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宇井陽一さんのところの41Planning のトラックが昨夜盗難にあったそうです。レース機材すべてが入ってて、レースができなくなるくらいでは済まないと、大変困られています。許せません!!!!拡散と、情報の提供をお願いいたします!!!!!!ナンバーは 福島100 す42ー71千葉県成田市北羽鳥、国道408号線沿いのガレージに停めてあったそうです。3月2日の19時から3月3日の朝8時の間に盗難にあったそうです。twitterのほうの情報には、詳細が書かれていました。千葉方面、関東の方、拡散、情報提供お願いいたします!!!!※拡散お願いします!41Planning のトラックが盗まれてしまいました。3/2 19時頃〜3/3 8時頃千葉県成田市北羽鳥、国道408号線沿いのガレージに駐車してあったのですが盗難に遭いました。見かけたら連絡くださいよろしくお願いします!中に機材入っているので無くなったらレースできません!Youichi Ui1時間昨夜の深夜に盗難にあいました。中に全ての機材が入っています。見つからないと、レースに出ることができないぐらいではすみません。どうか皆さんの、お力をおかりしたいです。よろしくお願いします。宇井陽一Youichi Ui1時間千葉県成田市北羽鳥、国道408号線沿いのガレージに停めてありました。3月2日の19時から3月3日の朝8時の間に盗難にあいました。Youichi Ui39分前ナンバーは 福島100 す42ー71です。
Mar 3, 2019
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いやあ、驚きました!!!こんなことがあるんですね!!!チームオーナーが、他のチームのエースになって、そのチームのエースが自分のチームのエースに。。。いやあ、こんなこと、他のスポーツでも、何の世界でもありえないですよ!!!これは、津田君も燃えるでしょうね~さあ、どっちが速いんでしょうね。タイヤにもよるだろうしなあ。。。両選手もと、昨年のお互いのベストラップは抜かなきゃね3人の表彰台独占が見たい!!!!加賀山就臣と津田拓也がシートを入れ替えてJSB参戦2019/01/30 チームカガヤマのチームオーナー兼エースライダーとして活躍してきた加賀山就臣が2019シーズンはヨシムラからエントリー。ヨシムラのエースライダーだった津田拓也がチームカガヤマから参戦することが、ヨシムラとチームカガヤマのそれぞれのホームページで発表された。 これまでにもヨシムラと共に鈴鹿8耐や鈴鹿300kmに参戦した経験がある加賀山は、「45歳になる私を指名していただくのは光栄であり、与えられた仕事をキッチリとやり遂げたいと思います。これまで私は1993年から27年間、歴代のGSX-Rに関わってきました。その多くの開発と実戦経験をヨシムラで活かせればと思っています。過去にヨシムラと共に戦い鈴鹿8耐や300kmで優勝した経験が有り、良い想い出が沢山あります。9年ぶりにヨシムラと共に戦う事になりますが、2007年の鈴鹿8耐で優勝した時を再現出来る様、努力していきます」とコメントを発表。ヨシムラ2年目となる渡辺一樹と2台体制での参戦となる。 一方のチームカガヤマは『TK SUZUKI BLUE MAX』とチーム名を改め、津田の1台体制で表彰台の頂点獲得を目指すという。チームカガヤマ所属の浦本修充は昨シーズンに続いてスペイン選手権にフル参戦することが同時に発表された。 加賀山と津田は共にスズキGSX-R1000を駆るが、加賀山はブリヂストンタイヤを、津田はダンロップタイヤで戦うことになる。津田は「ダンロップとは、2012年に鈴鹿8耐、ル・マンと世界耐久選手権を一緒に戦わせて頂きました。その時の経験が今の自分を作ってくれていると思っているので、とても良い思い出があります。環境が変わる今こそ、これまでの自分を上回る最大のチャンスだと思います」とのコメントを掲載している。全日本ロードレース選手権(JSB1000クラス)参戦について2017 JSB1000ヨシムラスズキMOTULレーシングは、2019年の全日本ロードレース選手権 JSB1000クラスに2台体制で参戦致します。今シーズンは、参戦2年目となり、ヨシムラライダーとしてより活躍が期待される渡辺 一樹 選手と、国内外での実戦経験が豊富で、2007年鈴鹿8耐ではヨシムラを優勝へ導いた加賀山 就臣 選手を起用します。チーム一丸となり、スズキGSX-R1000のポテンシャルを存分に発揮させ、シリーズチャンピオン獲得に向けて邁進します。2019年 ヨシムラスズキMOTULレーシングを応援ください。加藤 陽平 監督平成から新元号となる節目の2019年、我々「ヨシムラスズキMOTULレーシングチーム」はMFJ全日本ロードレース選手権(JSB1000クラス)に、2007年の鈴鹿8耐をヨシムラスズキにて共に制覇した加賀山就臣選手と、昨年からチームに合流し、着実に成長を見せた渡辺一樹選手を起用し、スズキGSX-R1000Rと共に表彰台の頂点を目指し参戦する事を発表させていただきます。加賀山選手と渡辺選手。この2名のファイターと共に戦えることを自分も楽しみにしていますし、ファンの皆様にはレース結果以上のワクワクを届けてくれると期待しています。昨シーズンの苦しんだ結果を受け、チームとして変革が必要だと考え、世界での経験が豊富な加賀山選手の力を借り、チーム自体の立て直しとさらなる前進を目指します。我々ヨシムラはワークスに負ける事を良しとはしていません。昨年受け取った課題を我々の力として、2019年を躍進するシーズンにします。スズキ株式会社及び協賛各社の力を借り、そして何よりファンの皆様と共に戦っていきたいと思います。---まず1勝---2019年もヨシムラスズキMOTULレーシングチームへご声援宜しくお願い致します。#12 加賀山 就臣名前 加賀山 就臣 (カガヤマ ユキオ)出身地 神奈川県誕生日 1974年5月7日身長 164cm体重 67kg2019年、ヨシムラスズキからJSB1000に参戦する事になりました。45歳になる私を指名していただくのは光栄であり、与えられた仕事をキッチリとやり遂げたいと思います。これまで私は1993年から27年間、歴代のGSX-Rに関わってきました。その多くの開発と実戦経験をヨシムラで活かせればと思っています。過去にヨシムラと共に戦い鈴鹿8耐や300kmで優勝した経験が有り、良い想い出が沢山あります。9年ぶりにヨシムラと共に戦う事になりますが、2007年の鈴鹿8耐で優勝した時を再現出来る様、努力していきます。ファンの皆さんには、ワクワク・ドキドキを伝えられると思っています。どうぞヨシムラスズキの応援を、よろしくお願いします。主なレース戦績2018 鈴鹿8時間耐久 11位全日本選手権JSB1000 年間ランキング 10位2017 鈴鹿8時間耐久 17位全日本選手権JSB1000 年間ランキング 10位2016 鈴鹿8時間耐久 6位全日本選手権JSB1000 年間ランキング 8位2015 鈴鹿8時間耐久 3位全日本選手権JSB1000 年間ランキング 12位2014 鈴鹿8時間耐久 3位全日本選手権JSB1000 年間ランキング 5位2007 鈴鹿8時間耐久 優勝ワールドスーパーバイク参戦#26 渡辺 一樹名前 渡辺 一樹 (ワタナベ カズキ)出身地 山梨県誕生日 1990年10月2日身長 170cm体重 68kg2019年もヨシムラのライダーとしてシーズンを迎えられることが誇らしく、また多くの方の協力でこういったチャンスをいただく事が出来た事を感謝したいと思います。昨年は初めてのマシン初めてのチームという中で、メーカーやチームの考え方の違いが心地よく新鮮な気持ちで1年レースを戦う事が出来ました。開幕戦のもてぎから表彰台争いに加わり手応えをつかみ、シーズン中もレース毎に進むマシン開発のスピードに驚きを感じながらのシーズンでした。結果的に上位争いには絡むものの、あと一歩の場面で表彰台を逃すシーズンになってしまいました。そして今はその非常に悔しかった気持ちが自分にとってのエネルギーになっています。今シーズン、その悔しさを晴らすために自分の実力を証明したいと思います。みなさま応援よろしくお願いいたします。主なレース戦績2018 鈴鹿8時間耐久 4位全日本選手権 JSB1000 年間ランキング 7位2017 スーパースポーツ世界選手権 参戦2016 鈴鹿8時間耐久 2位全日本選手権 JSB1000 年間ランキング 6位2015 鈴鹿8時間耐久 参戦全日本選手権 JSB1000 年間ランキング 3位2014 鈴鹿8時間耐久 参戦全日本選手権 JSB1000 年間ランキング 7位津田拓也がTK SUZUKI BLUE MAXから参戦!加賀山と入れ代わり#71をつけてエントリー News 2019/01/30 14:00:53Team KAGAYAMAが1月30日(水)に2019年体制を発表。チーム代表である加賀山就臣は、ヨシムラから参戦することは、既報の通りだが、設立9年目を迎えるTeam KAGAYAMAからは、津田拓也が全日本ロードレース選手権JSB1000クラスにエントリー。チーム名は「TK SUZUKI BLUE MAX」となる。「今年からTK SUZUKI BLUE MAXの一員となり、新たなチャレンジの年を迎える事ができ、今からとても楽しみです。 ダンロップさんとは、2012年に鈴鹿8耐、ル・マンと世界耐久選手権を一緒に戦わせて頂きました。その時の経験 が今の自分を作ってくれていると思っているので、とても、いい思い出があります。 環境が変わる今こそ、これまでの自分を上回る最大のチャンスだと思いますので、スポンサー様をはじめ、ファン の皆さん、より一層の応援をよろしくお願いいたします 」と津田はリリースでコメント。Team KAGAYAMA所属の浦本修充は、昨年に引き続きESBKスペイン選手権に参戦。2年目は、シリーズチャンピオンを狙うと意気込んでいる。設立9年目を迎え、大きな岐路に立ったTeam KAGAYAMA。2019年は、果たしてどんなシーズンになるのか!? ヨシムラが加賀山を起用!渡辺一樹との2台体制で2019年シーズンに臨むヨシムラ News 2019/01/30 01:08:31ヨシムラスズキMOTULレーシングが1月30日(水)に2019年のチーム体制を発表。2013年からエースとして活躍してきた津田拓也にかわり、加賀山就臣を起用。渡辺一樹との2台体制で全日本ロードレース選手権JSB1000クラスを戦うことを明らかにした。「スズキ一筋で長年、マシン開発にも関わらせてもらっているので、その経験を生かして行きたいですね。ヤマハ優位が続いているので、切り崩して行けるように全力を尽くします。ファンによろこんでもらえるように、ドキドキ、ワクワクを伝えられるレースがしたいですね」と加賀山。一方、ヨシムラで2年目のシーズンを迎える渡辺は「昨年は、1年目とはいえ、もう少し結果を出したかったですね。その中でもマシン開発は進んでいましたし、シーズン後半は、特にいい状態に仕上がって来ていたので、今シーズンは、安定したパッケージで開幕戦から臨めると思います。とにかく結果を出したいですね」と意気込みを語った。加賀山は、過去にヨシムラから鈴鹿8耐に出場し、優勝を飾ったこともある。あの栄光を再び実現することができるか!? 新しい年号になる新たなシーズンの注目の的になることは間違いない。
Jan 30, 2019
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高杉奈緒子さん!年賀状とグッズありがとうございます!!!今年も応援いたします!!皆様も、よろしくお願いいたします!!Naolog | 高杉奈緒子 公式ブログ | Takasugi Naoko official blog |いつも応援していただき本当にありがとうございます。2018年シーズンは応援していただいています皆様のお陰で最後まで走りきることが出来ました。本当にありがとうございました。2019年体制を報告させていただきます。「全日本ロードレース選手権」ではJ-GP3クラスに継続して年間フル参戦させていただくことにしました。チームは「41Planning」です。地方選手権にも、タイミングを見ながら出場していきたいと思っています。2018年、地方選手権は全て表彰台に上がりました。全日本ロードレース選手権では、予選成績は上々で上位グリッドに並べることが出来ました。しかし決勝は不運なアクシデントに巻き込まれたり、マシントラブルなどで結果を残すことが出来ませんでした。勝てるチャンスも幾度かありましたが、実際に目標を達成することが出来ませんでした。応援してくださった皆様には、応えられなかったことが一番本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。あと一歩のところを、きっかけが掴めたら突き進められると思っています。2019年、私は必ず目標を達成させたいと思っています。全ては『勝つために』 応援してくださっている方々様に応えたい。皆様、今年もどうか高杉奈緒子の大きな挑戦を応援していただけませんか。少しでも応援していただけたら嬉しいです。温かく見守っていただけたらなと思っています。2019年も一生懸命がんばりますので、ぜひとも皆様方のご支援ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。2018・12 高杉奈緒子
Jan 6, 2019
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10月23日はシモンチェリの命日です。 もう7年ですねまだ、24歳、これからでした。。。ついてないとしかいいようがない事故でした。。。今年も、事故もなく、シモンチェリの分まで、すばらしいレースを見せてくれることを祈ります。【MotoGPマレーシアGP】シモンチェリが事故死23日、マレーシアのセパンで開催されたロードレース世界選手権マレーシアGP、MotoGPクラス決勝レースで、マルコ・シモンチェリ(ホンダ)が事故死した。24歳。2列目5番手スタートのシモンチェリは4番手走行中の2ラップ目、11コーナーで転倒、後続車と接触、頭、首、胸を強打した。医療班が事故現場に到着した時はすでに意識不明で、ただちにサーキット医療センターへ搬送された。移動の救急車中から心肺蘇生がほどこされたが、手当のかいなく、約45分後の16時56分に死亡が宣告された。レースは事故直後に赤旗中断、キャンセルされた。MotoGP、マルコ・シモンチェリの事故死の状況を説明2011年10月24日MotoGPのレースディレクションは23日、セパン・インターナショナル・サーキットのプレスカンファレンスルームで、第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死したマルコ・シモンチェリの状況に関して共同会見を行った。レースディレクションの代表であるポール・バトラーは、「この記者会見の目的は、マルコ・シモンチェリの悲劇的な死亡の状況を検証することです」と説明を始めた。 「皆様がご存知のように、我々レースディレクションのメンバー全員がここに出席します。FIM国際モーターサイクリズム連盟の代表であるクロード・ダニス、ドルナスポーツの代表であるハビエル・アロンソ、ライダーの代表であるフランコ・ウンチーニ、そして私はIRTA国際レーシングチーム連盟の代表兼レースディレクションの代表です。ミケーレ・マッキアゴデーナは我々のメディカルディレクターであり、彼が死亡に関して状況を説明します。」マッキアゴデーナは、「友人であるマルコ・シモンチェリの死亡に関して報告するために、ここにいることは大変悲しいです。他のライダーたちに激突したレース中の転倒でした。彼は頭部と首、胸部に深刻な外傷を負いました。」「我々のメディカルスタッフが彼のところに駆けつけたとき、彼は意識不明でした。心停止だったことから、救急車で、CPR(心肺蘇生)を始めました。」「緊急に、メディカルセンターでクリニカモービルのスタッフと地元医師の助けを借り、挿管を施行し、胸部から少量の血液を吸引することが可能でした。」「我々は彼を助けるために治療を尽くし、可能だと考えて、CPRを45分間継続しました。不運にも彼を助けることができず、現地時間の16時56分に死亡を宣言しなければいけませんでした」と、状況を説明した。バトラーは、ヘルメットが外れたことに関する質問に対して、「他の機会に答えることができると思います。事故の状況や結果を徹底的に調査します」と、事故検証を実施することを説明。コーリン・エドワーズの負傷状態に関して、マッキアゴデーナは「肩を脱臼しました。麻酔を受け、正しい位置に戻りました。彼は大丈夫です」と説明。「我々は彼の家族に同情します。可能な限り、あらゆる点を示したい」と、バトラーは付け加え、会見を締め括った。マルコ・シモンチェリ 経歴1996年から2000年にかけて地元イタリアのミニバイク選手権で活躍し、2年連続のチャンピオンに輝く。01年にイタリア選手権125ccクラスのホンダ・トロフィーに参戦。翌02年には、欧州選手権の125ccタイトルを獲得するとともに、ロードレース世界選手権(WGP)にも出場。03年からWGPにフル参戦を開始し、05年には125ccで総合5位と躍進すると、翌年から250ccにステップアップを果たした。08年には250ccのタイトルを獲得し、09年は、最終戦までライバル青山博一選手とタイトル争いを繰り広げ、総合3位となった。2010年に最高峰のMotoGPにステップアップ。参戦2年目の2011年、第17戦マレーシアGP決勝レースにおけるアクシデントで負傷し、サーキットのメディカルセンターで救命処置が行われたが同日逝去。享年24歳。故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに 故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに2011年10月にレースアクシデントにより事故死した故シモンチェリが、アゴスチーニ、ニエト、ドゥーハン、ヘイルウッド、リード、マング、ローソン、レイニー、ロバーツ、スペンサー、シーン、加藤、ストーナーらに続き、21人目のレジェンドライダーとして殿堂入りすることが決まった。ドルナスポーツは3日、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故マルコ・シモンチェリをレジェンドライダーとして殿堂入りすることを発表した。2008年10月19日に同地で開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで3番グリッドから3位に入り、250ccクラスのチャンピオンに輝き、2010年から最高峰クラスへの挑戦を開始。事故の1週間前には自己最高位となる2位を獲得していた。レジェンドライダー就任のセレモニーは、ムジェロ・サーキットで開催される第6戦イタリアGPで実施される。レジェンドライダーリストジャコモ・アゴスチーニアンヘル・ニエトマイク・ヘイルウッドミック・ドゥーハンフィル・リードジム・レッドマンアントン・マングカルロ・ウビアリジョン・サーティースジェフ・デュークエディ・ローソンフレディ・スペンサーケビン・シュワンツウェイン・レイニーケニー・ロバーツバーリー・シーンワイン・ガードナーヤーノ・サーリネン加藤大治郎ケーシー・ストーナーTags:MotoGP, 2014故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー 故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー Marco Simoncelli - MotoGP Legend Marco Simoncelli MotoGP Legend元250ccクラス王者で、2011年10月の第17戦マレーシアGPで事故死した故シモンチェリがレジェンドライダーに就任した殿堂入りのセレモニーが、第6戦イタリアGP開催中のムジェロで行われ、ドルナスポーツの代表から父親パオロに記念のメダルが贈呈された。ドルナスポーツは30日、第6戦イタリアGPの開催地、ムジェロ・サーキットのプレスカンファレンスルームで、故マルコ・シモンチェリがレジェンドライダーとして殿堂入りするセレモニーを実施した。2月3日、2008年に250ccクラスのチャンピオンに輝き、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故シモンチェリの殿堂入りを発表。当社CEO最高経営責任者のカルメロ・エスペレータが父親パオロにレジェンドライダーのメダルを贈呈した。レジェンドライダーリストジャコモ・アゴスチーニアンヘル・ニエトマイク・ヘイルウッドミック・ドゥーハンフィル・リードジム・レッドマンアントン・マングカルロ・ウビアリジョン・サーティースジェフ・デュークエディ・ローソンフレディ・スペンサーケビン・シュワンツウェイン・レイニーケニー・ロバーツバーリー・シーンワイン・ガードナーヤーノ・サーリネン加藤大治郎ケーシー・ストーナー
