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同行二人四国巡礼の旅は、阿波坂東第1番札所霊山寺から始まる。嶮しい山道を登り、崖を下り、八十八寺の霊場を巡る。難行ゆえか、常に同行二人、お大師様とのふたり旅である。手甲脚絆に菅笠の出で立ち。遍路は、その白い装束の下にどんな思いを秘めているのだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・四国路の春、山や野に三椏が薄黄色の可愛い花をつけ、桜や桃、菜の花が咲き乱れる頃お遍路さんと行き交う。今は、車で回る人も多くなったようだが、それでもやはり、昔ながらに歩いて廻るお遍路さんも多い。信仰と人情の厚い四国の人たちは、彼等を労い、湯茶などの接待をする。春の風物詩そして「遍路」は春の季語でもある。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・お訪ねくださって有難うございます。最近、心無い書込みが多い為、残念ながらコメントをご辞退しております。 raku-sa
2008年04月17日
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旧家に生まれたものの、戦後ものごころついた時には、生家は既に没落し、広大な家屋敷と共に豪奢なお雛さまは姿を消していた。季節が来ると、一幅の軸と可愛い立ち雛を飾り、白酒や雛あられを供える。豪華なものといえば活けられた桃の花ぐらいで、ささやかな雛飾りであった。「段飾り」に憧れながらも、友人の家を行ったり来たりしては、それぞれの「お雛さま」を観賞してひな祭りを楽しんだものである。以来、「お雛さま」には不思議な執着を覚える。夫の実家では、戦災に遭うこともなかった田舎の、だだっ広い座敷に飾られた年代ものや新しいものなど数十体はあろうかと思われる、その大降りのお雛さまに瞠った。飾るのも片付けるのも大変なんよ、と何気なくこぼす兄嫁の言葉にさえ、贅沢な悩みだ、と羨望の思いさえ抱いたものである。私は「立ち雛」に心が動く。幼い頃への郷愁かもしれない。修善寺の帰りに立ち寄ったギャラリーでも、和紙で創られた「みちこ人形」のそれを見つけて求めた。今年はその立ち雛を床の間に飾り、三春の「でこ屋敷」で求めた切れ長の目のお雛さまを自分の書斎に飾った。相変わらず、豪奢な「段飾り」には無縁である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 恐縮ですが、ただいまはコメントをご辞退しています。 書き込みは出来ませんので悪しからずご了承ください。 raku-sa
2008年02月11日
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ヴァンジの大男たち ----人間にある限りない未来 時折雷鳴の轟く激しい雨は、レストランを出る時にはすっかりあがり薄日が差していた。エントランスの壁のタイル絵を横に見て庭園に入る。ふかふかに茂った芝生は雨を吸ってか、生き生きとして真っ直ぐに伸びている。ぬかるむことのない広々としたなだらかな斜面に、ヴァンジの彫刻が点在していた。物干し竿を数十本も突き差したような、そんな中に見上げる程の大男が歩いている。いや、動いているわけではないが、本当に歩いているように見えるのだ。傍に立つと、私は小さな子供ほどになってしまう。普段、人の顔をしげしげと観察することはないが、彫刻となれば別、遠慮することなくじっくり眺める。その表情の豊かさに驚く。ある時期から、人間をテーマにおいたというヴァンジならではだ。その顔の殆どは左側に膨らみを持ち、右側の頬肉は少ない。人間の顔は左右対称ではないから、自分はどっちだったか・・と思わず水に映してみる。骨格は頑丈で日本人とは異なる体躯。勿論、作品としてのデフォルメはあるが、その多くは彼と同じイタリア人がモチーフと思える。ユーモラスな大男があちこちにいて楽しい。塀を攀じ登るかと思えば、ガラスに顔をへばりつけ、横たわり、そして屹立する。そのどれもが、大きな眼球を持ち遥か遠くを見詰めている。ヴァンジは、人間に限りない未来のあることを信じ、願い、祈り、それを伝えているのだろう。館内の作品は、リアルな表現で度肝を抜かれるものもあるが、素材の美しさに目を奪われる。ことに、石そのものの美しさを余すところなく生かしきった、といえよう。中でも、椅子に掛けた女性像は、三種類の、美しい見事な御影石で作られていた。一つは頭部、もう一つは花柄の薄いピンクのワンピースに見立てた胴部、そして脚部と使い分けられている。しかも、見る角度によって、観者は三人に出会える。像の左後ろに立てば初々しいおかっぱ頭の少女に、正面近くからは妊婦に、そして左前からやや右背後に至れば、ロッキングチェアーに掛けて寛いでいるような優しい老女に、である。さすが、ミケランジェロの再来とも評され、イタリアを代表する現代彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジである。いつかまた、ユーモラスな大男達に会って、一緒にのんびり遠くを眺めたいと思う。もしかしたら、彼らは時空を超えてゆっくりと歩いて来るかもしれない。それは私の一大傑作の生まれる時だろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・更新をオサボリするうちに、もう師走!今年もあと1ヶ月。なまけていた間にも、お訪ねくださって有難うございました。お寒くなりました。皆様ご自愛ください。 raku-sa☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
2007年12月01日
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桜木町で下車した私は、長いホームの端から端までを注意深く眺めた。が、どのベンチにもKM先生の姿はなかった。改札の外にはベンチがないから、とホームで時間の調整をして戴くようお願いはしたものの、仕事を終えてすぐ、駆け足で電車に飛び乗った。待ち合わせの時間までまだ30分はあるが、既に、改札の外に違いない。階段を駆け下りると、果たして、改札口から少し離れた人込みに遠来の客人を見つけた。どんな時も、人を待たすことのない方である。黒の上下にアイボリーのジャケットとベージュの帽子、見慣れた黒のショルダーバッグ。それにしても、もう片方の肩に掛けた黒い袋の何と大きいことか。駆け寄った私は、挨拶もそこそこに、近くのコインロッカーを勧めた。人込みを通るには余りにも大きすぎる袋である。祈るような思いもあったが、軽いから、と固辞するあたりも以前と少しも変りなかった。その元気さに舌を巻いてしまう。もう一人の友人の到着を待ってランドマークに向かう。 70年前、此処から毎日渋谷に通っていました。KM先生は國學院大學の出身である。70年前! 歴史上の人物と歩いているような錯覚に陥る。私はまだ生まれていない。エスカレーターで登り、動く歩道を歩く。途中から友人が黒い袋を担いだ。右手に横浜の海と係留した「日本丸」や「みなとみらいの」景観が広がる。港は、なぜか旅情を掻き立てる。あの時から丁度20年、中国も炎暑の毎日であった。北京の革命博物館と上海美術館での記念展に参加した折のことである。北京で皆と別れた後、桂林に飛び、漓江下りで悠久の時の流れを楽しむ。杭州の西湖、満月に逆流するという銭塘江、王羲之の故郷 蘭亭、紹興では魯迅の生家と記念館の三味書屋などなど、上海に向かう列車からは、高知学芸高校生が客死した列車事故現場を眺め黙祷。それぞれの記憶は未だ鮮明に残る。NHKの往年の名アナウンサーN氏、平安かな(古筆)の料紙(伝統工芸)では日本一(ならば世界一)の社長K氏、四国徳島の書道家Y氏、私の門下生I、4人は既に泉下の人となってしまった。京都のかな作家で卓球現役選手KM先生と 高校の先生T氏と私を含め総数14人の、14日間の旅であった。観光だけでなく、折々に歌を詠み、俳句を吟じ、漢詩を朗す。Y先生は、帰国後生徒に聞かせるのだと、ウォークマンに実況放送ならぬ解説と感想まで録音する。お酒を飲んでは喋り、喋っては又飲む。誰かが詩を詠むと、俳句を書いたメモが回り自作のものだけでない。杜甫や李白は言うまでもなく阿部仲麻呂に菅原道真・・行く先々で次々に話題は尽きない。正に文人達の集まりである。多分、もう二度と味わうことはないだろう。帰国後数年は 毎年自由が丘に集まって旧交を温めたものだったが・・ 会いたかった! 京都から駆けつけたKM先生の第一声である。手を取り懐かしげに何度も呟く。日本一の高層ビル・ランドマークのホテルのレストランでは、眼下に広がる街の、何処というでもなく、じっと遠くを見つめながら、 皆、早よ~いて(逝って)しまわれましたなあ~ 早すぎる! 一瞬 語気を強めた。それもその筈、最高齢の彼は94歳。今も、卓球の最長老の現役選手である。 今、桂林の旅を思い出し、お酒を飲んでいます。 一人暮らしも20年、今年は元気です。来年はわかりません。 人は、私のことを化け物だとか、怪物だとか言いますが・・そんな手紙を手にした私は、上京の折に合わせての「桂林会」の同窓会を提案した。3人だけの一見寂しいものではあったが、3人には、20年前の、かけがえのない旅人達の笑顔が甦っていた。 ・連れ立ちし友と別れの宴開く 姑姐(くうにゃ)の詠みし詩の沁みゐる
2007年09月01日
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小田急線入生田駅からほど近い長興山紹太寺辺りには、小田原市の天然記念物に指定された樹林がある。堂塔は、幕末の火災で焼失したものの、樹林はまぬがれて聖域となって現存する。駅から10分程、参道らしきなだらかな坂道を行くと、趣のある石段に出合う。両側に檜や杉の林が広がり、落葉樹も混在して下草が鬱蒼と茂る。この位ならさほど苦労なく登れそうだ。ほっとして歩を進める。あっ、またあった!そうなのだ、石段がまた現れたのである。半分ほど進んだところで、私は二度目の石段を目にした。次への石段に続く坂道に<行の石組み>がある。参道の中央部分に不揃いの大きさの石が敷かれ、その部分の左右の両側は真っ直ぐな直線を描いている。石組みには真・行・草があり、石の大きさや形状を揃えて規則的に敷きつめていくものを<真>、全く異なる石を揃えずに敷いていくものを<草>とする。この寺は、石組みの両側には直線が美しく伸びる、<行の石組み>であった。樫や椎の落葉が幾重にも重なり、腐葉土臭も漂う。体脂肪の燃焼にはいいだろう。息を深く吸い込んでは、ゆっくりと吐きながら登る。呼吸を整えながら登るとかなり楽になる。とはいえ、些かもてあまし気味の私の前に、もう一つの石段が現れた。これって、なんだか詐欺みたい。疲労感を覚える私は、場所柄をわきまえずに不謹慎な言葉を呟く。いえいえ、心憎い配慮なのだ。半ば超えたところで次の課題を与えて新しい目標に向かわせるそんな大仰なものではないだろう。疲れた参詣者をなだらかな坂道で一息入れさせてくれる。なんとも心憎い限り。所々に生えた苔の美しさに目を奪われながら、石組みの美しさにも心惹かれて歩を進めた。春日局と稲葉一族の墓には向かわず、反対方向の、鉄牛和尚の寿塔へと進む。小田原城主 稲葉正則に招かれて和尚は小田原入りをしたようだ。辺り一面はみかん畑。まだ若い濃緑の実がぎっしりとせめぎあい、枝という枝はみな重そうに垂れている。みかん畑から再び林に入る。せせらぎの音を聴きながら進むと、「百花叢」「石牛塔」「遡回岩」などいくつもの刻銘石に出合う。野鳥が鳴き、やがて清流が現れた。咲き遅れた紫陽花があるかと思えば、赤と白の水引草が涼やかに揺れ、女郎花はまだ蕾ながら、吾亦紅はひっそりと咲く。ここはもう秋たけなわである。「鉄牛和尚の寿塔」は楠の大木の下にあった。一番下の反花座に清花座が乗り、その上の円形板状の塔身に、「開山上銕牛機老和尚寿塔」の文字が刻されている。1712年の和尚の13回忌の折、鉄牛和尚の長寿を祝って建立したそうである。清流に架かる小さな橋を渡ると、枝垂れ桜に出合える。樹齢330年の、天然記念物である。5本の棒に支えられて立つそれは、見るからに逞しい生命力を感じさせる。柵があって傍には寄れないが、遠目にも太い幹の逞しさは伝わってくる。花の季節ではないが、左右に大きく枝を伸ばし、その幹には似合わないしなやかな細い枝が幾本もぶら下がっている。その対比がまた興味深く感じられた。この幹に支えられて、春には華麗な姿のお披露目が叶うのだ。この銘木なら、さぞかし入生田は混雑するに違いない。混雑なんてものではないだろう。自販機の傍に春の名残の破れた幟があった。私はゴミがきらいです。ゴミは各自お持ち帰りください。 長興山しだれ桜(330歳)そういえば平安時代には、こんな歌を詠んだ人もいた。世の中に 絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし ・・・・・・・・・・・・・・・ 更新がなかなか進まないで ご無沙汰続きのページに、 いつもお訪ねくださって有難うございます。 随分涼しくなりましたね。 朝夕は肌寒い時も・・ どうぞ ご自愛ください。 raku-sa
