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突然ですが、本日11月2日を以ってブログの更新を停止します。今まで、ご愛読ありがとうございました。温かいメッセージを送って下さった方々には筆舌に尽くし難いほどの感謝の想いで一杯です。凡そ3年間の、私の記録はこのまま残しておくつもりです。いつか、こんな苦しい時期もあったと笑顔で振り返ることが出来るまで、削除しません。このブログが消えた時。その時、私はきっとこころの底から笑う事が出来て、楽しんで食事をしているのでしょう。お世話になった方々に、胸いっぱいの感謝の気持ちをこめて。さようなら。
2008.11.02
とうとう9月はブログの更新が1度だけとなった。毎日、長文綴っていたあのバイタリティは何だったのだろうか、何処に行ったのだろうかと不思議に想う。神無月。もう秋真っ只中で朝晩は寒気を覚える。でもそれが何だか心地よい。現在は、ぽつりぽつりと浮かんでは消える言葉をメモ帳に書き殴ってみたり、そのまま忘却の彼方へ追いやったりとなるべく無理をしないように過ごしている。無理をしたくても、出来なくなったというのが正直なところかも知れない。3歳の頃から、私はこころを患っていて摂食障害の症状が現れてから、13年の時が流れた。他にも心身問わず様々な病を患っている。特に摂食障害に関しては、“治す”ものではないと主治医と話し合いの中で探り当てた答えでもある。“治る”ように、治療でもある主治医の診察を受けたり、自分でも何かを考えたりきちんとお薬を服用したりする事が大切なのである。その為には、精神的にも身体的にも今まで無理をしてきた分、ゆっくりと静養する事が重要になってくる。しかし、祖父が5月末に脳卒中で倒れてからは、次から次へと身内にも自分自身にも辛苦が訪れて、気が休まる暇などなかった。私の身内は皆、未だにずっと緊張が続いていると感じる。時間を経る毎に降りかかってきた問題が大きくなっているものもある。それは、弟に関するものである。今、私は弟を信用する想いを持てなくなっている。母からお金をもらう時だけ、弟は連絡が取れて登場する。それ以外は、どんなに携帯電話を鳴らしても、メールを送っても、全く繋がらない。連絡の取りようがない。弟に関しての問題は、本当に気落ちした。嘘に嘘を重ねて大変な事になっている。だから私は、死ななくてはならないと想った。私が死んだら、保険金がおりる。そのお金で母も楽になるだろう。家族で分けてもらっても良い。私という迷惑をかけ続ける邪魔者さえいなくなればいい。そういう考えが、此処のところずっと全身を支配している。一瞬の痛みさえ我慢すれば、3歳の頃から癒えることなく重なってきた病にその症状に、今後苦しむ事はなくなるのだから。そう想うと、不思議と気分が楽になる。手元には、自殺できるであろう量のお薬はあるけれど、向精神薬で自死できる確率は低い。失敗したら、ICUに入院という事になり、その医療費でまた迷惑をかけることになる。それだけは、避けねばならないからもしも、決意できたら方法は決めてある。PTSDのフラッシュバックや、解離。強迫性障害による日々の暮らし難さ。摂食障害で蝕まれていく身体とこころ。うつ病も酷くなり、余程調子が良い時でないとこうしてネットにも繋げない。本を読めない日もある。睡眠障害でその日によってお薬を調整しなければならない事。その他諸々の病気の症状。1週間ほど前からは、歯痛も加わっている。外出するのも困難だから、歯科に行けない。すべての物事に関して無関心。無気力で、何もできない自分を憎み苛立ち、自傷する気力さえない毎日が、過ぎていく。ただ、それだけ。私は、この世から離れられる日を心待ちにしている。10月4日は、姪っ子の運動会がある。最近の幼稚園は、セキュリティも厳しく入る為に証明書が必要だという。姪っ子の、初めての運動会なのでデジカメの準備もして勿論私も申し込んだ。母も、お仕事を休んで行く予定である。お弁当作りも念が入っていて、今晩から下拵えの為に、母は妹の家に行っている。また、明日の朝はお弁当仕上げの為に早くから家を出る。久し振りに太陽の光を浴びながら姪っ子が「私ね、走るの速いんよ!男の子よりも!一番なんよ!」と言っていた事を想い出しつつ、精一杯応援したい。特別な日くらい、無理が出来る事を願いつつ。
2008.10.03
1ヶ月振りの更新。菊月というこの月も、最早終わろうとしている。季節も移り変わり、秋風が心地好い。ブログを更新できなかった間、様々な事が次から次に襲い掛かってきて、私はそれを受け容れるのに必死だった。妹の夫は、相変わらずモラルハラスメントと言っても良い態度で妹に接しているし、DVも無くなったとは言えない。弟にも、新たな問題があるということが発覚した。詳しくは綴れないけれど、唯一全うなのかと想っていた弟がそういうことをしていたのかと、私たち家族に嘘をつき続けていたのかという事実に、打ちのめされた。また、祖父や祖母の事を想うと胸が痛む。訳の分からない焦燥感が、いつも纏わりついている。死ぬ気力がないから、生きている。ずっと、そういう想いで生きている。周囲が、余りにも目紛るしく変化していくから、それに付いて行くのに必死だった。やっと追い付いたと想ったら、また新たな問題が起きる。その繰り返しに私は疲れていた。今も、疲れている。一層の事、此処から消えてしまえたら本当に安らかになれるのだろうという安易な考えばかりが浮かんでは消える。眠っている時だけが、本当の意味で私にとって“無”になれる時間である。習慣は、やはり余り変わっておらず、朝に眠り、昼過ぎに起きたら過食と嘔吐をして、シャワーを浴びる時間になるまでまた少し眠る。支度をしてスーパーで食べ物を購入して母と共に夕飯を食べ、そのまま私は過食・嘔吐をし、お薬を服んで2~3時間ほど眠る。そして夜中に起き、発泡酒を飲みながら黙々と読書をする。朝方からまた過食を始めて嘔吐をしたら、もう心身は疲れ果て、お薬を服用してくずおれて眠るといった繰り返しである。そんな生活を送っていた。PCに触らなかったのは、また壊れていたからである。最初、IEのブラウザを立ち上げてもすぐエラーが出るようになった。次に立ち上げた時、マウスを動かしてもポインタが動かなくなり、キーボードだけで原因を探りトラブルシューティングで直そうとしてもどうにもならなかった。再インストールしか道はなかった。しかし、心身ともに疲れ果てていた私にそんな気力は残っておらず、ずっと放置したままだった。でも、10月から観月ありさちゃんのドラマが始まるのでその情報を収集したいという気持ちが強まり、意を決して一晩かけ、またPCをまっさらな状態に戻した。一晩かかったのは、トラブルシューティングをまた実行してみたり、それが無駄だと分かったらデータのバックアップを取ったりしていた為である。その間、何も食べず発泡酒を飲みながら煙草を吸い続けていたので、空が白み始め作業が終わった頃、ものすごい頭痛に襲われていた。そこでまた、ズドンと堕ちて数日立ち直れなかった。それでも、私は生きている。少しずつ、何もかも厭になってきているというか、興味が薄れてきている。観月ありさちゃんのドラマが始まるのは楽しみだけど、以前ほど嬉しいという気持ちが無い。ただ、「痩せた身体でいられたら良い」という想いだけで生きている。しかし、放置していたむし歯が今になって頭痛を伴うほどに痛み始めていて、どんなに生きる事に対して消極的でも歯科には行かねばならないと考えると、それだけでうんざりして、ドッと疲れる。現在・・・今というこの“8秒間”を生きる事。それだけを考えて、どうにか過ごしたい。
2008.09.27
☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆メッセージを送ってくださる方々へ。いつも、本当にありがとうございます。楽天ブログのブロガーさん以外の方からも温かいメッセージを頂き、大変感謝しています。お返事が出来なくて、申し訳ないです。でも、とても励みになっています。弱っていたので、励ましのお言葉にとても元気付けられました。そして。うさぎさんからのメッセージでいつも胸が温かくなります。皆様、本当にありがとうございます。更新は不定期となってしまいましたが、それでも読んで頂けて嬉しいです。私は不甲斐ない、情けない人間ですが、ゆったりとやっていきたいと考えています。重ねて、感謝の意を述べさせて頂きます。メッセージを送ってくださり、ありがとうございました。☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆あんなに喧しかった蝉の啼く声は鳴りを潜めて日が暮れると秋の虫たちが一斉に優しい音を奏でている。夏は、あっという間に過ぎた。もう、秋の足音が忍び寄ってきている。こんなにブログを更新しなかったのは初めてである。気にはなっていたが、精神状態は最悪でこうして言葉を紡ぎだす事なんて到底出来ない、深い闇を彷徨っていた。携帯電話は、専ら目覚ましアラームと時間確認という時計代わりでしかなかった。そのような状態に陥ったのは、やはり妹の夫が執拗に妹を苛め続けている事・・・つまりモラルハラスメントが蔓延っている状態を知り何も出来ない自分に腹が立った事も一因である。その上、PMSで情緒不安定だったのに、お薬の変更があり、またこのお薬たちが身体に合わなかった事にも苦しんだ。常々自傷したいと考えていて、カッターで切ったり、アイスピックで刺したりしていた。お薬の変更により、余りにも酷い精神状態に陥ったので前の処方箋のお薬が残っていたからそれに戻したら、幾分落ち着いた。だから今こうしてやっと文章を綴る事が出来ている。こころの中には、たくさんの想いが溢れている。渦巻いている。でも今の私には、それを言葉として表現するのが困難である。祖父の事、祖母の事、妹の事、姪の事、そして母の事。大切な人達が苦しんでいるのをただ見ている事しか出来ないという事実が、無力感へと導いていく。特に、妹に関してはもう、その結婚生活は末期というか破綻寸前のところまで来ている。あの男は、妹の事をまるで自分のモノか従順なペットのように見ていて、思い通りにいかなければ暴れたり、言葉の暴力で妹を追い詰める。妹を家の中で疎外させて、目の前でわざとらしく子どもを可愛がる。そんな歪んだ愛情を受けている姪っ子が可哀想だとかそういうレベルではなくて心配でならない。あの男は、妹への当てつけの為だけに姪っ子を可愛がっている節もあるのだから。まだ5歳の姪っ子だが、これからどんどん自我が芽生えていった時果たしてこの状況に何を感じるだろうか。不安は膨張していく。何よりも、モラルハラスメントは、相手のこころを殺してしまう。妹は、子どもが幼稚園に通えなくなるからという経済面の理由で離婚できないでいる。愛情も無いのに、続ける結婚生活。母と同じ道を歩んでいる妹。そしてその母を救えなかった私は、同じく妹を救うことも出来ない。やはり私は周囲に迷惑をかけるだけなのだから死んでしまった方が良いのだろうと改めて強く感じた。毎日、自傷する事ばかり考えている。私が自傷したいと想うとき・・・それは何らかの物事に関して“怒り”を覚えている時である。今は主に、妹の夫に対して。そして、周囲に迷惑をかけるばかりで何も出来ない自分の存在に対して。人間は、産まれてしまった限り、死ぬ運命にある。また、産まれる時も死ぬ時もひとりである。子どもの頃から、大人の汚い部分を沢山見続けてきて、こういう人間にはなりたくないと考えていた。でも、私は汚い大人になりつつある。こころが歪んでいっているのを感じる。これ以上醜くならない内に、消えてしまいたい。この世界から居なくなってしまいたい。それが、今の私の願いである。
2008.08.27
「疲れた」なんて生易しい言葉では言い尽くせないほど心身ともに消耗し続けている。生きている事なんて、どうでもいいと感じるほど、もう、全てが苦しくて堪らない。原因は分かっている。このこころと身体を蝕んでいるのは、病的な“恐怖”である。この“恐怖”は小さな頃からこの身体に、こころに根付いている。初めて恐怖を感じた対象は、母だった。妹が生まれてから母は益々余裕がなくなり、躾と称する打擲が始まった。3歳の小さな子どもから見る大人は、通常、物凄く大きく感じるだろう。母の場合、結婚生活の様々なストレスやこころの傷によって摂食障害となり過食で太っていたのでより大きく感じられた。打たれる前の、あの大きな腕が振り上げられ、大きな掌が私を打ちのめすまでの恐怖は、未だに実感を伴って想い出される。父親は、妹と弟だけを可愛がっていたので私が打たれていようと蹴られていようと無関心だった。だが、妹や弟が母に怒られている時は、父は「そんなに怒るな。叩いたら可哀想だろうが」と、止めに入っていた。あの頃は、そういった矛盾に気付けなかったが、今想えば哀しい事なんだろうなと感じる。現在、様々な事に恐怖を感じている。“自分の死”以外の事全般に。祖父の病状、祖母が独りで過ごしている事、妹の生活、姪っ子の事・・・それはあの男の暴力がこの2人に及ぶのではないかというもの・・・。そして母があの日死にたいと言った事等、枚挙にいとまがない。私は、いつ死んだって構わないと考えているので命の危機を感じても恐怖は感じない。たとえ過食して嘔吐の際に血を吐こうとも、低血糖発作で意識が朦朧としようともどうでもいいやと想う。適当に自分で処置して済ませる。だが、私の大事な愛する家族に何かあったらと考える時、忽ち私は言葉では言い尽くせないほどの恐怖に覆われる。主治医は仰った。「恐怖は、癌末期患者の疼痛に似ている。 その疼痛は相当酷いもので、 モルヒネ系の鎮痛剤で痛みを抑えるケアが必要。 そうしないと、痛みだけで心身ともに疲弊して げっそりして生きる意志さえ失ってしまうから。 あなたが常に抱いている恐怖にも、ケアが必要。 恐怖も、癌の疼痛と同じく 精神と身体を消耗させていく。 恐怖とは、脳の支配下にあるものだから、 薬物療法がこの場合は適切。 だから、先ず睡眠を確保して、恐怖を緩和するのに 効果のあるお薬に変更したい」私は、今のままの処方でも、恐怖を抱き続けていても、別にどうでもいいと想っていたけれど、「恐怖はお薬によってコントロールできるものである」「その病的なまでの恐怖をどうにかしないと、建設的な話は出来ない」という主治医の言葉により、私はお薬の変更を承諾した。しかし、そのお薬は眠り難くなるという副作用があるので、先ずは眠剤から整理する事になった。現在、量こそ少ないものの、私には沢山の種類のお薬が処方されている。それを整理して簡潔なものにするため、幾つかのお薬をやめて眠剤は3種類だけになった。そして、久し振りに睡眠薬を服用する事となった。今までは、メジャートランキライザーや眠気が強く出る抗うつ薬を使用していた。その睡眠薬はBZP系で中間型である。今まで処方されていたベゲタミンは削られ、その中に含まれているウィンタミンだけを処方に残された。この処方箋での生活は、来週から始まる。主治医は私の手元にお薬のストックがあるのを見抜いているので、もし眠れなかったり、異常があったりしたら新しい処方のお薬はストップして元のお薬を服用したらいいとの事だった。火曜日の電話診察は、私が抱いている“恐怖”に関する様々な事とこのお薬の事で費やされたが、私は唯一正直な気持ち、素直な想いを伝えられる主治医とお話が出来て少しだけ、こころは楽になった。だが、この生き延びている1日1日がストレスであり、生傷に塩を擦り込まれているような感じを覚える。数秒後、何が起こるか分からない恐怖を抱くという事。それは、子どもの頃から異常な恐怖に晒されてきたのだから仕方のないことなのであろう。だから、私は解離したり、摂食障害の症状である過食と嘔吐をしたり、自傷をしたりする事でどうにか乗り越えているのであろう。病的なまでの恐怖・・・それは脳が分泌する物質によるもの。だから、薬物療法でどうにかなる。そう想っても、だから何なのだろうと考えてしまう。憔悴しきって死を見つめながら消えてしまたら良いのにという想いがこころに溢れ続けている。痩せてしまったので、太るのがより一層怖くなった。何もかもが、悪い方向へと進んでいるのが分かる。未来なんて、私には無いのに、一体何を望んで生きているのだろう。
2008.08.15