Oct 23, 2018
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今回の80's Meeting 2018では、たくさんの景品も提供いただきました新城市のモトクレットサワダさん。モトクレットサワダそちらの長男で、全日本ロードレース参戦されていた澤田令選手、これからの活躍を期待されていた中での筑波での事故。。。20年目の命日に、当時のバイクのエンジンを再びかけられるそうです。天国に届け!!!!きっと、皆さんの思いは、届くはずです。。。。天国へ届け、エンジン音 長男バイク事故死の新城の男性 2018/10/11 朝刊 沢田令さんのバイクの調子を確認する父の保美さん=愛知県新城市で 一九九八年にオートバイレース中の事故で亡くなった愛知県新城市のレーサー、沢田令(れい)さん=当時(21)=の二五〇ccバイクのエンジンが、二十年ぶりに当時の仲間たちの前で動くことになった。新城市のバイク店相談役を務める父親で、事故車を保存してきた保美(やすみ)さん(70)が「供養のために」と決めた。命日の十月十二日、浜松市内のホテル駐車場でエンジン音が響き渡る。1998年5月17日 澤田 令 全日本ロードレース選手権 筑波サーキットで開催された全日本ロードレース選手権第3戦。オープニングラップで事故が発生。澤田令は病院に運ばれたが、脳挫傷の為、10月12日死亡した。享年21歳1995年全日本ロードレース選手権GP125スポット参戦 でデビュー。1998年にはSUGOで3位に入るなど頭角を現し、期待されていた矢先での事故だった。澤田令選手/TEAM SRS-J(ラ・モト高阪)の97年型・ホンダRS250RHRCのキット車らしいです。カウル前端にラムエアの吸入口が見えます。 ガソリンタンクの下には、キャブレターをすっぽり覆う「ラムエア・ボックス」が収納されています。
Oct 12, 2018
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いまだに、サーキットに、ノリックがいないなんて、信じられません。。。ひょっこり、ピットとかにいるんじゃないかと。。。もう、あれから11年ですか。。。H/K AGESの10周年記念LIVEを終わって、朝方メールを見ると。。。本当に、ショックで、鳥取から京都まで、無事帰れたのが不思議なくらいふらふらしていました。。。自分たちが、心動かされた人々が、応援してきた人々がまだ、志半ばで、もっとやりたいこと、たくさんあったのに大切な家族がいて、その人を待っている人がいて、昨日までは、まったく想像もしていなかった別れ。。悲しみ。。。本当に辛いです。。。自分たちは、そのぶん、生きていくしかないのですが誰からも、愛される人必要とされる人そんな人たちが、早く旅立って。。。私のような人間が、また、もがいているのが。。。やっぱりつらいです。。。2007年10月7日、18時30分頃に神奈川県川崎市川崎区大島1丁目のUターン禁止の片側二車線道路の市道においてオートバイで走行中、Uターンしようとしたトラックと衝突、直ちに川崎市内の病院へ搬送されたが、事故から2時間後に死去したと報道されている。享年33(32歳没)。1998/03/07-08 モータースポーツキックオフデーでのノリック 1998/04/03-05 Marlboro Grand Prix of JAPANでのノリック 阿部典史-流星伝説-より秋ヶ瀬時代やダートトラック時代の動画もありました。。。Mar 8, 2008 Racingオートバイ (4)1994年日本GP、あわや一位というところでのクラッシュ。。。そして1996日本GP、涙の初優勝!!Nov 1, 2007 鈴鹿8耐DVD発売になりました。 (2)ヨシムラの優勝とノリックの元気な姿に、また涙しました8耐最高!!ノリックも叫んでましたよニュース映像見ると、、、涙が止まらない。。。。ノリックが交通事故死、トラックと衝突 死去した阿部典史さん(オートバイレーサー) 7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市の市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。 世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。 現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている。 阿部さんはオートレース選手の父光雄さんの影響で、5歳でバイクレースを始めた。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている。 レース中になびかせる長髪がトレードマークで、気さくな性格から「ノリック」の愛称で親しまれた。WGPでは通算3勝、表彰台17回の実績を残し、岡田忠之、伊藤真一らとともに日本に2輪ブームの再来をもたらした。マイケル・ドゥーハンら世界を代表するライダーと対等に渡り合いながら突然、転倒することもあり、「速くて危険なライダー」とも言われた。 スーパーバイク世界選手権などを転戦後、今季から全日本に復帰。5月のレースでは3位に入り、復活をアピールした矢先の事故だった。「伝説のライダー」阿部典史さんが事故死 川崎2007年10月08日00時07分 7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区、レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。 川崎署の調べでは、現場は片側2車線の直線道路。千野さんがUターンしようとした際に、右後方から近づいた阿部さんのオートバイ(500cc)と衝突した。千野さんは「道を間違えたので戻ろうとした」と話しているという。現場はUターン禁止だった。 ◇ 〈阿部典史さん〉本人の公式ホームページなどによると、阿部さんは東京都出身で、オートレーサーの父・光雄氏の影響で5歳からバイクに乗り始め、中学卒業後の91年、15歳で渡米して技術を磨いた。帰国後の93年に全日本選手権500ccクラスを制覇した。その後、世界選手権に参戦。96年の世界選手権日本グランプリ(GP)で、オートバイレースの最高峰500ccで日本人としては14年ぶり3人目の優勝を飾るなど、計3度のGP優勝を果たし、「ノリック」の愛称で親しまれていた。ファッションリーダーとしても人気があった。
Oct 7, 2018
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もう23年なんですね。。。。21番、一緒にYAMAHAを支えていた吉川監督が4連覇天国の康友さんは、喜んでることでしょうね。当時では少ない海外のスーパーバイクで活躍する選手でした。前の選手のオイルに乗ってしまい、そして、転倒後のバイクの下敷きとなるという、ものすごく不幸が重なってしまいました。。。永井選手の事故のあと、カウル内にオイルを吸収するパッドが義務付けられました。。。YAMAHAを代表する、日本を代表する、本当にすばらしいライダーでした。。。永井 康友(ながい やすとも、1965年10月29日 - 1995年9月12日)は、埼玉県出身のオートバイ・ロードレースライダー。日本人で初めてボルドール24時間耐久ロードレース優勝。略歴1989年、全日本ロードレース国際A級デビュー。以後、ヤマハのワークスライダーとして活躍。1995年、スーパーバイク世界選手権に日本人として初めてのフル参戦開始。第10戦オランダ(アッセン)第2ヒートで、エンジンブローを起こしたファブリツィオ・ピロバーノのドゥカティ916のオイルが撒き散らされていた。ピロバーノは自らのオイルに乗って転倒。立ち上がると即座にコースマーシャルに対して、オイルフラッグを出せとアピールしたという。しかし、永井はそのオイルに乗ってしまい転倒。投げ出され滑走する永井の前を滑走するマシンが宙に舞い上がり、その間に、滑走し続ける永井の体がマシンに追いつき、そこへマシンが降り落ちてきた。マシンに押しつぶされた永井は、意識不明のままアッセン市内の病院へ運ばれた。事故の報を受けて日本から駆けつけた家族と婚約者が見守る中、9月12日(日本時間9月13日)息を引き取った。29歳。1996年、永井の遺志を継ぐべく、吉川和多留が(1995年ランキング5位で終えた)永井のナンバー「5」でフル参戦した。
Sep 12, 2018
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もう8年。。。大ちゃんの死から、暗く、光が見えていなかった日本レース界に、再び輝いた光大ちゃんが果たせなかったWGPチャンピオンまで、きっと届いてくれると、日本中が期待していた星ほんとうに、ショックでした。。。いまでも、あの多重クラッシュのシーンは見れません。。。富沢祥也、レース中に事故死 (Moto2) 【 F1-Gate.com 】ロードレース世界選手権Moto2クラスに参戦する富沢祥也選手が、第12戦サンマリノGPでの決勝レースで事故に遭い、救急車で病院に搬送されたが死亡した。富沢祥也は、4位を走行中に転倒、後続のアレックス・デ・アンジェリスとスコット・レディングと接触。リッツィオーネの病院に搬送されたが、14時20分(現地時間)に死亡が確認された。享年19歳。富沢 祥也 (とみざわ しょうや、1990年12月10日 - 2010年9月5日)は、千葉県旭市出身のオートバイレーサー。2008年の全日本ロードレース選手権250ccクラスシリーズ2位。2009年から2010年までロードレース世界選手権に参戦した。
Sep 5, 2018
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今日は沼田 憲保さんの命日ですね。もう、11年ですか。。。Suzuki乗りの私にとって、ガンマでの優勝は、本当に嬉しかった。ずっと、心の中のヒーローです。私が沼田さんの訃報を聞いたのは、二日後でした。そのときのブログ記事です。このさらに二日後、SUZUKI MEETINGで、GK71B CLUBのクラブ紹介のときに、沼田さんの訃報を紹介し、沼田さんがどれだけ偉大なSUZUKI乗りだったかを、紹介させていただき、皆で御冥福を祈りました。Sep 6, 2007 追悼沼田憲保さん愛知のひろゆきさんと電話でお話していて教えていただきました元全日本250チャンピオン、SUZUKI Γでの全日本連覇を勲章に250cc参戦していなかったSUZUKIでのWGP参戦最近はYAMAHAでのエントリーが多かったですが、鈴鹿8耐や、全日本600での健闘を目にしたばかりでしたこの前の日曜日もケーブルの全日本で元気な姿を見て、岡田さん、イトシンだけでなくバイクブーム時代のチャンピオンが、まだまだがんばってるなと、応援しておりました。SUZUKI大好きな私のなかでは、Γで世界に出て行く日本人という、レース史の中でも非常に印象に残る方で、尊敬しておりましたし、ヒーローでした明日お通夜、スズキミーティングのある9/8に告別式とのことですご冥福をお祈りいたします練習中 二輪プロレーサーが事故死 4日午前10時50分ごろ、岡山県美作市滝宮の岡山国際サーキットで、練習走行中のプロレーサー沼田憲保(本名高橋憲保)さん(41)=千葉県流山市松ケ丘4丁目=のオートバイ(600CC)がタイヤバリアーに衝突。沼田さんは胸を強く打ち間もなく死亡した。 美作署の調べでは、沼田さんは午前9時すぎから走行。ヘアピンカーブを曲がりきれず、壁のように積み上げられたタイヤに衝突した。 サーキットは1周約3・7キロで、事故当時は沼田さんを含め10台ほどが練習中だった。 沼田さんは29日から同サーキットで開かれる全日本ロードレース選手権シリーズ第6戦に参戦予定だった 沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日 - 2007年9月4日)は、茨城県日立市出身のモーターサイクル・ロードレースライダー。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」の異名をとった。デビュー~全日本時代1988年にSP250クラスでデビュー。ノービス時代は、ミラージュ関東に席をおき、1990年のSUGO選手権では3クラスでチャンピオンを獲得した。翌年に特別昇格で国際A級ライセンスを得ると、スズキワークスのRGV‐Γ250開発兼任で全日本ロードレース選手権250ccクラスにフル参戦を開始した。原田哲也・岡田忠之・青木宣篤ら強豪がひしめく中、まだポテンシャルの低かったマシンで苦戦を強いられ、初表彰台(3位)に立ったのは1992年第3戦だった。原田らがロードレース世界選手権に進出した1993年には第9戦で初優勝するも、マシンの性能差や宇川徹の台頭などがありランキング5位で終わる。1994年にはランキング2位、1995年には翌年ロードレース世界選手権参戦が決定していた宇川を退けクラス・チャンピオンの栄光を掴んだ。1996年には、加藤大治郎や芳賀健輔との争いを制し連覇を成し遂げた。世界グランプリ時代スズキは1997年からロードレース世界選手権GP250での参戦を決定し、アリー・モレナー・レーシングのエースライダーとして沼田もフルエントリーされた。サーキットのデータ不足やマシンの性能差は彼を苦しめ、2年で沼田は撤退。再び全日本へ1999年、活躍の場を4ストマシンに切り替えた。同年から5年連続で鈴鹿8時間耐久ロードレースにエントリー。2004年から全日本ロードレース選手権ST600クラスにフル参戦し、第3戦では雨の筑波を制して8年ぶりに優勝。後進の育成にも積極的で、ライディングスクールの講師役なども務めていた。2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打ち胸部破裂で急逝した。41歳没。
Sep 4, 2018
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2008年5月15日にノースウェスト200に参戦中に亡くなったロバート・ダンロップを父にもち、2000年、エストニア共和国タリンで行われた公道レースで亡くなったジョイ・ダンロップを叔父にもつウィリアム・ダンロップが、Skerries 100の練習走行中の事故で亡くなられたそうです。。。マン島TTなどの公道レースといえば、ダンロップ家は、本当に強いのですが、やはりリスクが大きい。。。それが映画にもなったのですが、やはり、バイクで亡くなってはいけない。。。。残念です。。。御冥福を、お祈りいたします。生年月日: 1985年7月23日生まれ: イギリス 北アイルランド死亡: 2018年7月7日, アイルランド スケリーズ両親: ロバート・ダンロップ、 ルイーズ・ダンロップ兄弟姉妹: マイケル・ダンロップ、 ダニエル・ダンロップいとこ: ゲイリー・ダンロップ、 ジョアン・ダンロップ、 ジュリー・ダンロップ、 ドナ・ダンロップ、 リチャード・ダンロップ★ウィリアム・ダンロップがSkerries 100の練習走行中に逝去 2018年7月8日アイルランドで開催されているSkerries 100の練習走行中に、サムズトンネル付近で転倒したウィリアム・ダンロップが、転倒による怪我が原因で32歳という若さでこの世を去りました。ウィリアム・ダンロップのご家族、友人に心からお悔やみを申し上げます。ウィリアム・ダンロップはマイケル・ダンロップの兄でロバート・ダンロップの息子、そしてジョーイ・ダンロップの甥でした。ウィリアム・ダンロップはマン島TTで6度表彰台を獲得、ノースウェスト200、アルスターグランプリで優勝経験がありました。Loughshinny Motorcycle Supporters ClubSkerries 100のオーガナイザーであるLoughshinny Motorcycle Supporters Clubは、ウィリアム・ダンロップが2018年7月7日に行われた練習走行の中で起きた悲劇的な事故の結果、命を落としたことを深い悲しみと共にご報告します。Loughshinny Motorcycle Supporters Clubはウィリアム・ダンロップのご家族とご友人に深い哀悼の意を表します。<Loughshinny Motorcycle Supporters Club プレスリリース>なぜこれほどバイクに乗ることに魅了されるのかを教えてくれる映画「ROAD」12015-02-24二上善則 @ ロレンス編集部コラムエンターテイメントカルチャーロードレース映画「ROAD」。マン島TTレースで最多優勝を記録した伝説のレーサー、ジョイ・ダンロップとその弟のロバート・ダンロップ。そしてロバートの息子であるウィリアムとマイケルの兄弟。そのダンロップ家が2世代に渡り挑み続ける危険な公道レースの悲劇と栄光の物語だ。イギリスのほぼ中央に浮かぶ美しい島で開催される、マン島TTレースは1907年から続くバイクレースの原点といえるレースである。そのレースは昔も今も一般道を封鎖して行われる公道レースで、安全対策が行き届いたサーキットを周回するロードレースに較べて、極めて危険で常に死と隣り合わせの緊張感がレースを支配しているかのようだ。その公道レースを舞台にしたドキュメント映画「ROAD」は、1970年代の貴重な映像でジョイ・ダンロップがレジェンド・レーサーに登り詰めていく様子から2000年にレース中の事故でその生涯を終えるまで、また兄に憧れて同じくレーサーとなって活躍するも1994年のレースで再起不能の事故に会い、そこから奇跡の復活を遂げるロバート・ダンロップの姿を、美しいマン島の風景とともにオンボードカメラによる走行シーンをふんだんに使った迫力のある映像で描かれている。そして、クライマックスは父・ロバートの意志を継いでレーサーとなった二人の息子たちが直面する父のレース事故死と歓喜の勝利。危険な公道レースの栄光は悲劇と紙一重で成り立っているということを思い知らされる。なぜこれほどまでバイクで走ることに魅了されるのかこの映画はすべてのバイク乗りに観てもらいたい映画だ。マン島TTレースのように公道を時速320kmで走ることはできないし、そもそもバイクに乗るということは決して危険な行為ではない。ただ、公道レースという極限のロードレースにすべてを捧げた兄弟と、その栄光を受け継いだ息子たちのドラマティックな人生に、私たちがなぜこれほどまでバイクで走るということに魅了されるのか教えられたような気がしてならない。リターンライダーはもちろんのこと、若いライダーには1970年代のレーシングスーツをはじめファッションにも注目してほしい。私は残念ながらマン島TTレースを現地で観戦したことはないが、30歳代の頃にこのロードレースの聖地・マン島をバイクで走ってみたいと思い立ちツーリングの計画を練った時期がある。残念ながら諸事情でこの計画は実現しなかったけど、ダンロップが闘ったこの「ROAD」をいつか自分でも走ってみたい。映画「ROAD」は4月11日(土)よりシネマート新宿、シネマート心斎橋にてロードショーされます。『ロード』ⓒ2014 DoubleBand Films All Rights Reserved配給:レイドバック・コーポレーション●「ロード ディスティニー・オブ・TTライダー」公式サイトhttp://road.euro-p.info
