界スタッフ陣につつぬけのようである。良いことを書くべきである。私は人をよく思いたい。そうでない人といわれる人であっても、相手がいっせいに「あの人は、いい人である」という心と視線をそそぐなら、その期待にこたえようとするものであろう。自分が変われば、相手は自分にとってありがたい存在に変わってくれる。『人間の知性は、新しいことに目覚めて広がり始めると、元の大きさには戻らない』(オリヴァー・ウェンデル・ホームズ/作家)良い職場に出会った。良い人たちに刺激を受けている。善き理論に感化されている。誇りとか、自信とかいう言葉が、自身の中に広がりはじめている。・・人は、誇りとか自信を持って生きるときに、いい気分に包まれる。そのようになっている。 ◇ ◇ ◇久々に来てみたくなりました。ここ。会社での毎日。どんどん、うまくいってます。ここにきて、対策や問題処理を書き綴りながら、しだいに問題解決されていく。これもかなり役立っていると感じさせてくれる。また、前進、成長を促してくれていると感じている。まさに、ここは反省会の場だった。また、次に進む、善きイメージトレーニングの場でもある。ここは、利害を気にしなくてすむ場である。いつもと違った帰り道、以外な人とご一緒することに。話しが弾みすぎて、地下鉄の降りる場を越してしまうなど。薄いピンクの春コート。さくら色を少し濃い目にした春先の薄いマフラーが肌色を若々しく映す。話の内容からして、その方はおそらく60前後とお見受けした。10歳若く人の目に映るというのも、人をへえーというプラスの驚きを与えるものかもしれない。「T・トシコです」別れ際、お教え頂いた。 トシコさんのお顔は、全体数50名程の社内オフィスでも、私の記憶に印されていたお顔だった。「!笑顔」というお化粧が施されていたからと思う。若々しさ・・これも、相手を尊重することかもしれぬと思わせてくれた。「服装」の意味・・相手を(お客様)を、対面する「相手の方を尊重する」の意があったことを研修で知ることとなったが・・今頃、わかったのか、自分。(相手を尊重するための服装か・・)人に対して、「イヤ感」が生じた時、必ず即座に解決を図ろうと努める自分。これは、すごくいいことだと思う。相手の反応が、どんどん良く変わっていくと見て取れるのである。自分が、その人を好ましくない目で見た場合、その人も同じ感情を全身でもって返してくる。私は新人研修で出会った一人一人に対して、はじめ「イヤ感」を生じさせていたのだ。それを一日ごとに、親しき感情に切りかえられた。なぜなら、相手が、私の「思い方」を変えたのと、同時に、良い人に変わっていってくれ、私に好ましい感情を与えてくれたからである。異性と対面する時、非常にナーバスになる自分。目を見るべきなのか?目を見続けて、話をしたがゆえに、家に帰ってからも、その人の顔が脳裏に残って、映像が出てくるのは「いや」だなとか。あっ、厚臣さんが、いいことを教えてくれたんだっけ。 異性との対面の際は、たしか、「相手の(こちらから見るとき)左の目の方を努めてみるようにすること」相手側からすると、その人の右部分か。これは、今日、もう一度、厚臣さんに聞いてみよう。まあ、厚臣さんに言わせると、異性を異性と意識しないために、そういう手法を発見したとか言っていたっけ。私は、このことはすっかり忘れていて、違う手法を考え出した。たとえば、昨日、Fトレーナー氏と対面。ちと努力を要する人と以前書いた。なぜ?笑わない、クールそう、冷酷風、営利中心に物事を考える思考の人ではないかと感じさせた。生命判断表をめくってみたりした。地格14格か・・うーん。神経質。が、それは私にもあるわけだし、14格でりっぱな人をいっぱい知っている。14格の良い意味を調べてみると誠実、頼まれるといやといえない。数の意味を調べてみると、必ず良い面と、そうでない部分がある。なるほど、それを吉凶に分けているワケは、パーセンテージの問題なのだ。ならば、人を見るとき、良い面を見つけることに努めよう。その人を「吉の人」にしてあげよう。そのF氏は、以前より、もっと紳士に振る舞ってくれた。私はその人の尊敬する部分を見出した。人の話をよく、聞き耳を立てて聞いている。「今の話をきいていて、~~このように解釈しているのではないかと、感じたのですが?いかがですか?」「いいえ、それは誤解です。私は、~~このように考えています」「わかりました。頑張りましょうね」と握手を求めるアクションをされたが、私も手を出して握手の振りだけして、互いの握手の手は10センチ離した。「異性ですので、こんな感じで」とニッコリ笑って私主義のIメッセージで交わした。「あっ、そうですか」と(ああ、この人、こういう人なんだなあ・・了解)という顔で、私の応じ方を尊重してくれた。その人は上司という立場ではあるが、私より4歳年下なので、そういうこともできた。入社式で年長者のナガサワH・Bから辞令の表彰状のようなものを渡された時は、握手の求めに、もちろん素直に握手を交わしたわけですが。私主義とIメッセージを表明するならば・・1、基本的には異性と握手をしない。2、異性と、車に同乗しなければならない場合は、後ろに座る。「家庭人が働く礼儀作法どおりに、後ろに座らせて頂きます」と、毅然として振る舞う。これは、男性だって気をつけなければいけない。なぜならば、女性に「悩んでるんです」とか言われて、抱きつかれることもありうる。(これは、実際あった話)やはり同乗の礼儀作法というのはあるのである。それで、F氏、いや、ここでは「Fちゃん」と呼んでみよう。そうすると、その人のお顔を小学生バージョンにシュミレーションができるではないか。ポッ!っと、ランドセルを背負った半ズボン姿の少年の姿になった。私の頭の映像で。きっと勉強のできる男の子だったろうなあ。話を戻して、昨日の対面状況に場を戻す。私は、その異性との対面時、相手を「おばさん」と思って見ていたのだ。その一人の人物、私の目に映る人物は、その人、只一人である。が、必ずその人には父母がいて、それぞれの父母がいて。その顔のツクリは、その方々から受け継がれたものである。私は、相手と親しげに話すために、その人のお母さん、おばあさんバージョンをイメージした。うーん、こういう顔のツクリの女性はいるものである。家庭のりっぱな奥さん。ちょっとお高くて、教育ママゴン風。その人を女性化させてみたとき、なかなかの美人である。そう、その人の女性バージョンを20代前後にしてみた。この新しき人との接し方方法。かなり面白い。Fちゃんの話はもうこれくらいでいいだろう。結局、あたしの「思い方」の結論として、Fちゃんは、「勉強のよくできる、優秀な、ウチの自慢の弟」というポジションにおさまった。あたしは、この人から、この人のずば抜けた能力を相続するであろう。これを財産相続という。(終) ◇◇◇「脳内革命」(著/春山茂雄)下記抜粋記事◇◇◇p67~72よいホルモンを出すか、わるいホルモンを出すか・・脳内モルヒネは免疫を高める構造式をもっています。抹消のホルモン系は脳がコントロールしていますから、脳のほうで免疫力が高まるホルモンが出れば、体全体の免疫が高まることになります。病気というものは、そのほとんどにストレスが関係しているというのが今日では常識になっています。要するに心と体というのは別物ではなく、心の思い方によって体内ではPOMCというタンパク質がこわれる。精神的ストレスがいかに免疫力を低下させるか。しかし重要なのは、精神的、肉体的にかぎらずストレスそのものではありません。本人がどうとらえるかが問題なのです。体内にあるこういう強い味方の能力を、私たちはみずから高めることも弱めることもできるのです。生きているかぎりストレスを避けることはできません。そのとき「いやだ、いやだ」と過剰に反応し、不安や心配にさいなまれると、免疫力はどんどん落ちていく。この心理的な差は想像以上に人生に大きな影響を与えます。境遇、状況は同じでも、楽天家はβ-エンドルフィンの世界にいることができる。長い目で見たとき、健康状態から人生の成功、不成功まで、プラス発想とマイナス発想では天地の開きが出てくることになります。アメリカで発達した願望実現の成功法則では「よいことを思えばよいことが起こる。わるいことを思えばわるいことが起きる」といいますが、「よいことを思えば脳からよいホルモンが出る。わるいことを思えば脳からわるいホルモンが出る」といい替えることができます。成功理論では潜在意識というものをもち出して、人間の想念というものが人生を決めるといっていますが、その科学的根拠はいま一つ明らかではありませんでした。なぜかというと、心というものを物質としてとらえることができなかったからです。そのために潜在意識、潜在能力というものの出てくるメカニズムの説明が、抽象的にならざるをえなかった。「心でよいことを思うとなぜよい結果が出るのか」と聞かれて、納得のいく科学的説明は無理だったのです。だがいまはそれが可能になりました。よいことを思えば脳からよいホルモンが出る。そのホルモンは人間を心地よくし、やる気にさせるだけでなく、潜在脳がはたらいて自分でも想像できなかったような能力が発揮できるようになる。しかもつらい体験にへこたれずに、それを乗り越える忍耐力も出てくる。これだけそろえば、おのずと人の抱く願望実現の確率は飛躍的に高くなって当然といえるでしょう。(終)//////////
2007年04月14日
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一日に私が関わる人々は限られています。パッと見で、気の合いそうな人、そうでもない人、いろいろですが、必ず人は、私にない善いものを持っているのです。こちらの見つめ方を変えれば、きっと、その人は、一番いい部分を切り取って、こちらが求める気持ちに応じて、最大限に善いものを見せてくれると思います。人は私の鏡です。こちらしだいです。 その人には、必ずご両親がいて、祖父母がいて、さらにその人を取り巻く守護霊スタッフ陣がいて・・。その人は、あたかも一人分だけしか表わしていませんが、その背後はどれほどの広がりでしょうか。私は、その方のご両親に、祖父母の方に向って、ご挨拶をします。いろいろ教えて下さい。私はあなたを受け入れています。あなたに好意をもっています。 ◇ ◇ ◇ 一人反省会・・BGMを「モーツァルト」から「ヒーリング~癒しの音楽~」へ。特に書きたいということがない時でも、このチャンネルなら書くことが出てきそうです。この日記は、父母レターへの下書きですから、消費するとともに、増やしていく必要もあるわけです。ああ、生きているって、なんて素敵なんでしょう。今日一日、なにごともなく、愛する厚臣さんを守って下さいましたことを感謝します。 私は厚臣さん、及び厚臣さんに関わる人々を100%褒め称えます。ご両親をさりげなく普段の会話においても賞賛するのは、多分かなり得意かと思います。「厚臣さんのお母さんは、地元のなまり言葉を言うにしても、厚臣さんのお母さんが言うと、品格があるんだよね。そう思わない?」「そうかな?(にんまり)」日々、賞賛の言葉をつむぎだす、創造する。多分、それは自分を褒めていると同じです。 昨日一日を振り返って・・問題はなかったのか?隣の人、向いの人、言葉を交わした人、挨拶した人、その人たちの顔を、美しい顔にアレンジして祈りをこめて思い描く。私にない、神様の創造の業が投入されている人々・・その人たちの最良の美しいものを、見せて頂くものとなろう。その為には、自分が、そういうつもりで、相手の方を貴重におもって見つめる「目」を用意しなくては。 人の素晴らしき面を最大限に引き出す人になりたいです。厚臣さん、私のプライベートな多くの時間を共にいて下さる方。私は、あなたのおかげで、精神が安らぐため、きっと長生きするでしょう。あなたが存在して下さるおかげで、私は、毎日神様を思い起こし、感謝の言葉を捧げることができるのです。そのような方を生み出し、育て養い下さった、あなたのご両親に感謝致します。 まだ、私の親に書けるほど、気安くやり取り出来ないため、厚臣・父母レターは、すぐには思い描けないでいますが、いつか、そういうこともできるくらい仲良しになれたらいいなと思います。家に行ったとき、「婦人公論」とかの雑誌を見かけたので、へえ、こういうのを読まれるのかあ~と思っていました。お母さん、いつか、厚臣さんの手紙文字について批判されていましたが・・。 私が、「そうですかあ?とっても芸術的って、思ったんですが・・」に対して、プッっと、おかしそうに笑っていましたね。(ほお、そう思ってくれる人もいるのかいなあ~)(そりゃあ、よかったあ)お顔が明るくなりましたね。私が、こうして遠くから、お母さんを賞賛したり、書いたりすることで、きっとお母さんの守護霊スタッフさんたちとは交流できるわけですから、一緒に厚臣さんを守っていきましょうね。 寿子お母さん、あなたの親しそうに笑われるお顔を思い浮かべています。 厚臣さんが言っていました。『あなたが海外に行っていたとき、自分はとても辛かった思いもあって、家に行ったとたん母親と喧嘩してしまった。「帰る」って行ったら、「何も帰ることはないだろう」と母親が引き止めて。で、寿司屋に行った。「ふかひれの寿司、食ったことある?」と聞いたら「ない」「じゃあ、食ったら?」って言ったら、ニコッって顔したの。ああ、この人、女の子だあっ!て、思ったの』 厚臣さん、あなたは帝旺三並びの人だから、お母さん、子育て苦労したかもしれないね。マニュアルどおり、子供が悪いことをした時、蔵に閉じ込めて鍵をする。一定の時間が過ぎたら、あけてあげる。本に書いてあるとおりに母はやったのだろうけど、この子供にはうまく通じなかったようで。子供ごころに自尊心が傷つけられたなんて、今頃になっても言っている厚臣さん。 子供への接し方って、むずかしいもんだなあと、それを聞いて思いました。私が心理学と、四柱推命習ったのは、この人とうまく付き合っていくための神様の善き配慮ではなかったかと思ったものでした。私は最大の厚臣さんの理解者ですが、気位の高い方ですので、こちらの意見を押しつけるとか、相手を説得するとか、そうとうこちらに確信と熱意がなければ、相手に挑む気にはなれません。 お母さん、お母さんはいまだに、この息子を理解しがたいと思っているかと思います。私の厚臣さん研究テーマについて、きっと関心があるかと思います。そうですね。私とお母さんの共通点がありました。厚臣さんに関心を持っているということです。厚臣さんは、てんで表現が下手ですから、私が、うまく二人の間を取り持って、仲良くさせてあげたいです。あたしが、キー・マンですね。 どうか、厚臣さんのお父さん、厚臣さんとお母さんとの母子を見守って、二人の間をくっつけてくださいね。最近、この歌、気に入っているんです。「千の風になって」・・そっかあ、お父さんからのメッセージって思いながら聞くといいんですね。お父さん、お母さんって、すごいでしょう。再婚もせず、お母さんは、厚臣さんの、父母の両方の気持ちで、精一杯生きてこられました。お母さんを褒めてあげて下さいね。(終) ◇ ◇ ◇ ♪「千の風になって」 私のお墓の前で泣かないで下さい そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空をふきわたっています 秋には光になって 畑に降り注ぐ 冬はダイヤのように きらめく雪になる 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 夜は星になって あなたを見守る 私のお墓の前で泣かないで下さい そこに私はいません 死んでなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空をふきわたっています 千の風に 千の風になって あの大きな空をふきわたっています あの大きな空をふきわたっています//////////
2007年04月10日
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マイナスの思いにやられない。得意のきりかえしトークで自分をいさめてみせる。大事なココロをよごさない。こまめなココロのお手入れで、むやみに精神を老化させない。私の才能は、おもい方の特殊技能にある。美しい精神を笑顔で表現。お顔から吹く風より、愛を発信していく。お顔のお手入れマッサージ、蒸気をあてる蒸しタオル。笑顔の筋肉運動。まともに鏡と対面しはじめた。よいお顔づくりは、なんと、自分の精神を安定させるためであるとわかったのだ。よいお顔づくりは、なんと、ちいさな善行だったのだ。そのことに、やっと気づいたというわけ。 ◇ ◇ ◇二週間振りくらいで、ここ喫茶店に立ち寄ってみました。しんみり卒業式でお別れの挨拶をし。数日後には躍動感の入社式に心沸き。研修二日後の試験でトーンダウンし、緊張してたかと思ったら、二週目にはその空気にも慣れると、一気にダラケ空気に見舞われ。おっと、早めに修正をかけないと、針の目にやられてしまう。コーヒーとお冷を注文。BGMはモーツァルトのバイオリンです。今日は模擬テストがあるので、これからペアパック&アカスリで気分転換をはかったあとに楽しく集中しましょう。私は今年、沐浴の年回りですので、こまめに精神を洗ってあげないと、すぐに霊性にホコリがついてしまいます。こまめにケアすれば問題なしです。反感、イヤ感、マイナス発言、無視した顔、・・つまらないからヒヤシンスちゃん、やめよう。バカみたいでけっこうだよ。ニコニコ笑っていよう。これは自分のためなんだよ。ニコニコ笑顔を振りまく人に、悪いものははいってこれないよ。だから、お顔を磨くことにしたんだ。人に不快をあたえないために。それは、先回の日記での教訓だよ。昨日はね、感謝したんだ。厚臣さんに。本当にありがとう。どんなにあなたの存在をありがたくおもったか。その日は、職場のMさんと交流してみた。同級生だった。ああ、懐かしいかんじ。彼らは、こんなかんじになってるのだろうか?その人の推定年齢をもっと上にみていた。昔のクラスメイトは、もうこんなにおじさんにきているのか。相性・・ということを考えた時、・・「!合わない」のである。やる気がくじかれる。つまらない気持ちになる。飽きる。だらけるのである。人生が、垂れ下がる気分。なのに、なのに、厚臣さんっていう人は、なんてフレッシュマンなんだろう。この人を前にすると、!おもしろいのである。泣けるくらい、めちゃめちゃ濃い人だ。この人は、大地の母のように私の霊性を癒す。やる気の喚起、喫茶店のマスター的存在。私のいい部分を評価してくれる。それで、その人の前にいくと、賛美の言葉をあみたくなる。私は小鳥になれるのだ。こんな人ととうてい人間の力では出会えない。相性の合う人と一緒の多くの時間を過ごす。これを幸せという。まあ、そのことを同級生M氏は教えてくれたということか。感謝しなくては。その人が同僚でよかった。トレーナーのF氏、彼もまた、多少の努力を要する人である。しかし、その人もまた他人である。よかった。彼らには必ず母がいて、祖母がいて、・・その人たちに頭を下げよう。頭を下げれば、私に足らないものをおしえてくれる愛しきおばさんたちである。私は負けないぞ。マイナスのおもいに、やられないぞ。得意のきりかえしトークで自分をいさめるぞ。大事なココロをよごさないぞ。こまめにココロのお手入れお掃除をして、絶対に老けないぞ。私のおもい方特殊技能で、美しい精神を、笑顔でもって、愛を発信していくぞ。あんたなら、どんなに上手にそれがデキルことか。どう見せてくれるのか楽しみだよ。では、これから玄米を圧力釜で炊く。その間にお顔のお手入れマッサージをする。ヘアパック&アカスリエステにいく。私は十年ぶりくらいに、まともに鏡と対面しはじめた。よいお顔づくりは、なんと、自分の精神を安定させるためであるとわかったのだ。よいお顔づくりは、なんと、ちいさな善行だったのだ。(終) ◇◇◇「脳内革命」(著・春山茂雄)下記抜粋記事◇◇◇(p56~60)『薬になるのと毒になるのとの違い・・外から受けた刺激に対して「いやだな」と思うか、あるいは「いいな」と思うかは、たんに抽象的な思考レベルのことですから、なんの負担もともなわないことと思いがちです。人はよく「ただ思っただけだからいいじゃないか」といった言い方をしますが、これは思うことがなんの負担もなく、自由自在にいくらでもできることだという気持ちがあるからでしょう。ところが脳内ではその思いはすべて物質化され、科学反応となって何かを引き起こしているのです。思うことにもエネルギーが必要です。たとえば学習という行為のためには、脳内でたいへんな量のエネルギー消費があるのです。「いやだな」と思うのも「いいな」と思うのも、基本的には学習と同じで、必ずエネルギー消費がともないます。エネルギーを使うときに脳内でPOMCというタンパク質が分解するのです。「いやだな」と思ったときと「いいな」と思ったときでは、このタンパク質の分解の仕方が違うのですが、このことがたいへん重要な意味をもっているのです。ストレスが加わっても前向きにとらえて「これも試練だ、いいじゃないか」と思ったときは、タンパク質が分解して副腎皮質ホルモンというものになります。このホルモンは身体的ストレスの緩和剤としてはたらきます。もう一つはβ-エンドルフィンになります。β-エンドルフィンは精神的ストレス解消にはたらきます。不思議なことに「いいな」と思ったときは、精神的なストレス緩和に役立つβ-エンドルフィンが出てくることがわかっています。逆に「いやだな」と思ったときには、β-エンドルフィンも副腎皮質ホルモンも出てきません。ノルアドレナリンやアドレナリンの物質になってしまうのです。この物質じたいが毒性であるうえ、さらに強い毒である活性酸素を発生させます。つまり、どんな刺激に対してでもマイナス発想をすれば、よいことは一つもないのです。ストレスといった刺激に対してどう思うか、たったそれだけのことで、脳内における物質のでき方にこれだけの差が出てくることを知っていただきたいと思うのです。プラス発想のいいとらえ方をしたときは、体内にできる物質はいい薬としてはたらくが、マイナス発想のわるいとらえ方だと、薬ではなく毒になるということです。人間の考えというものはつねに習慣に支配されています。プラス発想の人は何事もなんでもよいほうに、プラスにとらえるし、マイナス発想の人はなんでもマイナスにとらえがちです。しかし現実には、物事はとらえ方の段階ではどちらでもいいわけです。たとえば財布の中のお金を数えて「もうこれだけしかない」とも「まだこれだけある」とも思える。どちらのとらえ方をしても、そこにあるお金の額、つまり事実は少しも変わりません。ところが人間はとかくマイナス発想で物事を考えがちです。ほうっておくと七、八割はマイナス発想になるといいます。これは「安全を求める本能的な思考態度」(マズロー)ともいえるのですが、脳内モルヒネの存在がわかったいまでは、どんなことでもプラス発想で考えるほうがよいことは意義の余地がありません』(終)//////////
2007年04月09日
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ジャングルの特集を観ていて・・癒されましたあ。神様の創造の世界の映像に。いのちの循環に。新しいものも、やがては古くなり・・それは犠牲というニュアンスではない。さびしくも、かなしくもない。打たれることも、あたりまえのこと。いのちの法則。今日一日の自己否定は、何かの養分になってくれてる。ここから、いちだんと飛躍できると予感するあたらしき朝。ふるいものが、あたらしいいのちの養分になって役立っている。あたらしい生命をあたりまえに支えている。自分という存在も、今という時も、その一部分なのだなあ思えた。そうしましたら、現実のグッサリくることなんかは、なんでもなく思えてきました。気持ちが下降気味になってきた時は、(ああ、そっかあ!)神様のことを思えばいいんですね。何で気づかなかったんでしょう。・・切り替えが早くできます。ご先祖さん・・っていうと、気持ちがぼやけてしまうのですが、神様・・っていうと、気持ちが鮮やかになるんですね。苦しいときこそ、神様に近づけるチャンスなんですね。春なので、急に気温が上昇してみたり、肌寒かったり。日々の社会生活も、良かったり、悪かったり、いろいろです。お彼岸が一つの節目で、時節の霊界がガラリと違ってきたと感じているところです。■本日【庚申/劫財・帝旺(劫財)】自己否定の一日でした。私を励ます言葉たちを探しにいき、収穫した名言です。夫の苦労をみていて思ったこと。(夫を支えるのが私の使命だな)・・そう決意した一日。●世の中に無神経ほど強いものはない。(勝海舟)●人の言葉は善意にとれ。その方が5倍も賢い。(シェイクスピア)●侮辱は相手のせいではなく、侮辱されたと思い込むせいだ。(エピクテトス)●世の中には幸福も不幸もない。ただ、考え方でどうにでもなるのだ。(シェークスピア)●全ての規則に従っていたら、楽しみを全部逃がしてしまう。(キャサリン・ヘップバーン)●大きく考えよ。大きく考えれば、あなたはきっと大きな体験をするでしょう。(マーフィー)●人は幸運の時は偉大に見えるかもしれないが、真に向上するのは不運の時である。(シラー)●幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。(トルストイ)●もっと人生を本当に楽しめるときがいつか訪れるだろう。その時をあなたは心待ちにしなさい。(ジョン・キーツ)■ 【脳内革命】より下記抜粋(p51~56)欲求レベルが高いほど快感も増す・・現実の人間にあてはめたとき、みんながみんな第五の欲求まで到達するわけではありません。「自己実現の欲求」まで到達する人はむしろ少ない。第三の「所属と愛の欲求」まではほとんどの人が到達しますが、そこにとどまってしまう人、あるいは第四の「承認の欲求」止まりの人がほとんどといってよいでしょう。ところが脳のはたらき、とくに脳内モルヒネが教えてくれるのは何かといえば、人間は第五の欲求、すなわち「自己実現の欲求までチャレンジしなさい」ということなのです。脳を上手に活用しようと思っている人にとっても一つのポイントになる点です。脳内モルヒネが教えてくれるのは、自己実現を目指して生きることが、人間にとって最高の喜びであり、汲めども尽きない至福の人生を手に入れるカギなのです。脳内モルヒネの研究からだんだん明らかになってきたのは、人間は並列的に並んだいくつかの欲求を選択するのではない。マズローがとなえたように、段階的に欲求レベルを高めていっていることが一つ。そしてもう一つ、ここが肝心なのですが、「欲求レベルが高くなるほど脳内モルヒネの快感も増していく」ことです。そういうレベルの高い境地に達すると、めったに病気にもならず、至福の感情をもったまま長寿が保てる。つまり脳内モルヒネの研究でわかったのは、正しく立派な生き方、世の中のためになる生き方をするほど、人間は若々しく健康で病気に無縁でいられるということなのです。このことを物質で説明すると、人間にはホメオスターシスというメカニズムがある。一般に「恒常性」といわれる調整システムのことです。たとえば寒いと毛穴が縮んで体熱の発散を防ぐ。暑ければ毛穴が開き発汗して体温上昇を防ぐ。体の中にはいたるところにホメオスターシスが張りめぐらされているのです。ホルモンも同じでノルアドレナリン、アドレナリンが出ると、それをおさえるセロトニンというホルモンが必ず出ておさえる側にまわる。これを負のフィードバックとわれわれは呼んでいます。電気ごたつのサーモスタットのように、何事もオーバーヒートしないようなメカニズムを人間の体はもっているのです。脳内モルヒネにもギャバという抑制物質がはたらきます。ただ一つここに不思議な例外があるのです。人間のもっとも高級脳である前頭連合野が刺激されて脳内モルヒネが分泌されるときにかぎって、この負のフィードバックがなぜかはたらかない。そして脳内モルヒネがどんどん出るのです。他の場合では必ずある抑制物質が、なぜ高級脳がはたらくときだけ出ないのか。人間がそのもっとも進歩した脳をはたらかせて何かをするとき、β-エンドルフィンは抑制されることなく分泌して、どんどん気持ちよくしてくれるということは、私には「そういう世界を目指しなさい」という神様のメッセージのような気がするのです。性欲とか食欲は満たされればそれでおしまいです。またこの種の欲求は貪欲に求めると、必ず副作用をともなうことも共通しています。生命を支える欲求は強力ですが、過ぎれば必ずマイナスに作用する。そういうものには抑制するために負のフィードバックがあるということなのでしょう。だが人間が高級脳を生かして世のため人のために尽くすようになるとき、それを止めるものは何もないのです。止めないだけでなく、どんどん脳内モルヒネが出て、最高に気持ちのよい状態にしてくれる。私はそこに何か大きな天の意志のようなものが感じられてならないのです。マズロー博士は、もっとも高次な欲求である自己実現を果たした人々が感じる最善の状態のことを「至高経験」という言葉で表現しています。これを脳内物質で説明すれば、β-エンドレフィンがかれることなく涌き出ている状態といってよいでしょう。私たちも脳を上手に活用すれば、そのような状態になれるということです。
2007年03月27日
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昨日、お薬を飲んでいるRちゃんから電話がかかってきました。Rちゃんの事情はよくわかっているという気持ちで、お話することができました。彼女の全てを肯定しました。「今のままで大丈夫、全く問題ない、それでいいんだよ」と。彼女と接する方法が、わかりかけてきました。彼女は声のトーンを上げて、「うわあー、そう言っていただくと、うれしいです。わかってもらえると、安心します」と言って、どんどん話し始めた。(ああ、こういう時は黙ってきいててあげたらいいんだなあ、話の腰を折らないように、話を遮らないで)と、自分が自分にアドバイスし出した。というのは、つい最近の私自身の体験です。全てを肯定する話法(話し方)で、対面してくれた方がいました。私自身も気づいている、自分の問題点を、何も指摘するでもなく。(しかし、だけど、だが、だって、でも)など否定言葉を使わない。これがカウンセリングだなって思いました。聞き手が相手の在り方を(認めてくれる、尊重してくれる)話の聞き方。目、聞く姿勢、その情感とか雰囲気。受け入れられていると思うと、安心できて、どんどんこちらから積極的に話し出す。心にあった思いが、言葉を通して表面化される。それらが、はっきりとした映像となるため、自分で自分を客観的に見つめることが出来るようになる。自分がどうしたいのか。何を求めているのか。それに、自分が気づく。そうすると、【エネルギー】が出てくるんだと思います。カウンセリングから、やる気が出てくる。(ああ、こうしてみよう)と、次なる行動が閃いてきたり。問題解決が見え出し始めたり。話し相手になってくれた人は、何をしてくれたかというと、ただ肯定して(わかってくれ、理解を示してくれ)話を聞いてくれただけだったのです。これといったアドバイスがあったわけではありません。けれど聞いてもらった後、やる気がおこってきたのです。その聞く姿勢の中に、(私はあなたを大丈夫だとおもっている、あなたを買っている、評価している)というメッセージが込められていると、感じさせてくれた。そうすると、(あなたが私のことを、良く思ってくれているように、本当の自分を発揮してみようかな)という積極的な気持ちが沸き起こってくる。人にやる気を与える心理学のコミュニケーション法ですね。●心の中で発せられる言葉の影響子供に愚かだと信じさせると、一層愚かな行いをする。(ジョン・ホルト/歌手)この言葉は、いろいろなことに応用できると思います。相手に対してどう思っているかという気持ちとは、すでに心の中で人の声と言葉で発せられています。「この人、すごい!」と心の声が発っせられると、それが目の光、顔全体の表情、皮膚の細胞の反応で、その賞賛の霊波は相手方に伝えられている。無言であっても、伝わるものです。「この人、この程度か」という言葉が、内側で発せられると、相手に対する、自分の顔から吹く風が、そういう不快な風として送られてしまう。人は敏感だ。人とはそもそも霊能者である。敏感な人ほど傷つきやすい、そうすると本来の力が発揮しにくくなる。<幻聴>という霊現象までいかなくとも、人の心には自分の声で、相手には聞こえないシークレットな発言がなされている。拒絶反応、イヤ感、反撥心、マイナス発言だったり。それは、ここでいう<霊>と呼ぶべきものと似ているとも思いました。一方、(まあまあ)と言って、口の悪く下品な声をなだめる役割の人格者が働き掛け、押さえの調整をはかろうとします。けれど、両者は時々葛藤したりする。人格者さんが心弱くなる時に、口の荒い下品な人の勢いに押されてしまい、心全体をまとめるリーダーシップを取れなくなりそうになる時。それを一般的に「葛藤」というのでしょう。(荒くれ男風の<霊>の力が強くなる時、お薬の助けが必要となるのでしょうか。そのへんのところは、私はよくわかっていません)(テレビに出てくるスピリチュアルの江原さんが、若い時霊現象に苦しんで滝行を続けたとのことですが)<霊>のしわざということを考える時、それらを寄せつけないための、邪魔者を追いやるためでもあるかもしれません。今、ふと、思いました。悪さをする<霊>は、少しひねくれているので不良のようです。人前でぎゃあぎゃあ泣き喚き、親を困らせようとする子供のようです。親の関心を引きたいのです。理解を示されたい。認められたい。愛されていることを確認したい。カウンセリングは、話して力が出るという人が、近くにいてくれたらありがたいですね。●お薬を上手く使って、効果をあげているRちゃんという人姉妹のRちゃんは「食」にも多く影響を受けるといいます。食事が乱れると霊界の作用もよくないと、ある時期から玄米菜食に食を改善されました。それでも、時々、お薬は必要なのだそうです。高貴な高級霊の協助を強く受けている人で、「私には厳しい人がついていて、叱咤激励される。(行者らしき)その厳しい人の言われる通りは頑張れないので、負債の気持ちが沸く。私の体にも事情がある。大変な時はお薬でうまく調節しないと。食べていかなければならないので、調子が悪いといって休んでもいられない。社会生活を普通にこなすために」肯定カウンセリング・・ということを考えた時、彼女に言った。「高級霊さんには、高級霊さんの人生があった。それも認めてあげようよ。その方はその方でいいんですよ。肯定してあげようよ」と電話でいいながら、Rちゃんについている厳しい方を賛美し・認め・重要感を与えている私。「Rちゃんは、Rちゃんで、今のままでいいんですよ。よくやってる。十分過ぎるくらいよくやってきたし、今も精一杯やってる」そう言いながら、私はあることを思っていた。厳しい(熊さん)の言葉に、どうも反撥したくなる言葉が、この2週間心に沸いてくる。「一方的」「要求ばっかり」「人の話は聞く気なし」「普通のコミュニケーションは出来ないものか」・・そういう思いが沸き立つと、どうも力が出てこない。と、その時、ある言葉が目に止った。「人を動かす」(著/デール・カーネギー)の中で、「議論しないこと」というテーマを読んで、(なるほどなあ)議論し合って、打ち負かしたところで、何も得られない。ここで、人とぶつかって足踏みをしている場合ではない。相手の目的も、私の目的も、同じところにあって。生きる動機も、実に同じところにあって。力を合わせて効果をあげること。その利益を生むために、出会っている両者であるということ。原点に帰らせられた。相手の立場や事情を理解しよう。相手を認め、肯定しよう。そして、自分の正直な気持ちも受け留めてあげたい。あなたをも認めてあげ、肯定してあげたい。自分の出来ることをしよう。自分は何を持って世の中に貢献できるのか。と、自己カウンセリングしてみる。「人を動かす」を繰り返し読み込むと、魔法がかかり、泣けてきた。内容は、ビジネスにおける人間関係の中で、困ったお客(霊)の心を、原理的話法と自分の心を変えることで、ひっくり返してしまう(屈服させる)、おとなしくさせてしまう。困った悪霊を善霊に変えてしまうと話だなと思った。(ほめる。名前を覚える、呼ぶ。認める。重要感を与える。相手に関心をもつ)などの実践の仕方など。これらは、困った客が来たときのためのマニュアルではなく、(本来は神様をもてなす心得というべきものではないか)という思いがきた。そう思ったら涙が出てきた。
2007年03月27日