ブログ更新が、不定期になってしまった。以前は、どんなに苦しくても辛くても毎日書き綴らなければ何か気持ち悪い感じがして無理をしてでも更新していたのに、今はもう、その感覚さえ、無い。立秋を迎えて、暦の上ではこの暑さも残暑となった。少しずつ秋へと近付いていくのだろうが、照りつける太陽は容赦なく、眩し過ぎる。だけど、その季節の強さを感じる感覚は何処かへいってしまっている。正直なところ、生きているだけで精一杯である。生と死の境目を、ゆらゆらと漂っている状態である。そんな私に、母はきつい言葉を放った。先日、努力してダイエットをした人達が特集されたTV番組を、母と一緒に夕飯を食べながら観ている時、私が食べている姿を見て言った。「この人たちはこんなに頑張ってるのに。 あんたは病気を治すつもりが無いんやろ」「毎日食べて、吐いて。吐くのも辛いんやろ? なんでやめようとしないの?」「病気を治していかなきゃ。治さな何にも出来んよ」これは、まだまだ生ぬるい言葉で、もっときつい事も言われた。私も一応、「病気は“治すもの”ではなくて 共に生きて治るように考えていくものだ」という旨の言葉を伝えたけれど、ビールでかなり酔っていた母には、戯言のように聞こえたのだろう。だから、治す気がないのだという言葉が出たのだと想う。例えば、PTSDという病気。私は摂食障害になる前から患っているが先日、妹も患っている事が分かった。症状は、解離やパニック発作、フラッシュバックに苛まれるものが主である。その症状に対して、果たして「治せ」と言えるだろうか。解離したり、フラッシュバックしたりするのは辛いだろう、だったら治せと、果たして言えるだろうか。母は決して、そのような事を妹に言わない。当たり前である。治そうと想っても、解離やフラッシュバックを自分で止めようと想っても出来ないのであるから。摂食障害も、同じ事が言えるのではないだろうか。私の場合は過食と嘔吐、そして拒食という症状として出ていて、それは目に見えて醜い行為と捉えられる事が多いし、金銭面でも周囲に多大な負担をかける。また、自分自身の身体もぼろぼろになっている。そういった、負の部分が強調されるから、また、食欲はコントロールできるという先入観もあるから、「どうにかしろ」ときつく言えるのだろう。母自身も、過食と嘔吐をしていた時期があったのに、もう忘れてしまったようである。摂食障害も、PTSDと同じく病気なのだから、解離やフラッシュバックを治せと言われて治せないように、また、他の例としては風邪を引いて熱が上がったり咳が出たりするのを今すぐ治せと言われても出来ないように、無理なものは無理であり、治癒を急かされるほど、「私は生きていては駄目なのだ」という想いが物凄いスピードで膨らみ始めるのである。毎日感じている、不安。祖父の事、妹の事、姪っ子の事、そして母の事。不安が膨張し続け、それが張り裂けると、恐怖になる事を、知った。恐怖を毎日感じていると、生きているだけで疲れる。精神的にも、身体的にも、何かが物凄い勢いで消耗していき、私は日々、衰弱していく。火曜日の電話診察で、主治医はこの私が抱いている恐怖を見抜き、また、その恐怖が私を死へと向かわせている事も分かって頂けた。毎日、私は自分に問うている。「今日は生きていてもいいのか。 それとも今日こそ死んだほうがいいのか。」その上に様々な、不安を超越した“恐怖”がこころの中で限りなく膨らんでいく。最後に笑ったのは、いつだったのかさえ想い出せない。解離を起こす頻度も高くなった。常に、自分が何者なのか分からなくて、ゆらゆらと揺れていて、こうして言葉を綴っている自分が一体何なのかさえ、漠然としている。主治医は仰った。「あなたは解離したり、リストカットしたりする事で どうにか現実と折り合いをつけているのかもしれない。 その方法が無ければ、もしかしたら もっと重篤な精神病になっているかもしれない。」尤もだと感じた。疲れてしまった。どうしようもないほどに。心細いとき、苦しいとき、辛いとき。どんな場合も、独りで解決しなければならない。少し身体の力を抜いて寄りかかったり、頼ったり出来る人は、身近には居ない。どこにも居ない、現実の世界。3歳の頃から、母からの躾と称した打擲が酷くなり、そこで私は解離する術を覚えた。それが病気ならば、治せといわれても、自分ひとりの力ではどうしたら良いのか分からない。兎に角、疲れてしまった。また、もう少し余力が溜まった時、ブログを更新できたらと考える。
2008.08.08
いつのまにやら葉月も2日目を迎えていた。7月の後半は、身体の調子を崩して1日を生きるだけで精一杯だった。毎日、胸が痛む。今、この瞬間に妹が暴力を振るわれてはいないか、祖父が苦しんでいるのではないか、祖母は独り、家で心細いのではないか・・・。自分の病気もしんどいけれど、家族が苦しく辛く痛い想いをしている事の方がもっともっと哀しくて考え、想えば想うほど言葉に言い尽くせない辛さが襲ってきて胸が痛む。“自分には何も出来ない”それを目の当たりにして、目の前が真っ暗になる。主治医の電話診察を受けている時だけは、ほんの少し、こころが落ち着く。しかし、やはりその話の中でも明日、何が起こるか分からないという覚悟で生きねばならないという結論に至り、私は自分の事が何も分からなくなった。気を抜けば、すぐに解離する。気付けば時間が経っていて、その間何をしていたか、何を考えていたか思い出せない。後、酷い下痢が続いている。昨日辺りは、少し落ち着いていたけれど、一時期は大人用オムツを穿かないと眠れなかった。お薬を服用すると、突然意識を失うように眠るのでその間は何も感じなくなってしまうから。10日ほど、起きている間は10分おき位でトイレへ行っていた。尾篭な話になるが、便は、色が少しついただけの水だった。所謂、水便である。その間に、私は痩せた。久し振りに会った弟から、指摘された。そのままじゃ本当にヤバイと言われた。自覚などない。寧ろ、もっと痩せねばと想っていた所だったから。弟に言わせれば、脚は棒のようらしい。涼しい時間帯に、散歩した方がいいとアドバイスされた。自分の事なんて、どうでもいい。それよりも、妹の生活の方が心配であるし、あの男の暴力が、いつ姪っ子に向かうか分からないと考えると居ても立っても居られない。母も、精神的に参っている。今まで、母との関係を良いものに築いていきたいとか、映画を観に行くことが出来たとか少しずつ病気が治る方向へ進みたいと想っていた。けれども、そんなゆったりとした時間なんて今後一切訪れない。憂慮は絶え間なく続き、安心できる時間は殆どない。眠る前も、「眠っている間に何かあったらどうしよう・・・」という不安でたとえお薬を服用していても2時間おきに目が覚める。DVは、犯罪。だから、私は周囲が反対しようとも警察の生活安全課には相談しておこうと想っている。周りの環境が落ち着いていた頃、漸く私は、“甘えるという事の意味”について考えられるようになり、甘えと依存の違いに気付き、甘えるという事こそ、人間関係を築く上でそれは糊のような役割を果たすものだと感じた。だが、私はもう、誰にも甘えられない。甘えられる人は居なくなった。病気が治っていく過程で、必要なのは甘える意味を知る事だと考えていた。私にとって、甘えられる対象は母だけだった。けれども、その母はもう、疲れきっている。祖父が入院した先の病院は、余り良くない所だった事がまた、母のこころを押し潰しているのだろう。カンファレンスに参加して、色々と質問をしたり、最低限の要望を伝えたりしたら、看護師長みたいな人が母のいる前で祖母に、「自分の子どもと相性が合わないのはつらいですよねえ」と言ったのである。確かに祖母は、病院側に全て任せたい気持ちであるが、拘束用具である、手袋を実費で購入を迫られたり、リハビリの時間以外はその手袋で祖父はずっと拘束されていたり、オムツは一昔前のタイプで蒸れやすく皮膚がかぶれやすい祖父にとって苦痛である事を「ちょっと違うのではないか」と母が物申したのが、病院側にとっていけすかないらしい。とある日の夜、母は、私に言った。「私が死ねば、保険金が入るから兄弟で分けて。 そしたら、あの子がお金が無いことで働いて旦那から文句を言われなくなるし あんただって未来があるんだから生きていける」その言葉を聴いた途端、私のこころは音を立てて壊れた。でも、表面では如何に母親とは素晴らしいか、母が共に生きてくれるお陰で私は生きていけるとか、妹も弟も私もみんな、母が大好きで母がいきなり死んでしまうなんて、幾らお金が遺されても、哀しくて苦しくて生きていけなくなるなど必死でその考えは違うと訴えた。立場が、逆になっていて倒錯的な感覚は否めなかったが、母は自分が死ぬという考えを“それは違う”と思い直してくれたようで、安心した。私は、必死だった。しかし、私はもう、生きていく気力がない。私の主治医は、妹も診察してPTSDという事で治療を始めている。母は、私のお薬を取りに行くため、診察室で先生とお話している。主治医は、母も妹も私もみている。その上で、3人とも本当に危うい状態だと仰っていた。もし1人が欠ければ、みんなこの世から消えてしまうかもしれないと。過食と嘔吐。この症状は、惰性で続いている。食べたから、吐くという、それだけの理由で。お酒を飲んでも、酔えない。大好きな安室奈美恵ちゃんの音楽を聴いてもすぐに気分が堕ちてしまう。もっともっと大好きな観月ありさちゃんの映像を観ても、集中できなくて数分で消す。何だか、毎日ジェンガをやっているような気分である。不器用な私は、2~3個ブロックを抜いただけで崩れそうな状態に追い込む。ジェンガは、私のこころ。1日の終わりを迎える前に、崩れ落ちている。そして1日の始まりに、組み立ててまた、1つずつ稚拙な手つきで抜き取っていく。崩さないように、けれども、崩れてしまえと願いながら。心許ない。こんな不安を感じるのは物凄く久し振りかも知れない。母こそ生きていてくれたら、私も生きていけると想っていた。でも、「違う」とこのブログを綴れない日々に痛感した。目の前が真っ暗なのに、歩かねばならない心細さは恐怖にも繋がる。幸せな未来など想い描かない方が良いと仰った主治医の真意がやっと分かった気がする。明日1日、私の大事な家族が無事でいられるかどうか、私は果たして生きていられるのかどうか分からないのだから。絶望なんて、生易しい言葉では言い表せない日々が、また数時間後昇る太陽によって始まると考えるだけでこころは押し潰されていく。
2008.08.02
妹が、ドメスティックバイオレンスの被害に遭っている事を21日月曜日の朝、知った。その朝私は、お薬を服用して床に就いたところだった。そこに、妹から携帯に電話が掛かってきた。「もしもし」と普通に出ても、妹は無言だった。しかし、嗚咽と共に段々しゃくりあげる声が聞こえてきた。「おねえちゃん、なんか、精神安定剤、ある?」徒事ではないと察し、早く家に来るように言った。数分後、妹は姪を乗せて車で家に来た。旦那を会社に送ってきた帰りだという。既に泣きじゃくっていて、取り乱していた。姪は、そんな妹の頭を撫でて「ママ、怖い夢みたんよね。大丈夫よね」不安そうな顔をしながらも、慰めようとしていた。母の部屋に入り、姪には私の寝室でTVを観ていてもらい、妹の話を聴いた。その話の内容は、まさしくDVであり、それもかなり酷いものだったので涙が流れ、胸は鋭いものでぐさぐさと刺されているような感じがした。身体的な暴力は、“床に突き倒され、頭や背中を容赦なく滅茶苦茶に蹴られ続け気を失った。救急車で脳神経外科へ行った結果、脳が腫れていたという事だった”というのが一例である。精神的な暴力は、数え切れないほどで、それは下劣であり卑劣極まりないものである。妹は、以前にも記述したように朝、旦那と子どものお弁当を作り朝食も作る。旦那を会社まで車で送り、子どもを幼稚園バスが来る場所まで連れて行く。そして、妹も仕事へ行く。食費を削るため、妹は昼食を食べないか、野菜ジュース1パックだけという事が多い。仕事帰りに幼稚園へ子どもを迎えに行き、そのついでに夕飯の買い物をする。旦那は我侭で、食卓にお肉とお魚そして副食が2品以上上っていないと不機嫌になり、妹に当り散らす。大変な想いをしながら夕飯の支度をした後、旦那を会社に迎えに行く。そんな、遊ぶ暇も、娯楽のための買い物をする暇もない生活を送っている。何故なら、旦那の給料だけでは生活できないから、妹が日払いの派遣バイトをしなければならないからである。しかも今ではお給料の前借をしている状態である。実際、妹はこの1年、洋服も、下着すらも新しいものを買っていない。あんなにお洒落で流行に敏感だった妹が。お金の大半は、旦那の食費・酒代・煙草代に使われる。食べる量が物凄いのである。私が過食の時に食べる位、毎食時、食べている。また、お酒も凄く飲む。なのに、あの男は、仕事関係の人と浮気しているんだろうとか、疚しい事をしているんだろうとか何とも妄想のたくましさを発揮して妹をねちねちと責めている。時に、暴力を加えながら、どんなに否定しても、謝っても、止めないという。驚いたのは、それが結婚前から続いていたという事である。私達家族は、あの男の外面の良さにまんまと騙されていた。また、そんなに妹が苦しんでいた事をこんな苦しく、PTSDという病名を付けられるまで気付いたり感じ取れなかったり出来なかった事が物凄く悔しい。情けない。哀しい。妹の傷は、計り知れないほど深いものだと想う。今の旦那は、妹が再婚だという事を知っている。前回の結婚が破綻したのは、元夫のドメスティックバイオレンスが原因だったという事も勿論知っている。それを承知していながら平気で妹に酷い暴力を振るうのだから、私は絶対に、あの男をゆるさない。月曜日、午前中のうちに母にも連絡した。母は、午後のお仕事をキャンセルして帰宅し、妹の話を聴き、抱きしめていた。また、旦那も話したい事があるというので妹達の家にも行ったが、旦那が言う事といったら、噴飯ものだった。自分の愚かさを露呈するもの。自分に起こる悪いこと全てを、妹の所為にしているのである。そして謝罪を求め、妹が謝っても決して許しはしないといった状態。けれども、子どもだけは可愛いから、可愛がる。物を与えたり、我侭をきいてやったりと好き放題させるので勿論、子どもは男に懐く。まだ、物事を判断できる年ではないから。もう、これ以上綴る事が苦しくなってきた。救いは、弟が居る事である。全面的に妹の味方であり、姪を愛している。姪を心から愛しているのが分かるのは、生まれたばかりのその命を胸に抱いたときから自分もこの子を護らねばならないと考えたからだそうである。哀しい事に、姪が妹のお腹の中にいた頃も、元旦那から暴力を振るわれていたから・・・。どうして、妹だけにこんな哀しみが繰り返されるのだろう。去年、大親友だったKちゃんを喪ってから、妹は少しずつ弱ってきてしまっている。妹は、言った。「今までは子どものために生きなければと 想っていたけれど、 もう、子どもは誰かが育ててくれた方が良いんじゃないか、 私は死んだほうが良いんじゃないか、 死んでしまいたい」そう、妹は泣き腫らした目蓋からまた新たな涙を落としながら。暴力を受けると、自尊心を傷つけられ、人の尊厳をいとも容易く奪ってしまう。そして、自分は暴力を受けるに値する人間なのではないかと貶めてしまう。私は、自分の非力さが、無力さが、これほど悔しい事はない。
2008.07.24
想いを、言葉にするのに難渋している。こころの中が余りにも混沌としていて自分が今、どういう気持ちなのか分からなくなる時がある。そして、言葉を発するのがしんどい。疲れている。何もしていないのに。眠って、過食と嘔吐をして、お酒を飲んでいるだけなのに。だが最近、私の生活に新たな行動が加わった。夜の過食と嘔吐が終わった後少し眠り、目覚めたらおもむろに料理を始めるのである。此処の所、何故か茄子が食べたくて仕方がなくて、毎日煮込み料理を作っている。最初は、キャベツと茄子とセロリと人参だけのポトフを作った。次の日、それが余ったものにトマト風味を付けてミネストローネにした。それらは、空腹を感じたときに少しだけ食し、吐かないでいることが出来た。しかし大量に作ったのでその晩には、これまた大量のパスタに絡め過食の材料となってしまったが。それ以来、私はポトフやミネストローネ、味噌風味のスープなど、不味くはないと想えるもの、母に試食してもらっても、「中々美味しいの作るね」と言ってもらえるものを作る事ができるまでになった。けれども、どうしてもスープ料理に欠かせないウィンナー等お肉類を使えないでいる。勿論、味付けの際にコンソメキューブを使用しているので全く肉系のものが入っていない訳ではないが、正に“肉”と感じられるものが目に入ってくると、食べられなくなるか、過食と嘔吐前提となってしまう。摂食障害は、本当に複雑だと感じる。こうしてお料理をするのも、時間潰しである事は否めない。今の時期は丁度PMSの症状が出ているので熟睡できず、全然食欲が無くても無理矢理過食と嘔吐をする事がある。今の時間帯・・・夜中はお酒を飲むことでどうにか時間を遅らせられるが、口寂しくなるので野菜スティックで誤魔化す。ノンカロリーのシロップを使って酢味噌を作るようにもなった。こう考えると、本当に様々な変化が見られる。特に、毎日ブログを更新できなくなってからは、少し楽になってきた感じもある。録り貯めた映画を観たり、ドラマを観たり。音楽を聴いたり、読書をしたり。でも依然として祖父の事は常にこころの大部分を占めていて、それはぎゅうっと胸を締め付ける痛みをも伴う。今、祖父の為にできる事を考えたい。生きている事が、苦しい。母は先日、とうとうダウンして1日お仕事を休んだ。起き上がる力も無かったそうである。私は、無力で何も出来なかった。ただ、いつものように過食と嘔吐をしてお薬を服用し、また眠りに逃げただけである。母をどれだけ想っても慮っても何も出来ないのが悔しい。家族、親族の誰もが疲れている。でも一番辛いのは、祖父なのである。唯一自由に動く左手を拘束されてどんなに歯痒く辛く、もどかしい想いをしている事か・・・。今月末、カンファレンスがあるのでその際、伝えるべき事をメモしておこうと考える。祖父が少しでも、快適に過ごせる事をこころの底から願って止まない。
