Dog photography and Essay

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華清宮-楊貴妃3


「花の命は短くて--楊貴妃13」

「上海発!写真の更新!」では、
西安華清宮の写真を公開しています。

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蓮花湯は、玄宗皇帝専用の湯浴み場所で、
東西11mほど、南北6mの大きさに造られている。
3000年の歴史があるこの温泉も最近になり,
発掘調査作業が進み復元されている。

当時の蓮花湯は規模が極めて大きく大理石で造られ、
白い石で魚、竜、雁、蓮の花などの形が 彫刻してあった。

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また浴室の数は18あったとも言われ、
その18にも及ぶ浴室全てに彫刻が施されていた。
特に白い玉石で彫刻された蓮の花はお湯の中で、
花が水面に咲いているように見えたと伝わる。

玄宗皇帝は当時の状況下で栄華を尽くした。
だが私には、その玄宗皇帝の心はよく分かった。
徐々に感覚が麻痺をしていく人間の欲望は、
現代の世にも言える事ではないだろうか。

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「花の命は短くて--楊貴妃14」

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華清池にリゾート地として建てたのが華清宮で、
秦代(紀元前)から続く温泉地である事は知られている。

唐代中期には、玄宗皇帝がこの温泉地に楊貴妃との癒しの場を、
造ったが今回は楊貴妃が使用した浴槽の海棠湯の写真。
この海棠湯は楊貴妃専用の湯浴みの場所だった。

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浴槽の長さは3.6mあり幅は2.9mで、
深さは1.2mで、現代の浴槽の深さから比べると少し深い。
写真から、お湯の入ってくる所と出て行く所と、
文字で編集してみたが、常にお湯は流れていたようである。

写真の浴槽内は、花びらが蒔かれていたが、
それが返って画像にしてみると汚く感じた。
また浴槽は海棠の花を2つ重ね合わせたデザインになっているが、
私自身、海棠の花がどんな花だったかと思い出せない。

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「花の命は短くて--楊貴妃15」

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楊貴妃は絶世の美女として昔より有名である。
唐の時代(718年)蜀州の官吏だった楊玄炎の娘として生まれ、
名前は楊貴妃ではなく楊玉環と呼んだ。

楊玉環は16歳の時に村で美人として選ばれて、
宮殿に入り、女官の修行の後、玄宗皇帝の息子の、
寿王の妃となった。妃とは皇后の地位の本妻とは違う。

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玄宗皇帝の息子である寿王の妃であったが、
側近の計略により、玄宗皇帝の御前へ召し出された。
楊貴妃を見た皇帝は一目で気に入った皇帝は、
自分の息子の嫁を自分の愛妾にしてしまった。

その後、美人で聡明で、その上下歌舞に長じた玉環は、
玄宗の寵愛を一身に集め、皇后に次ぐ高位の貴妃となり、
それ以来、玄宗は毎年秋から翌年春まで楊貴妃と共に、
華清宮に住み、歓楽の日々を送った。

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「花の命は短くて--楊貴妃16」

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楊貴妃の姉3人は楊貴妃の名で宮中に入り、間もなく、
一族の「楊国忠」が宰相の要職に就き楊一族は栄華を極めた。

だが、軍人の安禄山と楊貴妃の従兄・楊国忠との、
権力争いで敗れそうになったが反乱を起こし、楊貴妃の、
従兄の楊国忠は失脚し8年にも及んだ安史の乱により、
唐の財政を揺るがしたのは楊貴妃が原因と非難される。

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唐の国政まで揺るがせた楊貴妃は許せないと、
玄宗皇帝に楊貴妃を殺害するように要求した。
皇帝は楊貴妃は楊国忠の謀反とは関係がないとかばったが、
かばいきれずに絞殺を命じたと資料にはある。

楊貴妃は37歳という若さで他界することになる。
楊貴妃と共に従兄の楊国忠も殺害され、3人の姉たちも、
宮廷を追われることになり、楊一族は滅亡の一途を辿る。
しかし、楊貴妃は日本の山口県にたどり着き、その後、
間もなく命を落としたとの伝説もある。つづく

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「花の命は短くて--楊貴妃おわり」

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楊貴妃の墓が日本にもあると言うことは、
もしかしたら玄宗皇帝が楊貴妃を救い出し逃がしたのかも?

山口県長門市油谷町には楊貴妃の墓があり、阿倍仲麻呂と共に、
安史の乱を逃れて日本に亡命してきたとの伝説もある。
いづれにしても楊貴妃は16歳で宮中へ入り、37歳で死すまで、
その壮絶な生涯は1300年後の今でも人々の心に残る。

また楊貴妃は茘枝(ライチ)が好きで、南方地方から、
3日間かかって馬で長安に運ばせたという。
私も茘枝が好きで、食べ過ぎて全身蕁麻疹になったほどである。
これで楊貴妃は終わり、次回から5年前の雲南旅行の写真を展開。

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