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「おめでとうございます」晴れやかな声と響きとを、本日は何回も耳にすることとなった。十日前、ただ一つだけ受けた会社面接試験の内定通知を受けた日。晴れて一週間後には正社員として入社式に参列することとなった。好運気を実感している。働きたくてたまらなかった。体を動かしたかった。適度なストレスも恋しくなっていた。この十日間、心も体も塞がってしまったかのように、むずかしい気持ちを通過していた。もし、拒絶されたら。もし、振られたら。立ち直れるかな?最悪の結果を想定して、励ますシナリオも考えていた。が、どうしても、そこの会社で働いてみたい気持ち、そこの会社の仲間になって動いてみたい願望も膨らんで強まってもいた。とても堅い会社で、神経質そうでもあり、こむずかしそうでもあり、けど、そういうところも気に入っていた。とにかくよかった。がんじがらめの心と体が釈放された。ふわっと解けた。私は思った。人は、こんなにも、人に認められたい存在である。その存在の重要感を持たれたいという欲求がある。大事に扱われたいという欲求がある。希望の会社、人から評価されることで、こんなにも元気になる生き物である。昨日の睡眠時間は足りなめなのに、内定報告を受けてから、沈んだ細胞がたちまち元気を回復してみせた。自尊心を傷つけられずに済んだわけである。期待されている。この人ならやってくれると、面接官に予感を与えた。その人の心を捉えることに成功したのだ。このブログで本に関する記事をたくさん書いたことが、面接試験の助けになった。もし、本をまるきり読まず、話すネタがなかったら、あの空間をどう埋めることができたか。と思えば、この場で時間を過ごした日々がありがたく思えた。私の中には、語りたくなる言葉が豊富に準備されていた。今後もスピーチの準備は整えておこう。今日、「人を動かす」を読んでいて、「人と議論してはならない」というテーマがあった。心の中で、人の言葉を受けて、議論を戦わせたい思いに駆られていた。ここ、2週間のこと。それは違うのではないですか?相手に不満を訴え、指摘したくなる欲求がたえず沸いてきて、心が殺伐とした。議論を戦わせ、勝ったところでなんにもならない。双方の目的から、ずれてしまっている。私の考えもよし。相手方の考えもよし。肯定しようではないか。Rちゃんから電話がかかってきた。精神科のお薬を飲みながら、うまく調整してるとのこと。そういう人はまわりにいっぱいいるという。眠れないと言っていた知人の気持ちを、そういう状況になってみて、今、理解すると言う。Rちゃんについている高級守護霊さんらしき人は、とても厳しく、もっと頑張れないのかと喝を入れてくるという。苦しくなるという。負債な気持ち。私って、だめだわという気持ち。あたしは言った。「Rちゃん、Rちゃんは、今の状態で、それでいいから。いいんだってば。後ろの厳しい行者さんは、その人の在り方で、いいんだってば。」「両方とも、それでいいのさ。肯定してあげよう。今のままでいいんだって」Rちゃん、「そう言って頂くと、うれしい。わかってもらえて」・・先日、私をカウンセリングした担任先生の受け売りだ。ハタと気づいた。あたしの心の中の2週間の葛藤が解けた。あたしが言い返したいと思っていた人の言葉、やり方・・ああ、その人はその人で、いいんだ。で、あたしは、あたしで、精一杯だ。結論を急ぐな。まだ、相手のことを、ほんの少ししか知らないのに、結論をくだすのは早すぎるというものではないか。バカだな、あたし。相手の立場に立って、相手の事情を考えてみよう。きっと、私には、わからない苦労があり、事情があり、涙があるのだ。その人の生きる中心的テーマをみる時、どうしてその人をやり込めることができようか。私は、どちらも傷つかない方法にたどりついた。また、違った角度から、その人(熊さん)を研究してみよう。そして、皆が繁栄する方法を見出していこう。道が開けていきそうだ。デール・カーネギーさん、あなたと、きっと親しくなれる。私は2年前より、もっと、あなたを理解しはじめた。このノウハウを新しい職場で、絶対に実践するんだ。そして、ここを報告の場にするのだ。もうすぐ、深夜12時になります。私の、とっておきの天徳の日:【己】が静かに終わろうとしています。今日は、いろいろな面で、この良き日を活用できました。今日はいい風が吹いた。部屋の掃除も、開け放しと、水撒きで、おはらいがよくできた。日中、こんなふうに、部屋の浄化をよくすれば、夜の時間は落ちついて、いい空気の中で、良い思考が出来るのだな。家の掃除は簡単だ。まず、洗濯物を仕上げよ。で、一区切り。布団干し、掃除機、開け放し、水撒き。布団入れ、仕上がった洗濯ものを畳む。なんて簡単なのだ。◆◆◆「脳内革命」( 著・春山茂雄)p45~51抜粋◆◆◆マズロー博士の五段階説と脳のはたらき・・人間の基本欲求は段階的に高まっていく(マズローの欲求的段階説)。その欲求はちょうど階段を一段一段登るように、低次元から高次元へと段階的に登っていきます。1、生理的欲求性欲、食欲、睡眠欲・・本能とか欲望。生命を支えるために絶対に満たされなければならないもの。この欲求の出所は爬虫類脳と考えられます。2、安全の欲求空腹の時は恥も外聞もなく食物を求め、そのために危険をおかしても平気ですが、それが満たされると今度は自分の安全ということを考えるようになります。3、所属と愛の欲求第一、第二の欲求が満たされると、その次に出てくるのは自分をなんらかのかたちで社会の一員として存在させたいという欲求です。社会帰属の欲求。対象を必要とする愛する行為もこの中に含まれます。空腹も満たされ、安全も保障され、社会の一員として集団に属することもできた。しかし、人間はここまでの段階ではけっして満足しないとマズロー博士はいいます。4、承認の欲求これは一般的に自尊心と他者からの承認の欲求といわれるものです。自分が人よりすぐれていることへの自信、能力への確信、達成の実績、自立の確認、こういったものによって自尊心を満足させたいという欲求と、そういったことを他者からも認めてもらいたいという欲求です。他者から認められた証として、表彰、名声、地位、評判などがこの欲求の具体的な内容になってきます。人間はただ社会的集団に帰属するだけでは満足しない。帰属すればしたで必ず自分が他人から承認されることを望むというのです。それでも人間はまだ満足しない。5、自己実現の欲求第四の欲求まで達した人間は次に「なれる可能性のある最高の存在になりたいという願望をもつ」(マズロー博士)これは神の世界にも通じる心境といえます。孔子のいうところの「七十にして心の欲するところに従い、矩(のり)をこえず」の世界でしょう。すなわち、他人と自分の間に境がなく、心の命ずるままに行動して、気がついてみたら、世のため人のための行ないになっている。そのような理想郷の世界ではないでしょうか。「自己実現の欲求」までの五つの欲求が、人間のもつ基本的欲求であるとマズローはいう。この説が「欲求段階説」と呼ばれるのは、これらの欲求が第一をクリアして第二へ、第二をクリアして第三へと、必ず前の欲求があるていど満たされたあとに次の欲求が生じるとマズローがいっているからです。この説は人間の基本的な欲求を脳生理の側面から理解するうえでまことに当を得ているといえます。
2007年03月26日
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(前ページからの続き)『只今、午前四時です。書いた時間は、午前三時半(寅の一刻)~四時の間です』と私の内なる秘書が言う。午前三時半という時間帯は、一日の内で最も波動の高い時間帯です。いつも、このくらいの時間に書く文は、いい文が書けています。心が澄んでくる時間帯です。その時間から朝型に向けて書く文は、人に希望を与えるそうです。■【朝書く】と言われているのは、詩人の坂村真民(しんみん)さんです。そのような生活をされて、2006年12月に96歳で霊界へ。こんな詩が人々に愛されています。 【念ずれば花ひらく】 念ずれば 花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしもいつのころからか となえるようになった そうしてそのたび わたしの花がふしぎと ひとつひとつ ひらいていった坂村真民さんは早朝に書かれた詩などを手紙にして、多くの人々に送って晩年を生きた方です。私は手紙を両親宛てに送れるなんて、何という幸せなものでしょうか。■テーマは「相手に関心を寄せる」・・話をカーネギーの「人を動かす」の話に戻します。おさらい。まずは、相手を理解するようつとめてみる。自分の要求は、後回しでよい。コレってまずは、家族関係に応用したいと思います。縦の関係である<親子>にもOKです。横の関係である<夫婦>にもOKです。私は生活を共にする厚臣さんに対して、おおいに活用してみたい。厚臣さんとの関係、夫との関係をうまくすれば、きっと他の事もうまくいきそうだ。厚臣さんの心を動かせたら、他の人の心も動かせそうだ。 「あっ!」と時計をみる。『オールイン』が始まる時間ではないか。(これは2005年4月の日記を編集したものです)「お母さんはね、イ・ビョンホンが好き。『オールイン』で好きになった。」と、以前電話で母が言ってたっけ。母はどういうところがイイと思ったのかな?第一回目を見逃してはならない。そうそう、さっそく実践の場が用意されたようだ。母の好きなことに関心を向ける。数時間後、見終えた感想は?「母の言うとおりだ。これから面白い展開になりそうだ」【追記】:全部見終えた後の「オールイン」の感想は、(愛する人と、倹(つま)しい生活でいいから、ただ一緒に暮らしたいだけの望み。ただ一緒に生きていきたいだけが望みなのに。ただそれだけなのに、それが何とむずかしいことであるのか)という主人公の心の世界に涙した。韓国ドラマを見たとき、自分を彼ら主人公たちと比較してみた時に、(何て自分は幸せなのだろう)と思わせてくれる。韓ドラは観客を幸せにする。何が一番幸せかっていうと、好きになってくれた人が、「たった一人だけ」ということです。もし、二人の人に好かれたら大変やっかいです。あまり美人過ぎたら困ります。だから、よかったあー。ただ一人だけの人と巡り会えて、私は本当に幸せなんです。 ■「人を動かす」・・次のテーマは『ほめる』です。(先ほどの日記の続きです)ねぇ、知ってる?桜って人間に向かって咲いているんだよね。・・「押し花」が共通の趣味で親しくなったお友達:カヨさんと、仕事帰り、「満開の桜、今日が見納めだね」と、見てまわったの。その時に「あっ!ほんとうだ」っておもったの。<桜は人間に向かって咲いている>って本で読んだことがある。本当に私に向かって咲いているようだった。「ねえ、ワタシ、きれい?かわいい?キラキラリン♪」というふうに、桜の妖精さんが私に向けて、語りかけた。「桜」・・(万物の創り主は神様だから、神様が人間を喜ばすために、この「桜」もデザインされたのだろうなあ)「桜」・・世界中の多くの人々の心を掴(つか)んでいるだろうと思われるこの作品。そのように、ヒットしているということは、神様もひときわ丹念に、情熱込めて、この「桜」をお造りになられたのに違いないね。つまり、創り主は、誰だって自分が創った物を、「きれいだね」「カッコイイね」「よくできてるね」って言われたいしね。(人間も同じですよね。お母さんが「おたくのお嬢さん、キレイねって人から言われると、親はうれしい」賛美されたい欲求、その存在を認めて欲しいっていう欲求は、人間の本性だしね。それは、人間の創り主の神様の本性から来ているものなのだよね。桜の木は、日本の国を象徴する木でもあるしね。そっかー、日本という国は神様から愛され祝福された国なのだね。毎年、春先には「桜」「さくら」と名のつく歌が流行する。ヒットメーカーはとっくに、このカラクリを計算済みだ。神様の親心と情緒をほろりとさせるものを作れば、成功するということを。こういう私も、神様の関心を惹きたくて、チャンスがあれば何でも神様を引き合いに出して、賛美しまくりで、神様をくすぐったり笑わかし合戦を繰り広げてしまう。そう、それは、一種の癖である。家にいると、夫・厚臣さんを賛美しまくる。もともとは母が、それをやっていた。父に対して、「お父さん、お父さん」ホイホイホイと持ち上げまくる。私は母からそれを受け継いだ。「ほめる」というのは口ずさむ歌のように出てくる。私の場合は、母よりもっと超越している。この子の口から出てくる言葉は「賛美・それだけマシーン」・・マイナス要素には、いっさい無反応。ひたすら、ご主人様をくすぐる言葉だけに、興味と関心を示すキャラに出来あがっているとキテル。かなり、なついている「仔犬」に近いといえる。(笑)(本の中でも、仔犬の喩え話が数回出てくる。主人に関心をもち、なついてくる仔犬は可愛がられます)それは、単に、自分もそうされたい!(関心を持たれたい、ほめられたい)ということを、しているだけなんだけど。持ち上げられたい、くすぐられたい、愛されたい。そう、子供時代は親に愛され、大人になってからは、その時々の自分を取り巻く人々に愛され、結婚したら夫・厚臣さんが360度の愛をくれた。<親の愛・夫の愛・兄弟の愛・親友の愛>・・愛という愛を、くれ続けてきた方。私にとっては、神様と、厚臣さんは、どういう違いがあるというのか。私にとって神様とは?厚臣さん、そのもの。厚臣さんとは?神様そのものなんだ。厚臣さんは、いつも私に向かって存在しているんだよね。私だってそう、「桜」と同じようにね。(終) ◇ ◇ ◇上の日記は二年前に書いたものなのですが、少々照れます。けれど、今も同じことを思うのです私。父を好きな娘は、結婚しても夫と仲良しでいられる。また逆も有りなのだそうです。「家系を科学する」という本に書いてありました。父親が娘にプレゼントする最高のものは何かというと、「奥さんを大切にすること」だと書かれていました。お父さんはお母さんの面倒をみていらっしゃる。すごいなあ。女性からしたら理想の男性像です。掃除、洗濯、食事、買い物、お父さんに全部してもらえるお母さんは、何て幸せなんでしょう。お母さんは、夫運のある方です。「建禄」(けんろく)という星を持っています。私も同じくその星を持っています。夫を支える、夫運の良さを意味します。「オールイン」の私が一番感動した世界です。質素な生活でよい。他のものは要らない。ただ好きな人と一緒に暮らしたい。ただそれだけが望みである。どんなボロ屋でもかまわない。その人と一緒にいられるなら。それが一番の幸せ、望み。その相手の人が、自分に関心を寄せてくれ、ほめてくれ、かけがいのない重要な存在だってことを認めてくれたら、天にも登るような幸福感に満たされます。お父さんが、お母さんに良くしてくれるため、私も厚臣さんに良くしてもらえるのだと思います。お母さんが言っていました。「お父さんとお母さんが一番愛し合っている時に生まれたんだよ」って。「だから、あなたは優しくていい子なんだ」って。お父さんお母さんありがとうございます。
2007年03月26日
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■【今、読んでいる本の紹介】・・非常に有名な本です。この本では人との関係について、≪こうしたら人間関係が円滑にいきます≫という方法論が書かれています。ビジネスに関する、事実あった話が多く紹介されていますが、まずは家族の間で実践してみて欲しいと著者は語っています。その中の項目≪関心をよせる≫という見だしがあります。(今回のお彼岸が終わってからの教訓でもありますね)二年前の今頃に、初めて読んだのですが、今、二回目を精読(せいどく・・細かい所まで注意してよく読むこと)以前は電車の中でサラサラと読み流していました。今日は、二年前の日記から紹介します。 ◆◆◆「人を動かす」(著/デール・カーネギー)を読んで◆◆◆ある人が言いました。「『人を動かす』その本を読んだら、絶対いいよ。営業マンが家に訪ねてきたら、必ず読むよう薦める」というのです。そういえば「家にあるな」と気づき、読み始めたというわけです。(厚臣さんが買った本で、私は一度も開いたことなしでした。)この本は、親子・夫婦・兄弟姉妹・友達・職場の人々、その他関わり合う全ての人とのつながりを、楽しくさせる秘訣が詰まっている。キラッとした笑顔を生み出させる予感を、60ページくらいまで読んで感じさせてくれた。一回サラッと読んで、流してしまったらいけない本なんですね。(もったいない、それじゃあ意味がない)同じ所を二度読むように、とも書いています。少しづつ読んで、ちょっとづつ実践してみる。仕事で家を出ると、一日に色々な人達と関わりを持って、時を過ごしているわけです。仕事中、毎日がセミナーみたいって思ったのは、一回二回じゃない。稼ぎながら、有意義なセミナーに参加してるという一石二鳥。 この本をテキストにすれば、もっと高性能なセミナーを展開することができるはず、と直感する。日記にも、おのずと活かされるだろうし。仕事で全国トップを狙えるのは言うまでもない(?)・・ともあれ、企業にあって収益型人間でありたいのだし、《自信》と《誇り》という給料をも受け取りたいのですから。テーマは「人を喜ばす・人の心を満たしてあげることだけを考える」そのためには「相手に関心を持って、その人の気持ちになって理解しようとする」純粋にそれを試みる時、自分の事は後回しになっている。さらには自分を忘れている。そんな人は、人に好かれるに決まっている。今日読んだページは、《相手に関心を寄せ、相手を理解するようつとめてみる。》自分の要求は後回しにして。つまり相手を喜ばせることを考えればよいというわけ。相手の心が喜び満足すれば、「それじゃあ、せっかくだから、あなたの要求にも応えてあげようか」という心が出てくる。心が「無」になっている状態。それが、「コツ」だろうか?(そっかー、「無」の心に神様が働くんだー)・・んん?もしかして、人の心には、神様が住んでるってこと?いつもは、知らんぷりの寝た振りで、目をつむっているけど、人が「いい心」を寄せてきた時だけ、パカッと目を開けられる。「おいおい話、聞いてあげたら?」と口添えしてくださる。「まあ、あなた様がそうおっしゃるのでしたら、聞いてみますか」と、人は心の中で暗黙のうちに、瞬時にそのようなやりとりをしていて、「それで、何?」と、タイミング良く、聞く耳が用意され、相手に応じようとする。!わかった。自分の《主人》は、いつもは寝た振りの神様なんだよ。そうそう、代表取締役の社長さまが自分の中に、知らないふりして住んでいらっしゃるんだよ。で、自分本人は、それに従う《担当者》なのだよ。まあ、専務としておこうか。ん?専務といえば、ご子息さまが一般的に多い。あるいは専務の立場が、奥さまだったりする。つまりは、神様とは家族の関係であって、<親と子>もしくは<夫と妻>か。これは面白い!こんな発想は初めてです。たった今、一瞬の思いつきと、ヒラメキ。この喩えは、なかなかイケテマス。このインスピレーションを受けたのは何時?(つづき)
2007年03月26日
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■【十日に一度の日は、何を目安にしているか?】・・お父さんお母さん、十日に一度の手紙の日がやってきました。干支の暦で【己】(つちのと)という日が、私が目安にしている十日に一度の日なのです。その日は、私にとって天徳の日で、良い日なのです。一番私を強力に守ってくれる守護霊さんが活躍する日とでもいいましょうか。また、【己】(つちのと)は読み方のごとく、(土)を顕わします。(土)とは私にとってお父さんを象徴する日でもあるのです。(土)から(金)は生み出されます。私は(土)から生み出された(金)の人なのです。(土)は親のように、子である(金)を助けてくれます。だから、私はなぜだか昔から、お父さんのことが好きでした。(私がお父さんになついているのを知っていましたか?)品格のある存在として何かしら誇らしい存在だったのです。それは、子供の頃から抱いていた思いです。今日がその【己】(つちのと)の日ですが、この日は私にとって「書く」意味をも持つ星で、そのため、いつも投函する朝の、前の時間に書いているわけなんです。いつしか私にとって十日に一度のこの日は、かなり楽しみな日になっています。親の家に帰ったという感じ。親子水入らずで、こたつに入ってお茶を飲んで、お菓子を食べ、おしゃべりしている映像を思い浮かべつつ。(干支(かんし)の話は、細木数子さんの師匠でもある安岡正篤さんが詳しい本などを書いています。私は四柱推命の本で読み勉強しました)■【春のお彼岸が終わりました】・・ところで、春のお彼岸1週間(3月18日から3月24日)が終わったのですが、お父さんお母さん体調の変化はみられなかったでしょうか?私は体がとても重くて鉛のように動かなかったのですが、どうしたことでしょうか?お母さんは、敏感に感じていませんか?確かに気温の変化もありますね。今年、ウチでは灯油缶を二つ買ったきりです。まだ、いっぱい残っています。通常、書く部屋では湯たんぽ(大正の頃の型)と毛布でくるんで書いていますが、湯たんぽもあまり使いませんでした。≪春のお彼岸とは「春分の日」3月21日を挟んだ前後3日間、計7日間を総称したもの≫とのことです。「彼岸の明け(最終日)には、あんころ餅を食べるんだよ」と、厚臣さんがあんころ餅を最終日に買ってきて、お供えした後に頂きました。(へえ、厚臣さんの方が習わしなどよく知っているのだなあ)・・これまで私自身、そういうことを意識して良く出来ませんでした。(昔からのしきたり等)この期間、本を開いてようやく知り得たという感じで。けれども、スーパーでは色々なものが良く売れて、安くもないようなので、巷(ちまた)の人々は、お彼岸をキチンと準備されているのだなあと思います。■【お彼岸の期間、体が重かったのです】・・どうして、こういうことを書くかというと、この一週間、あまりにも体が重かったからです。家事も思うように上手くいかず、睡眠時間も長かった、先祖さんらしき人たちの夢も多くみた、食も乱れた、気持ちも下降気味だったりで。(お彼岸の時は、先祖さんのことによく関心をはらって、お供え物など、いろいろなことに気持ちを表わしてくれないかな)先祖さん方に、戒められた感じがしています。ちょっとお叱りを受けたような気がしています。 お彼岸が終わって、縛られていたものから、解放されたような感じで今います。次のお彼岸は、秋分の日を挟んだ前後3日間なので、次は前日から準備がちゃんとできますように。やはり先祖代々受け継いできたしきたりごとなどは、おろそかにできないものだなと思ったのです。
2007年03月26日
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【母への手紙】お母さん、おじさんの年賀状(「おふくろを大事に/小生も八五才となりました」)に返信の葉書を送りました。お母さんと13歳も離れているんだなあと思いました。おじさんが元気なうちに一度お会いしてみたいなあという気持ちが最近おこりはじめました。おじさんの誕生日っていつなんでしょう。オーラの泉で小池栄子がゲストで出演した時、調べてみたら、フサさんと似たタイプでした。「大奥」ドラマは小池さんの昔のドラマそのもの、そのまんまと江原さんが言ってました。小池さんとフサさんは似てますか?いつか聞きたいと思っていました。【注釈】(私が親元にいた18年間、叔父夫婦と義理の妹である母は不仲にあり、一度も叔父とは対面したことはない。帰省した時、電話帳で見つけて住所を控え、ある時期から年賀状を私の方から書くようになった。最近、年賀状は数年、誰にも書いていないのですが、叔父からは必ず来るため、今年も一月末、ようやく返事を書いた。話題は、去年も今年も祖母フサさんのこと) ◆◆◆里村叔父への葉書(2007/1/28(日)早朝)◆◆◆■おじさん、おばさんこんにちは。ごあいさつがいつもこのような時期になってしまうことをお許し下さい。おばあちゃんのフサさんの命日が確か2月だったような、と思っていましたら、10年前に自分で調べて、手書きで書いた家系図が、今朝片付けていたら出てきました。2月11日夕方5時過ぎに霊界に旅立たれたのですね。さっき、カレンダーのその日にマルをつけました。なんと、満56歳という若さだったようです。(若いですよね)以前、父から聞いた時、病気のデパートのような方という表現をしていましたので、さぞ精神的にも気苦労が多かったのではないかと察します。その家系図の紙を広げて、フサさんのところを見ていましたら、なみなみとそそがれたコーヒーのカップをたたみにジャーっとひっくり返してしまいました。「あっ!フサさんが来られている!」と思いまして、おじさんにそのことを伝えたくなったのです。(追記:もしや、私はカップに指を触れてなかったかもしれません。不思議で、ふしぎで)ふだんは忘れてしまっている先祖さんへの感謝の気持ちが、久々にふつふつわいてきているこの頃です。以前、とっても意識したのが10年前の今頃の冬でした。その時、先祖さんを思ってお経とかお供物をあげていたら、同じようなことがありました。(追記:●先に仏様に自分たちが食べるものをお供えすると、食べたいという欲が小さくなるみたいです)ジュータンの部屋でコーヒーをジャーっとまいてしまいました。そんなことが2、3度あって、「あっ、先祖さんだ」とやはり思いました。おじさん、私はなぜか、フサさんが好きみたいです。命日にはお経とお供物してみます。(終) ◇◇◇追記(2007/1/29/月)◇◇◇■お母さん、私の好物がコーヒーなのです。フサさんの好物は何だったのでしょうか。私が干し柿や、干し芋が好きだったりするので、それらは昔人(むかしびと)の方々の好物のようにも感じてきました。気づき・・「ジャーっとまいてしまう」その後、畳をタオルで拭きました。絨毯の時は、雑巾で念入に拭き取ったら絨毯がキレイになったので、こぼしたことが良いことのように、うれしく感じたりしました。通常、コーヒーカップを倒すということが、まず、ありえないことなのです。霊界からのメッセージと受け留めました。もう一つ、そのジャーっとこぼすというのが、まるで赤ん坊のお漏らしのようにも感じ取れました。霊界からのメッセージ、私に出来ることがあるのなら、霊界から教えて頂きたいと思います。お金は容易には準備できませんが、きっと、私にできることがあるんだと思います。どうぞ、お伝え下さい。霊界の方々への手紙になってしまいました。(終) ◆◆◆2月11日はフサさんの命日ですね◆◆◆■(2007/2/9)お母さん、お元気ですか?いつも心配させるようなことばかり言ってしまい、お母さんはどんなに私のことで気を揉んで来られたことでしょうか。もう、間もなく聖地巡礼の旅に行って参ります。これまでの過去の全ての罪をキレイに洗い流すために。ホコリがキレイにとれたら、さぞかし心はきもちよいことでしょう。そして、私が聖地巡礼に行くことをフサお祖母さんは、とても喜んで下さっているように感じます。抱っこもしたことのない孫なのにって、きっと、私のことを可愛らしく思って下さっていることでしょう。お母さん、これまで多くの苦労をおかけしたことをお詫びしたく思います。お母さん、こういう性格の私のことを、人とうまくやっていけないのじゃないかと、案ずる思いを持たれていたことでしょう。「頑固でわがままで、人の言うことをきかない」と、きっと言われますね。この十年、多くの人と仲たがいをしてきました。十年前はキモノの先生方によく仕えられませんでした。女性の方々と、ぶつかったことが多かったように思います。こういう私が、Nさんの母に、良く仕えられるでしょうか?そう、考えますと、お母さんと私との母子関係を良くしていきたい。強めていきたい。そういう気持ちを持ちます。親と仲良く出来ない人が、神様と仲良しになれるはずがありません。今日は、なんだか、お母さんに甘えたい気持ちです。2年前から書き始めた日記は(いつか、お母さん宛てに出せたら・・)と思った下書きのつもりでした。けど、それはなかなか実現しませんでした。「親」と言うと、お母さんがまず思い浮ぶ私でした。お父さんとは、あまり話をしたことがなかったので。どう話したらいいか、とっさに言葉が出てきません。けれど、お父さんが、私のことを案じてくれていることを知り、私は新たに父を得たような気持ちになりました。お祈りは、なかなか出来ない私ですが、ふつうの信仰者の方は祈る時、「天のお父様」とか「おとうさま」と、呼びかけるではありませんか。手紙の書き出しに「お父さん」と書き出すと、どんどん、言葉があとに続いて出てくるのですから、とても不思議ですね。それで、「お父さんへ」という書き出しで、手紙を送ることが実現し始めたのです。寂しく思わないで下さいね。時々はお母さん宛てに送ります。私のお姉さん役のY子さんに、「父に手紙を十日に一度書いてるんですよ」と言いましたら、「続かないとね」という言葉がポツリと返ってきました。(ガックリ)何でも長続きしないと思われているようです。それは正しくもあるため(そうだな)と思いました。けれども、あとで考えなおした時に、(あっ!大丈夫だ。あたし、続けられる!)と、思いたちました。二年間、書きためてきた原稿は、一つのタイトルにつき原稿用紙の文字数で、五枚から十枚くらいの原稿を、三百篇以上も作ったので、ネタには困りません。「感動したことを書き留めておこう」と途中から思うようになりました。(終)//////////
2007年03月24日
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春のお彼岸の最終日は土曜の休日、昼の部「芋たこなんきん」で目覚めました。出版社の編集者:北野さんと、町子先生の秘書:純子さん(いしだあゆみ)は互いに片思いを胸におさめて、これからもいいお友達でいくそうだ。北野さんが純子さんにいいお友達として報告。「僕、結婚します」「あらぁ、おめでとう」複雑な驚きと笑顔、女ごころ。北野さんよりとっても年が離れていると思われる純子さんの選択と生き方。今も現役の田辺聖子さんの秘書をおつとめになっている方がモデルになっている。興味しんしん。扮する(いしだあゆみ)さんも実に巧みな演技をなさる。若々しい北野さん役の俳優さんは誠実そうで、優しく溌剌としていて実直そうな好青年をいきいきと演じている。。純子さんの選択は正しかったようだ。父への手紙をUPしています。最初の話題は先祖さんの話だったりしてたんだな・・と、今読み返してみて思っている。お彼岸の時期にぴったりの話題を私が味わうため私が読み返す必要があったのだ。本日の目覚めは非常に良かった。それに体もかなり軽い。今、仏様にワゴンで水と炊き立てご飯を差し上げた。水はコップの他に、ボールとどんぶりにも入れてお供えした。 ◆◆◆ご先祖の徳力のお蔭で、災難から守られた話◆◆◆【父への手紙】(2007/1/30早朝)お父さんが、私の手紙を楽しみに待っていてくれるんじゃないかと思うと、書くのが生きがいのように楽しくなってきました。いったん気持ちが通い出すと、話したいことが、どんどん、泉のように沸いてきて、お父さんを驚かせたり、涙を誘わせてみたくなります。いつか、こうして手紙が書ける時がくればいいと、下書きで日記をつけるようになって二年になります。去年は「オーラの泉」を見た感想文をたくさん書きました。その中で私の出来事を紹介します。●(2006/7/1)日記より・・・「守護霊さんとは1500年代前後に実在した人物?!」「守護霊さんは、四百年前から七百年前の先祖であることが多い」守護霊さんの生きていた時代があきらかになった。「オーラの泉」で宮本亜門さんと江原さんの会話「心惹かれるイタリアの建築彫刻家がいて~」「いつの時代の人?」「中世の~(1500年代)」「あっ、その方が守護霊さんですね!」江原さんが言いました。 霊能者の下ヨシ子さんの本に「自分自身は七代前のご先祖様の魂と同じ可能性がある」という箇所があり。それが、守護霊さんとは書いていませんでしたが、関連があるのかな?と思いました。それで、思ったことは今、テレビで見る時代劇の時代が、ちょうどその年代にあたるということです。私が見ている中心的な番組は三つで、「オーラの泉」「チャングムの誓い」「功名が辻」です。そういうことを意識してみると、もっと時代劇の中に入り込めるかと思いました。また、そこから、受け取るメッセージや教訓を、もっと鋭く感じ取ることができそうな気が。「ギン!」窓の所で、音がしました。ああ!・・「そうだよ」っていうメッセージ?(部屋で起こる音とは「ラップ現象」といわれてるようです) 事故で、九死に一生を得たという宮本亜門さんは、四柱推命的にみると、(月・傷官/年・偏官)の方です。ちなみに私は(月・偏官/年・傷官)と、似たような並びの命式なのです。 ◇◇1985年1月/22歳の時、交通事故で奇跡的に助かりました◇◇私も、交通事故で奇蹟的に助かってます。救急車で病院に運ばれた時、医者が即座に言いました。「奇蹟だ!」と。オートバイがぶつかってきて宙高く舞い、コンクリート地面に叩き付けられました。普通なら植物人間で寝たきりになっていたと言われました。それが三日の入院、四十日の通院で回復。二十二歳の時でした。オートバイに乗っていた人は、同じくらいの年の男性で、「町に靴を買いに行ったところ、いいのが見つからず、むしゃくしゃしていてスピードをあげていた」とのこと。左足の骨折だけで済んだのです。それも軽かったと思います。(が、足をとられるとはいいことではありませんね)病院では折れた足を固定するために石膏で固めるくらいのものでした。オートバイの人がお父さんと一緒に見舞いにきました。そのこわばった泣きそうな表情、申し訳なさそうな辛そうな顔を見て、気の毒に思った私は「初めてなんですが、入院もわるくないですね」などと明るく言ったりしました。人を気遣う余裕を見せ、ニコニコ振る舞ったりしたのです。たいしたことがなかったので、親には連絡しませんでした。心配をかけたくなかったので。そして、その後、忙しさの中にまぎれ、後から話すのも忘れていました。今、改めて感謝の気持ちを深くします。助けて下さったご先祖様、守護霊さんに。【追記】事故というのも、前から予定されてたのかと今、振り返ります。それから二十年程が過ぎた頃、あの時期「事故注意」という内容を四柱推命の資料で見つけました。物事は何となく起こるのではなく、用意されたものが、起こるべきしておこっている・・今、しみじみ噛み締めます。「偶然は無く全ては必然」なのだということ。なぜ、今こういうことをお父さんに伝えたかったのでしょうか。ちょうど今頃の時期、1月の末の出来事だったのです。暦をよく見ますと、その年は天徳貴人の年回りでした。≪天徳とは、ご先祖の徳力のお蔭で、全ての危険や災難を除くことができ幸いをもたらす≫と、書いてあります。奇跡の理由・・お父さん、私はお兄さんのお蔭で助けられたんです。今、お兄さんに対する感謝の気持ちが、初めて生まれました。 ◇◇奇跡の理由・・兄がくれた大型リュックが頭と腰をすっぽり守った◇◇なぜかといいますと、事故の前、まだ独身だった兄のアパートに掃除に行きました。スキー用のものらしい大型リュックを見つけて、コレいいな、とおもい「ちょうだい?」「いいよ」ともらってきたのです。事故当時、私はそのリュックを背負っていました。しかも、中には、なぜかクッションになるような柔らかいものが沢山入っていたのです。今思えば、そのリュックがあまりにも大きかったのだと思います。そのおかげで、頭と腰がすっぽりと守られたのですから。また、前日と当日、靴を片方だけ無くすという、いつも起こらない出来事がありました。予告されるようなシグナルがあったわけです。「ビン!」霊界の音が、また窓際で。(やっとわかってくれたか、おまえ。渾身の力でおまえを助けたのだぞお)という霊界からの言葉が伝わってくるようです。あの時の難を逃れることが出来たので、今の私が生きています。人はもっとご先祖さんや、守護霊さんとかのことを知って、親密になり一体となるべきですね。私は何をなすべき使命があるのか、しつこく質問し聞き、話し合う必要があるように思われます。 【追記】お父さん、今、こういうことをお父さんに報告できてうれしいです。親元を離れてから、お父さんもお母さんも、子供たちのことを心配されたと思います。けれども、成長する子供の行動範囲はどんどん広くなり、助けたい親の手には届かないのです。けれどもちゃんと親の化身のように神様、ご先祖、守護霊さんが守り導いて下さっているということですね。 お父さんも、お母さんも、その方々に頭を下げてお礼を言って下されば、サポートしている方々も働きがいがあるかもしれません。実は死にそうになったことは、一回や二回ではないのです。口の重い私は、何も報告しないで来てしまいました。お父さん、これから少しずつ、親の知らないところで、どんなに人様から助けられたか、お話していければと思います。(終)///////////
2007年03月24日