2008.07.21
本来なら、前回綴った祖父に会った日の続きを書くべきだがもう、書けない。余りにも、こころがひりひりと痛むから。この痛みを、言葉として表現するのは今の私には難しくそして気力が無い。ただ、要約はできている。祖父の点滴が終わり、元の病院に戻ることになった。私達もそれぞれの車で病院に向かった。祖父は、寝台車で。午後1時頃だったので早速昼食が出た。看護師は食事の介助を祖母に任せた。ああ、昼食が運ばれるまでベッドに寝かされていた祖父がオムツを外そうとしたりベッドの柵を外そうとしたりするので祖母が「あんた、そんなことやっちゃ駄目だって言ってるでしょう」と祖父の左手をぺチンと2度ほど叩いた。それが痛かったのか、祖父は不明瞭ながらも「何するんぞ!叩いたら痛いやろう!もう!」と怒りをあらわにした。怒りの感情を伴うと、祖父は言葉が出てくると分かった。昼食。それはお粥、そしてとろみをつけられたゼラチン食のおかずだった。祖父が、誤嚥しないように。ご飯が大好きである祖父は大体機嫌よく食べるが、段々不機嫌になってきた。その中にお魚の煮物のゼラチン食があったからである。祖父は、認知症になってから魚類を食べなくなったのだが、香りを確かめない限り、それが何の食材なのか分からない食事なので、祖父が顔を顰め始めるのを見て漸く、その不機嫌さが増していく理由が分かったのである。お魚のおかず以外殆ど食べ、祖父の「もう、いい。」という言葉で、食事は終わった。私達は朝から集まり、その時間まで飲み物くらいしか口にしていなかったため、私以外の誰もが空腹で少し短気になっていたのを感じた。親族が去る時には、祖父に拘束用の手袋をしなければならない。そうしないと、オムツを外してしまうからである。オムツを外してしまうと、衛生面に問題があるのでそういう措置が取られている。しかし、祖父は唯一動く左手の自由までも奪われてしまうのだと想うと、胸に何か刺さるような感じを覚えた。いくら仕方がないとしても。そして手袋を嵌められた祖父は、口で外そうとする。祖父に、前歯は無い。歯茎で外そうとするから、その手袋は血の跡でいっぱいだった。祖父の口から出た血液だと想うと、益々胸が締め付けられて息が苦しくなった。そこから、記憶が薄れている。母から、その後の事を訊いた話によると、私達は皆で「じいちゃん、何も無くて良かったね」と話し合いながらお蕎麦屋さんで蕎麦を食べた。そして、コーヒーでも飲もうとカフェにも行った。薄っすらと憶えている様な気がする。けれども、病院で見た祖父の姿手袋を必死で外そうとする祖父の姿だけが今の私の心に浮かんでは沈むばかりである。昨日、かなり久し振りに主治医の電話診察を受けた。その際、祖父のリハビリに関して私の想像力が活かせるという言葉を伺い、少し、頑張ろうと想えた。祖父が倒れる前、よく唄っていた歌や船乗りだった頃の事を活かせるもの等リハビリの方法。様々に考えが浮かぶ。時に私は全てが苦しくなって死んでしまいたいと、そういえば私は死にたかったのだと考えるが、今は、祖父の事を想い一瞬一瞬を大切にしていきたいと想っている。だが、苦しい。こころのどこかが、いつもいつも、ひりひりと痛む。痛い。そして、哀しく辛い。大好きな祖父が、苦しんでいるという事が自分の病気よりも、辛くて仕方がない。
2008.07.16
12日土曜日、朝。寝入り端にかかってきた電話で目が覚めた。それは、「じいちゃんの意識が無くなった」という妹からのものだった。あまりのショックに頭の中が真っ白になった。兎に角祖父は、以前入院していた病院に救急車で運ばれる事が分かっていたから妹の運転する車で共に、そこへ向かう事になった。今まで、動かなかった身体。緊急事態だからかきびきびと動き、支度を終えた。支度を終えた頃、母から電話が掛かってきて、「じいちゃん、意識は戻ったけん、大丈夫よ」と伝えられた。一応、安心したもののそれは元の状態に戻ったのか、それとも前よりも酷い状態になってしまったのかは聞けなかった。なので相変わらず緊迫した気持ちは続いていた。病院へ向かっている途中、無邪気で居る姪にこころが慰められるようだった。救急搬入口近くのベンチで、妹、姪と共に救急車に乗ってくる祖父と祖母、そして別々の車でこちらに向かっている母と叔父・叔母の到着を待っていた。姪っ子は一時もじっとしていなくて土曜日で休診日の院内、その静けさの中を走り回ったりチョコレートを食べたり、おしゃべりをしたりしていた。その相手になりながらも、私の胸の中には激しい後悔の念が渦巻いていた。「身体が動かないと言って会いに行かないなんて 私は何て馬鹿なんだ。 もう、母さん達から聞いていたリハビリの様子や 笑うじいちゃんを見られなくなるかも知れない。 こうやって現実になるまで分からないなんて 本当にど阿呆で大馬鹿者だ」自分を責め苛む言葉だけが浮かんでは沈み、心細くて堪らなかった。そして、救急搬入口に看護師さん達が向かい、ドアが開いた。まず、祖母と入院先の男性看護師さんが入ってきた。祖母に様子を聞くと、「大丈夫よ。殆ど何ともない。 でもね、一応検査だけはしておいたほうがいいからね」と落ち着いていた。でも、祖父の意識が無くなったと祖母の所に連絡が入ったのは朝食を食べていた時だったらしく、夕方祖母を家に送り、少し休ませてもらった部屋の様子を見て、その焦りや慌てた様子が窺えた。急須の蓋が別々の部屋にあったり、ペンがキッチンに置かれていたりした。話を戻す。祖父は、酸素マスクを付けてストレッチャーに寝かされたまま入ってきた。目は開いていたが、動かないので不安はいよいよ増していった。救急隊員の方や看護師さん、その日の担当医の方で色々と処置の仕方を決め、CT撮影と血液検査・尿検査の後に祖父と対面する事ができた。久し振りに会った祖父は、痩せていた。歩かなくなったので足が細くなっていて、仰向けに寝ていたそのお腹を触ると、肋骨がはっきりと感じられた。ぎゅっと胸がきつく締め付けられる想いがした。祖父に、「○○(私の名前)よ。分かる?」と笑顔で訊ねると、祖父もまた笑顔になり、「おお。おお。」と応えてくれた。祖母・母・妹・姪・叔母・叔父と順番に話しかけた後、私を含める数人が祖父の傍に残った。祖父は、朝食を食べていなかったので電解質と糖分の点滴を受けていた。もう一度、同じ質問を祖父にすると、少し不明瞭ながらも、「分かる」と発言した。また、私の左手を握り、指を1本ずつ確かめるように触っていき、指輪のある指に辿り着くとそれを取ろうと頑張っていた。殆ど眠っていなくて浮腫んでいた私の指。なので中々指輪が抜けず、祖父は動く左指でくるくる回したり力任せにねじ上げようとしたりしたから痛かったけれど、指輪を外せたときには誇らしげに「ほら」と私に見せて返してくれた。また、姪っ子の頭を笑顔でくしゃくしゃ撫でたり、話す祖母の方を向いてその存在を確認したりと退院時よりもより活発になっている祖父がそこには居た。そして、検査結果を聞いた。結果、CTの写真を見ても新たな出血は無い。寧ろ、退院直前は出血部分がまだ残っていたけれど、今はその白く濁った部分は無くなっている。意識が無くなった時の所見では、虚血性脳血管障害ではないかという事だが、それは、この診察では分からない事。血液検査の結果も、退院直前の頃より断然良くなっており、悪いところは無い。点滴が終わったら、このまま今までの病院に戻ってリハビリをしても大丈夫との事だった。確かに、以前より痩せてしまったものの意識はいつもはっきりしているし、喋ろうとする想いが強く感じられる。動く左手で、身体を支え起き上がろうとさえする。これはまだ、リハビリが充分ではないため身体を支えきれず倒れてしまうのであるが。この1日は長かったので分割して綴りたい。今まで祖父に会いに行かなかった事を猛省した。たとえ、病気で身体が動かなくても調子の良い日に幾らお金がかかってもタクシーで行けた筈なのだから。苦い想い、でも、祖父に会えてその溢れる生命力を感じられた嬉しさを忘れないでいたい。
2008.07.13
前髪を切った。約3ヶ月振りに。 切っていたら楽しくて、 ざっくざっく切り落としていたら、 切り過ぎた。 月日が経つのを早く感じる。 現実感が、酷く乏しい。 昼間の、過食と嘔吐。 ミネラルウォーターを沢山飲んだり、 ミルクティーと共に一服したりする事で、 この2日間、やらないで済んでいる。 暑さの所為か、何も食べたくない。 PCを立ち上げる気力も無い。 何だかとても、疲れている。 無気力、無力感。 何故だろう・・・。
2008.07.11
He that knows little often repeats it.~馬鹿の一つ覚え~私に相応しい言葉だと感じた。外出する日が来る度、私の身体はまるで血液が全て鉛に変わったかのように重く、苦しく、動かなくなる。そして、母に告げる。「身体が動かない」「しんどい」「起き上がれない。動けない」「じいちゃんにこんなにも会いたいのに、動けない」本当、馬鹿の一つ覚えのように。そんな私を、私は鋭利な刃物で切り裂きたくなる。何故、想いを遂げられないのか。意志に反して身体は動かないのか。“病気だから”それは分かっていても、腑に落ちない。無理の出来ない状態になっている事を評価できると主治医が仰っても、祖父に会えない哀しみは募る一方である。いつも、考える。無理矢理、過食と嘔吐をする事シャワーを浴び支度をして、近所のスーパーへ食べ物を買いに行く事は出来るのに、午前中、外出するとなると忽ち身体が動かなくなるのは何故だろうと。答えはなんとなく分かっている。“乱れた生活習慣”“栄養失調”“バイポーラによるうつ状態”であろう。「死んでしまいたい」「生きている事に疲れた」と考えない日は、無い。とはいえども、自殺は赦されない。母よりも先に死んでしまうという事は、こうして生きて迷惑をかけ続けている事よりももっと罪深いものであるから。真綿で首を絞めるような状態が、今日も明日も明後日もずっとずっと続いていくのだろう。私が、消える日まで。祖父に会いたい気持ちはこんなにも強いのに、身体が動かないのはどうしてなのかと発狂しそうなほどに己を憎み、呪う。そして、過食と嘔吐や飲酒、喫煙、イレギュラーな服薬などどうしようもない自分が浮き上がる。この自分を壊したい、傷つけたい気持ちが強くもう1ヶ月以上、主治医の電話診察も受けていない。益々私は破滅への道を歩んでいるような気もする。何をしていても・・・眠っている時でさえ“死”は私に纏わりついている。拭い去れないそれに、親しみさえ感じる。「もう疲れた」ただ、それだけである。向日葵が、咲いている。その姿は余りにも明るくてとても輝かしく、直視できない。もう夏だという事を、その花が知らしめている。夏が好きになれない理由が分かった。14歳の夏、私はダイエットを切っ掛けに拒食症の症状が現れたのである。そして、秋が終わる頃には過食・嘔吐を覚えていた。あの夏、ミネラルウォーターと菓子パン1つだけで過ごした日々があった。過食や嘔吐をするよりも、身体は楽だった気がする。今更、過去をどうこう言っても何にもならない。そろそろ、身辺整理をしたい。
2008.07.09
いつの間にか、文月。それも5日を迎えている。今年ほど、月日が流れるのを物凄く速いと感じた事は無かったかも知れない。5月30日に祖父が脳卒中で倒れた。その後は、目紛るしく時間が過ぎ去っていった。祖父に会いに行けていた毎日。ところが突然、身体が動かなくなり会いに行けなくなった日々。こんなにも強く、強く祖父に会いたいと想っているのに何故か身体が動かない。主治医はそれを、「会いに行かねばならないと“義務感”のように感じていて それが更に身体を動かなくさせている」という事を仰っていた。祖父に会いたいという想いが、“~~せねばならない”という、強迫観念に近い想いとなっていて今のこの衰弱した心身状態ではその行動が無理だから、身体が動かないということなのだろう。何れにせよ、悔しくて哀しくて情けなくて仕方がない。祖父は、少しずつ快復の兆しを見せている。中々言葉を喋る事はできないものの、先日は、左半身の力だけでベッドの上で起き上がった。もう夕刻で夕飯も済み、眠るだけだったが母が帰ると言った途端に、必死に起き上がろうとしていたそうである。母は、「じいちゃんも、帰りたいんかも知れんね」と言い、私もそう想った。そして、リハビリの際には自ら立ち上がろうとしていると聞いた。その、生命力の強さを感じ胸が温かくなった。そしてもっと応援したいと想っている。また、右半身の自由は失ったものの、左半身は力強く動くため、いつの間にか衣服のボタンを外したり、オムツのテープを外したりしてしまうそうである。だから、1日中祖父は左手に手袋をはめられている。祖父は、想っている事を言葉に出来ない。そのもどかしさから、その動く左手で衣服のボタンを外すなど何か表現しているのだと私は想う。けれども、オムツまで外してしまったら、病院側が困るので手袋をはめるという処置に至ったのであろう。祖父の唯一の自由が奪われているような気がして、哀しくて仕方がない。今度の火曜日こそ、祖父に会いに行けると想っている。早い時間に家を出なければならない訳ではないから。毎日、祖父を想っている。毎時、想っている。何かしているときにもふと、祖父の顔が浮かぶ。祖父の笑顔や声、様々な表情・・・。胸がぎゅっとなる。そして私は何故かどんどん堕ちている。無理矢理やっている過食と嘔吐。お薬を服用しないと得られない僅かな睡眠。起きている間はずっと、自分を責め苛む。梅雨が明けてしまってなにやら夏がやってきて私はまた去年と似た苦しみを味わう。その繰り返し。祖父母と母が生きている限り、私は生きていこうと想っている。でも、それ以降は分からない。祖父母と母がいないこの世の中なんて、私にとっては何の意味も無いものだから。自分の寿命は決まっている。そう想えば、少しはこころが楽になる。生きている限り、迷惑をかけ続けてしまうけれどそれをなるべく小さいものにするよう努力しながら生きよう。それにしても、梅雨が明けたというのに激しい雨が降り、雷が鳴っている。植え込みにいる桃の木は、その雨水を飲み益々上へ上へと伸びていくのだろう。
2008.07.05
雨が降ると、その姿が美しく見える花、紫陽花。土がアルカリ性か酸性かの違いでその色を変える。私の家の前で見るのは、ピンクの強い赤紫色。歩く道々では、ブルーのものが多い。でも、紫陽花を這う蝸牛は殆ど見かけなくなった気がする。日々、きっと楽しい事や嬉しい事はすぐ傍にちりばめられているのだろうと想うが、それに気付けない。否、気付く事を拒んでいるのかも知れない。周りに迷惑ばかりをかけていて、大切な存在である祖父の傍にも行けない私が、笑ってはいけないと考える。こうした想いを言葉にするのも正直いうと苦しくて、まるで傷口の上に更に傷を重ねているような気さえする。何をするのも、苦く、辛い。食べたくない。食べ物など見たくないと想うのに、無理矢理過食と嘔吐をしている自分が居る。お酒を飲むのも気分が悪いのに、惰性で飲んでいる。“何かしないではいられない”といった気持ちだけで動いている。その気持ちが無ければ、私はきっと24時間お蒲団の中から抜け出す事はないだろう。主治医の診察を受けていない事も相俟って、私はどんどんと堕ちていっている。分かっていても、もう主治医と何を話していいのか分からない。こころの中は余りにも混沌としすぎていて、そのカオスは私を混乱に導く。自分の出生の理由を否定し、生きている価値を貶める。“生きているだけ無駄。周囲の迷惑”その想いが頂点に達したら、私は消えることが出来るのだろうかとお薬袋から溢れそうなほどのメジャートランキライザーを見つめる時間が多くなった。生きている意味など無い。私が辛うじて生きていられるのは、祖父母や母が生きているからという理由があるから。それだけである。自分のために生きるなんて、そんな烏滸がましい事など考えられない。昨日の火曜日は、祖父の入院している病院で祖母と母を交えた担当者会議が午前中に行なわれたため、早い時間から身体が動かなかった私は、また、祖父の所へ行く事が出来なかった。悔しいとか、情けないとかそういった気持ちを通り越して自分のこの不甲斐なさに無力感を覚える。こんなにも、祖父に会いたいのに、祖父の笑顔を見たいのに、祖父と触れ合いたいのに、それが出来ない、身体が動かないと固まる自分を感じるとただただ虚しさと無力感だけが蔓延る。現在、目に映るものすべてが色褪せている。自分が生きている意味なんて、無い。もう、疲れてしまった。先日、ドラマ『斉藤さん』のDVDを購入した。今はこれだけが癒しかもしれない。今日から1話ずつ観ようと想っている。以前のように、こころから楽しむ事は難しいだろう。だけど、少しでもゆったりとした時間を過ごせたらと考える。