Jul 8, 2018
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レース界のレジェンド、松本憲明さんが亡くなられたそうです。自宅で、脳梗塞で倒れられたとのことです。。。。数多い豪快伝説は有名ですね。。。残念です。。。。御冥福を、お祈りいたします。。。コンプライアンスって食べられるの?Mr.Bikeギャラリーかつてミスター・バイクの誌上を彩った数々のグラビアたち。あるときは驚きを、またあるときは笑いを、そしてまたあるときは怒りさえも呼び込んだ、それらの舞台裏ではなにがあったのか?1980年代中盤から1990年代に、メインカメラとして奮闘した謎の写真技師こと、エトさんこと、衛藤達也氏が明かす、撮影にまつわる、今だから話せる(んじゃないかと思うけど、ホントはまずいのかも)あんな話、こんな話。聞きたくないですか。第25回「相手をブチ抜くための高等テク? よくわかる?? その理論と実践??? Complianceって食べられるの? そんな時代のお話です。ああ、めまいが。」 「松本憲明ってライダー知ってる?」 I事務所でカメラマンをしているときの話です。チューニングバイクの取材兼撮影で訪ねたカスタム屋さんで初めて憲明さんの話を聞きました。入社して1ヶ月もたってない4月頃のことで、まだレース業界に首を突っ込んでいませんでした。ですから憲明さんはもちろん、事務所にベンツでやってきた全日本の大御所ライダーを本物のヤ○ザと勘違いしたり、菅生でいきなり後ろから抱きついてきた世界的に大変著名である小柄な外人ライダーをモーホだと信じたり……(第24回参照)。「プライベートで500ccのレーサーを走らせている凄い奴だよ」と聞かされても、500ccマシンがどんなものか頭に浮かばないし、それをプライベートで走らせることがどんなに大変なことか、そもそもプライベートって何? というレベルでしたから全く想像ができません。私はただのバイク好き、ただのバイク乗りで、バイク雑誌はミスター・バイクしか読みませんでした。ネットなんてない時代ですから、バイクの知識=ミスター・バイクで読んだものでした(ほとんど何も知らないと同義語)。こんな人間が、この業界に入ってしまったのですから、不思議です。 今回のお話は、そんな状態から少しずつ知識が増え始めた頃、憲明さんがミスター・バイクのキャラクターとして誌面に出始めた1980年代中頃のお話です。 いつものように、I井さんからお電話がありました。「エトー、今度さー、うちで松本憲明を応援することになってページを作ろーってワケ。編集部来て」 その頃になると、私もレース業界にドップリ浸かっていましたから、ペーペーの頃のようなこともなく、もちろん憲明さんのことも知っていました。しかし、話をしたことはありません。といいますか……はなはだ失礼に当たるかと思いますが……その頃、私の憲明さんに対するイメージは……型遅れのマシンで一生懸命戦っていたのですが、非力なマシンでバリバリのワークスマシンや有力チームに無茶な走りで挑んでいつも転倒する人。松本憲明=転倒というイメージしか浮かばなかったのです。今更ですが、ごめんなさい。 そんな憲明さんとどんな仕事でしょう。I井さんのことですから、普通のインタビューとか、お部屋拝見とか、そんな簡単なワケがありません。バイク雑誌で「アナタのパンツ見せてください」を企画し、自身街頭で何日も粘り、何百人の女性に声をかけ、そのうちの何人かのネジの抜けた女性、もとい、勇気ある女性のパンツを誌面に掲載してしまった編集者の鑑です。少なくとも、普通の人は考えないといいますか、やりたがらない、危険な企画の匂いがぷんぷんしてきます。不安を抱きつつ編集部に向かいました。 編集部のいつもの食堂に、すでにI井さんと憲明さんが待っていました。恐縮しつつ話に加わると企画はもう決まっていました。「で、エトーさ、トビラに使うイメージカットはスリップストリームイメージなワケ。憲明さんの後ろに乗って、かっこいい、スリップストリームのイメージ、バシっと。凄いの、たのむワケ」「はぁ。それはいいのですが、あのー、カメラを構えて、ピント合わせて、シャッター押すとなるとどうしても両手を使うことになるのですが、その間どーやって落ちないようにすればいいんでしょう?」「そんなのワケないだろ。憲明さんとお前をロープで縛っときゃ大丈夫なワケ」「……あのー、たいへん申し上げにくいことなのですが、ロープでしばるということは、もしコケたりしたらどうなっちゃうんでしょう」「エトーさ、憲明さんはレーサーなワケ。しかも全日本の500の現役ライダーなワケ。そこら辺のあんちゃんライダーとは違うワケ。だから安心なワケ。大丈夫だってばー。本当にエトーは心配性なんだからー」 1985年12月号表紙 今回は1985年12月号。巻頭は第26回東京モーターショー速報。ファラコラスティコ、GSX400X、VFR400Rなど出てます。第二特集は礼子さんがバニーしてたり、しげの秀一さんと荻野目洋子たんがNS400Rでタンデムしてたり、三原じゅん子さんとジャガー横田さんが抱き合っていたり、玉川良一さんがFZ400Rにまたがっていたり、小道迷子さんが根津甚八さんに抱きついてたり、よくわかりませんがどえらいメンツです。 そう言われても、憲明さんはレーサーで、しかも全日本の500の現役ライダーで、それもいつもサーキットで転んでいる姿を見ているからこそとても不安なのです。が、さすがに初対面の本人の前でそれを口にする勇気を私は持っていませんでした。 無論「憲明さんはコケそうだから後ろに乗るのは嫌だ」という理由でお仕事をお断わりすることなんて出来るわけがありません。それよりももっと大きな問題はスリップストリームという目に見えないものをどうやって絵に表現するかということです。 I井さんと知恵を絞って、絞って、結局は風洞実験でよく使われていたような、ミミズみたいなひもをたくさん付けて、空気の流れを写すことにしたのですが、それだけではただの実験写真でなんかおもしろくありません。いわゆるミスターらしくないのです。 そんな時は、困った時のヨドバシカメラ(広告担当者様、バナー広告、スペース空けてお待ちしております)。新宿西口駅前の大きなカメラの店に出向き、色々な階を物色していると面白いものを見つけました。サイクロンというフィルターで、レンズの前につけると渦を巻いたように映るということです。いったい何の目的で作られたのか未だ理解できないフイルターですが、今回の撮影には使えそうです。とはいえ、結局はこの時に使っただけで、以後は、これまたヨドバシカメラで購入した防水ケース(第22話参照)などと共に、衛藤写真用品蔵で永い眠りに入っているはずです。が、探したのに発見できませんでした。現在でも売っているのでしょうか? こんなわけのわからないフィルターで簡単に撮影を済ましてよいのだろうか……と心の葛藤もあったような、なかったような。気がつけばもうレジに並んでいました。心の弱いカメラマンなんです。 撮影当日I井さんは予告したとおり、憲明さんと私をロープで一心同体にして、GSX-Rの後ろに載せられました。まずは憲明さんの肩越しにカメラを構え、前のバイクのスリップに入り込むという設定での撮影から始めました。「大丈夫だから。安心して撮影しなよ」と憲明さん。いやいや、私は貴方様が転がるシーンをいつも見ているのですよ。安心しろと言われても……この期に及んではドイツ軍親衛隊のタイガー戦車に包囲されたレジスタンス状態。ビビりながら「無茶しないでくださいね」と答えるのが精一杯の抵抗でした。 憲明さんにピッタリくっつくと、当然股間もぴったりあたって気持ちがいい、わけありません。信哉さんならば「エトー、男が男にキンタマくっつけんじゃねーよ」と激しく抗議したことでしょう。憲明さんは特に何も言いませんでした。それもなんだか別の意味で不安な要素になったりして。そう、とにかく心配が私の十八番なのです。 1985年12月号1985年12月号「相手をブチ抜くための高等テク よくわかるその理論と実践 これがスリップストリームだ!」というド・ストレートなモノクログラビア3ページのプチ特集。本文の最後に「どんなマシンでも最高速が伸び、燃費が大幅に向上する」なんて恐ろしく無責任な一文が……当時は誰も疑問に思わなかったんです。と、いいますかこれで当たり前だったのです。マジで。ところで、サイクロンフィルターの効果、わかりますか? 心配といえば、まったく関係のない話ですが、大きめの地震の後ニュース速報などで「津波の心配はありません」とよく聞きますが、あの「心配」ってどういう意味なのでしょうか。「津波はありません」の方がストレートで解りやすいと思います。もしかして、日本中みんな私と同じように心配症で、フォローしてくれているのでしょうか? ところでこの写真どこで撮影したんでしょう? 改めて写真を見るとスピードメーターは80キロくらいを指しています。例えば高速道路だとしたら速度は問題ありま……ん? 当時高速道路で二人乗りしたらそれだけでアウト(汗)。さらに明らかに車間距離不保持(中汗)。撮影したのは筑波の自動車テストコースでしょうか(大汗)。その辺のことは、全くもって完璧に微塵も完膚なきまで思い出せません(華厳の滝汗)。 ちょっと胃が痛んできました……えーっと、なんの話でしたっけ。 そうそう撮影の話ですね。無事にトビラ用のイメージカット撮影が終わると、今度はワゴン車の後ろについて、実際のスリップストリームでどのように風が流れるのか、メインカットの撮影です。現場スタッフといっても4人(憲明さん、I井さん、私、もう一人の、キルロイか安生さんだったか編集部員がいたと思いますが、誰だったか忘れました)で、チマチマちまちまチマチマちまちまと、毛糸の切れ端を結構時間をかけてバイクとワゴン車と憲明さんに貼付けて、なんとか準備を完了しました。 1985年11月号 偶然に発掘された未公開カット。タイヤの先端に目がついているような車間距離です。これがレーサーなんです。これ、ホントに走っていたんでしょうか? いよいよ本番です。今度は憲明さんの後ろではなく併走車からの撮影なのでやや気が楽です。併走車を運転するI井さんは「エトー、ワシ運転してるから横見れないワケ。一発でわかるようにしっかり撮れ!」と叫んでいます。信哉さんとの撮影ならば何度もやっていたので、あうんの呼吸でしたが、憲明さんとは初仕事です。そう簡単にはいきません。憲明さんには声では伝わらないのでジェスチャーで、I井さんには大声で伝え、並走車との位置を調整してなんとか撮影を終えました。 終わったときどっと疲れが出たことはハッキリと思い出せます。信哉さんだったら「エトーは俺様に向かってまるでタコがもがいて手が絡まって苦しみ踊っているような動きをしていた」と書きそうなほど、端から見ればおかしなジェスチャーをしていたようです。 現像が上がってきたネガを見て、改めてギリギリ近づいてくれた憲明さんのおかげで風の動きがはっきり撮影できたことに感謝しました。やはり、レーサーという人達は凄い、凄すぎる。そしてそれをやらせたI井さんもぶっ飛んでいました。 当時はほんとに結構やばい撮影をしていたものです。今ではとても許されないでしょう。 危ない企画といえば、カメラマン伊勢ひかるが被写体になって「バイクと車がぶつかったら人間がどうなるか」というような身体を張った撮影をしたことを思い出しました。ちなみに伊勢はカメラマンであってスタントマンではありません。タイトルは「一番、ヒカル飛びます」というような軽いものだったかと思います。これもいつか裏話を書きましょうか。 今回のお話は遠い昔の話です。今とは時代が違いすぎます。みなさん、危ないことをして、ツイッターとかに投稿してはいけません。松本憲明伝説w子連れさんよりの依頼>ミスター・バイク コレクターのパキチ君、生キズ男の、栄光の伝説を書いてくれたまへで、ちょっと昔の雑誌(前世紀だがw)を引っ張り出してみた探さねばならぬネタはもう決まっていたアタシが松本憲明というレーサーに持っているイメージを決定付けた記事がこれだ1986年 5/11 全日本ロードレース第5戦・筑波c0198015_9214158.jpgプライベーターながら見事入賞 賞金20万円ゲット!wで、c0198015_9245121.jpgこれだけならヤラセかもしれないと思ったアナタc0198015_9255299.jpgさすが、ミスター・バイク(^^)紅(くれない)さんもいい度胸してんなぁ・・・・松本憲明、カラダを売ってレースをする男二輪のレーサーのイメージを地に落とした異端児この手のなめきった企画が無くなったのが、ミスター・バイク廃刊の原因だとアタシは見ているなんか思い出したらまたアップしますw
Jul 4, 2018
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本当に、ものすごい人物で、人柄で。。。若井さんがいたから、ほかのみんなが活躍できた。。。もう25年ですか。。。坂田、上田とともに、125ccで世界で大活躍して、250で頑張っていた矢先でしたね。当時は、γだったんだなぁヘレスで、ピットロードに入ってきた観客をよけて、、、、本当に信じられませんでした。。。陽気で人気者で、フラミンゴという愛称で海外のレーサー、ファンにも慕われていました。あの頃の日本人は、本当に強かったその先駆者として、本当にがんばっておられました。若井さんの速さと強さ、優しさは、ずっと忘れません。
May 1, 2018
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あの悲しい事故から7年ですか。。。震災の年だったんですよね。。。チャリティとかでもがんばっておられたのに。。。高橋江紀が交通事故で死去まだ23歳…。これからと言うときのアクシデント News 2011/04/25 12:17:36 20110425_01.jpg高橋江紀が4月24日(日)に交通事故に遭い死去した。享年23。高橋は、2005年に全日本GP250クラスにフル参戦を開始。その緒戦で青山周平を破り劇的な初優勝を達成、ランキング3位となる。2007年よりST600クラスにスイッチ。昨年は、新設されたJ-GP2クラスに出場。MotoGPロードレース世界選手権日本グランプリにもスポット参戦した。今シーズンよりRS-ITOに移籍。心機一転、カワサキZX-6Rを駆り、ST600クラスに参戦する予定だった。シーズンオフから筑波サーキットで走り込み調子も上々だったが、東日本大震災の影響で開幕戦筑波が中止となってしまい、その成果は発揮できずにいた。4月上旬には、オートポリスに遠征、コンディションに恵まれず満足に走れなかったが、自己ベストを更新したと好調ぶりを語っていた。違う環境に飛び込み、まさにこれからというときに起きたアクシデントだった。高橋は、東日本大震災の被災者の支援も積極的に行っており、20日(水)には、所属チームの一員として川越駅前で募金活動を行い、23日(土)には、自身がインストラクターも務める桶川スポーツランドで「RT311」と題したチャリティーイベントを開催していた。心からご冥福をお祈りいたします。
Apr 24, 2018
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2003年4月20日に、四日市の病院で闘っていた加藤大治郎選手が、永遠の眠りにつきました。 もう15年ですか。。。 早いですね。。。15年経っても、いまだに信じられません。。。 大ちゃんがいなくなって、日本のモーターレース会は、止まってしまったようです・・・ 鈴鹿での事故で、ヘリで運ばれ。。。 状態がよくなったとの話もでたのですが。。。 全世界のバイクファンが悲しみにつつまれました 2003/06/01 加藤大治郎選手『偉大なるチャンピオン・栄光の軌跡』展 に行ってきました。 これは、写真展に行ってきたときのレポートです はじめて大ちゃんと会ったのは、1996年の8耐で、前日に宋和さん、坂田さん、武田くんとコンビであったときでした そのときのレポート TRF HONDAの第3ライダーとして、イベント等参加されてました。 宗和さんと、125の坂田と、750の武田雄一、250の加藤大治郎と一緒に、8耐前夜にサーキット近くのコンビニでばったり出会いました。 その時何故アプリリアの坂田と一緒にいるのとたずねたら、「俺達、HRCの監督に気に入られているから(爆笑)」って感じでした。 コンビニの中で、写真を撮ったり、はしゃぎまくっている私の友人と、4人でちょっと話したのですが(武田君と加藤君はとても大人しい...) みんな良い人で、次の日もある場所(これは極秘です)で出会ったのですが、そこでも気さくに話してくれました。 コンビニに行ったのは、夜中に買い出しに行った時でした。 夜中でしたが、レジには行列が出来ていました。しかし、だれも気づきません。 前日にHOTELから出たまんまの格好でしたので、見事に溶け込んでおりました。 私が気づくと、友人も超ミーハーになり、話しかけに行きました。 写真を撮ったりしたのですが、それでも、まわりはシーンとしていました。 ライダーって、つなぎやチームの服でないと、だれも気づかないみたいですね。 (チームの服着てても、スタッフと間違われたりしてるようですが...) 特に8耐は、ライダーの名前なんて知らない人も結構多いので、みんな平気に表に出てますね。 1997にはSuper Bike2ヒートも見に行きました 1998のモータースポーツキックオフデーでもサインもらいました。 ほんとうに、すごいキャラクターで、みんなに愛されていました。 そして、ロッシに勝って、世界チャンピオンになれるのは、大ちゃんしかいないと 誰もが思っていました。 いまでもロッシの走りを見るたびに、大ちゃんが生きていたら、どうだったんだろうなぁと思い返してしまいます いまでも大ちゃんがいないことが信じられません。。。 もう2度と、、、悲しい事故が起こらないように、みんなを見守っていてください。。。 悲しい事故が多すぎる。。。。 みんな、いまでも忘れない。 そうそう、大ちゃんの名前をもらった、うちの だいちゃんが、4年前、星になってしまって。。。 大ちゃんといっしょにいるかな。。。似てる猫ちゃんが、前の家にいたんだけど、その子も、年末からみなくなってしまった。。。 やっぱり、さびしいなぁ。。。
Apr 20, 2018
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まあ、時間の問題かとは、思ったけど気がつくのに、だいぶ時間がかかりましたね。。。。スポンサーが朝日新聞ですってくらい言ってやれば良かった完全無視で、変えないでほしいね。津田君もがんばれ!!!いまんところは、韓国の新聞には、出てないな。。。【MotoGP】 ヨハン・ザルコの“旭日旗”ヘルメットに韓国人が抗議2018年4月16日MotoGP ヨハン・ザルコ 旭日旗MotoGPに参戦するヨハン・ザルコの“旭日旗”をデザインしたヘルメットに対して、韓国人ネットユーザーがMotoGPを主催するドルナスポールに抗議のメールを送っていたことが明らかになった。昨年、ヤマハ・テック3でMotoGPデビューを果たしたヨハン・ザルコは、チャンピオンを獲得したMoto2時代から“旭日旗”をデザインしたヘルメットを着用している。 しかし、韓国人ネットユーザーが最近レースでヨハン・ザルコのこのヘルメットのデザインに気づいた。怒りを覚えたユーザーは、ザルコが旭日旗のヘルメットを着用しないようドルナスポーツに抗議のメールを送ったという。韓国のニュースサイト Insight は、「メールでヨハン・ザルコのヘルメットに描かれた模様は植民地支配の歴史を象徴する。ナチスのハーケンクロイツと同じ意味だと抗議した」とこの韓国人ユーザーのコメントを紹介。「実際に私の意見が反映されるかは分からない。MotoGPの影響力は大きい。旭日基を撤廃することに役立ったら良いだろう」ヨハン・ザルコは、ヘルメットに旭日旗をデザインしている理由を以下のように説明している。「僕のコーチは1992年にGPのメカニックをしていたんだ。で、彼から日本人ライダーのことを聞いた」」とヨハン・ザルコはダンロップのインタビューでコメント。「あの頃、坂田、上田、若井がGPにやってきて、彼らはすごく強かった。マネージャーから彼らのストーリーをいろいろ聞いていたんだ。それで、彼ら日本人ライダーへ尊敬を表して、ライジングサンのデザインをヘルメットにつけた。すごく気に入っているんだ」「上田の時代を思い出すね。ライジングサンのデザインは、戦争の悪いイメージがあるという人もいるけど、それとは意味が違うんだ」韓国人の旭日旗に対する感情は激しく、サッカーを始めする国際的なスポーツなどでたびたび抗議を行っている。