2006年09月22日
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東京の渋谷と横浜を結ぶ東横線乗り入れの、横浜と中華街・元町を結ぶみなとみらい線は、「みなとみらい」「馬車道」「日本大通り」などお洒落な駅が多く、休日にはかなりの観光客が訪れているようだ。4月から、「日本大通り」駅を週2回ほど利用している。ホームは多分地下5階位だろうか、朝はエスカレーターに長蛇の列が続く。が、私はそれを尻目に階段を上る。運動らしい運動をしないから、せめて階段くらいは歩いて・・と。その心掛けはいいのだが、かなり骨が折れる。いや、4年ほど前に本当に骨が折れた時は、足の筋肉が落ちてリハビリに苦労した。多分今でも、骨折した右足の方が幾分細いはずである。以来、膝への負担を軽くしたいと考えて少しでも筋力をつけようとの涙ぐましいというか、僅かばかりの努力である。長い階段の果てに改札口、それから地上目指して再び長い階段を上る。地上に出るまでには相当の階段を上ることになり、私にとっては、朝からかなりの運動量だろう。街路に銀杏並木が続き、大桟橋や山下公園も近い。神奈川県庁、横浜地方裁判所、検察庁、横浜開港記念資料館など歴史を感じさせる古い重厚な建築物が点在する静かな官庁街である。近くには、お洒落なレストランも多い。県庁の斜め前、港郵便局前の交差点に位置する新聞博物館・放送ライブラリーの2階、CAFÉ de la PRESSE (カフェ ドウ ラ プレス)もその一つ。店内のディスプレイには絵画にまじり、セーヌ川やパリジェンヌの写真もある。華やかなシャンゼリゼ通り、モンマルトルの丘、ゴッホの家、裏通りのピカソ館、朝市の賑わいや、チーズやフルーツの味まで、パリの旅をを思い出させてくれる。クリーム色のカーテンをベースにボックスには茶色を配し、上品な色合いが落ち着いた雰囲気を作る。レースのカーテンがないことも気分いい。天井は高く、窓越しの街路樹や庁舎は借景となる。大銀杏を眺めてゆっくり食事を楽しむ。ウエイターは黒ズボンに黒の蝶ネクタイ、女性は黒のパンツスーツ。甲高い声が聞こえないのも嬉しい。静かな大人の店なのである。ウイークデイのランチがお勧め。スープ、サラダ、メインディッシュ、フランスパン、それにプチスイーツにドリンクが付く。¥1,050(土日は¥1500)ランチョンマットを敷きナフキンとおしぼりのサービスも。 料理の味もいいし、盛り付けも美しくお洒落なフレンチ。プチスイーツも本格的。私は専らハーブテイをオーダーする。 ・・・・・・・・・・・・・・昨日のメニュー◎カジキマグロのポワレ、 2色のソースで飾りつけ。グリーンソースはほうれん草がベースか、 赤紫色のは、トレビスにワインビネガーで酸味をプラス。 なすを敷き、かじきの上にはオニオンフライが乗る。◎レタスのクーリと赤い葉のヴィネグリット◎コールドコーンスープ、◎苺のショートケーキ+ドリンク
2006年08月30日
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更新しないまま5ヶ月。それでも私のページを訪ねて下さる方が大勢いらした。申し訳なくお詫びするばかりである。例年夏に集中的に催されるいくつかの書展も幕を引き、漸く平生を取り戻す季節、大好きな秋の到来である。涼しくなれば体調も取り戻せるだろう。春から夏に掛けて今年は特に体力の低下を意識した。郷里風に言うならば、“ほんまにしんどかったなあ”。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6月20日、初めて新神戸に降り立つ。兵庫県立原田の森ギャラリーでの記念展、オープニングと祝賀会出席のためである。ホテルに荷物を預けて、タクシーでギャラリーに向かう。生憎の雨ながら、街路樹の多い静かな街並は旅の疲れを忘れさせてくれた。記念展は神戸にある「全日本美術新聞社」が、『全日本美術新聞』創刊20周年を記念して主催されたものである。日本画・洋画・彫刻・工芸・書の各分野から「自選ギャラリー」に登場した140名ほどの作家たちの作品を集めての展覧会である。「明日への夢・・美を継ぐ者たち展」確かに、芸術家はすべて美を継ぐ者たちである。タイトルがすっかり気に入った。見応えのある展観であった。さすがに芸術院会員の諸先生のものは、分野は違っていてもそれぞれ素晴らしい世界を構築されている。他の美術館の収蔵品も含まれている程で、素晴らしい一級品ばかりである。やや明るめの採光の中で、しかも露出展示のため間近に鑑賞。彫刻や工芸品はしゃがむと息がかかりそうになる。思わずハンカチを取り出して鼻と口を押さえた。私は、自分の詩の一節を引いた。信じよう自分を 夢はかなう とBelieve in yourself. Dreams come true.中国画宣紙80×70の正方形に近い形である。フレームは洋額を誂えた。既製品はほとんど使わない。現代的ながら品よくあがっていてほっとする。表具をすることを仲間内では「着物を着せる」という。作品を引き立てるのはやはり着物次第ともいえよう。英語ももう20年来書いているから違和感はない。最近は英語を書く人が増えてきたので、逆に私は書くことが少なくなった。天邪鬼なのである。バランスがいいとよく言われる。余白の美というか、以前から白を生かした作風が多い。(相変わらずのPCの腕前。写真掲載はご容赦の程を!)それにしても、いまどき奇特な会社である。掲載料も、出展費用も作家の負担はなかった。すべて“ご招待”なのである。その上 祝儀も受け取らない徹底ぶり。まことに頭の下がる思いである。新企画を楽しみにし、益々の発展を祈るばかりである。
2006年08月25日
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ホテルを出て坂を下る。信号を越えてリンクライン(琵琶湖疎水)に沿って歩いた。岸の蔦の葉はすっかり紅葉している。昔、舟を運んだという名残か、半分朽ちかけた舟が一艘トロッコに乗せて置かれてあった。勢いよく流れる疎水を橋の下に見遣り、南禅寺の参道に入る。日曜日とあって観光客は多い。道の片側には駐車場からあふれた車の列が続く。その間を縫うようにして大型観光バスがのろのろと走る。両側には湯豆腐を食べさせてくれる店が並び、辛抱強く順番を待つ人がどこの店先にも群れている。ここに来ると名物の湯豆腐を食べたくなるらしい。なだらかな砂利道を通り山門に出る。瓦葺の大屋根は、何度かの補修を受けたとしても、何百年かの風雪に耐えたであろう太いしっかりした柱に支えられていた。その姿は、何者をも寄せ付けぬ近寄り難い厳しさと、何もかも抱きかかえ包み込んでくれそうな、大きくて温かい寛容さを合わせ持っていた。初冬の空に、風鐸は静かにぶら下がっている、私は三好達治の詩を思った。 あはれ花びらながれ/ おみなごに花びらながれ おみなごしめやかに語らひあゆみ・・風鐸の姿静かなれど・・もう喧騒も気にはならなかった。私は暮れかかる初冬の空に吸われていた。「記念写真どうどす?」男が声をかけた。傍らに三脚が置かれ、宣伝用のスタンド写真が数葉飾られている。苦笑しながら、私はその場を離れた。参道を横にそれて石段を数段登った。拝観料を払い、くぐり戸を抜ける。そこにはまだ静寂があった。(続く)
2005年11月12日
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・金沢を和倉を過ぎていつしかに地方訛の声心地よき・女生徒のいと素朴なる横顔を茜に染めて汽車は走れる・街の灯は魚津あたりか海に浮く 七尾の海に月影も冴え・来世か過去世か現世の縁かと暮れ果つ海に潮鳴りを聴く・奥能登に雨降りしきる 兵の塚詣でむと訪ねけらしも・眼閉じ宇出津(うしつ)の海の遠鳴りを聴きて思ほゆ都落ち人・行く秋を惜しみて時雨る羽根駅に佇ちし我はも 鳶(とんび)しば啼く・野の花を摘みつつ行かな 武士(もののふ)の夢まぼろしか古君(ふるきみ)の里・古君の原にすすきの穂波揺れ 刈田の畦に草紅葉燃ゆ・時空超へ石塔は何語るべし 遠つ神祖(かむおや)を訪ねし人に・はろばろと遠つ神祖を訪ね来し その人の背を濡らす秋雨・奥能登の峠越ゆれば日本海 怒涛逆巻く越前の海・北海の怒涛は我に迫り来る滾つ(たぎつ)心の堰を切るがに・荒海や 逆白波(さかしらなみ)の砕け散る 能登は夕焼 秋暮れむとす・神主も人間ならむ 装束を脱げば現世のことばとなりて・旅人の群るる輪島の朝市の客呼ぶ老婆の皺の深さよ・骨董の店の戸棚に潜みゐる蒔絵の椀は誰が使ひしか・奥能登の入江に鷺の一羽二羽 烏賊釣り船のランプ寂しも・穴水の入江に舫ふ(もやう)帆船のマストは高き秋天を衝く・鵲(かささぎ)の何啄ばむか 奥能登の夕日に向かふ我は旅人・没落を美しきものと言ひくれしそが言の葉の甦りけり・人とふはなべて優しき心根の持ちけるからに苦しみの満つ
2005年10月27日
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海岸線に沿って砂浜が広がり、少し高い所に芝生の緑の帯が長く伸びる。今まで見たこともない、一抱えもありそうな、いやそれ以上の、アレカヤシの大株のような樹木が数株、一定の距離を空けて植えられてあった。何という樹なのか、ピンポン玉ほどのオレンジ色の実を無数に着け、白っぽい葉を風にそよがせ、いやでも南国の情緒を醸す。金印のことを忘れて、リゾート地を訪れたような気分に浸った。この島にこんな素敵な所があったとは。私はこの朝ホテルの玄関から乗った、タクシーの運転手の言葉を思い出した。「博多埠頭、志賀島行の船乗り場まで・・」私が告げると、彼はいきなり語気荒く言った。「お客さん、なんで志賀島へ行くとね。なアンもなかですとよ」「・・・・・」「金印かなんか知らんけど、つまらんとこですたい。そりゃあ行けと言われれば行きますばってん、仕事ですから。そいでん、街の方がずっとよか。なんぼでん行くとこあるでっしょ。シーガイヤーとか・・」まあよく喋る男である。私は苦笑するばかりで返す言葉もなかった。運転手は更に続けて言った。「特別金印に興味があえるという変りもんというか・・特別な人は別でっしょうが・・海の中道ならよかですばってん。あそこんには大きい公園があって、レジャーランドになって・・」私は変わり者とも思わないが、レジャーランドに興味はなかった。金印を訪ねようと思い立ち、仕事を終えて羽田から空路福岡入りをしたのである。暮れ残る福岡上空から志賀島の全景が眺められた。当然ながら地図と同じ形の島影を見下ろし、金印への思いを膨らませていた。海の中道も、そこに建つホテルも、雁の巣砂丘もはっきりと見えた。時間があれば、あの砂丘にも行ってみたい。運転手が何と言おうと、その為に博多へやって来たのだから。黙っている私に、その心を推し量ってか、彼はもう行くなとは言わなくなった。祝日とあって往来の車はさほど多くはない。タクシーの窓から見る限り、ビルが林立した街は東京や横浜と大して変わりなかった。ただ、聳える椰子の樹に、南の国に来た実感を覚えるだけである。波打際まで出ると風は思いの外強かった。芝生や砂浜の上で、人々は思い思いに寛いでいる。私も芝生に足を投げ出した。秋天は高く澄み渡り、一片の雲すらない。この分だと素晴らしい夕日を拝めるだろう。沖合いに浮かぶ玄海島の方を眺めた。海辺のレストランで、ウエイターが教えてくれた日没の方角である。日はまだ高い。サンセットショーまで2時間近くあった。果てしなく広い海は、繰り返し繰り返し波を寄せてくる。金印を携えた使者達もこの波を越えて帰ってきたのだ。それにしても、この小さな島に、どうして金印は埋もれていたのだろうか。私の疑問は何ひとつ解明されなかったけれども、金印の眠っていたこの島に入っただけでも満たされた思いはあった。歴史の解明は研究者に任せよう。古のロマンを秘めた私の金印物語を創ってみたら、それもまた楽しいのではあるまいか。光武帝はなくなる僅か2ヶ月前に、倭国の使者と何を話したのだろうか。唐国の波に乗ってきた金印は・・そして卑弥呼は・・規則正しく届く潮騒の音を耳にしながら古代史を思い、沖を眺めた。この波の果てにかの国はあるのか。繰り返し繰り返し寄せてくる波の音は、私をかの国に、金印のふるさと唐国へ誘う調べのように心地よく響いた。夕暮の風は冷気を帯び、更に強く吹き付けてきた。私の髪は先ほどからずっと狂ったようにはね続けている。着てくるべきであった。身をすくめながら、ジャケットをホテルに残してきたことを悔い、スカーフを取り出して首に巻きつけた。いつの間にか黒ずんだ海には、無数の光の胞子が散りばめられ、弾ける音が聴こえてくるように輝きを放つ。そして太陽は、しだいに膨らんできた柔らかな雲に包まれるようにして水平線の彼方に消え、やがて錦の帯も黒い海に飲まれていった。(完)・・・・・・・・・・・長文にお付き合いくださって有難うございました。志賀島紀行「唐国の波」は、これにて終了です。多謝!