2008.07.02
夕暮れ時、やっと涼しい風が吹く。昼間の蒸し暑さを想うと、夏の到来を感じる。暑い季節は、いつまでも好きになれない。雨が降れば、蛙の合唱が聞こえる。この土地に引っ越してきた頃より田んぼは減ってしまったけれど、水田で風にそよぐ青々とした稲やそこで啼く蛙たちが否応無しに季節を告げている。地面を叩く雨音と蛙たちの啼く声が耳に響くと何故か切なくなる。最近、物凄い不安感に襲われることが多い。それは、“何か取り返しのつかない事をしている”という感覚を伴ったものである。その“何か”とは“時間”だろうと気付いている。いつも祖父や祖母の傍に居たいと想うのに、身体が想うように動かなくてそれが出来ない。祖父が生きている時間は、明確なほどに少なくなってきているというのに、私は、その時間を共有できていない。そう。「祖父との時間を少しでも長く共有したい」とこころから望んでいるのに、それが出来ない自分が情けなく、悔しい。病気の症状が酷く出ているから困難であるという理由はあれども、病気の所為にしたくない。なのに、身体が動かない。アンビバレンスな状態に、疲れ始めている。今週の火曜日こそは、祖父の所へ行きたい。祖母にも、会いたい。祖母も時々、夜中に胸騒ぎがして目が覚めてしまうという。「おとうさんに何かあったのでは」その想いで、寝付けなくなると言っていた。祖父が入院している病院が、私が住んでいる所からとても遠い所となってしまったため、容易に行く事が出来なくなった。車や原付の運転免許書さえ取得していたら、こんな事で悩む事はなかったはずだと想うと、病気で動けなくなった自分が本当に恨めしい。全てが、億劫だと感じる。何もしたくない。ずっとずっと、眠っていたい。過食と嘔吐は、無理矢理している。食べるものを用意した時点で、もう気分が悪くて食べる気なんて失せているのに、何故か吐き気を再度催すまで食べ続ける。気分が悪くなる頃、また怠い気分になり、吐く事さえ億劫に想う。でも、太るという事が何よりも怖いから必死に自分を衝き動かして胃の中を空っぽにする努力をする。無駄な、努力を。もう、疲れてしまった。徒労感ばかりが襲ってくる。生きている事自体に、疲れた。ただ、それだけである。けれども、生きなければならない。こころの糸は、ピンと緊張しきっていていつ切れてしまうか分からない。ゆったりと過ごせる時間など無い。睡眠は、全てに疲れきり、お薬を服用する事によってやっと得られる。ほんの少しだけ。訳の分からない恐怖感と、これからもまた、共に過ごすのだろう。両手から溢れ、零れ落ちる取り返しのつかない何かに、痛みを感じながら。
2008.06.29
身体が、想うように動かない。時々、生きている事が物凄く苦痛な事だと感じる。祖父は、一生懸命生きようとしているのに。その祖父と、今という時間を一時でも長く共有したいと想うのに。なのに、私の身体は動かない。栄養不足だとか、うつ状態であるとか、様々に理由は付けられるのだろうが、悔しくて仕方がない。本当に情けない。祖母だって、80歳を超える高齢で祖父の入院している病院へ行ったりその合間に体操の先生をするために道場へ通ったりしなければならない。それは身体に、相当な負担となっているのではないだろうか。周りの人々は一生懸命動いているのに、私は1人、お蒲団の上で固まっているか、過食と嘔吐をしているか、お酒を飲んでいるか。そういった生活をしている。なんて情けないんだろう。しかし、お酒に頼らないとこの荒くれるこころを宥める事ができないし、食べたり吐いたりする事でしか何かを昇華させられない。此処の所、余りにも心身の調子が悪いので主治医の診察も受けられずにいる。電話を掛けられない。言語化できない想いばかりが澱のように、胸の中に溜まっている。倒れたばかりの祖父は、ずっと眠ってばかりだった。でも、転院してリハビリが進んでいる今、動く左手で様々な事ができている。以前は食事の最中でも眠ってしまっていたのに、現在はスプーンで自ら口に食べ物を運び、食事をしている。暑いのか、器用にボタンダウンのシャツのボタンを外す事も、もしかしたらリハビリになっているのかも知れない。指を動かすことは、脳に刺激を与えるから。しかし、時々オムツを脱ごうとしてしまうため、夜は手袋をさせられていると聞いた。行動が制限されている祖父を想うと、胸が疼く。祖父が入院している病院は、家から今までよりも遥かに遠い場所となるため、母の仕事が休みの日でないと行けなくなった。バスを乗り継ぎ、シャトルバスに乗れば行けない事は無いけれど、今の私はうつが酷く、それが出来ない。近所のスーパーへ行くだけで精一杯だというのだから、本当に情けない。そういう状態が続いているため、益々抑うつ感は酷くなり皆に責められているのではないかという被害妄想まで感じている。働いていないのだから、祖父に毎日会いにいくのは当たり前だろうという私が作り上げた想いと、それを適えられない自分と、周囲の目とが私の中で混同して結果、罪悪感ばかり覚える。実際、悪いのは私なのだからどうにかしたいと考えている。夜は少しこころが楽になって明日こそ外出できると想えるのに、朝を迎えると忽ち駄目になってしまう。最近は、見る夢も自分が死ぬものが多い。先日は、斧で殴られても死なず、相手にマシンガンで頭を滅茶苦茶に打ち抜かれた。殺される夢ばかり見る。話は逸れたが、夜は本当にこころが少し楽になって本が読めたり、録画していたドラマを観たりできるのに朝になると身体は動かないし、動けなくなる。うつ病。バイポーラ。病名ばかりが頭を駆け巡るけれど、そうした所でどうにかなる訳ではない。相変わらず、眠るのは怖い。先日述べた睡眠時間より、眠れなくなっている。処方されているお薬は、強いお薬以外、一応服用しているけれど、それでも3時間で目覚める。目が覚めたら過食して、嘔吐して、眠る。それ以外の時間は、発泡酒を飲んでいる。殆ど栄養を摂っていないので、物凄く身体が怠い。だから、うつ状態になるし身体も動かなくなることも分かっているけれど、そこに、“太る事への恐怖”が複雑に絡んでくる。この世から消えることは、赦されない。だから、生きねばならない。祖父が生きている限り、生きていたい。今は、その想いをもって生きている。
2008.06.28
時々、自分に問う。「私は誰なのか」名前はある。けれどもしっくりこないし、人と殆ど関わりあわなくなった現在、名前で呼ばれることも無くて一体自分は何者なのかが分からない。27年前に、母から産まれた事や、祖父母の初孫である事も事実として受け止められているけれど、アイデンティティというものが全くない私にとって、生きるということが、無意味だとか虚しいとかそういう風にしか感じられない。今まで、自分のために生きた事なんてなかったから、病気が治るよう静養していても、何か申し訳ないことをしているような気がしてならなくて罪悪感が次から次へと溢れてくる。何よりも問題なのは、己が、“私は生きていても良い”と認められない事なのかも知れない。「誰かの、何かの役に立ちたい」なんて烏滸がましい考えはやっと薄れつつあるけれど、生きている意味が全く見出せない、何の役にも立てない自分が生きているなんて、それこそ馬鹿馬鹿しいとさえ想ってしまう。大切な家族に迷惑をかけてまで生きている事が、私は哀しいし、そんな自分を赦せない。「病気なんだから仕方ないよ」と母は言ってくれるけれど、それでも、私が生きている事でやはり迷惑をかけているのは否めない。祖父を、想う。祖父を想うと、中々会いに行けない申し訳ない気持ちやいつも祖母が傍に居ないと不安になる祖父が1人、病室で過ごさねばならない時間がある事に胸が痛くなる。けれども、リハビリの成果が出ているのか、先日、言葉を喋る事ができなくなったはずの祖父がはっきりと自分の名前を言ったのである。妹が、それを聞いたと言っていた。それまで、ごにょごにょと何か呟いていたらしいが、突然、名を名乗ったらしい。前の病院に入院していた頃は、「ああ」「おお」としか発せられなかったが、今回はっきりと「○○です」と言ったと聞き、私は奇跡というものが本当に起こる事を涙を流しながら喜んだ。実際、食事は進んでするようになったし、暑いのか、来ているボタンダウンのシャツのボタンを利き手ではない左手で器用に外してしまうらしい。人間は、生きている間にその脳の数%しか使用しないという。今回、祖父が脳卒中の為、失ってしまった機能を補うように、眠っていた脳の機能が働き始めたのかもしれない。人間の身体、特に脳は未知の分野であると想う。「祖父に早く会いたい」この想いは何よりも強いけれど、今回の月経痛が余りにも酷かった事や、抑うつなどの症状も強く出ている事で外出もままならない。そんな自分が、本当にじれったいし、悔しい。祖父に、会いたい。私は、母の初めての子どもであり、祖父母にとっても初めての孫である。父方の家にしてみれば、何だか60年振り位に産まれた女の子だと物心つかない頃は可愛がられたらしいが、母は、その父方の親戚に苛められていた。「私は一体何者なんだろう。誰なんだろう」答えのない問いを、今日もまた無駄だと想いながらも私は只管、考え続ける。
2008.06.26
何もかもが 駄目な1日だった。 今回も月経痛は物凄く酷いもので 祖父の所へ行く機会も逃した。 今日も今日とて 心身の具合は最悪で、 まるで鉛が流し込まれたかのように 重く、怠く、動けないので また母に迷惑をかけてしまった。 生きている事自体、 悔しく、虚しく、申し訳なくて 私はただ、途方に暮れている。
2008.06.25
眠ること。それは、一時の現実逃避であり、また、恐怖を感じる時でもある。先日も述べたように、私は昏々と眠り続ける事が怖くなった。夢も見ないほど深く深く眠っている間に、祖父に何か起きたらどうしようという想いが恐怖に繋がるのである。だから私は、3時間ほどの睡眠を朝・昼・夜に分けて得ている。それはどれも、過食と嘔吐の疲れで眠っているだけである。ぐっすり眠っている訳ではないので夢ばかり見る。昨日は、拒食症で死ぬ夢を見た。身体は今以上に痩せ細り、頭髪や歯が抜け落ち、走ろうと想った途端に腰が抜け、骨折し、その場に倒れこみアスファルトの上で誰かの罵倒を聞きながら死んでいくというものだった。実際、14歳の頃少しの間だけ拒食症だった事がある。私の場合は、すぐに過食嘔吐へと症状は移行した。拒食症だった頃は、1日の殆どをミネラルウォーターだけで過ごし、食べ物は、パンを1口だけ齧る位だった。まだその頃、“摂食障害”に対する知識など無くて、自分がその時拒食状態だとも分かっていなかった。兎に角、食べる事はいけない事だと考えていて、食べなければ痩せるのだから良い事だと捉えていた。今回見た夢で、自分に問うた。「もっともっと痩せたいと想っているけれど、 そうやって痩せた先には、何があるのか。 夢で見たように、ただ命を縮めるだけではないのか」と。摂食障害・・・特に拒食や過食嘔吐は“緩慢なる自殺”とも称されている。確かに私はこの夢を見て只管に痩せる事だけを欲する無意味さを感じた。けれども、過食して嘔吐する行為や痩せている身体を維持する事で私は何かを訴えたいのかもしれないとも考えている。だが、その何かがまだ分からない。小さな頃から、沢山傷を負い過ぎて、また、その傷口を手当てする事などなかったから今になって漸く始めた手当てが私が死ぬまでに間に合うかなんて、分からない。閑話休題。毎晩、祖父を想う。いつしか感情が鈍磨してしまっていて此処の所泣いていなかったけれど、ふとしたきっかけでさっき、涙が溢れて止まらなくなっていた。様々な感情が綯い交ぜになって、こころの均衡が崩れひとりで泣いた。祖父の事を、強く想いながら。「どうか、これ以上悪くなりませんように。 少しでも、良くなりますように」と願いながら。「毎日会いに行けなくてごめんね」と謝りながら。どんなに泣いても、時間はいつもと同じ速さで流れ、もうそろそろ空も白むだろう。私の時計は、祖父が倒れた5月30日で止まってしまっているような気がしてならない。現実に、ついていけない。だけど残酷なまでに現実は私を突き刺していて、痛みを覚えながら、生きている事を感じざるを得ない。毎日が、無駄に過ぎていく。現実の“時間”に置いてけぼりにされ、でも追いつこうとして足掻き、もがく。毎日、自傷の衝動が襲ってくる。その衝動から逃れる事だけで疲労してやはり無益な時間を送っていると痛感する。祖父のために生きたいと想っていても、実際やっている事は、阿呆な事ばかりでつくづく自分が厭になる。生き続けること。これだけは、頑張らねばならない。祖父は認知症で、その上言葉と右半身の自由を失い私なんかよりももっと辛いのに一生懸命生きているのだから。祖母は毎日祖父のところへ行っている。今までの病院よりも近い場所なので少し楽になったと言っていたが、毎晩、今まで2人で過ごしていたのに1人暮らしの状態になってしまったのはとても心細いのではないかと感じる。もう少し、余裕が出来たら祖母の家に泊まりに行って、一緒に祖父のところへ行ったり、買い物をしたりと祖母との時間も大切にしたい。愚図愚図といつまでも自分の事だけで悩み腐るのはやめたいものである。
2008.06.23
最近、熟睡できない。できないと言うよりも、意識的にそうしないようにしている。お薬を調整して。それは、もしも私が強いお薬を服用し、10時間以上目覚めないという状態になっている時、祖父に何かあったらどうしようという気持ちが強いからである。1年位前から、その強いお薬は熟睡できなくなる時期に限って服用していた。1ヶ月に1週間ほど、毎日服用するだけである。しかし、そのお薬は毎日2錠ずつ処方されている。今やもう、そのお薬は全て服めば死んでしまえるくらい、お薬袋に入っている。「これさえあれば、死にたくなったらいつでも死ぬことが出来る。」何故か、そういった安堵感さえある。祖父が転院してから、まだ会いに行けていない。毎日、祖父の事を想わない日は無い。いつでも会いに行きたいと考えているのに、如何せん、身体が動かない。また、そういう自分に苛立ち、腹が立ち、憎くて仕方がなくてアルコールに逃げる兆候が現れている。過食と嘔吐、眠っている時間以外は、発泡酒を飲んでいる。何も食べずに。しかしやがて、その飲酒が切っ掛けで過食へと繋がってしまうのであるが。現実が、近付いたり遠ざかったりしている。今を生きねばならないと分かっているけれど、この現実を受け容れるのは私にとって遣り切れなさが先立ち、つい逃げようとしてしまう。逃げる先は、“病症”であると感じる。祖父は、こんな私よりももっともっと辛く苦しい想いをして過ごしているというのに、私は楽な方へと逃げようとする。だが、よく考えてみると病症は決して楽なものではない。深く深く心を探れば、過食と嘔吐をしたり、アルコールを飲んだりすることは、“自傷のひとつ”と受け止められなくもない。実際に、手首を切ることは赦されないので、過食や嘔吐という、苦しい想いをしたり、昼夜構わずアルコールを身体に入れて内臓を壊す方向へ持っていく事で自分を傷つけているような気がする。阿呆だとしか言いようがないけれど、私はそうする事でしか精神の均衡を図れない。どんどん、自分が汚れていくのをつぶさに感じる。時に、私は死んでしまいたいと考えている事に気付く。未来など無いのだからと。もうこの先、長くは無いのだからと。希望に満ち溢れた何かなんて、決して訪れないのは分かっているのだからと。だけど、祖父母や母が生きている限りは私も生きていなければならない。祖父が倒れたというショックからは、生きていてくれたからこそ少しずつ立ち直りつつあるけれども、死に向かっているという事を覚悟しなければならない。けれど、私は大切で、愛している人の死に直面するのが一番怖い。自分が死ぬことよりも、怖い。母は、人が死んでいくには順番があると言ったけれど、私はそんな事を無視したい気持ちに駆られる。早く、自分を消してしまいたいと強く願ってしまう。けれども、祖父との残りの時間をもっと沢山一緒に過ごしたいと切に願う。今は心身の具合が悪く、動けないのは仕方ないが、少しずつこころの整理をして祖父と過ごせる時間を増やしたい。そしてまた、毎日祖父の所へ行っている祖母とも一緒に過ごす時間が増えればと考える。祖母はお喋りが大好きなので、話し相手になれたらと、想う。
2008.06.21
