浜松中納言物語 0
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「悪い事は重なるもの」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。2008年に入ってから、外付けハードディスクの容量が増え、価格も驚くほど安くなっていた。中国では、まだまだ、光学系は高かった。80GBのハードディスクが日本では、5000円前後で買えるようになっていたが、中国では、600元(9000円)と高価で、一般の中国人は買えなかった。私が初めに買ったハードディスクは、不注意により、ハードディスクのカバーから中身を落下させてしまい、壊れてしまったが、データを残しておく事は大切であるが、時には、保存してあったデータ全てを失う事もある。だからこそ何重にも、データ保存をしておく事が重要だが、人は事故に遭った時には、気を付けていても、ある程度、時が過ぎると、事故に遭った時の教訓を忘れ去ってしまう。今では、ハードディスクが壊れデータが取り出せなくとも、ハードディスクケースを買ってきて、ハードディスクを分解し、ディスク自体をケースの中に入れて、データ取り出し方法も、知っているが、当時は異国であり思いもつかない事であった。悪い時には悪い事が重なるもので、古いパソコンのデータを、中国人に買って来てもらったハードディスクに入れたものの、新しく入れ直す段階では、パソコン本体が動かなくなっている。新しいパソコンが動いても、動かない方にデータはあった。日本のように車で7分ほど走れば、家電ショップがあるような、環境ではなく、近くにスーパーはあっても、町の近くにある、ショップでは、パソコンは売っていても、修理が出来るような、店ではないので、結局、都市部へ行かなければなかった。だから、昔の旅行写真をアップしようとしてもデータがなく、また大量の写真データを保存していたyahooのID誤削除により、写真も消滅し、アップなどできない状態である。つづく
2010.04.24
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「注意せよと言われても」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。各旅行先で撮影したデータは、カメラよりパソコンへ入力。マイドキュメントのピクチャだけでは、万が一データ削除に、なりかめないので、外付けハードディスクへも同じデータを、保存し不意の事故に備えているが、誰でも行う事であろう。だが私の場合、何度となくパソコンの故障によりデータを消失。外付けハードディスクを導入する以前は、CD-Rのディスクに、データを保存していたが、この場合、画像データを縮小させ、保存しないと、直ぐにディスクがいっぱいになってしまう。時代も移り変わり便利になって、外付けハードディスクが出来た。だが、今のような500GBのHDに大きなデータを大量に保存する事は、出来ず、20GBか40GBの外付けハードディスクに保存していた。ハードディスクには、日本のメーカーのロゴが書かれているものの、買ってきた中国人から、外側だけ日本の文字を入れ、中身は、日本かどうか分からないので、注意をして下さいと言われた。注意せよと言われても、どう注意すれば良いのか分からない。一体何に注意をすればよいのだとも思ったが、古いデータから、CDに入っているデータなど全てを移し替える作業を終えた。ハードディスクは合皮で出来たカバーが付属しており、中に入れ、事務所内で、中国人に見せていたが、返してもらった時、開け口が、閉まっておらず、中身がスローモーションを見ているかのように、コツン!と音を立て、外付けHDDが合皮のカバーから抜け落ちた。慌てて拾い、パソコンに繋いでみたが、デバイスが見つからないと、エラー表示が出て、どのパソコンで試しても結果は同じだった。つまり、長い時間を掛けデータ保存したが、一瞬にしてデータが、取り出せなくなってしまった。これが、注意をして下さいの意味か、などと、情けない思いで、また同じHDDを中国人に頼んだ。中国人からは、だから注意して下さいって言ったのに・・。つづく
2010.04.23
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「仕事の疲れも相まって」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。限られたレンズしか持っていなければ、そのレンズの範囲内で、最大限の表現を出すために、色々と苦心をしたような・・。だが、次から次へとレンズを求めて購入し、いざ旅行となると、結局、旅行に行く段階で、必要のないレンズまで鞄に詰め込み、観光目的地で重たい鞄を背負って、歩く姿は滑稽である。その上に、三脚まで肩に提げ観光スポットを歩くが、撮影だけで、疲れ果て、三脚をセットして撮影する時間もなく集合場所へ。中国人からは、あまり使わないものは持って行かない方が・・と、コンパクトデジカメを片手に微笑む姿に、疲れが押し寄せる。