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「人間のもつ性情のうちで最も強いものは、他人に認められることを渇望する気持ちである」(心理学者ウィリアム・ジェームズ)父母への手紙の中で、「人を動かす」(著/デール・カーネギー)の研修を実践できたらいいな・・今、ふっと思いました。人の本質的欲求≪重要感を持たせる≫・・父母にそのような接待をしたならば、どうなるであろうか。信徒よりあがめられる神様のように、子供から尊敬され慕い求められる接待を受けたなら?父母は、本当に神様のように崇高な魂に引き上がっていき、どんどん魂のレベルが上がっていき、神様らしく振る舞おうとするのではないか。そうなることと共に、≪神様の愛≫らしい愛を、子供に注ぐようになるのではないか。(なんて素晴らしい空想なんでしょう)そのように、ご先祖様を接待したなら、どうなるでしょうか?より良い人になろうとするのではないでしょうか。「人を動かす」に出てくる実際の例題は、苦情を訴え困らせるお客が、まるで悪霊と呼ばれて皆に嫌われている人のようです。人を動かす原理を実践していけば、グレた悪霊(お客)が、たちまち神様の愛に包まれて、いい人になってしまうという話なのです。先程、私は体を動かして、具体的な清掃と食物の接待を頑張ろうなどと、少し自身にプレッシャーを与えてみましたが、はやり体は動きませんでした。Nさん帰宅時間までやはり横になって睡眠中、夢に縛られました。食事はNさんが、協力を惜しまずサポートしてくれました。今、「オーラの泉」森公美子篇を思い出しました。幽霊に「お茶飲んでく?」に対して、「幽霊だもの、要らないよ」という会話。聖書の「マリアとマルタ」の話も思い出しました。食事の接待に追われて汗して頑張っているマルタより、イエス様のお話にただじっと傍にいて耳を傾けているマリアの信仰、心情を評価された。だから、私は、今の自分を肯定しようと思う。【お彼岸の接待】こうして書きながらでも、おいでになっている皆さんに対して気持ちを注ぐことはできます。「重要感をもち」「誠実な関心をよせ」「笑顔を忘れず」「聞き手にまわる」そのような気持ちで過ごすことに致しましょう。ここまで書いてきて、すっかり気持ちがラクになってきました。≪わたしらは、おまえの味方だよ≫・・ありがとう、おばあちゃん。 ◇ ◇ ◇■【父への葉書】(2007/1/15/(月)朝*投函した葉書より)お父さん、おはようございます。今朝は美しい赤の朝焼けの東の空です。玄関のとびらを5分程開け放ち、西の窓を開け、深呼吸します。お線香に火をつけます。その一本のお線香が終わるまでの間、私はお経を口ずさみながら立ち働きます。圧力釜で玄米ご飯をたきます。白い布で仏さまの場所をきれいにふいて、お水を新しくします。床をパッパとふきます。顔、歯みがき、手を洗って、仏様の前に来てみたら、うわぁ、ろうそくの火が大きくなってる。ご先祖さま、喜んでいらっしゃるのじゃないかという気がしました。25分が過ぎた頃、お線香一本分が終わり、ご飯がたきあがりました。その圧力釜をコタツの中に入れて、ご飯がむれるのを待ちます。その間に、今、お父さんに葉書を書いています。うれしくて、うれしくて、うれしくて。(以下省略)■【父への手紙3】◆◆◆私の魂が葉書に乗って旅をしているよう(2007/1/16早朝)◆◆◆お父さん、朝書いた葉書を書き終わり、神様と仏さまにご飯を供えた後、葉書を持って家を出ました。近くの郵便局へ寄ろうと、いつもより少し早く家を出たのですが、なんと、学校に行く途中のセブンイレブンの前に赤いポストがあることに気づきました。それが、また、なんだかうれしくて。授業中は、うつらうつらして授業に集中できませんでした。ポストに投函した私の葉書が車に揺られて、今頃、どういう旅をしてお父さんのもとへ届けられるんだろうと思ったり。私の魂が、葉書に乗って、旅をしている気分になりました。あきらめていた聖地巡礼の旅、それを行けるようにして下さったのが、お父さんです。私がどれほどお父さんに感謝しているか、このことを思うと涙があふれて止らなくなるのです。今も、顔が蒸気して、やっと涙がおさまったところです。その聖地巡礼の旅に行ってきたという人から、どうだったか話を聞くようになりました。大井さんという友達ですが、「オーラの泉」の江原啓之さんのように、霊の存在が敏感にわかる人です。大井さんは、帰ってきてから感動が止らなく思いがあふれてくるので、毎日、書き留めていると言っていました。「親に対する気持ちが大きく変わった」とも言っていました。「長年の心のつかえが解けた」「ずっとついて離れなかった重荷から解放された」とも言っていました。大井さんは、ここ半年間、「もうこの世から消えてしまいたい」という思いが、ずっとあったと言っていた人です。「その思いは完全に消えてなくなった」と言われます。ふっつり、その思いは来なくなったと言います。「自分の中にいた苦しんでいた霊が解放された」それがわかると言います。大井さんの言葉を通して、霊界のことを、わかりやすく教えていただいているようです。彼女は私にとって霊界の通訳者です。【追記】≪大井さんの特徴は顔がお公家さんのようです。(私の顔もお公家顔かも?)言葉遣いが何故にこんなに丁寧?というほど美しい。家にはテレビを置いていない。もう3月の下旬ですが、今年に入ってまだ1回しか顔を合わせていません。時々思い出したように電話がかかってきます。謙虚、精神の純粋性、超越しているお人です≫ ◆◆◆書くことじたいが供養につながるのではないか◆◆◆何かといつも助けてくれる大井さんという友達。お父さん、私が、どれほど友達をつくれない性格であるか、ご存知でしょうか。わいわいしている人の輪の中に、協調性を持って入り込まない人。頑固なまでに入り込もうとしない。人と馴染もうとしない性格。この間も学校の忘年会(飲み会)は当然断りました。わいわい騒いだり、はしゃいだりすることは、ちっとも楽しくなく、昔っから、一度も楽しいと思ったことがない。お父さんもきっとそういう人かも?(お父さん、葉書では書き足らなく、もっといっぱい書きたく伝えたいので、封書にしたいと思うのですが、読んで頂けますか?)それで、ほんのわずかな友達というのは、よほど気の合った存在です。私はそれで幸せ満足です。大井さんの話を聞いて、「書くということじたいが、供養にもなるんじゃないか」と、閃(ひらめ)いたのです。思いをあらわした文面を書いて、送り届けるだけでも、霊界の人達と交信し会話することにつながるのじゃないかなって。私にとってお父さんは、アベ家の先祖さんの代表です。私の守護霊の方は、アベ家の7代前の男の先祖の方で行者さんのようです。去年秋のお彼岸の時に、お供え物とお経をあげて祈りました時に、そう浮んできたのです。 ◆◆◆十日に一度の手紙が続けられますように(2007/1/25/木)◆◆◆お父さん、十日ぶりにまた手紙を送ります。書きながら、手紙もまた、ご先祖さんへ捧げる供え物のように感じられます。これから、十日に一度お父さんに手紙を書くことを続けられたら、私はとても成長するような気がします。日々思っていることを書くことが出来たらいいなと思い描いていました。 お父さん、学校での授業を受けながら思いました。私はお父さんが大好きなんだなと。(お父さんに書くようになってから、Nさんにも毎日の心情報告を書くようになりました)お父さんは神様のようです。私に新たな力が生まれてくるようです。お母さん、いつも祈っていて下さりありがとうございます。(終)//////////
2007年03月23日
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「止まりさえしなければ、どんなにゆっくりでも進めばよい」(孔子)・・今日、この言葉を目にして「ありがとう」と言いたくなりました。体がテキパキ動かない。でも、ゆっくりでもいいんですね、家事。気がラクになりました。それと、今の期間はお彼岸の時で、皆さん、いらっしゃっている時だから、私の体を訪ねてきているのでしょうか。と思うと、また違った解釈が持て、解決策にあせることはありません。仕事など、どうでもいいから、今は皆さんのことを考えてさしあげるのが第一ではありませんか。そうでした。ズレていました私。十分なもてなしが出来なくてごめんなさい。ここ数日供えたものは<ぼた餅、桜餅、ヨモギ餅>など。お経をあげるところまで気合いまだ入らず。昼休み、「人を動かす」(著/デール・カーネギー)読んでいて、(こうしている場合じゃない。銀行関係もろもろ、ことを進めなければ)と本を閉じ立ち上がった。家に帰ってきてご飯食べ、今日のところは電話・FAXで用が済み、あとは又、その続きをちょこちょことやればよろしい。結局、早退して、この喫茶店で書いています。「人を動かす」・・泣けてきた。これは事業をやっている人たちの処世術ともいえる例題が多いのですが、人に対しての関わり方を学習できます。けれど、なんてこった・・これは、人と人との間柄だけのことじゃない。人が神様に対して気を配る、その方法をも説いているのじゃないか・・なんてだいそれたことを考えたわけさ。そしたら泣けてきた。赤線引っ張りながら、これは神様の気持ちだなって。神様は、人と同じことを思うだろうに。人の原型なんだから。≪賞賛を受ける立場、重要感ある存在、関心を持たれるべき存在、当然肯定されるべき受け入れられる存在であり≫それなのに、多くの場合、知らん振りだものね。人間、無視されるほど辛いものはないよね。神様、私この本もっと学習して神様をもてなすことのできる人元になります。なりたい。この気づき・・あたしが頂いたメッセージだよ。あたしは真摯に取り組むべきだよ。そう思ったらさ、霊界に行った人たちへの気配りっていうやつも同じじゃんかって、気持ち起こってきて。なのに、あたしときたら、やっぱり自分のことに関心はらってやんの。自分のことばっか。なんて人間ちっさいのか。やっぱ自分かよ。なさけなかです。お彼岸は明日までだ。まだ、今から気持ちを改めれば間に合うよ。まだ、待っていて下さってるって。昨日の晩、やっと仏さまのところ、簡単に布で拭いて、ご飯と水を供えて。最近、それらを運ぶのにワゴンなんて使っている。サササササと体が踊るように動かなくて。で、今、お手洗いで閃いたんだけど、最近朝夢見てる。ちょっと重い夢だ。ドラマのようにストーリー性があったり。親戚のタクおんちゃんが家に来た。クニジおじさんが夢の登場人物に悪く言われている。今朝も死人の油の話だったり。その人たちの体がどこでどのように扱われているか、壁に遮られていて誰にもわからないようになっているなど、かなり不気味な夢だった。昨日朝の夢は、汚い工場のようなところを自転車で走って通り抜けているあたし。薬局の前にきて、女性オーナーが「責任者の名前は?」などと聞く。それには答えず「運送です」なんて答えているあたし。女性オーナーが言う。「あなたは、そんなことをしている人じゃないでしょ。私と一緒に仕事をする人でしょ」などと白い顔で霊能者のような言い方をする。まわりに若い女性たちが集まってきた。ある人が「アベ姓・・といったら仏壇ね」と言ってみたり。私の下の名前を口ずさんで、(ああ、この名前だと、うんうん)などと言って、頷(うなず)いて見せたり。人々は皆、白い服を着て清楚な面立ち、白っぽいお化粧。乙女のかんじ。一人の人が「お久しぶりね」と懐かしそうな顔をした。んん、どこかで会ったような顔の人だな。けど、知らない人だ。この人たちは霊界の住人だったのかもしれない。≪「ビン!」≫と今、窓辺で霊界の音が響く。また、ネズミ、犬などの動物の肉の映像。「あたしはこういうのは食べないんだから」なんて拒絶している私。今日の夢で、袋に安い服を何点か入れている。それを妹らしき人にあげようとしている場面。その袋をワゴンに積んで、妖しい工場のような館に入っていこうとした。「こっちだよ」と手招きしている人がいる。やせてる妹なのに、LLサイズのもまぜちゃったよと気づいてる。まあ、それはLLサイズの人にあげることにして・・とか。その場面より、もっと前に、死人の油から再生されたという女性が現れた。体の大きさは幼稚園児くらい、後ろ姿はかわいらしい。が、顔は大人で顔つきは暗く辛そうな表現をわざわざ作っているともとれる。その人は何かを伝えるための案内人であり、一時的に作られた人のようで、形は人間だけど、人形のようでもある。昨日の夢は、ちょっと面白く、今朝の夢はちょっと重く感じた。ああ、そうそう。最近、私は体が重たく、妙に疲れている。それで、昨日も、Nさんが帰ってくるまで横になって寝ていた。Nさんに気づいた。起きた。その時、思ったこと。もし、「上司をお連れしたよ。悪いが接待の用意を頼むよ」という設定場面が突如起こったら・・そしてその時、私が疲れて辛い体の状態だったら、どんなに大変だろうかと。お彼岸・・それでも、上司を接待するように夫の顔を立てるため、ご先祖様の接待をするのが、こういう時なんじゃなかろうか。今は、仕事のことも、お金のことも、しばし忘れて。夫の親族のために仕えよ。今、ここまで書いて、このことを私にわからせたかったんだろうか。そんな気がしてきた。そうだね。今の自分の動きのペースであっても、ちょっと頑張ってみようかと思います。 ◇ ◇ ◇【追記】韓国で買った高麗人参石鹸、アカスリグッズ、韓国海苔に魅せられました。その地で食べた胡桃入りレーズンパン、ロールケーキ、今までで一番「おいしい」と思わせるほどのものが。やみつきになりました。食べれば食べるほどおいしいのです。私の味覚に魔法がかかったかと思われました。≪「ビン!」≫霊界の音。 ◇ ◇ ◇ 【父への手紙2】お父さん、私の祖先が「貴人に食を供える職」にあったと本で読みました(アベ姓の祖先は「天皇の料理番だった家系」らしい)がすぐにはピンときませんでした。けれども、今お父さんのことを考えていましたら、(ああ、そうなのかもしれないな)と思い始めています。(追記:父は現役の頃、パンやケーキをつくる人でした)去年の夏、大量の家のガラクタ捨てと、大掃除をしましたら、その後のお掃除が勢いづいて、とてもラクに体が動くようになりました。(追記:今また物が溜まってきて、断食で体重が減ってきたというのに体が少し重いと感じます)テレビと本で読んだ、松居一代さんの掃除法にも影響を受けました。さて、それが一段落した頃には、お盆の季節が近づいていました。ガラクタ捨てを終えてみて、(お盆の用意を今年はキチンとしてみよう)と、初めて思い立ちました。これまで、「お盆に先祖の霊が来られる」とは、多分、信じられなかったのです。けれども、部屋の空気が整然となってみますと、来られるのではないか!そんな気がしたのです。(追記:今またお彼岸の時です。ご先祖の霊を意識して、お掃除で家と心の粉塵を祓うことが出来ますように)十年前、一度だけお供え物に心を込めたということがありました。その時、(掃除をしてきれいにお供え物をすることは私の趣味のように楽しい)という思いが沸いたことがあったのです。掃除とお供え物の意味について考えてみました。 家に神の霊を降臨させるとか、先祖の霊や、高い精霊を招くとか、そのような意味があるのかもしれません。まずはお掃除。要らない物、余分な物をいったん捨てて空っぽにしてこそ、神からくる良いものは入りやすく、来やすくなるのではないでしょうか。次に食物のお供え。今、お部屋に気持ち良い気が充満しているように感じられます。 ◆◆◆高橋姓の原意は、神降臨のために高々と建てられたポールである◆◆◆■日本人十数万名字には、それぞれ秘められた歴史があり、その秘密の暗号を解くと、わからなかった祖先がハッキリと見えてくる。全国の墓地などの調査等を収集した膨大な研究資料が証す初めての祖先史は、一族のルーツの秘密を解明する。アベ氏は貴人に食を供える膳夫の役を受け持っていた。その職を引きついだのが、高橋姓。橋は水平の二点を結ぶことに多く使う。天と地を結ぶハシもある。高橋さんの原意は神降臨のために高々と建てられたポールなのである。(アベ姓と高橋姓は兄弟の間柄とも別なところで聞きました) いまも昔も、神様のことを柱という。もともとは、神を招くために建てた棒、この柱を建てる儀式が、祭りの中でもっともたいせつなのだ。庶民は、なにか願いごとがあると、すぐ柱を建てる。そして、そのもとには縄張りして聖地をつくり新屋をつくる。神の座所だ。こうしておいてからはじめて神を招く。膳というのは、天皇や神に食膳をささげる役職の人たち。天皇に食膳を供えることは絶対の信任のあるしるしである。≪『名字でここまでわかるおもしろ祖先史』(著・丹羽基二/日本家系図学会会長)より抜粋≫(終)//////////
2007年03月23日
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「人を動かす」(著/デール・カーネギー)を精読している。本の中の≪相手に関心を持つ。笑顔。人に重要感を与える。心から褒める≫などを感じさせる人がいた。20分程のカウンセリングだったか。その人はニコニコの温かい笑顔で、人の話に関心を持って聞く。そして、それらを一切否定せず、むずかしい顔もせず。「だいじょうぶ」「いいんじゃないの」「それもその人の人生ですから」と言った。その人の顔を見た時、(あっ!あたしだいじょうぶだ。できる)そんな気にさせてくれた。 ◇ ◇ ◇書いて書いて書きまくる。それが元気の源だから。心に言葉を充満させていてはいけない。すっきりさせなきゃ。ここは、聞いてくれるマスターがいる。全てを肯定してくれるマスター。「だいじょうぶですよ。いいんじゃないんですか。はい、それも、いいんじゃないんですか。ああ、それ、いいですね。それもその人の人生ですから。いいんですよ。もんだいありません」6ヶ月お世話になった学校の担任講師の言葉。60歳~65歳くらいのお父さんという感じのいつもニコニコしている先生で。この方の面談カウンセリングには参ったな。テストの点数には、さほど関心がないという風で。多少の失敗を目にしても「まあ、たいしたことありませんよ。だいじょうぶ」と笑顔。(ああ、だいじょうぶなのか。なーんだ。心配して損しちゃったあ)安心感を与える人。なんだか、昔のお坊さんのような、大きな宇宙をみている人のような。後日、その方のカウンセリング力、話法によって、非常なやる気を引き出されたことなどを伝え、その方の重要性を賞賛しに行った。心の内に深い感動が起こっているな・・そういう風が、その方のお顔に感じられた。「先生は、全てを肯定してくれました。そうしたら、なんだか、方向性が明確になってきて、父とも話せるようになったんですよ」父に電話をしたのは、先生のカウンセリングを受けた後、そんな気持ちが起きてきたのだった。その電話の後から、私の手紙道の開始が起こったのだから。父母との関係が円滑になったら、絶対人生うまくいく。あたしは、今、面接内定の連絡が来なくて、心が不安定だと言わんばかりだけど・・。あなたなら、どこに行っても、上手くやっていけるよ。あなたの身に起こることは全てベストなことだ。何の心配も要らない。あなたにとって、一番いい環境と仕事を神様がお考えになっていないわけがないだろう。そして、来月、あなたはどこかに所属して、どこかに向って道を歩いているだろう。そう、もうじっと座ってばかりの日々には飽き飽きしている。動きたくてしかたないのだ。(2007/3/23寅の一刻・丙辰)近頃BGMは韓国ポップスです。 ◇ ◇ ◇【手紙というお供えもの】父母宛ての手紙<A4用紙を3枚分、6ページ>には、ちゃんと二つ穴を開けて閉じれるようにして送っています。自分の手元に置く分の控えの6ページ分もファイルに閉じてあります。ですから印刷する時は、1回目、A4用紙6枚(6ページ分)を初め印刷します。それを仏様のテーブルに広げます。2回目は、順番をずらして、その裏6枚を印刷します。そうすると、相手方とこちら側の二つ分が出来上がります。要領を得てきました。また、こうすると、6ページ分を仏様(神仏を総称した私なりの呼び名ですが)に最初に供えることが出来るのです。神仏に言葉、祈りを供えているわけだな、(ふむふむ)と気づきます。これらのファイルをお茶を飲みながら、けっこう読み返しているのです。そうしながら、ジーンときたりして、(さて、親の膝元から立ち上げるか。さて、しごとにかかるか)という気になれるのです。お彼岸の後半ということで、Nさんにあんこのお供えものを頼みました。あんこは霊界で愛情を顕わすとある霊能者が言われましたが、そんな気がします。 ◇ ◇ ◇【気づきメモ】6ページという6数を目にして思ったこと。手紙道を始めたのは1月初めだったけど、1月後半、私は番号くじを引いたのだ。将来を暗示する番号くじ。その数が「6」番だった。それが暗示する意味とは?≪私は将来、カナダに行くことがあるだろう≫アフリカの暑いところだったらどうしようという不安をおさめて、「エイ!」と引いた。私は寒いところでこそ、霊性をコントロールできる人である。 ◇ ◇ ◇【心の窓を開く】(2007/3/17庚戌4:00日記/会社面接・翌朝)窓を開くことにした。換気。部屋は閉じっぱなしではいけない。毎日、窓を開けて換気する。空気の入れ替え。ドアを開けて出かけては帰ってくる。人は一人では成長できない。否定を2割覚悟して、1割神様のメッセージを届けてくれる人との出会いを求めてみよう。(そのうちコメントスペースの再オープン)またこの店に(ここのまっさらなスペースに)やってきました。独りごとを言える店、ヒヤシンスさんの喫茶店、またお店を営業しましょうよ。ところで今年まだヒヤシンスを花屋の店先で見かけていない。もう3月後半だというのに。ヒヤシンスの精霊さんをここに招待しなければ。今度、花屋を通ったら店員さんに聞いてみよう。店主の私はとってもリフレッシュされた。これまでの古い角質をすっかり落として、新生復活したよ。溢れんばかりの心情が湧き起こっている。それをキャッチできる人、場、って?・・!ここのカウンター(喫茶店のイメージ)に決めた。ここに立ち寄って、ひとやすみしながら、次の行動を起こすよ。私は書く人になりたいんだ。小学卒業の文集には「作家」と書いた。よくその人物を遡る時、小学卒業文集を持ち出すよね。意味があるんだなってある朝思った。12歳の時というのは最も霊性の純粋性が高められているから、良心基準も高くて敏感だ。その人の本質の底、その人の基本的素養。(もっと言えばどういう能力を持った霊人、先祖さんの影響を受けているのかが顕れる)そうだ。今だったら、喫茶店にノートパソコンを持って書く作業をする人がいるものね。そういう環境設定で、私は、心に降りてきた溢れてくるものを、文章に表面化させていこう。そうしながら生きていこう。これからずっと。そこからきっと心の部屋は整理されて、神様にお祈りする、高められた言葉が起こって来るかもしれないから。いいや、きっとそのようになるだろう。その為の下書き、自由ノートがここの場。きっと精霊スタッフさんが、ふっくら肌の笑顔で相手になってくれる。コーヒーのおかわりはいかがですか?とか言って。(大丈夫だいじょうぶ、それもいいんじゃない)(ああ、いいですね。それもその人の人生ですから、いいんですよ)などと相槌を打ってくれる。ありがとう、精霊スタッフの皆様。(今度お礼にお食事のもてなししなくてはね)◆◆元気を沸き起こすため≪「脳内革命」(著・春山茂雄)読書ノート≫何度も繰り返します◆◆ ■『(p24)自然界には麻薬のモルヒネがあります。このモルヒネは中毒の危険がありますが、脳内モルヒネにはその心配はまったくありません。しかもその効力は麻薬のモルヒネの五、六倍もあるのです。一部の人たちが法を犯し、廃人になる危険を知りながらも麻薬のモルヒネに走るのは、それが気持ちいいからです。でもそんな危ない橋を渡らなくても、神様は私たちに脳内モルヒネを与えてくださっている。※これは神様からの次のようなメッセージだと思うのです。「人生を愉快に生きなさい。愉快に生きればいつも若々しく健康で、病気にも無縁で長生きできますよ」―と。脳内モルヒネの存在は神様が正しく生きる人間にくれたごぼうびともいえます。■(p26~28)【マイナス発想はなぜ病気になるか】・・プラス発想とか肯定的思考「物事はよいほうに考えるとストレスがたまらない」「なんでも前向きに取り組んだほうが結果はよい」というほどの意味と理解。医学の世界でもいわれはじめた。 ※心と体はいつも対話している。「心で考えること」は、抽象的な観念などではなく、きちんと物質化されて「体に作用する」ということがわかってきた。人から何かいわれて「いやだな」と思うと、老化を早めたり発ガンを促進する物質が体内に発生する。 ※反対に「ありがたいな」と思うと、若さを保ち体を健康にする物質がつくられる。医学的にも私たちの体にはこういうメカニズムがはたらいているのです。したがって、なんでもプラス発想する人は病気に強い。「心のもち方」の差がひじょうに大きな意味をもっている。 心のもち方によって体内に生じる物質とは一般にホルモンといわれているもの。心のもち方に関係する主なホルモンとして、アドレナリン、ノルアドレナリン、エンケファリン、β-エンドルフィンなど。≪人は怒ったり緊張すると、脳内にノルアドレナリン≫が分泌されます。≪恐怖を感じたときはアドレナリン≫です。ホルモンとは細胞間の情報伝達物質のことで、脳の指令を細胞に伝えるものですから、怒りの情報が伝達されると、体はシャキっとして活動的になる。その意味では生きていくのに欠かせない物質なのですが、どういうわけかものすごい毒性もあるのです。つまり、いつも怒ったり強いストレスを感じていると、ノルアドレナリンの毒のせいで病気になり、老化も進み、早死にしてしまうのです。※一方、いつもニコニコして物事をよいほうへ、よいほうへととらえていると、脳内には脳細胞を活性化し体を元気づけるよいはたらきのホルモンが出てきます。これらのホルモンは若さを保ち、ガン細胞をやっつけ、人を楽しい気分にさせてくれます。 ※人生を楽しく健康に過ごし、生活習慣病にかからずに長生きしようと思うなら、このようなよいホルモンが出る生き方をすればよいのです。人を楽しくするこのホルモンが、私のいう脳内モルヒネです。 物質の構造式が麻薬のモルヒネによく似ているからそう名づけたのですが、麻薬のモルヒネは依存性や副作用の危険がありますが、脳内モルヒネのほうは、その心配がまったくありません。 人間に快感をもたらすホルモンは約二十種類ほど知られていますが、作用の仕方、強弱の差はあってもその薬理作用はほぼ同じなので、本書ではこのような快感ホルモンを総称して「脳内モルヒネ」とよぶことにします』(終)//////////
2007年03月22日
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「わっかいなあ!」という驚きの声、よほどうれしかったようです私。(ほおー!自信回復です)履歴書の写真と実物の写真を交互に見ながら、驚きのパフォーマンスをしてくれた面接官の支社長の言葉。「皆に若いって言われるでしょう?」フォロー役の女性支部長も優しく言ってくれる。就職面接会場での一場面。「いえいえ、とんでもありません」と手を振り言ったのだったか?いいや、私はこう言ったのだった。「そうですかあ!うれしいですぅー!」明るく笑顔で。実に全く誰にも言われません。「若い」・・だなんて。まあ、周囲に私の年齢を公表する機会はそうそうありませんが。それに、つい最近までひどい顔をしていましたし。あれぇ?あたしの顔、どこにいっちゃったんだあ?自分でも、どういう顔の人だったか、わからなくなっていました。久々に前日の美顔、当日の化粧で眉毛を整え、鏡にスマイル。ああ、懐かしの顔の復活だ。長い間、この顔はお休みしていたようです。懐かしい友と再会したような喜びです。顔の激変は旅行が転機でした。断食も解除しましたし。2月21日から高速バスで出発し、2月22日早朝フライト、23日、24日、25日と韓国に3泊しました。Nさんとの二人旅は北海道旅行以来6年振りです。旅のコーディネートはツアー・チケットに頼らず、一から私が組み立てました。ソウルの移動は地下鉄と路線バスを使い、初体験でしたが計画通りに成功しました。帰国後、二人は高熱を出し倒れました。ここからは友人カヨさんに宛てた手紙で報告します。 ◇ ◇ ◇■『インフルエンザ、みごとに(?)克服しました。7年ぶりの高熱でした。関節にきて、持病の腰痛にきたりして、トイレに行くのも、やっと決意してという状態だったり。1週間休みました。7年ぶりに寝込んだわけです。熱が普通に戻ってからは、なんと、カヨさんが、この時期、必ず心配してくれる花粉症状態です。が、寝込んでいた状態からしたら、花粉症など、なんでもありません。 花粉症の克服法・・ちょっとわかりかけてきました。まず、外出先から家に戻ってきたら、お風呂かシャワーを浴びて、汚れと花粉を落とす。目がかゆくなったら、思わず、かいてしまいそうになるけど、その都度、顔や目や鼻を洗う。紙でばっかり洟(はな)をかんでると、皮膚が痛くなるし。それと、昨日、洗濯や掃除をしながら、窓を開けるべきかどうか、少し迷ったけど、ドアを開け放して、水をジャージャー外にまきました。 で、おもしろい!と、今日思ったのです。熱を出していた時から、洟(はな)水や、痰や、とにかく、顔の鼻から水分がごっそりでて、ティッシュの山を毎日つくっていましたが、な、なんと!(顔が良くなった!)今日、鏡を見て、そう思ったんです。顔から毒素がいっぱい出たっていうことなのでしょうか?顔つきの悪さ、シミだらけのくすんだ状態の全体像が、ピチピチになっていたんです!(笑) 私、去年の10月から、曙時間から日没迄の日中断食を、結局、今年の2月末まで5ヶ月やってました。何となく続いたし、なぜだか出来たんです。2月末に旅行があって、断食を解除しました。で、帰ってきてから高熱で寝込んだものですから、そこから日中断食はあえなく完全終了の形をとることとなりました。咳が出るたびに大根シロップを飲む必要がありましたし。 で、この頃は、大根おろしや、玉葱と玄米と生姜おろしの雑炊なんかを食べたりしてて、鼻や喉に良さそうなものをよく食べています。それも効果があったのか、とにかく、顔から悪いものが出たっていう感じがして、ああ、本当にカゼって、体に溜まっていた毒素を出してくれるんだなあって実感しているところです。断食も毒素排泄にいいだろうということもあったのですが断食最中美的には・・んん、ちょっと(?)でした。はっきり言って、見られない顔つきになっていて・・(この顔、どうしよう?もう、なおらないんだろうか・・)かなり、あきらめモードで、人とあまり対面したくない状態でした。(日中水も飲まない断食だったため顔の血の巡りが悪く、表情が活性化せず)いま、かなり普通に戻りました。【追記】:その後の就職面接では「若い」「若いって皆から言われるでしょう?」しきりに言われました。・・ああ、顔、持ちなおしたらしい。(ほっ)(中略)今、両親に10日に1度の手紙を実践しはじめました。ところが、私は字が下手です。手書きでは、1年に1通も書けない私です。と、ところが、カヨさんの「ワード」を使って、印刷したものを送るようになったのです。それなら、親に書いて出せるのです。10日に1度くらい平気で出来るから不思議です。「ワード」とってもキレイでありがたい。(字体はMSPゴシック、文字の大きさは「12」で書いています) 本当は手書きの方がいいに決まっていますが、それだと、限りなく手紙ゼロに近い私です。手紙ゼロよりは、印刷したものでも10日に1度、送られてくる方が、親も育てたかいがあるというものです。(・・ですよね)私ときたら、電話も苦手だったりするし。20年前から、10日に1度手紙を出せたら、素晴らしいなあ・・と漠然と思っていましたが、実行に移せる見通しは、全くついていませんでした。 手紙の内容は、日常生活の報告とか、日々の生活の中でちょっと感動したこととか、なんでも心の内を書いています。父に最初、手紙を書きだして。で、父宛てに投函したあと、5日後に、母宛てに出したりして。そうしているうちに、私の心のウツ傾向が、(・・治ったな)と思えたことがあって。実際は、心の内を書こうと思えば、きっと親は心配するかも?だから、ふつうは書かないでおこうとか、黙っておこう、ということが多いと思うのだけど。ですが、マイナス的なことでも、報告すると、問題としていることが終了し、次のステップに進めるという気がしています。親っていう存在は、つまり神様と同じなわけなのです。神様へのお祈りとかの意味って、挨拶とか報告とか相談とか連絡とか・・そういうことなのかなって。親が他界している人は、お墓参りをするわけで。お墓や仏壇の前で、手を合わせて、何か言葉にしているわけであって。親が健在である私の場合は、心の思いを書いて送っています』(以上カヨさんへの手紙抜粋)【追記】:お墓参りと読み返して・・春のお彼岸の時期と改めて意識しました。(春分の日を挟んで前後3日間、計7日間)後半、気合い入れ直します。(終) ◇◇◇「脳内革命・2」(著・春山茂雄)p124~127抜粋◇◇◇■声を出して鏡に語りかけなさい・・プラス発想の習慣化で私自身が実行していること、それは「鏡に語りかける」ことです。朝起きて洗面所で鏡と向きあう。そのとき声を出して鏡に映った自分に「おはよう。今日はすごく気分がいいよ」と語りかける。 頭が重かったり、気分のわるいときでも、にっこりほほえんで気分がよいことにするのです。「おはよう。今日も元気でがんばるからよろしくね」神社の前でお賽銭を出して手をあわせているのも似たようなものです。これは一種の瞑想なのです。 患者さんに瞑想をやってもらうとき、楽しいことばかりではなく、抱えている問題を解決するイメージとか、願望が実現していくイメージを描かせ、初心者には「おお、解決できたぞ」とか「望みがかなったぞ」「うれしいな」とわざわざ声に出してもらいます。 われわれが言葉にしたものが物質化して、左脳から脳梁を伝わって右脳の遺伝子まで到達するからです。だから鏡に向かって「最近、君はずいぶん生き生きしてきたじゃないか」と語りかけると、本当に生き生きしてきます。 「肌の色つやがよくなって少し若返ったんじゃないか」といえば、少なくとも細胞はその方向へと機能しはじめる。自己暗示を用いた自律訓練法でもはっきりと証明されている。AとBの二人の人間がいて、右脳も左脳も同じようなレベルだったとします。 Aは鏡に向かって「おまえはすごいんだ、すごいんだ」といい続け、Bはとくに何もしなかったとしたら、何年かのちにものすごい人生の違いになって現われていることでしょう。人間のやることを一つひとつ見ていけば、そんなに大したことはやっていません。 語学だって単語一つ覚える努力はみんな同じです。でもそのとき、口でブツブツいって覚えるか、黙って目だけで覚えるか、見た目の差はないようですが、先へいって希望の学校に合格するか不合格かくらいの差はゆうに出てきます。 鏡に向かって語りかけると、自分がだんだん好きになってくるはずです。そうしたら、できるだけ鏡の中の自分をほめてやることです。自分でそういい続けていると、脳というのはその気になるのです。(終)//////////【追伸】:「私はキレイ、私はキレイ、私はキレイ」と鏡に向かって一週間言ってごらん。本当にキレイになるからと教えてくれたのはカヨさんです。この習慣マスターしようと思います。
2007年03月21日