朝も昼も夜も眠くて仕方がない。でも、それを阻むのは様々な病症。私の心身の事なんてどうでもいい。祖父は、リハビリが進み最近では自ら動く左手で食事が摂れるようになってきている。しかし、傾眠傾向は相変わらずで自分で口へ食べ物を運び咀嚼している最中でも目蓋を閉じて眠ろうとしてしまう。食べ物が口の中に入ったまま眠ってしまうと誤嚥する可能性が高くなるのでとても危ない。車椅子に乗るというリハビリも、座って10秒は持つけれど、それ以上経つと、眠ってしまう。19日、転院先に決まっていた病院に空きのベッドができたという事で転院した。しかしその前日、祖父はベッドの柵を自ら外し、転がり落ちてしまっていたのである。母が祖父の所へ行ったとき、ベッドの下にマットが敷いてあるのを不思議に想って看護師さんに訊いたらしいが、的を射ない答えを返してくるので詰問したという。そうすると、やっと看護師さんのミスで祖父がベッドから落ち、しかもそのまま長い時間気付かれず、同部屋の患者さんがナースコールをして下さったお陰でやっと祖父はベッドの上に戻れたとの事であった。右半身が動かないので頭から地面に落ちていたり、点滴の途中で針が折れたりしていたら本当に大変な事になっていた。なのに、家族が祖父の傍に居るときも、変わった点を尋ねるまで病院のスタッフ達は何も言わなかった。医療の現場は、人手不足で大変だと言われて久しいのでどんなに忙しいかという事は分かっているけれど、大切な事、特に命に関わる事は気をつけてほしいと想った。現にその日、祖父はまたCTを撮らねばならなかったのであるから。転院した病院はリハビリ専門なので、スタッフの方々は気をつけて下さると信じたい。祖父は、ベッドから落ちても、痛くても、言葉を発せないのだから周囲の人間が気付かねばならない。出来れば毎日、行きたいという気持ちはあるけれど、今まで入院していた病院よりも遥かに遠い場所となり、タクシーでは行けない。今の私には、公共交通機関を使うことが難しい。特に今の時期、PMSの症状が強く出ているので抑うつ感が強く、身体が動かない。また、そんな理由で祖父に会えないことが悔しく哀しい。祖母も、毎日転院先の病院へ行くのは大変だと想う。一応、シャトルバスが出ているけれど、そのバスが出ている所までは、祖母の家から10分ほど歩いた場所にある駅の電車に乗り、1駅先まで行かねばならない。胸が、苦しい。それは、私が無力な人間だという事が今まで生きてきた中で一番強く感じられるからであろう。生きているのが、虚しい。来週の火曜日には、祖父のところへ行けると想う。「行こう」と気張ったり頑張ろうとしたりしてしまうと、駄目になってしまう。身体が動かなくなり、また自責の念に駆られる。祖父のところへ行くのは“義理”ではない。“祖父に会いたい”“祖父の傍に居たい”という気持ちがあるから行くのである。この想いを忘れず、大切にしたい。そして、祖父の状態が少しずつでも良くなる事を今日も空に願う。
2008.06.20
身体が動く事を拒絶する。 こころだけが逸り、 でも動けない。 何かが機能しなくなって やがて私は凍えたように固まる。 祖父に会いたいだけなのに それすら出来ない私は、 劣等な人間だ。
2008.06.17
“祖父に会いたい”その想いだけが先走って身体が、付いていかない。今日は、祖父の傍へ行けなかった。少しずつ、祖父のリハビリが進み、笑う事が多くなっている。食事も、以前のように途中で眠ることは余りなくなった。MRI検査の結果では、やはり出血の部分から考えると右半身の麻痺は、快復を見込めず、言葉も殆ど戻らないらしい。その上、認知症であるから、祖父は文字を書いたり読んだりする事が出来ない。だから私達家族は、語りかける事で祖父の想いを汲み取る必要がある。転院先は、決まった。祖父母の家から近いところなのだが、急斜面な坂がある、小高い山の上の病院となった。祖母としては、徒歩での行き来が不便な場所ではある。しかし、その病院には母の、高校生時代の親友である人の母親が入院しているので、少し安心していると母は言った。とても綺麗な病院で、明るい雰囲気であると聞いた。祖父はそこで、これからもリハビリを続ける。しかしそこが、もしかしたら終の棲家となってしまうのかも知れないと想うと私のこころは否応無く沈んでしまう。現在、私の病症が爆発したように出現している。祖父の所へ行けない日は朝、少し眠った後、また発泡酒を飲み始める。そして、過食と嘔吐をする。「なんて馬鹿なことをやっているんだ!」こころの中でそう叫び声が聞こえるのに、私はそれを無視している。ただ、病症の成すがままとなっている。食べて吐いて、眠り、目が覚めたらまた食べて吐いて、眠る。そして夜になったらお酒を飲み続ける。まるで、現実から逃れるように。この、哀しくて苛酷な、苦しくて無常な今という時間から離れようとするように、病気の世界に浸っている。なんて情けないのだろう。自分が、憎い。食べたり吐いたりしている時間があるのなら祖父の所へ行き、手を握り、話しかけたい。そして祖父の笑顔を見たい。一生懸命生きようと、リハビリに励んでいる祖父を応援したい。支えたい。しかし、それを阻むうつ病の症状と摂食障害、強迫観念。また、恐怖もある。大切な人が、日々死に向かっていく事。それが怖くて仕方がない。でも、その残りの時間を出来るだけ一緒に過ごすということが祖父にとっても私にとってもとても尊いものとなり、大事な想い出となるのだろう。でも、時に身体が動かなくなる。どんなに祖父に会いたくても、身体が動かない。病気である事が、治らない事が、本当に悔しく、哀しい。父の日だった今日、母は仕事が1週間の内で1番立て込んでいたため、会いに行けなかった事を悔やんでいた。でも、明日は行けるらしいので私も一緒に過ごす予定である。父の日・・・私にとっては、関係ないものとなった。高校生の頃までは、まだ父の事を考えられていたが、現在、妹と孫・弟の世話は借金までしてするけれど私の事は殆ど考えていない事を知ったし、祖父の方が父親的存在としてあるので何もしなかった。だから月曜日、祖父にお花を持っていこうと想っている。綺麗な、お花を。今日もまた、「少しでも祖父の調子が良くなりますように」と雨雲に隠れた星に願いながら長い長い夜を、過ごす。
2008.06.15
14日は、母の誕生日だった。 また私は、お手紙しか渡せなかったけれど 母は嬉しそうに微笑んでくれた。 しかし、この現実は 果てしなく残酷で虚しく 苛酷であると感じる。 逃げたくても逃げられない。 生きている限りは。 だから、消えたい気持ちが 途絶える事なく存在して 生きることに疲れてしまうんだろう。 けれど、母の誕生日を 2人で過ごしたこの夜、 生きている現実を 受け容れようと想った。
2008.06.14
午前4時。雨が落ちてくる。空が、私の代わりに泣いている。疲れてしまった。もう言葉も出ないほど。哀しくて堪らない。それは言葉にならないほど。私はそれでも生きなければならなくて、“生きる”という事がこんな荷までも残酷だという事実を改めて感じている。祖父は、少しずつ快復の兆しを見せている。看護師さんの介助により車椅子に乗る事ができるようになった。また、ベッドの上の食事から、車椅子に乗って食事室へ行き、そこでまだゼラチン食ではあるけれど、食事をしている。時には、動く方の左手を使いスプーンで自分の口に重湯などを運んでいる。言葉を失った祖父。右半身の自由を失った祖父。けれども、一生懸命生きようとしている。認知症ではあるけれど、祖母が近くに居るとそれが分かるようで、食事室に行っても祖母を探してきょろきょろしている。少し前まで、ずっと眠ってばかりいたので随分身体とこころが動き始めている感じがする。それなのに、私は希死念慮で覆われている。主治医は、「家族は何も出来ないから、無力感を覚え 疲れるのは当たり前だよ。 でも、あなたはおじいさんの傍に居たいと想っている、 その気持ちを大切にしたら良い」という意味のことをお手紙に書いて下さっていてた。しかし、今の私は毎日祖父の所へ行く事が出来なくなっている。自分の無力さに苛立ち、腹が立ち、兎に角自分を傷つける・・・自傷をする事ばかりが頭を過ぎる。“辛いのは、家族みんな一緒”それは分かっているけれど、余りにも理不尽な病・・・5年ほど前も脳出血で倒れ、それで認知症となりあんなに矍鑠としていた祖父が変わってしまった・・・それだけでも物凄いショックを受けたのに、その上、右半身の自由を奪い、言葉までも奪ってしまったこの脳卒中という病が本当に恨めしい。認知症になった祖父とは、祖父自身の“素”の魂と接しているような感じがした。10秒経つと、それまでの事を忘れてしまう。けれども、遠い過去の事は覚えていて、船乗り時代のお話を私は楽しみに聴いていた。最近は、戦時中よく唄っていた歌を、聴いていた。それらの事が、全て不可能となった。哀しいとか、辛いとかそんな言葉では言い尽くせないほどこころに痛みが走る。ひ孫と遊ぶ祖父の姿は、両者とも無邪気で本当に微笑ましかった。けれども、もう、その姿も見られない。ひ孫の名を呼ぶ祖父を、私の名を呼ぶ祖父も、もう、見られない。人間は、生まれた時点で死に向かって生きている。それは重々承知している。祖父もまた、死へと一歩一歩と近付いている。だけど私は、大好きで大切な人が死んでしまう事・・・それをまだ受け容れられない。そんな光景を見るより先に、私は先に消えてしまいたいと願ってしまう。しかし、母より先に死んでしまうという事は、病気を患って迷惑をかけている事よりも遥かに親不孝であると気付いた。気付かなければ良かった。何事にも、順番がある・・・祖父や祖母、親が先に死んでしまうのが当たり前だという、そんな事、無視してしまいたいのに出来ない。けれども、私の中では日々自分を壊すような自傷願望が膨らんでいる。あの頃のように、毎日手首を切り裂く情景が浮かんでは沈む。私には、それさえも赦されていないので必死に我慢しているが、日々膨らむこの想いは、いつ爆発するか自分でも分からない。金曜日、病院側が告げた2週間という入院期間の終わりを迎える。まだまだ、祖父は普通食を食べられないし、ベッドの中で姿勢は少し変えられるものの、喉に絡まったタンを吐き出すことは出来ない。看護師さんに吸引してもらわなければならない状態である。1日、眠っている時間の方が多い。母が、ホームヘルパーとして働いているので、この先どうすれば良いのか相談相手がいるという事だけが救いである。しかし、今まで通りには過ごせない。私は、祖父が倒れるまで現実と少し離れた所で生きていた。それが突然、現実に引き戻され、現実の時間で生きている内に私は体調を崩した。微熱が此処の所ずっと続いていて、空咳が止まらなくなっている。なので、毎日祖父のところへ行きたくても行けないジレンマが、悔しさが、病症を酷くして過食と嘔吐も、強迫性障害も、バイポーラも強く現れている。祖父が、私を見て微笑んでくれるだけで私はホッとする。とても、嬉しい気持ちになる。その想いを大切にして、過ごしたい。
2008.06.12
皆が、辛いのは分かっている。 だけど、もう 生きている事に疲れてしまった。
2008.06.09
嬉しいのは、 祖父が自ら動く左手で 食事が出来たことである。 時間によってむらがあるから いつも調子が良い訳では無いし、 相変わらず傾眠傾向にあるので 戸惑ったり不安になったりする。 しかし、祖父は “生きよう” としている。一生懸命。 その生命力を信じて、 今ある高熱が下がること、 血圧が安定することを こころから祈りたい。 ただ、私は弱い。 どうしてこんなにも 希死念慮で溢れているのだろう・・・。 疲れてしまった。
2008.06.07
祖父が倒れ、もう今までのような穏やかな日々は送れなくなった。そんな事よりも私は、祖父が苦しんでいる事・・・想っている事を言葉に出来ない苦しみ、右半身が麻痺して身体を想うように動かせない苦しみ、85歳なのに余生がより一層辛くなった事実、祖父と、今までのように会話ができなくなった事実、病院で夜を独りで過ごしている祖父、家で、独りで過ごさねばならなくなった祖母の事etc...それらを考えると否応無しに涙が流れるのである。けれども、母は泣くなと言う。これからが辛いのだからと。現実を真摯に受け止めろと。その理屈も、過去を思い起こして嘆いていたって仕方がないという事も分かるけれど、私は、やはり沢山の想いに溺れる。祖父が初めて脳卒中で倒れた時も物凄いショックを受けた。それまで、どんな遠い所へだって自転車で走って行っていたし、祖母が体操の先生をやっているのでいつも道場までその自転車の後ろに乗せて一緒に行動していた。お酒と映画と時代劇が好きで、私達が遊びに行くといつも、一升瓶を傍に置き柔らかい座椅子に座って日本酒を飲みながら洋画を観ていた。夕方になると、『水戸黄門』を観ていた。そして、祖父の手料理はとても美味しくて、船乗り時代に培ったその腕はどんな料理にも申し分ないほど発揮されていて、特にお漬物や煮物は祖母が作るものよりも繊細な味がした。勿論、祖母が作る料理もとても美味しい。祖父母夫婦は2人とも短気なのですぐ口喧嘩をしていたが、数分後にはけろっと忘れて仲良く話していた。それらが、最初の脳卒中で全て崩れ去った。なのに今回、祖父は言葉と身体の自由を失った。昨日、虚ろな表情で重湯が口の中に入っても飲み込む事さえせず、目蓋を閉じようと、眠ろうと、私達とのコミュニケーションを一切閉じようとした祖父の姿が脳裏に焼きついている。ショックとか、そういう言葉では言い表せない。ただ、自分の無力感を突きつけられ矍鑠としていた祖父から認知症になり、柔らかくそして寂しげになった祖父、その上、まだ残りの能力をも奪った病気を、私は憎んでしまう。こんなにも大切で、大好きな祖父からゆったりとした余生を奪うだなんてなんて無常なんだろうと、力が抜けていく。そしてまた、83歳の祖母も同じく脳血管に問題を抱えていて気をつけねばならなくて、以前ほどの元気はない。耳が少し遠くなっているし、物忘れもかなり多くなってきた。何も出来ない私がここに浮き彫りとなり病気である私が何とも情けなくもあり、しっかりしなければならないのにそうできない自分が何よりも一番憎々しい。腹が立つ。泣くなと言われてから、泣かないようにしている。こころの叫び声に私は只管、耳を塞ぐしか術はない。けれども先日、主治医の診察を受診した際、「1人のときは、泣いたっていい。 辛い時、涙が流れるのは自然な事なんだから。 我慢しなくていいんだよ。」と諭してくださった。だから私は相変わらず毎晩泣いているけれど、それは決して、悪い事ではないと考えられるようになった。夕方、祖父のところへ行った。既に祖母や叔母は帰ってしまっていて、私は1人、祖父の傍に居た。静かな時間だったので、ゆったりと祖父に語りかけた。先ず、「じいちゃん、○○(私の名前)よ!来たよ! 私の事、分かる?」と話しかけると祖父は目を覚まし、「ああ、おう。」と頷いてくれた。そして、少し微笑んだので私は嬉しくなった。「調子はどんな?しんどい事ない?」と訊く頃にはもう眠ってしまった。どうやら発熱しているようで、両脇に氷枕を挟んでいた。今朝から血圧も高いようだった。しかし、リハビリは行なったそうで、それで具合が悪くなったのではないかと感じた。時折、苦しげな表情を見せるので胸が痛んだ。はっと目蓋を開けるときがあり、そのタイミングで私が顔を見せると、祖父は安心したように微笑んだ。その際は、必ず私のことが分かるかどうか訊ね、「分かる」というリアクションをしてくれるのでホッと胸をなでおろす。ただ、肘の骨のところに青痣が出来ていたり、赤く皮膚の色が変わっていたりしていた。何故だろうと想い、看護師さんに尋ねてみると、日勤の看護師は帰ってしまったので分からないとの事だった。でも、この事はリハビリの先生にも他の看護師にも報告しておいて下さると仰ったので信用する事にした。動かない右肘に酷い青痣が出来ていたから本当に心配である。祖父は言葉を発せないから「痛い」という事も訴えられない。とても、哀しい。毎日頑張りすぎると、私もダウンしてしまう事を痛感した。自分が病気である事を、つい忘れてテンションを上げて頑張ってしまう。祖父の所では常に元気でいなければならないから帰宅すると、その反動で沈み込む事も多い。しかし、出来る限り祖父の元に居たい。眠っている時間の方が長くても、祖父と共に時間を過ごしたい。けれども、無理をしてまたダウンしないよう気を付けたい。
2008.06.05
身体が動かなくて 祖父の所へ行けなかった。 まるで身体の中に鉛が 詰め込まれたように重く 苦しく、そして哀しかった。 毎日哀しい顔を見せてはいけないと テンションを上げてきたが その疲れが出たのかも知れない。 自分が病気である事を痛感した。 それにしても 私は駄目な人間だ。 毎日祖父の所へ行くと決意したのに、 それすら出来ない。 悔しくて、哀しい。
2008.06.04