撮影を楽しむという事より、撮影機材を抱えて訓練をする感じが、ピッタリする表現だとも思うが、実際撮影する段階になると、構図を決めるというより、レンズに入って来た被写体をただ、撮影するだけになってしまっているようにも感じる。なぜ、そのように雑な方法でシャッターを押してしまうのか?また同じ被写体を露出を変えて連写するAEB撮影をしている。一回の6日間の旅で5000ショットほどシャッターを押している。シャッターを押す事に心地よさを求めているのはいいのだが、旅行から帰ってからが大変である。本来ならば撮影した写真の、データを整理すると言う事も楽しみの一つではあるが、旅の疲れと、その後の仕事の疲れも相まって、やる気を失せる。結局、データはパソコンと外付けハードディスクの肥やしになり、いつの間にか写真の事を忘れてしまい、次の旅行に行く・・。そのうちに、写真データを失ってしまう事も・・。つづく
2010.04.22
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「レンズ沼と呼ばれる病」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。撮影目的で、海外旅行に行く人で悩む事柄は撮影機材である。出来るだけ軽くしたい思いと、あれもこれも持って行きたいと、質問サイトへ質問したりするが、質問する時には決めている。何とか背中を押してもらえないだろうかとか、何とか思いに、賛同してもらえないだろうかなどと投稿する人も多い。一眼レフレンズも、初めは2つで30万のレンズだから一生大切に、使って行こうと思うのだが、関係のネットサイトや評判を見ると、そのレンズが欲しくなり、何度も見るにつけ、考え方が大きく変化し、どうやれば20万のレンズを手に入れる事が出来るのかと変わる。そして自分の手元に、欲しかったレンズが届きカメラに取り付け、撮影をしてみるが、皆が書いているような、感動的な写真ではなく、既に持っているレンズの方が、描写力が良かったりして落ち込む。何とか感動的な写真が撮れないものか、解像度の良いレンズは、どんなレンズなのかと、また色々なサイトを見ていたりする。これがいわゆるレンズ沼と呼ばれる精神的な病に陥ってしまう。撮影に工夫を凝らして研究を重ねると言うより、レンズを買う事で、ストレス解消をしているような感じになってしまう。誰にもある事であるが、度を越してしまうのもどうだろうかと、自分自身に問いかけたりするが、自分で分かっているだけに、その渦中に入ると、どうしようもなくなる。つづく
2010.04.21
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「治安の面でまだ不安」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。中国で旅行では、はじめは全て旅行社任せの旅行だった。だが、外国人が中国人のツアーに参加する事は禁じられており、中国旅行社と何度ものやり取りをしたが了承されなかった。1994年当時の中国では、治安の面でまだ不安が残っていた。ツアーの旅行者でさえ、事件に巻き込まれ行方不明になっていた。何より、旅行社の不安は、言葉の問題であり、万が一迷子になり、中国人に訪ねる言葉は知っていたとしても、聞き取りの力がなく、相手の話す言葉が理解できなく、他の旅行者に迷惑をかける事、この事が焦点になり、2回の面接の後に、何とか合格になった。旅行社の話では、中国人が外国人の旅行申し込みに来て、中国人と共にツアーに参加したが、集合時間になっても、その外国人のみ戻ってこず、2時間ほど探し回って確保したが、2箇所の観光スポットには行けれなかったという話も聞いた。今では直接旅行社とのやり取りで、決める事が出来るし、中々、旅行に出れない場合は、旅行社からご機嫌伺いのメールまで来た。15年前の旅行は全くの個人旅行であり、航空チケットも、カウンターで購入するという実に無駄なお金を使っていた。おまけにチケット売り切れで、旅行地を変更する事もあった。目的地に着いてからの交通機関も行き当たりばったりで、宿泊先などは決めていないので、タクシーで捜したりもした。この時のカメラはニコンの銀塩カメラ(フィルム)を使用していた。おまけに、三脚を持ち、かなりの重装備であり、行動も制限された。その当時の写真はアルバムでしか見れないが、一部ネットで、更新したページがあるので見てみるとよいがmidiがうるさい。時間のある人はこちらから
2010.04.20