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【父への手紙1】(2007/1/13(土)早朝)に書いた第一回目の手紙を紹介します。10日に1度の手紙を実践してから3ヶ月が経とうとしています。20年前から、それを実現できたらどんなにいいかと漠然と思っていました。2年前から又、思い始めました。親や、神様を求める時はどんな時でしょうか?困った時です。「お金送って欲しい」とか。うまくいっている時は、有頂天になっていて・・親のことを忘れてしまっています。今回、書くきっかけとなったのは、はやり困っていたことを助けられたことからのお礼状からです。最初は葉書にびっしり、原稿用紙1枚半の分量を書きました。気持ちが通じたな・・という感触を得て、もっと書きたくなった。もっと、気持ちを伝えたくなった。報告したいことって、だいたい親が心配するようなことばかりかと思います。けど、書くと解決が、何故か早いと感じます。心配もさせ、その後、「ありがとう」もいっぱい言える。全く音信不通の交流ゼロより、よっぽどいいかと思います。私は親への手紙習慣が、神様への報告習慣につながってくれるということを信じています。父と母は私の専属の守護神です。子供が大勢いても、多く報告しにやってくる子供に心を多く使うようになるでしょう。ならば神様だって同じです。人類という大勢の子供を抱えている中で、多く「お父さん」と慕い求めてくる子供に耳を傾けざるを得ない。いっぱい心配させて、いっぱい感謝する。父母の心には心配させられた思いは、ザルから流れ出ていってしまい、感謝された賞賛と喜びだけが心に留まることでしょう。そして、私の手紙は、父と母の夫婦の話題を支えることになるでしょう。 ◇ ◇ ◇【父への手紙1】慕わしい、私のお父さんへ・・お父さんへ、手紙を書きたくてたまらない気持ちです。私は書くことが好きだというのに、なぜ、これまでお父さんに手紙を書くことが出来なかったのでしょう。きっと、何をどう書いていいのか、わからなかったのです。 けれども、先日、お父さん宛の葉書に、心の悩みや、今の現状を書いているうちに、しだいに心がスカッとしてきたではありませんか。私の精神状態が、晴れ晴れとしてきたのです。今、思いますと、母がヒントを与えて下さいました。電話で「年末は心が鬱状態になるので、今回もまた年賀状は書けない」という話をした時に、テレビ番組は何を見てるかという話題になり、「細木先生の番組は為になる」と母が言ったのです。細木さんの番組を見かけました。母の言葉を思い出し、チャンネルを変えずにそのままにして見ていましたら、お笑いコンビのスピードワゴンの小澤さんへ、「息詰まったら父親と話せ」というアドバイスがありました。小澤さんは「父親は苦手」と顔を渋めましたが、「いいから話せ」と念を押されました。今、鼻詰まりが治ったように、心がスカッと動き出すようになったのは、そういうことなのだと思います。父親と、うまく話しをすることが出来なくても、こうした一方的な手紙で、自分の心を伝えるだけでもいいのだと考えるようになりました。真剣に伝えようとすれば、親は、ちゃんと耳を傾けて、話しを聞こうとしてくれる。娘の手紙に目を通して「うん、うん」とうなずいてくれる。それだけでも、心のやりとりは成立するのだと思いました。私は、ただ父に「うん、うん」とわかってもらえるだけで十分幸せです。そう思いましたときに、(お父さんって、神様みたいなんだな)と思いました。人間と神様は、簡単にはお話が出来ません。それは、神様の子供である、人類始祖アダムとエバが、親である神様の言うことを守らず堕落してしまったからであると、聖書では言われています。それで、親子の関係を回復するために、人間は神様に「祈り」を捧げるようになりました。「天のお父様」と呼びかけて、もともとの親子関係を修復しようと、取り戻そうとしてきたのです。細木さんが、「息詰まったら、父親と話せ」という言葉は、理に適(かな)っているのだと思いました。お父さんの存在が、私の精神を大きく救うきっかけになるのではないかと予感しました。運を開くきっかけが、わかりかけてきました。お父さん、ありがとうございます。私を、受け入れて下さってありがとうございます。どれほど、お父さんの深い愛情を感じたかしれません。このご恩は、宝物のように、お守りのように私の心を温めます。そのご恩に対する返信の気持ちを、手紙を書くということを通して、報告できるとするならば、どんなに素晴らしいことかしれません。(終)//////////
2007年03月21日
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「自分に起こることはすべてベストである」と言い聞かせている最中です。会社の面接を受け内定待ちの状態で、心身とも落ちつきがありません。掃除や片付けなども、気合いが入らず。けれど、「お先真っ白」、「一寸先は光」です。私は必ず神様に用いられる人となる。 ◇ ◇ ◇ お久しぶりです。いよいよ、ここに書かないことに限界がきました。最近まともな日記を書いていないのです。父母宛てには10日に1度、ワード6ページを編集して送っています。以前、ここに書いた日記を編集して、最近の出来事1ページ程を新しく書き加えて。「文章は誰宛てに書くか」で違った内容、仕上がりになります。宛て先の相手方様に、合わせた書き方をするものです。この場は、特に宛て先の相手方様は特定されていません。私はノートに書き殴るようにして、思いついたことを書き留めておく下書きの場が欲しいのです。私は気づきの人です。それを文章化する人です。そうしながら、さらに気づきを起こしていく人です。それで、今、あなたは何をするべきか、自身に指令を与えます。納得して行動を起こします。書くことによって、悲しみをやわらげ、喜びを倍増させようとしています。瞑想の意味が最近わかりかけてきました。自宅喫茶店で、白熱灯の柔らかい灯りのもとでコーヒーを口にしながら佇(たたず)みます。(佇む・・立ち去ることが出来ないで、そこにしばらく居るの意)私の魂は一時(いっとき)自身の体から抜け出ます。(イメージですが)屋根裏にすーっと抜け(イメージ)、白い小鳥のように屋根裏、小屋裏の広いスペースにとどまり、ものごとを考えます。小屋裏には壁のしきりがないので天井の大きさと同じスペースが広がっています。「くよくよするな。おちこむな。ダメージを受けるな。ショックを受けるな」如何程のことも有るまい。たいしたことはないということだ。とらわれものとなるなよ。≪ああ、神様、あなたは縄に縛られて長き間、人質になっておられたのですね。一番信頼していた忠臣と思っていた臣下に愚弄され・・≫(「チェオクの剣」最終回場面を見ての気づきより)それに比べたら何でもないということ。私に落ち込むような場面が来た時は、あなたの悲しみをお慰め致しましょう。私が評価され、賞賛を受け、存在の重要性を認められた時は、あなたが本来喜びの神様であることを思いあなたを褒め称えましょう。私はあなたの道具として仕え生きることを最上の喜びと致しましょう。自分が無いなんて、何て素晴らしいんでしょう。デール・カーネギーの「人を動かす」を再び読んでいます。赤ボールペンを持ちながら。以前は、通勤電車でサラサラ読み流しました。先日、初めて正社員としての就職面接を受けました。面接官の支社長さん、随分、根掘り葉掘り見下すように質問を投げかけるんですね。はっきり言って、不快な気分に襲われました。あなたは何様でしょうか。腹が立ちました。どこかにぶつけたかった、このおもい。けれど合否は神様、あなたの御心に委ねます。そうしたら、もう気分は害されない。おしまい。2時間にも渡る面接、私だけの為に時間とエネルギーとを投入して下さった。無料で。いずれにしても、これは私にとってセミナー体験だったと思う。一人舞台をせざるを得ない状況に。どんな本を読んだか。どの部分が心に残っているか。どのような人にどのような影響を受けたか。(・・本当にしちめんどくさい質問ばっかりしやがって・・)私は面接会場から出た後、いきつけの喫茶店で気のおけないマスターに愚痴の一つでもこぼしてみたかったんだろうと思う。本当に人から点数をつけられるのはシャクにさわります。けれどもね、こうもおもったよ。地上での肉身生活が終わって、霊界で面接試験を受けようという時、やっぱり過去の履歴書を持って、これまでの歩みを説明せよと言われるんだなと。(その時の舞台稽古であると思えよ)今回の面接試験終了後(そう試験だったんだ)、数日に渡って、再度あの質問に対してはこう説明をすればよかったとシュミレーションを繰り返してばかりいた。過去の履歴に関する問題点などが解明されていった。私小説を客観的な目で見ることにもなった。全ての物事に感謝。 ◇◇◇「脳内革命・2」(著・春山茂雄P215~220)◇◇◇ ◇◇◇ 「どんなときでもプラス発想できる法」より抜粋 ◇◇◇◆『プラス発想の真髄は、とてもプラスに思えないことをプラス発想で考えるところに存在する。最愛の肉親を亡くしても、天をうらむのではなく、「自分に起こることはすべてベストである」(船井総研の船井幸雄会長)と思うような場合である。マイナスにしか思えないような事態でどうプラス発想するかは最大のテーマです。最愛の人を失ったとき人はどう感じるのか。自分になんの落ち度もない、相手にもないという場合がいくらでもあります。天を呪いたい気持ち、しかし呪ってどうなるでしょうか。 その話は聖書の有名なヨブ記に出てきます。富、家族、名誉と世俗のもので何一つ不自由なく、また信仰心においても並ぶ者がないといわれたヨブ。彼にあらゆる厄災がふりかかったとき一時は天を呪いますが、やがて自分にその資格がないことを悟る。被造物たる人間に創造主の意図はわからないということです。医学的に見てもわれわれの体のつくりにはわからないことがいっぱいあります。脳細胞も百八十億個のうちほんのわずかしか使っていない。しかし最近になって一つだけはっきりしてきたことがあります。それは、脳が私たちに「健康になりなさい」「成功しなさい」「人生を楽しみなさい」といっていることです。人間には自由意志が与えられています。人生を幸福に生きたいと思う人には、そのような人生を選ぶことができる。それが脳内モルヒネの発見でわかってきたのです。ただしそれには条件があって、さっきのヨブ記ではありませんが、どうも創造主の意図するところに反すると、いくら幸福になりたいと思っていても、逆方向へと向かわせられる。ノルアドレナリン、アドレナリンの世界がそれです。脳の命令とは創造主の命令と考えられます。では創造主が何を意図しているか。それを医学的な見地からみていくと、結局は自己実現を目指しなさいといいうことに帰着します。では自己実現とはなんなのか。マズロー博士のキーワードを借りれば、それは真、善、美、躍動、個性、完全、必然、完成、正義、秩序、単純、豊富、愉しみ、自己充実のことです。要するにだれが考えても正しい生き方、立派な生き方、人から非難されることなく楽しく充実した生き方。そういう生き方をすることが自己実現ということであり、人間が生まれてきた目的もこれにあるなら、至福の喜びを感じられるのもこれだというのです。脳内モルヒネに関連するエー・テン神経のはたらきを考えると、やはりこのへんに人生の真実があるように思えてきます。エー・テン神経は原脳にあって、爬虫類も犬猫も備えている神経です。この神経は快感神経と呼ばれ、ここの細胞が刺激されるといい気持ちになる。快感と呼べるものはすべてこの神経細胞が刺激されることからはじまる。脳内モルヒネの源というわけです。ただこの神経には不思議なことが一つあります。ふつうどんな神経でも正負の関係があって、どこかでブレーキがかかる。どんなに性欲が強くても満たされれば、負のフィードバックといってそれをおさえるはたらきのホルモンが出てきてブレーキをかけるのです。ところがエー・テン神経が人間のいちばん上位脳である大脳の前頭連合野と連動するときだけは、ブレーキに相当するものがいっさい見あたらないのはどうしたわけなのでしょうか。つまり人間が真善美にかかわったり、正義の行動をしたりするときには、それを防げるものがない。脳内モルヒネはいくらでも出てくる。脳内モルヒネは自然界のモルヒネにくらべて効力が強いですから、人間が自己実現しているときの快感は尽きることがない。このことに私は創造主の意図、目的を感じるのです。一般に芸術家が長生きなのは、彼らの扱うものが真善美だからでしょう。彼らには脳内モルヒネが絶えず分泌し、それが創作意欲になると同時に創作の喜びにもなっていることは想像に難くありません。ナイチンゲール、シュバイツァーが九十歳の長寿を保ったのも、世のため人のために生きたからでしょう。「つらいことが多いだろうに、何が楽しみであれだけのことができるのか」と思うでしょうが、実はわれわれが感じるのとはケタ違いの快感を味わっていた可能性が大きいのです。偉人賢人たちの跡をながめて「ご苦労なことだ」と思うのは、俗人の浅知恵というもので、とんでもない隠し財産を彼らは保有していたことになります。世の中がいま大きく変わろうとしていることとあわせて、そこに見えざる何者かの意志を感じるのは私だけではないでしょう。立派すぎることには、いままで畏怖尊敬の念は抱いても、それに自分が挑戦してみようという勇気は俗人たる私たちにはなかなか湧かなかったものです。なぜなら、それはとてもつらそうで、少しも楽しく思えなかったからです。だが事情は一変したのです。人間にとって最高の喜びは、前頭連合野とエー・テン神経を連動させることである。それはマズロー博士の説によれば自己実現である。自己実現する人間は「至高体験」を味わっている』(終)//////////
2007年03月21日
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霊人体が「ちょっと待って」と言って、頭上二メートル上の屋根裏に小鳥のように止る。(白色の鳥)考え事をする時の風景。 ◇ ◇ ◇≪走り書きメモ≫3月16日(金)午後1時の約束の時間より早めに到着。支社長と支部長を前にして二回目の会社訪問での面接。正社員の会社面接は初めてのこと。根掘り葉掘り聞かれる。裁判官のように上から見下ろした紋切り型の口調。空白期間に話が及ぶ。大きく息を吸い、ゆったり構えてみせる。通り過ぎた。来るなら来い。受けて立ってやる。背筋が伸びた。顔つきからニヤケ消え。目が据わる。顎を引く。くちびるを引き締め、ひたいに意識を集中させる。呼吸を整える。魂と魂の勝負を挑んでいるかのようだ。刑務所で、権威ある人から、「あなたは今まで何をしてきた人なのか」を問い正されているようだ。言葉尻をとって、さらに追求して責めたててくる。どこかに嘘があったら暴いてみせるという波動を放っている。「わかってるね」暗黙の霊波の光線が、その人の顔から出ている。様々な質問状は、その人間の素地が浮き彫りにされるように仕組まれている。いぶかしそうな顔で淡々と質問を放っていく。面接官の支社長、何枚もあるプリントの項目にチェックを入れていく。最後、「消費者金融の借り入れがあったらゼロにして下さい。それが採用の条件です」ピシャリときた。「ではこれから健康診断を受けてきて下さい」「予約は入れてあります。もちろん料金は会社負担です」面接終了。とにかくその調子にあおられてしゃべらせられる。返答が質問の意図に合っていなければ、同じ質問が再度繰り返される。その面接マニュアルはあえて高圧的に作られているようだ。健康診断で、「胸を開けて下さい」「はい」胸を開けて、若い異性の医者に聴診器をあてられているようだ。決していい気分ではなかったのだが・・。私の内なる人は、なぜだか気落ちもし、腹も立てていた。「あんた、何さまだ!」・・最後、捨てゼリフを言われたような。身柄を釈放されたような。いつもの場所にしゃがみこみ。「キッサテーン!」と言って白熱灯のコンセントを差し込む。お湯がぐらぐら沸くのを待っている。霊人体が「ちょっと待って」と言って、頭上二メートル上の屋根裏に小鳥のように止る。(白色の鳥)考え事をする時の風景・・瞑想中とはこういうことか。メモ用紙をとってくる。書く。コーヒーを飲む。水を飲む。(終) ◇◇◇『脳内革命』(著/春山茂雄)抜粋*読書ノート◇◇◇ ■(p26~28)数ある脳内モルヒネの中で、最強の快感ホルモン物質はβ-エンドルフィンで、その効力は麻薬のモルヒネの五、六倍は楽にあります。これだけの快感物質が私たちの脳内でつくられることは何を意味しているのでしょうか。(※)神様が私たち人間に「楽しみなさい」といっているのだと思います。人間はけっこうわるいことも考えるし、実際にそれをやってしまいます。たとえば「人をおしのけてでも自分が得をしよう」と考える人がいます。そうやって大金を儲けたとします。あるいは地位や名誉を得たとします。そのような願望が実現すればその人はうれしい。うれしければ脳内モルヒネは分泌します。(※)しかしなぜだかそのような楽しみは長続きしないのです。必ずどこかでおかしくなる。世のため人のためにならないこと、人からうらみをかうようなことをすると、どういうわけか脳がその人を滅びの方向へと誘導してしまうようなのです。(※)これはたぶん、神様が理想とする生き方にあった者だけが生き残れ、それにあわない者はできるだけ消していこうとするメカニズムが、遺伝子というかたちで体の中に残されているのだと私は解釈しています。 脳には先祖の記憶までインプットされていますから、そういうことがあってもおかしくないと思うのです。 ■(p28~32)【ビジネス戦死が早死にするのはなぜか】・・世の中をよくするために自然を含めて地球上のあらゆる生命力と「共生しよう」という考え方を唱える人がだんだん増えてきました。これからの世の中のあり方を考えるとき、これはなかなか斬新で魅力的なアイデアだと思います。私が尊敬する経営コンサルタント、船井総研会長の船井幸雄さんやEMの発見者である琉球大学の比嘉照夫教授などが、この言葉をよく使われています。私もこの考え方には全面的に賛意を表したいと思います。(※)私は医者ですから、医療を通じて新しい世の中のために何か役立つことをしたいと念願しているのですが、それは私自身のためでもあるのです。世のため人のためにならないことをすると、脳は必ず滅びのほうへと個体を誘導するようなのです。(※)船井さんは「宇宙には創造主の意志がはたらいている」といっておられますが、それは遺伝子に刻み込まれているのではないか。それにあったものだけが生き残れ、あわないものは滅ぼしてしまおうというメカニズムがきっと体の中にあるのです。実際、私たちが意欲的に仕事をしていると、脳がひじょうに活性化してドーパミンというホルモンがふんだんに出てきます。ドーパミンというのは人間に意欲を起こさせるホルモンですが、出過ぎるとエネルギーを使い過ぎて早死にしてしまうのです。死ななくても精神分裂症とか癲癇のような症状をおこす。出なければ出ないでパーキンソン病や痴呆になってしまいますが、出過ぎるのも問題です。過去に天才といわれる人物が早死にしたり脳の病気が多いのは、ドーパミン過剰と関係が深いと考えられます。脳のはたらきからみれば脳内モルヒネの活用がうまくできなかったからともいえるのです。人にすぐれて大きな仕事をするには、それに見あうエネルギーが必要になります。だがエネルギーの出方を上げれば病気か早死にが待っている。これは二律背反のようですが、実はすごいバイパスがあるのです。それが脳内モルヒネの活用なのです。ドーパミンをどんどん出しますと、エネルギー消耗でバテてしまうが、そういうときに脳内モルヒネが分泌すると、少しのドーパミンで十倍も二十倍もドーパミンが出たのと同じようなはたらきをしてくれます。つまり脳内モルヒネにはテコの原理に似たエネルギー増幅効果があるのです。いくら意欲があってもドーパミンの出し過ぎは副作用があります。ドーパミンとかノルアドレナリンは必ず活性酸素を大量に出す。(※)脳内モルヒネの場合はそれがないので、少量のドーパミンを脳内モルヒネで増幅して使うのが理想的な脳の活用方法といえます。昔から偉いお坊さんは高いレベルで世の中を見とおし、人を感化する力をもっていました。いつの時代にあっても相当な長生きをしています。彼らの生き方、考え方を調べてみると、脳内モルヒネ系を駆使したとしか思えなかったことがたくさんあります。悟りを開いたような人が一般的にいって長生きなのは病気に強かったということですが、これも脳内モルヒネのおかげなのです。こういう人なら、たとえひどいエイズ菌をもらっても、ふつうの人のようには発病しないでしょう。免疫力が高く自然治癒力も強力なはずだからです。(終)//////////
2007年03月16日
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日中断食は120日を越えました。(今日で145日目です)今年に入ってから変化したことは、父や母に手紙を書くようになったこと。お祈りするように、「お父さん」と呼びかけて、その後、普通にここで書いてきたように思ったことや日常を書くだけです。プリンターで印刷した用紙をテーブルに並べるとき、食べ物と同じように、手紙もまた、神仏に対するお供え物のようだなと思ったのです。食べ物も、言葉も、コミュニケーションだなっていうことです。だんだん、この作業が手際よくなり、手紙作家が趣味となりました。ここで、日記をお休みしている間、そういうことをしていました。ここのブログを始めた2年前、「ブログを始める動機は、母親に宛てる手紙の下書きのため」と最初の日記に書きました。思いは、実現するのだなあと、感慨深い気持ちです。今、甲田光雄氏の本の読書ノートを読みながら、こういうことも少しずつ父と母に伝えていくことを、ずっと、したかったんだなあと。今、それができるなという気持ち。父への手紙の習慣は、きっと運を開くと予感してる。「病気は遺伝子からきている」・・書くことによって、痛みが解けていくような気がします。問題解決に向けて。親に手紙を書くという新習慣は、神様への呼びかけにもつながっている。それが、母宛では実現できなく、父宛ての手紙から出発した。ほとんど話したことがなかったのに。父に書き出したら、止らなくなった。母にも書きたくてたまらなくなった。手紙の内容を、もしかしたら、今後ここで紹介するかもしれませんが、今日は、甲田先生の読書ノートから抜粋記事(「マイナス栄養のすすめ」著/甲田光雄)をアップしてみます。 ◆◆◆「してはいけない」より「・・になりたい」の念を強くもつ◆◆◆ 皆、玄米五分ガユとか三分ガユのような厳しい少食を実行、また断食にも挑んでいく中で、いままでどうしても治らなかった難病が治ってくるのを知って、大きな希望が前途に開けてきて大変喜ばれるわけですが、それには常に「希望」が原動力になっております。それはどのような希望かというと、「治ったら何でも食べられる」という希望であります。 しかし、そういう希望では駄目なんです。「これからは少食になっていく。そして本当に簡素な生活で満足できる人間になっていく」ことを目標においた方がよかったのです。治ったら何でも食べられるというのを目標におくと、断食後の少食に不足の念が出てきます。この道に入られる時には、少食にならないかんということですけれども、「いけない」では辛抱することになります。しかし、辛抱することは決して長く続かないわけです。大飯を食べては「ならぬ」「してはいけない」というのは、自分を抑えていることになるから成功しないのです。それよりも「少食になりたい」「簡素な食生活で満足できる人間になりたい」と思う方が成功するのです。「何にも食べられない体になってしまった」ではなしに、「こんなに少ない食事でやっていける体になってきた。なんと嬉しいことか」と思う方が成功するのです。「してはいけない」は辛抱することになり、必ずストレスがたまるのです。断食も歯をくいしばってがんばっているとストレスがたまる。がんばったらダメ、そうではなく、喜んで自分としては望んでやっている。そういう人間になりたい。少食でやっていける人間になりたい、なりたい、なりたい、なりたい。 と朝から晩まで考えていたら、そういう人間になっていくわけです。そういう状態になったことに少しも不満がない。一方「してはいけない」では、しまいに、こんな窮屈な生活はたまらん、と爆発してしまう。長続きしないわけです。「なりたい」の方は希望をもって少食に近づいていけるようにするから長続きする。 自分の運命を変えるのは、したがって想いを変えないかんわけです。想いを変えて、毎日毎日それを強く想っているとだんだん実現していくのです。だから、どんな人間になりたいかをよく考えて、それを毎日毎日頭の中にうかべて、潜在意識の中にたたきこんでおくと、大きな力になる。これがいちばん大事なことです。 難病になって、苦しい断食したり、生菜食したりしなければならない運命になって、自分を呪ってみたり、両親を恨んでみたりする人が多いけれども、そういう人達も自分が本当にすばらしい修行をさせてもらっているのだということに気づけば、”喜んで”修行させていただくことになるわけです。人間がそれによって出来てきますからね。 ◆◆◆習慣が体質をつくる◆◆◆一般に慢性のリューマチ、喘息、アトピー性皮膚炎等になるのは、体質から来ていますから体質を変える以外に道はありません。体質を変えることは非常にむつかしいことです。なんでそんな体質になってきたのかということを考えていかねばいけませんからね。 慢性の疾患は体質を変えていかねばなりませんが、体質とは、多分にその人の性格ともからんできています。こういう体質がどこからくるかというと、その人の癖からきます。習慣ですね。もののとり方、考え方の癖があります。こういうものが、体質に関係しているのです。癖にも悪い癖、いい癖があります。それが一つの体質になっていく。ものの考え方が性格につながっていく。例えば、コップを割った時、あやまる人と責任を他人に転嫁する人。いろんな悪い癖がある。甘いものをたくさん食べるとか、アルコールがどうしてもやめられんとか。 夜食、つまみ食いするとか、食物でも癖があります。朝はいつまでも起きられんとか、そういうものが積もってくると体質になる。そしてまた性格が出来上がっていくのです。こういうのが慢性病になっていく原因です。 体質を変えるには、悪い癖を直さないかんことになりますが、癖は日々の行動から出来てきます。行動の積み重なりが習慣になります。例えば、毎日毎日あなた方は朝ごはん抜いていますね。この朝ごはん抜きという一つの行動が七年たったら習慣になります。 これは七年くらいたたないとあきません。水風呂に入って、木の枕して板の上に寝て、七年くらい続けないとあきませんね、もののとり方もそうですね、一つ一つ問題を毎晩反省していきます。問題がおこった時に自分はどういうとり方したか、どういう反応したか。 これが積み重なって習慣になり、体質になり、性格となりこれが慢性病になったり、また苦しみになって一つの運命になるのです。そうすると、毎日どんな行ないをするか。しかし毎日毎日の行ないをするのには、その時の想念が原動力となります。 この想念が自分の行いを決定する。今日はひとつ、しっかり温冷浴やって、裸体操やってがんばるぜ、という想念、どんな想いをもっているかという人の想いによって、その日が決る。それが積もり積もって習慣になり、体質になり、性格になっていく。 毎日どういう想いをもつか、ここへ来て誓いをたてるのも想いです。朝の誓いと夜寝る前の反省をくり返し、抜かしてはいけないのです。(終)
2007年02月15日
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「何の報いもない難儀な三年間をもつということはね、これは大した宝かも知れんと思っている」泥流に覆われた農地を、甦らせるために苦闘を続ける拓一。人類の罪があまりにも膨大で、その片付け作業は意味がないと思われるほど誰の目からみても絶望的な取り組みだった。でも、誰かがやらなければ、この先も泥流に覆われたままである。今日一日、泥流に覆われた木を一本動かせば、動かしただけのことはある。罪を取り払うことをあきらめてしまったら、罪はそのまま留まる。むしろ増える可能性はあっても、だまっていたら減りはしない。◇◇◇拓一と耕作の祖父母は泥流に飲み込まれて死んだ。人の為に生きた人格者であった。福島から北海道に開拓できてから貧乏して三十年にもわたって苦労を重ね開拓してきた土地。それらが泥流に覆われた。もはやこの地に一粒の米も実らないかもしれない。現実的にはそちらの可能性の方が強かった。それを拓一は、三年間報われない苦労であったとしても、祖父母の三十年の丹精をあきらめられないと土の開拓に汗する。まわりの反対をよそに、信じて打ち込んでいく。神様が苦労して創った天地世界に悪がはびこって、大洪水という天災によって義人ノア一家を除いて亡ぼしたという聖書の話を思い浮かべた。その拓一が思いを寄せている少女福子は、父の博打と酒による借金がかさんで売られた身となる。その父はシラフの昼間はおどおどした気の弱い男であるのに、ひとたび酒が入ると妻に対して殴る蹴るの暴力や癇癪がはじまる。娘を売ったのは、その父親の判断である。「どうして逃げなかったんだ」拓一が言う。それに対して福子が言う。「だって、親だもの」この場面は「泥流地帯」の方で繰り広げられた場面。納得が行かなかった。馬鹿な福子、私なら逃げるよ。この本を思い出した。「砂漠の女ディリー」父親が結婚市場でラクダ数等をくれるという男と十三歳の娘の結婚を決めてきた。娘に高値がついたと喜ぶ父。ある日、男が訪ねてきた。花嫁の顔が見たいと。男は60過ぎのおじいさんだった。父はラクダ数等と引き換えに十三歳の娘を六十過ぎの老人に嫁がせようとしていた。日々、食べることも保証されていない砂漠の遊牧民たちにとってラクダは生活を保証する財産であったが、娘は命がけで砂漠から足一つで逃げ出した。母が手助けした。後で母はどれほど父から殴る蹴るの怒りをかったかしれない。母もまた親の反対を押し切って結婚した経緯があった。が、親に背いた後の生涯は幸せが少しで、忍耐の方が多かった。娘は都会に出て社会的な名声を得た。好きな人と結婚し子ももうけた。が、幸せな家庭生活は長くは続かなかった。ソマリアで生まれたディリーというその人はナオミ・キャンベルとも仕事を共にした有名なファッションモデルとなったのだが、女性性器切除という忌まわしい風習によって苦悩した人でもある。その風習は間違いである。声を大にして叫ぶという運動を興した人でもある。やはり、これも原罪という宗教的な意味が絡んでいる。さて、「泥流地帯」の福子は、親から逃げ出さなかったのだが・・この現実はあまりに辛い。憤りを残したまま、「泥流地帯」は不完全燃焼のまま終わった。「続 泥流地帯」では、やっと希望が見え始めてくる。福子は廓で売れっ子になったことをいいことに、父の借金は膨れ上がり、一生働いても返せないくらいになっていた。廓から自由廃業を助ける公娼廃止運動の活動家の出現や、沼崎先生という医師の援助から、罪という泥沼から引き上げられる兆しを見せて終わっている。一生働いても返せない借金という後半部分のくだりに、借金=罪という方式が浮んだ。人は生まれた時にはすでに借金を背負って生まれ出ている。人はゼロから自分の人生を出発できるのではない。生まれながらにしてマイナスという罪の不安定な基盤から出発している。罪の泥流から人は一人では抜け出せない。救世主によって引き上げてもらわないことにはかなわない。拓一の田んぼに青い稲が出始めた。罪を支払う期間が終わったかのように。
2006年12月24日
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茶道の中にキリスト教精神が込められているというのは本当だろうか?そうかもしれない。とすると、茶道に対する見方はこれまでと大きく違ってくる。二畳、三畳、四畳半、六畳の茶室を掃き清める。床には掛け軸、置き物、花を活け、愛でる。そこは神様の祭壇の部分か。亭主と客の間には上下の隔たりはなく平等。悪いおもいを一切、茶会に持ち込んではならない。狭き門、ちいさなにじり口から、体をかがめて茶室に入っていく。大小の刀と、心の刀を置いて、入っていく。そこは天国の平安な世界がある。茶室とは、祈りの部屋である。◇◇◇数日ぶりでまた用紙に向っている。書くネタを考えたとき、・・思い浮かばない。読んだ本の感想文を書きながら、心の内を開けていく。タイトルにおける「その妻たち」を描いた部分が全体における前半部分にあたる。後半は、後の妻おりきがキリシタンになっていき、利休が秀吉の茶頭となり、側近として政治に関わり頂点に昇りつめ没するまでが描かれている。茶頭(さどう)という職は、茶の湯における師であり、「茶坊主」禅における僧にもあたるようだ。「オーラの泉」江原さんの前世が茶坊主だったというが、政治的にも関わっていたとされる、その地位、役どころの詳細を得たおもいである。面白いと思ったのは、利休が高めていった茶道の中に、キリシタンから影響を受けた部分が取り入れられていることである。広く利休の名が知れるほど、その地位や名声は頂点に上り詰めた。それを快く思わないものたちの妬み嫉妬が男たちの間で団結される。あげあしとりの策略、罠にはめられ追い込まれていく。時の権力者秀吉にでっちあげの噂を吹き込んで、癇癪を起こさせる。命乞いをすれば、死を免(まぬが)れたとされているが、あえて「ご機嫌取り」をしない選択を。妬み嫉妬されるところに、魔の手は侵入する。地位や名声、人にへつらわれ尊敬される心地よさ、成功の連続に、喜びすぎてはいけない。引き摺り落とそうと歯軋りするものの決意を強くするとは「呪い」に力を込めることである。悪は徒党を組む。人の妬み嫉妬を次々引き出し、一つの思いを大きく大きく膨らませていく。憎しみを増大させていく。その力は人を死へと、失脚へとおとしめていく。その報いをまた、呪ったものたちにも注がれるということを、まだその時は知らない。それが後半部分の男たちの妬み嫉妬である。後半は、「正妻」における妬み嫉妬の呪いが描かれている。その時代、力ある者の一夫多妻はまかり通っていた。能力ある男の印しとして公然と外に女を囲っていた時代の話だ。利休もまた、その男たちの一人であった。正妻お稲は、その多くを知っても心乱れることはなかった。が、夫の心、魂が「おりき」という女に奪われたという事実は、正妻という自分の立場を不安なものにさせた。その他の理由もありはしたが、夫の心を取り返せない、地位を奪われた不安は決定的なものとして、お稲を鬱病にし「呪い」に駆り立てた。利休とおりきの間に生まれた二人の子の生命力は弱々しく、正妻お稲の妬み嫉妬による「呪い」によってか、わずかに生きて、あっけない死を迎えことになる。その苦しみがきっかけで、おりきはキリシタンとなった。自分の罪、業が我が子にふりかかったとおもう。キリシタンは一夫一婦をよしとする。おりきは、お稲が亡くなるまでは利休と距離を持った。作者は、おりきという女を非常に美しい女性に描いた。しかも利発で聡明、夫の心を気分よくさせる気配り心配りのみごとさ。イメージがわかなかったが、先日の「オーラの泉」に出演されていた壇れいさんをみて、おりきのイメージと重なった。また、茶道の茶器のうつくしさ価値は、女性を顕わしている。美しさとは、内面と外面、両方に顕れるものなのである。正妻と妾、始めの女と後に登場する女。男の思いは、後に出会う方が現在進行形である。取り残された女、正妻という位置があるゆえに、また奪われた寂しさ苦しさは、どれほどの苦悩であることか。鬱病になり、妬み嫉妬、憎しみで心は暗く陰鬱となり、それが顔色や容貌にも表れるから、なおのこと夫は疎ましくなる。男の心は完全に冷えきる。正妻の呪いを受けて次々と我が子を失う妾の苦悩、いくら旦那様の心を注がれたとしても、人の心を踏み付けにした上で成り立つ関係、不倫の不安定さ、呵責はたえずまとわりついて離れない。一夫多妻の怨念は、男社会の人間関係に波及しているようである。罪のもともとは、男と女の夫婦の心が唯一絶対でありえるかどうかにかかっている。その前半を読んで、この世に生を受けている人は、正妻の腹から生まれたものという区分、妾の腹から生まれた区分に分けられるかもしれない。そんなことを思った。身近にお稲のような女性を知っている。彼女から妬み嫉妬憎しみを取り除けば、どれほど優秀な女性であり、尊敬を受ける女性かしれない。夫の浮気が彼女の長所を台無しにした。怨念という呪いを送り続けた。なぜか、女の子供が原因不明の病気、女じたいも幸福には決してなれない。晩年になって、ふいにその女の顔が見たくなった、タクシーを飛ばした。女は白ぶたのように変貌していた・・聡明な彼女の発言とは思えない表現。彼女もまた癌に犯された。心はすっかり魔の侵入を許した。猜疑心強く、子も夫も、彼女のもとから避難した。その夫は有名な食品会社のお偉いさんである。数年前、問題が発覚し企業は大きなダメージを受けた。社会的問題の背景には必ず淫乱がある。そこには妬み嫉妬憎しみ怨念がある。凡夫である人間は、その思いの支配から抜け出せない。利休の最後も、どれほど憎しみ怒りに襲われたことか。この世の常識とは全く違う価値観をもつキリシタンの教え。おりき「殿(秀吉)も所詮限られた命のお方。幾年か後には死なれるお方。けれども、デウス(天主)はこの世もあの世も統(す)べおさめられるお方にござります。それ故にりきは平安なのでござりまする」利休「なるほど。殿(秀吉)も所詮は亡びゆく身か。亡びゆく者に、わしは気に入られようとして、きゅうきゅうとしてきたのか。愚かなものよのう」愚かな人の思いは、その思いのまま霊界に行けば、その思いを乗り越えられないまま霊界でも思いの囚(とら)われは続くだろう。恨みを解いて欲しい人だらけだ。一人一人が神様という真の夫の愛にくるまれなければ。日中断食、断食が遺伝子の傷を修復する。私は祈る思いだ。一人一人の祖先に神様の愛を、教えを、お話してあげよう。
2006年12月24日