2005年10月09日
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再びバスに乗って国民休暇村まで戻り、海辺のレストランに入った。視界180度すべて海、一面に広がる玄界灘である。風除けかそれとも波を避けるためか、コンクリートで固められた頑丈そうなテラスが、かなり広いスペースで設けられている。それでも、台風の時などは、波が覆いかぶさるように窓際まで襲ってくるに違いない。閉ざされた窓越しに、穏やかな潮騒の音が届く。ウィンザータイプの木製の椅子に深く腰を下ろし、漸くありつける遅い昼食のために、メニューを開いた。私は名前につられて松花堂の「玄海」を選び、グラスワインを併せて注文した。料理の味も悪くはないが、ここでは、何といっても、窓の外に広がる景色がご馳走である。遥か沖合いの天地を分かつ一本の線は、真っ直ぐなようでいて直線ではなく、緩やかな曲線となって左右の端が下がっている。障害物など何もなく、小さい島が一つ浮かんでいるだけで、見霽かす水平線は地球の丸いことを実感させてくれた。・・・・・・・・・・・玄界灘を渡ってきた引き揚げ船は、接岸することが出来ず沖合いに碇泊した。本土に上陸するためには、小さな船に乗り換えなければならない。波が高く、その小さな船は、波に乗り上げたまま大きく上下する。人々は、船が下がった時に着地できるよう、具合を確かめつつ意を決して飛び降りねばならない。それがどんなに怖いことか、人々の顔がそれを伝える。冬の玄界灘の波の高さがどれほどのものであったか、それは想像に難くない。子供達は、碇泊した船の甲板から、一人づつ木の葉のように揺れる船をめがけて投げ落とされる。一足早く飛び降りて乗り移った男達は、引き揚げ船に乗り合わせたというだけの、見ず知らずの、その子供達を一人一人抱留める役目を果たす。投げ落とす親達も、彼らを信頼して子を託すのである。彼らには互いに、命からがら祖国に引き揚げてきた同胞の日本人という、強い連帯感が存在していたのだろう。何万何十万の人々が越えてきた海、そんな歴史をも飲み込んできた玄界灘である。今、一人で眺めているこの玄界灘を、私はいとおしく思えてならなかった。(後略)「唐国の波」へ続く
2005年10月05日
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終点1時間余りの後、漸く勝馬行のバスがやって来た。島の突端まで行けば何かに出合えるかもしれない。小さな期待を抱いてバスに乗った。玄界灘の夕日を見たい、そんな思いもあったのである。20分程で国民休暇村に着くと、乗客の殆どは下車した。残るは3人だけである。海沿いの、人家らしきも見当たらない道を曲がりくねるうちに、私は不安に駆られて乗客の一人に尋ねた。「終点には何かありますか?」「僕達も初めてなので分からないんですよ。兎に角行ってみようと思って」応えた後、彼は地図を広げたまあ何とかなるだろう。駄目なら引き返せばいいんだから。そう思ってシートに身体を埋めた。やがてバスは海岸線から外れて田圃の中を走った。行く手の山間に小さな集落が見える。大きな瓦屋根は寺に違いない。暫くしてひっそりしたガソリンスタンドの前でバスは止まった。終点である。やっぱり引き返した方が良さそうである。運転手に折り返しのバスの時刻を確かめてから私はバスを降りた。「歩いていけばヨカトニ」「ここをまあっすぐ行けば10分程で行けるト」「バスなんかに乗ることナカトニ」バス停の傍に居合わせた主婦は口々に言うが、私は到底歩く気にはなれなかった。一緒に降りた学生らしきは、もう山の方に向かって歩き始めている。麓の寺にでも行ってみるつもりなのだろうか。時計はもうすぐ3時を指そうとしている。博多を出てから既に5時間、私は些か疲れていた。漸く出合った自動販売機に硬貨を落とし込む。ガチャンという音を立ててジュースが飛び出してきた。砂に水が音もなく沁みていくように、冷たいジュースは、私の乾いた喉を潤し、空っぽの胃袋に沁み込んでいった。 [玄界灘」へ続く
2005年10月04日
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「続 友誼の歌」私は十三、四年も前に訪れた中国を思い出した。たしか玄宗皇帝と楊貴妃との避暑地の宮殿跡、華清池であった。公園となったその一隅に郭沫若(かくまつじゃく)の碑があったのである。三文字か四文字からなるそれは何と書いてあったのか、既に記憶はない。その時私は、気品のある筆跡に魅せられて、雨の中で濡れるのも厭わず佇んで眺めた。集合時間に遅れるから、と連れに促されてしぶしぶ立ち去ったのを覚えている。文化革命の試練を経た後に、初めて郭沫若が世に問うた名著『李白と杜甫』(人民文学出版社)の邦訳(講談社刊)は我家の書棚にも並ぶ。従来とは少しく異なる李白像と杜甫像を打ち立て、それを検証していったその本を、私は興味深く読んだ。詩人であり能筆でも知られる彼の手になる碑、期せずして出合った郭沫若の碑に、私は何か嬉しく懐かしい思いに満たされていった。次のバスまでには大分間があった。乾いた喉を潤したいのに、せっかく据えられているジュースの自動販売機は働いていない。やっと飲み物にありつけると、ほっとして歩み寄ったのに、人に期待を持たせて・・これは一種の詐欺ではないのか。機能しないのならさっさと片付けて欲しい、と思う。空腹は人を怒りっぽくさせるようだ。そんなことさえ何となく腹立たしくなる。こんなことなら、あそこで昼食を済ませてくればよかった。紺地に染め抜いた食事処の「のぼり」を思い出す。が、引き返す元気とてない。今となってはもうバスを待つしかないだろう。いか焼きも、ビールも、一滴の水さえも諦め、思い直して竹林の日陰に腰を下ろして大きく息を吸った。このまま午睡を楽しむのも悪くはない。そう思った時、どこからか一匹のスズメバチが飛来し、頭の上を旋回すると、また何処かへ飛び去っていった。規則正しく潮騒の音が聞こえてくる。潮はもう大分満ちているに違いない。(続
2005年10月02日
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天明4年、当時の学問所の館長で町医者出身の儒学者 亀井南冥は、その就任わずか4日後であったにもかかわらず、金印が発見された時には、いちはやく後漢の光武帝が授与されたものだ、と「金印弁」に発表したらしい。「祖先が漢の属国になるはずがない」とか、「鋳つぶして武具の飾りにでも」という過激な声が周囲から出たとき、南冥は、百両出して買い取ってでも金印を守ろうとしたそうである。黒田家からの委託を受けて、金印が、今日なお博物館に無事保管され続けているのは、彼の功績ともいえるだろう。しかしその彼は、8年の館長在任後70歳で没するまでの間、ちょっとしたことがもとで大宰府に蟄居(ちっきょ)する羽目となり、恵まれない晩年を過ごしたようである。金印の輝きとは余りにも対照的で気の毒な思いがする。「友誼の歌」2,35センチの小さな方形の中に秘められた、まだ解き明かされていない金印の謎を思う。博多湾とその海に浮かぶ能古島(のこのしま)を臨み、林を渡る心地よい風に暫し疲れを癒した。家族連れ、グループなど、休日とあって来訪者も結構多い。四阿(あずまや)では初老の男性がスケッチをしている。海に向かって腰を下ろし、時々能古島の方角を眺めているから、多分その島を描いているのだろう。公園の竹林も近景に入っているのだろうか。暫くすると、一際声の高い婦人達が石段を登ってきた。制服姿のタクシーの運転手らしき人の解説を時々頷きながら聞き、印影のレリーフを念入りに触ると、ひとしきり喋り、高笑いの声を響かせながら賑やかに去っていった。四阿の初老の男性は、何事もなかったかのようにスケッチを続けている。自分の世界に入り込んでいれば、外野の喧騒も耳に入ることはないのだろう。よかった、小さな安堵感が私の気持ちを静めた。金印のレリーフの左後方と真後ろに、かなり大きな碑が建てられてある。日中友好の記念のようだが、その一方の筆跡の見事さに誘われて歩みよった。「戦後頻傳(伝)友誼歌 北京聲(声)浪倒銀河・・」品格のある行書で、しかも懐が広い。これを彫った石工(いしく)もかなり熟練したセンスのいい人と見える。ゆったりと時間が流れていった。筆者との思いを共有するかのように、その筆跡に惹かれて私は読み進めていった。「海山雲霧宗朝集 市井霓虹入夜多 ・・」跋(ばつ)には、1955年冬に福岡を訪問、18年後の1974年冬再訪、帰国後この詩をしたためて送ってきた、とある。七言律詩のそれは、郭沫若(かくまつじゃく) のものであった。(続)
2005年09月28日
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海の反対側に急な石段があり、その右側に「漢委奴國王金印発光處」の石柱が立つ。ちょっと見ると神社のようでもある。四,五十段ほどの石段を上り詰めると、印影のレリーフが置かれてあった。天明4年(1748)2月、金印は灌漑(かんがい)用の溝の修理中に出土したと言われているが、その出土した場所をはっきりとは特定できていない。発見者といわれている百姓 甚兵衛の存在も定かではないのである。甚兵衛が百姓か否か、技師か役人かは知らないが、そんなことよりも、金印がなぜこの島に埋められていたのか、興味は残る。『後漢書倭伝』によれば、「建武中元二年倭國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」とあり、倭の使者が後漢の光武帝から印を賜ったことが判る。建武中元2年とは、西暦57年のことであり、使節団が印を受けた正月は、なんと光武帝が崩御する僅か2ヶ月前のことである。金印は、「漢」の尺度で方1寸、約2,35センチ平方、純度は22,3グラムと純金に近い。その方形の中に「漢委奴國王」と彫られている印は、押印した時に印泥(一般に使われる朱肉に当たるもの)の朱色の中に印の周囲にそった縁と文字が、白く浮き出る陰刻である。印には、陰陽すなわち白文と朱文があり、一顆(一つ)だけ印す時もあれば、二顆同時に押すときもある。二顆の時は陰陽をセットで、つまり、白文と朱文を用いる。いうまでもなく、文字が白く浮き出るのを白文、朱で印字されるものを朱文といい、白文を上に朱文を下に配する。「陰」の沈む性質と、「陽」の昇る性質で両者は一体化つる、と考える。従って上下を逆に押印することは殆どないといっていい。その逆を見る場合もなくはないが、いたって稀なことである。金印の書体は繆篆(びゅうてん)、篆書と隷書の間くらいといえようか。篆書は美しいが非常に複雑な書体である。書くのも刻するのも容易ではない。古くから実印に用いられている所以なのである。春秋戦国時代を経て、秦の始皇帝が全国統一を成し遂げた秦代、政策の一環として皇帝は通行書体を篆書に定めた。