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「自由な旅であるならば」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。大雄宝殿は、最大規模の建物で、仏事活動の中心処である。禅寺を訪れ、大雄宝殿の前に出ると大きさに圧倒される。大雄宝殿の撮影のためには、24mm広角レンズが必要になる。旅に出掛ける時、昔は自分の持てるレンズを全てバッグに入れ、重さ12キロ以上を、辛い思いで担いで行き、その場面に応じ、レンズの交換をしていたが、実際にはレンズ交換は出来ない。レンズ交換には、15秒ほどの時間なのだがレンズ交換をする前に、まずは被写体にファインダーを通し確認し、レンズ交換を決定。バッグよりレンズを取り出し、カメラ本体のレンズを取り外し、レンズをカメラに取り付ける作業をし、やっと撮影に入る。全くの自由な旅であるならば自分の撮影したい被写体の前で、時間を費やす事も可能ではあるが、団体ツアーの場合には、自分勝手に行動をするような時間はないと言うのが現状である。最近は殆ど標準ズームと望遠ズームのみで旅行している。私の旅行は現地ツアーが60%で、AIRチケットとホテルのみ、旅行社に任せ、現地自由に動き回るのが20%ほどであり、残り20%は、全て旅行社任せの旅をしていたが一長一短がある。現地ツアーの場合は、ほとんどが中国人やシンガポールまた、マレーシアなどの中国語が話せる人達ばかりである。バスの中では、のんびり出来ないほど、皆さんが話しかけてくる。観光ポイントへ付けば、集合時間のみ打ち合わせて私一人で、行動する事にしているが、そう簡単にはいかない。つづく
2010.04.19
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「枚数は少なく軽い方が良い」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。いつも旅に出掛ける2週間ほど前から目的地の情報を、ネットで検索しては、WORDに張り付け、自分の必要な個所を、プリントアウトして、当日カメラバッグに入れ持ち歩いている。だが、現地に行けば、何かと忙しく、細かく見ている時間はない。移動の途中で、プリントアウトした情報を見てみると、殆どが過ぎており、あまり詳細にデータアップしたため、プリントアウトの枚数は多いものの、観るのは一瞬と言った感じ。ガイドブックは持って出た事もあるが、結構かさ張り、やはり枚数を少なく、軽くした方が良いと思い自分で作る。少林寺の常住院は山に従って建てられ、建物は全部で7列。主な建物は住持と執事の僧達が、仏事の活動と日常生活をする。山門、天王殿、大雄宝殿、蔵経閣、方丈室、達摩亭と千仏殿、両側に六祖殿、緊那羅殿、東西禅堂、地蔵殿、白衣殿などが、3万平方メートル以上の敷地に建てられている。少林寺の西北に歩く事2キロほどで、五乳峰の下に着く。そこには面壁庵と呼ばれる庵が建てられている。達摩大師が面壁したことを記念する為に建てられた。小さめの建造群は初祖庵で河南省に現存する最古の木造建築。写真は、背の上に石碑を乗せた亀と獅子の像で南方と違う。
2010.04.18
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「心が曇っている時は」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。昨夕から夜中までは、悪夢のようなひと時だった。突然、パソコンのモニターが真っ黒になり電源が落ちた。朝ベットで目が覚めて、何となく突然ノートPCが、壊れたのは、夢の中の出来事ではと思いながら、壊れたPCの電源を入れてみたものの夢ではなく現実だった。この写真は、ブログ管理の中に残っていた最後の3枚である。憂鬱な思いで、公開してはダメではあるが、写真への、コメントまで感じ方が違っているようである。中国禅宗の寺を訪れた折に、僧侶に「仏」とは何ですかと、聞いたことがあり、私の質問に対して、微笑みを浮かべて、そうですね~、仏って何でしょうかね?っと、逆に、質問されたような事があったが、中国の僧侶なので、もちろん日本語が話せるわけでもなく、仏教の中国語は、それなりに難しいので、回答を話して下さり、私が聞き逃していたのかも知れない。心が清らかなときは、全てのものが温かく感じられ、心が曇っている時は、全てのものが冷たく感じられる。これは誰しもが実感している事であり、自分の心の、有り様であり、自分自身の姿を言い表している。自分の見方が変われば、物事の見え方も変わってくると、言うものの、自分から発する事柄が、欲徳絡みで、自分勝手な事柄ならば、相手は離れて行くだろう。 「嵩山少林寺の旅」シリーズは、PCが退院して来てより、PC内部データが初期化してなく、画像が残っていれば、更新して行きたいと思うが、いつになることやら・・?また最悪、修理段階で初期化してデータが失われていれば、初めからフォトをアップしながらでも更新して行ければと、思っている。それまでの暫しの間、上海郊外の写真を、更新して行きたいと思うが、古いパソコンが役に立っている。暫しの間、更新する画像は、下のような写真ですよ。データ復旧会社より連絡あり、必要なデータを取り出すのに、最低7万円前後必要であり、その後メーカーへの修理依頼で、メーカーでは、どのような大切なデータであっても、データ保護は考えていないとの内容電話連絡であった。50時間前後の作業時間のデータを壊れたPCに保存してあるが、バックアップを取っていない報いのシワ寄せが来たようだ。再度、画像等のアップを別パソコンで行った方が無難か??
