浜松中納言物語 0
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「七宝古鎮15」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。七宝古鎮の写真もこのページで最終である。写真は七宝老街と書かれた大門入口である。その七宝楼と大門の間の広場では軽快なリズムに合わせダンスが行われていた。日本で言う所の町内自治会婦人部の皆が朝の時間を利用しダンスの練習をしながら来るダンスの発表会へ向けて頑張っている。暫しの間、彼女らの練習振りを見ていたが必ずと言って良いほどリーダー格の人がいてミュージックを止めて違う違うと言っている姿やこの分では、貴女をチームから外しますよとこの風景は日本も中国も変わらない情景である。次回から蘇州・周庄・無錫の写真を公開したい。「中国の旅」
2011.09.05
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「七宝古鎮14」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。朝の七宝古鎮の人通りは少なく老街を歩いていても観光客には出会わない。七宝古鎮の人気はやはり日中より夜に人気が集中しており朝の出発は遅い。七宝古鎮の運河に架かる唐橋付近には夕方7時過ぎともなれば観光客で賑わう。だが写真のように地元の人とすれ違う程で静まり返った佇まいの空間が前方に広がる。七宝老街の通りも店はまだ開いてなく通りを歩く人々の姿も仕事に向う格好である。通りに捨てられた紙くずなどのゴミは綺麗に朝のうちから清掃されていた。「中国の旅」
2011.09.03
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「七宝古鎮13」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。七宝古鎮で撮影をしながら歩いていると時間を忘れてしまうほどである。朝5時半に古鎮の橋の上に立ち日の出を撮影したのが6時ごろの時間だった。写真の撮影した時刻は定かではないが午前9時を回っていたと思うので3時間以上古鎮の周りを歩いている事になる。川沿いの道から昨夜の橋を撮影した。昨夜は大勢の観光客が橋の上を往来しておりその橋の中心位置に写真屋さんが撮影をするため観光客を呼び込んでいた。橋の上から撮影した写真であるが遊覧船など昨夜の綺麗な灯りが点かないと何となく寂れた雰囲気を醸し出している。橋を渡りきり対岸の店先から川越しに対岸の古鎮の店並みを撮影したが写真の左上に見えるマンションは12階建てで多くの上海市民のベットタウンとして更に建設が進む。1000年以上の古鎮の街並みがマンションにより撮影してより興ざめだが古い物と新しい物との融合を譲り合いながら共存する時代でもある。「中国の旅」
2011.09.02
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「七宝古鎮12」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。以前中国人から時間のあるとき是非に七宝古鎮へ行って来て下さい観光として上海の人は良く知っているが穴場だと聞いていた。2年越しの思いがやっと実現して何とも言えない後味の悪い思い出を作ってしまったと思い、その事を紹介してくれた中国人に告げた。まずは残念だったねなどの慰めの言葉が聞へれるのかなと期待もしたが思いっきり笑われてしまった。あれ程スリには注意と付け加えたのにマニュアル通りにスリに遭うとはとビールの瓶を持ちながらも笑っていた。七宝古鎮の老街では道幅が狭い分スリも多く特に貴方のような日本人は標的の的で多くの日本人がスリに遭っているとも話した。私の場合は路上でのスリに出くわしたのではなく店で団子を買う列に並んでいてスリに遭ってなんと鈍感な日本人だろうと笑われた。中国人7人と私1人で食事をしたが大いに盛り上がり、今日は私たちがご馳走すると笑いながらレジで清算をしている中国人の横顔が今も時々思い出されては情けなく思った。古鎮の建物は1000年以上の長い歴史をもちその古鎮を守り育てている古鎮の暮らしはストレスなど全く感じる事無く生活が出来るそうだ。「中国の旅」
2011.09.01
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「七宝古鎮11」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。上海近郊のマンションの部屋に帰り着いても何となくやるせなく放心状態が続いた。まずは部屋の小金庫に入れてあるお金を財布の中に入れ直し財布のふくらみを確認した後何とか泥棒対策をしないと次もまた同じと思った。肩から提げるショルダーバッグに財布を入れ持ち歩くか、それともカメラやレンズを入れるバッグに財布を入れておくかテストをした。だが財布のふくらみが結構邪魔になるため結局、次の旅ではお金を3つに分けてポケットへ入れることにするのが一番良いなどと思った。まずはスキを見せない事が一番で、また大勢の中で大金を見せるのは何処に目が光っているか分からない。人の混雑した所では、小銭を用意しておくなどノートに控えてはみたが盗難に遭ってからでは遅いと苦笑い。写真は古鎮を流れる河を遊覧する小船である。「中国の旅」
2011.08.31
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「七宝古鎮10」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。七宝古鎮を出て上海市内を見て回る予定が盗難により予定を全て変更し取り止めた。ホテルからの預かり金の残り金を受け取ったがこんな金額では次の預かり金にもならない。仕方なく上海近郊の家まで帰りまた時間がある時までに残した観光地を回ろうと思った。帰りは4時間以上掛けてバスを乗り継いで住まいへ辿り着いたのが薄暗くなってからだった。私は日本の妻へ電話を入れ、冗談混じりに盗難に遭ったことを電話で伝えた。妻にはいつもメールばかりで電話は珍しかった。逸れも手伝ってか怒られると思っていたが、また盗られたのですか?体に怪我は無いですよね。と、いつもより優しい妻の応対が気にかかった。「中国の旅」
2011.08.30
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「七宝古鎮9」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。中国神話の中で龍の9人の子供たちの故事が伝えられ中国の故宮や仏閣などへ行くと像が置かれているので興味深く見れる。龍の9番目の息子が一番下の子供でありとても甘やかせて育てたが、大きくなってから働かず何もせずただ、むやみに1日を過ごしていた。思い余った龍は9番目の息子に色々な仕事を遣らせたがどれも長続きせずに困っていた。仕方なく、何も動かずにしているのであれば門番はどうかと遣らせてみたところ、他のものは嫌がるのに9番目の息子は黙って動かなかった。門の番が一番息子椒図に向いていると以後門番をするためいつも門の鍵を見張る役に就いた。古来、門や扉は家を守り魔や邪なものを家に入れないという役目があった。門牌は扉や門の力を強くするために取り入れられた装飾である。獅子や椒図などの避邪獣をモチーフしたものが使用されていた。龍の9番目の息子を椒図と書き読み方は「しょうず」で魔を払うという意味である。扉のノックする部分の装飾に好んで使われており古来より魔よけとして門の中心部に付けられている。椒図(しょうず)は閉じる事を好み、他所者が巣穴に入る事を嫌いいつも見張っており椒図は門扉の握り輪を咥えおり中国では良く見られる。「中国の旅」