それまでは、それぞれの国が各々の文字を使っていたのである。その後の漢代に至っては、木簡などに見られるように、よりシンプルで、より速く書ける簡便な書体が日常多く使われるようになり、篆書に代わって隷書が主流となっていった。印影の篆書に隷意が加わるのも当然のことといえよう。出土した金印の印文に「印」あるいは「章」の文字がないとか、印の上部についている飾りの印鈕が、亀ではなくて蛇なのはおかしい、という人もいる。更には、印文に「國」字があるのもおかしい、異民族の王には既に授けた「南越王」「鮮卑王」などの印に見られるように印文には「國」ではなく「王」を用い、語の卑弥呼に対しても「親魏倭王」として金印紫綬を与えているではないか、と偽印説が上がっているものの、やはり真印説の要素の方が強く、金印は国宝にも指定されているのである。1千年もの眠りから覚めて出土したこの時の印が、王仁(わに)の伝えたという『論語』にも先駆けて、中国から日本への、初めての漢字伝来を物語るものとして今なお存在することを思えば、古へのロマンは尽きない。いったいこの島の何処で眠っていたのか。どんな行程を経てこの島に辿り着いたのか。そしてまた、この印影は、正しくはどう読めばいいのか。「カンノワノナノコクオウ」でいいのか、「ワノコクオウ」なのか、印文中の「委奴」はヰナ、ワタ、イワ、ワナ、イヌ、イネなのか、「委」はヰ・イ・ワなのか、素人にはもう判らなくなってしまう。「奴」をナ・ノ・ヌなど、どう読むかによっても変ってくるだろう。「委」も本当に日本のことなのか、日本の他にも「倭」の国はあったようだし・・副葬品も何もなく、ただ金印だけが出てくるなんて・・全く謎は深まるばかりである。(続)
2005年09月26日
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「つぎは~ しかのしま~」車内アナウンスの後、バスは大きく揺れて止まった。沙嘴(さし)の向こうに広がっていた陸地に乗り上げたようだ。いよいよ志賀島(しかのしま)である。赤いシャツにベージュ色の小振りのリュックを背負った大学生風の女の子が、運転席の傍に立ち何か尋ねている。「・・小さな塚があるだけ・・公園になって・・」運転手の声は幾分大きい。が、後方の私の所には所々しか聞こえてこない。途切れ途切れの話から推せば、二人連れの彼女達も、どうやら「金印塚」を訪ねるらしい。国民宿舎のある所でバスは止まった。このバスは此処までだという。二人の女の子の降り際に運転手は言った。「この道を真っ直ぐ上って行けばいいから」彼女達に続いて私もバスを降りた。金印公園の傍で下車しようと思っていたのに、此処から先は歩かねばならないらしい。ガードレールに沿って海沿いのゆるやかな勾配をのぼった。沖合いに小さな島が見える。壇一雄の愛したという「能古島」(のこのしま)か。波は穏やかに寄せてくる。南国の秋の日は思いのほか暑く汗ばむほどで、山側の樹木の葉も紅葉にはまだ早い。11月の半ば過ぎぐらいでなければ、美しく色付くことはないのかも知れない。どこからか香ばしい磯の香が漂ってきた。イカの丸焼きか、サザエ・・食いしん坊の私は想像に事欠かない。何処からだろう。匂の所在を確かめるべく私は辺りを見回した。少し前方に「お食事処」と紺地に白く染め抜いた細長い旗が見える。民家そのままの道端の小さな店が、庭先で魚や貝などの海の幸を焼いて客に供していた。先ほどの女の子達も立ち寄っていたが、また帰りにね、と店主らしき人に告げて私は通り過ぎた。喉も渇いているし食指も動くけれど、私は歩くことが任務でもあるかのように、止まることなくそのまま歩を進めた。海べりの大きな岩にカラスが一羽、ずっと止まったままでいる。波がそれほど大きくないとはいえ、波が岩に砕けてもカラスは微動だにしない。いや、しないように見える。濡れ羽色とはこんな色か、カラスの羽は不気味なほど黒く、艶々と光沢があった。ガードレールにつかまって海を眺めた。海は満ちているらしい。波がひたひたと迫ってくるように感じる。波に洗われて角の取れた丸い大小の石が無数に犇めき合い、その石の上に覆い被さった波は、すぐさま石の隙間を走って引いていく。シャアー波の走る音が聞こえてくる。私はまた歩き始めた。海に張り出した山沿いの道のゆるやかなカーブに差しかかると、遠くに赤いシャツとベージュ色の小さなリュックが見えた。もうあんな方に。若者はさすがに足が速い。時々疾走していく自動車に気を配りながらも、幾曲がりかのカーブを越えて、どうにかひとつ目の目的地に到着した。「金印塚」である。(続)
2005年09月22日
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今朝、私は博多港から船で海の中道へ渡り、そこからバスに乗り継いでここまでやって来た。博多から香椎に出て西戸崎、海の中道、という電車のルートも考えたが、瀬戸内育ちの私には矢張り船の方に魅力がある。船で直接志賀島へ入りたい、という気持ちも強かった。が、港に着いたとき、志賀島行の船は生憎(あいにく)出たばかりであった。次の便までには1時間もあり、待つよりは乗った方が、と勧められて海の中道行に乗船したのである。後備のデッキに立って潮風を受ける。博多の街が見る見る遠離っていった。何か船内放送をしているのだが良くは聞き取れない。子供達の歓声と乗客たちのお喋りにかき消されているのだ。近い遠いに拘わらず、誰だって旅は楽しいもの、この喧騒も気にはするまい。湾を横切ること30分足らずで海の中道に到着した。レジャーランドとして開発された海の中道は、若者や子供連れで賑っている。園内のスピーカーからは、派手なBGMがかなりの音量で流れ、イルカショーの案内に交じり、時々その観客の歓声も聞こえてくる。蘇鉄(そてつ)と海、ビーチ、ホテル、ゲームセンター、レストラン、人が右往左往していてぶつかりりそうになる。正にレジャーランドである。私は躊躇(ためら)うことなく公園を横切って、船着き場で教えられた志賀島行のバス停へと向かった。バスはなかなかやってこなかった。整備された道路を車はかなりのスピードで通り過ぎていく。私は上がり框(かまち)に腰掛けるようにして、一段高くなっている歩道の端に腰を下ろした。日頃殆ど運動をしない私の筋肉は、鍛えられていない為かすぐ疲れる。歩いているよりも、じっと立っている方が疲れてくる。最近の若者のように、立っていられなくてついしゃがみたくなるのである。以前、海外旅行のツアーに参加した時も、「今度は体力をつけてから参加してください」と別れ際に添乗員から言われた。ロンドンの地下鉄に乗った時にも、「ほら、席が空いたわよ」と、私は年長の人から声を掛けられ、些か恥ずかしい思いをした。体調の優れない時であったとはいえ、体力のなさを、しみじみと情けなく思ったものである。それでも、なかなかトレーニングをする気にはなれない。「私も少しは運動をしなくちゃいけないわ」とか、「水泳かせめて散歩でもしなくちゃ・・」と、口にするばかりである。それは、多忙過ぎるほどの毎日と日頃の睡眠不足とを思えば、本当は身体を鍛えるよりも休めた方がいいのだ、と一方では思っているからかもしれない。「運動をしなくちゃいけない、と思うなんて。私は楽しいからするのだけど・・」とは娘の弁である。確かに、私は、運動は余り好きではないのである。それほど好きではないことの為に、わざわざ出掛けていくなんて、億劫なことこの上ないのである。ものぐさな私は、何か運動をしなくちゃ、と言うだけで、結局死ぬまでせずじまいになるのであろう。瓦葺の民家が軒を連ねる。曲がりくねった細い道を、バスはゆっくり進んだ。所々、軒先に堤燈(ちょうちん)が吊るされ、そのいずれにも、「献燈」と筆で肉太の文字が黒々と書かれている。町は祭りのようだ。遠くから神楽が聞こえる。白くペンキで塗られた古びた木製の掲示板には、秋の大祭を知らせる張り紙があった。その横に「ターナー展」のポスターも貼られている。私は異郷の地で友人に会ったような、そんな思いでそのポスターを眺めた。数年前、ロンドンのナショナルギャラリーで数多くのターナーに出合い、この夏それをもう一度見たくて横浜の美術館に足を運んだ。その展覧会がこの漁村の近くで開かれていようとは。港の好きなターナーは、この小さな漁村をどう描くだろうか。先刻バスの窓から見た、砂地に引き上げられてあった舟や、ロープに吊るされて、風にはためきながら日を透かしていた烏賊を思い出す。とりわけターナーが好き、というわけではないが、幾人かの比較的好きな画家と同じように、ターナーもまたいいのである。絵画は専ら見て楽しむだけで、私は専門的なことは何一つ解らない。好き、余り好きではない、のいとも単純明快な見方しかしない。いや、出来ないのである。そんな私でさえ、ターナーの絵には風を感じる。モネの絵の中に見る柔らかい光と同じように、私はターナーの、その風が好きなのである。(続)
2005年09月22日
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「沙嘴(さし)」点在する民家を縫うようにバスは走った。いつのまにか地面は白い砂浜に変っている。バスの中にも風が磯の香を運んできた。今朝水揚げしたのか、ロープに烏賊が干されている。まるで和紙で作られた凧のように陽を透かしていた。海は近い。私の心は逸った。秋の日を浴びて白く乾いた民家の庭端にはコスモスが数本、淡いピンクの花弁をつけた花が風に揺れている。バスは大きく曲がった。椅子からずり落ちそうになった躰を直そうと前を向いた私は、思わず小さな歓声を上げて身を乗り出した。玄界灘だ。眼前に海が広がっている。でも、それだけではない。私は初めて見る光景に目を瞠った。右に玄界灘、左に博多湾、何とその両方から波が打ち寄せている。波打ち際も、白い砂浜も両方にあるのだ。海を二つに分かち、道が真ん中に伸びている。その砂の道は次第に狭く細くなり、バスは、まるで波打際の砂浜を走っているようであった。砂浜を走りたい。勿論 裸足で。道を横切って右へ行ったり左へ行ったり、玄界灘の波に足を浸して戯れ、次に博多湾の波にも遊ぶ。ぴちゃぴちゃ、ぱちゃぱちゃ。欲張りの私にはぴったりではないか。私は初めて海を訪れた時の、波打際で波と戯れた、あの子供の頃の懐かしい感触を思い出していた。降りようか、降りてみたい。こんな所は滅多にあるものでもないし・・一瞬衝動に駆られた。が、私は取敢えず、そのまま一つ目の目的地に急ぐことにした。砂の道は細く伸び、その向こうにはまた陸が広がっている。白く美しく、大きな鳥の嘴(くちばし)のように伸びている。そうだ、沙嘴(さし)なのだ。これこそ、あの沙嘴そのものなのだ。昔、小説か何かで読んだ時の、微かに残っている記憶を取り戻した。あれは何という本であったか。私が頭の中に描いていた、海の上に美しく伸びる白い嘴、嘴のような白い道が、その光景が甦ってきた。ついに岬の外れ、突端にきたのだ。感動が私を包んだ。(続)