2010.03.21
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「少林寺拳法の名の由来」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。写真の石碑には「世界唐手道協会」と書かれている。中国では、元々拳法と呼ぶ技法はなかったとされている。少林寺拳法という呼び名も、戦後日本で創始され、日本武道の一門派として日本から中国へ渡っている。少林拳と少林寺拳法とは、根本的に技法が異なり、少林拳は南方の拳法を改良して出来上がった。唐手は日本の空手道から起源を発し、日本でも、琉球地方で発祥した拳足による打撃の技を特徴とする。当初は関節技なども取り入れた自衛手段としての、武術格闘技であったが、映画により世に知られた後は、打撃技による攻撃のみがクローズアップされている。
2010.03.20
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「屋根に魔除けの陶器」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。中国に限らず日本でも寺院の屋根に数種類の動物の、形をした装飾が付けられているのを見た事があると思う。中国では明や清朝の建物の屋根に、付けられている。一般には陶器で作られているが、種類は走獣と呼ばれ、魔除けの思想を受け、作られ清朝時代に完全なものになった。屋根の上でも屋根の四隅の端に置かれている。ほとんどが六つの架空の獣を形どったものが、一般的であり、架空の獣の原型となった装飾は、240年頃の三国時代からあり、また300年代の埴輪に、見られ、宋代には更に細かい表現がされている。
2010.03.19
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「武芸、技撃、技巧、技芸」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。中国武術とは中国の伝統体育運動の意味を指し、武術は蹴る・打つ・なげる・掴む・切るなどを、含む動作で、規則正しいルールに照らし素手の動作を、組み立てて行う運動形式を武術と呼ぶが、ヌンチャクなどの武器をてにする場合もある。武術を心得るための運動には、心身の鍛練、体質増強や、自己防衛などの効用が有る。武術は長い歴史の中で、内容と形式を変化させていったが、武術と言う呼び方も、清朝に入ってからで、それまでの1500年間、武術は武芸、技撃、技巧、技芸・技勇、国術などと呼ばれていた。
2010.03.19
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「自分の腕を切断し求道」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺は、北魏の孝文帝がインド僧のために建立。少林寺の初祖であるインド仏教の釈迦から数えて、第28祖の達磨が座禅の修行をしているときに、少林寺二祖である慧可が訪ね達磨の姿を見て、教えを求めたという伝説が残っている。達磨尊者が9年もの間、座禅をし待っていた処へ、二祖慧可が弟子にしてほしいと懇願しても、部屋へ入れてもらえず、慧可は自分の腕を切り落とし、求道の真心を達磨尊者に示した。その事実があるが故に、今の少林寺が存続しており、中国で禅の教えが広まり、やがて日本へも、禅の教えが伝わって来ることになる。
2010.03.18
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「これも時代の流れ」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。嵩山少林寺も1982年に映画化されて以来、脚光を浴びるようになり、観光客が後を絶たない。そんな中国の市場経済波及に伴い武術公演など、商業活動を活発に行って来ている。今まで公に武術を公開して見せる事がなかった。だが、1988年から少林武術ショーを行なうようになり、現在では出張公演も、世界各地で催されている。更には、武術ばかりではなく、少林寺で会社を起業し、お茶のネット通販も行うようになった。だが、これも時代の流れと達磨尊師も苦笑いかも。
2010.03.18
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「選ばれた弟子たち」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。600年ごろの少林寺では朝晩の勤行と座禅修行に励み、早寝早起きの毎日に僧侶たちは運動不足になった。その運動不足を補うために、武術を取り入れ、毎日鍛練をし少林寺の修行の一環として発展してきた。少林寺での武術の具体的内容は、1500年の間、選ばれた弟子以外には伝えられずに伝統を守ってきた。少林寺の高僧たちが伝授してきた武術は、想像を、絶するハイレベルな目標への到達を目指していたからだ。だが、5年連続中国武術大会でチャンピオンの経歴を持つ、ジェット・リーの映画で一躍脚光を浴びる事となった。
2010.03.17
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「優れた部分を取り入れた」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺は、499年に33歳という若さで崩御した北魏の、孝文帝が建てたが、少林寺の僧侶は合掌するだけで、ひざまずかないと、礼儀に対して非難を続けた。儒教における礼儀と少林寺の僧侶は礼儀を重んぜず、儒教とは違うと非難し、仏教は元々インドから、伝来したもので、中国とは礼儀が違うと非難した。明朝の時代に入ると、少林寺の僧侶は仏教だけを認めず、仏教の釈迦・儒教の孔子・道教の老子を、すべて、尊敬すべきとの考えで、釈迦・老子・孔子の三人が一体の、絵を掲げたが、正面は釈迦、右側は孔子、左は老子に見える。少林寺がこんなに有名になったのは、他の寺院とは異り、仏教と儒教・道教の優れた部分を取り入れ、また武術も、行うという点でも、少林寺は他の寺院と異なっている。
