センス・オブ・ワンダー Ⅶ・Ⅷ




驚く心(センス・オブ・ワンダー)私たちの旅Ⅶ
at 2003 03/22

【ねずみの卒園式――かしこいチーター父さんP会長祝いの詞――】

みなさん、おはようございます。
○○幼稚園のお友だち、今日のお空のようにとても綺麗な水色の制服を着るのも、今日が最後となりました。
みんなは、園庭を駆け回ったり、このお遊戯室で発表会をしたり、お誕生会をしたりすることはもうありません。みんなが大事に大切にしてきた動物さんたちやお花や野菜のお世話をすることは、新しい幼稚園のお友だちにお願いすることになりますね。
雨の日も寒い日も運転してくださった運転手さんのバスに乗ることも、もうありません。
それから、みんなの楽しい思い出がたくさんたくさんあるお教室で、お友だちと遊んだり、先生とお喋りしたり、お母さんからご本を読んできかせてもらったり、お家の方が真心こめて作ってくれたお弁当を食べることも、もうありません。
これから、みんなはそれぞれの小学校へ行くことになりますね。
新しいお友達はすぐにできますが、この○○幼稚園のことを忘れないで欲しいと思います。
いや、決して忘れることはないでしょう。
お友だちや先生の笑顔を、ありがとうという気持ちと一緒に忘れることはないでしょう。


 さて、保護者の皆様、お子様のご成長並びに本日のご卒園、誠におめでとうございます。
 お忙しいなかを、園児の晴れ姿にお立会いいただきましたご来賓の皆様、誠にありがとうございます。
 そして、今日の日まで、子どもたちを、また私たちをもお導き下さいました○○園長をはじめ、先生方、バスの運転手さん、地域の皆様方そして多くの関係者の皆様、感謝の念にたえません。
 私は2年前のこの子たちの入園式の光景を忘れることができません。みなさんはいかがでしょうか?(笑)
あんなに色白で、やんちゃなこの子たちもこんなに立派に成長してくれました。
もちろん、私たちの子どもたちとの関わりがこれで一段落するわけではありません。
先日、私はこの言葉を思い起こしました。
これは外国のある海洋生物学者が提唱している言葉ですが・・・「センス・オブ・ワンダー」
日本語で、驚く心、と紹介されております。
幼い子どもたちは、実に活発に動き回り、環境や世界との関わりのなかで、体全体で驚きの心に満ち溢れていると紹介されています。
この驚く心、を私は豊かな心の泉と捉えております。
この驚く心、豊かな泉、そしてこれから子どもたちが学んでいく社会の約束事、それからその約束事から逸脱しようとする心・・・・これらのせめぎ合いを通じて、また私たちと子どもたちとのこれらの関わりのなかで、豊かな共感が生まれるのだと思います。
その視点から、私は子どもたちや私自身の内発性というものを再認識しなければならないと痛感しております。
子どもたちは私たちの育児の対象ではなく、一人ひとりが主体であり、説得ではなく納得の育児の転換が大切かと考えております。
 この式が始まるのを同時刻にして、大変哀しく、むなしい出来事が世界で行われておりますね・・・・・・。決して、私たちと無縁の世界ではありえません・・・・・・・。
このとても晴れた日に、晴れやかな日に、なんとも言いがたい無念であります。
子どもたちと未来を信じたいですし、また祈らずにはいられません。
 最後に、この2年間、保護者の皆様におかれましては、PTAの運営ならびに推進についてそれぞれのお立場、役割においてご尽力ご活躍賜りましたことを心よりお礼申しあげます。
私たちにとっても、○○幼稚園がすばらしい心のふるさととなりました。
ますますのご発展を願わずにはいられません。

さて、○○幼稚園のお友だち。
みんなは、この幼稚園で、元気な子、よく考える子、仲良く遊ぶ子、そしてやさしい子になってくれましたね。
お母さん、お父さん、おばあさん、おじいさんはみんなには負けるけど、みんなのおかげでちょっぴり成長できました。
みんな、ありがとう、そしておめでとう。
ご挨拶を終わります。

(妻が撮ったビデオより)



驚く心(センス オブ ワンダー)私たちの旅路Ⅷ
at 2003 03/23

どのような出生環境の歴史をも、拭い去ることは出来ないが、その人の選択の積み重ねが、その人の与えられた生命に意味と価値を得ることはまぎれもない事実だ。
子育てが=アタシたちの旅路、であるということをお分かりいただけているだろうか?