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昨日の朝、黒い服の話を書いたあと、Nさんが起きてきた。パジャマの上に黒地サテン風素材のジャンパーを着て部屋から出てきたのを見て、「あっ、神様の服!」と、その共時性に、神様が「へへ」と言っているようだ。 黒光りの素材の服に包まれると、人物じたいが浮き彫りに明瞭となる感を覚えていた。「千利休とその妻たち」(著・三浦綾子)ちょうど、利休が黒の茶碗を発案して出来あがったものを見て喜ぶ場面に遭遇していた。 23年前のお茶の稽古で、黒の茶碗でおうす頂いた場面が浮びあがる。黒に薄緑の抹茶はなんとも映える。五行によると、色は五通りとなる。色の三原色の赤青黄、プラス白黒。木火土金水、黒は水を顕わす。 少食と節制の人、Nさんの顔は澄んでいる。目も皮膚もスカッとしてる。仕事が終わってシャワーを浴びて夕ご飯の時の対面時、いつも感じる。この人ってほんとにすごい人だ。ある時、先にご飯を済ませてしまって、ぐだーっとしていた。 「えっ、よそおってくれないの?自分でやれって?」はっ?「寒い所から疲れて帰ってきたのに、自分でやれってかあ?」ん?Nさんが言うにはこうだ。男はご飯を、味噌汁を奥さんによそおってもらいたいのだ。 そこに喜びとか幸せ、安らぎ、癒しを感じるもの。りんごの皮をむいてもらい、とりわけてもらったりするのも、そういうことか。女の人のお酌をする意味を思い描いた。仏様にご飯をよそおって差し上げるの意味もこれか。(!) 仏様は供えたご飯を食べ消費するわけではない。仏様への食物のお供えの意味は、はやり人と人とのコミュニケーションに他ならない。生きている人間同士の食事の場も、気持ちのやりとりをするコミュニケーションのためでもある。 こんな簡単なことで、些細なことで喜んでくれるというのなら。はりきってしよう。朝、ご飯を炊いて仏様にお供えしてから出掛けた。一日とても癒された。気持ち良かった。書いているうちに、気が充実してくるのがわかる。 ◇◇◇ バス旅行では久々に顔を合わせる人もいて、咄嗟の言葉が「あ~ら、昔(10年前)と変わらない」「また、やせたんじゃない」「スタイルよくなったんじゃない」など。たまたま、今朝、美顔をして出掛けた為かもしれない。 顔がほっそり見えたのではないかと思う。それもあるが、日中飲み食いせずの新生活法のためもあるだろう。もはや3ヶ月が過ぎ行こうとしている。その影響はやはりあるのだろうな。水飲み法が違ってきた。 サプリメントの効果的な摂取の仕方が掴めてきた。摂り始めに比べて摂取量は1/6程度、経済的になったものだ。水少量を飲みながら食事の用意。食後に少量の玄米酵素。お腹の中で効果的に混ざり合う。 お腹に糠味噌タンクをつくっているイメージが沸く。材料を入れたあと、糠を少し足してやるの要領。その足す分の糠の役割が、玄米酵素のサプリメント。(またはビール酵母)一度に沢山を時々より、毎日ちょっとずつ。 白いコートを今年初めて着た感じが、去年の雰囲気とは違った気がした。水飲み法を変えたことの影響も大きい。5年前から1日水2リットルとはりきったが、その他のお茶や汁気も足すとオーバーしていたと思う。 今日の小旅行、お天気が良くて、いつも歩かない日差しの時間に歩いたり、緊張したり。一年に一回ずつ、これもまたサプリメントの効果かもしれない。毒出し促進法。精神タンクのエステ。汚れは出すべきときに出しておく。 帰りに図書館に寄った。紀野一義氏の著作数冊(「親鸞」など)、宮沢賢治「ひかりの素足」目を通す。「脳のなかの幽霊」「脳のなかの幽霊、ふたたび(見えてきた心のしくみ)」(著・ラマチャンドラン)を借りる。 母にパソコンで書いた日記風手紙を考えたのは去年の4月。ここのブログをはじめるきっかけ、意味づけ、動機づけとした。実現できなくきたが、その思いが熟成しつつある。私の日記の利点は神様と文字にするところ。 普段は忘れがちのところ、ここにきて、神様を口にすると、深い自分を取り戻せる。自分の存在意義があらたまる。やる気がおこる。生きる意欲。気づき、反省、一日のくぎりを整えられる。サプリメント効果。 神様を意識したいなら、親を意識しなければ、本当じゃないとくる。実体の生きている親に言葉がけをすることによって、見えない神様にもっと近づけると思うからだ。母親に語りかけるとは、神様への祈りに近づける。
2006年12月21日
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「人間ぬくぬくしはじめると、ろくな仕事はせぬ 追いつめられると 竜が玉を吐くように いのちを吐く」宗教家で美しい文を書く紀野一義さんの本を探してみようかと思い立つ。この短い詩は、23年前、私にある決断をさせた言葉だった。◇◇◇久々にいつもの精神的部屋に戻ってきた。気分。4日前、この日記再開と同時に私の運気は開きはじめていった。心がうれしい。補修授業、常にしんどく深く落ち込みつつも参加し続けてきたのだが・・昨夜は明るい気持ちで通せた。希望が見え始めて来た。3時間の続けざまの早い授業に誰かが言った。「頭がオーバーヒートしそうだ」皆もついていくのに必死の様子。私も遅れまいと、目をかーっと見開いて、血眼(ちまなこ)の顔の様相。背筋がピンと張る。それが、心地よかったりして。こんなふうに何かに真剣にキャッチしようと構えの姿勢も悪いもんじゃない。帰り道、夜風がきもちいい。ほのかな疲労感、じぶんにむけて「おつかれさま、頑張ったね、サポートありがとうございます」内なる人に向けてねぎらいの言葉が思いつく。仮眠から立ちあがり。今日はバスでの小旅行の日。楽しみにしていた。車窓から外を眺めつつ、ガス抜きが出来るこの一日は神様がくれたもの。今、出発に向けて心の準備を整えている。一昨日、H師に授業後、話しかけられた。話が終わったあとは、掃除当番だったのに、もう終わってた。「あなた、病は気からと思っているでしょう」というものだった。「そういう顔をしていたから」ああ、いつかの授業でそんな話が出て来ていたな。「それは間違いだよ。遺伝子にプログラムがあったんだよ」物理的説明が付け加えられた。ほんとにわかっている?という斜めに見る顔。私はガテンがいくものがあった。「氷点を旅する」三浦綾子さんの本を読んでいた時だったから。たしかに気の持ち様が問題で、女学校時代、綾子さんがリューマチで3ヶ月学校を休んだわけではない。教員時代を経て、気の持ち様が悪くて、13年間カリエスで寝たきりになった・・とは考えにくい。晩年のパーキンソンの病気も。神の前にこれほどの貢献をなした方であったのだから。DNAのプログラムという見方は納得がいくものがあった。「いま、うつになる人も多いですから」「それも遺伝子のプログラムから来ているものだよ」私はピンとくるものがあった。私の傷官星の病理の意味。(なるほど、プログラムによるものだった)私の家系図における、知り得る傷官星の人々、その人たちも、そのプログラムが、以前から準備されていた人生だった。誰のせいというものではない。病気、健康という概念は人間がつけたもの。ミツバチは良く、ゴキブリは悪い、その概念は人にとって有益かどうかの人間側から見た判断。良いとか、悪いとかの区別なく、彼らには彼らの生活がある。ヨブ記を読んだ話もした。昨日の授業で、薦められた本は「脳の中の幽霊」(脳学者ラマ・チャンドランともう一人との共著)腕にも霊があるのか?左腕を切り落とした人物が、もう無いはずの左腕の手先の痛みを訴えた。誰もその痛みを直せないという。ラマ・チャンドランが解決した。その人物を鏡の前に立たせた。右腕の手先を動かさせた。鏡に映った右手を、左手を動かすつもりで右手をみる、というもの。・・なぜか、その後、痛みが無くなったという。ちょっとメモしておこう。次に「紀野一義先生に会いに行った」という氏の命がけで1700いくつもの爆弾の芯を抜いたという偉業について語られた。爆弾の芯を抜くとは危険な目にあうことであり、まわりのものを遠くに避難させる。そこに一人の人がいた。「なぜ、避難しない?」「おまえだけ一人で死なせるわけにはいかない」というやりとり。男でも女でもおまえと一緒なら死んでもいいという人いますか?とH師。確か紀野一義氏とは仏教詩人ではなかったか。好きな詩が思い浮ぶ。「人間ぬくぬくしはじめると、ろくな仕事はせぬ 追いつめられると 竜が玉を吐くように いのちを吐く」宗教家で美しい文を書く紀野一義さんの詩、ということで「帝王学ノート」(著・伊藤肇・PHP文庫)に紹介されているため知った方だった。この本を今度H師に見せてみよう。話の中でH師のだいたいの年齢が掴めた。「排気ガスを家の中に出す、今のようなストーブが普及したのは昭和40年代後半からだった。昭和40年代、大学卒業した時は、石炭ストーブだった」65歳前後か。70代、80代、90代にも見えたのだが、この世の人間とは思えぬ顔と様相と感ずることがあったが。そのH師が、昨夜の補修授業に一瞬顔を覗かせた。黒いツヤツヤした革のコートに身を包んでいる姿に「生きてる人」と思えた。黒のツヤツヤの素材が人を若々しく、イキイキと、かっこよく見せた。私は、神様のことを思った。神様というと、おじいさんのイメージがある。その霊界に君臨する神様が、生きている体、若々しくイキイキとカッコイイ服をまとって地上に現れた。
2006年12月19日
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「また夜中起きてる。早く寝て。二日連ちゃんで遅刻は恥かしいよ」目を覚ましたNさん時計みて言う。昨日初めて遅刻した。寝坊。が、遅刻届けの理由欄には「家の急用で」。セイタカアワダチソウのお茶っ葉&花を薬缶(やかん)で煮出す。 酵素が壊れないように弱火で短く。H師の講義で「エントロピー増大の法則、その増大を水が食い止める」小便の排泄は大事とも。人の老化も、水が体を初期化する。排泄の毒だしもそのエントロピー増大を食い止める。このお茶もしかり。 生理も毒だしとして大事という。空亡がありがたいと言ってた人がいた。今の月、このあたし真っ最中。これから数年、そういう中に入っていく。おそれまい。喫茶店で1時間ぼーっとする、そんな時間は必要。それが、ここでこうして書く時間。 ◇◇◇ ここのところ楽天フォームから日記を書くと、せっかく書き上げたものが飛んでしまい跡形もなく消えてしまうショックに耐えかねている。もう同じことは書けないし書きたくない。それでメールの下書きに書いたものを貼り付けでアップすることにした。それしかない。ここの場から作るとすると飛ぶおそれがない。 また、おもいきりボードをたたける。このところ気遣いして繊細に打っていた。けど、本当はめちゃくちゃ感情的にたたきつけたい。これでスピードアップができる。私の手先は解放され、自由を得たよう。日中思い浮かぶ・・しばらくトラックバック、掲示板、コメント欄をストップさせてみては?そうしている人たちの気持ちがわかってきた。 初めての試みを開始する。スタジオブースって、こんなかんじか。ミキサーを操作している人たちの顔が分厚い窓越しに見える。顔色が気になる。人は評判を気にするものだ。人の顔色をうかがうものだ。無意識にパソコンの向こう側の人の反応を気にしている。しかし、今は本番ではなく穴蔵にこもっていたい時だ。 12月、1月と辛酉生まれの自分にとっては、この時期空亡月なため、女性の体でいうと生理の時期といったところだ。毒出しをする。初期化する。毒出しとは断食に通ずる。食べ続けている間は消化に忙しく、排泄するひまがない。出す能力にストップをかける。たくさん出るべきところが少ししか出せない。 毒だし、排泄、出すのに専念できる機会を十分に活かせない。だから、できるだけのものをひっそりと断っていこう。コーヒーも今しばらくはお休みする。今年10月初めに収穫した「セイタカアワダチソウ」のお茶を入れてみた。煎茶のような色、味は南米でよく飲んだマテ茶とかコカ茶の味に近いとおもう。 今年のお茶の出来は上々である。学校裏庭で収穫したものは品質良好、背が高い上、一つのものに蕾がぎっしりついたものばかりを取ってきた。洗浄も乾燥もしっかりしたため、缶に納めた蕾と葉が押し花のようないい色を見せてくれている。来年の収穫は必ず9月の蕾の初期の頃に決行すること。 しばし、水洗浄のあと日に干すと花が咲いてしまうのだ。花が咲いてはそこに酵素が取られてしまう。蕾の中には酵素がギッシリ詰まっている。キッチンにコーヒーがあれば、決して私の舌は薬草茶を嗜好する気持ちが沸いてこない。舌がコーヒーに親しむと、他のものが入ってこれない。しばらくは好きなもの断ちを。 一つの日記に文字数を考える。4000字以内として、原稿用紙に10枚くらいを目安にしてみる。日干・辛のあたしにとって書く時間は、この時間帯でも良いのか。今、時計は午前1時半。午後11時から午前1時迄は・・戊子/印綬・長生(傷官) 午前1時から3時迄は・・己丑/偏印・養(偏印) んんー、この時間帯は印星で悪くない。 けど空亡時間だった。んんー、と突然(!)閃きが!吐き出す時間帯であるからして。自分自身の排泄にはなり得る。得策ではある。自分にとっちゃあ。らくがきノートと考えれば、自身の精神は初期化され、想念は解放される。時間は一つの日記に対して1時間としよう。だいだい喫茶店に行くと1時間はお茶を飲んでぼんやりするんだろう。 そんな時間にしてみてもいい。その間にその薬草茶を一杯は飲むとする。この3行ちょっとの文のかたまりを10~12個くらい書いてみるとするか。明日は福島へ小旅行。去年は9月くらいに行った。その帰り道、私は本でみた「セイタカアワダチソウ」の花を探し当てたのだ。そこから、そのお茶による浄化が始まることとなった。
2006年12月18日
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H師は自らの講義に酩酊し「どう?感動的でしょう」と目を輝かせる。H師は三浦綾子さんの映し絵のごとく。全く異性というにおいさえない無臭の人。その出会う原因であったかもしれない原型の人、三浦綾子さん・・この人は、私の救い主とも言える。(はたと今思った)彼女の本は、私の今かかえている問題の根本(勉強嫌い、出来が悪い)を覆してくれるかもしれない予感。夏の大掃除&物捨て作業の合間に読んだ「氷点」がきっかけで、私の小説読みが始まった。図書館の在庫は全集がおもだったので、その分厚いハードカバーを手に取るようになって、今、5冊目が終わろうとしている。(全部で20巻前後)1ページが2段になっているものが、1冊につき600ページ。それを2週間に1冊のペースで読めているではないか。この計算でいくと、三浦綾子さんが生涯に書いた作品の全てを、来年の7月くらいには読み終えることなる。学校で勉強が出来る人たちは、合間を縫って読書している間、本など読んでる人は皆無である。だいたい休憩時間は、飲み食い喫煙おしゃべり情報交換が常である。私はその情報交換が足りないのだけど、本と対話している。私には熱中できる本がある。道が開けたも同然だ。喜びと希望の貯蔵庫(図書館)を市が(神様が)私に提供してくれた。しかも、ただで。三浦綾子さんの全集との出会いによって、(5冊も読めたおかげで)だいぶ読書力がついてきた。がっしりとした単行本だったため、ゴールまで(全作品を読みきる迄)たどりつくのに、あと何冊と目に見えている。これが、文庫本で分厚く、何冊にもわかれていたなら、全部といっても検討がつかず、きっと挫折していた。これまでの決して短くない人生で、小説は数えるくらいしか読んでこなかった自分。なのに、今、読む時期が巡ってきているという幸せを、この喜ぶをどう表現したらいいだろう。神様、ありがとう。あなたは私に友達をくれた。それでだ。このたび、学校の教材をたくさん買った。が、この三ヶ月、ほとんど目を通しておらず、この人はいったいやる気があるんだろうか。何を考えているんだろうか。これを身につけて飯を食っていこうという本気が感じられない。他の人たちが、真剣に取り組んでいるのは、これらを身につけて、よーし、これで飯を食っていくぞという意気込みではないか。(私は、そもそも昔から生活感がなかった。今もお金を数えるのが苦手。お札を今年、数回しか触っていない。(うつ病と称して)それらを担当してくれる人が側にいるから生きていられるようなもの)それでだ、あるとき、おもった。1冊300ページの問題集になかなか手がつけられなかった。(家に帰ってから、そんな興味の沸かない本と対面したくなかった)だが、あたしは全集の1冊600ページの細かい文字を2週間で、生活の合間に、熱中して読み込んでいるではないか。「わかっても、わからなくても、1ページずつ丹念に目を通してみようか」自分に働きかけた。「じゃあ、やってみる」だんだん、目に入ってくるようになった。理解も進むようになってきた。しめた!勉強の癖、ペースが掴めてきた。すぐに問題が解ける人、頭のいい人をうらやむでない。今、試験に向けて必死こいて勉強してる人はすごいけど、その後、活用しなければ、知識も技能もさびれてしまう。私は、亀のように、ゆっくりで、不器用なため、人一倍の努力を要するけれど、これらを繰り返しおこなって「活用」する人になるぞ。静かでひそかな決意。といって、いくら勉強をしたとて、神様を知らないようでは、何の意味があろうか。神様を知ってこそ、それ以外で得た知識技能が、意味あって役にたつのでないか。「岩に立つ」神様と共に仕事をしているという喜び、これは何ともいえないねという鈴本新吉さん。勉強の合間に1分でも祈ろう。ここで、書くことは神様とのやりとりに通じている。10代の時、一度だけ行ったキリスト教のイベントで、前に立つ人が言った一言は、今でも覚えている。どんなにたくさんの本を読んだとしても、1冊の聖書にまさるものはない・・だったか。(聖書は、たくさんの書物を読んだ以上の価値があるという内容だと思う)読書嫌いの私は(ははあ、いいことを聞いた。これ1冊読むだけでいいんだな)本を読むとは、これは、絶対、自発的でなければならない。人の一生懸命のすすめの言葉がかえってやる気をくじくことがある。自分でさえ、自分をプッシュできない。自分の内なるところから求める気持ちが出てこなければ、1ページもすすまない。
2006年12月16日
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「日本人の遺伝子を調べてみると、そのDNAは朝鮮半島からきている。弥生人の多くは、圧倒的に朝鮮半島からきたもの。日本の東と西では遺伝子がまた違うんだね。あたしの顔は目が窪んでて、ぎょろっとしてインドネシア系から来た顔だ」とはH師。と、その顔と姿が、おばあさんバージョンと重なった。(こういう顔と姿のおばあさんって、いるよな)H師の目・・「あっ!」知っている女性の誰かと重なった。あっ、この女性は・・。「!三浦綾子さんだ」晩年の綾子さんの顔とスタイル、写真から想像する動作など・・ピタリと一致した。それと、H師はもしかして本当にすごい。臭いがしないのだ。臭気。講義の中で「人間から発する有害ガス」の話があり。(ホーレン草、ニンジンからも毒ガス出てるとか)「人間が密集するところで気分悪くなる人がいる。それは人から発散される毒ガスにやられているのだ」と。とたんに人が密集した教室内が息苦しく感じ始めた。前に座っている、団塊の世代の男性二人から、臭いがしてきた。くさい。じわじわあーっと、うなじから発散してくるような気配。「おまえ、気づいたな」と、毒ガスが攻撃してきてるよう。その二人は「泥流地帯」を読んだ時、拓一と耕作とイメージしたことがあった。両者とも若い時からどんなに勉強が出来た人達だったろう。人間的にも秀でたものを感じていた。が、近頃、私の勉強の遅れから、気持ち的にも距離が生じてきている。原因は私が発する、人のモチベーション、やる気を削ぐ発言だったり。それは私の毒ガスだった。その人たちは、これまでの思考と経験があるので、H師の風変わりなところに若干の偏見を持って、斜めに構えて受講している様子。が、その二人もまた、それなりの生き方をしてきた一角の人物なので、合い入れない適度な距離を保って、気を使いながら接しているようにも感じ受ける。まあ、それはいいとして、臭いや毒ガスの話は実感するところである。H師には、その臭いが、今のところ臭(にお)って来ていない。二度程、質問などで接近して話したことがあったが、その時は外だったからか。後ろの後ろの席の人が寝息をたててズーズーしている。後ろを振りかえった。後ろの人たちも、笑って見せたりした。その居眠りの「気」が、時々、前の方に流れてくるのはどうしたものか。それも毒ガスの一種かもしれない。(その毒ガスにやられない方法を後で考えてみることにする)話をまた、もとに戻すとする。H師と三浦綾子さんの重なり。なんとも面白い。今朝、眠りかけの時、はじめて発見したことだった。以前、似たことがあった。台所で作業しながら、ある受講の返事で係の人に電話をしなければならないというときのこと。そんなにやる気があるわけではないのだけど、どうしようと考えていた。その人を前にすると、なぜか簡単に断れない。いや、断りたくない気がおこったりする。と、私には周期的に思い出す顔の人がいた。20年も前に少しだけ接触のあった人で、顔は皮膚病でかなり崩れていたにもかかわらず、心の善い人を顕わす、その目が輝く人だったが、名前は覚えていない。と、やせっぽっちのその若い女の子と、今、電話しなければならない少しふっくらとした係りの女性と、その目と目が頭の中で重なった一瞬があった。(二人は同一人物である!)「まちがいない」と踏んだ。電話した。涙の再会を確認しあった。もちろん、その人の顔が見たくて受講を申し込んだ。彼女も・・ヨブだったんだなあ・・その皮膚はなめらかだった。H師の目・・なぜか、この人を初めに見た時から、「なかなかの人物」私の奥から声がした。私は、心の中でその人の精霊のような奥深いところに向けて頭を下げた。その顔をみた時から、(この人の授業、おもしろそう)と思ったものだ。数ヶ月前、日記に別な人と勘違いされて、声をかけてきた先生がいた・・ということを書いた。それは、H師だった。会話は長く続いた。楽しかった。めげてた状況から脱した一段階ともなった。今、また、二段階目も、この人が救ってくれたようだ。三浦綾子さんが「原像」とすれば、今、出会っている先生は「像」である。その過程は「写像」である。(関数=写像の授業の応用)「原像、写像、像、これらは物理学の基本である。宗教でもバックボーンがあるだろう」(次につづく)
2006年12月16日
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このところ陣取っている家の中心、柱に寄りかかれる場所(和室入り口部分)、ここに座ると非常におちついて物ごとが出来るようになった。自分にとって、いい場所というのが、家の中にあるものである。まだ、発掘できてなかったりもする。地下の水脈にも関係するかどうかはわからない。今月初めから、私の運気は空亡、大殺界に入った。いずれも、これまでのように物ごとは運ばないという、注意を暗示する。それで、私の体は引越しすることとあいなった。思えば、この後ろ柱部分で、今年の半ば、大掃除&物捨てにいそしんだ時、この柱の寄りかかりながら、休憩し、本も読み、片付けの段取りを思案したものだった。と、この場所で疲れた時、体を横にしてやすめてみたら・・これまた、ぐっすり眠れるのである。今も、木枕を使っての眠りから覚めたところだ。眠りに入る前、目を閉じ、昨日学校で先生の授業で面白かったことなどを振り返っていた。その先生が映像に登場する。その先生は、いったい何歳であるか?60代にも見え、多分70代前後ではと検討をつけてみるが、80代にも、はてまた90代にも見えなくもない。近頃、人を見る時、その人が男性なら、もう一つ、女性の像も見えるのである。その先生をH師と名づけてみる。その人も、男性でありながら、私には、もう一つ、その人の母親バージョンの風景が重なってみえる。だいたい、男性は母親バージョンの形が重なる。H師は、例題として自分の生活空間や家庭環境など、自身の周辺背景を授業の合間にぽつりぽつりと語ってくれた。「子供の時、非常に貧乏して育った。おやじは外の女の所に通ってね、金を家に入れない。母親が土方して、わたしらを育ててくれた。その当時、女性の事務職なんてものはなくてね、だいたい、働くとすると、土方と決まっていた」うわあっ!いい話だ。えっ、なんで?ちょうど、私が今、読んでる小説の背景に関連するもので。三浦綾子さんの「岩に立つ」の鈴本新吉(モデルは鈴木新吉さん)も母親の半土方で育ってきた。外に女は、「千利休とその妻たち」に通じる。何か、H師が、物語の中に出てくる人物と重なる要素あり。また、「続・泥流地帯」の後半にヨブ紀が記されていると思ったら、授業の中でアトピーやステロイドの話に関連して「旧約聖書のヨブ紀を誰か読んだことある?」ときた。当然、反応は誰も答えず、無言。H師の簡単な説明は、ちょっとピントが外れてるかも?とも思ったが、いや、三浦綾子さんの小説の解説としては合ってるような気もした。読み直して確認した方がいいかもしれない。「人は『悪いことをしたから罰として不幸が起こった』と責めるが、物理的にみても関係ないんだね」などとH師は言っていた。ああ、そこが、ヨブ紀のオチなのかもしれない。綾子さん小説で作者が言いたかったことも。私がヨブ紀がどういう内容かと聞かれたら、こういう風に説明するだろうと思う。神様の前にサタンが来て、全き善き正しき人物とあなたは言うが、それは幸せな環境に恵まれているからだと。もし、あなたが与えた多くの富をことごとく奪い取ったなら、あなたを呪うであろうと。なら、好きなようにするがよいと神は言った。ただ、命だけは取ってはならないと。ある時、ヨブは何も悪いこともしてないのに、突然大きな不幸にことごとく見舞われた。財産、子供らを失い、挙句の果てに皮膚病でかきむしるという日々となった。友人、妻さえも、神を呪えと言う。が、ヨブは神を呪う言葉を発しなかった。はだかで生まれたのだから、はだかで死ぬのに何の文句があろうか。善きことも、悪しきことも、全ては神に与えられたもの。全てのものを無くしたといっても、もともとは神からきたものであるのだから、何を文句を言うことがあろうか。神はそのヨブの姿に感動し、皮膚病をもとに戻したばかりか、これまで以上の富と幸せを与えたという話。だから、不平不満を言ってはいけないという教訓・・と覚えていたのだが。・・どうも、それだけでは足りなかったようだ。「悪いことをしたから、バチがあたった」人はそう責めがちだが、そうではないのだということを、綾子さんは「続・泥流地帯」「岩に立つ」でも、力を込めて訴えている。(ああ、病気の人を責めてはいけないというのは、そういう意味であったか)腑に落ちてきた。
2006年12月16日
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しゃべってしゃべってしゃべりまくる。苦しかったら、神様に心で言おう。声に出しても言おう。泣きたかったら、そうしよう。おもいっきり泣けばいいじゃないか。おちこんでいるんだと。自信を失いそうなんだと。・・あっ、そういえば、Nさんに泣きごとを言った。Nさんはこう言った「あなたはよくやってる」「今日もよく頑張った。隣の部屋は寒いから、ここで勉強したらいいよ」と。私は部屋づくりを工夫し始めた。空気を汚さないようにファンヒーターを極力使わず、コタツを工夫した中に湯たんぽと圧力釜を熱したものを入れ、柱を背もたれにする私が座る場所が決まった。今、書いている場所。勉強がはかどるようになった。「Nさんの近くでやってたら、だんだん理解できるようになってきた」と、相手を気分よくさせる言葉を言ってみたりしたが、なるほど、そんな気がする。「だろう」「はい」・・やっぱり、一番近くにいる人に神様は顕れるかのようだ。きっとそうなんだろう。今朝、久々に見送りをした。ドアを開けて、長いこと見送っていた。空を見た。雲の模様に目をやりながら、こころのもやが吹っ切れたような気がした。新しい空気も玄関から入れられた。今日もNさんの顔はスッキリ。いつも、いい目をして、私を見てくれる。たとえ、こちらの状況が良くも悪くも、なんて変わらない人なんだろう。最高の人だ。・・やっぱり、書くって、いいことなんだ。反省に導き、気づきを与え、神様が答をもくれる。私は、今朝、ここに書きながら、一つ私の傷官性の病理の問題を解いた(あるいは解決した)気がした。その改善方法。人が、もともと生まれながらにして背負ってきた宿題を、一つずつ解いていくこと。食べたり飲んだりしながらの生活で、人がしていくべきことの一つであるということを。かつて、私がもっとも不快と思った精神的うつ症状は、初期の頃のNさんとの関係だったことを見送りしながら思い出した。手紙を無視し続け、電話にも出なかった数年間が、・・あったらしい。過去世のことのように、切り離された世界のことのようだ。その時、私は自分の中でこういっていた。地獄的思いに襲われると。どうも、魂と魂の問題のようだった。その心は、今、自分の心には決して再現できないのだ。その暗黒の心の状景は、ある時点からピタリと止んだのだ。そして、今は一番の仲良しになった。私は一番嫌いに思ったことがある人と、なんと、一番親しくなったのだ。自分にとっては世界中で一番の存在。感動が、その人からコンコンと沸いてくる気さえする。なんで、そんないい人だということに気づかず、何年もなしのつぶてを通したものか。無視し続けたなんて・・。Nさんの車が見えなくなったところで、私は神様をおもった。Nさんの前に、神様に対して、もっとずっとずっと長い間、無視してきた期間があったことをおもった。こちらが、どんな態度をとっても、神様は変わらない目で見続けてくれたのだ。
2006年12月16日
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町子さんの姪っ子よしみが、ママに黙ってピアノの稽古をさぼった。ママは、よしみの気持ちを見ないで、押しつけになってきていた。が、よしみの気持ちはピアノより野球の方により気持ちが強くなってきていた。どうしても同じ時間、野球の方に参加したく、けれどママにそれを言えば叱られると思い、言えなかったのだ。◇◇◇この場を2週間留守にした。いつも書く部屋にもいかず、新しい場をあたためていた。今日は、授業が面白い!と思って、めずらしく教材をロッカーに入れずに持ち帰ってきた。気の合う先生の授業に巡り会えたのだ。勉強がつまらないと嘆きの日々だったが、どうやら新しい兆しを感じはじめた。夕方、おでんの鍋の準備が整って、後は玄米ご飯の圧力釜のぽっちが下がるのを待つのみ・・と、小説「千利休とその妻たち」の続きに目を通していたら、電話がかかってきた。「ああ、おかあさん」・・なかなか電話がつながらなかったとのこと。(11/9父の長兄お悔やみの話)が、年賀状はふつう通りとのこと。「で、私の病いが(これこれこういうわけで)精神的うつなもんで、年賀状は今年も書けないので宜しく。(皆にも言っといて、噂ばなししといてのニュアンス)」もう何回も言ってることなので、向こうは全く深刻でなく明るい。ところで、近頃学校の勉強もさんざんで、いよいよ追い込まれて、やらずにはおれない状況になった。けれど気持ちが負けてるから(面白いとおもえないから)、追いつけないでいた。それもあってキツカッタ。精神的うつとは親しき人には、時々発し伝えている「Iメッセージ」であるが、まだ伝えてない人もいる。が、自分の身を守るため、精神の自己防衛のための、大切な自己主張である。(この人はこういう精神的特徴がある人なので何卒失礼なことが多いのですが、理解してやって下さい)親しき人にはあらかじめ伝えておくことにより、音信不通や、いいにくい断りなど、多めにみてもらえるという、私の心身を守る作戦である。堺正彰の前の奥さんの突拍子もない発言は理解できるし、共通の要素を私も若干持っている。年末の食べ物の贈り物・・がダメ。(激痛が走る)社交辞令でお礼の電話・・がダメ。(感謝の言葉を発するのが苦痛)今年は来ないように・・この気持ちを察してくれと、時々念ずるおもい。最近は年賀状がダメになってきた。(特に人から来る家族写真・・これはラジオでも「不快」とある人が言っていたが同感)精神的うつ・・というと、Nさんは笑うけど。こう書いてみると、やはり、その言葉を使うしか、私の無作法を許してもらい、理解してもらう方法はないかと思う。ここでも、時々コメントの返事やメールの返事が書けなくなるときがある。その時は、そういう激痛が走ってるときと理解して頂ければ、私の精神がどれだけやすまるかしれない。それは、相手がどうのでなく、自分自身の問題。そして、私の傷官星、霊界に通じるアンテナは悪くすると、体と精神に刃物を入れるため、がまんして、無理にその場を繕うことを好まない。本当に、リアルでは付き合いにくい人そのもの。よほど、気の合った人としか、親密になれない。(けれど、この性質、病名を表明することで、範囲は広められる。どんな人とでもという可能性も生まれてくる)母親でも気をつかうと以前言ってたので。(結婚できたのが奇跡的である。Nさんは、四柱推命でも専門家をうならせたほど、私にとって相性の合う人・・神様に感謝)さて、自分に関するこの傾向を追求したとき、自分自身を分析してみると・・自己中心、邪心、罪なる血統、究極的には淫乱の血統というところに行き付く。(が、極めて近い原因は、私が蒔いた種、マイナス的ものの見方とマイナス発言、それに原因していると自覚する。そうであるゆえ、お詫び申し上げたい。許して下さい・・心の声)・・なぜか話は「芋たこなんきん」に戻る。よしみは「いやだ」という自分の気持ちをはっきり言えなかった。その理由と本音をうまく表現できず、彼女の心は塞がっていた。思っていることを言わないため、ママは、強くおしすすめることを相手のためと思い、どんどんプッシュしてくる。二人は噛み合わなくなってくる。よしみは一時的にがまんして、ママのいうことをきいていたが・・がまんできない時がきた。町子さん夫婦が言う。「親子の前に夫婦や。夫婦がまず、相手のことが理解できる迄、しゃべってしゃべってしゃべりまくることや」こういうセリフのオチまで思い出すなんて・・。今、おもったこと・・贈り物が届いたら、これからははっきり言おう「もう贈らないで欲しい」と。かどがたたない、やんわりとしたセリフも考えよう。「Iメッセージ」を伝えないと、せっかくの人との大事な関係を壊してしまう。それと、人との関係の前に、まず、神様との関係を。私は祈ることをすっかり忘れていたのだ。
2006年12月15日