2011.08.29
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「七宝古鎮8」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。旅行中の朝は普段よりは早く起きるのだがスリに残り3日間の旅の費用を財布ごと掏られれてしまい朝5時に起きた。幸いカメラ類は盗られていないので身支度をした後カメラを掲げて外に出た。フロントから朝早いですねと声を掛けられたが昨夜の係りの人とは違うのでニコニコしていた。ホテルからはものの2分ほどで古鎮ゲートへ行けれたが朝が早いためゲートではチケット不要のまま入る事が出来た。古鎮の狭い道路の両脇の店は全て閉まっていた。古鎮などの商店は夕方から夜が書き入れ時である。昨夜スリに盗られた店の前付近を通ったが同じような看板が並ぶ門構えでは、どの店か分からなかったが、昨夜の橋を渡り撮影を続けた。朝6時過ぎの澄み切った心地よい空気から太陽が昇り始めた8時過ぎには川面に浮かぶ観光客が捨てていった紙くずが妙に目に付く。私は橋を渡りきり向こう岸へと向かい路地へと入り昔ながらの醤油問屋の門の前に来た。古鎮の古い佇まいを残している路地の片隅にレンズを向けたが、門の鍵のところに竜(龍)の九匹の子である竜生九子の椒図が門番をしていた。「中国の旅」
2011.08.28
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「七宝古鎮7」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。盗難に遭ったその夜、一文無しの私はホテルに帰り着きフロントに理由を話した。フロントでは私の話が理解されたもののお金を貸し出すほどの事まではしなかった。一旦部屋に入り、唯一無料のお湯を沸かしお茶を一口飲んではみたが落ち着かなかった。ホテルの外へ出ても一文無しでは何も買えない。ホテルの売店でホテルのキーナンバーで紹興酒を無理を言って持って来た。つまみはピーナッツを頂いたので部屋に入り600mLの紹興酒を如何に長く持たせるかを考えお湯割りをすることにした。紹興酒のお湯割りは、中国人たちは折角の紹興酒の味が薄められ不味くなると嫌がる。そんな事を思い浮かべながら紹興酒とお湯を半々で飲んでみた。元々アルコール度数は16度ほどあるので割っても8度ほどはある。ホテルの売店のおばさんが見かねてくれたピーナッツの封を空け一粒ずつ口に運んだ。テレビを着け中国語字幕のチャンネルに切り替えて見ていたが酔っ払ってからでは風呂に入ると良いが覚めてしまうので先に風呂に入ってより酒を飲んだ。寝付けないのではと思っていたが思いのほかぐっすりと眠り快く朝を迎えた。まだ時刻は5時半頃だったが、朝の古鎮の風景を撮影した。「中国の旅」
2011.08.26
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「七宝古鎮6」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。中国へ来てから盗難は数え切れない。いつも何か考え事をしていると書けば聞こえが良いが、ただボ~っとしながら気が引き締まっていないと言うべきだろう。盗難に遭う金額が毎回多いが狙われ易いと言った方が自分を慰めやすくなる。そんな事を思い浮かべながら古鎮を歩くと何となくわびしい気持ちになって来る。目の前に紹興酒の酒樽が見えて来たので見ていると中から店主が現れ、どの酒を買うのかと聞いて来たので結構ですと去った。有り金の全てを盗られてしまった今は何も買えないのだと自分に言い聞かせながら夜の古鎮を重い足取りでホテルまで帰った。フロントで盗難に遭った事を伝えた所この辺は注意をしないとプロのスリが多いですからと得意げになって話すが、先に話してほしかった。そんな事を考えながらエレベーターに乗ったがふとホテルの予約金の事を思い出しフロントまで急ぎ戻り、予約金の一部を救済措置で戻して頂けないものかと話したが、彼らでは駄目だった。このままでは夜も眠れないと思い、ホテルの売店に行き、盗難の事を話しホテルのルームNOとサインで紹興酒を1本頂けないかと頼んでみた。仕方がないですねと言いながらもサインで許可をもらい帰ろうとすると、おつまみがないとお酒も飲めないでしょうとピーナッツ入り袋をこれは私からのプレゼントと手渡してくれた。「中国の旅」
2011.08.25
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「七宝古鎮5」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。七宝古鎮の団子屋さんで撮影している時にポケットの4000元をスリに盗られてしまった。今度の旅行では盗難に遭わないようにと心掛けてはいるのだが撮影に気を取られると注意力が散漫になってしまい盗られてから後悔する。今回も6個の団子を1個ずつ少しずつ食べた。なぜならば6個で4000元の高価な食べ物である。本来なら9元で買える団子が4000元と割高になり味しめながらゆっくりと食べ、他の人はスープなど残しているが、この時私は残さず全て飲み干し、緩やかにカメラバッグを掲げ外に出て気が重いが撮影を続けた。川辺にたたずみながら暗いながらも川面の音を聞いていた。もし私が予定を変更せずに松江の方へ行っていたならば盗難には遭う事がなかったのではと仮定の思いを巡らしていた。だが、盗難に遭うまでならまだ間に合うが既に盗難に遭ってしまった後で思ってもそれは先の予定ではなく全くの愚痴でしかなかった。ホテル代は先に支払っていたので、その分だけでも不幸中の幸いであると思った。歩きながらも撮影を続けた。何かをしていなければ、心の動揺を抑える事が出来ないと思ったからである。「中国の旅」
2011.08.24
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「七宝古鎮4」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。湯団子とは、もち米の粉で作るだんごだがこちらの方では中に漉し餡が入っている。また別注文で黄な粉に蜂蜜のような甘い餡が団子の中に入れてありスープと共に味わうと何とも美味しく疲れが取れそうな感じがする。私は団子とスープの入ったお碗を持って空いているテーブルに座り、カメラバッグを横のイスに置いて、美味そうな団子を食べようとしたがネコ舌の私には熱過ぎた。口に運んだ団子をお碗の中に一旦戻した。暫く待つ間に何気なく後のポケットを触るとお金のふくらみが感じられなく手を入れてみた。私はお金を違う所に入れたのかと思い色々な所を探してみたものの見つからなかった。カメラのバッグへ入れたのかとか思って何度も探してみたもののやはり見つからない。先程、並んだ所に落ちているのではと思い行って見たが人の足ばかりでお金などない。店でお碗に団子を注いでいる人に「私のお金を見なかったですか?」と無礼な聞き方をした。再度テーブルに戻り箸を持つが気が気ではない。テーブルに座る人達と目が会うが、皆がスリに見えてくるから人間の心理とは不可思議である。「中国の旅」