Apr 16, 2018
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本当に信じられませんでしたほんとに、明るく、皆の人気者で2009年の鈴鹿8耐では、盛り上げ役で、夜もイベントやっててほんと、皆から愛される方でした筑波サーキットのテスト走行の悲劇から。。。もう8年今年は、悲しい事故が起きないことを祈っています。Youtubeみてると。。。涙が止まりません。。。。鎌田 学Manabu Kamada1994年から全日本ロードレースに参戦を始め、桜井ホンダ、ヨシムラに所属後、ホンダレーシング(HRC)にてテストライダーを担当。NSR500、RC211V、CBR1000RR等の開発テストをする傍ら、HONDAコレクションホールに保管されている貴重車両の動態保存テストも経験。最新モデルから歴史に残る名車まで、幅広いモーターサイクルを体験する。サードライダーも含めた鈴鹿8耐には14回出場し、2001年と2003年には総合優勝を獲得。2009年から独立し、「Large Motor Sommlier」として、これまでの経験を活かした幅広い活動を行っていた。しかし、2010年4月8日、テスト走行中の転倒が原因で享年40歳という若さで逝去する。
Apr 8, 2018
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中山翔太さんの訃報。。。もう3年なんですね。。。高校を卒業して、これからという時の事故。。。それも自転車でのもらい事故。。。ほんとうに、たくさん泣きました。。。愛理さん、お兄さんの分まで、ずっと頑張っておられます。今年も応援します中山翔太が交通事故で死去新しいシーズンの開幕を前にして痛ましい事故が起きてしまった。2015年は、ゼッケン13をつけて全日本フル参戦3年目のシーズンを迎えようとしていた中山翔太が3月16日(月)夕方に交通事故に遭い還らぬ人となってしまった。教習所に向かっているときにクルマにはねられてしまったそうだ。まだ18歳の若さだった…。1996年5月30日・兵庫県姫路市出身の中山は、岡山国際サーキットを中心に活躍し、2013年より全日本J-GP3クラスにフル参戦を開始。昨年は、ランキング13位となっていた。今年は、J-GP3クラスチャンピオンチームのTEAM PLUSONEに移籍し、まさにこれからという時だった。これから開花するであろう若い才能が、また一つ失われてしまった。心からご冥福をお祈り申し上げます。兄妹の高校生ライダー、全日本選手権で活躍誓う 姫路「高校生ライダー」として全国で活動する兵庫県姫路市白鳥台の中山翔太さん(18)=琴丘高3年=と愛理さん(16)=姫路東高2年=の兄妹が1、2日、鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)で開かれるバイクレース「全日本ロードレース選手権」に出場する。バイク歴10年を超え、大人に混じって実力を蓄えてきた2人。あこがれの舞台で活躍を誓う。
Mar 16, 2018
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本当に悲しい事故でした。。。偉大なライダーを失いました。。。。二度と、このようなことがないように祈ります。。。Anthony Delhalle nous a quittésアンソニーDelhalleは、我々のもとを去りましたTerrible nouvelle en provenance de Nogaro où les équipes d’endurance GMT94, Motors Events et SERT effectuaient des essais privés pour préparer la prochaine épreuve du championnat du monde au Mans. Anthony Delhalle a en effet été victime d’une sortie de piste au premier virage du circuit Gersoi en milieu de matinée. Rapidement pris en charge par les pompiers, ces derniers ne sont pas parvenus à réanimer le pilote Suzuki. 5 fois champion du monde d’endurance avec le SERT, Anthony était à 35 ans un champion discret, profondément gentil et unanimement apprécié du paddock. Sa disparition laissera un grand vide dans nos cœurs et toute l’équipe de Moto Revue adresse ses pensées les plus sincères à sa femme Jessie et à ses deux enfants Sophia et Andrea.浦本 修充さんがSuzuki Moto Franceさんの写真をシェアしました。6時間前 · 昨年のスペイン選手権の最終戦に参戦した際にチームメートだったアントニー選手がテスト中のアクシデントで亡くなりました。初めてで何もわからなかった僕にも気さくに話しかけてくれて心優しい人なんだなと言うのが短い間でも伝わる本当に良い選手でした。ご冥福をお祈りいたします。新庄 雅浩さんはAnthony De La Halleさんと一緒です。5時間前 · I love you Anthony尊敬するライダーがまた亡くなってしまいました。突然過ぎて現実なのか整理つかないけど出会えて一緒に走れて本当に自分を成長させてくれたました。ゆっくり休んでくれるといいな。みんなの心に少しだけでもAnthonyを残していて欲しいです。もう松下さんとルマンの話で盛り上がってるかな。北川 圭一5時間前 · ホント参ったアントニーが亡くなったって知って、、、バンソンと毎年8耐来ていて何度も京都に遊びにきていたのに、、、ホント控えめないい奴だったのに、ショック、、、モータースポーツの危険性を改めて、感じさせられます。心よりご冥福をお祈りします。加賀山 就臣さんが写真6件を追加しました。6時間前 · 神奈川県横浜市 · 参ったな〜。共に戦った、アントニーが亡くなった。テスト中のアクシデントだったらしい。ご冥福を祈る。R.I.Pアントニーとは2012年、SERTで鈴鹿8耐や世界耐久で共に戦った戦友。共に優勝もした、共にチャンピオンも獲得した。その後も、いつも俺の所に来てくれる。本当、控えめでいい奴だった、いつかまた組みたかったな〜……。参った……。https://www.facebook.com/anthony.delhalle.1/スズキで5度の耐久レース王座を獲得したアンソニー・デラールがテスト中に事故で亡くなるAUTOSPORTwebアンソニー・デラール SERT(スズキ・エンデュランス・レーシング・チーム)から世界耐久選手権(EWC)に参戦するアンソニー・デラールが、9日にフランス南部のノガロ・サーキットで行っていたプライベートテスト中の転倒事故により亡くなった。 EWC第2戦ル・マン24時間耐久ロードレースに向けノガロ・サーキットでプライベートテストを行っていたデラール。EWCのオフィシャルサイトによれば、今回の死亡事故はストレートエンドで発生したという。事故後、現場にはレスキュー隊が駆けつけ、救助作業が行われたものの、そのかいむなしく死亡が確認された。 デラールは35歳のフランス人ライダーで、2004年に初めてル・マン24時間耐久ロードレースに参戦。EWCでは、スズキGSX-R1000を駆って2011年、2012年、2013年、2015年、2016年と5度のチャンピオンを獲得した。
Mar 9, 2018
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10月23日はシモンチェリの命日です。 もう6年ですねまだ、24歳、これからでした。。。ついてないとしかいいようがない事故でした。。。今年も、事故もなく、シモンチェリの分まで、すばらしいレースを見せてくれることを祈ります。【MotoGPマレーシアGP】シモンチェリが事故死23日、マレーシアのセパンで開催されたロードレース世界選手権マレーシアGP、MotoGPクラス決勝レースで、マルコ・シモンチェリ(ホンダ)が事故死した。24歳。2列目5番手スタートのシモンチェリは4番手走行中の2ラップ目、11コーナーで転倒、後続車と接触、頭、首、胸を強打した。医療班が事故現場に到着した時はすでに意識不明で、ただちにサーキット医療センターへ搬送された。移動の救急車中から心肺蘇生がほどこされたが、手当のかいなく、約45分後の16時56分に死亡が宣告された。レースは事故直後に赤旗中断、キャンセルされた。MotoGP、マルコ・シモンチェリの事故死の状況を説明2011年10月24日MotoGPのレースディレクションは23日、セパン・インターナショナル・サーキットのプレスカンファレンスルームで、第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死したマルコ・シモンチェリの状況に関して共同会見を行った。レースディレクションの代表であるポール・バトラーは、「この記者会見の目的は、マルコ・シモンチェリの悲劇的な死亡の状況を検証することです」と説明を始めた。 「皆様がご存知のように、我々レースディレクションのメンバー全員がここに出席します。FIM国際モーターサイクリズム連盟の代表であるクロード・ダニス、ドルナスポーツの代表であるハビエル・アロンソ、ライダーの代表であるフランコ・ウンチーニ、そして私はIRTA国際レーシングチーム連盟の代表兼レースディレクションの代表です。ミケーレ・マッキアゴデーナは我々のメディカルディレクターであり、彼が死亡に関して状況を説明します。」マッキアゴデーナは、「友人であるマルコ・シモンチェリの死亡に関して報告するために、ここにいることは大変悲しいです。他のライダーたちに激突したレース中の転倒でした。彼は頭部と首、胸部に深刻な外傷を負いました。」「我々のメディカルスタッフが彼のところに駆けつけたとき、彼は意識不明でした。心停止だったことから、救急車で、CPR(心肺蘇生)を始めました。」「緊急に、メディカルセンターでクリニカモービルのスタッフと地元医師の助けを借り、挿管を施行し、胸部から少量の血液を吸引することが可能でした。」「我々は彼を助けるために治療を尽くし、可能だと考えて、CPRを45分間継続しました。不運にも彼を助けることができず、現地時間の16時56分に死亡を宣言しなければいけませんでした」と、状況を説明した。バトラーは、ヘルメットが外れたことに関する質問に対して、「他の機会に答えることができると思います。事故の状況や結果を徹底的に調査します」と、事故検証を実施することを説明。コーリン・エドワーズの負傷状態に関して、マッキアゴデーナは「肩を脱臼しました。麻酔を受け、正しい位置に戻りました。彼は大丈夫です」と説明。「我々は彼の家族に同情します。可能な限り、あらゆる点を示したい」と、バトラーは付け加え、会見を締め括った。マルコ・シモンチェリ 経歴1996年から2000年にかけて地元イタリアのミニバイク選手権で活躍し、2年連続のチャンピオンに輝く。01年にイタリア選手権125ccクラスのホンダ・トロフィーに参戦。翌02年には、欧州選手権の125ccタイトルを獲得するとともに、ロードレース世界選手権(WGP)にも出場。03年からWGPにフル参戦を開始し、05年には125ccで総合5位と躍進すると、翌年から250ccにステップアップを果たした。08年には250ccのタイトルを獲得し、09年は、最終戦までライバル青山博一選手とタイトル争いを繰り広げ、総合3位となった。2010年に最高峰のMotoGPにステップアップ。参戦2年目の2011年、第17戦マレーシアGP決勝レースにおけるアクシデントで負傷し、サーキットのメディカルセンターで救命処置が行われたが同日逝去。享年24歳。故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに 故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに2011年10月にレースアクシデントにより事故死した故シモンチェリが、アゴスチーニ、ニエト、ドゥーハン、ヘイルウッド、リード、マング、ローソン、レイニー、ロバーツ、スペンサー、シーン、加藤、ストーナーらに続き、21人目のレジェンドライダーとして殿堂入りすることが決まった。ドルナスポーツは3日、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故マルコ・シモンチェリをレジェンドライダーとして殿堂入りすることを発表した。2008年10月19日に同地で開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで3番グリッドから3位に入り、250ccクラスのチャンピオンに輝き、2010年から最高峰クラスへの挑戦を開始。事故の1週間前には自己最高位となる2位を獲得していた。レジェンドライダー就任のセレモニーは、ムジェロ・サーキットで開催される第6戦イタリアGPで実施される。レジェンドライダーリストジャコモ・アゴスチーニアンヘル・ニエトマイク・ヘイルウッドミック・ドゥーハンフィル・リードジム・レッドマンアントン・マングカルロ・ウビアリジョン・サーティースジェフ・デュークエディ・ローソンフレディ・スペンサーケビン・シュワンツウェイン・レイニーケニー・ロバーツバーリー・シーンワイン・ガードナーヤーノ・サーリネン加藤大治郎ケーシー・ストーナーTags:MotoGP, 2014故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー 故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー Marco Simoncelli - MotoGP Legend Marco Simoncelli MotoGP Legend元250ccクラス王者で、2011年10月の第17戦マレーシアGPで事故死した故シモンチェリがレジェンドライダーに就任した殿堂入りのセレモニーが、第6戦イタリアGP開催中のムジェロで行われ、ドルナスポーツの代表から父親パオロに記念のメダルが贈呈された。ドルナスポーツは30日、第6戦イタリアGPの開催地、ムジェロ・サーキットのプレスカンファレンスルームで、故マルコ・シモンチェリがレジェンドライダーとして殿堂入りするセレモニーを実施した。2月3日、2008年に250ccクラスのチャンピオンに輝き、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故シモンチェリの殿堂入りを発表。当社CEO最高経営責任者のカルメロ・エスペレータが父親パオロにレジェンドライダーのメダルを贈呈した。レジェンドライダーリストジャコモ・アゴスチーニアンヘル・ニエトマイク・ヘイルウッドミック・ドゥーハンフィル・リードジム・レッドマンアントン・マングカルロ・ウビアリジョン・サーティースジェフ・デュークエディ・ローソンフレディ・スペンサーケビン・シュワンツウェイン・レイニーケニー・ロバーツバーリー・シーンワイン・ガードナーヤーノ・サーリネン加藤大治郎ケーシー・ストーナー
Oct 23, 2017
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最後まで、すごいレースでした!!雨の中、あそこまで、順位入れ替わるか~!!最高のバトルでしたね
Oct 15, 2017
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いまだに、サーキットに、ノリックがいないなんて、信じられません。。。ひょっこり、ピットとかにいるんじゃないかと。。。もう、あれから10年ですか。。。H/K AGESの10周年記念LIVEを終わって、朝方メールを見ると。。。本当に、ショックで、鳥取から京都まで、無事帰れたのが不思議なくらいふらふらしていました。。。自分たちが、心動かされた人々が、応援してきた人々がまだ、志半ばで、もっとやりたいこと、たくさんあったのに大切な家族がいて、その人を待っている人がいて、昨日までは、まったく想像もしていなかった別れ。。悲しみ。。。本当に辛いです。。。自分たちは、そのぶん、生きていくしかないのですが誰からも、愛される人必要とされる人そんな人たちが、早く旅立って。。。私のような人間が、また、もがいているのが。。。やっぱりつらいです。。。2007年10月7日、18時30分頃に神奈川県川崎市川崎区大島1丁目のUターン禁止の片側二車線道路の市道においてオートバイで走行中、Uターンしようとしたトラックと衝突、直ちに川崎市内の病院へ搬送されたが、事故から2時間後に死去したと報道されている。享年33(32歳没)。1998/03/07-08 モータースポーツキックオフデーでのノリック 1998/04/03-05 Marlboro Grand Prix of JAPANでのノリック 阿部典史-流星伝説-より秋ヶ瀬時代やダートトラック時代の動画もありました。。。Mar 8, 2008 Racingオートバイ (4)1994年日本GP、あわや一位というところでのクラッシュ。。。そして1996日本GP、涙の初優勝!!Nov 1, 2007 鈴鹿8耐DVD発売になりました。 (2)ヨシムラの優勝とノリックの元気な姿に、また涙しました8耐最高!!ノリックも叫んでましたよニュース映像見ると、、、涙が止まらない。。。。ノリックが交通事故死、トラックと衝突 死去した阿部典史さん(オートバイレーサー) 7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市の市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。 世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。 現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている。 阿部さんはオートレース選手の父光雄さんの影響で、5歳でバイクレースを始めた。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている。 レース中になびかせる長髪がトレードマークで、気さくな性格から「ノリック」の愛称で親しまれた。WGPでは通算3勝、表彰台17回の実績を残し、岡田忠之、伊藤真一らとともに日本に2輪ブームの再来をもたらした。マイケル・ドゥーハンら世界を代表するライダーと対等に渡り合いながら突然、転倒することもあり、「速くて危険なライダー」とも言われた。 スーパーバイク世界選手権などを転戦後、今季から全日本に復帰。5月のレースでは3位に入り、復活をアピールした矢先の事故だった。「伝説のライダー」阿部典史さんが事故死 川崎2007年10月08日00時07分 7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区、レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。 川崎署の調べでは、現場は片側2車線の直線道路。千野さんがUターンしようとした際に、右後方から近づいた阿部さんのオートバイ(500cc)と衝突した。千野さんは「道を間違えたので戻ろうとした」と話しているという。現場はUターン禁止だった。 ◇ 〈阿部典史さん〉本人の公式ホームページなどによると、阿部さんは東京都出身で、オートレーサーの父・光雄氏の影響で5歳からバイクに乗り始め、中学卒業後の91年、15歳で渡米して技術を磨いた。帰国後の93年に全日本選手権500ccクラスを制覇した。その後、世界選手権に参戦。96年の世界選手権日本グランプリ(GP)で、オートバイレースの最高峰500ccで日本人としては14年ぶり3人目の優勝を飾るなど、計3度のGP優勝を果たし、「ノリック」の愛称で親しまれていた。ファッションリーダーとしても人気があった。