2010.03.17
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「次第に衰退して行く」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。1600年ごろの明の時代、第14代皇帝の万歴帝は、8人の皇子を僧侶の修行に少林寺に入れた。その事も手伝い、少林寺の建物は修繕され、増築もされ、少林寺はさらに有名になった。 だが明が滅び、1636年に清朝が建国されると、異民族の王朝で、清に反対して明の復興を、切望する者も多く、清朝は少林寺の僧侶に武術の、練習を禁じる勅令を出した。明代に栄えた少林寺も、清朝の二百年の間に、次第に衰退して行く事になる。
2010.03.16
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「30万人の僧侶が追放になる」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。時代は、楊貴妃の最期の頃、中国各地の人々は、重い税から逃れるため、出家する人が多くなっていた。850年当時の仏教は非常に盛んで、寺院は多くの、荘園を持ち非常に豊かではあったが、また弾圧が起こる。850年頃になると、皇帝は寺院と僧侶の整理を命じた。多くの寺院が破壊され、僧侶は俗人へと寺を追放される。破壊された大きな寺院は5千箇所余り、小さな寺院は、4万箇所余りが破壊され、僧侶、尼僧も30万人余りが、追放され、広大な土地は唐王朝に没収された。
2010.03.15
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「現在のスケールとは比較にならない」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。唐代に入ると高宗と武則天の時代に、東の都として、定められた洛陽で、近くの少林寺には皇帝が、度々、訪れるようになり少林寺は一番栄えた。この当時の少林寺の土地が約9万3千平方km有り、寺院敷地面積は3600平方KM有り、僧侶の数は、2千人以上で、部屋数は5千以上あったという。現在の少林寺のスケールとは比較にならない。
2010.03.15
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「仏教弾圧の嵐」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。中国への仏教の伝来は、1世紀中ごろとされる。だが、中々受け入れてはもらえず、弾圧の嵐が吹き荒れた。少林寺も580年頃、他の仏教寺院同様弾圧に巻き込まれ、少林寺同様に焼き打ちに遭い、僧侶は洛陽へ疎開した。王朝が代わり、新しい皇帝が座に着くと仏教弾圧は、おさまり、その王朝は西安にあったが、大同から、洛陽に遷都した頃から、少林寺の名前も復活。広大な農地も与えられ、僧侶達も少林寺へ戻った。
2010.03.14
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「少林寺の歴史も古い」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺と言えば禅宗であるが、禅宗の祖と言えば、浮かぶのは達磨ではないだろうか。禅宗の祖は達磨であり、少林寺は禅宗を守り、育んできた寺の中でも代表にあげられる。少林寺の歴史は古く、北魏(495年)に作られた。インドより高僧の菩提達摩が少林寺訪ね、少林寺に禅宗を伝授する事になった。その後、寺院を徐々に拡大し、僧侶も日を、追うごとに増えはじめ、少林寺の名は遠くまで、名声を馳せるようになって行った。写真は、2004年当時の中国総書記の江沢民の、直筆で書かれた少林文化人類遺産の文字。
2010.03.14
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「燃えよカンフーのドラマ」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。1977年頃に再放送した「燃えよカンフー」という、アメリカのテレビドラマをよく見ていた。深夜に放送されたが、清の少林寺でカンフーを、会得したハーフの男がアメリカ西部を渡り歩くドラマ。その中で何度も少林寺の修行や情景が出てきていた。燃えよカンフーはブルースリーの原作である。主演は、デビッド・キャラダインだったが、若い人たちは、知っている人の方が少ないだろう。役の名前は、クワイ・チャン・ケインで、この時に、西部劇ドラマの中でカンフーが取り入れられ、そのカンフーを会得した修行の場が少林寺と言う事で、その頃から、少林寺へ行ってみたい思いに駆られていた。
2010.03.13
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「少林寺の映画」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺は、1982年の中国・香港合作映画で、主演はジェット・リー/中国名(李連杰)私も日本の映画館で見て、DVDが出てより、買って来て見たものだった。中国広東省へ行った時に、河南省より来た通訳より、少林寺の話をよく聞いたものだった。しかし、通訳は少林寺へは行った事がなく、本や人の話を見聞きした事を、いかにも、行って来たように話してくれた。
2010.03.13