2011.08.22
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「七宝古鎮3」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。上海の七宝古鎮の名前は10年ほど前から聞いていたが中々出掛ける機会がなかった。今回も松江を回って上海へ変える予定が時間の関係で私の気持ちが変わり思いがけず七宝古鎮へ来る事が出来たがホテルも予約せず入室2時間半前に空室状況を聞き予約する慌ただしさだったが、それも手伝い少し高めの部屋しか空いていなかった。部屋に入り荷物を置き財布の残金を確認した。チェックインした折にフロントで預かり金を宿泊料の3倍に当たる1500元を渡したので手元には小銭しか残っておらず幾らもなかった。ウェストポーチの裏側のファスナーを開け中の4000元を出しポケットに突っ込んで部屋を出た。フロントで古鎮の入口を確認したが2分も掛からない位置だった。更に七宝古鎮で名物の湯団子店の場所も聞いてよりゲートへ向った。フロントからは人が多いですから身の回りの物に気を配りながらお願いしますと言われポケットに手を当て4000元のふくらみを確認した。七宝古鎮への入場チケットを購入し中へ入りまず名物の湯団子の店へ入ったが行列が出来ており私も並ぶ事にしたが先に注文をして並ぶように言われ、ポケットの4000元を出し湯団子6つ注文し、お金は後のポケットへ入れた。私は団子の写真が撮りたくて列から抜け出し身を乗り出して撮影しその隙に後のポケットにスリの指が入り込んでいたのかも知れない。「中国の旅」
2011.08.21
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「七宝古鎮2」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。上海から1時間圏内にある古鎮と言えば写真の七宝古鎮と松江古鎮である。松江古鎮は10年ほど前に地下鉄が通ると言う事で急ぎ造った古鎮で商店街にも中々商店主が入居していない状態である。七宝古鎮は規模は大きくないものの古鎮の雰囲気を十分に味わえ人通りも多い。上海を観光し時間に余裕のある場合は七宝まで足を伸ばしてみると良いだろう。上海なら夜の南京路や外灘、新天地などまた人民路から西蔵南路までの淮海東路や西蔵南路から崋山路までの淮海中路なども夜に歩けば綺麗であるが新しい街である。七宝古鎮は1000年以上の歴史がある古鎮で商店街を歩いていても新しい街とはまた一味違い違った風情が味わえる。だが人通りも多く、プロの泥棒も多いので気をつけなければならないが、そう言う私も綺麗さっぱり泥棒にお金を盗られているがその話は次のページで綴ってみたい。「中国の旅」
2011.08.20
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「七宝古鎮1」 「中国写真ライフ」では、上海「七宝古鎮」の写真を公開しています。天馬山バス停でバスを待っている時に丁度タクシーが来たので手を上げ乗った。?山の地下鉄乗り場までと言うと上海に戻るのですかと聞かれたので七宝古鎮まで行って古鎮の夜景を見ると言うと七宝まで乗せて行くからと言われたが?山で降りた。?山の地下鉄駅から10分ほどで七宝地下鉄に着いたが、結局そこからが分からずタクシーでホテルまで向った。タクシーに乗り2分足らずでホテルへ着いたので歩けばよかったとも思った。七宝古鎮は後漢朝に出来た古鎮であるが宋の時代に発展し明清の時代に最も栄えた。千年以上の歴史があり古鎮と言われるだけあり各建築物も重みが感じられたが夜でもあり光りの織り成す光景に目が奪われたのかも知れないが、撮影するのも露出を一杯開け撮影したため絵本のような感覚の画像になった。私が行った時は8時過ぎで観光客が大勢いた。地元の人達も活気があり胸躍らせながら撮影を続けていったがこの後盗難に遭ってしまう。「中国の旅」
2011.08.19
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「天馬山公園7」 「中国写真ライフ」では、上海「天馬山公園」の写真を公開しています。上海松江天馬山の護珠寶光塔と上峰寺を観光した後、登山道を下り天馬の田舎町を歩いてバス停まで向う途中撮影した。写真の右側に映っているのが斜塔だが写真で見るとかなり遠くに感じる。街を流れる川の水はあまり綺麗とは言えない。予定では天馬山からバスで小昆山まで行きその後、松江まで足を伸ばし松江で一泊し松江を観光した後、上海へ戻る予定だった。だが天馬山で時間を多く使い過ぎ、急遽予定を松江から七宝古鎮へと変更した。天馬から携帯でホテルの予約をした。高級なホテルは必要なく、かと言って安くても汚いホテルは駄目だと告げさらに見つかり次第連絡をと電話を切った。10分ほどしてより電話した所よりホテルが見つかったので2軒のうち1軒を決めて予約をしたいとの内容だった。写真は広角レンズから望遠レンズに取替え斜塔を撮影したが傾き具合いも分かる。「中国の旅」
2011.08.18
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「天馬山公園6」 「中国写真ライフ」では、上海「天馬山公園」の写真を公開しています。上海から地下鉄で1号線から上海駅まで行き3号線に乗り換え宜山路駅で9号線松江行きへ乗り換えた後、そのまま?山駅まで来れる。?山駅からは路線バスを利用すれば天馬へ着く。ある程度の中国語力がないと一人では大変だ。天馬山では護珠寶光塔の斜塔と上峰寺の観音像を見れば他は見なくとも良い。というのも始め来た折に半日掛けて護珠寶光塔近くより四方向へ石段が下りており、それを散策し思ったより広い敷地内を行ったり来たりした。護珠寶光塔は山を下り近くを流れる川に架かる橋からでも、斜塔を見る事が出来るが見る方向によっては傾いていないようにも見える。下の画像は望遠で撮影しているが、斜塔の裾部分のレンガが崩れ落ちている方向とは逆の方向へ傾きが進んでいる。実際に斜塔まで登って見て見ないことには遠くからではレンガの崩れ落ちている箇所は見えない。季節は夏でもあり、山には緑が青々と茂り斜塔を取り囲むように夏の雰囲気が出ているが望遠を外すと中国特有の砂で曇った感じに見えた。「中国の旅」
2011.08.17
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「天馬山公園5」 「中国写真ライフ」では、上海「天馬山公園」の写真を公開しています。日本ではお盆も過ぎ日常の生活に戻った。寺や墓などでロウソクや線香が使われる。中国でも同じように使われるが大きさが違う。中国のお盆といえば清明節であり一番線香が出回る時期でもあるが日本の8月15日とは違う。中国の清明節は春分から15日目以降に行う。日本のように霊が帰ってくるという思想はなく先祖の墓の掃除をするという行事のようである。私も着いて行った事があるが一般家庭では墓と言っても日本のような墓石はなく土が持ってあるだけの簡単なものである。墓の前ではロウソクを点け線香を炊きまず墓に生い茂った草を取り除くが大変な作業。その後、見るからに偽のお札だと分かるお金をロウソクを使って次から次へと燃やして折角掃除した墓の周りは焼けた灰で汚れるが、一切関係なく、皆それぞれ帰宅につく。家に戻ると家族や親戚が集まり宴が催され春節に次ぐ大きな行事の一つである。「中国の旅」
2011.08.16