Oct 7, 2017
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もう22年なんですね。。。。21番、一緒にYAMAHAを支えていた吉川監督が3連覇天国の康友さんは、喜んでることでしょうね。当時では少ない海外のスーパーバイクで活躍する選手でした。前の選手のオイルに乗ってしまい、そして、転倒後のバイクの下敷きとなるという、ものすごく不幸が重なってしまいました。。。永井選手の事故のあと、カウル内にオイルを吸収するパッドが義務付けられました。。。YAMAHAを代表する、日本を代表する、本当にすばらしいライダーでした。。。永井 康友(ながい やすとも、1965年10月29日 - 1995年9月12日)は、埼玉県出身のオートバイ・ロードレースライダー。日本人で初めてボルドール24時間耐久ロードレース優勝。略歴1989年、全日本ロードレース国際A級デビュー。以後、ヤマハのワークスライダーとして活躍。1995年、スーパーバイク世界選手権に日本人として初めてのフル参戦開始。第10戦オランダ(アッセン)第2ヒートで、エンジンブローを起こしたファブリツィオ・ピロバーノのドゥカティ916のオイルが撒き散らされていた。ピロバーノは自らのオイルに乗って転倒。立ち上がると即座にコースマーシャルに対して、オイルフラッグを出せとアピールしたという。しかし、永井はそのオイルに乗ってしまい転倒。投げ出され滑走する永井の前を滑走するマシンが宙に舞い上がり、その間に、滑走し続ける永井の体がマシンに追いつき、そこへマシンが降り落ちてきた。マシンに押しつぶされた永井は、意識不明のままアッセン市内の病院へ運ばれた。事故の報を受けて日本から駆けつけた家族と婚約者が見守る中、9月12日(日本時間9月13日)息を引き取った。29歳。1996年、永井の遺志を継ぐべく、吉川和多留が(1995年ランキング5位で終えた)永井のナンバー「5」でフル参戦した。
Sep 12, 2017
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もう7年。。。大ちゃんの死から、暗く、光が見えていなかった日本レース界に、再び輝いた光大ちゃんが果たせなかったWGPチャンピオンまで、きっと届いてくれると、日本中が期待していた星ほんとうに、ショックでした。。。いまでも、あの多重クラッシュのシーンは見れません。。。富沢祥也、レース中に事故死 (Moto2) 【 F1-Gate.com 】ロードレース世界選手権Moto2クラスに参戦する富沢祥也選手が、第12戦サンマリノGPでの決勝レースで事故に遭い、救急車で病院に搬送されたが死亡した。富沢祥也は、4位を走行中に転倒、後続のアレックス・デ・アンジェリスとスコット・レディングと接触。リッツィオーネの病院に搬送されたが、14時20分(現地時間)に死亡が確認された。享年19歳。富沢 祥也 (とみざわ しょうや、1990年12月10日 - 2010年9月5日)は、千葉県旭市出身のオートバイレーサー。2008年の全日本ロードレース選手権250ccクラスシリーズ2位。2009年から2010年までロードレース世界選手権に参戦した。
Sep 5, 2017
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今日は沼田 憲保さんの命日ですね。もう、10年ですか。。。Suzuki乗りの私にとって、ガンマでの優勝は、本当に嬉しかった。ずっと、心の中のヒーローです。私が沼田さんの訃報を聞いたのは、二日でした。そのときのブログ記事です。この二日後、SUZUKI MEETINGで、GK71B CLUBのクラブ紹介のときに、沼田さんの訃報を紹介し、沼田さんがどれだけ偉大なSUZUKI乗りだったかを、紹介させていただき、皆で御冥福を祈りました。Sep 6, 2007 追悼沼田憲保さん愛知のひろゆきさんと電話でお話していて教えていただきました元全日本250チャンピオン、SUZUKI Γでの全日本連覇を勲章に250cc参戦していなかったSUZUKIでのWGP参戦最近はYAMAHAでのエントリーが多かったですが、鈴鹿8耐や、全日本600での健闘を目にしたばかりでしたこの前の日曜日もケーブルの全日本で元気な姿を見て、岡田さん、イトシンだけでなくバイクブーム時代のチャンピオンが、まだまだがんばってるなと、応援しておりました。SUZUKI大好きな私のなかでは、Γで世界に出て行く日本人という、レース史の中でも非常に印象に残る方で、尊敬しておりましたし、ヒーローでした明日お通夜、スズキミーティングのある9/8に告別式とのことですご冥福をお祈りいたします練習中 二輪プロレーサーが事故死 4日午前10時50分ごろ、岡山県美作市滝宮の岡山国際サーキットで、練習走行中のプロレーサー沼田憲保(本名高橋憲保)さん(41)=千葉県流山市松ケ丘4丁目=のオートバイ(600CC)がタイヤバリアーに衝突。沼田さんは胸を強く打ち間もなく死亡した。 美作署の調べでは、沼田さんは午前9時すぎから走行。ヘアピンカーブを曲がりきれず、壁のように積み上げられたタイヤに衝突した。 サーキットは1周約3・7キロで、事故当時は沼田さんを含め10台ほどが練習中だった。 沼田さんは29日から同サーキットで開かれる全日本ロードレース選手権シリーズ第6戦に参戦予定だった 沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日 - 2007年9月4日)は、茨城県日立市出身のモーターサイクル・ロードレースライダー。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」の異名をとった。デビュー~全日本時代1988年にSP250クラスでデビュー。ノービス時代は、ミラージュ関東に席をおき、1990年のSUGO選手権では3クラスでチャンピオンを獲得した。翌年に特別昇格で国際A級ライセンスを得ると、スズキワークスのRGV‐Γ250開発兼任で全日本ロードレース選手権250ccクラスにフル参戦を開始した。原田哲也・岡田忠之・青木宣篤ら強豪がひしめく中、まだポテンシャルの低かったマシンで苦戦を強いられ、初表彰台(3位)に立ったのは1992年第3戦だった。原田らがロードレース世界選手権に進出した1993年には第9戦で初優勝するも、マシンの性能差や宇川徹の台頭などがありランキング5位で終わる。1994年にはランキング2位、1995年には翌年ロードレース世界選手権参戦が決定していた宇川を退けクラス・チャンピオンの栄光を掴んだ。1996年には、加藤大治郎や芳賀健輔との争いを制し連覇を成し遂げた。世界グランプリ時代スズキは1997年からロードレース世界選手権GP250での参戦を決定し、アリー・モレナー・レーシングのエースライダーとして沼田もフルエントリーされた。サーキットのデータ不足やマシンの性能差は彼を苦しめ、2年で沼田は撤退。再び全日本へ1999年、活躍の場を4ストマシンに切り替えた。同年から5年連続で鈴鹿8時間耐久ロードレースにエントリー。2004年から全日本ロードレース選手権ST600クラスにフル参戦し、第3戦では雨の筑波を制して8年ぶりに優勝。後進の育成にも積極的で、ライディングスクールの講師役なども務めていた。2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打ち胸部破裂で急逝した。41歳没。
Sep 4, 2017
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朝から涙が止まりません。。。。。ニッキーニッキーの走りを忘れない。。。。涙が止まらないし、言葉にならない。。。。絶対に死なない、不死身なやつだとおもってたのに。。。急ぎすぎた。。。ニッキー・ヘイデン逝去2017年5月23日 • SBK SuperBike, SuperBike 9『ニッキー・ヘイデン逝去、2輪レース業界が喪に服す』★ニッキー・ヘイデン逝去。★チェゼーナのブファリーニ病院が次のように発表した。《5月17日に深刻な多発性外傷によりチェゼーナ・ブファリーニ病院の集中治療棟に収容されたニコラス・パトリック・ヘイデンの死去が確認されました。》(2017年05月22日『Corse di moto』記事参照)ヘイデン兄『オートバイに乗る幸せなニッキーを覚えていて』2017年5月23日 • SBK SuperBike, SuperBike 1『トミー・ヘイデン:オートバイに乗る幸せなニッキーを覚えていて』★5月22日(月)午後5時35分(イタリア時間)、ニッキー・ヘイデン訃報が伝えられた。★ヘイデン選手の婚約者ジャッキーさんは病院へ搬送された時から、また、事故直後にアメリカから渡伊したご家族も終始、徹夜で付き添いを続けていた。★ヘイデン選手の兄トミーさんがファンに向けて、下記の感謝メッセージを公開した。《家族を代表して、そして、ニッキーの婚約者であるジャッキーに代わり、ファンの皆さんからいただいた励ましのメッセージに感謝します。ニッキーがこんなに多くの方々と、こんなにポジティブな形で繋がっていたことを知り、本当に大きな心の支えとなりました。当然のことながら辛い時ではありますが、皆さんには幸せだった時のニッキーを、マシンに乗っていた時のニッキーを覚えいていただければと願っています。子供の頃からプロライダーになるのが夢で、その夢を叶えただけでなく世界チャンピオンにまでなり、自身が選んだスポーツのトップへと上り詰めました。私達は本当にニッキーのことを誇りに思っています。こうした公の場での思い出のほか、私達にはケンタッキーの自宅で家族の真ん中にいたニッキーの素晴らしい思い出がたくさんあります。これから堪らなく寂しくなることでしょう。また、病院スタッフの皆さん全員にも心から感謝しています。信じられないほどのサポートをしていただき、本当に親切にしていただきました。今後は当局の支援を受け、ニッキーを早々に自宅に連れて帰れたらと思っています。》ニッキー・ヘイデン重体、自動車に轢かれる2017年5月18日 • SBK SuperBike, SuperBike 10『ヘイデン:自転車走行中にリミニで事故、重体』hay.jpg★5月17日(水)午後2時過ぎ(イタリア現地時間)、ニッキー・ヘイデン(36才)がミザノ・サーキット隣で4輪車に轢かれた。★ヘイデン選手は頭蓋および胸部に多発性外傷を負い、危険な状態。★ヘイデン選手は友人らと自転車トレーニング中、ミザノ・アドリアティコ市の『Ca’ Raffaelli』通りと『Tavoleto』通りの十字路で、『Peugeot 206 CC』と衝突し、まず、ボンネットの上に乗り上げてフロントガラスに衝突し、その後、アスファルトに激しく叩きつけられた。incidente1.jpgincidente7.jpg★ヘイデン選手の自転車は道路沿いの溝に転がっていった。incidente2.jpg★ヘイデン選手は事故現場での応急処置の後、レッドコード状態でリミニの『Infermi di Rimini』病院に救急搬送された。その後、午後5時10分、チェゼーナの『Bufalini』の外傷センターへ移送され、おそらく、そこで意識不明に陥った模様。午後6時現在、手術が行われている。ニッキー・ヘイデン容態および事故経緯2017年5月18日 • SBK SuperBike, SuperBike 6『ヘイデン:脳浮腫の抑制に向け頭蓋内を検査』wsbk-phillip-island-february-testing-2017-nicky-hayden-honda-world-superbike-team.jpg★5月17日(水)、イタリアの一般道でニッキー・ヘイデン(36才)が自転車トレーニング中に4輪車と正面衝突し、重体である。★ヘイデン選手はチェゼーナのブファリーニ病院で治療を受けており、広範囲にわたる脳浮腫が懸念されている。また、片足の複雑骨折により多量に出血もしている。背中にも複数の骨折を負っているが、さいわい、脊髄の損傷はない模様。★17日午後11時30分(イタリア時間)、ヘイデン選手の容態はいぜん重篤なままである。なお、頭蓋および胸部に負った多発性外傷により、現在は手術できない状態にある。★搬送先の病院にはPICプローブが設備されている。これは頭蓋内の圧をモニタリングし、浮腫を抑制するため切開の必要があるかどうかを検証するのに使用される。★警察の報告によれば、ヘイデン選手が乗っていた自転車はフレームは真っ二つに損壊し、4輪車の方はフロントガラスが粉々になっていた。★リッチョーネ警察のピエールパオロ・マルッロ警視長が事故の経緯について、次のように話した。「本日16時50分、事故発生から約3時間後、部下らは現在も事故現場の検証を行っていますが、深刻な事故だったことが見て取れます。部下らが現場に到着した際、救急隊員らが路上で負傷者に応急処置を施しており、その後、レッドコード状態でリミニの病院へと搬送されました。初見によれば、4輪車の右前部と衝突しており、同車はリッチョーネ方面に進んでいました(※ヘイデン選手は『Ca’Raffaelli』通りから右側を海方向へ進行、『Tavoleto』通りとの十字路の出会いがしらで衝突している)。また、負傷者はグループではなく、単独で走行していたようです。」★4輪車の運転手は30才男性、リミニ市民。ヘイデン選手と同運転手どちらの不注意運転が原因かは分かっていない。★ヘイデン選手の兄トミーさんと、母ローズさんは明日18日にチェゼーナに到着する予定。ロッシ『ニッキー、頑張ってくれ。僕らが付いている』2017年5月18日 • MotoGP, MotoGP category 0『ロッシ:ヘイデンへ励ましメッセージ』スクリーンショット 2017-05-18 12.08.43.jpg★ニッキー・ヘイデン重体の報を受け、昨日よりホルヘ・ロレンソやマルケス兄弟、ダニ・ペドロサ、アンドレア・ドヴィツィオーゾ、マルコ・メランドリらモトGP関係者らがネット上に応援メッセージを出している。★ヴァレンティーノ・ロッシが18日午前11時30分頃(イタリア時間)、インスタグラムに以下の励ましメッセージを掲載した。《ニッキーはパドックでできたベストフレンドの1人です。彼がルーキーだった2003年にホンダでチームメイトとなり…ニッキーはヨーロッパ初体験の新人ライダーでした。あの年、僕はタイトルを取り、ニッキーはフィリップアイランド戦で初表彰台を取っていました(※初表彰台獲得は茂木戦の間違いです)。その数年後、2006年には最終戦まで2人でタイトル争いを繰り広げ、僕にとっては残念なことだけど、ニッキーの勝利となり、彼はモトGPチャンピオンになりました。レース後、僕らは握手を交わし、肩を抱き合いました。その後、厳しかったドゥカティ時代、僕らはまたチームメイトになって、なんとかトップ5内に食い込もうと、何度も凄まじい戦いを繰り広げました。ニッキーはよく僕の『ランチ(私設コース)』にも来てくれて…みごとな走りを披露する彼の姿から、なんらかの秘訣を読み取ろうとしたものです。なんと言っても、ロードレース参戦前、彼は世界でも一、二を争うフラットトラックの最速レーサーで、『Peoria TT』等、アメリカの難関フラットトラックレースで優勝してきているんだから。ニッキーについての一番良い記憶は、2015年ヴァレンシアでの不幸なレースの後、クールダウンラップの時に握手をしに寄って来てくれたことです。彼にとってはモトGP最後のレースだったし、僕の方はタイトルを取り逃した直後でした。ヘルメット越しに見えた励ますような瞳は、あの日、僕が覚えている数少ないポジティブな思い出です。ニッキー、頑張ってくれ。僕らが付いているから。》ヘイデン容態変わらず、手術できず2017年5月18日 • SBK SuperBike, SuperBike 3『ヘイデン:容態変わらず、手術できず』nicky_hayden_grid-630x415.jpg★5月18日(木)午後1時(イタリア時間)、ニッキー・ヘイデンの容態についてチェゼーナのブファリーニ病院より経過報告がなされたが、昨夜8時20分に出された報告以降、特に進展はなかった。なお、本日午後遅くに再度、経過が報告される予定。★今のところ、ヘイデン選手はなんらの手術も受けていない状態である。★ヘイデン選手には現在、婚約者やホンダSBKチームのスタッフらが付き添っている。★18日午後の早い時間に、アメリカから母ローズさんと兄トミーさん(元プロレーサー)がボローニャ到着する予定。父アールさんは最近、心臓に問題を抱えているため、長距離の渡航は医師から止められている。
May 23, 2017
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ニッキー!!頑張って!!!絶対、またサーキットに戻ってくれ!!!8耐で、あの派手なクラッシュでも、復活できたんだ!!!早く戻ってきてくれ!!!!みんながついてる!!!!!!!ニッキー・ヘイデン重体、自動車に轢かれる2017年5月18日 • SBK SuperBike, SuperBike 10『ヘイデン:自転車走行中にリミニで事故、重体』hay.jpg★5月17日(水)午後2時過ぎ(イタリア現地時間)、ニッキー・ヘイデン(36才)がミザノ・サーキット隣で4輪車に轢かれた。★ヘイデン選手は頭蓋および胸部に多発性外傷を負い、危険な状態。★ヘイデン選手は友人らと自転車トレーニング中、ミザノ・アドリアティコ市の『Ca’ Raffaelli』通りと『Tavoleto』通りの十字路で、『Peugeot 206 CC』と衝突し、まず、ボンネットの上に乗り上げてフロントガラスに衝突し、その後、アスファルトに激しく叩きつけられた。incidente1.jpgincidente7.jpg★ヘイデン選手の自転車は道路沿いの溝に転がっていった。incidente2.jpg★ヘイデン選手は事故現場での応急処置の後、レッドコード状態でリミニの『Infermi di Rimini』病院に救急搬送された。その後、午後5時10分、チェゼーナの『Bufalini』の外傷センターへ移送され、おそらく、そこで意識不明に陥った模様。午後6時現在、手術が行われている。ニッキー・ヘイデン容態および事故経緯2017年5月18日 • SBK SuperBike, SuperBike 6『ヘイデン:脳浮腫の抑制に向け頭蓋内を検査』wsbk-phillip-island-february-testing-2017-nicky-hayden-honda-world-superbike-team.jpg★5月17日(水)、イタリアの一般道でニッキー・ヘイデン(36才)が自転車トレーニング中に4輪車と正面衝突し、重体である。★ヘイデン選手はチェゼーナのブファリーニ病院で治療を受けており、広範囲にわたる脳浮腫が懸念されている。また、片足の複雑骨折により多量に出血もしている。背中にも複数の骨折を負っているが、さいわい、脊髄の損傷はない模様。★17日午後11時30分(イタリア時間)、ヘイデン選手の容態はいぜん重篤なままである。なお、頭蓋および胸部に負った多発性外傷により、現在は手術できない状態にある。★搬送先の病院にはPICプローブが設備されている。これは頭蓋内の圧をモニタリングし、浮腫を抑制するため切開の必要があるかどうかを検証するのに使用される。★警察の報告によれば、ヘイデン選手が乗っていた自転車はフレームは真っ二つに損壊し、4輪車の方はフロントガラスが粉々になっていた。★リッチョーネ警察のピエールパオロ・マルッロ警視長が事故の経緯について、次のように話した。「本日16時50分、事故発生から約3時間後、部下らは現在も事故現場の検証を行っていますが、深刻な事故だったことが見て取れます。部下らが現場に到着した際、救急隊員らが路上で負傷者に応急処置を施しており、その後、レッドコード状態でリミニの病院へと搬送されました。