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学校での勉強は身が入っていない。まだ、おもしろいと思えないでいるので、無理強いしてない。「芋たこなんきん」で、小学生・次男が「作家の子なのに0点」とからかわれる。小学生・長男が漢字練習の特訓をする場面。「特訓ってなに?」「こいつ、努力が足りんで、いつまでたっても漢字0点なんや。そやから、わいが特訓してやってんねん」「本人のやる気がないと無理ちゃう?」長男が、さか上がりできるようになったのは、努力もしたが、その前に、なんとしてでも出来るようになりたいと思ったからとちゃう?と、おばちゃん・町子さんは言う。本人のやる気が出るまで待つ、見守るという町子さんの考え方。勇気づけられた思い。(無理して資格試験を一月に受けるのをキッパリ延期することにした私)それで、あき時間はのびのびと本を読んでいる。丁度、「続・泥流地帯」は、そのあき時間を豊かに埋めてくれるのだ。日中、飲み食いをしない私は、女性達のキャッキャした賑わいの中にも混じらない。話が尽きると、家庭内の愚痴や不満を声に出すことも。家の外で、発散していると思うかもしれない。が、実は、その発言は、不満の芽を成長させている。近頃、食が細くなった。これまでの量を食べるのに難儀。体質、胃の容量に変化が起きてきているようす。と、届いた予約本は「不食の人」(著・山田鷹夫)。忘年会の誘い。断る。「飲まないので」に対して、「あたしも飲まないよ」と、二人声をあげる。次にどういったらいいものか・・「食べないので」と言った。ああ、これじゃ、すすめられない・・納得してくれた。(食が細く、あまり食べない人にこの会費は高いものね)どうやら、わかってくれたようだ。外食じたいを、もう数年していない。外でお茶を飲むこともない。そして、ここでの学校が始まってから、ここの人たちの前で飲み食いをしたことが一度もないので、その場の空気に溶け込んでいるとはいえない。けれど、マイペースの自分は正直で自然体だ。一時間ごとの休憩時間、多くの人が喫煙場にたむろし、お茶を飲み談笑。私は、その間、遠い距離のキレイなお手洗いに、階段を駆け登って走る。日中断食には「走る」がポイント、いつしか体が覚えた。今は、一日二リットルの水がうまく飲めず難儀。無理して飲まなくていいにしている。体の気持ちを聞いて様子をみている。コーヒーも薄めのアメリカンになった。そういうわけで、外での時間、私には独りの空間があるわけだ。これも、貴重なことなんではないだろうか?と、さっき思った。非常に意味あることなんではと、思われた。三浦綾子さん小説の感想文・・その続きをどこまでも、追求している私なのだ。本の熱中、興味は読了すれば、じきに色褪せるし、関心事は、他に移る。三浦綾子さんの小説の深みは、≪聖書≫と≪神の心情≫にある。そこを探求できる点だ。しかも、この人の小説の内容は、クリスチャンの人も、仏教徒の人も、イスラームの人も、無宗教の人も、それぞれが、それぞれの範囲でわかる話なのだ。共通の話題ともなる。また、この人の小説を読みたくない人もいる。時があるので、それはそれでよいのだ。(無理して読まなくても)それで、昨日、独り空間の時、こういうインスピレーションがきた。神様は、特に女性の不貞を嫌われる。厳しく忌み嫌う。「うわあっ」と顔をそむけられる。心の思いが「正しい夫」からソレルことじたいを嫌う。その間のカラの心の空間に、「正しくない夫」が入り込む、魔が入り込む瞬間をつくる、女性の心を「だらしない」と嫌われる。そういう状景が、なにかしら、シャーマン資質のある綾子さんに訴えるものがあったのではないだろうか。綾子さんは、原罪が、「決定的な淫乱罪と、そのおもい」にあると、知っておいでのようだ。それを、断定的な言葉では言っていない。キリスト教の宗派の中では、「善悪知るの実」とか「りんごの果実」の意味、捉え方がまちまちであったりするから。けれども私にはわかった。「旧約聖書」では光世さんとの会話で、「どうしていちじくの葉で下部を隠したのかしら」「その部分で問題があったんだろう」というような表現をするに留めている。が、どの小説を読んでも、男女の愛の醜さ、もしくは美しさ真実の愛と純真を追求している。私は、ふっと、解けていった気がしたのだ。陽子の中に住む純真、気高き精神は、神の心情をあらわす。陽子は、殺人犯の子と聞いたときショックを受け絶望した。が、不義による裏切りの子と知ったとき、憤(いきどお)りと、激しき怒りを感じたのである。まったき正しき人であるなら、不正に憤ることは、正常な心ではないか。怒るべき場面で、怒りを感じたというのは道理に合うことである。「許しの神」というけれど、神様は何でもかんでも即座にパッと、「許す」と反応するのだろうか?許すに至るまでの神の心情があるのではないだろうか。神様は、世の中の不義と淫乱に怒って、洪水を起こしたことがあった。「ノアの箱舟」・・「泥流地帯」に、その状景を今、おもってみる。神に一番近いノアという人物をたててやりなおそうとされた。そのノアに相当する人物が、「拓一と耕作」の兄弟である。話がそれたが、神様の心情に時間性があるということを言いたい。陽子の「不義への怒り」は神様の性質から来たものである。自殺するものの行く霊界は地獄だという。殺人罪と淫乱罪では、この世ではともかく、霊界では淫乱罪の方が重い罪とされているとも聞く。その霊界の法則はともかくとして。陽子が、殺人犯の父よりも、不義と裏切りの母をより疎(うと)んだ。これは、何かなあ、とおもっていたら、ああ、これは、神様の気持ちがそうなんだなあ、神様が、「殺人する姿」より、「不義と裏切りのその心」をごらんになって、より多く苦しみ、泣かれたのだなあ・・というおもいがきた。陽子がどうのという現象は、さほど問題ではなく、神様をこのヒロインに投影されたのではなかったか。それで、こういうおもいが次にきた。陽子の心が「北島さん」から「お兄さん」への変心。それを伝えた直後、北島さんの右足損傷という事故が起こる。婚約の約束をした相手を葬って、「心変わり」するの意味は何であるか。それは、母を疎んだ「裏切りの心」そのものであり、母と同じことを陽子はおこなったいた。女性の心がうつろうとき、いつも同時に、「正しき夫」もしくは「正しき子」に忌まわしい事態が発生する。右足を神様は奪い取った。右は神様を表す。陽子は気づいたのかもしれない。「正しき夫」は北島さんだったということを。同じ「裏切り」を行った自分の行動に、母と同じ、罪の血統を見、悟ったのかもしれない。自分が、北島の足をもいだのだと、咄嗟におもったからだったかもしれない。それは、表向きの自分の弟のせいで、申し訳なかったという「同情心」とは別のものである。自分のために、北島さんの足になる、それしか、道を見出せなかったのかもしれぬ。私は陽子の変心の経路1、「北島さん」2、「お兄さん」3、「北島さん」で、どの段階が嫌だったかというと、「北島さんから、やっぱりお兄さんだった」というのを、自殺未遂後、どうどうと表明するあたりから、ふてぶてしさを感じていた。(不義なる子を疎んで、母親を恨んでる子は、結婚なんかしないで、出家せい)と、おもったから。戸籍上、実子になっている陽子は、霊的にみたら、兄・徹とは、同じ辻口家の守護を受けている兄妹なのだ。近親の結合という忌み嫌われている方向性である。話がとんだ方向に入ってしまったが、陽子は、その後、北島の右足のない不自由な姿を見ながら、自分の罪をみる(罪を自覚する)ことになったのではないだろうか。・・きのう、そうかんじたのである。
2006年12月05日
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「銃口」・・韓日問題の原因になっている、過去の辛い出来事を掘り起こした題材らしい。かなり重たい内容に突入しそうだ。事前にあらすじを知っておけば、臨む姿勢と心の準備ができるというもの。次回の課題図書は「銃口」らしい。もんさんの「泥流地帯」と「銃口」が良かったという書き込みに触発されて、最低それだけは読んでみようかと思った。昨日からの読書は「続・泥流地帯」に入った。続いて「千利休の妻たち」「岩にたつ」(第九巻)が待っている。全集の分厚いものが貸し出されているが、読みやすいと感じてる。20冊ほどの全集を眺めて、順繰りに読んでみようかという、目標を持って臨んでいるので、先の楽しみを希望に思うようになったかもしれない。■これから先の楽しみがある。感想集会の場で、ネットをみて参加された方との会話で、「まだ私、作品ちょっとしか読んでないんですよ」と言ったら30前後の女性の方が、「いいですねえ!」ですって。「えっ?どうして?」「私、全部、読み切ってしまいましたから。けっこう読み返しをする方なんです。まだ、少ししか読んでないのなら、これから先の楽しみがありますから(笑)」この一言に、あとから希望を感ずるようになった。これから、何の本でも新鮮な出会いが待っている。というほど、小説というものを読んでこなかったもので。本との出会いにも時があるか。今回、私が求めていたテーマは、「陽子の心変わりについての意味」。解説者の口からは語られなかった。その方は、まだその意味を、深く求めてはいないのだろうと思った。■人は甘えられる人がほしい私は、そこに大きなポイントがあると見ている。60代の品のいいクリスチャン女性からのコメントからの気づき。「人は時に甘えたくなるもの。それが、生きて行くうえで支えになったりする。けれど、なかなか、神様に甘えられない。甘える人が欲しいもの」と、聞いて、陽子の心が、≪北原さんからお兄さんに心が傾いた理由≫は、こういうことも、あるのかな?と、思ったのは、家に帰ってから。「人は甘えられる人が欲しい」という言葉は、60代の方が言われると、なるほど、説得力がある。その後、夕飯食べて、寝て起きてと、時を過ごしていたら、「ああ、私の目の前には、確かに甘えられる人がいる。その人には、本音が言える、わがままがいえる、素で接っせられる、バカを見せられる。親から離れてみて、「甘えられる人」とは、目の前にいる方だけに他ならない。なんだか、感謝としあわせな思いに、しみじみ浸ってみたりした。(今、ふっと、おもう。ああ、神様だって、そうなんだよなあ。神様だって、甘える人が欲しいんだなあ。信頼できる人を求めているということだ。冠も座布団もはずして膝枕になってくれる人)(けれど、上の陽子の変心の解明はまだ未解決。さらなる≪お兄さんから北原さんへの変心≫の意味はまだわからない。多分、北原さんの足の犠牲と(陽子に関連する殺人・不倫という家系的に、直接関係のない人の犠牲)、イエス様の十字架の贖罪、などの意味があるのだろうか?が、それも、とってつけたようで、まだ響いてはこない。60代の方が、さらに言う。「陽子は、殺人犯の父の子だった方が、まだいいと思ったのよねえ。不義の子として生まれたことの方をより重く捉えた。(夫を)裏切った母は許せない、許しがたいと・・」殺人者の父の方がまだ良かった。裏切った母の罪は赦せない・・という言葉を聞いて、罪の一番、大きな、決定的なことが、わかった気がした。■一番の罪がわかった。「目の前にいる、一番近い人を裏切ること」人の一番の決定的な罪・・それは、「今、一番近い人を裏切ること」・・これ、なんだなと、おもった。神様が一番嫌がること。神様が、「うわあっ」っと顔をそむけたくなること。神様は、<思いの罪の芽>じたいを、そもそも疎んでいる。心に不法者侵入を許しているから、<思いの罪の芽>は育って大きくなってしまう。そして、結果的に、決定的不義を犯す。神様を目の前の「正しき夫」とした場合、心によそ者が侵入していることを許している時とは、「正しき夫」のことを忘れている時間といえる。だから、夏枝が、よそ者に「愛の告白」という刺激的な空気を楽しんでいるともとれる、その時間、「正しき夫」を忘れ、「正しき子」を失った。まるで、罰であるかのように。その瞬時の間に、「魔」が侵入したのだ。その女の心に「魔」を侵入させる条件を成立させてしまったのだ。このようなトリック、小説における技法を、綾子さんのいくつかの小説で見てとらえた。短編「喪失」においてもしかり。(妻の決定的な不義の後、まもなく元気だった夫が脳梗塞で虫の息になる結末)
2006年12月04日
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「氷点」解説&感想を書きとって・・それを清書しながら、おもいついたこと。これらを時々、ここにメッセージを下さる「もん」さんと共に、わかちあいたいとおもう。≪・・辻口啓造という男(重要なる登場人物)について。解説者が言われるには・・(以後、解説者の言葉は≪≫でくくる)「辻」の中に入っている「十」はイエス様の十字架をあらわす。その隣のしんにょうは、道をあらわす。(十字架の道)続いて辻口の「口」は十字架への道の入り口。(物語の結末は、イエスキリストの十字架へ向けてすすめられる暗示)啓造の「啓」は啓示をあらわす。「造」は新しく造られる。造りかえられる。を象徴。ヒロインの陽子は、日の光・・光のように生きられるの意・・≫名前や言葉の意味を知るのに、分解を試みる方法を、時々韓国小説に見つける私。60代の品の良いおばさまが言われるには、札幌の高級住宅街に「辻口」という姓は密集しているようだ。辻口姓のお医者さまの奥様が、その方の知り合いにいらっしゃるとか。・・私としては、そちらの話にリアリティを感じたが、両方とも、いい話だな、率直におもった。≪「氷点」「続・氷点」最後に締めるため、重要人物をもって締めている≫≪「続・氷点」での重要人物、順子の登場・・かつて陽子が、殺人者の娘と思われていた本物の人物。陽子が出来なかったことを実現した人物。陽子は自殺しようとしたが、順子は自殺しなかった。しようとしなかった。順子の自殺を越えた生き方。綾子さん、先に(執筆の構想のはじめに)遺書を設定。その後、遺書にいたるまでをうめた。朗読の会を、東京のあるところでおこなっている。ある人が、この遺書の朗読の際、涙で読めなくなった。NTTの「現在使われていません」コールの声の方は中村さんという方。その方がクリスチャンで、大変な三浦ファン。東京の三浦文学朗読の会で、講師を担当している。(へえー、これ、おもしろそうと思った。中村さんの声での朗読、聞いてみたいかも?私)解説者が言うには・・幼い時、いじめられた人は、将来影響を与える人になっている。(馬小屋で生まれたイエス、捨て子のモーセ)いじめられている人にアドバイス、あなたの将来はいいよ。解説者も小二から中二、いじめにあう。いじめのとき、相手を許せなかった。中三でキリスト知って(「塩狩峠」読んだとき)許せないおもい・・消えた。許すことでき、愛することできるように。いじめる側の事情も考えるようになった。そうせずには(人をいじめずには)生きていけない事情があったのでは?いじめの側のその人は家庭において寂しかった、母親に甘えられなかった。父がトラック運転手で留守が多く、母は商店のきりもりで子供をかまってあげる余裕がなく。陽子、母親からいじめを受ける。陽子「私はたとえ、いじめられようと、こんなことをされても、胸をはって生きていける」(卒業答辞をすりかえられたとき)・・なぜなら、それは、私の≪外≫のことですから。私の≪内≫の問題ではない。陽子の自殺の動機・・自分の存在事態が悪。自分が存在することによって悪臭を放ち、悪影響を及ぼす。他者からは、いくらいじめられても、それに決して屈しない。それは、自分の外側の問題だから。けれど、自分の存在事態が罪の子、罪の結果の存在と知ったとき、問題は自身の≪内側≫にあったのだ。(解説者:だから外側のことで死ぬ人、死ぬ資格なし。・・けれども、神はそのような罪人においても、愛あるものに変えて、もちいようとしている)遺書における北原への手紙で、綾子さん、「原罪」の話に言及。(段段に話を進めていって、結局その事を話題にする)たとえ、殺人者の子でなかったとしても、先祖の罪の血が流れている。(アダムの罪まで遡る)「続・氷点」文庫P151くらいで順子「(殺人者の実の)父を一時は責めた。が、相沢の父母(養父母)から、キリストの贖罪を知った」キリストなしでは、決して許せない。(解説者:クリスチャンも、ふっとさびしくおもうこともある・・でも、大丈夫・・となる)陽子には「責める心」がある。実母である三井恵子に対する、許せないおもい。「氷点」では陽子の持っている罪は「点」であった。罪の可能性。「続・氷点」では、陽子のもっている罪なるものは「点」ではないことがわかる。「点」ではなく、「流氷のような大きなもの、人を責める心、許せない心。「続・氷点」P157くらい、順子、父への憎しみ消えた。(許せない心・・消えた?)陽子「順子さんは父を許せた。・・私にはできない・・母を許すこと」キリストの贖罪は・・許すことができる。神と人にわびることができるすがすがしさ。「続・氷点」P216~P217河原であやまる場面・・順子「(父が)誰を殺したのか、知らなかったのです・・私をどのようにでもなさってください。父の罪をも、つぐなって生きようと、思ってきました」たとえ両親に罪がないとしても(殺人者でなかったとしても)、祖父の代における、戦争を犯した罪はどう捉えるのか。そのことは「銃口」で言及。殺人者の父の罪というなら、戦争における殺人者の罪は、どう考えるか。綾子さん、韓国へは一度も行かなかった。行けない。行けなかった。韓国側からの授賞式で招待を受けていたが。行く資格がない。行けば地べたを這いつくばることになる。(解説者:韓国に行って自殺したくなった。それだけ罪を犯している)綾子さん、「銃口」を書く際、「日本人を責める書き方はしたくない」と言われた。実は「氷点」(戦後の物語)・・戦争問題扱っていた。啓造と、佐石・・戦争に行った人として書かれたいた。(私、気づかなかったけど)日本人の原罪ともいえる戦争、殺人の罪。P216~217順子「(キリストの贖罪によって)父の罪をおわびしたい、許しを頂きたいと思ってきたの」啓造「わびたら、どんなにすがすがしいだろう」神と人の前にわびる心。順子の姿を通して、教会、行ってみようと思った。教会入れた。(「氷点」では教会に入れなかったが、「続・氷点」では入れた)P221~225「今日は○○さんに証して頂きましょう」証とは体験談。P224(自分を正しいと思う、人を見下げる)さかいひろこという女性の話。■執筆秘話・・モデルは綾子さんの初代秘書(宮嶋裕子(ゆうこ)さんの旧姓ながいざか裕子をもじって)綾子さん、秘書の方に「何かいい証ない?」そのときのことを書いたそうだ。■(陽子がなかなか許せなかった実母・三井恵子の存在・・まさに、めぐみの人。※憎むべき人がいるのはしあわせ。いやな人がいると、みがかれる。かわれる。まわり→いい人ばかり→変われない。まわりに、摩擦する人いないと、そういう人がいないと、人は変われない。P293順子の出現では・・まだ途中段階にある。次なる人として、恵子を出現させる。(解説者:いじめられっこに今、感謝。で、ないと、クリスチャンになってなかった。マイナスたっぷり与えてくれた人に感謝)■三井弥吉(恵子の夫)からの手紙。妻を責める資格ない、自分の罪の自覚が書かれている。人を許せるかどうか、啓造は陽子に手紙を渡す。誰かを責めているときは、余裕がある。自分の罪の自覚でいっぱいのとき、余裕がない。それだけでいっぱい。啓造も夏枝も、互いに相手を許せない。自分の罪の自覚がない。この夫婦が乗り越えられなかったものを越えた夫婦がいた。啓造(戦争・殺人)と夏枝(おもいの不倫)に対して、それを越えた夫婦として、三井弥吉(戦争・殺人)と三井恵子(決定的不倫・子を捨てる)の夫婦。この夫婦は、互いが罪を自覚し、罪を負って苦しんでいたため、心の内はそれでいっぱい、相手を責める余裕がなかった。■燃える流氷は、最後の結束。(何かの目的に向っておおぜいの人が統一行動を取るように心を固めること)流氷は神様の演出。シナリオ・・もともとの綾子さんの構想ではない。クライマックスの燃える流氷・・罪をあらわす。(氷点はこおりの点にすぎない。氷山の一角しか、わかっていない)綾子さんの取材秘話によると・・取材旅行に行ったその日は4月4日、夫・光世氏の誕生日。ふつうはないはずのことが・・あった。(時期的に見られないはずの、燃える流氷)ガチガチの罪を、キリストの贖罪によって罪がとける。(人間の贖罪)・・罪がとけ・・あつくなる・・。陽子、母に電話。あやまろうとする。神の平安が陽子に与えられ。愛が与えられた。神の平安とは、自分が最も罪深い・・なのに、イエスに受け入れられた時に感ずるもの≫解説者の話は終わった。これに関する感想はまたあとで。
2006年12月03日
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日中、夢をみることもなく、ぐーっすり深い眠りにおちていた。近頃、睡眠が小刻みに少しずつしかとらなくても大丈夫と、むやみに起きていた。が、近頃、おもうのは、夜中12時くらいから3時くらいまでは、起きていてもあまり成果がないので、やはり寝ておけ・・と、おもう。暗くなった気配を感じつつ、がばっと起き上がる。着る、ふとんをたたむ、水を含む、りんご食べる、暖をとるのに湯タンポのお湯をやかんであたためる。久々に玄米酵素の粉をぬるめの水で解いて食べる。床に目につくゴミを拾い上げる。ところどころを拭き上げる。自分の目に映る範囲に、日頃から整然をつくる。(お気に入りページに入っている)ハヌルさんの部屋掃除に関することが書かれていたページを読んでから、部屋の整然づくりが身についてきた。Nさん、きのうは疲れがピークにきていたようで、シャワーも浴びず寝てしまったようだ。私が、その部屋に行ったときには、どうも、部屋が体内から発散されているガスに充満されていたようだ。と、Nさん、トイレに立ち上がった。(!今だ、イソゲ)ベランダの窓を開け放す。(うえっ!こんなに寒いのに。かまわん、かまわん)布団を一枚ずつ、窓の外に向けてパンパン。枕も、カバーも、パンパンはたく。部屋の換気、空気の入れ替えだ。Nさん、部屋に戻ってきた。「まだ、開けてるの?」という声が聞こえたときには、すでに夜具を整えて眠りかけていた。その時間は起き出す朝の時間だったようだ。Nさん、今日も仕事だったのか。あたしを食べさせるために、出かけていった。(ありがとう)昨日は、知らない空間に出かけていって、二時間ほど過ごしたため、少し、私の霊性は疲れていた。聖書を人より多く読んだ文学少年だった人の「氷点」解説とか、60代くらいのおばさまの感想。その場所まで、駅から長らく歩いた。いつもより、たくさん歩けて、よい運動ができた。時間内に、本の返却と新たな本の貸出し受けられた。土曜日の図書館は午後6時迄と知る。どうりで、夕方時間になって、係の人たちの顔が険しくなっていた。時間内に早く仕事をおさめようと。私も迷惑かけないように、さっさと家路に急いだ。さて、「氷点」解説、ノートに書いた内容を日記本文にあげるのは、いかがなものか。人が読み取った感想なわけであって。そうだ!それを聞いた私が、どう思ったか、それを書けばいいのだとおもった。感想文というのは、書きながら、思いつきがおこるものなのだ。おもいつきの導き。神様は、どういう解説をされるかということをおもったとき、意外なコメントをされるような気がした。また、感想を語られた人たちのポロッ、ポロッとこぼれる中にヒントがある気がしたりする。
2006年12月03日
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書いた文が消えてしまう・・ということが度々あり。後ろのお方が、「この文、却下」ダメだしされているんだな。納得もし、けど、もう同じこと二度と書けない、惜しく思うこともあり。最近は、ソフトタッチを心掛けている。タイピングでキーボードに指が触れる時、タッチが強い場合も、文が飛んでしまうことがあるから。「氷点」初めの場面で、村井が帰った応接間。夏枝が弾くショパン、(不倫なるおもい)感情の昂(たか)ぶりで弾いたピアノの弦が切れてしまう(その時、娘が殺害された)・・それを思い出した。それは教訓、努めて冷静に冷静に。おりこうさんのノートPC、すでに私の体の一つ、家臣である。かわいがっているので、よく協力してくれてる。学校にある最新のPCは、変な力がいる、馴染まない。人の臓器の移植・・「これは、してはならないことなのです」ある人がピシリと話の中でひとこと言われた。話は、すでに別なことに移っている。けど、そのキッパリとした断定に、「なぜ?」と思った記憶があり。全体の、その他の話は全く覚えておらず。その一言だけが頭に残った。と、これは16年程前のある日の断片。頭に引っ掛かっていた、疑問。・・それは、宗教的意味合いなのだろうか?霊的なことがよくわかる人は、もしかすると答を知っているのかもしれない。本人知らぬ間の臓器移植の問題があがっているが、少し前、夫婦間における納得し決意済みの臓器移植から、夫婦間の人間関係に問題が起こってきたというテレビの特集をみた。その時、その意味することはよくわからなかったが・・。つきのせさんのこのページ にヒントがあるかも?・・そのページを何度も読みに行った。それで、今、思う。体の部分は、私の家臣と考えてみたら?どんなもんだろう。代々その家に仕えてきた譜代の家臣。馬に乗る人が、ピシリと手綱(たづな)をあやつる。馬は乗り手の心のままに、足となって動いてくれる。ここ数日、こんなことにハッとしていた。木枕で「一時間だけ仮眠しよう」と心で言い、薪を1/4に割ったカーブの部分に布を被せ、うなじの部分にあてて寝る。寝つくまで、大正型の湯たんぽを腰にあてるも同じく。わずかな時間の指圧効果となって、時間どおりに起きれる。深く眠れる。目覚め、爽快。一日総計わずかな睡眠でも、体がもってくれてること発見。体のツボ、適度に押されると、気持ちいい、疲れやコリがとれたり。そういう部分を担当している守護の霊なる存在が・・もしや、関係してないだろうか?ふと、思いついた。とりわけ、首の後ろのうなじ部分から霊が出入りすると聞いて、お風呂のとき、丁寧に洗おうか、とおもったことがあった。西式健康法で知った木枕は、霊の出入りの重要な部分を、効果的にサポートしてくれる。うなじ・・というと、髪を切るとき、「後ろの髪の生え際、ぎりぎりにまっすぐにお願いします」なんて、いつからか、言うようになった。それが、一番似合うと、ある日、思い込んだようだ。首の後ろに髪が伸びて覆い被さると、気分が、確かに、鬱蒼するような。適度な温度の湯たんぽを、腰にあてると体が元気になってくる。椎間板ヘルニアをやったことがある。なぜ、腰が悪くなったのか?・・そのことも、その部分の、担当者の霊と、なにか関係するのでは?・・今、書きながら思った。(木火土金水の五行がある。木は脳、火は心臓、土は胃腸、金は手足、水は生殖器・・日中の土木の授業を聞きながら、頭は別のことを考え、ノートに五行の絵を書いていた、おとといのことを思い出している)今はもう、決して行かないが、食べ放題のランチに行って、食べ過ぎた時のこと。体から声がしたような気がしたのだ。工場長というふうのおじさん・・眉を八の字にした、マンガ風の顔としゃべり。「お嬢様・・すこし・・おかんがえになっていただけませんか・・かれらは、いちにちじゅう、やすみなく、はたらきづめで、へとへとです」「アラジン」に出てくる魔法のランプから出てくる大男ジンの風体である。ランプを磨いた者に忠実に仕える家臣、僕(しもべ)である。魔法のランプが不用になったとき、ジンは最後、仕えることから解放され、自由な身となるのだったか。ああ、それを、私をサポートする胃腸の守りの霊とするなら・・私の体(寿命)が終わったら、彼も解放されて、自由になる?ご主人の私が、もし、高い所に行けたなら・・彼も、それなりのところに行って、良い待遇とか自由を与えられる?書きながら、なんだか、どんどん、おもいつく。たのしい。なんで、こういう思考が巡っただろうか?三浦作品の分析をしようと、うつらうつらしていた。本日返却予定の全集に入っている「喪失」という短編もの。(1978年「小説宝石」七月号。中短編小説集「毒麦の季」に収録)30代後半の常識ある妻の話。胃潰瘍の痛みと不安から、胃癌死を予想する。自分が死んだら夫は若い妻をもらうのだと思うと耐えがたい。死んだ自分はみじめだ。・・いっそのこと死ぬ前に、夫を裏切ろうか・・妄想という悪霊につかまる。おもいは、実体化する。一度だけ、不倫。ことを起こしてから、目が覚めるような出来事が起こる。ぴんぴんしていた夫が突然の脳溢血。重態、意識不明の知らせが入るところで幕引きとなる。(ああ、なんという話なんだろう。ガクン・・あたしゃ、うなだれた。なんじゃあ、この短編は)あたしはこう分析した。・・悪霊は、人の口から、そそのかす言葉をしゃべらせる。常識ある妻は、「とんでもない」とすぐに受け入れるのではない。魔は、ひそやかに、潜在意識に入り込み。もぐりこんだ、しめしめ。彼女の意識にちょびちょび働きかける。同時進行で、魔は、人、環境、時間、場面と、巧みな設定をし始める。さて、決定的な、ことが終わった。魔が、せせら笑う、嘲笑、・・「あんたも、やっぱり、まむしの子か・・へっへ(あざけりの目)」人をつかって、侮蔑の笑みの演出。恥辱。不倫・・自殺行為だった。不倫は、自殺行為である。このことが、はっきりわかった気がした。これから、死ぬかもしれない、というその人は、これまでは貞淑な常識妻だったのに。死ぬかもしれない最後に、汚点をつくった。と、その代価は、夫の脳の血流ストップに反映された。脳の部分とは、その人の先祖とか、遺伝子を顕わす部分ではないのか。夫の脳をサポートしている遺伝子に関係する霊が、ぶち切れた。「それは、あんまりだろ!」女への抗議、じわじわ責めたてる、傷つける。ひねくれた霊の仕業を読み取れないと。あぶないことは、いっぱいだ。霊には、霊の、見えない人間関係が交錯している。人は、まず、はじめに、悪霊の存在を知らないと。はっきり。何が、不幸の原因なのかを知らないと。女は、そうやって、妻としての貞操を喪失。信頼を喪失。夫だけでなく。人のまわりには、おおくの見えない観客がいるんだろう。観客の霊たちのあざけりに、これまでの好成績も、信頼も、面目も、まるつぶれだ。不倫なる、堕落の映像を、男と女と、二人だけが、知ってるんじゃない。実は、多くの観客が息を凝らして鑑賞しているのをお忘れでないよ。
2006年12月02日
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今日は日没の一時間前に帰ってきた。朝、掃除機がかけられなかったので、「ソレイケ!」全ての窓、ドアを開け放して、ぶんぶん、掃除機をかけた。コートのまま、からだがあったまっている。お外に出ると、休憩時間ごとに、私は走って、一番遠いキレイなお手洗いに走りだすのだ。だから、薄着でも、体はぽかぽか温かい。掃除機をかける間、布団をベランダに出し、和室の角から、ほこりをさらっていく。ダイニング、椅子をテーブルに上げサラリとほこりの吸引おしまい。乾いた洗濯物をベランダの窓で、パンパンはたく、たたむ、しまう。風呂、垢が出る出る。が、こんなのに時間をとられたくない。垢すりのいったりきたりのゴシゴシのスピードの速さ、真剣そのもの。PC開く。るるさんのコメント見つけた。うわあ~。かんどうー!今日、初めて心、うごかされた。「彼氏が安さん」というところに、うわあ~!となった。ああ、なんてシアワセなんだ、るるさん、こりゃ、イイ。そう思えるなんて、すごく、いい。・・と、あたしにも、シアワセが沁みてきた。ウチのNさんも、そういえば・・「安さんだ!」あたしの安さんなんだ!・・という発見。朝、書いた本文、もう一度、読み返してみた。やっぱ、Nさんが、安さん、というのは、ちょっとかわいそうかな?ふふ(笑)・・でも、その文から遠ざかってみると、まぎれもなく、安さんだ。虔十だ。賢治だ。そのものではないか。シアワセが広がった。新しい魅力をみつけた。Nさんは、安さん・・これは自慢の表明でもある。るるさんに、すぐに返信しようと思ったけど。ご飯の仕度、仮眠。むくっと起き上がって、私は、またもや、片付け家事に走った。めずらしー!私「がんばってるもん!」Nさん「じまん?」日中、今日はやるよ、やらせて下さい。誰かに頼んでいた。私をサポートする守りの霊なる方が、その頼みを受け留めてくれたようだ。家の心臓部、気になっている棚のほこりを、模様替えと共に、一気に、かかったのだ。洋間のテーブルの下に足を温めるコタツを工夫した。そこから、床拭き、小物拭き、みごとな家事能力を発揮した。るるさんから、パワーをもらった気がした。以前も、るるさんのコメントを頂いたとき、掃除の、からだが動いたのだ。これまで、4ヶ月、出来なかった、家の心臓部が、カラリと磨きが入った。カレンダーをびりびり破る。「12月だあー!」月初めから、掃除、デキター!これらの作業にかかるにあたって、むしゃむしゃ、ほしいもを食べた。やる気の火がついている。体があつい。水をごくごく飲んだ。仕上がり、完璧、あたし、家事の天才かも。なかなかやるもんだ。じまん。>(るるさん)おはようございます わざわざ覗いてくださったとの事で大変ありがとうございました スピリチュアル専門のブログのアドレスを一応貼らせていただきますね(お手数にならないように最初からこうすればよかったのですが、ご興味もないのに貼ったりしたら返ってご迷惑だろうと遠慮してしまったのです 汗)はなたま(火水ハヌル)掲示板のコメント見つけたのは、全ての掃除作業を終えてから。ここに、書き始める前に見つけました。るるさん、丁寧なことばで書いてくれて、(「までえ」、ですね。までえ・・あおもり弁で、「丁寧・きちんと)。今日、この言葉で、洗濯たたみの素早さ、早わざに、自分を賞賛してました)るるさん、気を使ってくれてるみたいで、どうも。るるさんの中のいい部分をあたしにくれてるみたい。あたし、さっき、作業しながら、るるさんと会話してた。ためぐちでしゃべくってた。うれしかったんだ。あたしにおいて、三浦綾子さんと、るるさん、関連、ありそうなんだ。最近のドロドロ小説の神的解読で、サタンとのボクシング、随分、強くなったと思う。あたしの神的ヤクザ性が、サタンの動きを徹底追求し、その手管、正体、暴きつつある。これからキャベツとダイコン刻んで食うので、後でまた書けたら書きます。るるさんは、霊的健康のために、小説を、やはり書くべきなんだ。・・と、思ったんだ。自分の中のいい部分とか、シアワセな部分とか、照れがあって、書けないものなんだ。(だから客観的小説) >■http://plaza.rakuten.co.jp/rosekingdom2/ (るるさん)こちらはまだ始めて間もないのですが、そちらではミエナイ世界のことのみを素直に隠さず書いていこうと思っております どうしても照れがあるのですが 恥じる心は自我が生み出したもの ただ感じたままを残してみています またよろしくお願いいたしますね (2006年11月30日 08時06分49秒) すごく、いい空気、伝わってきたよ。あ!、あたし、特別招待、受けたんだなって、おもった。るるさんの大切な心の部分、あたしに伝えたいと、おもってくれてるんだなって。あたし、以前、るるさんのぺーじ半日かけて、までえーに読んだもんね。日中、(あたしに小説が書けるように、誰か指導してくれないかな)と、思ってた。(ああ、るるさんだ!)気づき。>(るるさん)おはようございます 今日の日記は身につまされる思いがしました 形は違いますが私はかつて「敏子」でした そしてもちろん小説ほどの人間味のなさ(良い意味で)ではありませんが、今の彼氏が現代の安さんだなぁとしみじみしてしまいました 三浦綾子さんの小説はかつて避けて読まなかったのですが、ヒヤシンス。さんの書かれたものを拝見しているうちに 強い関心が湧いてきました (2006年11月30日 08時14分09秒)この文から、光のパワーをもらった。三浦文学の神的(はなたま?)解読・・これが、強力なパック剤になるんじゃなかろうか。顔に泥パックをすると、遮断、熱をもつ(かっとう)、奥に居座っている、強力なヨゴレが、表にでてくる出てくる。パック剤につかまる。がばっと剥ぐ。ほ~お~、すーっきり。日中、次なる短編小説に腹立てながら読みきった。が、終わったあと、コレがおこったんだよ。
2006年11月30日
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(三浦綾子全集八巻)心に残った言葉■(友人からの手紙)「あなたどうして、女学校を卒業して一年も経たないうちに結婚なさるの。十八や十九で一生を共にする相手を選ぶ目がもうできたというの。大変なハンサムだということだけど、長い人生を生きて行くのに、ハンサムだぐらいで、生きぬいていけるものかしら~<孤独が恐ろしかったら結婚するな>(チェーホフ)」~文中より。■(わたしの死をとどめてくれた安さんの言葉と死)「ごめんねっていえ」それが安さんの、ただ一つの意見らしい意見であった。なぜか真理に思えた。あやまちを犯した者が、あやまるのは当然のことだ。悪いものが謝罪するのは当然のことだ。だが安さんは反対のことをいった。罪のある者が死ぬのなら当然だ。だが、罪のない安さんが死んだ。◇◇◇三浦作品の短編で、知恵遅れの人物が出てくる作品は二回目。その時も、その人物は、喉に餅を詰まらせ他愛のないことで亡くなってしまうのだが、作者が言いたいことはよくわからなかった。その時に、作品の意味が読み取れなくても、次々と他の作品を読み進めていくうちに解けてくるものもあるのかもしれない。今日読んだ作品は、昼一時間で読み切れる後味爽快なものだった。敏子の父は「親子そろって役人の家なら、これはお堅いもんだ。まず一生まちがいあるまい」と乗り気の見合い。見た目スラリと美しく、前途有望な高級官吏の青年。敏子はひと目で心ひかれ、嫁いだ。その家は収賄を当然とし、父子それぞれ妾をもつのを当然とする家。夫に、外に子供が出来たので、舅に「引き取ってお前に育ててもらうことにした」と言われる。夫への執着、妻の座を奪われてはたまらないという誇りからか、激しい嫉妬心からか、夫にまつわるように仕え、尽くした。姑の蔑(さげす)み、言う。「正妻と妾はちがう。官吏は、妾を持っても決して正妻を追い出すことはない。世間様の信用を失うから」夫が言う。「出て行くのだけはやめてくれよ。世間体が悪いからな」実家に戻った。が、受け入れられず。睡眠薬を持って実家を出た。女を憎みつづけた。裏切った夫が、離れるほどに愛しく思われた。学歴、地位、容姿、受け継ぐべき資産、それはすべて少女時代に夢みたものばかりだった。自分だけが死ぬなんてやりきれない。夫と一緒に死ぬべきだ・・心中。世間体をはばかる夫を呼びよせる工夫を考える。女や、舅姑へのつらあてのためもある。そのもやもやした、死への思いをとどめてくれたのが、死への旅で出会う知能指数の低い、安(やす)さんという男だった。男の思いがけない柔和な澄んだ目、それは幼子というよりも、おとなしい家畜のような。馬の目、山羊の目のように澄明で、人間臭さがなく、柔和で心あたたまる目。年齢は二十とも三十ともとれるが、本人は自分を五歳と思っている。小学一年の子にも「おにいさん」「おねえさん」と呼んで、丁寧にお辞儀をするという。叱られても、決して怒ったり、口返しをしたりしない。ただ子供のようにワアワア泣くだけ。泣いたあとはまたケロリとして、小母ちゃーんといって・・。恨みというものがないのか、記憶力がないのか、叱られたことをすぐに忘れてしまうからなのか・・。一生懸命、汗して働く。お金の価値もわからないので、受け取った報酬も、ほんのわずかだけもらい、あとは要らないと返してしまう。「紙のジェンコはいらん」出された十銭玉十枚のうちから、三枚だけ取って、あとは「重いからいらん」と返した姿に、激しく胸を突かれた敏子。反射的に嫁ぎ先の家の人々を思った。業者から贈られる金を当然のごとく受けていた舅姑。執着していた夫の姿がはっきり見えた。・・学歴、地位、未来もある夫が惜しかった。夫の継ぐべき資産を無意識に計算していた。それは、自身が忌むべき方法で貯えられた資産であると知りながら、形あるものに執着していた。安さんの姿とはあまりにも違っていた。安さんは米だけを食べさせる家でも、米の一粒も当たらない山奥の農家でも「おいてえ」と入っていく。門構えの立派な村長さんの家でも、農家の貧しい家でも、十銭玉二つ三つで喜んで働く。どの家で何を出されても「うまい、うまい」と言って食べ、小学一年生を自分の先輩として敬い、与えられた仕事は、いささかの陰日向もなく、力の限りにやり通す。しかも、お内儀(かみ)の話には、性的な欲望も全くないと聞いた。女を見るのに、安さんの目が野獣のように光ったことはないという。誰もが福の神、福の神とかわいがった。知恵ある人間は、安さんの境地になりにくい。紙幣の方が価値があり、持ち歩きにも軽い。安さんは、より価の低い穴あき銭を身につけて、それで満足している。欲深い人間への、尊い戒め。死ぬこと、心中することも、滑稽なことに思われた。女に夫を譲り、別れようと心静かに思う。人が変わったように明るくなった。不意につきものがおちたようだ。叱られてもけなされても、ただ泣くだけで、恨むことを知らぬ安さんに近づきたかった。次第にちがった自分に変わっていった。◇◇◇つきものがおちたように・・邪心のない者になりたい。妬み、憎しみ、悲観、比較、自分が優位に立ちたい優遇されたい、得したい損したくない。・・無我の人になりたい。少なくとも、安さんの話を時々は思い出したい。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」・・みんなにでくのぼうとよばれ、ほめられもせず、くにもされず、そういうものにわたしはなりたい。同じく宮沢賢治の「虔十公園林」の虔十のことは、時々は思い出す。その話で教訓に残ることがある。虔十が無心で善き苗を植えた時、隣の男が迫害した。が、その翌年、流行り病で、虔十も迫害した男も、共に死んでしまうのだ。何十年か経った時、小さな杉の苗は、日照りの夏を救う、人々が憩う公園となって喜びをもたらした。迫害した男は、何も残さなかった。よき苗を、よき種を、今、蒔くべきものを蒔きたい。今、やるべきことを、おこなうことができますように。ことをはじめる前には、その動機に、邪心や憑き物は、ついていないか。みてかからなければ。つきものがとれれば、神様の霊がたずねてこれる。ものごとの始まりに邪心があれば、やり直しが神様から命じられる。