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「天馬山公園4」 「中国写真ライフ」では、上海「天馬山公園」の写真を公開しています。上海天馬山の斜塔である護珠寶光塔から30mほど進んだ所にあるイチョウの木の画像が出て来たので前頁と分けて公開したい。外付けのHDDの中にデータとして入っていた。写真の左側に移っている木が1788年に爆竹から引火して樹齢750年のイチョウの木が燃えたが700年以上過ぎた現在でも倒れずにいる。護珠寶光塔の傾きは2.3mあり、傾斜度は6度でピサの斜塔と比べるのもどうかとは思うがピサの斜塔より傾斜度は大きく世界第1なのだが外国の人はこの塔の事を知っている人は少ない。 中国の新聞紙上で「傾斜世界一の塔」と掲載したが中国人にさえ人気が今ひとつ巻き起こらない。観光客は私の前にも後にも居なかったので何処をどのように歩いたら出口まで行けれるのか来た時には40分足らずのような気がしたが写真の上峰寺まで辿り着くのに1時間半掛かった。近道を通ろうと思ったのが返って遠回りになり最後には路に迷ってしまったが聞く人もおらずただ一人で焦る気持ちで歩き続け辿り着く。下の画像は上峰寺の高炉の龍の鋳物飾り越しに復活をさせようと建設途中の観音像を撮影した。「中国の旅」
2011.08.15
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「天馬山公園3」 「中国写真ライフ」では、上海「天馬山公園」の写真を公開しています。天馬山公園の護珠寶光塔の周りの写真を撮り中央に造られた小さな廟から護珠寶光塔を撮影。護珠寶光塔は斜塔と呼ばれるほどに傾きあと何年で倒れるのかと心配させれほどである。その傾いた護珠寶光塔を撮影するのは真っ直ぐな塔を撮影するより難しいかも知れない。写真の左前方に樹齢750年余りのイチョウの木が植わっており銀杏の木の周りにはコンクリートで防護柵がしてあり大切に保護されている。乾隆(清朝の皇帝)(1788年)の時、寺院佛の祭り行事の際、大量の爆竹を鳴らし、それが元で銀杏の木に引火し焼失し現在4メートル程しかない。前回訪れたときには撮影してホームページへ載せたのだが、不注意によりホームページ全て削除してしまい何とも悔しい思いをした。「中国の旅」
2011.08.14
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「天馬山公園2」 「中国写真ライフ」では、上海「天馬山公園」の写真を公開しています。1079年に写真の護珠寶光塔が建てられた。1079年は北宋の頃であり中国全土が仏教一色の頃でもあり天馬山でも護珠寶光塔が建てられた。南宋の1157年に黄金色の仏舎利を塔の中に隠して敵の襲撃から守ったと文献にはある。護珠寶光塔は明け方や落日の折に塔の周りから七色の虹のような光りが現れると言い伝えがあり、その場面を一目見てみようと待っていたが夕陽まで相当な時間があり待つ事を止め引き返す事にした。 天馬山の護珠寶光塔は斜塔として有名である。護珠塔の周りが竹で囲ってあり違和感を感じた。以前来たときには、塔の周りの保護柵はなく塔に近寄り見る事が出来たが今回は写真を撮っても満足感がなかったものの休憩所の中国人に聞いてみると護珠塔の傾きが年々酷くなり上海市より事故を懸念し柵を設けて観光客が入れないようにしたとの事だった。1245年に修築が行われ、100年に1度修復を行うが最近では風化も激しく高さ19mの塔がいつまで持ちこたえれるかと言う事と最悪倒れた場合にけが人等出たときの対策なども話し合っているとの事。 「中国の旅」
2011.08.13
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「天馬山公園1」 「中国写真ライフ」では、上海「天馬山公園」の写真を公開しています。天馬山公園へは?山森林公園からバスで30分ほど掛かるが各停留所に停まりながら行くので車でなら20分ほどで行けれる距離だ。天馬山も?山同様に100m足らずの山である。上海地域は主に平野であり山脈が一切ない。ゆえに地震が起こる心配をしていないと中国人は話すが確かに唐山や四川また雲南で起こっているが上海では一度も地震は発生していない。上海を取り巻く街では小高い丘が続いている。松江からの連なる丘を称して「松江九峰」と呼ぶ。 天馬山はバス停から3分ほど入った所に入口があり北側と南側の2箇所にあるが、写真の石段から入って行くのが一般的な入り方である。 天馬山は春秋時代の呉国に干山と呼ばれていたようで春秋時代に何故千の山と呼ばれていたかは不明。一説によると天馬山付近で千の将軍が露営をし戦いに備えて訓練をした場所から名前が付いたとある。一人の将軍に200人の兵が着いたとしても20万人がこの一帯で訓練をしたこととなる。入口の門を潜り抜け山道を登るというより緩やかな道をゆったりと緑が生い茂った林を眺めながらハイキング気分で歩いて行ける。「中国の旅」
2011.08.12
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「?山国立森林公園11」 「中国写真ライフ」では、上海「?山国立森林公園」の写真を公開しています。?山国立森林公園はロープーウェイを境に東?山と西?山とに分かれており私は西?山へ行ったが、東?山は野鳥や蝶がたくさんいる。10年ほど前に東?山へは行ったので、今回は時間もなく西?山だけ行って東は眺めただけでゴンドラを使わず階段を下りてきてしまった。ゴンドラで下りると?山地下鉄乗り場近くへ行ってしまい私の次の目的地の天馬山までのバスに乗るためには、また歩いて戻らなければならない。またもう一つ大事なバッグを西?山入口のチケット確認所へ預かってもらっているためにどうしても同じ道を通らなければならなかった。バッグを預けるのも始めは頑なに断られたがかなり無理を言って皆さんの休憩所の中に置かせて頂いたが普段なら絶対駄目だった。西?山を出て車道を横切って向い側のバス停へ30分に1本しか出ていないようで20分ほど待った。バスに乗ると空席が多く見られたが私はわざわざ運転手の横の席に座り天馬山停留所まで行きたい事を告げた後熟睡した。写真は天馬山入口の写真である。「中国の旅」
2011.08.11
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「?山国立森林公園10」 「中国写真ライフ」では、上海「?山国立森林公園」の写真を公開しています。?山国立森林公園の教会横の十字架を撮影。撮影している時に中国人から「ザンリ」と言われ何かなと考えていたが、ザンリとは葬礼と書く。つまりはここで亡くなった人の葬式をする場所で私はその十字架を撮影していたが、ご利益がありそう。少し歩いて山から見下ろすと緑が一面に青々と生い茂りすがすがしい感じがしていた。上海天文博物館と彫られた大きな石を撮影したがその周りには中国人が、お尻の下に何も敷かず地下に腰掛けており、何処でも腰掛ける姿に同じ中国人でも香港人は乞食のようだと馬鹿にする。私は撮影したいのでと15秒ほど立って頂いた。「中国の旅」
2011.08.10