   【私たちの旅路Ⅵ――最後節より続く】


 環境に配慮する、アタシたちに問いかけてみよう。
子どもを社会的弱者として見据えてないだろうか?
あなたは、しつけをどう捉えているか?
 「虐待」というキーワードから紐解いてみよう。
虐待とは――権力の乱用、力の誤用――という「英語(!)」の「ABUSE」であり、社会的に力のある者が弱者とされる者に対し、その権力を乱用、相手を悪用する行為である。
大人と子どもの立場に置き換えると、大人が権力を乱用して子どもの人権を侵害する行為である。
 大人の子どもに対する虐待は次の4つに分類される。

①子どもに暴力を奮い、外傷を残す残さないに関わらず、様々な行為で傷つける身体的虐待。
②日常的に子を罵り、行動や人格を否定する心理的虐待。
③子どもが望まないあらゆる形態での性的接触及び性的なことで子どもを利用する性的虐待。
④子育てを放棄、子の遺棄、あらゆる意味において子に愛情をかけない、ネグレスト。

 どうであろうか?
子どもへの「虐待」とは、あなたの自覚があるなしに関わらず、力関係の構図において、あなたもアタシも、「いつでも、誰でも、どこにでも、誰からでも――」起こりうる人権侵害である。
アタシたちは、いつでもどこでも侵害者たる性質を持ち合わせていることを、まずはしっかり認識しておかなくてはならない。

 では、子どもたちは何故暴力の被害にあいやすいのか?
それは、【私たちの旅路Ⅴ・Ⅵ】において、
すでにアタシたちが「検証」してきたように、アタシたち、子どもたちは、「与えられた生命力」は、社会的な「力」を持ち合わせていないからだ。これまで述べてきた環境=「与えられた生命力」を「選ぶ」ことができない。
子どもは、その環境から「逃れ」、一人で生きていくことはできないのである。
この、構造的な力関係の落差のなかで、逃れようのない「関係性」のなかで、子どもたちは容易に被害にあいやすい存在なのだ。
 二つ目の要因として子どもたちに虐待に対しての正しい認識を持ち合わせていないことだ。
【私たちの旅路Ⅱ・Ⅲ】に立ち返ってみよう。
感情・理性・感性が未分化な幼き子どもたちの例を見るまでもなく、この驚く心、が愛されることを拒むことはできない、ということだ。
加害者は自らの行為を正当化するため、「愛情表現」だと主張し、正当化するだろう。
何が「暴力=虐待」なのか知識をもたない、驚く心、は大人に愛され保護されることを自然と望む子どもにとって、どういうカタチであれ、行為であれ、「暴力=愛される?」ことを拒むことはできないのである。
テレビや漫画の氾濫した今日では、なおさら、子どもたちが自分が侵害されていることすら、自覚がない場合が大勢なのである。
 そして、常に子どもたちは「孤立」しておることを、よくよく認識しておくべきだ。
たとえ、被害を自覚しても、「誰にも言えない状況」に常に置かれていることを――。
簡潔に述べよう。怖くて「誰にも言えない」のだ。
また、加害者はその責任を被害者に転嫁するのである。
「お前がいたらないから!落ち度があるから」
自尊感情を失い、無力、無抵抗になった子ども達は、なおさら「大人」の都合のよい存在になり、繰り返し虐待が行われる要因をつくる。

加害者がいなければ、虐待は、ない。
アタシたちが、その要因を「解決」する力や自尊感情を持ち合わせていれば、加害者たらずにすみ、子どもたちに安心・自由・自信を与えることができることを忘れてはならない。

賢い読者(?)は、もうお気づきだろう――。

【11月の―フンだ!幸せのフンだーの出会いの情動】、
【12月の―湯煙の向こうに―の人権】、
【1月の―一瞬のきらめき―の自尊感情】、
【2月の―微動だにしない青ーの自由】、
【3月の―驚きの心(センスオブワンダー)―の子育て】―――。

これら、【まるくん幸せ帳】はすべてが何層もの螺旋状のように密接に連鎖していることを――。

この力関係を捉えて、男女社会にそのまま当てはめても良い。

そして、今!今まさに「虐待=暴力」を受けている「世界の動き」に、あてはめるのだ!!

どうか深く、深く、読み込んで欲しい。


いみじくも、チーター父さんは、「驚く心」を即興ながら「豊かな泉」と訴えた!

アタシたちの「豊かな泉」を消さないで!!





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