2005年09月19日
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(続)一面のコスモスである。私は車のドアを開けるのももどかしく花に駆け寄った淡いピンク、濃いローズ色、白などの花が群れ咲く。一色であったり、花芯に黄や白を有したり、花弁がぎざぎざになっていたり、と花は色々な顔を持っている。可憐な花と繊細な葉にそぐわない赤みがかった丈夫そうな茎が、その美しさを支えていた。少し前に盛りは過ぎ、下葉が枯れているものの、花はまだ十分楽しめる。何万本、いや何十万本あるのだろうか。根元を見ると一本一本規則正しく手で植えられているのが解る。野生のようでいてそうではなく、野生ではこれほど美しい花を楽しむことは出来ないだろう。私は花野の中に入った。背丈ほどもある花に埋もれて、すっかり少女に返っていた。走った。時々小石に足を取られそうになりながらも、なだらかな勾配を駆け下りる。走っても走っても私は花に埋もれていた。立ち止まって花に顔を近づけてみる。遠い昔の、うら若い母の香を嗅ぐようであった。空は一点の翳りもなく果てしなく高く広がり、林の木々はさやかな風に囁く。高く低く群舞する蜻蛉、私は大きく息を吸った。このまま花野の夕映えに溶けてもいい、そんな気さえする。目を瞑ってもう一度大きく息を吸った。「もう、ええですか?」おどけた声に振り向くと、KとOさんが夕日が綺麗だから、と私を花野の外れに誘った。山と山との間の切り崖(きりぎし)に立つと、眼下に瀬戸の海が開ける。今しも、夕日がその海に飲み込まれそうであった。遠く望むこんもりとした森に聳える天守閣、製紙工場の煙突からは煙がゆっくりと空に伸びる。人影は判からないものの、車の往来がかすかに認められた。海べりに広がる故郷の町を望み、身体の内側からゆっくり弛緩していくのを覚えた。ゆくりなく私は李白を思った。李白も同じ思いであったのかも知れない。敬亭山の麓に住んでいた彼は、ときおり山に登り暫し黙考したという。衆鳥は高く飛び立ち一片の雲さえもない・・が、山を見下ろす村も厭うことなく李白を受容する。李白の方も、勿論「相看両不厭」(あいともにみていとわず)である。法王の嶺に抱かれて眺める瀬戸の夕景は、ひとしお私の心に深く沁みた。
2005年09月12日
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コスモスでも見に行く?市の要職にある友人が声を掛けた。夕食までには時間があるからと誘ってくれたのである。私は、郷里の市長の招きで市庁舎を訪ねていた。仕事柄、新聞社の取材を受けることは多いが、この日のように、カメラのフラッシュをシャワーのように浴び、共同記者会見を経験したのは初めてであった。新幹線から瀬戸大橋線と予讃線を乗り継ぎ、5時間半の長旅も手伝ってか、私は些か疲れていた。が、コスモスと聞けば心は動く。数年来コスモスの群生する黒姫高原を訪ねたいと思っていた折でもあり、場所は違っても、コスモスの好きな私にとっては願ってもないことである。<紙のまち資料館>の館長を誘って車に同乗、高原へのドライブとなった。・・・・・・・・・・・・・・・前年の11月から12月にかけて45日もの長期間、私は、その資料館の特別展示室で、作品を発表する機会に恵まれた。<四季 ふるさとの紙に謳う>と銘うつ郷里で生産される紙を使っての書の企画展である。郷里は、古くからの紙の町。手漉き和紙、新聞紙、トイレットペーパー、水引の産地としても有名である。全国でも有数の紙の生産地といっても、手漉和紙業界では後継者不足の悩みを抱え、将来の展望も厳しい。そんな中での企画展であった。郷里からは特産の様々の和紙、紙になる前のパルプや、ダンボールでも何でも、という私の言葉を聞いて、僅かながら、スペイン・タイなどのパルプも送られて来た。私はそれらに、墨色に変化をつけたり、彩色を施したりと色々工夫を凝らしながらも、何よりも、しみじみと心に響く言葉を選んで書いた。郷里の人々にとっては、今までの書道のイメージを大きく塗り替えるものであったようだ。朝日や読売、愛媛などの新聞に報道されたこともあってか、遠くからも多くの来館者を得ることが出来、反響は大きかったらしい。週末の度に寝台車「瀬戸号」で郷里を往復したのも、多忙ではあったけれども、楽しくもあった。その時のご縁で市庁舎を訪ねることになったのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・小さな町ゆえ隅々まで知り尽くしている筈であった。が、どうも様子がおかしい。懐かしい街並は残っているものの、道路がやたらと整備され、海を埋め立てて造ったという集落などもあり、何処か見知らぬ街を走っているようなそんな気さえする。30年という時の長さを思った。車は街中を抜け、曲がりくねった山狭いの坂道へと入っていく。道が段々狭くなり、対向車を待って交わす。勾配もきつくなった。ギアをローに入れアクセルを強く踏んだらしく、重そうなエンジン音が伝わる。何度か大きく曲がり急坂を登ると、突然視界が開けた。一面のコスモスである。私は車のドアを開けるのももどかしく、花に駆け寄った(続)
2005年09月08日
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上野は大賑わい夏は上野に出向くことが多い。JRの公園口から出て、上野公園に入る。夏休みとあって、この暑さにもめげずかなりの賑わいぶりである。ドレスデンの美術展が開催中の、西洋美術館にも普段より人が多く集まっている。その前を通り広場にさしかかった時、人だかりの奥から、ドラムのような音が聴こえてきた。そう、ドラムではない、ドラムのような音なのである。人垣の隙間から覗いてみると、一人の男が木琴とドラムのような楽器らしきものを演奏している。東京都から許可を貰って演奏している大道芸の一人らしく、銀杏の葉のマーク入りの許可証が目に入った。男の前に数葉の写真が飾られ、コメントが書き添えられてある。写真は、オーストラリアの風景写真であった。オーロラのようなものも写っていて、傍で見たい衝動に駆られる。手製の木琴を即興で演奏しながら、自転車で世界旅行をしているのだ。如何にも手製と思われる不揃いの板で作られた木琴、足元にはタンバリンのようなものを置き、小さなシンバルが数枚、中国の古い楽器に似たような、真鍮製らしき小さな鐘も幾つかぶら下げられている。演奏の区切りの付いたところで、前に置かれた帽子を指差し、ペコリとお辞儀をした。投げ銭歓迎と書かれてある。それにつられるように、観客はコインを入れた。何となくホットする。誰も入れなければ・・少し案じていたのである。私も前へ進み、数枚のコインを入れた。横浜の「野毛の大道芸まつり」が例年賑わっているように、日本でも漸く大道芸が定着して来たらしい。以前は「見るだけ」でコインを入れる人は殆どいなかったように思う。外国を旅すると、大道芸は一つの文化として根付いており、観客は必ず見料ならぬコインを投げ入れていた。こんなところも、漸く世界のレベルになってきたようだ。後は、心の問題が残る。「旅の恥はかき捨て」式の心、早く何とか向上して欲しいものだ。自宅は美しく飾り立てて掃除も念入りに、されど、公共の公園やトイレの汚さは目を覆うことが多い。富士山が世界遺産に登録して貰えないのもしかり。これこそ「恥ずかしい」の一語に尽きよう。
2005年08月03日
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今、ドイツへの思いが熱い。行きたい行きたいと思いながらも、一向に行けそうにない。昔は、夢のヨーロッパ旅行、などと言われていたが、それが夢でなくなり、誰でも行ける時代となった。次は美しい国ドイツへ、と思いながら、それでもなかなか実現はしない。今年こそ、今年こそ、と何年言い続けてきたことか。が、今年は格別ドイツ、ベルリンに心が逸る。ベルリンの壁が崩壊してもう16年になる。東西ドイツの格差が様々な問題を孕み、それでも統一したドイツは堅実で強大な国となった。戦後処理を誤まったとされる我国は、いつもドイツと比較されて批判の対象となる。確かに、ドイツは賢明であったと思う。17世紀半ば、フランスから宗教的迫害を受けていた教徒を大量に受け入れ、ベルリンの住民の三分の一がフランス人という羽目にもなった。統一ドイツには、ポーランドやロシアからの移民もあり、ナチス時代の迫害を逃れていた人たちの帰還も増えた。ベルリンの文化は外から来た人が作ったとも言われている所以でもある。首都といえば、ボン。と長年親しんではきたが、統一後はそれもベルリンに移った。路面電車が世界で初めて走ったのはベルリンだとで、当時労働者の平均賃金の2倍以上の運賃であったとか・・ポツダム広場、ブランデンブルグ協奏曲、否その門、フーゼマン通り、ティアガルテンの森・・それよりもベルリンと言って一番に思い出すのは、何といってもデートリヒ、女優のマレーネ・デートリヒである。「嘆きの天使」で世界を魅了後、アメリカに移住。晩年パリにも移住するが、彼女の内に、ドイツ人としての、故国への熱い思いが消えることはなかった。私がデートリヒを語るとき、真っ先に思い浮かぶことは、彼女の好演した多くの映画ではなく、彼女が歌った一曲である。Pete Seeger が創ったとされ、キングストントリオも歌った世界中でヒットした反戦歌、「Where have all the flowers gone?」である。元は、ショーロホフの「静かなドン」の一節からとったものであるらしい。確かに、「静かなドン」の中の詩の部分に、それらしきものが含まれていた。邦訳では、太田誉の「野に咲く花はどこへゆく」で親しまれてきたが、この曲を、デートリヒはドイツ語でカバーしたのである。もう随分昔のことになるが、デートリヒの熱唱をビデオで観た私は、身体が震える思いであった。逃亡者、反逆者のレッテルを貼られていたデートリヒが、漸くにしてドイツ国民として受容してもらえた瞬間であったろうか。過去の屈辱を払拭し、晴れやかに舞台に立ち文字通り、故国への熱い思いを籠めて歌うデートリヒに、私は熱いものを禁じ得なかった。ドイツを思い、ベルリンを思うと、あの、低い、太い、力強いデートリヒの声が甦ってくる。そして、私にドイツへと、ベルリンへと囁くのである。
2005年07月28日