初見によれば、4輪車の右前部と衝突しており、同車はリッチョーネ方面に進んでいました(※ヘイデン選手は『Ca’Raffaelli』通りから右側を海方向へ進行、『Tavoleto』通りとの十字路の出会いがしらで衝突している)。また、負傷者はグループではなく、単独で走行していたようです。」★4輪車の運転手は30才男性、リミニ市民。ヘイデン選手と同運転手どちらの不注意運転が原因かは分かっていない。★ヘイデン選手の兄トミーさんと、母ローズさんは明日18日にチェゼーナに到着する予定。ロッシ『ニッキー、頑張ってくれ。僕らが付いている』2017年5月18日 • MotoGP, MotoGP category 0『ロッシ:ヘイデンへ励ましメッセージ』スクリーンショット 2017-05-18 12.08.43.jpg★ニッキー・ヘイデン重体の報を受け、昨日よりホルヘ・ロレンソやマルケス兄弟、ダニ・ペドロサ、アンドレア・ドヴィツィオーゾ、マルコ・メランドリらモトGP関係者らがネット上に応援メッセージを出している。★ヴァレンティーノ・ロッシが18日午前11時30分頃(イタリア時間)、インスタグラムに以下の励ましメッセージを掲載した。《ニッキーはパドックでできたベストフレンドの1人です。彼がルーキーだった2003年にホンダでチームメイトとなり…ニッキーはヨーロッパ初体験の新人ライダーでした。あの年、僕はタイトルを取り、ニッキーはフィリップアイランド戦で初表彰台を取っていました(※初表彰台獲得は茂木戦の間違いです)。その数年後、2006年には最終戦まで2人でタイトル争いを繰り広げ、僕にとっては残念なことだけど、ニッキーの勝利となり、彼はモトGPチャンピオンになりました。レース後、僕らは握手を交わし、肩を抱き合いました。その後、厳しかったドゥカティ時代、僕らはまたチームメイトになって、なんとかトップ5内に食い込もうと、何度も凄まじい戦いを繰り広げました。ニッキーはよく僕の『ランチ(私設コース)』にも来てくれて…みごとな走りを披露する彼の姿から、なんらかの秘訣を読み取ろうとしたものです。なんと言っても、ロードレース参戦前、彼は世界でも一、二を争うフラットトラックの最速レーサーで、『Peoria TT』等、アメリカの難関フラットトラックレースで優勝してきているんだから。ニッキーについての一番良い記憶は、2015年ヴァレンシアでの不幸なレースの後、クールダウンラップの時に握手をしに寄って来てくれたことです。彼にとってはモトGP最後のレースだったし、僕の方はタイトルを取り逃した直後でした。ヘルメット越しに見えた励ますような瞳は、あの日、僕が覚えている数少ないポジティブな思い出です。ニッキー、頑張ってくれ。僕らが付いているから。》ヘイデン容態変わらず、手術できず2017年5月18日 • SBK SuperBike, SuperBike 3『ヘイデン:容態変わらず、手術できず』nicky_hayden_grid-630x415.jpg★5月18日(木)午後1時(イタリア時間)、ニッキー・ヘイデンの容態についてチェゼーナのブファリーニ病院より経過報告がなされたが、昨夜8時20分に出された報告以降、特に進展はなかった。なお、本日午後遅くに再度、経過が報告される予定。★今のところ、ヘイデン選手はなんらの手術も受けていない状態である。★ヘイデン選手には現在、婚約者やホンダSBKチームのスタッフらが付き添っている。★18日午後の早い時間に、アメリカから母ローズさんと兄トミーさん(元プロレーサー)がボローニャ到着する予定。父アールさんは最近、心臓に問題を抱えているため、長距離の渡航は医師から止められている。
May 18, 2017
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本当に、ものすごい人物で、人柄で。。。若井さんがいたから、ほかのみんなが活躍できた。。。もう24年ですか。。。坂田、上田とともに、125ccで世界で大活躍して、250で頑張っていた矢先でしたね。当時は、γだったんだなぁヘレスで、ピットロードに入ってきた観客をよけて、、、、本当に信じられませんでした。。。陽気で人気者で、フラミンゴという愛称で海外のレーサー、ファンにも慕われていました。あの頃の日本人は、本当に強かったその先駆者として、本当にがんばっておられました。若井さんの速さと強さ、優しさは、ずっと忘れません。
May 1, 2017
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あの悲しい事故から6年ですか。。。震災の年だったんですよね。。。チャリティとかでもがんばっておられたのに。。。高橋江紀が交通事故で死去まだ23歳…。これからと言うときのアクシデント News 2011/04/25 12:17:36 20110425_01.jpg高橋江紀が4月24日(日)に交通事故に遭い死去した。享年23。高橋は、2005年に全日本GP250クラスにフル参戦を開始。その緒戦で青山周平を破り劇的な初優勝を達成、ランキング3位となる。2007年よりST600クラスにスイッチ。昨年は、新設されたJ-GP2クラスに出場。MotoGPロードレース世界選手権日本グランプリにもスポット参戦した。今シーズンよりRS-ITOに移籍。心機一転、カワサキZX-6Rを駆り、ST600クラスに参戦する予定だった。シーズンオフから筑波サーキットで走り込み調子も上々だったが、東日本大震災の影響で開幕戦筑波が中止となってしまい、その成果は発揮できずにいた。4月上旬には、オートポリスに遠征、コンディションに恵まれず満足に走れなかったが、自己ベストを更新したと好調ぶりを語っていた。違う環境に飛び込み、まさにこれからというときに起きたアクシデントだった。高橋は、東日本大震災の被災者の支援も積極的に行っており、20日(水)には、所属チームの一員として川越駅前で募金活動を行い、23日(土)には、自身がインストラクターも務める桶川スポーツランドで「RT311」と題したチャリティーイベントを開催していた。心からご冥福をお祈りいたします。
Apr 24, 2017
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2003年4月20日に、四日市の病院で闘っていた加藤大治郎選手が、永遠の眠りにつきました。 もう14年ですか。。。 早いですね。。。12年経っても、いまだに信じられません。。。 大ちゃんがいなくなって、日本のモーターレース会は、止まってしまったようです・・・ 鈴鹿での事故で、ヘリで運ばれ。。。 状態がよくなったとの話もでたのですが。。。 全世界のバイクファンが悲しみにつつまれました 2003/06/01 加藤大治郎選手『偉大なるチャンピオン・栄光の軌跡』展 に行ってきました。 これは、写真展に行ってきたときのレポートです はじめて大ちゃんと会ったのは、1996年の8耐で、前日に宋和さん、坂田さん、武田くんとコンビであったときでした そのときのレポート TRF HONDAの第3ライダーとして、イベント等参加されてました。 宗和さんと、125の坂田と、750の武田雄一、250の加藤大治郎と一緒に、8耐前夜にサーキット近くのコンビニでばったり出会いました。 その時何故アプリリアの坂田と一緒にいるのとたずねたら、「俺達、HRCの監督に気に入られているから(爆笑)」って感じでした。 コンビニの中で、写真を撮ったり、はしゃぎまくっている私の友人と、4人でちょっと話したのですが(武田君と加藤君はとても大人しい...) みんな良い人で、次の日もある場所(これは極秘です)で出会ったのですが、そこでも気さくに話してくれました。 コンビニに行ったのは、夜中に買い出しに行った時でした。 夜中でしたが、レジには行列が出来ていました。しかし、だれも気づきません。 前日にHOTELから出たまんまの格好でしたので、見事に溶け込んでおりました。 私が気づくと、友人も超ミーハーになり、話しかけに行きました。 写真を撮ったりしたのですが、それでも、まわりはシーンとしていました。 ライダーって、つなぎやチームの服でないと、だれも気づかないみたいですね。 (チームの服着てても、スタッフと間違われたりしてるようですが...) 特に8耐は、ライダーの名前なんて知らない人も結構多いので、みんな平気に表に出てますね。 1997にはSuper Bike2ヒートも見に行きました 1998のモータースポーツキックオフデーでもサインもらいました。 ほんとうに、すごいキャラクターで、みんなに愛されていました。 そして、ロッシに勝って、世界チャンピオンになれるのは、大ちゃんしかいないと 誰もが思っていました。 いまでもロッシの走りを見るたびに、大ちゃんが生きていたら、どうだったんだろうなぁと思い返してしまいます いまでも大ちゃんがいないことが信じられません。。。 もう2度と、、、悲しい事故が起こらないように、みんなを見守っていてください。。。 悲しい事故が多すぎる。。。。 みんな、いまでも忘れない。 そうそう、大ちゃんの名前をもらった、うちの だいちゃんが、3年前、星になってしまって。。。 大ちゃんといっしょにいるかな。。。似てる猫ちゃんが、前の家にいるんだよなあ。。。遊びたいなあ。。。。 やっぱり、さびしいなぁ。。。
Apr 20, 2017
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本当に信じられませんでしたほんとに、明るく、皆の人気者で2009年の鈴鹿8耐では、盛り上げ役で、夜もイベントやっててほんと、皆から愛される方でした筑波サーキットのテスト走行の悲劇から。。。もう6年今年は、悲しい事故が起きないことを祈っています。Youtubeみてると。。。涙が止まりません。。。。鎌田 学Manabu Kamada1994年から全日本ロードレースに参戦を始め、桜井ホンダ、ヨシムラに所属後、ホンダレーシング(HRC)にてテストライダーを担当。NSR500、RC211V、CBR1000RR等の開発テストをする傍ら、HONDAコレクションホールに保管されている貴重車両の動態保存テストも経験。最新モデルから歴史に残る名車まで、幅広いモーターサイクルを体験する。サードライダーも含めた鈴鹿8耐には14回出場し、2001年と2003年には総合優勝を獲得。2009年から独立し、「Large Motor Sommlier」として、これまでの経験を活かした幅広い活動を行っていた。しかし、2010年4月8日、テスト走行中の転倒が原因で享年40歳という若さで逝去する。
Apr 8, 2017
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津田拓也&一磨☆私設応援団☆のほうで、森山さんがみなさんにプレゼントと!一磨選手が3度も出てくる『トミートイズデザイン』の卓上カレンダーさらに一磨選手からサプライズプレゼントがありました!応募してくださった皆さんの人数分準備してくださいました!ってことで、私のところにも!!森山さん!届きました!ありがとうございました!!!
Mar 27, 2017
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中山翔太さんの訃報。。。もう2年なんですね。。。高校を卒業して、これからという時の事故。。。それも自転車でのもらい事故。。。ほんとうに、たくさん泣きました。。。愛理さん、お兄さんの分まで、ずっと頑張っておられます。今年も応援します中山翔太が交通事故で死去新しいシーズンの開幕を前にして痛ましい事故が起きてしまった。2015年は、ゼッケン13をつけて全日本フル参戦3年目のシーズンを迎えようとしていた中山翔太が3月16日(月)夕方に交通事故に遭い還らぬ人となってしまった。教習所に向かっているときにクルマにはねられてしまったそうだ。まだ18歳の若さだった…。1996年5月30日・兵庫県姫路市出身の中山は、岡山国際サーキットを中心に活躍し、2013年より全日本J-GP3クラスにフル参戦を開始。昨年は、ランキング13位となっていた。今年は、J-GP3クラスチャンピオンチームのTEAM PLUSONEに移籍し、まさにこれからという時だった。これから開花するであろう若い才能が、また一つ失われてしまった。心からご冥福をお祈り申し上げます。兄妹の高校生ライダー、全日本選手権で活躍誓う 姫路「高校生ライダー」として全国で活動する兵庫県姫路市白鳥台の中山翔太さん(18)=琴丘高3年=と愛理さん(16)=姫路東高2年=の兄妹が1、2日、鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)で開かれるバイクレース「全日本ロードレース選手権」に出場する。バイク歴10年を超え、大人に混じって実力を蓄えてきた2人。あこがれの舞台で活躍を誓う。
Mar 16, 2017
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足が棒ですが、歩けるところまで。。。S字のほうに。。。。3月5日15:28 · ここは、みんなすごいレンズつけてるなあ。。私は、もう。しまっちゃいました。。。S字トンネル初めて通りましたで、パドック裏に。。。フェラーリたくさんいますねパドック裏からトンネル抜けて、またB級グルメゾーンに。。。帰る前に、また食べとくかと。。。3月5日15:54 · 三重県三重県 鈴鹿市 · 津ぎょうざに、あおさコロッケ両方冷めてる。。。残念。。。
Mar 5, 2017
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ARTAオールスター ~トップドライバーへの登竜門~PreviousARTAオールスター ~トップドライバーへの登竜門~ARTAオールスター ~トップドライバーへの登竜門~ARTAオールスター ~トップドライバーへの登竜門~ARTAオールスター ~トップドライバーへの登竜門~ARTAオールスター ~トップドライバーへの登竜門~夢のタイムハンデレースを開催!20周年を迎えたARTAを代表する歴代ドライバーがメーカーの枠を超えて集結!これまでのARTAの歴史を振り返るとともに、現役の3選手によるタイムハンデレースを開催!日時3月5日(日)14:00~14:25場所 国際レーシングコース フルコースマシン ARTA NSX-GT(2017)ARTA CR-Z GT(2015)ARTA BMW M6 GT3(2017)出演者3月5日(日)鈴木亜久里、伊沢拓也、塚越広大、山本尚貴、高木真一、野尻智紀、小林崇志
Mar 5, 2017
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パドック裏、うろうろしてると、伊藤真一選手が!!!写真撮らせていただきました!!そして、パドック裏を、いろいろ回って。。。再び、トンネルから、スタンドのほうに。。。もう、足が動きませんが。。。。せっかくなので、いつもの第一、第二コーナーに、向います。。。3月5日14:01 · 三重県三重県 鈴鹿市 · やっと、第2コーナー
Mar 5, 2017
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まだまだ、歩きます。。。パドック上のほうまで来ましたSUPER FORMULAのデモレースです
Mar 5, 2017
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泣いたら元気出てきた。。。。と、なんとか頑張って一周しようと。。。しかし、スプーンの先、そのまま行ったら封鎖されてて。。。一度、戻って、またトンネルとか通って。。。西ストレートの先に出れるかな。。。と思っていったら。。。来るときに、これから先は飲食店はありませんって看板はあったけど、通り抜けできませんとか、封鎖していますなんてのは、まったく無かったんです。。。で、トンネル抜けて、西ストレートの裏くらいに出て。。。これで抜けれるかな??と思って、その先は、さっきカートやってたところ。。。そこを抜けてる人がいたので、すこしレースみながら、通り抜けて。。。カートの出口のほう降りていくと。。。上のサーキットへ行く入り口は、何個もあるんですが。。。全部閉鎖されてて。。。最後、入場チケット買うようなところの方に聞くと。。。こっちからは、入れませんって、聞いてます。。。何人か来られてますが、封鎖されてるってだけ聞いてます。。。と。。。さすが、ファン感謝デーですね。。。と思ったり。。ここまで、歩いてきて、、、戻れと。。。それか、一度出て、メインゲートから、もう一度、チケット見せて入るしかないですね。。。とそれか、南ゲートですかね?と聞くと、メインゲートが近いんではないですかね。。。それか、駐車場まで行って、シャトルバスがあると。。。いや、それ、もっと遠いし。。。もう、しょうがないので、ブチキレながら、もう帰るかな。。。と思いながら、さっき通ったシケイン裏のほう通って、ひたすら外側の一般道を歩きます。。。もう、くらくらです。。。へとへとです。。。暑いです。。。かなりの日差しの上に、ウインター用のイエローコーンのジャケット着てます。。。。重たいズームレンズも。。。3月5日12:13 · 三重県三重県 鈴鹿市 · 紳助監督より、えらいことに。。。なぜか、南ゲートから再入場。。。もう、死にそうです。。。3月5日12:23 · 三重県三重県 鈴鹿市 · もう歩けません。。。
Mar 5, 2017
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3月5日10:14 · 三重県三重県 鈴鹿市 · ここまでは、車が来てくれません。。。鈴鹿サーキット国際レーシングコース3月5日10:42 · 三重県三重県 鈴鹿市 · スプーンまで来てしまいました。。。モリワキ見れなかった。。。
Mar 5, 2017
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3月5日10:02 · 三重県三重県 鈴鹿市 · 立体交差に来たのは。いつぶりだろう。。。ZOOMで、色々撮影してみました。。。。南コースは、カートやってますね。。。
Mar 5, 2017
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久々に来ました大ちゃん、みんなを守ってあげてください
Mar 5, 2017
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ズーム使って撮影してみましたが。。。難しい。。。。このくらいのところから。。。これで一番縮めた状態。。。
Mar 5, 2017
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3月5日9:10 · 三重県三重県 鈴鹿市 · 今日はカシオトライアングルで見ようかな~食べ物も結構あるし上に指定席もできてたのですね。というわけで朝メシは、焼き肉ランチ朝なので、特盛はやめときましたさらに、おつまみセット1100円全日本フォーミュラーのテスト走行始まってますね。。。
Mar 5, 2017
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ミカとアレジ親子、なかなか面白かったです3月4日 16:17 · タバコ忘れたので、松阪牛コロッケ300円。。。うーん高いなあ。。。3月4日 16:22 · 三重県三重県 鈴鹿市 · 結局タバコを買った。。。鈴鹿の金銭感覚だとタバコが安く感じる。。。しかし、喫煙部屋の煙がすごい。。。これは、入ってるだけで良かったのではないか。。。3月4日 16:43 · 三重県三重県 鈴鹿市 · 寒くなってきたので、ぼちぼち帰りますかね。、。さて、鈴鹿駅のほうでLIVEでもやるかなあ。。。
Mar 4, 2017
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3月4日 15:25 · 三重県三重県 鈴鹿市 · 北野さんと、国光さん、星野さんがHONDAロードバイクにに!!!最終コーナーに移動しました。これが見たかった!!