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「出発時間が1時間ほど遅れる」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。洛陽・龍門石窟にて50分ほど時間を超過、出発時間が1時間ほど遅れる事になった。だが、私よりも後ろから走って来る女性二人の姿に、ガイドからも、連絡した時間通り集合して下さいねと、少し、いら立ち感が見え隠れ、それも私が撮影に、時間を取られてしまったからだと反省した。旅行客は、私を入れて5人だが、65歳ほどのご夫妻と、22歳ほどの女性二人の4人と私の5人だった。朝出発した時点で、ガイドから今日は旅行者が、少ないから、予定通りの時間でいけそうですと、話していたが、バスの待つ駐車場まで歩く道のり、笑顔が少なく、急ぎ足で向かっていた。次からは「少林寺」の写真を公開する予定。
2010.03.12
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「後ろ髪を引かれる思い」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。私は洛陽へ来る前に、下調べはしてきた。だが、ネットで調べた石仏の写真と実際の石仏とでは、迫力の違いを感じ、圧倒されてしまった。ガイドから時間が少なくなってきたという事で、私の思いとは逆の方向へと歩いて行く事に、後ろ髪を引かれる思いだった。私が、洛陽で行きたかった所は龍門石窟と、其の前に流れる伊河を渡り、白居易の墓のある、白園へ行きたかった。しかし、1.5キロ手前に見える、白園を後にして、次の少林寺へ向かうため、逆方向へガイドと4名の中国人とで歩いて行った。上の写真は、私の行けなかった白居易の墓である。白居易は800年頃を生きた人で、詩人である。平安時代以降の日本文学に大きな影響を及ぼし、菅原道真の漢詩と比較されたり、源氏物語などにも、大きく影響したが、有名な詩に「長恨歌」がある。唐代の玄宗皇帝と楊貴妃の物語りを詩にしたものである。
2010.03.12
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「東大寺に大きな影響を与えた」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。龍門石窟の中で有名なのは奉先寺である。その中で高さ17mの盧舎那仏が目を引く。龍門石窟造営の絶頂期、675年に完成する。盧舎那仏は釈迦の別名であり、その盧舎那仏の、左右に、釈迦の弟子の迦葉像と文殊菩薩像と、阿難像と普賢菩薩像が立つが頭は破壊されていた。写真の石像は見てそれと分かる人もいると思うが、北壁と南壁に天王像と金剛力士像が彫られており、奉先寺盧舎那大仏の完成より80年過ぎた745年に、奈良の大仏の開眼供養会が行われているが、奈良の大仏のモデルとなった。それが龍門石窟奉先寺の盧舎那大仏だった。写真の一番右に立つ金剛力士は、東大寺南大門に立つ。
2010.03.11
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「龍門石窟の盧舎那大仏」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。北魏の時代、山西省平城より洛陽へ遷都したが、平城大同での雲崗洞窟より龍門石窟へ移り、何代にもわたり400年間石窟を彫り続けた。写真の盧舎那大仏は、唐代の女帝、則天武后を、モデルにしたのではと伝えられている。また則天武后は自らの功徳を称えるため自分に、似せて盧舎那大仏を造らせたとの伝説が残る。則天武后は日本での呼び名だが、中国では武則天と呼ぶ。則天武后は、龍門石窟で盧舎那大仏の掘り始める儀式にも、参加し、莫大な寄進もしたと伝えられる。その寄進額は2万貫。1貫で小判20枚分で、2万貫では40万枚である。小判は現在5万円と言うから、一体幾らになるのか?200億円にもなるが、そんなに寄進したのだろうか。
2010.03.11
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「慈悲深い顔は破壊していない」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。龍門石窟の石仏のなかで最も大きいのが盧舎那大仏である。盧舎那とは智慧と光明が全てに行き渡ったという意味で、この石仏は、唐代(670年頃)に彫られている。高さが17メートル以上あり、腕は破壊されているが、慈悲深いその顔は、破壊から免れている。文化大革命での紅衛兵たちの破壊工作は、なぜ、盧舎那大仏の顔を破壊しなかったのかが謎である。17メートル以上と大きな石仏なので、破壊を途中で、あきらめてしまったのか、または完全に破壊するまでに、時間が来てしまったからなのか?誰にも分からない。しかし、私は破壊途中で、あまりの慈悲深い顔に、罪悪を感じ、破壊を中止してしまったと思いたい。
2010.03.10
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「破壊を免れた蓮の花」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。洛陽の龍門石窟の中でも知られている蓮華洞の天井。北魏末期(500年頃)の石窟で天井には大きな蓮の花が、彫られていることから名前がつけられたが、本尊釈迦牟尼仏をはじめ殆どが無残に破壊された。天井の破壊を免れた見事な蓮の花と顔が破壊された飛天。蓮の花を見上げる前に釈迦石仏の哀れさが目に飛び込み、ガイドの上を見上げてという言葉で我に返る。飛天の写真も撮影したが、ここでは公開していない。北魏の雲崗石窟から龍門石窟への最高傑作石仏群が、後世に残っておればと残念がるのは私だけではあるまい。
2010.03.10