夜中になるとやはり祖父を想い号泣する。まるで子どものように、私は声を上げて泣いている。母が起きている間は、心配を掛けないようにと自分のこころに対して鈍感になっている。何も感じないようにしている。けれども夜中、独りっきりの時間が訪れると忽ち祖父との想い出が胸に溢れそしてまた、この時間、ひとりで闘っている祖父を想い滂沱する。「じいちゃんは、もう言葉を喋る事ができない。 喉が渇いた時、どこかが痒いのにそこに手が届かない時 病院でどうやって伝えられるのだろう」「今までは、話す事ができたから、 入院しても独りじゃなかった。胃潰瘍の時も、大腸ポリープの時も。 でも今は何も訴える事ができない。 ただ独り、ベッドの上で闘っている」これらの事を想うと、何も出来ない非力な自分が恨めしい。あの、胃潰瘍や大腸ポリープ摘出で入院した際は、祖母が病室に泊まって看病していた。祖父は、祖母が居ないと忽ち不安になり、病室から出てしまうから。家に帰ると、聞かなくなるから。しかし、今回の脳出血は、言語野と運動を司る部分を侵してしまった為、自分の意思を正確に人に伝える事が出来ずどこが苦しいとも表現できない。また、右半身が麻痺している事で褥瘡が生じる可能性もある。「どんな状態でも2週間で退院してもらう」と告げた病院側に、どこまで患者の状態が分かるのか、信頼できない。だから私の不安は際限なく膨張してゆきそれは、涙へと変わる。水無月の初日、日曜日。面会時間、祖父はずっと眠っていた。どんなに呼んでも、身体を軽く叩いて刺激を与えても、昏々と眠り続けていた。一言も話せなくて哀しくなった。しかし6月2日の今日、お昼は調子が良かったようで、集中治療室で昼前にゼラチン食を食べられたと聞いた。レントゲンを撮った結果、初診の時より出血範囲も広がっていなくて病状も安定したので昼過ぎ、一般病棟に移ることもできた。話しかけると、一応目蓋を開いて私のことを分かってくれた。「私の事、分かる?」と訊くと頷いてくれて安堵した。祖母の事も、母の妹の事も分かっていて、特に祖母が顔を見せると笑顔も浮かんだ。しかし、夕飯は調子が悪かったようである。看護師さんが食事だよと重湯をスプーンで祖父の口の中に入れても直ぐに目蓋を閉じて眠ってしまい、飲み込めない。重湯は、口から出てしまう。祖母と私も手伝って、「じいちゃん、起きて食べよう。おいしいよ! ごっくんって飲み込もう?」と大き目の声で話しかけても、やはり目蓋が閉じてしまい、寝息を立て始めてしまう。ほうれん草をミキサーで潰し、ゼリー状にしたものを看護師さんが口に入れたけれど、咀嚼する事もできなかった。嫌がり、苛々と動く左手で拒絶の意を表しているようでもあった。とろんとした眼で、口が半開きである祖父の表情を見ていると何だか哀しみが溢れてきた。あんなに、食べる事が好きな祖父が、食事をしているという事さえも理解できず眠り続ける様子が・・・。でも、希望は棄てたくないと今は考えている。明日からは、リハビリが始まる。車椅子に乗って移動したり、食べる練習をする。ただ、眠り続けているという事が、脳出血による影響でこのままいつまでも眠り続けてしまうのではないか心配で堪らない。不安で不安で仕方ない。こころに、たくさんの想いが溢れるけれど、それを言葉にする行為が苦痛になっている。毎日、祖父の元に行きたい。その為にも、自分自身体調に気を付けて疲れたときは素直に休めるようにしたい。
2008.06.02
夜中は、不安定の極みにあった。常に祖父の事を考え、そして泣いていた。もう、一緒にお買い物は出来ない。お散歩も出来ない。遊びに行く度、数分おきに「みんなは元気かな?」という質問を聞けない。数分おきに、手紙は届いていないかと郵便受けを見に行く祖父も見られない。今までの“普通”を全て失った。そして明日、明後日の山。無事乗り越えられますようにと願うたび涙が溢れ出して止まらなくなる。様々な想い出が浮かんでは、涙となる。「明日、じいちゃんに笑顔で会う為 今、泣いておくんだ」そう言い聞かせて、いっぱい泣いた。泣き疲れたのか、少し寝坊してしまい、腫れぼったい目蓋と浮腫んだ顔で母と妹・姪っ子、弟と共に正午には病院に着いた。面会時間は、朝・昼1時間ずつ、夕方30分と決まっている。12時から13時までの面会時間に、祖父の居る集中治療室・・・NCUに入った。祖父は、眠っていた。気持ち良さそうに。心電図を見ると、昨日より血圧は下がっていて安定していた。尿道カテーテルも取り外されていた。何よりも安心したのは、拘束されていなかった事である。その痕も無かった。麻痺していない左手を握り、「じいちゃん、来たよ!」そう話しかけると、パチッと目を覚ました。私の顔を認めると、少し吃驚した顔になった後、にっこりと笑ってくれた。「今日はね、○ちゃん(姪っ子の名前)も来たよ!」と、祖父の顔の所までつれてきた。力持ちの弟が、姪っ子を抱っこして、祖父に顔が見えるようにすると「おお、おう!おお!」と、とても喜んで、幸せそうな笑みを浮かべた。姪っ子も祖父の手を握り、「ひいじいちゃん、だいじょうぶ? 元気になってね。がんばってね。」心配そうに言っていた。祖父は何度も頷き、笑顔だった。妹もまた、祖父の顔のところへ行き、「結婚式に来てくれてありがとうね。 じいちゃん、がんばれ!」と話しかけると、笑顔で頷いていた。その時、祖母が来た。祖母は、朝・昼・夕の面会時間に必ず来ている。祖母も83歳で、家は病院から遠いのできっと、とても大変だと想う。しかし、祖母が祖父の顔の所へ行った時、祖父の表情は今まで以上の笑顔に変わった。それはもう、本当に嬉しそうで、「どこ行ってたんだ?1人にしないでくれよ」と言いたくても言葉に出来ないもどかしさと、祖母の顔を見られて嬉しさとが入り混じっていた。祖母も、「あら、顔色が良くなったじゃない。 みんなが来てくれたからね。嬉しいねえ。 ほら、私の事分かる?○○(祖母の名前)よ!」と嬉しそうに話しかけた。祖父は、祖母の名前が分かるかと問われて「当たり前だろう」と言わんばかりに輝く笑顔で頷いていた。言語を司る部分も影響を受けているようで祖父は今、言葉を話せない。それがもどかしく、悔しそうだった。今回は、弟の事も分かったようだった。やはり、金髪ツンツンヘアーには驚いた顔をしていたが、弟が名乗ると、「分かる、分かる」という感じで手を握り返していた。昨日よりも、意識がはっきりしていて、視線もきちんと合い、私の笑顔も、受け止めて笑顔を返してくれた。ただ、あと2日は予断を許さない。出血範囲が広がると、手術になるかもしれないし、それでも間に合わないかもしれない。だから私は、只管願い、祈るしかない。「これ以上悪化しませんように」と。いつもなら場所も何も関係なくはしゃぎまわる姪っ子もお行儀よくしていた。明日も、私は祖父のところへ行く。でも、夜中になるとまた直ぐ傍に行きたくなる。何かしていないではいられない。祖父が退院するまで毎日祖父の傍へ行く。一般病棟に移ったら、面会時間は関係なくゆっくり祖父の傍に居られる。だから、生きていてください。これ以上悪化しませんように・・・。
2008.05.31
今すぐにでもじいちゃんの傍に行きたい。じいちゃんの傍に居たい。認知症になってからじいちゃんは、独りで過ごした事はなかったんだから。たとえ医者や看護師さんが居てもばあちゃんが居ない病室でもしかしたらベッドに縛り付けられているかも知れないと想うと私は哀しい。それに、峠を越えるまでは傍にいたい。じいちゃんの、傍にいたい。退院したら、リハビリは一緒に通おうと想う。私は、家に閉じこもっていられない。じいちゃんのリハビリをばあちゃんと手伝う。じいちゃんが、喋ることが出来るようになるまで。右半身が、動くようになるまで、そしてまた元に戻ってもじいちゃん達と過ごしたい。じいちゃんの傍へ行きたい。今すぐ行きたい。涙が、止まらない。
2008.05.30
祖父が、倒れた。まだ直接祖父の主治医から話を聴いていないが左脳でも中心寄りの部分からの出血だった。11時過ぎ、いつものように祖父は郵便受けに手紙が来ていないか見に行こうと玄関を出ようとしたらしい。そうしたら、ふらりと座り込んだと祖母は言っていた。まだその時は脳出血だったとは分からず、「ちゃんと靴履きなさいな。」と様子を見ていたら、右半身が、ぴんと伸びきってしまって動かなくなり、段々おかしいと思い始めた。そしてトイレへ行きたいという祖父だったが、座り込んだまま、立ち上がることは出来なかった。祖母は急いで前の入院の際に用意していたオムツを持ってきたが、失禁してしまった。そして祖父は倒れこんだ。祖母は、母の妹に電話をして大急ぎで祖父母の元に駆け付けたが、まだその時は脳出血だとは想わなかったらしい。でも、段々以前倒れたときと様子が似ていると感じてきたとの事で、かかりつけの病院へ電話をしたら「早く救急車で救急病院に運んでください」との指示だった。しかし、以前脳出血で倒れた際も診てもらった大きな総合病院へ、運んでもらう事にした。祖父が倒れたという事を私が知ったのは15時だった。母からの電話によって。急いで支度をしてタクシーを呼んで病院へ行った。祖父は、集中治療室に入院した。祖母と母の妹とで入院に必要な物の準備、記名をしているところで、母も到着して間もないとの事だった。母と一緒に、病室へ入った。最初、祖父だとは想えなかった。余りにも、弱々しい感じがした。点滴、尿道カテーテル。右半身が動かないことは聞かされていたが、言葉が出ないという事実はそこで初めて知った。「じいちゃん、○○(私の名前)よ!分かる?」と麻痺していない左腕を擦りながら訊ねると、ふと目蓋を開けて私のほうを向いた。そして、視線が合い、祖父は微笑んだ。「良かった!意識はある!」一瞬、安堵した。「じいちゃん、来たよ。まだいるからね。 ゆっくり寝てね。」と私が言うと、「ああ、おう。おお。」と、起き上がって挨拶しようとするのである。涙がこみ上げてきたが、祖父に涙は見せられない。「起き上がらんで良いんよ。ゆっくり寝よって。 また、来るけん。」そうすると、私の顔をまた見て微笑み、安心したように眠った。心配なのは、認知症なので尿道カテーテルや点滴を抜こうとしてしまう事である。この場合、拘束帯を付けられる可能性が高い。集中治療室なので、前回の場合とは違い、祖母が泊り込むのは許されない。しかし、祖父は祖母が居ないと暴れてしまう。独り、病室に取り残されている祖父。「このまま出血部分が広がってしまったら、覚悟してください。 あと2日が山です。 それを乗り越えたら、安心ですが 右半身の麻痺は残ります。」そう言ったという医者の言葉が頭から離れない。祖父と2人きりになった際、祖父が眠っている隙に、麻痺していない左半身を擦り、「良くなりますように、良くなりますように。」とこころの中で呟きながら祈り、願った。涙がぽろぽろと止め処なく零れた。その後、弟もやってきた。弟は、ヘアスタイルがツンツンに立てた金髪だったので、祖父は驚いた顔をしていたのが印象的である。だから、私が「●●(弟の名前)よ」と言っても分からないようで、弟は少しショックを受けていた。また明日も、病院へ向かうと言っている。今度は、妹と姪っ子も一緒に。祖父はひ孫が大好きだからきっと、元気になってくれると願いたい。もう何も贅沢は言わないから祖父を、救ってください。私の大切な人、大好きな大好きな人を救ってくださいと、神に願う。2日間の峠を乗り越えたら、祖父はきっと快復へ向かう。以前そうだったように、話せるようになると感じる。ふとした瞬間、瞬間に涙が止まらなくなるが、祖父の前だけでは、笑顔で接したい。
2008.05.30
とても長い夢を見た。夢の中で最後に私は、「もう、疲れた」と言って自殺した。意識がある時も、眠っていても、疲れている。生きている限りは、この疲れから逃れられないだろう。“生きねばならない”という強迫観念にぐったりしているのだから。主治医は、「お母さんもあなたも、お互い気を遣い過ぎているのかもしれないね。」と仰った。思い当たる事は、沢山ある。不機嫌な母を目の当たりにすると恐怖感がむくむくと膨らみ、足元がぐらぐらと揺らぎ始める。そして、「私は生きていても良いのだろうか」「ここに居ても良いのだろうか」という不安に襲われる。それでも、どうにか母の顔色を窺い、生きている。母が笑ってくれたら、それだけで物凄く安心する。常に、自分というものに対して懐疑的である。その存在価値、意味。何もかもが分からない。毎日、病症に溺れて必死になっている間に1日が始まり、終わっているという感じで「今、私は生きている」と確信が持てない。ただ流されるように、呆然と息をしているだけである。食べたくないのに過食をして嘔吐し、飲みたくないのに発泡酒を飲み、煙草を吸う。漫然と流れる時間を苦しみながらやり過ごす。小説を読んでいる時と眠っている時だけ、こころは凪いでいるかもしれない。その他の時間は、荒波にのまれるように溺れそうになりながら、過ごしている。精神的に余裕があると、笑顔が零れる。笑えると知った。どんな小さなことでも楽しいと感じられて、幸せだと想える。そういった“余裕”からはいつもほど遠いところに居るけれど、今日は母と共に笑う時間が多かった。だから、少し落ち着いているのだろう。ゆっくりと、焦らない事。それこそが、こころにこれ以上傷を増やさない過ごし方なのかもしれない。難しいけれど、余り無理をしないようにしてゆるりゆるりと過ごしたい。
2008.05.29
うつ状態で何も出来なかった。PCを立ち上げる事は疎か、本を開いても文章が頭に入らなかった。だからずっと、お蒲団の中でぼんやりしていた。何もしたくない、食べたくもないと想うのに、過食する食べ物は買いに行き、時間がきたら食べ始めた。しかし、押し込むように滅茶苦茶に食べたので嘔吐の際、苦しんだ。自業自得。喉に傷がついたようで痛む。そして、また横たわって只管時間が過ぎ去っていくのを感じていた。時々、キッチンへ行き、冷蔵庫を開けて発泡酒を取り出しそれを飲みながら、漫然とTVを眺めた。けれども、その内容さえ、どこにも引っ掛からなかった。こんな時こそ、何もしないで休養する事が大切なのに、摂食障害の病症は私を突き動かす。一度、「何か食べたい」という想いが頭を過ぎったら、もう食べないではいられなくなる。調子が悪く、気分が悪くても。そういう毎日に嫌気が差して「死んでしまえたら」と願う。ただ、楽になりたいという想いだけで。命を冒涜していると自分でも分かっている。何れにせよ私は、疲れてしまった。如何に生きていけばいいのかさえも、分からない。こころが、狭く小さくなっていくのを感じる。今はまだ、立ち止まって考える時間なのかも知れない。
2008.05.28
母を想うと、どうしても過去の事を考える。あの、地獄のような離婚前の日々を。弟が生まれる前までは、何とか所謂“夫婦”の形を保っていたと現在の感覚でも、子どもの頃の感覚でも想う。しかし、弟が生まれてから母は変わった。先ず、どんどんと痩せ始めた。それまで、肥満体型で体重も60kgを超えていた。しかし、いつしか50kgをきり、40kg台になり、離婚前には30kg台にまでなっていたのである。現在は、40kg台半ばらしいけれど脚は私と変わらないくらい、心許ない細さである。母が、痩せ始めたのには訳があった。それに気付かされたのは私が大人になってからである。本当に遅すぎた。何故、母が痩せ始めたか。それは、“離婚に向けて必要なお金を貯めるため、 働くようになった”という事が1つに挙げられる。毎日、近所のスーパーでレジのお仕事をしていた。また、これも離婚後に知ったのであるが弟が生まれた頃に、父はお金の支出により厳しくなり母は、自分の下着さえ買えなくなっていた。勿論、私が算盤・ピアノ・塾に通う為のお金、妹もピアノを習い始めた為、それは嵩み必要経費なのに、それを父は責めた。食費を使い過ぎるとか、光熱費が多いとか。けれども、子どもの目から見ても母は決して贅沢などしていなかった。弟が生まれてからは新しい洋服やアクセサリーを買う事もなかった。父からの傍若無人で一方的な罵りを我慢して下着は、祖母から使い古しのものをもらっていたほどだ。それでも、仕事でストレスを抱えていたのか父は、母を毎日罵倒し、怒鳴り、責めた。そして或る日、母はパートを始めた。いつの日にか、ピアスホールを整形外科であけてピアスをつけ始めた。そして、痩せ始めて綺麗になってきた。また、私達子どもに隠れてベランダで煙草を吸うようになった。私はその頃、11歳ででも、子どもながらに何かが変わり始めていると敏感になっていた。母が変わり始める前に、その母自身が手首を切って泣いていたのだから。幼くも、そろそろ大人の事情が分かり始める私の頭はすっかり混乱していた。母は、離婚を決意した事によって変わっていった。でも、その結婚生活という地獄から救ってくれている第三者の存在が居る事に、私も薄々気付いていた。大人の、どろどろとした関係など、もうどうでも良かった。私もまた、父が毎日大声を上げて詰まらない事で母を罵倒し、苦しめる事を許せなかったからである。こんな毎日が続くくらいなら、「早く離婚して、楽になってほしい」と、母に対して想っていた。どんどん痩せゆく母を見て。母が痩せた理由の2つ目に、父や父の親戚連中からの嫌がらせ、それによるストレスがあった事も決して忘れてはならない。だから、中々許せないのであろう・・・。その頃の私は、そういう両親を目の当たりにしてまた、妹と弟の面倒をみなければならない事で、自分でも気付かないほどストレスが溜まっていた。そして病院で、“ストレス性胃炎”と診断された。毎日、授業中に保健室に駆け込んだり、あまりの腹痛に早退したりしていた。けれども、腹痛だけでは病院へ連れて行ってもらえず、この診断が下されるまでは「仮病だ」「怠けるな」とばかり周りの大人に言われた。私が小学6年生のあの頃。全ての歯車が狂っていた。否、狂い始める序章だったのかもしれない。今、こうして病気に苦しむ事になる、その大きな切っ掛けが、あの頃だったのだろう。あの頃の私にとって、唯一の救いが観月ありさちゃんだった。バラエティ番組やドラマで活躍する彼女を観て、私も何とか頑張れていた。頑張って、頑張って、姉としてまた、母を助ける人間として必死になった。やがて、糸は切れてしまい病気になりダウンした。という事を、ふと想い出した。何が切っ掛けだったのかは不明だけど、こういう事もあったのだと忘れないために書き記しておこうと想った。その間、ずっと不幸だった訳ではないのは確かである。ありさちゃんのコンサートには3回行ったし、去年は舞台も観た。母の苦しみは、私の苦しみでもある。それだけは忘れないで生きていきたい。