Mar 4, 2017
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前に、1は買ってたんですが、その後、気がつきませんで。。。クリスマスプレゼントにすっごい懐かしい面々!!若い!!!懐かしの! 80年代のストリートバイク 国内外レース満載! ~BIKERS VISUAL EXPRESS 80'sセレクション~ [DVD]形式: DVD価格: ¥ 2,160 通常配送無料 内容紹介日本のバイクブーム真っ只中の80年代! 当時コンビニエンスストアで発売され人気を誇っていた、バイク・ビデオ・マガジン《BIKERS VISUAL EXPRESS》。ストリートバイクやレース、バイクイベントなどを多角的に取材したその懐かしい映像を、良いとこ取り90分でお届け! コンテンツ ・伝説のバイクチューナー、“ポップ"こと吉村秀雄と、現ヨシムラジャパンの吉村不二雄社長の貴重な親子2ショットインタビュー。 ・今でも人気の高いHONDA RC30を開発者のインタビューを踏まえ鈴鹿サーキットでインプレッション。 ・1987年 第27回東京モーターショーの懐かしの模様! ・当時話題となったあの"瞬間接着剤テレビCM"の舞台裏と、そのパフォーマンスをした工藤靖幸の華麗なウイリーテクニック。(その後、工藤選手はウイリーのギネス記録を樹立) ・全日本選手権ロードレースとトライアルのレースハイライト。まさに雑誌RACERSに登場するライダーやマシンのオンパレードと言える。 ・アメリカ デイトナ特集では、数多くのイベントを紹介すると共に、二輪界のレジェンドライダー、ケビン・シュワンツが初めてデイトナ200マイルで優勝した貴重な映像を収録!内容(「Oricon」データベースより)日本のバイクブーム真っ只中の80年代、当時コンビニエンスストアで発売され人気を誇っていた、バイク・ビデオ・マガジン《BIKERS VISUAL EXPRESS》。ストリートバイクやレース、バイクイベントなどを多角的に取材したその懐かしい映像を収録。 バイカーズ80'sセレクション Part2 80年代国内外レース満載! [DVD]形式: DVD価格: ¥ 2,160 通常配送無料内容紹介日本のバイクブーム真っ只中の80年代復刻映像! 第2弾はレース映像目白押し! 当時コンビニエンスストアで発売され人気を誇っていた、バイク・ビデオ・マガジン《BIKERS VISUAL EXPRESS》。ストリートバイクやレース、バイクイベントなどを多角的に取材したその懐かしい映像を、良いとこ取りでお届け! 廉価版ビデオマガジンの先駆者《バイカーズ・ビジュアル・エクスプレス》80'sコレクション第二弾は様々なカテゴリーのレースを中心にお届けする。 ・世界グランプリの舞台で闘う清水雅広と、W.レイニーとK.マギーを擁する新生ラッキーストライク・ロバーツをクローズアップ。 ・88年に創設されたスーパーバイク世界選手権。日本ではSUGOサーキット初開催となり第2ヒートではヤマハを駆るミック・ドゥーハンが勝利を収めた。 ・全日本ロードレースでは250ccクラスでチャンピオンに王手をかけた本間利彦と藤原儀彦の走り、更にはこの年HRC契約でシンデレラデビューの伊藤真一の初優勝も収録。 ・87年開催のマン島TTのレース各種を紹介。 ・88スーパー・スプリントは、TT-F1、250ccそして500ccでは海外招聘ライダー達の活躍が素晴らしく、K.シュワンツとW.ガードナーの対決は永久保存版だ。 ・今も根強い人気を誇る2ストロークバイク。その中でも人気のHONDA NSR250R、SUZUKI RGV250Γ、そしてYAMAHA TZR250の三台のサーキットでの走りで構成されるビデオカタログ。内容(「Oricon」データベースより)バイク・ビデオ・マガジン《BIKERS VISUAL EXPRESS》。ストリートバイクやレース、バイクイベントなどを多角的に取材したその懐かしい映像を、良いとこ取りでお届けする作品。 バイカーズ80'sセレクション Part3 懐かしの80年代ストリートバイク/レース特集! [DVD]形式: DVD価格: ¥ 2,160 通常配送無料内容紹介バイクブーム真っ只中の80年代復刻映像 第3弾はロードレース特集! 廉価版ビデオマガジン《BIKERS VISUAL EXPRESS》80'sコレクション第三弾は89年の国内ロードレースが中心となっている。全日本250では本間利彦が2連覇に向け好発進もケガを負い…。500では藤原儀彦が先輩平忠彦の記録に並ぶ。TT-F1はダグ・ポーレンがF3とのダブルタイトルを獲得した。 TT-F1、スーパーバイクの世界選手権も熱いバトルが繰り広げられ、TBCビッグロードレースではウェイン・レイニーとケビン・マギーが、GPライダーの強さを見せつけた。 ・89年全日本選手権250cc/TT-F1/500ccシーズンダイジェスト/250ccクラスでは圧倒的 な速さを見せる本間利彦に、台頭してきた岡田忠之とルーキー原田哲也が挑む。500cc クラスではV3を目論む藤原儀彦を目論む八代俊二、伊藤真一、宮城光のホンダ勢が拮抗。 TT-F1ではヨシムラからF3のダブルエントリーを果たしたダグ・ポーレンが大暴れ。 ・89年TTフォーミュラ世界選手権菅生/3回目を迎えた退会ではM.ドーソンが ヨシムラのD.ポーレンをはじめとした全日本勢を押さえて初優勝を果たした。 ・89年鈴鹿8耐ダイジェスト/多くのアクシデントに見舞われながらも、異様なハイペー スで繰り広げられた8耐。優勝候補の相次ぐ脱落により、D.サロン/A.ビエラ組が優勝。 ・89年スーパーバイク世界選手権菅生ヒート1はヨシムラのD.ポーレンヒート2は M.ドーソンがそれぞれ優勝を果たした。 ・89年TBCビッグロードレース/この年W.G.P.に参戦していたW.レイニーとK.マギー、 平といった面々が参戦。250ccではJ.コシンスキーやJ.フィリス等の実力者もエントリー。 ・スズキGSX-R750の竜洋における走行を綴ったビデオカタログとしてのコーナーも収録。内容(「Oricon」データベースより)バイク・ビデオ・マガジン《BIKERS VISUAL EXPRESS》。ストリートバイクやレース、バイクイベントなどを多角的に取材したその懐かしい映像を、良いとこ取りでお届けする作品。
Dec 25, 2016
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もう5年ですねまだ、24歳、これからでした。。。ついてないとしかいいようがない事故でした。。。今年も、10月24-25日 マレーシアGP事故もなく、シモンチェリの分まで、すばらしいレースを見せてくれることを祈ります。【MotoGPマレーシアGP】シモンチェリが事故死23日、マレーシアのセパンで開催されたロードレース世界選手権マレーシアGP、MotoGPクラス決勝レースで、マルコ・シモンチェリ(ホンダ)が事故死した。24歳。2列目5番手スタートのシモンチェリは4番手走行中の2ラップ目、11コーナーで転倒、後続車と接触、頭、首、胸を強打した。医療班が事故現場に到着した時はすでに意識不明で、ただちにサーキット医療センターへ搬送された。移動の救急車中から心肺蘇生がほどこされたが、手当のかいなく、約45分後の16時56分に死亡が宣告された。レースは事故直後に赤旗中断、キャンセルされた。MotoGP、マルコ・シモンチェリの事故死の状況を説明2011年10月24日MotoGPのレースディレクションは23日、セパン・インターナショナル・サーキットのプレスカンファレンスルームで、第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死したマルコ・シモンチェリの状況に関して共同会見を行った。レースディレクションの代表であるポール・バトラーは、「この記者会見の目的は、マルコ・シモンチェリの悲劇的な死亡の状況を検証することです」と説明を始めた。 「皆様がご存知のように、我々レースディレクションのメンバー全員がここに出席します。FIM国際モーターサイクリズム連盟の代表であるクロード・ダニス、ドルナスポーツの代表であるハビエル・アロンソ、ライダーの代表であるフランコ・ウンチーニ、そして私はIRTA国際レーシングチーム連盟の代表兼レースディレクションの代表です。ミケーレ・マッキアゴデーナは我々のメディカルディレクターであり、彼が死亡に関して状況を説明します。」マッキアゴデーナは、「友人であるマルコ・シモンチェリの死亡に関して報告するために、ここにいることは大変悲しいです。他のライダーたちに激突したレース中の転倒でした。彼は頭部と首、胸部に深刻な外傷を負いました。」「我々のメディカルスタッフが彼のところに駆けつけたとき、彼は意識不明でした。心停止だったことから、救急車で、CPR(心肺蘇生)を始めました。」「緊急に、メディカルセンターでクリニカモービルのスタッフと地元医師の助けを借り、挿管を施行し、胸部から少量の血液を吸引することが可能でした。」「我々は彼を助けるために治療を尽くし、可能だと考えて、CPRを45分間継続しました。不運にも彼を助けることができず、現地時間の16時56分に死亡を宣言しなければいけませんでした」と、状況を説明した。バトラーは、ヘルメットが外れたことに関する質問に対して、「他の機会に答えることができると思います。事故の状況や結果を徹底的に調査します」と、事故検証を実施することを説明。コーリン・エドワーズの負傷状態に関して、マッキアゴデーナは「肩を脱臼しました。麻酔を受け、正しい位置に戻りました。彼は大丈夫です」と説明。「我々は彼の家族に同情します。可能な限り、あらゆる点を示したい」と、バトラーは付け加え、会見を締め括った。マルコ・シモンチェリ 経歴1996年から2000年にかけて地元イタリアのミニバイク選手権で活躍し、2年連続のチャンピオンに輝く。01年にイタリア選手権125ccクラスのホンダ・トロフィーに参戦。翌02年には、欧州選手権の125ccタイトルを獲得するとともに、ロードレース世界選手権(WGP)にも出場。03年からWGPにフル参戦を開始し、05年には125ccで総合5位と躍進すると、翌年から250ccにステップアップを果たした。08年には250ccのタイトルを獲得し、09年は、最終戦までライバル青山博一選手とタイトル争いを繰り広げ、総合3位となった。2010年に最高峰のMotoGPにステップアップ。参戦2年目の2011年、第17戦マレーシアGP決勝レースにおけるアクシデントで負傷し、サーキットのメディカルセンターで救命処置が行われたが同日逝去。享年24歳。故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに 故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに2011年10月にレースアクシデントにより事故死した故シモンチェリが、アゴスチーニ、ニエト、ドゥーハン、ヘイルウッド、リード、マング、ローソン、レイニー、ロバーツ、スペンサー、シーン、加藤、ストーナーらに続き、21人目のレジェンドライダーとして殿堂入りすることが決まった。ドルナスポーツは3日、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故マルコ・シモンチェリをレジェンドライダーとして殿堂入りすることを発表した。2008年10月19日に同地で開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで3番グリッドから3位に入り、250ccクラスのチャンピオンに輝き、2010年から最高峰クラスへの挑戦を開始。事故の1週間前には自己最高位となる2位を獲得していた。レジェンドライダー就任のセレモニーは、ムジェロ・サーキットで開催される第6戦イタリアGPで実施される。レジェンドライダーリストジャコモ・アゴスチーニアンヘル・ニエトマイク・ヘイルウッドミック・ドゥーハンフィル・リードジム・レッドマンアントン・マングカルロ・ウビアリジョン・サーティースジェフ・デュークエディ・ローソンフレディ・スペンサーケビン・シュワンツウェイン・レイニーケニー・ロバーツバーリー・シーンワイン・ガードナーヤーノ・サーリネン加藤大治郎ケーシー・ストーナーTags:MotoGP, 2014故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー 故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー Marco Simoncelli - MotoGP™ Legend Marco Simoncelli MotoGP Legend元250ccクラス王者で、2011年10月の第17戦マレーシアGPで事故死した故シモンチェリがレジェンドライダーに就任した殿堂入りのセレモニーが、第6戦イタリアGP開催中のムジェロで行われ、ドルナスポーツの代表から父親パオロに記念のメダルが贈呈された。ドルナスポーツは30日、第6戦イタリアGPの開催地、ムジェロ・サーキットのプレスカンファレンスルームで、故マルコ・シモンチェリがレジェンドライダーとして殿堂入りするセレモニーを実施した。2月3日、2008年に250ccクラスのチャンピオンに輝き、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故シモンチェリの殿堂入りを発表。当社CEO最高経営責任者のカルメロ・エスペレータが父親パオロにレジェンドライダーのメダルを贈呈した。レジェンドライダーリストジャコモ・アゴスチーニアンヘル・ニエトマイク・ヘイルウッドミック・ドゥーハンフィル・リードジム・レッドマンアントン・マングカルロ・ウビアリジョン・サーティースジェフ・デュークエディ・ローソンフレディ・スペンサーケビン・シュワンツウェイン・レイニーケニー・ロバーツバーリー・シーンワイン・ガードナーヤーノ・サーリネン加藤大治郎ケーシー・ストーナー
Oct 23, 2016
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この記事、何度読んでも、泣いてしまう。ドキュメント番組で見たい。。。チームシンスケに、POPが、千石さんを走らせようってチームでしょ、どんな馬の骨か分からないようなチームではないですよ。惜しくないですよ。って言ったシーンとか、POPがアメリカでボロボロになったときに、森脇さんが受け皿を用意してくれてたシーンとかチームシンスケラストランの伝説とか、津田一馬選手が復活したチームシンスケのピットで、きっかけは、チームシンスケだったとか、ラストランがきっかけでメカになったとかそれらの、いつみても泣いちゃうシーンと同じくらい、すごい話ピンチになったときに、ウルトラ兄弟や歴代仮面ライダーが助けに来てくれるような。。。カペタで、まわりを引き込んで、勝つたびに、周りが泣いて感動してるような感じ。。。ほんと、泣いちゃいます。各会社の社長の写真、言葉も泣けるし、それらのステッカーがTeam Kagayamaのバイクに貼ってあるのも泣けてしまいます。自分も、なにかしたいけど、応援するくらいしかできないし。。。ほんと、すばらしい。感動をありがとうございます!!!毎年やって、今度こそ、結果を出して欲しい。オールジャパンで世界へ挑む! 加賀山就臣が発案した常識外れのチーム「JAPAN-GP2」2016/10/20オールジャパンで世界へ挑む!常識を覆した全く新しい枠組み「JAPAN-GP2」2016年MotoGP日本グランプリ、レースの常識では考えられないマシンがもてぎのピットに佇んでいた。カウルにライバルチームのステッカーがズラリ。リアフェンダーには「Arai」「SHOEI」のステッカーが貼られている。チーム名は「JAPAN-GP2」。Moto2クラスにワイルドカード参戦するチームだ。ライダーは浦本修充。今年「Team KAGAYAMA」から参戦、開幕4連勝を飾る大活躍で現在(第8戦終了時点)ランキングトップをゆく弱冠22歳の若者である。この「JAPAN-GP2」というチーム、母体は「Team KAGAYAMA」、そう、加賀山就臣が率いるチームである。鈴鹿8耐にどデカイ打ち上げ花火を上げて成功させた加賀山就臣と言えば、2013年鈴鹿8耐にレジェンドライダー:ケビン・シュワンツを自らのチームで走らせ、初参戦にして3位表彰台を獲得。翌2014年は現役Moto2ライダーのドミニク・エガーターを起用して3位表彰台。この時の活躍がMotoGP界でも注目され、世界で鈴鹿8耐に熱い視線が注がれ始め、ここ数年の鈴鹿8耐観客動員数は確実に伸びている。さらに加賀山は2013年、当時ヤマハに在籍していた芳賀紀行を招聘、常識では考えられないことをやってのけた。2015年はBMWに在籍していた清成龍一を自らのチームに招聘した。加賀山は日本の二輪レース界に様々な風穴を開けてきた。メーカー、チームの垣根を越えて日本を代表するひとつのチームで参戦するという今回の全く新しい枠組み、しかし加賀山にとっては当たり前の事であり、その伏線は以前から敷かれていたのかもしれない。6月に入って「あっ!」とワイルドカード参戦の可能性に気づく浦本は今年古巣のホンダからスズキ系のTeam KAGAYAMAに電撃移籍して驚かせた。開幕から連勝を続けて周囲はさらに驚く。「ナオ(浦本)が来た時点である程度勝てるだろうとは思っていた。チャンピオンを獲るつもりで参戦しているから、冷静に考えればワイルドカード参戦の可能性があることはわかるはずだけど、シーズン当初は全くそんなこと考えもしなかった」と加賀山。6月に入り周囲から「ワイルドカード、出てくださいね!」と言われて「あっ!」と気づいたという。浦本はSUGOでも優勝、4連勝を飾りその時点でランキングトップ。ワイルドカード参戦の権利を得た。加賀山は「ナオ、Moto2、出たいか?」と確認した。「ハイ!もちろん出たいです!だけどスズキへ移籍した時点で参戦は難しいと思っていました」と浦本。何故か?。。。ハードルが高いMoto2参戦Moto2はイコールコンディションで争われるレースで、レースウィークに主催者(DORNA)からエンジンが支給される。そのエンジンはホンダのワンメイク供給。フレームも日本では入手しにくいメーカーなのでホンダ系以外のチームがワイルドカード参戦するのはハードルが高い。もちろん参戦するにはコストもかかるのでさらに厳しさが増す。だから手に入れた権利を放棄するライダーも多い。しかし加賀山はせっかく浦本が頑張って得た権利をなんとかして参戦させたいと考えた。今の全日本が世界でどのレベルにいるのか、そのモノサシが必要そこで加賀山が考えた方法はとんでもないモノだった。ライバルチームに協力を相談しに行ったのだ!常識では考えられないこの行動。「ナオが今、全日本のトップの位置にいる。そのナオが世界でどこまで行けるのか、どの位置にいるのか、そのモノサシが必要だと思う」「J-GP2のチームが一丸となり日本代表としてオールジャパンのチームとして参戦したい」そう言って加賀山は各チームを回って相談した。すると、「面白いじゃん!年に一度くらいみんなが応援するチームがあっても良いかもね」と多くのチーム、企業から賛同を得られたのである。加賀山はその足でMFJ(日本モーターサイクルスポーツ協会)へ赴き大島会長にも相談、賛同を得た。カレックスのフレームとモリワキのエンジンを貸与されたしかし、難関はまだ立ちはだかる。マシンをどうやって手配するのか?加賀山は総合デジタルショップ「テルル」を傘下企業に持つ株式会社ピーアップの中込正典社長のもとを訪れた。中込社長は加賀山の申し出を快く受け入れ、Moto2マシンのフレーム「カレックス」を貸与した。「中込社長からフレームを借りられることになって「ヨシ、これでいける!」と確信したそうである。次はエンジンだ。レースウィークまでエンジンは支給されない。そこでMoto2参戦経験のある「モリワキレーシング」の森脇緑さんが事前テスト用にエンジンの貸与をしてくれた。エンジンだけではない、エレクトロニクスや電装機器などMoto2独自のパーツやノウハウの提供も受けた。加賀山は「自分ひとりでこの参戦はできなかった。みなさんの協力があって初めて世界の舞台に立てた」と感謝の念に堪えない。 