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「?山国立森林公園9」 「中国写真ライフ」では、上海「?山国立森林公園」の写真を公開しています。?山国立森林公園西?山の頂上に建つ教会。1868年上海にて教会が攻撃され司祭も軽い怪我をしたが、140年以上前の事で中国の外国人嫌いは今に始まった事ではない。戦後66年過ぎた今でも上海ではアンチ日本が続く。私の中国sinaブログにも中国人からメールが入り、恨み辛みを長々と綴り送ってくる。メールは150字までに制限されているために何回かに分けて送って来ているが、一度返事を書くならば、ここぞとばかり機関銃の攻撃が続きその中国語の活字攻撃は止まる事を知らない。私は一般の日本国民に恨みを言うのは良いが中国政府の策略に踊らされている若い君たちは私の目にはピエロより滑稽に映って仕方がない。もっと視野を世界に広げて先進国が一体何を思っているのかを判断してみるべきだと訴えた。だが中国のインターネットは中国共産党の支配下歩の悪いものは完全に封鎖され中国人も見れない。また私が中国語で政治に関することをブログ上で書いたが、5分も待たずにその記事は封鎖された。シビアにも程があるが、中国国民が平和に対し目覚める事を一番恐れているのが中国政府であり完全に封鎖をさせ、もし世に長時間流れ出た場合は管理者は更迭では済まない厳しい処分が下される。「中国の旅」
2011.08.09
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「?山国立森林公園8」 「中国写真ライフ」では、上海「?山国立森林公園」の写真を公開しています。上海には山と呼べるほどの山がない。上海近郊にあるのは小昆山と天馬山くらいだ。その中で?山は100mほどの高くはないが天文台や聖母大堂もある西?山が見られる上海市内から車で1時間の距離にある。?山付近には別荘や田園風景が広がっておりスミレの花や菜の花もきれいに咲きほころぶ。山の緑は鮮やかだが蔦の絡まる木々が多い。?山に来る場合は私は軽装でピクニック気分でなぜか中国人の殆どはスーツに革靴姿である。?山は1940年代からカトリック教の聖地として国際的にもその名が知られるようになった。写真のように山頂のカトリック教会は1925年に300人の人達の手によって建てられたが全てレンガ。10年間の建造期間を必要としたが50年後の1985年新たに修道院が建てられたが、横の天文観測台や地震観測台にも世界各地から天文学者や地質学者が訪れ今では観光スポットとして近隣から訪れる。また東の?山園には百鳥苑もあり、50余種の鳥類は7000羽以上に達し、現在ではバードウォッチングの名所としても知られるようになりカメラマンの姿も見られ、私などは彼らの機材を見ては楽しんでいた。「中国の旅」
2011.08.08
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「?山国立森林公園7」 「中国写真ライフ」では、上海「?山国立森林公園」の写真を公開しています。?山国家森林公園は東西に分かれている。西?山は見所が多いが?山天文博物館が有名である。西?山の頂上に位置する天文台は2005年に博物館としてオープンしており訪問者も多い。やはりメインは中国最古の天文台であり現在では現役を退き屈折望遠鏡は40センチの口径があり東アジア最大の望遠鏡として注目を集めてきた。天文台を下りて行くと広場がありその中心辺りに写真のモニュメントが見えて来るので記念の写真を撮る人の姿が目立つが私の後には人が大勢いる。100年の間、上海郊外の?山で多くの天文学者たちの注目を浴びてきた望遠鏡がモニュメントになっている。?山天文台横の天文博物館には時間の館や歴史館などまた望遠鏡の歴史館や天文図書館などが置かれている。 モニュメントは地球を表し丸い地球儀を連想させ天体望遠鏡が大きな顕微鏡のようにみえるがなかなか面白いモニュメントに仕上がっている。「中国の旅」
2011.08.07
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「?山国立森林公園6」 「中国写真ライフ」では、上海「?山国立森林公園」の写真を公開しています。?山国立森林公園にある天文台はフランスの天主教耶蘇会の指導により1899年に創られた。この時点では中国国内で始めての天文台だった。上海の徐家匯に1872年同じくフランス耶蘇会により徐家匯天文台が作られたが、現在では気象局で上海市の天気予報の気温で徐家匯がよく使われる。1925年にパリで購入された子午儀があるが1926年と1933年の国際経度観測で使われた。1901年にフランス人宣教師により望遠鏡が設置され中国近代史上初めての本格的な天体望遠鏡を備えた。その後天文台は功績を残すため2004年に上海の天文博物館が設置され、直径40センチの天体望遠鏡はドーム状の部屋に安置されており自由に見学ができる。?山天文台は、当時アジアでもかなり有名だった。現在でも、皆既日食の観測など大きな天体イベントのあるたびに中国各地から多くの天体ファンが集まる。「中国の旅」
2011.08.06
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「?山国立森林公園5」 「中国写真ライフ」では、上海「?山国立森林公園」の写真を公開しています。?山国立森林公園から20mほど離れた所に道教の寺の名残りが残っておりそこには古びたロウソクたてと焼香をする場所がありすでに錆びた焼香の高炉には?山の文字があった。道教の寺の祠から石段を下りて再度七重の塔を撮影したが塔が高過ぎるためファインダーに入り切れなく体のみ仰け反り撮影したので画像が少し斜めになってしまったようだ。七重の塔越しに売店が見えたので行ってみた。飲み物類が置いてあり西湖龍井茶が5元であったが冷えてはいなかったのでコーヒーを注文した。一口飲んだところ既に砂糖やミルクが入っており甘くてとても飲めるようなものではなかった。私が店主に「このコーヒー甘すぎですよ」というと中国人は甘いコーヒーしか飲まないから初めからこちらで美味いコーヒーを作ってあるとの事だった。文化の違いとはいえ、中国ではウーロン茶に砂糖が入れてあり売られているが始めは腐っていると吐き出したぐらいに驚いた事があるが砂糖が常識。「中国の旅」
2011.08.05
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「?山国立森林公園4」 「中国写真ライフ」では、上海「?山国立森林公園」の写真を公開しています。10年前に?山国立森林公園を訪れたときには敷地内の整備から石段まで何も出来てはいなかった。ただ七重の塔と写真の鐘楼を囲う建物などがあるだけで他には雑木林がうっそうと生い茂り観光地とは名ばかりの印象を受けた事を覚えている。今回訪れてみて上海市も観光に投資をして旅行客を呼び込み上海の活性化を図ろうとしている事が分かったものの上海万博での旅行客を当てにして各上海周辺都市の整備をしたとも考えられる。鐘楼の中の釣鐘などは昔のまま保存されていた。鐘楼の窓から七重の塔を見ても昔と変わらなかった。だが観光客を目当てに飲食業者が簡易型の食堂や店を階段沿いに出していたが昔はなかった。撮影をする時も如何にその飲食業者のパラソルを撮影しないで済むにはと撮影位置を色々と変更した。その点は昔の方が業者も入っていなく撮影しても絵になったように感じたが、ただやけにパラソルが目に付くので気分的に昔を懐かしく思ったのかも?下の写真は鐘楼を出て石段を上がり、少し脇へ逸れた足場の悪い所から鐘楼越しに七重の塔を撮った。「中国の旅」
2011.08.04