2008.05.27
昼間はまるで夏のように暑いけれど、夕方になれば、涼しく心地好い風が吹く。洗いたての髪がなびいて頬を撫でていく風にこころを委ねる。そして、深呼吸をすると、何だか身体の中が綺麗になる気がする。すっきりした、気持ちになる。鬱々とした気持ちは、徐々に晴れつつある。けれども、疲れている。こころの中で渦巻くどす黒い感情、粘り気を帯びた、暗い暗い想い。それは、“死へと向かう想い”である。常に、後ろ向きでいけないなと考える。折角、空は気持ちの良い夕焼けの色を広げているのだから、せめてそんな時間は、前を向き背筋を伸ばして過ごしたい。切羽詰っていると、自分の殻に閉じ篭ってしまう。そうなると、傍にいる人を慮れなくなる。特に母は、毎日お仕事で疲れているのだからもっと気遣わねばならないのに、私はもう、自分の事で精一杯になっていて母との間に流れる空気も滞ってしまう。これではお互い、とても哀しく寂しい。できれば笑顔で、楽しくお喋りをしながら過ごしたい。他愛ない事を。どんな下らない事でも。そういった毎日が、こころを解してくれると考える。時には、母の悩みや哀しみを聴いたり、私も伝えたりして、関係を築いていきたいと想っている。まだまだ、私と母との関係は構築途中なのであるから。生きるという事は、楽しい事、喜ばしい事ばかりではない。辛い事、苦しい事の中に、それら幸せな気持ちになる事柄がちりばめられているから、生きていこうと想えるのだろう。でも、努力しないと喜びや楽しみなど“幸せな事柄”は見つけられない。不幸せな気持ちに埋もれてしまうと、暗い気持ちで視界が霞んでしまうと生き難くなる。少しでも、生きていく道、歩く道にちりばめられている“幸せ”を見つけられるよう笑顔を忘れないようにしたい。笑顔でいれば、こころは不思議と明るくなるから。
2008.05.26
今朝まで降り続いた雨。傘に落ちる雨の音を聞きながら、雨粒が水溜りに波紋を広げるのを飽きずに見ていた。少し、懐かしい気持ちになった。やがて雨は止み、昼には燦々と陽光が降り注いでいた。腹痛、腰痛は和らいできているが、身体と頭が怠く、重い。ただ、毎夜その日初めて摂取するアルコールである、ブラッディメアリーが美味しい。体調が芳しくないので、ウォッカは微量にして、トマトジュースをたっぷりという割合にする。優しい味がする。そして、暫しぼんやりしていると段々リラックスしてくるのが分かる。ウォッカは微量でも、アルコール度数は高いので凝り固まったこころや身体を解してくれる。ただ、もう甘いカクテルが飲めなくなった。何故か最近、涙もろくなった。一人でいる時には良く泣く。最近泣いたのは、週に1度夜中に再放送されている『僕の歩く道』を観た時だった。このドラマは、毎週観る度、泣いている。テルの、ひたむきな努力、“出来る事を一生懸命やる”その姿に胸を打たれる。絶対に、文庫本を買おうと想った。でも、1人じゃないと泣けない。映画『相棒』を観に行った時も、隣に母が居たのでぐっと来たシーンでも何故か我慢してしまった。水谷豊さん、西田敏行さん2人だけのシーンではもう我慢できずぼろぼろと泣いたけれど。歳を経るごとに、涙腺が脆くなっている。母が元々涙脆い人なので、きっと遺伝なのかもしれないと感じる。感動的なものを観て泣けると、不思議にこころがすっきりとする。この涙は、凄く清々しい。自分の事では、泣けない。泣きたいほど、日々が重苦しく辛い。摂食障害の症状は、酷く虚しさを覚えるときもある。罹患した頃は、食べたり吐いたりする事を止められない事が哀しくて苦しくてやはり1人、泣いた事もあった。14歳の頃は、殆ど毎日のように泣いていた。それは、この病気の事で母に責められたり、分かってもらえないと悩んだりするからだったのだろう。けれどいつしか、この症状にこの苦しみに麻痺してしまった。漫然と生きるようになってからは、特に。傍目からすると、壮絶な毎日だけど、私にとってはぼやけた毎日に見える。雨の音は、家の中に居る間だけ優しく耳に響く。5月ももう直ぐ終わるから、晴れると暑く、少し過ごし難くなった。けれども、雨の日は涼しく、心地好い。雨のにおいは、懐かしさを呼び起こす。太陽のにおいは、温かさを喚起する。焦るのはやめて、もう少しゆっくりとしたペースで過ごしたいと改めて考えた。
2008.05.25
痛み。これから後2~3日はこの痛みに支配される。身体のどこかに痛みがあると、気力が全て奪い去られるような感じがする。何もする気が起きない。辛うじて読書は出来ていて、それだけが慰みでもある。後は只管痛みが緩和されるストレッチをするか、ぼんやり横たわって眠気が来るのを待つか、苛々して過食と嘔吐をするか、眠っているかだけである。食べる気力も無いのに、無理矢理口に押し込むように何故か、食べてしまう。そして、吐く。後々もっと苦しくなる事は分かっていても。本当に馬鹿だと少し前の自分を罵る。一応、消炎鎮痛剤は服用している。でも、それが胃を荒らしていて、常に胃痛があり、気持ち悪い。発泡酒や煙草が不味い。けれども、時間を潰す為、食べないでいる為に飲んだり喫ったりする。不毛な時間ばかりが過ぎてゆき、たとえ鎮痛剤を服用していても微かに残る痛みに、体力が消耗されていく。疲れてしまった。毎月、こうして分かりきっている時期に分かりきっている激しい痛みに襲われるのが馬鹿馬鹿しくて堪らない。主治医は、「摂食障害で痩せていて、しかも生理不順になるような お薬ものんでいるのに、毎月ちゃんと やってくる事は不思議だよ。 生命の神秘を感じる。」と仰っていた。神秘なんていらない。女性としての機能が働いていても、私には必要がない。PMSで10日間は抑うつ感そして焦燥感に悩まされ、始まってから3日間位は痛み、お薬の副作用による胃の不快感に苦しむ。そして1週間は煩わしい想いをする。こんな機能があっても必要がないのに。確かに、子宮や卵巣がある事によりホルモンのバランスが保たれている部分もある。けれども、私は結婚しないだろうし子どもも産まないだろう。虐待の連鎖が怖いから。病気だって、いつ治るかなんて分からない。自分の事に精一杯な、27歳。恋愛に、興味を持てない。生活は枯れ枯れとしていて、“生きている意味とは?生まれてきた意味は?”という事ばかり考えている。強迫性障害の症状に支配され、決まりきった行動によって安堵を得て臨機応変が出来ない。だから私は、期待する事をやめた。期待するから絶望する。希望を持つから、叶わなかった時に堕ちる。だったら最初から何も望まないでいればいい。なので私の生活は、色で言えば灰色だと想う。しかし、こんな私でも愛してくれて生かしてくれている母には感謝している。4年前までは考えられなかった。こんなに私の事を想ってくれるなんて。病気の私はいつも、妹や母にとって厄介者・邪魔者だったし、そう扱われていた。もしかしたら、あのままの状態だったら私はとっくにこの世界を棄てて消えてしまえたのかも知れない。なまじっか家族の温かさを知ってしまったから無責任に自分の命を放擲できなくなった。それが良い事なのか、何なのか分からない。ただ分かっているのは、私は生きていかねばならないということである。様々な、病と共に。
2008.05.24
週に2回ずつ、植え込みの雑草を抜いている。それを続けていたら、やっと最近になって植え込みはだんだんスッキリしてきた。そろそろ、新しい花を植えたいと想っている。そんな時、今朝ふと植え込みを見たら3本ほど、新しい花が植えられていた。その植物の名前は分からないけれど、太い茎に、大きな葉、可憐な赤い花をいくつか咲かせていた。吃驚して母に訊いてみたらお隣さんが株分けして下さったらしい。これで、玄関横の植え込みは、お花で彩られた。後は、桃の木が植えられている側の植え込みがまだ寂しいので、此処は母と花屋さんで2人で何を植えるか決めたい。1つ、楽しみが出来た。だが、相変わらず抑うつ感が酷く、身体もこころも重い。鬱々とした気分が厭だから発泡酒などを飲んでアルコールによって気を紛わそうとするが、一向に気分は晴れない。酔いもしない。ただ、発泡酒の空き缶ばかりが増えていく。そして貪るように本を読む。活字を消化していく。乃南アサの『晩鐘』も下巻250ページを超えてしまった。もっとゆっくり読みたい。私は食べ物でも、大好きなものは後にとっておく。楽しみも、後にとっておく。だから、この興味深い本にしても、大切にゆっくりと読みたいのである。本は読めるけれど、PCを立ち上げるのは一苦労である。溢れる想いはいっぱいあって、それを綴りたいのに、身体もこころも重苦しいので手元にある本に、どうしても気が向いてしまうのである。疲れているのなら、身体を横たえ休めばいいのに、“何もしないでゆっくり休む”という事が、出来ない。難しい。強迫性障害の症状で、たとえしんどくても何かしていないといられないのである。それがまた、苦しい。病気に翻弄される毎日。自分でも馬鹿馬鹿しい行動だと想うけれど、その時はもう、必死なのである。だから自分を顧みると、落ち込む。月に1度の苦しみがやってきた。1日目から3日目まで、激しい痛みにもんどりうち、消炎鎮痛剤を服用しても不快感は消えない。ただ、抑うつ感は3日目を過ぎる頃からすうっと消え去るので、それだけは救われる。痛みによる苦しみだけは頂けないが。生きるという事は、苦痛の連続である。少し、疲れてしまった。初夏の心地好い風に吹かれながらゆっくり休んでいよう。
2008.05.23
抑うつ感が心身を支配するとPCを立ち上げる事が難しい。管理ページを開いた時の楽しみは、私の事を大切に想って下さっている方からのメッセージを読むことである。だから出来るだけ毎日PCを立ち上げたいのに、こころが苦しいと、それが出来なくて哀しい。何のために生きているのか。今更、こんな事を考えても仕方ないが、うつの波に揺られているとこの疑問がふと浮かんでくる。決して、積極的に生きていきたいと想わない。出来る事なら、眠るように死にたいと願っている。それを言葉にしてしまうと、母を傷つけてしまう。主治医は困ってしまう。私は、成す術がない。大切な人が生きているから、私も生きている。祖父母そして母がこの世にいなくなったら私は直ぐに、この命を放擲する。この決意は、変わらない。母がいないこの世の中に、何の価値も見出せない。27年生きていきたが、人は、たった27年しか生きていないと言うが、24年、病気と共に生きてきたのだからもう、疲れてしまった。何も考えなくて済む、悩まないで済むそういう所へ行けたらと願ってやまない。物凄く、我侭で贅沢な願いだと分かっているが。こうして雨露をしのげて、食べ物も食べられる環境を与えられている。またPCという贅沢品まで与えられている。何の文句もない。ただ、生まれてきた・・・私の命が作られた理由そして3歳から常に心身へ傷を創られた事。それがどうしても哀しいだけである。主治医との接点を、「電話代で母に負担をかけるのが申し訳ない」という理由で絶っている中、傷口に傷薬を塗るという手当ても出来ていない。新たな傷が、増えていくだけである。疲れてしまった、もう。哀しみは、あの海のように果てしなく広く、波打つ。哀しみは、儚い花のように咲いてはその花びらを風によって散らしていく。私は、これからどうしていいのかが分からない。どろどろとした、どす黒い粘り気のある海の中で、必死にもがいている。足掻き、もがき、それで何か答えが見つかるのだろうか。取り敢えず、落ち着きたい。ゆったりと、過ごしたい。
2008.05.22
まるで真っ黒なコールタールの海に溺れているような感じだった。息が苦しく、頭と身体が物凄く重い。起きねばならない時間なのに、起き上がれない。そして、私はまたお仕事で疲れている母に迷惑をかけた。ちゃんと起きられないと近所のスーパーに行けないので、遠い、ジャスコまで連れて行ってもらう事になる。近所のスーパーとは勝手が違い、ジャスコは広いので、それだけ母に負担をかけてしまう。今は、それでなくても足の怪我が響いているのに。けれども、起き上がろうとしてもどろどろとしたものが身体に纏わりついているようで、心身ともに、死人のように動かずお蒲団の上で身動きが取れなかった。近所のスーパーが閉店して1時間以上も経った頃、やっと身体が動き始めた。それまで、夢と現実の狭間で母に迷惑を掛ける結果になってしまった事に対し自分を激しく責め苛んだ。PMSだからという、何かの所為にするのは悔しい。けれども確実に鬱々とした波が激しく押し寄せコールタールの海にたゆたい、身体への症状としては下腹部の痛み、腰痛が現れ始めている。また、浮腫みが出ていて鏡を見るのも哀しい。何かの所為にするのは容易い。けれども、迷惑をかけるのは、最小限に留めるべきだ。少し、お薬の量を減らせば、余り眠り過ぎなくて済む可能性もある。余り期待せず、何とか母に負担をかけないようにしたい。
2008.05.21
一旦、うつ状態に陥ったら後は只管静かに過ごすしかない。今にも暴発しそうなこころを宥めすかし、呆然と一点を見つめてただ、自分は生かされているのだと痛感する。堕ちていても、読書だけは出来ると分かった。今読んでいるのは、乃南アサの作品。『風紋』上下巻を読み終え、その続編である『晩鐘』上巻を読んでいる。この作品は、かなり重いテーマの物語である。様々な人間の想いが錯綜している。特に、真裕子という登場人物の心情がぐさぐさと突き刺さってくるような感じがする。そして、共感するセンテンスがあった。>―何も期待しない。しちゃいけない。>最後には裏切られると肝に銘じるべきだ。>そのことさえ忘れずにいたら、これ以上は傷つかない。(『晩鐘上巻』352頁5~7)この、真裕子という登場人物が背負っているものと私が背負っているものは異なっているが、“生きる事の苦しみ”に関して、似通った考えを持っていると感じた。最初から期待しなければ、絶望を味わう事もない。小さい頃から病気を患い、学んだ事である。この作品について、一言では説明できない。とても、内容のぎっしり詰まった読んでいてとても惹きこまれる作品である。本屋で、この作品に出会えて私は本当に嬉しい。時に、がっかりする作品に出会うこともある。私は普段、文庫本を買う事が多い。背表紙に少しその作品について説明が書かれているからである。それに少し興味が持てたり、またその本自体に厚みがあったりしたら買うようにしている。けれども、時に損をしたような気分になる本に出会う事もある。購入するのは、サスペンスやミステリ系が多い。余り、恋愛もの等にみられる甘ったるい作品は買わない。しかし、サスペンス・ミステリ系でも使い古された結末が最後にあると、落胆が隠し切れなくなり、苛立ってしまう。分厚い本を買うので、それなりに時間をかけて読んだ本が、呆気ない結果で終わってしまうと、本当にがっかりする。先日も、そういった作品に出会った。その作品は、前作が面白かったから、著者の名前と本屋のPOPで述べられていたものを読んで買ってみた。それなりに厚みもあったので、時間をかけられると感じた。けれども、期待は裏切られた。私はこのブログで沢山間違った日本語の使い方をしているので偉そうには言えないけれど、書籍になっているのに、変な日本語が多いのには辟易した。それでも少年の殺人事件、卵子提供による妊娠など現在の世相をなぞる物語なので読み進めた。しかし、前作はそれなりに心地好い終わり方だったもののこの作品は、適当に結末を考えたとしか想えないような、稚拙な終わり方だった。最後まで謎だった、殺人事件を起こした少年が残した暗号みたいなものも、もう沢山の作家が使い古した解き方だったので余計に落胆した。時間をかけて読んだのに、結末がこれなのかと想うと使ったお金や時間がもったいなくなって思わずその本を放り投げてしまったほどである。しかし、今読んでいる作品は本当に興味深い。それで救われている。上下巻、それぞれ千円近くするほど分厚く、内容がぎっしり詰まっている。ゆっくり時間をかけて嗜みたい。飲酒量が増えている。少し、体調も悪い。特に、胃腸の具合がおかしい。こころも、訳もなく苛立つ事が多いため、捻くれ、ねじまがっていて自己嫌悪を感じる。自分が、どんどん厭なヤツになっていく。もう少し、落ち着いて過ごしたい。もっと、柔らかく、花を愛でるように温かい気持ちで。