ここで、今回のプロジェクトに賛同したチームにその理由を聞いてみた。(掲載は順不同、マシンカウルのステッカーを参考にしました)「日本のレース界を変えるキッカケになると思った」株式会社ピーアップ:中込正典社長「加賀山さんからの車体を貸していただきたい、との申し出に対して二つ返事でOKを出しました。浦本選手の今年の活躍をみて「こう言う若いライダーが世界に出て行ける日本のレース界」でなくてはいけない、と思いました。レースに熱い思い入れがあるからこそ、そしてご自身で(レースに参戦して)動いているからこそ、日本のレース界を盛り上げる活動ができるのだと思います。日本人が世界チャンピオンを獲る、そんな時代になって欲しいです。」実は中込社長、万が一の時のためにもう一台スペアのマシンをもてぎの自社ガレージにスタンバイさせておき「何かあれば全部使って下さい」と加賀山に申し出たそうである。 「しがらみや思惑などの障害、言いづらいことが多くあるのにキチンとスジを通して話してくれた、なかなか出来る事ではない」MuSASHi RT HARC-PRO.:本田重樹代表「ユキオ(加賀山)から「日本のJ-GP2が世界でどの位置にいるのかを測りたい」と聞いて快く協力したいと思いました。ナオの世界に出たい、という気持ちはウチ(ハルクプロ)にいたときから知っていました。しかし、それをかなえてあげられなかった。ナオが世界でどのくらいの位置にいるのか、ライダーとしてのポテンシャルを確認したい、ユキオがその夢を叶えようとしているならぜひとも協力したいと思いました。メーカーやチームの垣根を越えてできたこの枠組みをキチンと周りの人たちが理解して賛同した、ということがみんなの連携を深めると言う意味で非常に大きな意義を持つと思います。」 「日本代表として頑張って参戦しようとしているチームがあるなら、それがどこのチームだろうと協力するのが当たり前」株式会社モリワキエンジニアリング:森脇緑専務「シンプルに素晴らしいプロジェクトだと思いました。世界選手権は「日本対外国」の構図。「日本」として考えた時に、全日本ではライバルとして闘っているけど「日本」を代表して頑張って参戦しようとしているなら、ライバルだから、とか、メーカーが違うとか、そんな細かい事など考えず応援するのが当たり前。加賀山さんが私たちに出来ない事をやろうとしているのだから日本人の魂として協力する、それだけです。今回の加賀山さんのプロジェクトは社長の森脇をはじめ社員も賛同、全社を挙げて応援することにしました」モリワキは前述の通り、エンジンの貸与をはじめMoto2に関するノウハウ、技術を提供してサポートした。「今回の貴重な参戦経験やデータを全日本の全チームで共有できるように公開を」Team-NOBBY:上田昇代表「8月の全日本ロードレース2&4の時にユキオ(加賀山)から相談を受けました。J-GP2は特にレギュレーションの部分でMoto2と大きくかけ離れているのでワイルドカード参戦のハードルが非常に高い。スズキのバイクでワイルドカード参戦の権利を得たけど、そこから参戦するまでにどんなに大変か、自分もヨーロッパでMoto2を走らせているのでその苦労は容易に想像できました。「日本のJ-GP2を何とか世界に通用するものにしたい」というユキオの考えに賛同できたので、協力できることがあれば応援したい、と思いました。そして、この貴重な参戦経験を、データを全日本の各チームが共有できるように情報公開をして欲しいです。」「日本のレース界に新しい道を切り開いてもらえると確信した」ミクニ テリー&カリー:高橋淳一郎氏「以前から日本からその上の世界へ通じる道を作りたい、と思っていました。会社(株式会社ミクニ)の性格上、ひとつのメーカー、ひとつのチームに肩入れできない自分達にとって加賀山さんの考えたこのプロジェクトのコンセプトはすごく新しいし、新しい道を切り開けると確信したので賛同しました。私たちは20年全日本ロードレースの世界で若いライダー達に環境をつくることをやってきました。このプロジェクトが世界に通じる箱になることを期待しています。」 「日本人が世界で活躍することができるんだ、という確固たる信念を応援したい」株式会社ワースワイル:岡本章弘 代表取締役社長「ユキオ(加賀山)からこの話を聞いたとき「このオトコはスズキだけでなく世界を見ているんだ」と改めて感心しました。加藤大治朗選手や阿部典史選手(ノリック)のように日本から世界へ羽ばたくライダーを出したい、と言うユキオの言葉に諸手を挙げて賛成しました。日本人が世界で活躍できるんだ、という確固たる信念、そこに若いライダーを送り込みたいという気構え・意気込みに感銘を受けますし、これからも応援を続けます。」「若いライダーを世界に送り込む、世界に通じるライダーを育てる、同じ志を感じました」株式会社リバークレイン:信濃孝喜 代表取締役社長「世界に通じるライダーを育てる、若いライダーを世界に送り込む、ということが私たちがやっているTeam NORICKと相通じるところがあったこと、そして、参戦するライダーが若い浦本修充選手であったこと、この2つが協賛を決めた理由です。これがベテランライダーだったら協賛はしなかったと思います。そして、メーカーやチームの垣根を越えたこの取り組みは素晴らしい!と共感できたからです。自分もTeam NORICKでMoto2ワイルドカード参戦するときはものすごく大変でした。メーカー縛りのない「日本という枠組み」の中でみんなでやりましょう、とう考え方は素晴らしいと思いますし、参加もしやすいと思います。そんな発想をして、実行に移す加賀山就臣という人間に惹かれました」厳しい現実を見せつけられた日本グランプリオールジャパンで臨んだ日本グランプリ。厳しい現実を突きつけられた。浦本のリザルトは予選29位。決勝21位。だが、それが現実。浦本は「ウィークを通じて不甲斐ない結果しか残せずサポートしていただいた方々やチームに申し訳ない気持ちでいっぱいです。世界とのレベルの差は歴然としていて、その中で全力は尽くしましたがあれが今の自分の実力。もっとやれることがあったのではないかと悔しい気持ちです」と自分を責めていた。しかし、「浦本が遅かった」だけで終わらせてはいけない。この現実、この結果を今後どうやって活かすか。今回のプロジェクトの意義はそこにあるはずだから。いつか今回の参戦の意義があったと言われるようにしたいMoto2プロジェクトの監督を務めた武田雄一は「厳しい展開になるとは思っていたが、自分達の想像以上に世界のレベルは高かった。そのレベル差を痛感した。ひとつでも前へ、と思ってウィークを通じてマシンをセットアップしたが思うようにまとまらず修充(浦本)に申し訳ない気持ち。だが、「GPライダーはやっぱり速かった」だけでは意味が無い。今回の結果を共有して全日本全体が底上げできるような枠組みの活動を続けることで、いつか今回の参戦の意義があったと言われるようにしたい」と今回の参戦を振り返る。世界で学んだ走りを全日本で見せることが恩返し「走るレベルも、マシンへの取り組み方も、ウィークのまとめ方も全てが自分達とは違うレベルにいる。彼らと一緒に走って学べた点が大きかった。世界で学んだ走りを全日本で見せること。自分がもっと速いライダーになること。それが今回の参戦を応援して下さった方々への恩返しだと思っています」と浦本。世界への挑戦で得たものを最終戦鈴鹿で、来シーズンの走りで、見られることを期待したい。加賀山就臣だから実現できたプロジェクト最後に加賀山に今回の参戦についてレース後に話を聞いた。「まずは賛同いただいた皆さまに御礼を申し上げます。今回の参戦はサポートしていただいた方々がいたからこそ実現できました。みなさまのおかげです」「リザルトには満足していない。チームとしてMoto2参戦が初めてで、マシンのセットアップを熟知しておらずライダーに負担をかけてしまった。全力で頑張ったけど、これが現状のチーム/ライダーの力量。世界で上位に食い込むレベルではなかった。厳しい現実ではあるがしっかりと受け止め、みんなに伝えて行きたい。」「数年後には日本人がMoto2に出ても上位を走れるような環境づくりをしていきたい。来年、JAPAN-GP2という枠組みの中でウチ(Team KAGAYAMA)のチームが走れるかどうかわからないけど、この枠組みで走る若いライダーに今回の経験を伝えて手伝いたいと思う。今回、この先日本から世界に通用するライダーを輩出できるような環境を業界全体で造り上げていくキッカケになれたのではないかと思う。」と加賀山。誰もが考えなかったオールジャパンという枠組みの参戦チームを発想し、実行、実現させた加賀山就臣というオトコ。今回話を聞いていると「ゆっきーだから造ることができたプロジェクト」というコメントが多かった。ライダーとしてのピークは過ぎているかもしれないけどそれでも自らにムチ打って走る、その姿を若いライダーに魅せる、そして常に日本のレース界を変えたい、盛り上げたい、と努力を惜しまない。そのひたむきな姿が人々に感銘を与え、応援しよう、と思わせるのだろう。いみじくも本日(10/20)全日本ロードレース最終戦にTeam KAGAYAMAから清成龍一がスポット参戦する、と言うリリースが発信された。日本から世界への道筋を作ったかと思えば、今度は世界の走りを日本で魅せる。加賀山は常に日本のレース界のことを考えているのだと思う。最終戦鈴鹿、世界を経験した浦本の走りと、清成、加賀山による競演を観るのが楽しみである。photo & text : komaspecial thanks : Toshiya Onishi(Moto2走行写真)
Oct 20, 2016
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ちょうど、淡路で浜福さんと、コミーさんとガードナーの話をしてたんですけどね奥さんが日本人で、九州まで、ツーリングしてて、その途中にFZ750のスクリーンにサインもらったとか。。。暴力で逮捕ってのが悲しいニュースでしたが、そのときから、話は出てましたがやはり息子さん、無免でしたか。。。これから、どうなるのだろう。。。親父さんのほうは、示談不起訴って感じだと思うけど、息子さんは。。。ライセンスとかどうなるのかな。。。オートバイ元世界王者ガードナーの息子、無免許の運転疑いで逮捕 栃木県警茂木署は18日までに、道交法違反(無免許運転)の疑いで、オーストラリアのオートバイ元世界王者ワイン・ガードナー容疑者(57)=暴行容疑で逮捕=の息子で、オートバイレーサーの少年(18)を逮捕した。 逮捕容疑は16日午前8時ごろ、同県茂木町檜山の「ツインリンクもてぎ」敷地内の道路を無免許で乗用車を運転した疑い。茂木署によると、少年は同所で他の乗用車と接触事故を起こし、必要な国際免許などを持っていなかった疑いが判明、17日午前に逮捕された。 同乗していたガードナー容疑者が、事故の相手とトラブルになり暴行を加えたとして現行犯逮捕されたが、「腕をつかまれたので振りほどこうとしただけ」と容疑を否認している。 少年は事故後、「ツインリンクもてぎ」で16日に行われたオートバイの世界選手権シリーズ第15戦「日本グランプリ」のレースに出場し、完走していた。元ロードレース世界チャンピオンのガードナーを暴行容疑で逮捕 交通トラブルから相手の男性3人の胸ぐらをつかむなどしたとして、栃木県警茂木署は16日、暴行の現行犯で、オートバイロードレースの元世界チャンピオン、オーストラリア国籍のワイン・マイケル・ガードナー容疑者(57)を逮捕した。 調べによると、ガードナー容疑者は16日午前8時ごろ、栃木県茂木町桧山のツインリンクもてぎの敷地内の道路で乗用車を運転中、東京都江戸川区の男性(49)ら3人の乗る乗用車と出合い頭に接触。トラブルになり、男性3人の胸ぐらをつかむなど暴行を加えた疑いが持たれている。 同署によると、ガードナー容疑者は「相手が腕をつかんできたので、振りほどこうとしただけだ」と容疑を否認している。 ガードナー容疑者は息子がツインリンクで開催されたバイクレースに出場するため、応援に来ていたという。
Oct 18, 2016
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今日は10時半頃まで仕事。。。帰って来たのは11時半過ぎ疲れきって、郵便受けをみると、なにやら封筒が。。。あれ、何か入ってる。。。何か届く予定はないんだけどなあ。。。暗い中、よく見てみると。。。。高杉 奈緒子サポートクラブ!!!!もしかして、キーホルダー??あけてみると、ステッカーも3種類6枚も入ってる!!!むちゃくちゃかわいいですね。。。こちらは、何も手助けできてませんが、逆に悪いくらいで。。。本当に、ありがとうございました!来年は、皆さんも一緒に応援しましょう!高杉奈緒子公式ホームページ2016年 高杉奈緒子サポートクラブ会員募集のお知らせ) 2015年シーズンは応援していただいています皆様のお陰で最後まで走りきることが出来ました。本当にありがとうございました。 2016年体制を報告させていただきます。 「全日本ロードレース」ではGP3クラスに年間フル参戦。チームは「41planning」です。昨年は、全日本ロードレースでのマシンの調子がうまくいかず思うように走りきることが出来ませんでしたが、もう一年可能性を信じて挑戦することを決意しました。 そして、昨年に引き続き「アジアロードレース選手権にフル参戦させていただけることになりました。昨年、アジアロード選手権を宇井陽一さんと一緒にやらせていただきました。サスペンションセッティングやコンピューター、乗り方アドバイスなど一生懸命に向き合っていだだきました。そのお陰で最終戦のタイラウンドではウォーミングアップでは2位となり、転倒してしまったものの、上位争いが見えた内容でした。そこで、この可能性を信じて向き合っていきたいと思いました。 2016年の目標は、AP250クラスでアジアロードレース選手権表彰台です。そして全日本ロードレースでも、同じく表彰台を狙っていきます。 なかなか出来ることではない海外レースに参戦したいと思い続けた夢が、今は現実に変わり。さらに上位を目指していきたいと思えるようになりました。この先もずっと挑戦出来るように道をつなげていきたいと思っています。 皆様、今年もどうか高杉奈緒子の新たなる大きな挑戦を応援していただけませんか?温かく見守っていただけたらなと思っています。今年も一生懸命がんばりますので、ぜひとも皆様方のご支援ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。全日本ロードライダー高杉奈緒子 ホンダ・ヤマハ・スズキ・カワサキの4大メーカーがある国・日本。その日本におけるオートバイ・ロードレースの最高峰が「全日本ロードレース選手権」です。 私「高杉奈緒子」は耳が聴こえません。音の無い世界で戦い続けています。でも、そのレースに挑戦し続けています。 2007年に開始した挑戦は、2016年で10年目となります。これはひとえに、皆様方のご支援の賜物だと感じております。 難聴であり女性であるという事実は、そのクラス分けがないレースの世界では大きなハンデとなるかもしれません。でも前を向いて挑戦し続けた結果、ルマン24時間レース参戦と言う所までたどりつきました。そしてアジアロードレース選手権という海外レースへのフル参戦も決定いたしました。 その挑戦はOLである私の給料だけでは足りず、多くの方々に支えられて成り立っています。ヒポポタマス様からNSF250Rの貸与も継続して受けられることになりました。2016年も頑張る高杉奈緒子をよろしくお願いいたします。
Oct 11, 2016
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いまだに、サーキットに、ノリックがいないなんて、信じられません。。。ひょっこり、ピットとかにいるんじゃないかと。。。もう、あれから9年ですか。。。H/K AGESの10周年記念LIVEを終わって、朝方メールを見ると。。。本当に、ショックで、鳥取から京都まで、無事帰れたのが不思議なくらいふらふらしていました。。。自分たちが、心動かされた人々が、応援してきた人々がまだ、志半ばで、もっとやりたいこと、たくさんあったのに大切な家族がいて、その人を待っている人がいて、昨日までは、まったく想像もしていなかった別れ。。悲しみ。。。本当に辛いです。。。自分たちは、そのぶん、生きていくしかないのですが誰からも、愛される人必要とされる人そんな人たちが、早く旅立って。。。私のような人間が、また、もがいているのが。。。やっぱりつらいです。。。2007年10月7日、18時30分頃に神奈川県川崎市川崎区大島1丁目のUターン禁止の片側二車線道路の市道においてオートバイで走行中、Uターンしようとしたトラックと衝突、直ちに川崎市内の病院へ搬送されたが、事故から2時間後に死去したと報道されている。享年33(32歳没)。1998/03/07-08 モータースポーツキックオフデーでのノリック 1998/04/03-05 Marlboro Grand Prix of JAPANでのノリック 阿部典史-流星伝説-より秋ヶ瀬時代やダートトラック時代の動画もありました。。。Mar 8, 2008 Racingオートバイ (4)1994年日本GP、あわや一位というところでのクラッシュ。。。そして1996日本GP、涙の初優勝!!Nov 1, 2007 鈴鹿8耐DVD発売になりました。 (2)ヨシムラの優勝とノリックの元気な姿に、また涙しました8耐最高!!ノリックも叫んでましたよニュース映像見ると、、、涙が止まらない。。。。ノリックが交通事故死、トラックと衝突 死去した阿部典史さん(オートバイレーサー) 7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市の市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。 世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。 現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている。 阿部さんはオートレース選手の父光雄さんの影響で、5歳でバイクレースを始めた。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている。 レース中になびかせる長髪がトレードマークで、気さくな性格から「ノリック」の愛称で親しまれた。WGPでは通算3勝、表彰台17回の実績を残し、岡田忠之、伊藤真一らとともに日本に2輪ブームの再来をもたらした。マイケル・ドゥーハンら世界を代表するライダーと対等に渡り合いながら突然、転倒することもあり、「速くて危険なライダー」とも言われた。 スーパーバイク世界選手権などを転戦後、今季から全日本に復帰。5月のレースでは3位に入り、復活をアピールした矢先の事故だった。「伝説のライダー」阿部典史さんが事故死 川崎2007年10月08日00時07分 7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区、レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。 川崎署の調べでは、現場は片側2車線の直線道路。千野さんがUターンしようとした際に、右後方から近づいた阿部さんのオートバイ(500cc)と衝突した。千野さんは「道を間違えたので戻ろうとした」と話しているという。現場はUターン禁止だった。 ◇ 〈阿部典史さん〉本人の公式ホームページなどによると、阿部さんは東京都出身で、オートレーサーの父・光雄氏の影響で5歳からバイクに乗り始め、中学卒業後の91年、15歳で渡米して技術を磨いた。帰国後の93年に全日本選手権500ccクラスを制覇した。その後、世界選手権に参戦。96年の世界選手権日本グランプリ(GP)で、オートバイレースの最高峰500ccで日本人としては14年ぶり3人目の優勝を飾るなど、計3度のGP優勝を果たし、「ノリック」の愛称で親しまれていた。ファッションリーダーとしても人気があった。
Oct 7, 2016
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