2006年11月30日
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心に残った言葉:「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」◇◇◇「人間は自由意思の主体である。人の一生は、自らの責任において、自ら生き営むべき一生。そのためには、もし吾らに、守護の精霊がついているものならば、彼は吾らを邪道より阻止するにとどめるべき。それ以上積極的に吾らを正道にまで促し進めるは、親切のし過ぎ。隣人に対して、自ら親切を尽くそうとする場合にも、銘記して忘れぬようにせねば。隣人をして、みだりに彼自らの責任から逃れしむような親切は、許してならないお節介。それは人の独立を奪うものであって、人格妨害である」(恵理子が読んだ「幸福論」(三谷隆正)より抜粋)◇◇◇三日間に渡ってやっと終了、やれやれ、と達成感。この小説と共に、自分に垂れ込めた暗雲、悪霊が立ち退いた・・ものがたりの後半から、わかってきた。はじめ読みかけた時、(大変なものに突入してしまった・・たのむから不快を与えてくれるなよ)すこしおそれを感じていたけど・・三浦綾子さんの意図を信じて読みすすめた。ここから何かを感じとらなければ・・。きっと、綾子さんから生まれ出た作品には、祈りの末からきたものがあったはず。そこが掴めたらいい。あばずれの女・香也子は、妬み・比較・たくらみ・寂しい・あまのじゃくの女。お縄にならない程度の他人の混じった家族内での人間関係で、悪さをはかり、人のうろたえをよろこびとする女。罠に引っ掛かり心乱す人たち、罠を逆手にとってかえって好都合という運びとする神に近い人たち。その違いは、結婚前に性関係を持ってしまったという人たちにおいては、どうも魔が侵入して、香也子のたくらみにもがいてしまう。罠に引っ掛からない人たちは、結婚前にキレイを保ち、神や親や目に見えない永遠なものに礼儀作法を尊ぶ人たち。神様は、人の心を二人の姉妹に分けたようだ。邪心を顕わす香也子、物事を悪く考えるというクセがまるでない恵理子。その母親の良い心の状態に出来た子、夫婦の愛情が純粋だった時の子が恵理子という人で、純粋さを失い妻の座にどかっとあぐらをかき魔に侵入された時の子供が香也子?人に住む二つの心を顕わした正反対の姉妹。物語後半から、魔の存在・・というものを、香也子を通して、見せつけてくれた。幸せすぎて、はしゃぎすぎると、どこかで妬ましい目で悪さを仕掛けようとする存在がいるよ・・そのような忠告を与えてくれているようでもある。物静かでいなければならない、冷静に静かに喜ぶ人にならないと。奪われてしまう。常に、目に見えない永遠なるものに、礼儀作法を持つ人であらなければ。反省、反省。この小説、ほんとうに恐かったです。あまり、人にすすめられない。ものがたりのキャラクターが、読み手の心に憑依するような不快にたえながらページをすすめなければならなかった。いつ、綾子さんは聖書の言葉を出してくれるんだろう・・。救いを求めながら、早くこの本を終えることを急いだ。読み終えた私は、今、爽快を味わっている。私の運気の暗雲を、いったんは憑依させながらも、最後にはそれらをがばっと取り出して空に昇華させていってくれた・・そう感じ取ることができたから。大成功、やったー、うれしい。これから朝の洗濯・掃除で、それらの総仕上げにかかるつもりだ。この三日間は、私の暦の運行では印星から比肩星だった。これらの運気は今朝のあけぼの時間にて終了したことがわかった。心が希望的にいきいきしてるもの。睡眠をたくさん取った中でみた希望的な夢を今、思い出した。時の責任者が出てきた。(夢では安倍総理)小さい末っ子の男の子の存在。私の常日頃を時の責任者が評価してくれた様子。あたたかな良い席に座って優遇されている昇格の場面。(重要な会議に参加していた)たくさんの贈り物の食品のパッケージ。うらやましがる(ねたみ、皮肉を言う)一人の女性に、「丁度良かった、もらってくれる人がいないかと思っていたところ」と言って、その中の肉を全部タッパーに入れて手渡す。(そもそも私は肉を受け付けない人)とにかく、こんなに落ち込みながら読んだのに、私を襲った黒々としたものが、がばっと剥ぎ取られて、今、お空にあがっていった。まるでパックだ。「トイレ掃除は功徳」のRちゃんの最近の電話の言葉を思い出す。「この間、言っちゃったものね」「は?なんのことだっけ?」「消えてしまいたいって、言ってたでしょう私?」「あ~あ、なんか言ってたね、気にも留めてなかったけどね」「その重たい思いが、今、ないのよ。悪いものが出ていく時というのは、いったん、ぜんぶ、きたないものが、いっきに吹き出すのよ。そしていっぺんに出ていくものなのよ」「ああ、なんか、アトピーとかの人が、いい薬とか療法でもって、好転反応を起こすときの状態みたいだね」そのことを彼女は、罪の許しとか清算とかの話に引っ掛けて言っていた。「ほら、私って、家系のこととか、ずいぶん苦しんできたでしょ」ああ、なんか、親がいとこ結婚でどうのとか言ってたな。父親がケモノに見えるだとか。いっけん不可解な彼女のメッセージではあるが、私は、Rちゃんに率直に感想を述べた。「あたしは、Rちゃんが言うことには感動させられることがしばしばあるよ。素晴らしい人がRちゃんの後ろにはいらっしゃるんだとおもうよ。だから、Rちゃんはいい人だってことだよ」「あらあっ、ほめてくださってありがとう」「きっと知らないだけで、Rちゃんが、ケモノとかいってたお父さんだって、Rちゃんが知らないところで、いいことしてる人なんじゃないかと思うよ」「うん、そうかしらね・・そういうこともあるかもしれないですね」Rちゃん、電話の中でパッと顔があかるくなっていったよう。「そうだよ。私が生み出されるまで、罪なる悪いと言われる人達が、たくさんいたとしても、いや、いたんだろうけどさ、その人たちが、一人でもいなかったら、今のRちゃんも私もいないわけだからさあ・・・・先っぽのあたしたちが、善い人で、善く生きれば、その人たちのおかげ、感謝ということになるわけだよ」・・Rちゃんのポイントを押さえた善き行動は、私に良質の善なる刺激を与えてくれる。それで、彼女の背後を強力にサポートしてると思われる徳の高い守護霊さんを意識して、彼女に賞賛の言葉を贈るわけである。物語の感想のまとめ・・悪霊の手先になって、人をおとしいれる行動ばかりたくらんでいる香也子という人、しまいには、誰も彼女を相手にしなくなっていった。無視・・彼女は、もう、悪態の限りをしたところで、・・だんだん、むなしくなっていった。疲れた。やる気をなくしていく。悪いことをする、やる気が。作者は、その空っぽになった彼女の体に新しき神の霊が、どうぞ、入り込むことが出来ますように・・そういう祈りを、込められた作品だったのではなかろうか。人の心に持つ香也子の性質、それをオーバーに顕わした人物を香也子にしたててみただけのこと。悪いものが、ぜーんぶ、抜き出たところに、はじめて、神の霊が住むことが可能なのである。
2006年11月28日
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「氷点」を旅する 今日、学校で見つけたそのページに、傷ついた心が癒されたようだった。私は、昨日のドラマで心を下降させてしまい。・・心中の部屋を、旧知の友を、おかされたような・・。他者の臓器を勝手に移植されたような心地わるさ。このような葛藤をスタッフ関係者の方々は、おそらくしょっちゅう味わうことなのではないかと思われた。学校でも似たようなことを味わい・・苦労して作成した資料を、ことごとく作り直されてしまったショック。完全自己否定されたような気分からは、とうに立ち直っていたが。以前も同じようなことがあった。雑誌に投稿してくれるという文、確認の文章に目を通した時、ほとんどの文の調子が書きかえられていた。全く別人格の人が書いた文に仕上がった。こういう思いを持って働く人たちはいるのだと思った。以前、テレビで見た新聞社で働く人達のドラマでおもった。そういうことを思った時、一対一で、本と私が向き合う、それ事態が貴重なことと思われた。自分が読んで、勝手に自身の頭でイメージ化できる。これだ!と、おもった。なので、私はもっと真剣に本を読んでみようと思った。ドラマ「氷点」で、得ることもあったかとも思う。辰子さんの松崎由香子さんに言うセリフ「家庭を持ってる男の人を好きになるのはいけないよ。そういうのは、あたしは好かないねえ」ピシャリとしたその人の立ち回り・・ああ、三浦綾子さんは、この人の役柄で、この小説(ドラマ)に登場しているんだなと思った。自殺未遂で昏睡状態から希望が見えはじめたとき、今回のドラマでは徹に言わせたセリフ「次に目ざめたら、全く違った世界が待ってるんだからね」これは、原作では辰子さんのセリフだった。おもった・・ああ、このセリフは三浦綾子さんの祈りの言葉だったんだなって。わかった気がした・・当時の綾子さん自身へあてた言葉でもあったことを。自殺未遂・・作者にも、そんなことがあったのだと初めて知った。そんなに思いつめた思いがあることを(小説の陽子に対しても)、全く理解できないでいた。そんなに深刻なおもいが、作者の中にもあったのかと。今、読んでる本「果て遠き丘」・・綾子さんの作品としては、まだ理解しがたい本なのだが、困った娘が登場する。香也子という人の捻じ曲がった性格・・このキャラクターも綾子さん自身から出てきたものなのだと今日わかった気がした。なんとなく、心に不満を溜めている女性。全体の1/3迄読み終えて・・ああ、でも、若い女の人が、こんな調子だと病気になってしまう。人に悪霊のように悪さを仕掛ける、そんなことをしてたら、幸せになれない。綾子さんが言われた。罪とは、神を無視して自己中心に生きることであると。綾子さんが心に荒んだ心を持っていたとき、前川正さんに伝道された。その人亡きあと悲しみに暮れ、神様でなく、その人をみていたことに気づく。前川正さんにそっくりな人が現れた。三浦光世さんの出現、その人の献身的な全快の祈りで、奇跡のように体がもとに戻っていった。心のあり方というのは、その人の環境までをも克服させるもの。体がいうことをきいてくれるようになる。とても希望を感じさせてくれた。「氷点」の啓造と夏枝を理解することで、全く反対に生きる神を慕って生きることの暗示~と綾子さんが言われる。私にも、彼らが通過した、心が悶々とする負の心の要素は存在するのだが、全く反対の世界が背中合わせにあるのか・・。心の悶々を治療しようたって・・いじれば、いじるほど、かまえば、かまうほど・・皮膚病のようにカユサが増すだけ。ジンマシンになったとき、私は、冬でも水を被ったことがあった。湯に浸かると、ますます、かゆくなる。やけどをした時も、まずは、冷水で、冷して静める。蚊に刺された時も、冷水で冷やすと、じきにおさまってしまう。私も、腫れ物にはかまわず・・、神様を無視しない自己中心でない生き方を探求するものになるぞ。そうするしか、本当の心の満足は見出せないから。冷たい水で、罪を冷す。氷点、浮かれた中途半端な罪のうずきを、いったんは心が冷たくなったとしても、罪なる要素を殺菌してしまわなければならない。寒い冬は様々な菌が消滅するため、次の春は疫病の心配がないという。そういう季節に突入している。
2006年11月27日
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罪、ということを考えたとき、「変心」心変わりのことなのかなあ・・ふと、思ってみた。男女、「結婚前の男女間において」と、「結婚後の男女間において」心が変わらない、その一点に、理想があって、願いがあって、幸せとか平安がある・・ドラマを見終えて、そう感じた。実在のモデルが、何らかの形で、三浦さんの周辺にあった話なのかも?はじめて思った。戦後、夫が亡くなったと思って、再婚したら、夫が帰ってきた・・実際、そんな話はあったようだし、そうしたことによる不具合も、いろいろあったようである。この作品を手掛けた大勢のスタッフが集中していたとき、私も今年後半、この原作本に時間を費やせたことを楽しく思える。殺人者の子、と思ったら、そうではなく。が、実際は姦通による不倫の男女の子だった。この世の感覚では、「殺人者の子」とした方がインパクトが強い。強烈なリアリティがある。「姦通者の子」裏切りによって子を孕んだ女、そして子供を捨てた女・・ドラマでは、その責める思いを赦しにかえるのに、だいぶ時間を有している。新たな脚本によればそれを40年と設定している。原作でも、ドラマでも、私は、陽子の心変わりを責めていた。「北原さんを愛している」「本当はお兄さんを愛しているとわかった」「北原さんと一生ともに生きていきます」二転三転する女の思いに、ああ、罪なる子・・と裁いていた。そして、結婚の結論も、女の意見が主導権を握ったこと。罪なき、男二人が罪の女に振り回された。自殺するくらい罪を感じているというのなら、「このようなものが、どうして結婚などできましょうか」と、自殺できなかったのなら、仏門に入ることを考えるとか、北海道のトラピスチヌ修道院に入ることを発想するとか、・・じゃないの?そんなに罪深い人が、人を愛する権限あり?って思う私は、意地悪なのだろうか?小学・中学校の修学旅行は函館・札幌で、男性だけのトラピスト修道院と、女性だけのトラピスチヌ修道院をバスから眺めた記憶あり。そのとき、とても、毎日を拘束されて生活するなんて出来ないと、子供心におもったもの。三浦綾子さんは、どんなふうに思ったのだろう。昨日の前編を見終えて、とても複雑な気持ちが沸いた。原作本を脚色するって、難しいものがあるな・・とか。いじれば、いじるほど、なんだか、しっくりこなく感じたり。きっと、ドラマを作り上げる過程において、いろいろな人達のぶつかり合いがあったことと思う。これはコレと、割り切ってみるしかない。この脚本・監督作品を通して、罪とか赦しとかを、別の角度から、新たに感じ取ることこそ、私自身に求めるべきこと。原作をみて、これはいい・・と、おもったこと。実の母・三井恵子の存在が、美しく人柄の良い人として描かれていたこと。きれいな人なら、責めにくいと、思わせる点。ちょっと救いと思う。これが、実際、醜く、人柄のスレタ人だったら、幻滅してしまうというもの。実際は、実の親を探し求めたら、幻滅が待っていた・・そんなことは往往にしてありえることと思う。ある美容部員の人が言っていた。一昔前の理想のお母さん像は「やさしいお母さん」、で、今は、「きれいなお母さん」なのだそうだが。実際は、今も昔も、お母さんはきれいな自慢のお母さんであって欲しいというのが、人の心と思う。実際、こんな話は本当にあったのだろうなあ、とまた思う。綾子さんのご主人さまはどのようにテレビをご覧になったのだろうとおもう。事実は小説よりも奇なり。私たちの日常にも、小説のようなドラマが転がっている。この話は、私の家系図の中に一部として、先人にあった事実の一部として見ていた。それで、今回は、実の母が許しがたい存在としてあげられているが、「変心」が、それほど、人を傷つける裏切り行為とするなら、男性の浮気って、本当にいけないこととおもった。今、三浦綾子さんの全集(第八巻)の「果て遠き丘」を読んでいる。保子という女性は、はじめ愛して結婚した。夫の浮気が発覚したら、「汚らしい」と、すぐに家を出て離婚してしまった。10年経ってみて後悔しはじめた。作品中で作者は、「夫の浮気は女性にとって死ぬより辛いこと」と言わせている。裏切られた人の心の傷は、生涯癒えぬかもしれない。そのくらいの許しがたさ。(その女性は潔癖症でありすぎるほど敏感な人なのだが、潔癖症の綾子さんの分身ともいえる)「氷点」最終的感想は、心の内なる感情を、ただ正直に表明するのは、危険ということ。一つ目のおもい「Aさんを愛しています」二つ目のおもい「本当はBさんを愛していると気づきました」三つ目のおもい「実はAさんを忘れられない」二つ目の思いは疑わしいということ。言葉にする前に、行動に移す前に、時間をおいて冷静になってみる。様子をみてみる。結論を急がない。罪なる人の心は、1、2、3と分散する。初めにくる思い、次にくる思い。三つ目にくるおもい。最初のおもいは神からくるもの。二番目にくるおもいは、魔が罠をしかけてくる。注意しなくては。
2006年11月26日
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祖父の代で、福島から北海道に開拓農民として移り住んだ一家の話。自分の実家の曾祖父の代の話と思って読んでいた。戸籍を調べると、私の実家は新潟から突如、北海道に移住したことがわかった。が、知ったあと、その話題をとりたてて、父母と会話してはいない。私自身、さほど興味も沸かなかったからと思う。物語の一家は天災で、大切な家族を亡くしていくが、命の長さ短さが問題じゃないんだ。その人たちは幸せだった、やすらかに魂が癒されるように・・なぜかしら、祈る思いで読んでいた。実際あった出来事であったから。その時代、私の氏族は、どの地域に暮らし、生活はどうであったのかと、たずねるおもいだった。このような実話を読む時、その当時の人の魂が、読む人をたずねてくる?・・そういうこともあるかもしれないとも思う。貧しい農村の暮らし・・飯は麦飯かキビ飯で、塩をまぶした米の握り飯を目の前にしたとき、どれだけうれしかったか・・そういう描写を目にすると、米の飯へのありがたみが湧き起こる。よけいに飯がうまく感じた。実際、よけい飯を食いました。貧しい暮らしであるから、ちょっとのことが幸せ。喜び、うれしい表情。当たり前の日常が、しみじみ身に沁みる感謝。私はこの物語を読んでまた一つ幸せになった。心の純朴な登場人物たち。このような要素は、今、私が生きる隣人の中にも存在していると思われる。この人たちの子孫が、私が生きる場所の隣人である。ふと、旧約聖書のアブラハムの息子たちを思った。サラの仕え女ハガルの子・イシマエルと、サラの子・イサクの異母兄弟。それに象徴される姉・富の夫の武井と、腹違いの弟たちとの温度差のある関係。けれど、願いとしては、拓一と耕作の兄弟のように。互いに尊重し合って、尊敬し合って、自分にない相手の良さを見出していく関係であれたら。イスラームの歴史を遡れば、イシマエルに。キリスト教の先祖を辿れば、イサクに行き当たると聞いたことがある。両者は、神に愛されたアブラハムの息子たちである。その母たちは、主人と仕える者との関係だった。子のできないサラは、夫の血統と途絶えさせないために、仕え女ハガルに子を生ませたのである。その後、サラからイサクが生まれて・・ハガルとイシマエルは、彼らのもとから去ることとなったようだ。その母子に複雑な思いがあったことと思う。それらの歴史が、現代においても未解決のまま放置されているようなのだ。その母子のことをもっと注目してあげなければ。その部分を、聖書で調べてみて、また続きを書けたらいいと思う。
2006年11月24日
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本日の私が住む地域のあけぼの時間は4時53分と思いながら、キッチンでの本読み。あけぼの時間まで、干しいも・コーヒー・浄水をちびりちびり。この時期、ウチではまだストーブは出していない。今日は、まだ暖かなので、湯たんぽは使わず。「泥流地帯」読んでる途中、書きたい衝動が・・。この部分のページでおこった。◇◇◇(尋常小学校を終えた耕作が)『市街の学校に通うようになると、一分でも遅れると、すぐに殴られるか、立たされる。~(担任は)農家の子供の生活と、市街の子供のちがいなど、考えてもいないように見える。耕作たちは一里も遠くから通って来る。市街の生徒がまだ寝ているうちに家を出るのだ。耕作たちが急ぎに急いで市街に入った頃、市街の子供たちはのんびり家を出て来るのだ』◇◇◇あけぼの時間が過ぎていった。今回、あけぼの時間からの日中断食を知って、体験してみて、心の奥の暗い扉が開きつつある・・うっすら感じている。誰も、気に留めなかった部分。存在さえも、意識されなかった部分。いつも、眠りをむさぼって、無意識化されていた時間帯。聖書には、<先の者と後の者>が出てくる。朝から働いた労働者の話で、夕方ちょっと前に来て働いた者が自分と同じ給金を主人から貰うのを見て、不平不満を言った話。年下のものから偉そうなことを言われた時、無条件にムッ!とくる思い、・・これは、私も体験があるなと思い出す。弟くらいの年下の位置ある人が、理不尽な権威的言い方をした時に、ふん!というおもいが自動的に沸きあがった。(あたしが下積みをしていたその年に、あんたはその年、まだ、遊び呆けていただろうが。生意気なことを言うな)咄嗟(とっさ)に心の中で、そういう声がおこった。この感情は、実に、全ての人が同じく通過する思いなのだ。咄嗟の傲慢、気づかぬうちに顕わしてしまう傲慢、・・頭が低かったら、謙虚をうまく表現できたら、人は、人の助けを気持ちよく受けられるのに。おてんとうさまが、垂直にてっぺんに上がるにしても、闇夜から最初よっこいしょと光を生み出すのに、最初の闇から火を起こすエネルギーとはいかばかりの労力であったかということ。神様は創造の際に、後の者(日の出)を主役に考えておられたにしても、先の者(あけぼの)を生み出さずして、後の者(日の出)は実現できなかったのだなと。イスラームのラマダーンが教えてくれた、あけぼの時間におもったこと。シャイターンとかサタンとか魔とか悪霊とかいう存在も、はじめから、ヒネクレタわけではなく、もともとは、神様から生み出された、まっさらな期待の星だった。神様が生みの労苦をもって、捻出された記憶ある存在だった。光とカゲ、陽と陰、男と女、右と左、心と体、どちらが偉いというわけではない。「泥流地帯」では、拓一と耕作という仲の良い兄弟が描かれている。兄は優秀な弟のために、自分をたこに身を売ってでも学費を捻出しようと考えるような兄さん。一時は、一番で合格し得意の頂点に喜んだ弟だったが、自分が学校へ進むためには、姉が結婚をあきらめて学費を払うために働かなければならない姉の事情を知って、仮病を使って断念したりする。ライバルがいると、競争心で人のやる気を駆り立てたりする。ライバルがいなくなると、力が抜ける。ひとりじゃ、だめなんだ。自分が一番だと、力がのばせないんだ。それ以上、伸びないだけでなく、落ちてしまうんだ。一番と二番が、仲良く、競争し合って、共に発展し続けていかなければならないんだ。兄と弟、私の中にも兄と弟がいる。体と心という兄と弟。兄・拓一は自分の体をたこに売ってでも、弟・耕作の能力を伸ばしてやりたいと思った。自慢の、自分の弟だ。弟は、決して別個の存在ではない。自分の弟なのだ。自分の延長なのだ。だから、体の犠牲でもって無理してお金を工面してでも、弟をこの世で役立つ仕事に就かせたかった。そのときの弟の名誉は、自分の、兄としての名誉でもあるのだ。その姿が、本来の神様の願う兄弟の姿だったのだ。そこに、妬み、やきもち、憎しみ、さびしさ、・・ない、無い。ましてや、傲慢も、つくろったへりくだりも、・・ない、無い。体と心の葛藤というが、仲良く、力を合わせてみたら、どうなるのだろう。体と心の結束、助け合い、・・さびしいということはありえない。朝ドラ「芋たこなんきん」、田辺聖子さんの自然体の賢さに感服するのは、先妻の子供たちの母親を尊んで、子供らに「おばちゃん!」と呼ばせ、子供たちの心を集めたことだ。心の中で、Nさんのお母さんのことを「おばちゃん!」と呼んでみた。すごくいい顔のNさんのお母さんの表情が脳裏に現れた。・・様々な人間の歴史を、いったん、大掃除してみなくてはね。人の心が、妬み、やきもち、孤独、憎いおもい、暗ーい心のつぶやきから解放されたら、釈放されたら、・・自由だね。なんて、青空だね。こうして書くまでの夜半、静かに温かい涙をちびちび流しながら過ごしました。Nさんの存在には、毎日、感動がある。それを生み出したお母さんは、おいしいところは、全部もっていかれてしまって・・。つまらないだろうなあ。せっかく苦労して飯を食わせて大きくしたのに。あたしにも、感動をくれよ・・Nさんのお母さんの心の声が聞こえてくる。そうですね、感動は、循環させないと。私だけに、留めておいたら、いけないですよね。その方法、考えてみますね。夜中、目が覚めて起きるとき、Nさんの手が、さーっと、私の頭をなでたのです。私は、めんこいめんこいと言われて大きくなりました。育ての親がNさんになってからも、やはり、めんこいめんこいと言われて日々をおくっています。神様に「感謝します」とお礼を言います。だから、私が、飯を食う間、生きてる間、恩返しする何らかの行動をおこすことができますように。大丈夫!私は、あけぼのさんを味方につけました。あけぼのさんを思う時、すなわち心の中で教訓がこだまします。傲慢になっちゃいけないよ。謙虚で、頭を低くするんだよ。頭を下げて、顔を上げる時、そのとき、相手の人の顔は、きっと神様になってるから、・・大丈夫だよ。今、やろう。今、できることをやろう。いつか、じゃなくて、今。今には、今できることがあるから。三浦綾子さんは、若き日、十数年もベッドで寝たきりで、・・なのに、神様を知って、感動で、血液を洗って、聖霊を呼び集め、神様に感動を与え、文筆専門家の神様の能力という冠をもらった。それで、小説を読んで、心うごかされた人たちが、神様を知るようになったという。綾子さんは、そのことを知って、涙を流して喜んだことと思う。そのような能力に遠いものでも、それなりの顕わしかたがあるかもしれないと思う。感想文を書く人になろう。素晴らしい人に頭を下げれば、その人は、あなたは、かわいい人だねと言って、少しは、その文筆の特殊能力を小皿に分けて「食べなさい」と言って、くれるかもしれない。綾子さんは、私の小説は伝道!と言われますが・・。(最低、書けば、自分の心、一個分の魂を伝道し、引き上げ神様に捧げることが可能かもと・・?いえ、そのような目的意識で・・。書きながら、簡単じゃないよなという思いが来るのですが・・)一人の霊が、神の霊に満たされれば、繁殖が起こるのでしょう。書き手と読み手の兄と弟、おそらく書き手が先に、感動を多く心に満たすと思われるからです。
2006年11月21日
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「もっとイスラムに敬意をはらうべき。一部だけの行為を見て、イスラムは暴力的と見るのは間違い」諄諄(じゅんじゅん)と話されたのはダライ・ラマ14世。テレビを見てたら、そのインタビュー映像をキャッチ。(日曜の夜の番組「スタメン」)ニコニコの光を放った目で、お父ちゃんとか、おやじさんとか、思わせる方。親しみを感じさせる顔施の方だ。(顔で功徳を積むの意味だったか)◇◇◇「ラマダーンの意義」と題して、ファーティマBさん(お気に入りブログの管理人さん)から思いがけなくコメントを頂いたのに、今、気づき。イスラームの方で親しく親身に言葉をかけて下さる方は こちらの方だけなので、私のイスラームの方々の印象は、ズバリ、ファティーマBさんということになる。(とっても血液サラサラな方という印象)昨日、メディア・テーク(仙台の大型図書館)のエレベーターで、ネッカチーフを被った子供連れの女性を見かけた。イスラーム圏のお顔だなと思った。水飲みがうまくいかず、久々にめまい立ちくらみがおこっていたので、声をかける気力なく、見送るに留めた。仙台は、イスラームの女性は、けっこう在住しているのかもしれない・・と今、おもう。次は、臆せず、声をかけてみようかな。(イスラームのファーティマBさんから便りをもらってみると、そう思うのである)キリスト教の三浦綾子さんの「泥流地帯」が入っている全集を借りた。「伝道するために小説を書いている」と作者が語っている記事が貼り付けられていた。(へえー!)キッパリ、そういう目的意識で書かれていたのだなあ・・改めて感心する思いだ。私が、「ラマダーン」という言葉を知ったのも、本屋の立ち読みで、見つけたのが縁だった。「モロッコでラマダーン(断食)」(著・たかのてるこ)・・手に取ったのは、「断食」という言葉に惹かれて。断食に、そもそも関心があったのが理由。今年のラマダーン月も、その断食体験記の部分を、日没までの時間、図書館で繰り返し読んだ。他にラマダーン体験記の本を見つけられていないからだ。もっと、そういう本があれば、読みたいと思ったものだ。本、文章、人の言葉、いずれも、人に影響を及ぼすものだ。イスラームの良さも、どなたか、三浦綾子さんが小説で、読者を信仰に導かれるように、書く人が顕れれば、ぐっと人々への理解をひろめることになるのだと思う。(ネットでの体験記というのも貴重と思う。けれど、きっとイスラームと看板に掲げると、迫害もあり、気落ちすることもあるかもしれない。そういう意味では、イスラームでない人のイスラームへの関心記事は、客観性があって、貴重かもしれないと思える。それで、せっかくのファーティマBさんからのお便りを表の日記にUPするのもよいのではないかな?)◇◇◇■『>ヒヤシンスさま・・ラマダーンはどうしても断食と同義語に捉えられがちですが、本来は、人類の導きとしてアッラーが、聖クルアーンを下された聖なる月です。人間の3大欲を始めとする様々な欲望を抑え、誠心誠意、アッラーに向かう月です。聖クルアーンの月でもあります。』http://basma.hp.infoseek.co.jp/VirtureOfFasting.htm◇◇◇イスラームではクルアーンと旧約聖書が聖典と、たかのさんの体験記の本で、イスラームの青年が語っていました。私には、そこが、ちょっと親しみやすいところであります。青年はこうも語っており、ユダヤ教の唯一の神も、キリスト教の唯一の神も、イスラームの唯一の神も、実は同じ神であると。(でも、本当に人々は(イスラームの人は)、そう思っているのだろうか?)◇◇◇■『>ラマダーンという月は、本当に、私たちを普段の数倍、パワフルにしてくれます。ラマダーンが終わっても、断食をしますが、ぜんぜん気持ちが違います。ラマダーンにはライラト=ル=カドルという特別な夜もあります。その翌朝は、天に戻る数え切れないほどの天使のために晴れているにも関わらず、空がうす曇りのようになるとも聞きました。』http://basma.hp.infoseek.co.jp/RamadhaanAlQadr.htm◇◇◇(紹介のページは後でじっくり読んでみます)ラマダーンが終わってからの断食、ぜんぜん気持ちが違う・・なんとなく、私なりにも感じます。ちょっと寂しい気持ちだったり。ラマダーン期間中は、十億の世界の人々がいっせいに日中飲み食いせず、同じ時を過ごしているという連帯感があって、心持ち豊かさ、はなやぎがあります。◇◇◇■『>ラマダーンが過ぎると毎年やや「腑抜け」のようになります。そろそろ12月(ズ=ル=ヒッジャ)も近づいてきます。態勢を整えなければ。その9日目 アラファの日に断食をすると、昨年と来年の罪が許され、1月(ムハッラム)の10日、アーシュラーの日と併せてムハッラムの9日に断食すると、過去のあなたがたの罪が許され、成功を手にできます。アッラーのお導きがありますように(ファーティマBさんより~2006年11月19日 23時48分47秒)』◇◇◇「腑抜け」・・なんとなく、私なりにも、わかる気がします。(ああ、おわっちゃった・・つまんない)私も、孤独な人と思います。なぜ、日中、今も、飲まず食わずを続けるか?話してみたい身近な人がいるか?と考えたとき、・・反応ありそうな人、いないです。イスラームの身近な人など、もちろん、全くいませんし。(ああ、けれど、身内のNさんには、このあいだ、とくとくと、断食の良さを聞いてもらいましたが。理解者が一人でもいれば、十分、幸福、豊かですね。少しずつ、引き延ばし、ひきのばし、しつつ・・。頭の構想には、密かに・・1月いっぱい迄、続けられたら、いいなあ、・・そうできたら、いいんだけどなあ・・内なる自己に暗示をかけています)12月の断食の日のこと、以前、教えて下さいねと書いたら、本当に、教えて下さったのですね。何という律儀な方なのでしょう。そのイスラームの断食イベントに関することだけでも、十分、人に関心をおこさしめ得るものと思います。私にとっては。「食べないって、どういう意味なんだろう?」と、考えさせてくれるからです。罪の許しのため・・最初、そのようなことは(始める動機は)、おもいもしなかったし、読んでても、ピンとこなかったものでしたが、(・・そうだなあ)まさしく、そうなんだろうなあ、心が自然と、理解し始めました。心のシミが消えていくようなかんじ。(実際、鏡で見たとき、顔のシミが見えなくなったなと感じました・・断食効果?)心のシミが消えるとは、多分、自分自身が、解放される、自由さを、味わう、心地よさなのかなあと。今、日中、12時間以上の飲まず食わずをやってて、おもうことは何かというと・・。≪うっかり、男女間の過ちを犯すということはありえないな≫・・ということです。第一、異性と一緒にお茶を飲まないわけですから。(水でさえ)そして、第一、食べない飲まない人の顔は、シャットアウトの霊的な膜が張ってあるので、誰もお茶を誘う人もいません。立ち入り禁止のベールが、顔にかかっていると自分でさえ、感じます。食が解禁されると、はじめて血の気がサーっと、顔の細胞のすみずみにいきわたり、顔に覆い被さったベールのシャッターが開いたという気がします。◇◇◇■(追伸文)『>シャイターンは食べることによって活発になる血管を通って体内をかけめぐると言います。それで、よきムスリムは「少し食べる」「少し寝る」「少し話す」を心がけています。(2006年11月20日 00時06分05秒)』◇◇◇ああ!これを読んで、シャイターンの意味、やっぱり、サタンとか魔とか言われる存在とわかりました。だから、日中断食をしていると、通常に、感じやすい、妬み・嫉妬・比較・寂しい・傷つく・落ち込む~などの思いに、心が覆われないのだなあ・・と。断食って、過ぎたる欲を、しぼませるだけでなく、マイナスの感情をも、おとなしくさせるようです。