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ロンドン市民ならずとも、世界から多くの人たちが集まる。その方々の抱くテロへの恐怖・不安感は如何ばかりか・・心からお見舞い申し上げます。数年前の旅の思い出にしたためしもの、その一部を・・。議会制民主政治の幕開けとなりし舞台はテムズの岸にビックベンの時鐘は響くロンドンの街にテムズの川風に乗りロンドン橋 マザー・グースを口ずさみ小さき返る人それぞれに荘厳な塔建ち並ぶ学都ありそが甃道(いしみち)を我は行くなりシェークスピアの生誕の地はエイボンの河畔の花の美しき町北海の波は雄雄(おお)しく砕け散るかの帝国も今は昔に処刑場の跡 生々し人とふは かく残虐になれるものなりカルトンの丘より見遣るフォース湾誰が奏づるか バグパイプの音なにとなく調べ哀しきバグパイプ赤いキルトを履きし男の (「イギリス紀行」より)
2005年07月22日
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さやさやと稲の若葉に風さやぎ讃岐路はいま夏の盛りにあをあをと繁る稲田に白鷺の白鮮やかに空は夏色空を行く雲の行方は風に問へ夕陽を蔽ふ雲の行方を戯るる児等の影絵を踏みつゆく潮の遠音を懐かしみつつ街灯に群れゐる虫はまくなぎか燃え立ち出でぬカンナなるべし
2005年07月18日
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雨はまだ落ちていない。朝焼けでもいい、もっと明るさがほしいのに。鉛色の空は間もなく道を濡らすだろう。足の悪い母を思い気が滅入る。房総の誕生寺に降りたったときには、雨は本降りになっていた。旅館へ直行するのもためらわれ、かといっても、この激しい雨では観光する気分にもなれない。母はいつものように遠慮がちに言う。「せっかく来たのだからどこか見物すればいいでしょ」一方、父は母の足を気遣う。夫まで、両親のいいように、と私の決断に委ねてしまっては、もう些か苛立ちを覚える。4歳の姪の奈都は、先ほどからずっと歌を歌いっぱなしだ。無邪気でいい。「お客さん、6千円もありゃあ・・」誕生寺でタクシーを拾った。こうなりゃ旅館に行くしかない。雨脚は益々ひどくなった。車は海岸線に沿って走る。うねりながら押し寄せた波は黒い岩にぶつかって白く砕ける。仁右衛門島がぼんやりと霞んでいる。「仁右衛門という人が流罪の頼朝公を助けて住まわせたのですよ」運転手は観光案内まで引き受けてくれたらしい。「シーワールド、入場料が高いから入る程のこともないでしょう。 この海岸、茅ヶ崎に似ているでしょ・・鴨川港、鯖が豊漁です。 あの船は大島帰りですよ。ホラ、あの冷凍庫、しっぽを出して走っていますよ。 みんな鯖なんです・・カワハギのみりん焼き、此処しか売ってませんよ。 お客さん、見て来なよ!」もうそれどころではない。雨の中を密室に閉じ込められて一時間以上も走っているのだ。車に弱い娘はぐずぐず言うし、奈都を抱いた私のお尻は、不幸にも皮下脂肪不足で痛む。楽しみにしていた房総の花にも、はしゃいで指差す言葉とは裏腹に心はあまり晴れやかでない。密室からの開放をひたすら望むだけである。「お花、買っていく?」運転手ははまだ喋っている。漸く畳に足を投げ出す。部屋に通されてやっとひと心地がついた。みると、父はもう手帳に何かを書きとめている。何という恐ろしいエネルギーか、80歳だというのに。運ばれてきた茶を喫み、南部煎餅をかじる。棒縞の着物にたすきをかけた係りの人は、事務的に言った。「お風呂はこちら、大浴場は2階にあります。男女別になっておりますが」「お食事は何時になさいますか?」イントネーションが如何にも味気ない。方言の方が趣があっていいのに、私はそう思った。子供達が大騒ぎで駆け込んできた。奈都が、本物の虹だという。あんなにひどかった雨が、いつの間にか止み、海は残照に煌めいている。岸壁の上に聳える白亜の灯台からは、かつて見たことのないような、見事な虹が空に伸びていた。七色の橋とはよく言ったものだ。「わたしね、ほんもののにじをみてよかった」奈都は幾度となく告げにくる。絵本の世界が突然目の前に現れたのだから、余程嬉しかったのだろう。翌朝、奈都に促されて散歩に出た。空はどこまでも青い。濡れた岩場に足を少し取られながらも、彼女は私の手をぐいぐい引っ張って歩く。時々打ち寄せる波にも、岩場に泳ぐ小さな魚たちにも目もくれない。どうやら灯台を目指しているようだ。岩場を過ぎ、灯台へ続く道に出た。こんもりと繁った小さな林の丘に、それ程大きくもないが、白亜の灯台が、それでもしっかりと根を下ろしている。野島崎灯台である。奈都は、何かを探すように何度も辺りを見回した。灯台のてっぺんを仰ぎみては、また下をキョロキョロする。そして、やおら私に尋ねた。「ねえ、にじのおうちはどこ?」
2005年06月20日
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窯をお見せしましょう、と私を裏庭に誘う。話は佳境に達した。「炎の当たり方で焼き具合がことなるんです。 窯の何処に入れるかも大事なことで・・ 藁で加減して・・火を入れると何日も燃やし続けて・・ 燃やした日数を掛けてゆっくり冷ますんです。 火を消しても直ぐには取り出しません」神聖な窯の傍で、ひとつひとつ確かめるように、噛みしめるように彼は話した。窯の傍には、薪が山と積まれている。整然と積まれたそれは、壁となって玄関の方まで延びていた。この木片が燃えて炎となり、土に新しい命を吹き込み、この、若い陶工の芸術を創りだすのだ。変哲のない唯の木片にも、強い生命力を見る思いであった。陶芸家自身が選んでくれた花入れを一つ求めた。旅先で持ち合わせが少ないから、との私の申し出を快諾し、後日宅配にて送られてきたその備前は、和室の床の間に鎮座するかと思えば、玄関の下駄箱の上でもしっかりと所を得ている。日当たりのいい明るいリビングにも似合うし、勿論、花材を選ぶこともない。活けるものによってそれぞれの表情と雰囲気を作り出してくれる。早春には、友人の届けてくれる蝋梅を活けるのが常となった。つい先日は、芍薬の大輪で華やかさを演出。今日は収納庫に納まっているから、寂しく次の出番を待っているに違いない。 ※昨夜は入力に疲れて、二日に亙ってしまいました。 m(__)m
2005年06月17日
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岡山から赤穂線でおよそ30分。伊部は備前焼の里である。伊部の駅に降り立つと、窯元らしき煙突の林立するのが見える。駅に隣接して備前焼の博物館もあり、街中には備前焼を販売する店も数多く見かける。私は一軒の店に入った。木をふんだんに使った純和風の、造作のいい建物で、築後まだそれ程の年数の経っていない新しい店である。開業したばかりとも見えず、多分、改築したものだろう。店内には整然と品物が並べられてあった。高価な物もあるが、概してあまりいい品はない。一見して土産物売り店とわかる。私はすぐに店を出た。数軒目に入った店はあまりにも対照的であった。ガラスの引き戸を引き、中に入ると、床にも焼き物が雑然と置かれている。というよりは、放置されている、と言うほうがあっているかも知れない。かなり古くから営業しているらしく、うっすらと埃を被った陳列棚には、いい物が並んでいた。銘と陶工の名を記した札が立てられ、土産物とは些か趣を異にする。これだけの品が並ぶのだから、老舗に違いない。私は奥へ進んだ。陳列棚の奥まった所で、高さ30センチほどの花入れに目が止まる。恐る恐る取り出して眺めた。炎の芸術と言われる備前の、最も特徴とする「ほだき」が美しく出ている。が、陶工の名前に覚えはない。多分、若い人なのだろう。形もシンプルで申し分なかった。「東京の美大を出て、人間国宝の○○先生に師事する新進の作家ですよ。 訪ねてみられたらどうです?」「時間があまりないので・・」渋る私を制して、店主は是非に、と言ってタクシーを呼んだ。十分程走って市街地を抜けると、田園風景が開けた。田んぼの中に、それとわかる煙突が見える。「あれですよ」タクシーの運転手が前方に見える一軒の家を教えた。目的の家に着くと、店主から連絡が届いていたのか、若い陶芸家は、初対面の私を快く迎え入れてくれた。通された応接間の飾り棚には、彼の焼いたであろう品々が並ぶ。私が自己紹介を終えると、その若い陶芸家は、作陶について熱っぽく語り始めた。土のこと、窯のこと、炎のこと、美大時代の仲間と開く展覧会のことなど。「時には失敗することもあるんです。ひびが入ったり割れたり、でも、予想外のいい結果が現れることもあったり・・それだから、また面白いのですが・・」陶芸家は飾り棚の作品の前に立った。およそ備前らしからぬ色合いと艶のあるその皿には、無残にもひびが入っている。「何か釉でも?」と尋ねてみるが、釉薬は使っていない、という。勿論、備前に釉を使うことは稀である。備前には珍しい青色の部分があり、光沢の具合も、まるで釉薬を使ったような趣があった。「捨てられなくて・・」彼は微かに笑いながら呟いた。その飾らない正直さに私は好感を覚えた。備前と言えば○○、とすぐ人間国宝の名前が出る。確かに、名品といわれるものはいい。が、だからといって、何でも全ていいとは思はない。あくまでも個人の好みによるのである。私は、私がいいと思ったものをいいとする主義である。有名無名の程は全く関係ない。一人の作家の作品でも、いいものもあれば、そうでないものもあり、当然のことながら、人間国宝の作った物の中にも余り好きではない物もある。人は往往にして作者によって作品の価値を決める。誰々のものだからいい、とか、もう一息だ、とか・・実績がそれを作るのだから妥当だ、と言えば言えなくもないが、名前だけで評価してしまうのに、抵抗は残らないのだろうか。私の生業とする「書」の世界においてもそうである。書き手を見て評価する風潮があるのである。作品そのものよりも、むしろ、書き手の経歴、地位、その他、諸々のことで評価することも少なくない。落款を隠して、誰が書いたものか判別できないようにして評価してみると面白いとも思う。器は日常使ってこそ、である。国宝級の作家の物には到底手が出ないから、私が求める物は皆「発展途上」の物である。作家の今後の成長を見詰めていけば楽しみも増える。とはいえ、使う気にもなれないような代物では困る。傲慢なもの、ひとりよがりのもの、そして何よりも、品性のないものは御免蒙りたい。陶芸だけでなく、絵画でも書でも、どんな作品にも、作品には確実に作家が投影される。技術を超える不思議な世界なのである。私は、しばしばそれを見てきた。(明日へ続く)
2005年06月16日