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「奥さんに手渡しホッとした」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。今回、洛陽へ来た別の目的が、運転手が一生懸命働き、貯めた4000元(60000円)のお金を届けるためでもあり、洛陽のホテルへは、約束してあった運転手の奥さんと、娘が私の携帯へ連絡して来たので、ロビーで会った。奥さんと娘には2度会っていたので笑顔で会釈をしてくれた。そして私の前で、100元札を一枚一枚数えてバッグへしまった。ご主人より託されたお金を奥さんに手渡しホッとした。奥さん達は夕食前と言う事で、外へ出て食事をした。お勘定の時に、奥さんがお金を出そうとするので、貴重なお金を使ってもらうと、御主人に申し訳ないと、断り、勿論私が支払い、娘に小遣いを渡した。写真は、相変わらず顔をノミで削られた石仏である。
2010.03.09
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「現地のホテルで申し込んだ」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。今回は上海から洛陽へ直行便で飛んできた。午後の便で、来たので洛陽のホテルへ着いたのが夕方だった。今回は上海の旅行社は間に合わず、洛陽のホテルで、洛陽と少林寺ツアーを申し込んだ。翌朝8時半に、旅行社よりのバスが来たが、平日でもあり、旅行者はわずかに5人と少なかった。人数が少ない方が、ガイドにとっては有難いようだ。だが、集合時間等には余裕がなく、大勢の方が撮影が中心の、私にとってはありがたい。ガイドは私から離れずに困ったが、中国人からも、ガイドがピッタリでは、ゆっくりと撮影も、出来ませんねと笑われた。写真は龍門石窟の天井に、描かれた文字と模様で、石窟の広さは30坪以上。
2010.03.09
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「衝撃のあまり口に手を当てる」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。洛陽龍門石窟の石仏は悲惨な破壊をされてしまったが、中でも、上の写真の石仏が一番悲惨な様相。他の石仏への破壊は削り取ると言うより、石を割って壊す感じであった。だが、一枚目の写真は、それらの破壊とは違い、石材用の鋭いノミで、スパッと切られている。誠に痛々しい光景に、中国人旅行者からも、何というひどい事をと、衝撃のあまり、口に手を当てる姿が目に焼きついた。
2010.03.08
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「仏教はいつ頃から衰退したのか」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。中国の哲学と言えば、儒教がまず浮かぶだろう。儒教は紀元前700年以上前から存在する。孔子は紀元前500年前後に更に不動のものにした。道教は紀元前5世紀ごろと言われているが、実際のところ起源は不明とのことである。だが、紀元前5世紀ごろに老子が活躍しており、その後、紀元前3世紀ごろに道教を体系化している。仏教が中国へ伝来したのは、1世紀になってからで、中国では、すでに儒教や道教が広まっている中で伝来。しかし、10世紀ごろに仏教は衰退し始めた。
2010.03.08
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「美意識が少しずつ変化」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。日本へ仏教が伝来したのは6世紀の欽明天皇のころ。朝鮮半島の百済の使者が欽明天皇に金銅の、釈迦如来像や経典、仏具などを献上。飛鳥の時代より仏教は広まったが、日本には、石窟という文化はないのではないだろうか。飛鳥時代より仏教彫刻はあったが、鎌倉時代後期には、衰退し出しており、その点については、中国の仏教彫刻の、歴史の方が早く衰退している。中国では唐代以後の、石窟塑像から、美意識が少しずつ変化し豊満で壮健、落ち着いている感じを美としていた。
2010.03.08
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「石窟に費やされた歳月」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。洛陽から13キロ離れた所に龍門石窟がある。龍門山岩肌に彫られた石窟に費やされた歳月や、係わった人々の苦労は、ひとしおだっただろうと想う。493年ごろ、大同の雲崗石窟造りを引き継ぐ形で、洛陽の龍門山岩肌に龍門石窟が彫られていった、その年月は400年にわたって彫り続けられ、長さは1キロの間に2000を超える石窟がある。
2010.03.07
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「岩肌2キロにわたり石窟」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。洛陽の龍門石窟は中国三大石窟の一つであり、敦煌の石窟、大同の石窟と、この洛陽の石窟である。元々大同の石窟と敦煌の石窟の二つであったが、北魏から洛陽へ都を移した494年ごろから石窟が始まる。北魏から唐代末までの約400年にわたり石窟での、石仏彫りが続けられたものの動員された人たちも、この道のプロしか使えないだろうし、相当な人力とも、伺え、先祖何代にもわたり石仏彫りを続けて来た。石窟は龍門山の岩盤の山肌を2キロにわたり、彫られている。
2010.03.07