2006年11月20日
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キリストの教えに生きた、高貴な人の霊、聖職者の魂が、私にその理解の応援に来てくれているようである。作者である綾子さんの魂が、というより、世界に生きる聖職者たちの輝いた聖霊を浴びて説教する映像をニュースの記事で頭に描いていたことがあった。世界平和って、イエスが、釈迦が、マホメットが、孔子が、モーセが、アブラハムが、・・。神に生きた人たちが、仲良く手をつないで、抱き締め合う、過去の歴史を許し合う、ただ一人の神様の前に、仲の良い兄弟の姿を顕わすことではないのか。戦争は、自分の国だけ有利に仕切りたいという、自己中心の、「自分だけ」という恥かしい人の拡大版ではないのか。ちょっとしたことに気分を害し、傷ついたと心を閉ざし、敵対する他者への思い。鬱病の(あたしのこと)根本原因は、自己中心にあった。妬み、嫉妬、比較し優劣に感情を翻弄され、寂しいと落ち込み、陰に篭る、人の(あたしの)心の体質。ああ、あたしは「感謝がなかった」って、昨日、思ったんだ。昨日のあけぼの前、うつらうつらしながら、Nさんと長ーい会話をしてた。最近のあたしは、こんなことを感じてるんだよっていう話に、じーっと耳を傾けてくれてた。「ちゃんと、聞いてるよ。もっと話して」私が霊的気づき、精神が高まってインスピレーションを受け心に留めたことを話し出す時、けっこう、Nさんの耳が、(ああ、真剣に聞いてくれてる)っていうシーンとした空気に包まれる。それで、どんどん話したくなる。いい加減、話すのに、くたびれ果てたとき、口が閉じる。(ああ、あたし、いい気づきしてるかも?あっ、日記に書いておこうっ)と起きだしたのだった。今、書いてて閃いた。Nさんが、耳を澄ませて聞いている・・これって、祈る時、その人の祈りが、神さまのお気持ち、御心に適(かな)っているとき、神さまは、人が演劇に没頭する時のように、見入ったり、聞き入ったりなさるのかな?ああ、だんなさんって、無形の神様を、表現した実体の神さまなのだよ。女の人にとって。本来。その人物の価値を決定づけるのは、配偶者、ペアの人の心しだいだよ。だから、おくさんっていうのは、無形の神様を、表現した実態の神さま。男の人にとって。本来。啓造のあり方で、夏枝を、いくらでも、女神さまに高めていくことが出来るのだ。啓造のあり方、まず、心の思い方。人を良く思えば、その人に対する時、いい表情が生まれる。おのずと、良い話言葉のセリフがプロデュースされる。相手に良く思われていると、夏枝の本心に響いたとき、そんなに良く思われているのなら、それに応えたいなと。人の本心は反応するものなのだ。夏枝が外見のキレイを維持したいと思うのは、その現われである。キレイと賞賛を受ける人ほど、もっとキレイを維持しようと、その気になるものである。人は、人に認められたい、褒められたい、愛されたいものなのだ。夏枝が、心惑う、揺れた一時(いっとき)があったのは、夫・啓造の心の思い方が、まだ夫婦愛の修行中の小僧っ子だったからなのだ。人と人との関係、夫婦の関係、それの右肩上がりの愛の可能性は無限大である。ああ、あたし、今日はいい気分。充実に酔う気分。濃いコーヒーとぬるくした水を良く飲めたお蔭で、書いてる最中、排泄にトイレに何度か断つ。そう、人の腸に、留まっている古いものが、さいなら~と、トイレで別れを告げるとき、人は気分が高まるのである。昨日一日を無事終了した私は、感謝の祈りを捧げた。心の中で、ありがとうございますと。祈りとは、それだけ。「ありがとうございます」としみじみ心の中で言うこと。昨日だけ、外での実習があったため、昼は、皆で車で移動し外食、という雰囲気があった。それを、どうやって食べないか、日中断食の習慣を崩したくない私は気を揉んでいたのである。が、導かれたのだ。昨日の朝、書いた、日記文がヒントをもたらしたこともある。心理学の「Iメッセージ」が閃いたのだ。(私はこのような意志を持っています)それを、その場の空気に合わせて、ナチュラルな言葉で、短く、サラリと言って、自分の思い描いた状景通りの環境を実現させる。あっと、時間である。出掛ける前まで、洗濯しあげなきゃ。またこの次。
2006年11月16日
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「氷点」は親の代での愛憎物語の展開に対し、「続・氷点」では、その親の娘、息子が結婚を考える年頃、今後を決定する重要な濃い時間、それらを切り取って描かれている。(十一月末に放送されるドラマのスペシャルでは、「続~」の方に踏み込んでいるのかも?番線映像をみて思ったのですがいかがなのでしょう?)◇◇◇あけぼの時間前、キャベツの千切り、玄米ご飯をユーカリで少々、熱い味噌汁少し、りんご半分を食したあと、コーヒー、浄水のペットボトルに湯を入れぬるくして用意。達哉という人物について思い馳せる気分に。朝の洗濯前に、ちょっと書いておきたい。ホカロンを腰にあて、毛布に身をくるみ、濃い目のコーヒーと水を交互にすすりながら向かっている。およそ、人の影、ミステリアな部分を追跡しようとする、人を見透かすような人って、ああ、私の知り合いにも、いるいる。ああ、かつて、私も、達哉のような探偵思考に頭を巡らし、人を傷つけた場面が、一度、二度、あったのだ。それを思い出した今のこの時間、あけぼの前。それは、達哉と全く同じ内容だった。それとは、そうせざるを得ない「血」の問題であった。他人の問題ではなく、自分の血統に関わる部分であるがゆえに、私の生命、いのちに至るまでの先人の人々に、不義があった場合、それらを清算せずして、どうして、自分における血統を(結婚を)おこし得ることができようか。その人に不義があったにも関わらず、それらが公表されず、なにくわぬ顔で生活しているとしたら、それはいかがなものか?そのツケは誰が請け負うのか?その人が、体を持って、生きている期間内に、そのその罪の支払いを済ませないうちに命を終え、霊界に行ってしまったら?誰が、その罪における支払いをしなければいけないのか?あなた(不義を犯した)は、そのことをわかっているのか?もし、わからない、理解に及ばない、霊界とか罪とかって何?と無知を決め込むとするなら・・。肉親とはいえ、なんと子孫にむごい仕打ちをする親であろうか?あんまりだ。子を思うのが、親というもの。たとえ、それが、自分の代に起こした罪というのでなかったとしても、先の人たちの罪を、少しでも減らそうと、汗を流して、支払いに生きるのが、再先端の子の前に、生を受けた先輩というものではないのか?(書きながら、自分に言ってるようでもあるなと)ああ、達哉という人は、正常な神経の持ち主だったのだな。当然だったんだ。今、理解する。その人を、そういう行為に駆り立てる、何らかの働きがあったのだ。人(北原)の体の一部分をもぐ、という事件を引き起こすことまでしなければ、決して口を割ろうとしない、罪の告白をしようとしない、人間。ああ、だから、イエスさまが、塩狩峠の信夫さんが、・・。供え物になった人とは、その罪の血統に、およそ関係しない、第三者の人物たち。ああ、清いものが、供えものになるのですね。命の犠牲を持って、罪なる人間の心の内を、打ち砕く。戦国時代にキリスト教が宣教師によって伝えられ、残虐な命の犠牲の歴史があった理由・・今、それらの意味を解するおもいだ。北原の体の一部損失は、その小さな象徴。体の痛みをおぼえなければ、堕落した鈍い(にぶい)心が、覚醒されない。神から遠のいてしまった人間。(・・ああ、あたし、もしかして、すごいこと書いてるかも・・)ここ数日、クリスチャンの方が、コメントを寄せて下さった。言葉のやりとりを何度かして。それで、もしや、その方を応援している、キリスト者の先人の霊の方の協力?(次へ続く)
2006年11月15日
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人と比べる、妬み、落ち込み、傷つく・・脱皮する方法とは、これであるか?(断食の秘法?)・・今回のラマダーンからの日中断食を通して、(もしや、これって・・心のチリ、雑草を取り除く方法であるかも?人が生きるとは、新陳代謝で脂汗も分泌するし、外気に触れて汚れもする。生きるとは、汚れるもの。掃除は必然のもの。そもそも罪がなかったとしても。◇◇◇いったん罪は赦されたとしても、いつしかまた、悪い心は雑草のように伸びるのであろう。じっとしていたら、人の心の畑は草ぼうぼうになるであろう。神様にお捧げする良き作物が作れないうちに、時を逃してしまうかもしれない。やはり、心の畑はこまめなお手入れが必要なようである。汚れたら掃除する。お風呂に入る。垢すりする。それが、体の運動にもなっている。血液がうまい具合によく巡ってくれるためには一つ、良き食物。二つ、運動(歩くとか、掃除、洗濯、お風呂など。三つ、人とのコミュニケーション。これは、実は神様とのコミュニケーションに通じる前座かとも思われる。人と人とが心が通いあえば、モチベーションがあがります。やる気がでます。心の正体って、血の巡りのようでもある。会話って、大事だな。ことに褒められると、相手から認められるメッセージをもらうと、人は力を発揮するかと思われる。そういう人が一人いれば、人は生命力を持つ。私は、最近、変わったなと、新しき自分を気づく場面があった。人の見つめ方に変化がおこりだした。人と比べて寂しくおもう気持ち。同期の人に立派な女性がいた。素直になれない自分がいた。そういう反応を示す自分という人間に、愛想尽かしするもう一人の自分もいる。先日、この人は、この地域だけで、すごい人ではなかった。国を出ても、人をまとめ得る才覚人望、機転の利く人であることがわかった。もろもろと、傲慢な自分が崩れ出した。私は、すっかりその人のファンになった。その人の日頃の努力、徳分のある家系。心の持ち方、捉え方。抜きん出た人であるからこそ、通過しなければならない苦労は、いかばかりであるか。その人を賞賛するファンの輩は多くとも、友はいるだろうか?支え手は足りているであろうか。私は、その人を祈る人になりたいな。助ける人になりたいな。古い自分が、ジャーっと音をたてて流れていくようである。断食をなぜ、そんなにまでして、こだわり、し続けたがるのか?理論性を持って、自信満々に語れる術を持たない。模索しながら、ちょっとずつと、自身をあやしつつ、延長してきた。願わくば、今日もまた、禁食をサポート願いたい。なぜ?・・落ち込みがおこりにくいのである。傷つきが、おこりにくいのである。打撃を受けにくいのである。血気、怒気、人の挑発の罠が、からんでこないのである。比較、寂しさ、傲慢、焦り、複雑なおもいが、近づいてこないのである。ファーティマBさんの妬み嫉妬の記事や、シャイターンの存在について書かれた記事などを読んで、しばらく心に留めておいた。これらをクリーニングするのが、年に一度巡りくるラマダーン断食月の意味があるのか?なんと、いいイベント。お祭り。同じ事情を共にし、人と人の関係をも、引き立て、新鮮をもたらす。それを続けていくと、魔の侵入を許さない。ウイルスが、断食する人をよけていくんじゃないのか。現実的な物事が、小さくなっていく。ファーティマBさん(お気に入りブログに入っている満月通信の管理人さん)も、そうお考えだろうか。今日を越えれば、あとは楽に自分のペースで快適日中断食ライフを実現できる。今日という難所を、どのように切り抜けるのか。神様、昼たべない、私のスペースを、環境を、与え、準備下さいますように。そして、今後、どのように振る舞うべきなのか、そのプランに知恵をお貸し下さいませ。
2006年11月14日
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さっき、こう思えた。この本の主人公は、ああ、夫・啓造ともいえるのだな。妻・夏枝のような人はいるものだ。夫婦がふるくなって、少々の不満を、互いが積み上げていくのであるが、ああ、わかった。夫・啓造が変われば、妻・夏枝は、どんどん変わっていけるのだ。どこの夫婦でも。どちらかが、リードする立場に立つ必要があり・・。ここの夫婦の場合は、夫の方だった。回りからは常に品行方正と言われる人格者と呼ばれ、そういう人にもはや指導する立場のものはいない。妻は、常識とか良識家タイプで、家事を手伝っている者の目から見ても、立派な優しい奥様である。外から見た二人は、まるで完璧な男性、女性であり、理想的な夫婦なのである。けれども、互いの心には、要求するおもいが先に出る。その場合、自分がどうであるかということは、まるで忘れている。夫婦の暮らしになって、近くなりすぎて、愛というよりも、憎らしさが先にくるおもいの罠にはめられる。悪霊がほくそえんでいる。自分の思う通りに事が運んだと、ひとりにこにこする。そんな魔なる存在がテストする。啓造の心が引き上がっていったとき、妻の寝顔にあどけない可愛さを感じる場面が。そんな思いで、いつも見つめてくれたら、妻はもっと美を返すであろう。愛には、美で応え、返したくなるのが人と人の法則というもの。どちらかが、先に、神様の前に出て、もう一方の者をリードする必要があるのだ。夫婦が一単位のペアである。台所に立った時、こうも思ったのである。もともと、夫婦運のいい綾子さん、というわけではなかっただろうにと。試行錯誤して、しだいにコツを掴み、気づきを得ていかれたのだろうに。二人も、どちらかが、群を抜いてリーダーシップをとり、もう片方のものに影響を与えていった。ある時は立場を交代し、良き刺激を授け受けし合った。妻・夏枝は、視点を違えると、なかなかの人格的完璧な奥様なのである。その父の人格はまた、聖職者のようである。この世的な完璧さ優秀さは、時に神様の前に出るのが、遅くなることもありえる。何不自由ないとは、特に神様の存在を探求する、心が目覚めるキッカケがないからである。人には人の時がある。この人は本来、善意の人である。その人の父は、義理の孫に頭を下げる。私の育て方が間違っていた。娘がわるい時も修正を与えず甘やかしてきてしまった。娘からの迫害に、どれほどお前は苦悩したことだったろうかと、義理の孫を慰労する場面。人を感動させる行為をする人。人を大きく二つに分けるとするならば、私の場合はこう。霊界を信じる人と、そうでない人。霊界があると知って生きる人には、可能性を信じたり、心豊かに生きる特権があるかのようだ。貧しきものは幸いなり。神様はその人の近くにおられるでしょう。神様が、人に与えるものは、平等ではないというが、当然、能力・財・家柄・血統・功労の度合い、様々な格差がありながら、神様を知るものは、やはり平等という気にさせる。あれから、それぞれの人々は、どのような日々をおくっただろう。場面は教会の礼拝堂、聖職者が語る言葉に、心が洗われ、心打たれている登場人物たちの輝いた顔を想像した。それは、うれしいことがあって、たのしそうに顔を輝かせる顔、というその顔ではなく、心で聴くその言葉から、自身の間違いに気づき、嗚咽する時に見せる、人の真摯な顔。
2006年11月14日
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先日、テレビでモーツァルトの特番を見た時、「天才とは右脳と左脳の間を繋ぐ脳梁が頻繁に行き交っている」・・に近い表現をナレーションが言っていた。≪コミュニケーションなんだ!≫と思った。お盆のお供えものから、神とか、人、霊だけの人と、生きてる私を繋ぐ「もの」万物、食など、これら、みな、互いを繋ぐコミュニケーションである・・と、思ったわけだ。◇◇◇久々に、日記にコメントを頂いたりして、また書く気がおきだした。(やっぱり、人はコミュニケーションですね)ここのところ、よそのところで書き込みをちょくちょくしていたのだけど、書いた後に、自分が落ち込んでしまうことが、何回かあり。他の人が、それを読んで、どういう感情を抱いたか・・そのマイナスの感情が伝わってくるようで。つまりは、私の一方的な、自己中心的思いつきの走り書きという唐突なもので。書いたあとに、「やはり、違ってるな」と、自身の間違いに、気づいてしまう。その時の心の段階が、即座に過去のものと流れ去る。三浦綾子さんの「化粧は好まず、推敲もせず」の勢いで、とにかく、次々と、心の新陳代謝を新しくして。ひととこに留まらぬよう。よどまぬように。最近、私は、どんな顔をしているかというと、けっこう日々、自分の顔に変化を感じています。朝ドラの町子さんの子供時代の、女の子の顔と表情が気に入ってます。気がつくと、あんな顔をして、人の中にいます。けっこう生きやすい、ふるまいやすいです。自分のキャラクターづくり。今日は、また、化粧室での鏡の自分をみて「おお~」(なかなか、ええやん)人は、何かに感動していると、顔が違ってきますね。三浦綾子さんの作品を読んで、話の中の人物が、反省しまくる。これでもか、これでもか。まだ、もっと、反省するっていうのか・・というくらい。どんどん、精神が、俗人間を超越していく。最後、一人の男性の身体に損傷が与えられるのだが・・。陽子の、好きな人への恋愛感情を越えて、神の愛で、人を愛することの方が重要になっていっている。読者が理解しようが、しまいが。自分の感情で好きに生きるより、神の愛を加えて人を愛するところに、きっと、自身の真の満足とか、成長とか、神の御心があるのだろうと。陽子の心が高くなっている。罪を自覚する者こそ、神が近くにあられる。その辺の部分は、綾子さんがかぶさっているのではないかと思う。もはや、身体の一部分の損傷が、さほど、問題ではない。わずか、80年とかそこらの体を持ったこの世の生活。これを、しくじれば、永遠の生命が致命傷を受ける。人が、罪を自覚し、償いの生を行こうとするところに、罪を犯しにくい、自己への厳しさ、喝が入れられるのではないかな。突然ですが、日々の日中断食・・とても充実している。辞めさせないでください。そうもできなくなりそうな、環境がせまりくる。・・どうぞ、サラリと交わせるように。スルリと難所を抜けられますように。誰にも、邪魔されませんように。自分が、なるようになれ・・などと、おもったら、流されそうだ。私は、食べたくないのである。どうぞ、お助けを。ナチュラルに。およそ、日中が、体ある肉の生きる時間、期間。日没後は、肉の体を脱いだ、魂だけの永遠の霊界。それの象徴のようかも。きっと、そうだな。日中、節制に生きるほど、日没後、充実度がアップするのだ。「うわあ~、超シアワセ~」心が、ふわあ~っとする。熱い湯に浸かるのも、ご飯、野菜、飲み物、超、私の機嫌を良くする。きっと、ここのところの顔つきの変化も、それが、効いているのだと思われる。だから、昼飯時、私を雑多な中に混ぜないでくださいませ。どうぞ、天使の皆さん、あさっての難所、昼飯時の場を、うまく、コントロール、調整の予約、お願いしておきます。環境の取り締まり、おたのみ申し上げます。それで、最後に、陽子さんに、ちょっと意見申し上げたい。本の中で、二度、あなたに不注意がありました。一つ、若い独身の女の子の部屋に、男性を入れないで。「お部屋に、男性一人は、お上げしませんの」じゃなくて。男は、そう言われて、兄貴を連れてやってきた。無視するつもりが、大家の主婦が、二人を部屋に勝手に通した。アカンて。男二人でも。外に出て話すか、「突然は、困る。迷惑」と伝えるべき。もっと、毅然としてくれなきゃ。実は、その突然の男は、実の弟・・というところに、情が流された。ここで、一本、取られたせいで、それ以降も、相手に、一方的な主導権を握らせてしまったのだ。その二、男の車の助手席に座るな。密室であるぞ。はやり、その男は、実の弟というところで、気を許してしまった。それが、事件の発端になっている。もちろん、若い時は、こういうシチュエーションの時、どうするか、などと、思案もしなかったが。今は、明確に判断ができるんだな。独身の時分であるなら、「親がね、とにかく、それはいけないと、何回も繰り返してうるさいんだよね」とか、親とか、第三者の者の考えとして、言い放つ。キッパリ。今なら、「夫がね、そういうこと、いちいち、すごい、細かいんですよ」とか、どうしても、車に乗らないとという状況だったら、車の助手席に「どうぞ、どうぞ」なんて、言われても、「そういうわけなんで、後ろに座らせてもらいますねえ」その二点、気づいたことだった。女性の決定的なあやまちは、密室で起こっているから。スキがあったわけです。女が問題だった。人が絶対愛に生きようとするなら、常に判断力は研ぎ澄まされていないと。
2006年11月13日
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「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」(ジェラール・シャンドリー)日記断ち(16日)を破るきっかけをつくってくれた感動の本、この一週間、昼休みは三浦綾子さんの本と対話していました。罪とか許しとか、随分考えさせてくださった。親族で戦争に行った人たちの心中を、初めて考えた。主人公夫婦は大正生まれとのことだが、私の祖父母、父母の若い時の物語として、身近に感じ取ることができた。日中の(あけぼの時間から日没時間までの)飲まず食わずは、門限を取り決めたように、相変わらず続いている。昼休み、ごはんの変わりに、この本は、けっこうお腹いっぱいになる。登場人物たちの言葉のやりとりが、脳に沁み込み、快活にしてくれる。三浦綾子さんの信仰告白の内容でもあろうかと思う。一般の読者にも通ずる思い。(変心・・慕う気持ちの心変わりとか)主だった登場人物の人間性は、綾子さんの内なる部分から取り出された人と感じた。(辰子、夏枝、陽子、啓造、達哉、恵子)一人の人の中には、その時々、年回りによって、色々な人物を演じ巡っていくような感がある。(・・のではないかな?)この方の本は、読んで、時間を費やして損をしない。絶対的な信頼を置いているのです。好きな理由。1、女性作家であること。2、夫婦仲がいい。3、キリスト教徒であること。(正しく生きようとしている人)4、小説じたいが、礼拝説教であること。5、反省、悔い改めの仕方を教えてくれる。6、言葉遣いが美しいこと。美しい会話文を読むと、心のキメが整います。それと、今回、この本を読んで、「韓ドラの原点」ともいえるなと思えた。しかし、似て非なるものなのだ。三浦文学のベースは聖書の聖句がちりばめられているところが違う。恋愛小説に留まらず。憎らしい人物が出てくる。が、その人たちに、最後、許しが与えられている。読み手に、人を理解する気持ち、許しの気持ちを生じさせる。クライマックスは、ちょっと「冬ソナ」の最後のようでもあり、ちと、切なかった。氷点という、キリリとした厳しさ。綾子さん、キツイよ。厳し過ぎる。あのような最後は、辛い。けれど、イエス様の十字架を象徴した、小さな「犠牲」だったのかもしれない。一つの決定的な罪から、どんどん、他へ、不幸は波及していく。くいとめないと。決定的な不幸な事態が起こらないうちに、罪を犯したら、早急に告白することなんだ。隠そうとしてはいけないのだ。罪を暴こうとするところに事件が起こるのだから。悪しきことは、最初の段階で知らされた方がよほど良い。後が良い。早く、罰を受けることは、実は、いいことなのだ。早く終わらせるべきことなのだ。読み終えて。作者から伝わってくるメッセージとは・・(たとえ、今後、如何なる困難があろうと、強く生きて行け。苦難と思われることがあったとしても、必ず、感謝と喜びに変えられる。心の持ち方しだいだよ。今の与えられた環境を、十分、しあわせと思えるでしょう。感謝する材料が、どんなに、あなたの回りに豊富にちりばめられていることか)≪反省≫・・を知るとは、とんでもなくいいことだ。啓造と陽子の義理の父娘は、物事の一つ一つを哲学的に考える。探求する。そして、結論として、自分は間違っていたと、気づきをおこす。イヤな思い、不快を取り除くことによって、心を洗い清めていく。悔いて、改める。そうすることによって、魂がどんどん明るくなっていく。綾子さん、感動しながら、筆をすすめていらっしゃるな・・と思う。朝ドラ「芋たこなんきん」の作家・町子さん(田辺聖子さんモデル)の言葉、「作家というものはですね、どんなに小さなものでも、いのちを削って書いてるんです」のセリフがそのまま、綾子さんに重なる。この本も、寝そべって書かれたのだろうか。読み手の自分は、その尽くされた誠実を、真摯に受け止める気持ち。「小説が礼拝説教」と(私に)言わせる、作品づくりをなさる、その方とは、すごく充実の時間を生きた方ということ。書くほどに、自分を反省していく。登場人物をとおして、どんどん、悪しきおもいをクリーニングしていく。書き手が感動を持って書くため、原稿に神の霊が宿る。
2006年11月12日
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全くこの人といったら、お酒も飲まなければ煙草もやらない。お日さまが出ている間は、えっ?お茶も飲まいの?何、ご飯も食べないの?何、なに?水も飲まないの?しあわせの節約ってやつです。その分、日が暮れたらお楽しみ満載だよ。睡眠時間が少しで足りるようになってきそうだし。もう全くめまいしなくなったよ。家に帰るのが超!楽しみ。朝の家事のスピーディーなテキパキ動作にうっとり。◇◇◇今朝もあけぼの前に起きた。今後の生活のポイントはあけぼの前に起きることになりそうだ。そのことに、何か、魅せられてしまっている。学校のおっさんたちと、しゃべるようになった。私じたいが、おっさんっぽいので、おっさんたちとは、だれとでも仲良くできそうな気がする。私の近頃やっていることといえば大工仕事なのである。家を建てる実習をやっていて、今、小さな小屋を建てていて、測量する。切断する。今日は壁を切断し、残った材料の廃材部分は、ゴミに出す。「あちらに、持ってってね。鍋敷きに持ち帰ってもいいですよ。なんなら、八角形に切りましょうか」いえいえ、切るにしても、そうとうの有害物質の粉を飛ばすので、私はマスクとフードを被っている。夏の物捨てに精を出したため、家には鍋敷きが一枚しかなく、冬の食卓には鍋が二つになったりするので、電話帳を敷いたりしてたとこだった。材料についた有害の粉を洗い流した。鍋が二つ乗る壁を持ち帰った。壁紙張りのノリを作るのを手伝った。「オレたち、先生にいいように使われてるよ。それもしゃくにさわるよね」それはおっさんたちのヒマなジョークなのだが。(今だ!今日、先生に言おう!)物捨てを終えたあとに、初めて欲しい、買いたいと思っていた木枕にちょうどの木材を見つけていた。「これ、欲しい。ちょうだい」と言いたかったのだが、どう言おうか、いつ言おうか、時期を見ていたのだ。半径4、5cmほどの半月型のかまぼこ型。これは、廃材というべきものとわかった。ゴミ置き場ゆきなら、持ち帰りが許されるとわかった。「この廃材もらってっていいですか?」「はい、いいですよ」先生、にこやかな顔。「枕にするんです。この形の枕が、通販で五千円で売ってるんですよ」「ほおー!」西式枕が掲示板で話題をよんでいた。今日、午後の実習は、壁張りで時間を超過してしまった。クロスをどう貼るのか?私が示した関心に、先生はリクエストに応えるようにして、準備作業の段取りを始めてくれた。「海外では旦那さんは外壁のペンキ塗り、奥さんは部屋の壁貼りと、仕事の分担がきまっているですよ。そのため壁紙の幅は日本のものの半分の幅で扱いやすい。そのほとんどが、日本からの輸入なの」「友達がブラジルで100坪の家を建てたんですけど、それが、自分たちで作ったっていうんですよ」「本来家とは自分たちで作るものでしょう。それが家というものでしょう。はは(笑)」外壁の釘打ちは男性陣よりうまいと皆に褒められた。「ワザより度胸だね」とそばのおっさんがたたえてくれた。少し前くらいから、だんだん、役立つ働きぶりをするようになった。メキメキと力を出し始めた。全く経験がなく、マシーンに臆病だったため、大工仕事をマジ愛せなかった。断食に体が慣れず危なっかしかった。動作もノロノロ、立ちくらみとめまいと軽い頭痛に負けていた。ラマダーンが10月23日で終わったとたん、体と意識に劇的変化がおこり始めた。これが、恩恵というものか。・・恵みという恵みがあちこちから訪れはじめたのだ。ムハンマドさんが始めたラマダーンはなかなかですね。(よいですね)今朝、ムハンマドさんの霊に感謝した。友のような兄さんのような親しい気持ちがおこった。あなたが、生きて働かれていらっしゃることを私は知っているから。日中、飲まず食わずのコツを掴んだのだ。「!小走り」である。役立たずの自分は、日中の学校でも、存在感ゼロだった。人とお茶も飲まなければ、食事もしない。女性たちの高笑いのおしゃべりの輪の中に入ろうともしない。(入れないっす)黙々と本ばかりを読んで、何やら時々鉛筆で線を引いている。それで実技もダメなら使いみちがない人、で、小間使いのパシリを始めたのだ。自分から率先して、次、何が必要か、道具を探しに走る走る。何でも、先生に質問をしに行く。いつも先生を探し回っている。先生は熱心に質問する生徒が大好きだ。力を発揮する刺激剤になるからだ。私は小走りをしたがる。そのため、人が面倒がる仕事も率先してやる。はつらつと動き回っていると、別な先生から昨日、声をかけられたりして。自分の存在感と考えをアピールしたり。「大工仕事だけして帰るのはもったいないから、終わったらコンピューターで勉強していっていいんですよ。テキストは貸出ししてるから、その時は声かけて」と、いろいろと情報を教えてくれた。仲間のおっさんたちにも、その情報を教えてあげる。「オレらも、勉強して帰りたいよな、で、いつからやる?」皆、勉強意欲まんまんだ。本日は家作成の最終日、来週から取り壊し作業に入る。日中の状景を初めて書いた。日が出ている時は、お茶を飲みもしなければ、食べもしない。けれど、人一倍働きもの。動いていると、空腹とか、飲み食いしないのが、ふつうの感覚。はつらつと動いていると、体の血液も動いてくれている。血液と一体化している自分。もはや断食しているという観念がない。もはや断食をしている人の顔ではない。これが私の普通の生活である。(10/27 6:30)◇◇◇この日(10/27金)友達が二人出来た気がした。声をかけてくれた先生、いつもの先生も含めて、私がしゃべれる人の年齢層はだいたい60代前後という気がする。授業の後、1時間PC教室でドリルの問題集をやってから帰るという新習慣はじめる。実習のマシーンでも手伝ってもらいお世話になった。問題集の方でも、結局教えてもらっている。放課後の居残りは、日没で終了することにしよう。断食している中、(60代とはいえ)異性の顔を見た時、男性とは思えないんだな。その人の父母を想像。その人の女性性が何%であるかとか。確かにそのくらいの年齢になると、男性は女性化し、女性は男性化するのだが。その人物の中性性を見るのである。そういう意味で、人の神性を、異性の中に見出す気が、今するのである。(10/28・土・8時)
2006年10月27日
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これを書いた朝、学校のトイレで、私がたずね求めた祭物、供えものの意味に対して、内なる自身が、自分に向けて解答を与えた。たとえば、イスラームなら五行(五柱)といわれる実践行、「信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼」なのかなと。つまりは、良い心を顕わして生きる自分自身のあり方そのものなのかなと。それが、深くいえば、生きた供えもの、祭物、そのものであるかと。(10/27 21:45)◇◇◇kawuso999さん、(先日の日記に対して)心を尽くして書いて下さってありがとうございます。私はすでにすっかり立ち直っていましたが、kawausoさんの書き込み読んで、さらに納得しました。心尽くしのお言葉を頂戴しましてありがとうございます。感謝し尽くしがたい気持ちになりました。>僭越ながら・・僕はムスリムではないし、研究家でもなく、ただ、ちょっと普通の日本人よりはイスラムの知識を持ち合わせていて好感も持っていて、ムスリム達との交流もある、といった程度なので頭からは信用しないでいただきたいのですが、いえ、信頼してます。そのとおりだと思います。>イスラム掲示板で削除されてしまった心痛を受け止めて替わりに答えます。えー、偉大なるアッラーは人間ではないので、食べたり飲んだりしません。本当にいいことを言われる。どの神様だって、実にそうであり、食べたり飲んだり、しないですね。自然霊だって。アブラハムのイサク献祭だって、人の子の大切な命が欲しいのではない。捧げようとするその人の信仰や気持ち、人の心を見たいのである。だから、アブラハムが自分の命より大切な我が子に手をかけようと刃物をふりかざした時、神様はそれを止められたのだ。神様は食べない飲まないだけじゃない、お金も使う必要がない。けど、お布施や浄財というのも、人の心を見ているのだ。そういうことを改めて書き出してみると、本当にそうだ。そのとおりだ。飲食が必要なのは、肉体がある存在のものだけに限られているのだ。肉体のあるものは、飲食というガソリンを使って、ほんとうに果たすべきことを果たさなければならないのだ。>イスラームでは偶像崇拝が禁止されているのはそのためです。先日NHKで見た旧約聖書「出エジプト記」の特集を見て、なぜ、「私だけを神とせよ」と他のものを拝んだりするなと言われたかがわかった。と、同時に、イスラームのアッラーの言われる意味も、わかった気がした。その部分を聖書で調べてみた。(今、ページをくくるが、すぐにみつけられない)確か、モーセが40日断食して神の啓示を受けたあと、人々に伝えようとし山から下りたときのこと。人々は金の子牛など、何百という形ある像を拝み、酒を飲んで騒ぎ狂い踊って淫行にふけっていた。それに怒ったモーセは神から受けた啓示を書いた石板を壊してしまった。金の子牛の像を粉々にして飲んでしまった・・そんな話だったか。そんな時、モーセの主なる神も、他の偶像を拝んではならない。私だけをあがめよ、というようなことを言われたのだったかな。(つぎ、調べてみます)三浦綾子さんの「塩狩峠」でも、偶像崇拝にちなんだことに触れている。主人公の信夫さん(実在の人物)がキリスト教信者になったと知る母?祖母だったかが、脳溢血に倒れるほど激烈に反対して、それを忌み嫌った理由というのが、「やそ」と呼ばれたキリスト教が、先祖崇拝を嫌って仏壇を燃やしてしまうらしいという噂を聞いていたから・・というものらしかった。(うるおぼえ)そういうことを考えてみると、「イスラームのお供え物は?」という調子はずれの、すっとんきょうな質問は、非常に神経に障るものだ。キリスト教、ユダヤ教においてもしかりだ。イエスさまが、ユダヤ教徒によって十字架に磔の刑にかかったのも、偶像崇拝・・そういう所にあったかもしれない。(来たるべき方は雲にのってこなければならないという)>例えばモスクに行ってみても、神像はもちろん、祭壇だってありません。皆が礼拝するマッカの方角は、僕の目にはただの壁に見えました。先日みたNHKのエルサレムの特集でも、ユダヤ教徒は「嘆きの壁」に向って礼拝していた。ボリビアのコチャバンバ市を訪れた時、ちょうど4月のイースターだった。中心地域に教会が密集していて、誰でも自由に出入りできるよう皆が何件も教会巡りをする。イエスさまや、マリアさまの像はあったようだが。その時、刑務所の誰かが一人釈放され、誰かが一人十字架につけられたとテレビが言っていた。それは、聖書にある話から、そういう習慣があるらしいのだが、現地の人も、意味のあることとは思えないと険しい顔をしていた。この話も、「供え物」の話に由来するかと思えば、ぞっとする話なのだ。日本でも厄除けのための人柱とか人身御供などの話があるので、これもまた、恐ろしい恨みの歴史をほじくることになりそうだ。(その恨みの霊の方々がどうぞ、解放されますように。いのり)>イスラム掲示板の方々は、異教徒の質問にも丁寧に回答しているように見受けられます。(ちょくちょく覘いて読んでいます)ですから、削除されたとは断定できず、入力時のミス、又は、システムの不調という可能性もあるのではないでしょうか?(2006年10月26日 09時58分16秒)ありがとう。(私も、そんな気もしてました。やはり、締めくくりのお礼の挨拶に伺うべきかもしれません。・・そう、思い始めていますが、・・そうします)今日も一日頑張ります。(10/27 8:15)
2006年10月27日
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