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(昨日の続き)私は白髭の男に従った。「ジャポーネー」「チャオー」カップを高々と挙げた。彼はエスプレッソを、私はカプチーノを選んだ。運ばれてきたエスプレッソに砂糖を入れてかき混ぜる。苦いエスプレッソに沢山砂糖を入れる、これがいいのだ! とオーバー過ぎる位大きく手を動かして砂糖を入れた。女性はそれがいい、こっちは苦すぎる。と私がカプチーノを選んだことにも満足気だった。彼の太い指先にあるエスプレッソのカップはあまりにも小さくてユーモラスでさえある。私は、たっぷり入ったカプチーノを飲みながら、可笑しくなって、思わず笑うと、彼は、もうなくなっってしまった、と言わんばかりに空のカップを持ち上げて、首をすくめた。陽気なイタリア人達である。バールはたちまち友好の場となった。日本の何処から来たのか、東京は知っているか、イタリアの何処へ行ったか、イタリアは好きか、カプチーノは好きか、と矢継ぎ早に尋ねてくる。その合間に店の従業員だの客だのに、ジャポーネ、ジャポーネと遠来の客だ、と紹介するのだから目まぐるしい限りである。小柄の部下らしい男はその都度、うんうんと頷くだけであった。暫くすると白髭の男は、仕事をしなければ、と首をすくめて私を促し、待合室の前で、必ず迎えに来ると言い置いて、小柄の部下らしき男と立ち去っていった。待合室に入ると、不安げにトランクに手を掛けて待っていた姉は、私が事情を説明すると余計に不快な表情をした。「危ないのに・・」姉にしてみれば、当然のことである。ヨーロッパの、ましてやイタリアなどはもっとも危険な国とも言えるのだから、姉が心配して怒るのも無理はない。ご馳走のお礼に何か、と鞄の中を漁るが目ぼしい物は何もない。出発前、土産用の小物を用意するつもりでいながら、多忙でそれが出来なかったことが悔やまれる。「本当は、いっぱいお礼をしたいのだけど、何もなくて・・」再びやってきた白髭の彼に、3色ボールペンとヴィタミンC入りのキャンディーの新しい袋を差し出した。彼は、カチカチと芯の出具合を確かめると、「メイドイン ジャパン?」と尻上がりに聞き、大きく頷く私の顔を見て大層喜んだ。「メイドインジャパン う~ん メイドインジャパン」私は、彼が安心するように、自分のバッグからもう一つのキャンディーの袋を取り出し、その小さな粒を口に入れて食べて見せた。すると彼も、私に倣って黄色い小さな粒を幾つか掌に出したかと思うと、さっと口に放り込んだ。そして、酸っぱいと言わんばかりに、目をむいて両手を広げ、ひょうきんにおどけて見せた。ヴィタミンC入りだから酸っぱいけれどヘルシーで女性の肌にもいい、だから、我慢して私はいつも食べるのだ、と私は再びその小さな粒を口に入れ、彼と同じように、酸っぱい、と目をつぶっておどけて見せた。彼は、暫く待つようにと私達に告げ置き、事務室に取って返すと、何やら青い大きなトランク程もあろうかと思われる位の、大きな紙挟みを抱えて戻ってきた。促されるまま開いて見ると、手渡された紙挟みの中には、美しい色の、パステル画が入っていた。コンパートメントで傍若無人に音楽を楽しむ若者、その横で泣き叫ぶ赤ん坊と困惑した顔の母親、迷惑そうな表情で入り口から覗いている老夫婦も描かれている。寝坊して遅くなり、飛び乗ろうとしたが乗れなかった男の絵もあり、他人への迷惑や駆け込み乗車による危険防止を呼び掛けるもののようであった。列車の乗客の様子をユーモラスに描いた4枚の絵は、マナーを啓蒙する、日本でならさしづめJRの広告の、原画の複製に当たるものなのかも知れない。その愉快な絵を見ながら私達の話は弾んだ。「アイル カムバック ヒアーアイル リメンバーフォーエヴァー」2時間程前に出会ったばかりなのに、もう何年も前からの旧知の間柄のような、不思議な心の交い合いを覚えた。今度は、ヴェネチアに行って、それからフィレンツェに来るといい、日本人はみんなあそこが好きだから。彼は、長いホームを歩きながら私と姉に言った。間もなくして列車は轟音と共にその大きい図体をホームに横付けした。車体は見上げる程である。乗降口には、梯子のような階段があった。彼は先に乗り込み、馴れた手付きで荷物を乗せると、列車から身を乗り出し、腕を伸ばして私と姉を引き上げてくれた。「スィーユーアゲイン アイム アプリシェイト・・ アイドンノー ハウトウセイ サンキュウ ・・」もう、文法があってるかどうかなんて、どうでもよかった。私は知っている限りの単語を並べて感謝の気持ちを表そうと焦った。またいらっしゃい、楽しみに待ってるよ、彼は笑顔で私を抱き寄せた。西洋風の挨拶に戸惑いながらも、涙が頬を伝う。がっしりとした躯は思いの外しなやかであった。私はミラノに向かう列車の中で、大降りの名刺を幾度となく眺めた。サンタ・マリア・ノベッラ駅の駅長なのか、淡い夏色の制服と制帽が爽やかで凛々しかった。彼の言葉に従ってトランクの底に入れて持ち帰った4枚の絵は、今もあの時の旅を語る。もう、彼の記憶に残ってはいないだろう。だが、カプチーノを飲むたびに、フィレンツェの、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅を、白い髭のピエールを懐かしく思い出す。ピエールのあの太い指は、エスプレッソに砂糖をいっぱい入れた、不似合いな程の小さなカップを、今も口に運んでいるのだろう。あのバールの陽気な人達と、そしてピエールとも、もう一度会いたいと思う。今度は、どんな「メイドインジャパン」を用意しようか。カプチーノは私をイタリアへ誘う。
2005年06月14日
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姉にトランクを預けたまま私は、サンタ・マリア。ノヴェッラ駅を右往左往した。掲示板という掲示板を見尽くし、それでも目的の物は見当たらない。列車の入線番号は表示されているものの、列車の編成表がないのだ。ヨーロッパでは他の車輌への移動が出来ない列車があるから、自分の座席のある車輌に初めから乗り込まなければならない、とガイドブックに書いてあったのに、この長いホームの何処で待てばいいのか。ホームが地面と同じ高さだから、乗り込むだけでも大変なのだ。思案の挙句、私は駅の事務室に入り、カウンターの中の男に声を掛けた。すると男は顔を左右に振り、イタリア語で仲間を呼んだ。怪訝そうな顔で近づいてきた一人に私がチケットを見せて二言三言話すと、その男も何か喋りながら私から離れていった。どうしよう、英語が通じない。イタリア語なんて、まるで解らない私は途方に暮れた。と、一人の男がゆっくりと歩み寄ってきた。がっしりとした体躯に穏やかな優しい目、微笑むその口元の豊かな白い髭が印象的であった。「メーアイ ヘルプユー?」ああ、英語だ。これで間違いなく列車に乗れる。風貌と同じく、その穏やかな声に私の体の中の神経がいちどきに弛緩していくのが判った。彼は、チケットを見ると、列車は9番線に入ると言い、私の座席のある車輌はホームのずっと前のほうに停まる、と教えてくれた。前の方といってもはっきりしない。「アイドン アンダスターンド ワットユーセイ クッジュー テイクミーゼアー プリーズ」もう私は必死であった。彼は腕時計と電光掲示板を見ると十分前に必ず迎えに来るから待合室で待つように、と告げ私が渡そうとしたチップを笑顔で制した。私は、必ず待っているからと、くどいほど彼に念を押してからも、半信半疑のまま姉と共に仕方なくベンチに腰を下ろした。出入り口の上の棚に据えられたテレビは、逐一列車情報を伝える。どうやら私達の乗る列車は20分程遅れるらしい。私はトランクに手を添えたまま、同じように列車を待つ人達の様子を所在無く眺めた。旅馴れているのか、言葉に不自由しないせいなのか、彼らはゆったりと時を過ごしているように見える。私はベンチに深く腰掛け直した。何とかなるだろう。そう思った時、先刻の白髭の男が近づいてきた。約束の時刻までにはまだ1時間もあるのに、しかも、部下らしい小柄の一人を伴っている。「コーヒーは如何ですか」断っても断っても誘う。「飲みませんか」が「飲みましょう」になり、やがて「野みたいでしょう」と彼の言葉は変わっていった。姉が洗面所から帰ってくると心配するから、と言えば、私より年上だから心配いらない、とまで言う。荷物が心配だと言えば、友人に見させておくから心配いらない、と。待合室の入り口を見れば、いかつい身体の、恐そうな顔つきの男が立ってこちらをじっと見ていた。胸には写真入りの名札を着けている。私は白髭の男に従った。「ジャポーネー」「チャオー」カップを高々と挙げた。(続きは明日に)
2005年06月13日
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昨日は仕事で山手に行く。横浜市の文教地区に指定された街。ホームにポスターがない。それだけで、もうホームはすっきりして雰囲気がいい。坂道を登り目的地に向かう。横浜は本当に坂が多い。薄曇りなのに、歩いていると汗ばんでくる。花屋の店頭にはもう夏の花が並んでいた。仕事の後、友人と元町へ出かけた。いつものコースである。どちらかと言えば、大きな声では言えないが、仕事の会議よりもこちらの方がずっと楽しい。それを楽しみに出かけてきたようなものである。いつものブティックに入る。目指して来たわけではないが、通りから店内を眺めて歩いていると、気になる品物を見つけて入ってしまう。上品な老婦人が声を掛けてきた。「私はね、ここの者ではないのですよ」続けて「あなたがお持ちのマークねえ、私が考えたのですよ」元町のチャーミング・セールには青森からだって駆けつけるほどの、人気のブランド「キタムラ」である。そのブランドの頭文字を採った「k]のロゴを考えられた方であった。前を通って来たばかりの「キタムラ」の店内は夏色でカラフル。白を基調としながらも、今年のカラー淡い黄緑や黄のバッグが目だち、明るく華やかな店内は、買い物客で賑わっていた。「キタムラ」ファンは多い。好きな人は物凄く好きだが、私はブランドには余りこだわらない方だから、そのマークに釣られて買ったわけでもない。ただ、使いやすさに惹かれて求めたものであった。地元のためあちこちに支店があり、目に付き易く、手ごろなのだ。そのブランドのバッグはカジュアルなものばかり幾つか持っている。過去にも何度も買っているから、愛用者の一人と言えるかもしれない。地元を応援したい、そんな気持ちもなくはない。フィレンツェのフェラガモ本店で靴を買ってきたことがある。確かに履き心地もいい。が、元町ブランドの「MIHAMA」の靴は決してそれに劣ることはない。革も柔らかく、デザインも素敵なものが揃っている。フェラガモの神話も今はあやしいものだ。昔より品質や縫製の具合も落ちたように思う。婦人はまた話を続けた。「何処で買われましたか」「そうそうあそこにありますねえ」物腰の柔らかい静かな話し振りに、ついつい引き込まれていく。その婦人が帰られた後襟ぐりと袖口にあしらわれた白の縁取りが印象的な茶といっても黒に近いサマーセーターと麻の淡いベージュ色のスカートを買う。シフォンのような薄手ながら、麻特有のシャキッとした素材感が良かった。多忙な者が気に入った洋服に出合えることは意外に難しい。