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「手を合わせている事を願う」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。中国の文化大革命ではチベットも大打撃を受けた。10日間に渡り紅衛兵は、チベット寺院内聖堂を破壊し、全ての仏像はもとより、聖典なども破壊された。戦前の話ではなく、1966年から10年間に起こった事である。洛陽龍門石窟の仏像を200人の学生が襲ったと聞いたが、紅衛兵の皆が、石材用のノミを持って破壊に来たのか。その頃の紅衛兵は今、55歳から60歳ほどの年齢である。今は、仏像の前で手を合わせている事を願わざるを得ない。
2010.03.06
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「歴代の王朝によって」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。洛陽の龍門石窟へは、洛陽駅からバスで45分ほどかかる。龍門石窟バス停を降りて、標識の通り歩いて15分ほど、黄河の支流に面した岩壁に沿って造られており、大小の石窟群に1万体の石仏があるのかと思ったら、10万体以上あると言われ驚いた。現在2500もの石窟があり、今から約1500年前に北魏が、大同から洛陽に都を移した頃から龍門造営が始まった。隋、唐などを経て宋に至る歴代の王朝によって、掘り続けて来られたが、その苦労して彫った仏像に頭はない。
2010.03.06
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「太陽の光で明るかった」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。敦煌の石窟では、盗難に遭うため、また石窟の盗難を防ぐため石窟の入り口に、頑丈な鉄の扉を取り付け、二重の鍵が取り付けられていた。だが、洛陽の龍門石窟では、一切囲いも鍵もなく、それにより盗難や傷つけられる可能性は高いが、敦煌の石窟に比べ、洛陽の石窟は太陽に照らされ明るかった。
2010.03.05
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「鋭いもので削ぎ取られていた」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。以前訪れた敦煌の莫高窟での石窟では洞窟の中に、掘られていた石窟の中には、盗難に遭った仏像もあり、残念な事であるとガイドの女性も悲しんでいた。今回来た龍門石窟の仏像は、ほとんどが首や手が、鋭い刃物で削ぎ取られていた。私は他の中国人団体のガイドの説明を聞いた所、文化大革命の頃に紅衛兵を筆頭に押し掛け、削ぎ取って行ったという事だが俄かには信じられない。
2010.03.05
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「娘と妻に届けるもの」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。今回、湖南省洛陽や開封へ来たのは、もう一つ理由があった。いつも私を送り迎いをしてくれている運転手の故郷が、湖南省洛陽であり、奥さんに届け物をするためだった。届け物は、かさ張るものではなかったが、運転手の6歳になる娘と妻に届けるもので、運転手が一生懸命働き、貯めた4000元(60000円)の金を届けるために行った。だが、私が洛陽へ旅に出ると言ったのが事の発端だった。
2010.03.04
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「得意になって話してくれた」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。河南省には鄭州市、開封市、洛陽市など合計17市ある。今回 その中の洛陽市と開封市へ何故行ったのかは、私のいつも行く目の不自由なマッサージ師の故郷が、洛陽市だったという単純なことから行った。マッサージをしてもらう度に洛陽の話を、聞いており、竜門石窟の話は得意になって話してくれた。だが、目の不自由な人がどうやって広がる光景を、あたかも見たように言ったのか謎だったが、小学5年生頃から、段々と目が見えなくなり、それまでは見えていたと事だった。洛陽に行く為のもう一つの目的の為と旅に出たが、それは只の言い訳だったのかも知れない。
2010.03.04
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「一体中国のどの辺りなのか」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。河南省と聞いても一体中国のどのあたりなのか、分からないことと思うので説明したい。北側に河北省、東北側に山東省、東南方向に安徽省、北西側に山西省、西側に陝西省、南側には、湖北省と隣接している。河南省の大部分が黄河の南方向にあるため、黄河の河と黄河の南側とで河南と称されたが、河北省の、名前の付け方も、黄河の北側だけで付けたのかなどと思う。人口はというと、四川省とほぼ同じで約1億人。四川省と河北省の人口だけで日本の人口をはるかに凌ぐ。
2010.03.03
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「実に単純な事で決めた」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。今回から中国の河南省西部にある都市の洛陽。洛陽と言っても、私が日本にいる頃には噂でしか知らなかった。中国へ来てより一体何回となく洛陽の地名を聞いた。今回なぜ洛陽に来たのか、それは実に単純な事で決めた。
2010.03.03
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