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「?山国立森林公園3」 「中国写真ライフ」では、上海「?山国立森林公園」の写真を公開しています。?山国立森林公園の七重の塔は知れ渡っている。松江にも七重の塔があるが歴史は?山の方が古い。?山には道教の寺院があったが今は小さい祠が道教の寺院があったという証拠を残している。明代や清朝初期の時代に多くの官吏や詩人が?山や?山の周りに家園や別荘を建築していた。?山の売店で軽食を食べているとカメラを見てあなたは日本人かね?と聞いて来るので首を縦に振ると同時に、この辺一帯は、その昔日本軍の兵隊が悪さをしたところで、年配の人は皆日本人を恨み日本人と見ると文句の一つも言いたくなると。。。一番文句が言いたかったのは売店のオバサンではと思ったが、中国語が分からない素振りで笑いながらその場を去って来たが、その店を出る時に店の人は中国へ来る前に中国語くらい勉強して来たら。。と一言言ってやろうかなどと思ったが逃げるが勝ち。「中国の旅」
2011.08.03
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「?山国立森林公園2」 「中国写真ライフ」では、上海「?山国立森林公園」の写真を公開しています。?山国立森林公園へは上海から地下鉄で松江まで行き、バスで小昆山経由で行く方法と上海駅のバスターミナルより七宝鎮経由で行く方法がある。松江まで行き松江の観光地を見て周り夜に松江のホテルを探して翌日?山公園まで行くと良い。だが旅慣れた人でないとトラブルに巻き込まれるので旅行社任せのスケジュールが安全なのかも知れない。?山国立森林公園のロープーウェイ乗り場はバス停から歩いて10分ほどの所にあるがまずはゆっくりとでも良いので、自分の足で登った方がよい。私は?山国立森林公園へ来るのは今回で2度目になる。初めて来たのは10年以上前のことでまだ整備も行き届いていなく入口の階段なども何もなかった。何となく雰囲気が違っていたので聞き直した程である。途中の建物なども以前来た時とは違って見えた。?山の登山道をそのまま登ると左右の建物も十分に味わえないので石段から逸れて見てみるとまた違った世界観が見えて来るが写真の塔は明朝の頃に建てられたが2度の修復を経て現在に至る。「中国の旅」
2011.08.02
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上海市--?山森林公園1 「?山国立森林公園1」 「中国写真ライフ」では、上海「?山国立森林公園」の写真を公開しています。?山国立森林公園は、東西?山に分かれている。上海からバスで1時間ほどで行けそれほど遠くはない。バスの中からは平坦な街並み続き?山のバス停で下りたものの一体何処に?山があるのだろうと見渡すと標高100mほどの山が見え皆が指差すので皆と同じ方向へ歩いて行くと石段の所へ出た。?山を遠くから眺めたときは何とも低い山と思ったが実際に登ってみると結構足腰にきついと思った。?山は上海の西部に位置し各種娯楽施設があり「国家旅遊度暇区」国家リゾート地域に指定されている。ガイドブックには散歩程度の体力で楽に山頂までと書いてあるが、ロープーウェイも設備されており歩いて登ったものの撮影をしながらなので疲れは感じなかったが杖をつきながら登る人もあった。「中国の旅」
2011.08.01
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「上海旅情12」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。私が中国でアパートを借りて住んだのが広東省広州市だったが、始めは中国大飯店の部屋で3ヶ月過ごしたが、1ヶ月15000元だった。15000元を日本円に換算すると22万5千円になる。私は中国人に頼んで1ヶ月3000元(45000円)と大幅経費削減につながったが、当時は治安面で公安局の許可が中々下りなく裏金で許可が下りた。16年も経った今そんな事をして発覚でもしたら罰金刑に書せられてしまうかも知れない。先日見せしめのため、政府役人が賄賂で死刑になったが、氷山の一角で多くの役人が襟を正した。17年前の広東省でも税関の所長はじめ7人が銃殺刑になった事があるが、中国も裏を返せば上層部で収賄が横行しており責任逃れだろう。責任を逃れるために濡れ衣を着せて銃殺刑にしてしまうほどに怖い国ではあるが一般人には問題なく、余分にお金さえあればまた楽しい国だ。昔は香港から深センへ入り陸路で広州まで来た。ある時、飛行機の中で知り合った女性と香港で食事をする事になり、のこのこ着いて行った。香港の街から海岸沿いの店に辿りつき海鮮料理をたらふく食べたが勿論勘定は私の支払いである。おまけに、家で母が待っているからとお土産まで買わされてしまった。挙句の果てに彼女はバーのホステスをしており、彼女の勤めるバーにまで誘われ着いて行ったが、勘定を支払う段になり苦笑い。当時7000元(10万5千円)で、安いでしょうと言われ情けない気持ちでいっぱいだったが、全ての支払いを勘定して何とも無駄なお金を使ったものだと苦笑い。今の節約時代が訪れる事など思ってもみなかった。昔は相当浪費をしたものだと今更ながらに思う。「中国の旅」
2011.07.31
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「上海旅情11」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上海新天地の歴史はというとまだ11年足らず。上海の石庫門建造物を取り壊し新しい街が造られる中で何とか石庫門を残そうと造られた。上海付近へ来たならば必ず新天地を訪れるように上海市も旅行社も力を入れて来たが今ではこの小さな新天地が旅行者であふれ賑やかだ。道路を挟んで東ブロックの「百草伝奇」へ戻り夜ともなると大型液晶パネルでのコマーシャルが暗がりを照らしてくれている。その中を通り抜け大通りへと出て街並みを少し歩き撮影した。新天地の周りにはお洒落な店が多く立ち並ぶ。その角を曲がるときも街並みの街路樹に日本では考えられないが、ふんだんに電気を使い街を明るくしている姿は今の中国を象徴。日本は東日本の震災以降、節電が身についてきた。だが中国各地や上海などでも関係ないように夜遅くまで煌々と電気が付いている。上海のイルミネーションを見ていると日本の15年前を思い出すが、評論家によるとあと20年もすると日本は中国に飲まれてしまうと記事で見た事もあり中国人も信じてやまないようだ。「中国の旅」
2011.07.30
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「上海旅情10」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上海新天地の中央広場へ来て撮影していると急に薄暗くなって来て、今までの露出では画面がかなり暗くなってしまった。持ち物を軽くするために必要なレンズのみバッグに詰めていたのでフラッシュはなかった。私の場合、夜の人物撮影などは皆無だった。そのことも手伝いフラッシュを重要視しておらずコンパクトカメラから発する光りが恨めしかった。レンズを開放にしシャッタースピードを遅くし何とか写真の状態にまで撮影できた感じだ。シャッタースピードを遅くする事により起こる手振れを心配したが思ったよりは機材が重たいのか手振れ現象は最小限に抑えられているようだった。スターバックスからほんの少し歩いて来ると噴水がある広場まで出るが噴水を背にして正面に「fountain」と呼ぶビストロ&ワインバーがある。その左側の路地裏を撮影したが雰囲気がとても良い。正面億には欧米人が多いイタリアンレストランの「VA BENE」が見えているが殆どの建物は1920年代の古き時代のフランス租界街の建物を利用している。下の写真は「ライブハウス?Brown Sugar」であるが昔は「ライブハウス-ARK」があった所で以前の店には3度ほど行った事があるが新しく変わってからはない。「中国の旅」