いざ買おうと思っても、なかなか見つからないものである。最近は、気に入ったものに出合った時は、なるべく買っておくことにしている。が、さして浪費癖も買物癖もないから、そんなに心配することはない。第一、頻繁にショッピング出来るほど優雅な暮らしでもなく、仕事仕事で多忙に過ごしているから、カードの支払いで首が廻らなくなるような心配もない。インテリアショップでは、高級なソファに交じり、ドールチェアーが目に付いた。その上で子犬がじっと私を見つめていた。茶色の毛並みも美しいが、澄んだ目が何とも可愛いい。うん? 精巧に出来たぬいぐるみというか、本物ではないのだ。あまりの可愛さに、私もじっと見つめたけれど、相手は微動だにしなかった。それもその筈である。不思議な木の切れ端で作ったようなボトルキープ。「横浜赤レンガ」と焼印を押しているのもあり、丸い穴に瓶を突っ込むと、ボトルが宙に浮いた状態となる。要するにワインの瓶を斜めにして飾っておくものだった。斜めにカットしたその角度がミソらしい。突っ張りとなるものもは何もないのに、何の支えもなく一枚の板が斜めに立って瓶を支える、何とも不思議な板である。NHKで放送したら早速問い合わせがきたそうだ。元町通りを歩くうちに、雨粒が落ちてきた。パラパラ、から やがて本降りに。歩きながらバッグの中に手を入れる。あちこちまさぐってみるが、傘はなかった。今朝、入れたはずなのに・・仕事用のやや大きめのバッグの、書類の間にも、どこにも、傘は入っていなかった。仕方なくドラッグストアの店頭にあったビニール傘を買う。ビニール傘なんて、お洒落じゃないけど・・とぶつぶつ言いながらも、濡れるよりはましだ。が、この傘の効用を発見した。今頃!前が見える! (透明だから当然)見えるからぶつかる心配がないのだ。日曜日の夕刻ながら、人出はかなりあった。すれ違うときに肩が触れそうになったり、正面からの出会い頭にもぶつかったりする惧れもない。混雑している時はこれに限る。食事とお酒を楽しみ、女同士の気楽なお喋りを堪能して外に出たときには、もう雨は上がっていた。不要となった傘ほど邪魔な物はない。杖を必要とすることもないし、処分する処もない。我が家に帰り着くと、傘立てにもう一本傘があった。申し合わせたように、グリップには、購入済の目印の、青いビニールテープが貼ってあった。
2005年05月23日
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修学旅行か遠足か、鎌倉は学生で賑わっていた。小町通りは原宿の竹下通りを彷彿する。さすがに段蔓のあたりは静かで、桜の若葉は、もう深い緑色を呈していた。中島千波の素描を見て外に出ると、鳩の絵入りの、黄色い紙袋を提げ、豊島屋の本店から女学生のグループが出てきた。鳩の形をしたサブレーは、今も鎌倉土産の代表のようだ。偶然立ち寄った画廊では、千住博の「ウオーターホール」に出合えたが、デパートの美術館で観たものとはかなりの差があって少々落胆。平山郁夫はどこでも人気があるようだ。複製には、赤いシールがいくつも貼られていた。新進作家の陶器展に立ち寄る。銀彩を多用した洋風の華やかな食器が並ぶ棚を眺めた。どんな人がこれを使うのだろうか。床に置かれた大きい陶器の壷に花水木が生けてある。花はないが、鮮やかな若草色の葉が殊の外美しい。その花入れの壷は趣があってよかった。画廊をいくつか梯子して駅に戻り、ついでに江ノ電に乗り換えて腰越(こしごえ)に向かう。NHK大河ドラマの影響で江ノ電の「腰越」を訪ねる人が増えたらしい。所縁の寺、万福寺があるからである。源義経が兄頼朝に会うことも叶わず、悶々と過ごすうちに、その兄に宛てて書いた嘆願書というか、後に「腰越状」とよばれる書状を書いた寺で知られる。「腰越」は4つか5つ目の駅でそれ程遠くはなかった。民家の軒先をすり抜けるように、時には街中の路面をごとごと走る。湘南の海岸べりを通るところもあり、それ程速くもない可愛い緑色の電車は、何度乗っても風情があっていい。駅に降り立てば、寺へはもう2,3分程である。寺務所で拝観料200円を支払って中に入ると、ガラスケースにおさまった、義経の「腰越状」にお目にかかれる。数箇所に脱字があるものの、巧みで、品格の高い筆跡にまず驚く。義経の教養の深さと人間性を語るものであろう。大小はあるが、直径3センチ程のその文字は、長文であるにも拘らず、終始乱れることもなく淡々と、非常に丁寧に書かれている。兄 頼朝への畏敬の念の表れであり、深い親愛の情を抱いていたことをも物語る。またそれと同時に、ぐいぐいと押し付けて書く強い筆圧は意思の強さであり、自分の思いの届かない、その悲しみの大きさを訴えるものでもあろう。義経の心情は、見るものの胸に沁みる。四国育ちで、香川県の屋島は親しみ深い。壇ノ浦の合戦の立役者、その歳若い武将義経が、苦悩の時を過ごした寺だと思えば、尚更のことである。奥の部屋の襖には襖絵の代わりに鎌倉彫がしつらえられてあるものや、巧みな襖絵もある。絵画や陶磁器もあるが、総じて古い物の中にいいものがあった。矢面に立って死んでいく凄絶な弁慶の姿や、義経と静御前も本堂の板戸に描かれてはいるが、義経によって書かれた「腰越状」に勝る物は何もなかった。それだけ、多くのものを語る書状でもある。寺から、ほんの2分程歩けば湘南の海が開ける。辺りを「こゆるぎ」と呼ぶらしいが、「小動」と書くのも面白い。穏やかな天気のよい日なら、そのまま江ノ島まで散策するのも良いだろう。些か疲れを覚えた私は、再び江ノ電に乗って藤沢経由で帰途に就いた。
2005年05月14日
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北京に発つ数日前から風邪を引いていた。喉の炎症による咳で熱もなく、幸いなことにインフルエンザではないから、と高をくくっていたのがまずかった。出発前夜に発熱。それを薬で無理やり押さえて翌早朝平熱に下がっていたのにひとまずほっとして、成田から飛び立った。北京第一日は事もなくすみ、このままおさまるかと思いきや、中国美術館・人民大会堂と渡り歩くうちに悪寒を覚えるようになった。夕食後ホテルに戻った時にはまた発熱。何とも馬鹿なことである。翌日は仕方なくホテルで一人寝て過ごすことになる。ホテルライフを楽しむならともかくとんだことになったものである。朝食をとるのも億劫でベッドに横たわっていたが、栄養を摂らねばと思い直してエレベーターでロビーに行く。フロントのホテルマンに話しかけてみたが、日本語は余り通じない。東京にあるニュー・・Hの五ツ星ホテルなのに、と些か不満に思いながらも、仕方なく上手くもない英語で話す。風邪で発熱したなどと言っては大変なことになるかもしれないから、用心して、頭痛がしたから部屋で休んでいた、と告げる。連れと一緒に食べられなかったから、これから朝食をとりたい、と。そこまでは良かったのだが、何を食べたいのだと聞かれた私は、とっさに「おかゆ!」と言ってしまったのだ。勿論日本語で。ホテルマンは、怪訝そうに私を見つめてもう一度英語で尋ねた。「あなたは何を食べたいのですか?」「えーと、 おかゆって英語でなんていうのかしら・・うーん、」ホテルマンは困っている私にメモ用紙を出して言った。「カンジ カンジ」「ああ、漢字ね。そうねえ、漢字なら・・ えっ?おかゆって・・そうそう、こっだった。 弓に米に・・」私が書いているメモ用紙を覗き込んだホテルマンは、安堵の笑顔を見せた。一件落着である。正に漢字は表意文字であった。和食のレストランに案内されると、「粥御膳」なるものが出された。大振りの膳に乗った根来塗りに似た筒状の器の蓋をとると、やや粘りのある白粥がたっぷり入っていた。れんげと茶碗が添えられている。中国のお粥はなんたって美味しい。白粥もいいし、小豆粥と見紛うような古代米のお粥も美味しかった。十数年前の旅を思い出した私は、漸く少し元気が出てきた。膳の中央には、程よく焼かれて青みがかった半透明の美しい姿そのままのさよりの干物、蓋ものは厚揚げ、大根、緑が鮮やかな絹さやの含め煮、たしか生麩も入っていたと思う。だし巻き卵に軽く絞った大根おろしが添えられ、ちりめんじゃこに大根おろしの和え物、黒い塗り椀に入った味噌汁、手塩皿には数種類のおしんこが盛られ、梅干も一個ついている。おまけに、出されたお茶はほうじ茶ときている。食後には西瓜のデザートも運ばれてきた。まるで日本の旅館そのまま。何だか儲かっちゃたなあ・・と思いながらも、美味しそうなさよりの干物にも、厚揚げの煮物にも、この時ばかりはさすがに箸を付けることは出来なかった。12階の窓から眺めると、四方はみな高層ビルである。ビルの屋上にキャノンの大きな広告塔が見え、見下ろすと、ビルとビルとの間からは相変わらず車の疾走するのが見えた。あの様子ではやたらとクラクションを鳴らしているに違いない。ホテルの中庭にある四阿が中国独特の、四方が反りあがった瓦葺き屋根の建築物であるから、辛うじてそこが北京であることを実感するくらいである。木が揺れている。かなりの強風が吹いているらしい。昨日もかなり寒かった。北京はまだまだ冬、この時期には冬のコート必携が常識なのに、お洒落は季節に先駆けて・・などと伊達の薄着で風邪を引くなどとは、誠にもって間抜けな話である口をつぐんで無事帰国は果たしたが、こじらせたまま未だ咳に悩まされている。
2005年04月05日
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目が覚めたら、列車は止まっていた。どこだろう。身を起こしホ-ムを見る。反対側の下りホ-ムを見ても、駅名の表示が見えない。ホ-ムの電光掲示板には、名古屋・東京方面 12→ひかり326 20:28 東京ひかり288 20:58 東京の表示が見えた。良かった。名古屋はまだだった。時計は20時27分を指す。階段とエスカレ-タ-の辺りで、蛍光灯が煌々と照る。車内の電光掲示板の赤い文字は、「ありがとうございます。ひかり326号東京行き・・」とむなしく流れるだけ。車両が大きく揺れた。轟音と共に「のぞみ」が通過したようだ。身を乗り出すようにして首を左によじる。漸く「米原」の表示が見えた。パリの地下鉄を思い出す。電車がホ-ムに入ると、どの駅かすぐ判る。不慣れな旅の者にも瞬時に判別出来る。それほど大きい表示が徹底している。 日本では、どの駅も似通っている。コストを下げるためか、同じ仕様の駅が多い。通勤の際も、居眠りから覚めて慌てることがある。きょきょろ見回して飛び降りたものの、手前の駅であることに気付くのは大抵電車が出た後。たとえ事前に気付いても、恥ずかしいから悟られないように悠然とホ-ムに立つ。そして、後続の電車に乗って帰るのである。間抜けさを悔やみながらすごすごと。
2005年02月21日
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