2008.05.20
精神的に具合が悪くなってから夜中、寝付く事が出来なくなった。眠いのに、どこかが醒めている感じがする。それが響いて、朝いつものように眠剤を服用して眠ろうと想ってもやはり眠れない。そして、立て続けに過食と嘔吐をしてしまっている。偏に、自己管理能力の無さだと想う。お薬を服用したら、お蒲団に潜り込み何も考えず目蓋を閉じていればいつの間にか眠れていた。今までは。しかし、PMSの症状が出ている時期はどうしてもこころの中がいつもざわざわしていて様々な事に想いを馳せて目が冴えてしまう。そして、起きている間は本を読んでいるが、その内に過食が始まる。意識があると、どうしても“摂食”から離れられない。夜、過食をしていない間は、発泡酒を飲んだり煙草を吸ったりして“誤魔化して”いる。何かしていないと、落ち着かない。「もっとゆったりした気持ちで過ごしたい」そう願うけれど、いつもそこから程遠い所にいる。焦燥感があり、ずっと不安感が付き纏う。じっとしていると、過去からの様々な傷口からあらゆる想いが溢れて、痛みが走る。きっと、それから逃れる為、または余りにも痛い想いを直視しないように、私は過食して、嘔吐をする事によって何とか自分というものを保っているのかも知れない。逃げるのは悪い事ではないけれど、これは余り建設的な逃げ方ではない。PMSの症状がなくなったら少し省みなければならない。無理をしないと、生きてはいけない。だから歪が生じて、また私は自分を傷つけこころに新たな傷を創るのだろう。手当てが追いつかない。虚無感が、漂っている。楽しい事って何だっただろう。嬉しい事とは。また、喜びとは。ただ、眠っている時だけが幸せだという事だけは分かっている。ゆっくり、眠りたい。この、とろりと蕩けるように流れる時間の中で。
2008.05.19
゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚5月18日、今日は姪っ子の、5歳の誕生日。先月から幼稚園に通い始め、お友達も出来たらしい。また、家ではお誕生日パーティーをするため、旦那さんの妹さんとそのお子さん2人を呼んで姪っ子は大喜びらしい。旦那さんの妹さんの、長男君(小学1年生)が男前なので姪っ子は大好きだからである。とても楽しいパーティーが行なわれているのであろう。今年はプレゼントを贈れなかったけれど、電話で「おめでとう」を言えたので私も嬉しくなった。すくすく成長してほしい。゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚☆,。・:*:・゚★゚心配なのは、母の調子が余り良くない事である。足の痛みが中々取れない為、眠っても眠った気がしないと言っている。いつも足が重く痛くて歩き方も普段と違うから腰までも痛いらしい。母が沈んでいると、私も、沈みいく。抑うつ感は不意に訪れる。それまで比較的調子が良かったのに、突然、奈落の底に突き落とされたような気持ちになる。そして、「苦しい。もう、死んでしまいたい」としか考えられなくなる。少しずつ、何とか歩こうとしているのにその気力が失せていく。「もう、駄目だ。私は駄目な人間なのだから」「生きている資格なんてないのだから」自己否定、自己嫌悪など、自分自身を責め苛む気持ちだけでこころは占められる。母も怪我で苦しんでいてその上お仕事もしていて大変で私が支えなければならないのに、もやもやとした仄暗い感情に支配されたらもう、笑う事はできなくなる。只管、俯いて凍えた表情をしている。申し訳ない気持ちでいっぱいになるけれどどうする事も出来ない。心苦しい。突如抑うつ感に襲われたという事実は、PMSの症状が現れたという事である。またあの、もんどりうつような痛みの日々を送るのかと想うと、気力が衰える。姪っ子の誕生日だというのに、私のこころは塞いだままで本当に情けない。周囲への迷惑を考えると私は生きていてはいけないと考える。実際、少しでも私が苛々していたり落ち込んでいたりするだけで母は無口になり怒りの感情を秘めるのであるから。私がいつもにこにこしていれば、母も機嫌が良いので物事もスムースに運ばれる。けれども、私はもう「よいこ」を演じられる気力は僅かばかりしか残っていない。小さな頃からよく母に言われた、「臨機応変に対応しなさいよ!」という言葉を想い出す。それが、未だに出来ない。母の調子が悪い時くらいは辛くとも苦しくとも、無理矢理笑顔で接しなければならないと分かっていても、出来なくなってきた。私に生きている価値は、本当に無い。夕方、強い風に吹かれた。その一瞬だけ、暗い気持ちが吹き飛んだかのような気持ちになった。心地好かった。夜中、さらさらとした涼しい風に吹かれてぼんやりお蒲団の上に横たわっていると、様々な想いが胸の中を去来する。けれども、段々堕ちていく。救いようがない位に。うつ状態の時は、暗い言葉ばかりが頭の中を占めているので、“死”へとしか向かわない。だが、今は死ぬ事はできない。だから、死んだように生きるしかない。ぼんやりと働かない頭を持て余したまま、また明日も惰性で生きるのだろう。けれども、HAPPYな日である今日くらいは、笑顔で過ごしたい。
2008.05.18
突然、抑うつ感に襲われた。全てにおいて、やる気が失せた。何も食べたくない。だが、そう想っても摂食障害という病の根は深く、無理矢理食べ物を食べ、そして吐いた。そしてお薬を服用して、眠った。読書をしようとしても集中できない。苛立ちばかりが募っていく。うつ。抑うつ感。余りにもこころが沈みすぎて、私はぼんやりとした意識の中、数ヶ月振りに手首を傷つけてしまった。また、後戻り。もう少し、しっかりしなければと自分に言い聞かせる。自傷をしても、何も解決などしない。少し、ゆっくり休もう。
2008.05.17
お向かいさんの家には壁一面に荊が伝っていて沢山の薔薇が咲き乱れている。本当に、美しい。また、私の家に向かってお隣さんが植えた薔薇が塀の上の有刺鉄線に荊が絡みついていてこれまた沢山の花を咲かせている。有刺鉄線の無機質な雰囲気に、薔薇はその華麗さで何だかアートのようでもある。この季節、薔薇は至る所で咲き乱れている。真紅をはじめ、ピンクやイエロー。様々な色を誇らしげに、華々しく咲いている。また、広い庭を持つ家は、手入れが大変だろうなあとつくづく感じる。猫の額ほども無い、借家の植え込みを手入れするのだって、大変だと日々想うから。雑草は、抜いても抜いても雨が降って気持ちよく晴れた翌日にはもう、すくすくと育っているのである。その雑草の強さが、少し羨ましくもある。だから、広い庭に様々な種類の花や木を育てている方々は、本当に植物を愛しているのだなあと感じる。勿論、それだけ広い家に住んでいるのだから大きな木に関しては植木屋さんに剪定を頼むのだろうと想うけれど、きっと緑に包まれる生活はこころをも豊かにしてくれるだろう。桃の実も、膨らんでいる。枝がすくすく上に向かって伸びていて、毎日それを見るのが楽しみである。落ち込んでいる時も、桃の実の数を数えていると何だか嬉しくなる。「この内何個が落ちずに熟れるだろうか」そんな事を考えながら。去年は、どれもピンク色に熟れないうちに全て落ちてしまった。一昨年、初めて身を付けた時は1つだけ、子どもの拳くらいの大きさになり芳醇な香りがする、良い感じに熟れた。ただ、観賞用の桃の木なので食べられないと想って食べなかったのである。でも今年は是非食べてみたい。きっと甘いのではないだろうかと想う。よく眠れた日は、あまり堕ちないで済む。ぐっすり眠るためには、それなりに強いお薬を服用しなければならないしそうしたら浮腫んだり便秘になったりする。けれども、断眠の連続で苛々して何も考えず過食と嘔吐に走ってしまうよりは心身ともに楽である。鬱々とした日々は、果てしなく続く。もしかしたら、自分から命を絶たねばそれは終わらないのかもしれない。生きていく事が困難で、途方に暮れる。ただ、流されるように生きているがこれで良いのか、それとも早く終わらせた方が良いのか迷う時間は、やはり続くのだろう。
2008.05.16
夢に、父が出てきた。夢に出てくるのは1年に1回あるか、ないかの頻度である。そしてまた、現実に会う事も1年に1度あれば良い方である。夢の中で、私は車に乗っていた。5~6人でドライブをしていた。ゆったりとした車なのでそれだけ乗っていても窮屈さは感じなかったが父が隣に座っていたので緊張した。矢鱈、私に馴れ馴れしく接してくる父に苛立ち、無視したり素っ気無い態度をしたりしていたら、同乗している人々から白い目で見られた。また、責められた。それに乗じて父は益々馴れ馴れしくなり肩を触ってきたので、私は叫んだ。言葉にならない何かを。とても後味の悪い夢だった。未だに私は、父の目を見て話す事ができない。妹が生まれてから父による精神的虐待が始まった。言葉の暴力は日常茶飯事で、私は1日に何度も自分の人間性を貶められた。同時に、育児が大変になった母も常に苛々していたから私は打擲されていた。3歳の頃、私は絵本の中に救いを求めた。ただ、その頃はまだ、母は私を打ったり蹴ったりした後、「自分がちゃんと悪いと分かったら良いんよ」と言って、泣く私を抱きしめてくれたので、まだ救いはあった。母は、私を護ってくれる存在だと想った。やがて、弟が生まれた。弟もまた、父に可愛がられた。私への憎しみの言葉は、エスカレートした。それでも、「妹と弟を優先しろ。何でも自分が犠牲になるのが 当たり前だろうが」「お前は姉ちゃんの癖に情けない」容赦ない言葉を浴びせた。でも私は、妹や弟に対する恨みの気持ちは皆無だった。まだその頃は、父に対しても認めてもらいたくて憎む気持ちも無かった。父の事を忌み嫌い、憎むようになったのは、母に対して一方的に怒鳴りつけ、束縛が強くなり自分勝手さが目に余るようになった小学5年生の頃だったと想う。その頃から、私は全く父と口を利かなくなった。そして、両親は離婚した。離婚後、調停での約束により妹と弟は隔週で土日だけ、父と会う事になっていた。なので、今でも妹は父と仲が良いし月に1度は会っている。また、父も孫に会う楽しみもあるのだろう。弟は、彼女の家や父の家を泊まり歩いている。弟も父から可愛がられたので、殆ど避けるような想いは無いだろう。ただ私だけ、幼い頃から酷い扱いだったのでそれが傷となっていて上手く父と向かい合えない。もうすぐ還暦を迎える父。昔と比べて身体も弱くなっているし、勿論老けた。その姿を見ると哀しくなるから普通に接したいけれど、こころのどこかで何か泣き叫ぶものがあり、私は父の見て話せないし、素直になれない。許したいと想っても、難しい。過去の事なのだから、水に流せばいいのにという簡単な問題でもないようで、私はただ、後悔したくない気持ちと幼い頃から抱いている気持ちとで複雑に拮抗する想いに苛まれる。血が繋がっている、唯一無二の父親。夢に出てきた事で過去の事を想い出したが、現在は一生懸命働き、母を苛めた血も涙も無い冷血な兄弟を見放し独りで生きている。分かり合うのは、一生無理だろう。父には妹と孫、弟しか見えていない。私はあの頃、母を護る為に必死だった。母が泣く姿、母が一方的に罵られ、無駄に大きな声で怒鳴りつけられる姿は忘れられないし、そうする父を憎んだ過去も消せない。だが、現在の父は、少し違うのだろう。妹も、父について話す際、「前とは変わった。あの兄弟とも縁を切ったし、 やっと自分がお母さんにしてきた事を分かったみたい」とも言っていた。私なんかが許す・許さないなんて偉そうな事を言えたものではないが、夢に出てきた事を切っ掛けに、少し父について考える時間を持つのも悪くないと感じた。主治医にこの事を言葉にして話す事で傷口に薬を塗れるのだろう。しかし、何事も少しずつ、焦らないでやっていきたい。
2008.05.15
久し振りに赴いた映画館。座席が整然と並んでいて、大きなスクリーンを目の当たりにすると余りにも日常と掛け離れたその情景でもふと懐かしさを覚えた。座る席は、かなり吟味した。母も少し視力が落ちているので余り後ろの方ではいけない。しかし前の方だと首が痛くなる。出来るだけ姿勢が楽でいられる席の、スクリーンのど真ん中を選んだ。というのも、平日の一番最初の上映時間だったのでまだ来ている人はまばらだったから出来た事である。少し早目に、席に着いたのは良いけれど、私はお薬を服用していた為に物凄く眠かった。余り母との会話も弾まず、「パンフレットを買っておけば良かった」とその時、後悔した。繰り返しスクリーンに映し出されるマナーや館内の案内に辟易してきた頃、10時10分になった。この映画館では、先ず、CMが流れる。しかし何よりも、その音の大きさに驚いた。暴力的なまでに、頭にガンガンと響くほど流れてくる音が大きいのである。私は、大きな音に対して一種の恐怖感を持っているし久し振りの映画だったのでこんなにも大きな音だったかとこころがパニックを起こした。パニックを起こしたら私は解離する。なんて単純なんだろう。普段、静かな環境に慣れていた事もありその爆音はこころを掻き乱した。CMが終わり、様々な映画作品の予告が流れている間も呆然としたままだった。余程呆けた顔をしていたのだろう。母は何度か私に声をかけてきたけれどその全てに応える事は出来なかった。もう、余裕は無かった。そして、やっと本編が始まった。暴力的なまでの音には、次第に慣れていった。けれども、突然の爆発音とか発砲音には心臓が跳ね上がるような感じもした。音に敏感になりながらも、ストーリーに集中した。何しろ、私は水谷豊さんが大好きだから。この『相棒』という作品も、ドラマは全て観ているほど、大好きだから。内容については語れないが、笑えるところは声を出して笑ってしまったし、緊迫するシーンでは、手に汗を握るほど凄かった。特に印象的だったのは、西田敏行さんと水谷豊さん2人だけのシーンである。今でも、あの大きなスクリーンに映し出された西田敏行さんの顔が焼き付いているほど、胸に迫るものがあった。また、泣けるところも沢山あった。けれども隣に母がいるので何故か我慢してしまい、でも、感極まってしまい涙は臨界点を超えて溢れた。この作品は、2度3度と観る度に面白さが深まっていくだろうと感じた。友情出演していた俳優さんがとても良い味を出していて劇場でも笑い声が起きていた。どのシーンも印象深いが、薫ちゃんが劇中、たくさん走ったり泳いだりしていたのが何故かこころに残っている。映画を観る人の為へのSP番組もTVで放送され、それを観ていたので「あのシーンは1日中水の中にいて 身体が相当震えたらしいなあ」とか、裏話を思い出しながら観られたのも醍醐味だったかもしれない。映画を観終わった後、暫く動けなかった。大きな音から開放された事や急に現実が戻ってきた事にこころが余りにも鈍感にしか反応しなかったからであろう。母は、「音、凄かったねえ。あと、やっぱり長い作品を観る時は リクライニングがある方が良いよねえ。 腰が痛くなっちゃった」と言いながらも、映画を観られた事に凄く満足していて私は嬉しくなった。実は、母はトラウマがあって1人では映画館で映画を観る事ができないのである。だから、何度も観たい作品を見逃してきている。私が一緒に行くだけでも、母は喜んでくれる。私も、母との時間を共に出来て嬉しかった。『相棒 -劇場版- 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン』この作品は、DVDが出たら絶対買うし、また母と一緒に観ようと想う。この日は、久し振りに外食・・・おうどんを食べた・・・もして何だか特別な日となった。天気も特別で、突然大粒の雨が降ったと想ったら痛いほどの太陽の光が射し、また曇っては大きな雷が立て続けに落ちるという不思議なものだった。とても疲れたことは否めないが、この日の事を忘れないでいたい。
2008.05.14
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