2011.07.29
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「上海旅情9」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。1920~30年代に建てられた石庫門住宅を修復。旧フランス租界の街並を再現した新天地はモダンな雰囲気が漂い観光客を魅了させる。1930年代の魔都上海と言われた頃の華やかさと現在のモダンな雰囲気が融合した空間で椅子に座り行き交う観光客を見ているだけで心が和む。新天地は2001年にオープン以来急速に知れ渡りガイドブックに紹介されると欧米からの旅行客で賑わいを見せており私が訪れた2002年当時より遥かに観光客が増えたように感じる。写真のような店が立ち並び、その数は100店舗以上。全てが1920~1930年代の建造物の外観を残し北側と南側と車道を挟んで2ブロックに分かれている。写真は「TMSK」で 一階はバーで二階が中華風のレストランになっており、モダンな造りがしてある。「TMSK」のオーナーは台湾の元女優でガラスの陶芸家という名前で知られる楊恵?さんの店でもあり龍の模様の中国瑠璃を駆使して造られている。私も女性に言われて気がついたのだが全ての食器に瑠璃ガラスが埋め込まれており、お洒落な感じだ。冷たい感じの石庫門建築の窓ガラスに瑠璃を貼り付け光りにキラキラと輝きを増し幻想的で艶やかだ。是非と進めたいがやはり会計が気にかかるが私は2人で2300元(32000円)ほどだったので余裕のある人は入って雰囲気を味わってほしいと思う。私の場合女性を同伴していたので彼女の注文に任せたのが高くなった。もし私が注文すれば1000元以内に収まるだろうと思った。「中国の旅」
2011.07.28
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「上海旅情8」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。写真の店の名前は「百草伝奇」と呼び上海老舗百草と名前が付いているだけあり薬膳料理を思わせるような何とも体に良いような料理だ。私は若い頃から七草粥や苦味のある野菜も好んで食べていたので子供たちとは料理が違った。多分今思えば、妻は相当大変だっただろうと思う。亭主関白を装ってペースを合わせてくれていた。比較的、ここの薬膳料理を気に入って食べていたがお客様、特に若い大学を出たばかりの女性は一口食べただけで表情が変わるほどだった。この店で気に入っている事は平たい木製の箱に多数の弦を張った楊琴を弾いてくれる事である。楊琴を聞いていると何とも心穏やかになるがこれも若い人には少し間が持たない感じであった。上下の写真は新天地の中に残された石庫門建造物を残して一軒そっくりそのまま博物館にしてある。1930年代の古き上海の中で家族4人の生活がそのまま保存されていて何とも愛おしささえ感じる。中へ入ると古いミシンやドレッサーやベットまでそこに居るだけで、その時代の人が現れるような錯覚さえ覚えるほどであった。この中の撮影は今回は時間がなく中へも入っては居ないが以前に撮影した写真は別の機会に更新したいと思う。「中国の旅」
2011.07.27
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「上海旅情7」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上海新天地は非常に狭い所に世界の有名点が軒を並べているのでゆっくり歩きながらでも興味深くまた新鮮な発見もあり面白い。どの店もレンガを基礎に建てられた建造物なので古めかしい感じがするが、中の商品は新しい。写真の陶器で造られた置物は清朝黄金時代の衣装を身に着けた女性たちが題材になっている。陶器の置物や人形なども同じだが航空便の場合によほど問題はないが、時折指が折れたりしている。購入した所では、もし悪い所があれば取り替えますとキャッチフレーズで結構売れているようではあるがもう一度航空便で送って送り返してもらうのも1ヶ月以上の日数(10年前)がかかり忘れた頃に新しいものが着くが何となく興ざめした感じである。家への手土産などは出来るだけ軽いものが良く壊れにくいものの方が良いが最近では何も買わない。土産の事ばかり考えていると旅の面白みも半減し折角の旅行の思い出が買い物の事ばかりになってしまう。だから土産を買うと次も期待をするので買わないのが一番であり、皆も理解していると思っている。「中国の旅」
2011.07.26
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「上海旅情6」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中国共産党第一次全国代表大会址から100mほど進むと上海新天地へ出る。この辺は全て石庫門建築の家が多く建てられ魔都上海と呼ばれた1930年頃を表現している。夕暮れが近づくと観光客が続々とやって来る。上海観光のメインは新天地の屋外のテーブルを囲んで西洋人たちが声高らかにビールを飲む。写真の店は老舗Latinaでブラジル料理で有名。肉の塊りを櫛に刺して焼いたシュラスコをナイフで切ってもらい食べると美味しい。この新天地は世界の有名店が入っておりその雰囲気だけでも味わうとリッチな気分に。。写真のCOLD STONEはドイツビールとアイスが売り物の店で本場のビールが味わえるが何となくビールの味が薄い。やはりビールは日本が一番!Haagen Dazsと言えばアイスクリームの老舗。店の外に出してあるテーブルやイスも素敵である。そこに座りカリフォルニアの雰囲気を味わいながら周りの店の行き交う人達や違う店で賑やかな雰囲気の世界から集まった人達を眺め飲むワインもまた格別でアイスクリームとのミスマッチと思うと甘さとワインの渋みがこれまた病みつきになりそうだ。この新天地は1930年ごろの上海の建築物を利用し再建された小さな観光地だが調子にのっていると3万円ほどは、あっという間に飲み食いで消えてしまう。「中国の旅」
2011.07.25
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「上海旅情5」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中国共産党第一次全国代表大会記念館の中では物々しい雰囲気だったが、それでも何とか警備の人の目を盗んでは撮影を続けた。だが最後には警備員一人が私の横にピッタリと張り付きシャッターを切らせてはくれなかった。私はそれでも警備員に何処から来たのかとか休憩はどれ位とか交替はあるのかなどと話すと口に一指し指を当てて静かにとの張り紙を指した。ガードマンが寄り添うそれ以前に撮影したのが上下の刀の写真であるが、どれが中国でどちらが日本かは一目瞭然ではないだろうか。このような刀で立ち向かわれていたとは驚きだった。しかも日本刀ならばバッサリという表現が似合うがこの刀で何度も叩かれたのでは相当苦痛だろう。。下の布に赤で書かれた文字が読めるだろうか。「跌倒示示什麼!爬起来再前進!」楽天ブログでは中国の漢字が表示されないので繁体字で表示した。また「示示」の文字だが中国人にも分からないようだ。「蒜」という文字を略したものではないかとの事。「蒜」は「suan4」で発音をカタカナではスワン。だが意味は「ニンニク」なので標語の意味が余計に分からなくなっては来るが、意味は「つまずいて倒れたくらい何だ!地をはってでも前進あるのみ」「撃たれて立てなく動けなくなっても、はって前進しろ!」という意味。中国では戦争で亡くなった兵士が1000万人というが国連に報告した戦死者数に500万人上乗せした。500万人でも戦死者数が多い、日本は全ての戦場で150万人の戦死者数だから比べものにはならない。「中国の旅」
2011.07.23
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「上海旅情4」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中国共産党第一次全国代表大会記念館へまだ訪れていない人もいるかとは思う。私が初めこの地を訪れたのはもうかれこれ13年ほど前になるだろうか、私が広州に要るとき上海出張で4時間ほど時間で訪問した。なぜか一番に来たのが共産党第一次全国代表の大会址だったが、その時の印象は今でもハッキリと覚えているし目に焼きついていた。まずこんな所で共産党第一次全国代表大会が行われたのかとの思いが強かったし今の新天地も当時はまだ出来てはいなかった。私が新天地を始めて訪れたのは2004年ごろでまだまだ観光に訪れる人達も多くはなかった。現在では博物館の共産党第一次全国代表大会の中へと入って行ったが昔は撮影に関しては何も言われなかった。だが入るなり2台のカメラを首から提げている姿を見て撮影許可は有りますかといきなり聞かれ返答に困っていると撮影禁止ですと言われた。今までの様子と大分変わっていた事も隣の部屋を取り壊し博物館として貴重な品が展示してあるからだと思った。それでも警備の目を盗んではシャッターを切ったが部屋が暗く、ISO値を最高にしレンズのF値も開放にした。だが何度も背中を叩かれ、その度に作り笑いをしていた。「中国の旅」
2011.07.22
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「上海旅情3」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上海地下鉄の黄陂南路駅の階段を上がり黄陂南路の交差点へ差し掛かったところで警官の交通整理風景を撮影していた。写真では警官と目が合ったところだがこのあと左手で私の方を指差したので私も思わず自分の人差し指で自分の顔を指差していた。警官は歩いて来る事も出来ずにただ首を立てに振りそうそう貴方撮影は止めなさいという感じだった。まず私は中国共産党第一次全国代表大会で使用した旧李漢俊宅へと向った。もうここへは5回目になる。上海の代表は東京帝国大学出身の李漢俊と李達である。そして湖南省の長沙代表の毛沢東と何叔衡が出席した。陳独秀や李大剣は後の大会には出席したが第一回には出席はしていない。当時この建物はフランス租界内だった。疎開地だったのはアヘン戦争で中国が敗戦をし南京条約でイギリスが上海を租借し、アメリカやフランスも租借した。第二次大戦で日本は中国に相当な虐殺を行ったというがこのアヘン戦争ではもっと酷い事をされている。何故今日本だけが取り沙汰されているのかは中国政府の策略に中国国民が乗せられ、政府も思わぬ結果になり驚く政府とただ踊らされている国民が気の毒になって来る。建物の入口が上海で名の知られた「石庫門」である。「中国の旅」
2011.07.21
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「上海旅情1」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上海駅は市中心部のすぐ北側にありバスや地下鉄に連結され直ぐに各地へ行く事が出来る。出発するときには上海駅中央改札から入りチケットの確認から危険物検査を行い待合室へ行く。北京方向の京滬線と杭州方向の滬昆(ここん)線の始発駅で中国南部を東西に結ぶ幹線でもある。中国鉄道の重要な路線の基点となるのが上海駅だ。だが杭州方面の列車の大半が上海南駅に移った。始めは不便だとも思ったが頻繁に利用する事もなく上海駅からも杭州まで出ている列車もあり事前にスケジュールを組んでおけば不便は感じない。日常あまり使わない漢字の京滬(けいこ)線は上海から北京までを結ぶ路線で京滬の「滬」は上海を意味する漢字であり中国語では「hu」と呼ぶ。楽天では中国の簡体字は文字化けを起こしてしまいどうしても繁体字になってしまうが致し方ない。2010年に虹橋駅が開業すると南京方向や杭州方向の鉄道は虹橋駅に移ってきている状態だ。これも昔、虹橋国際空港を利用し浦東国際空港へ替わったときの不便さが思い出されてならなかった。人は環境に直ぐ慣れ、以前の便利だと思った環境が古臭いと思うから如何に環境に左右されるかが分かる。私は、上海駅近くのバス停から5つ目のバス停で降り予約してあるホテルへと向ったが、このホテルは上海に来ると良く使うホテルで、これも慣れた所である。写真はホテル近くの消防署で消防車を洗う署員を撮影。「中国の旅」
2011.07.18
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「ハナミズキの歌」 「中国写真ライフ」では、「上海市内」ですが桂林の写真を公開しました。私の日本の家の庭にはハナミズキの花が咲き葉が生い茂り帰国の折に笑顔で出迎えてくれた。中国の出張先のイヤホンから聞こえて来た歌に癒される自分がいたがその歌は「ハナミズキの歌」この歌が出た頃は、この歌を聞きながらもよく涙したものだが、いつの日にか、その思いや涙した時の感動を、忘れてしまっていた。 サイトへ行ったら、どうぞリンクを張って下さいとメッセージが出ていた。一青窈は卒園後に父を台湾に残し、母、姉と日本で生活する事になるが、小学2年の時に父が癌で死去。以後は母の姓の一青を名乗る。小学の頃に宮沢賢治の詩に出会い詩を書き始める。高校生の時に母も癌で亡くし辛い境涯だった。ハナミズキを歌う「一青窈ひととよう」は台湾国籍で尊敬する人物は井上陽水、根本敬、阿久悠だという。「ハナミズキの歌」新しいウインドウで開く期待半分で貼り付けてみたが一青窈と違っていたが思いがけず歌は上手だった。再度ネット検索をしてみた。 少しは思っていた画面が出てきたとは思うが。。。「ハナミズキの歌」新しいウインドウで開くまだプロモーションビデオとして、しっくり来ない。「ハナミズキの歌」新しいウインドウで開く一青窈(ひととよう) の「ハナミズキ」だが。。。「ハナミズキの歌」新しいウインドウで開く歌詞の意味は私流には理解しているつもりだが娘の結婚式の時に、丁度この歌が発表され私も知っていた。だが、私の思いを告げるには娘も若過ぎたような。。 「中国の旅」
2011.07.16
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「旧日本軍により撤去される」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。中国に天主堂が建てられ出したのは、17世紀または、18世紀初頭以来の歴史があり、清末の時代に建てられ、現在に至るものが古い教会で北京にある。中国で最も古い天主堂は1999年にポルトガルから、中国へ返還されたマカオにあるの17世紀の大聖堂だろう。2005年に世界遺産に登録されたが、私は1995年に行った。上海にも天主堂はあるが、写真の天主堂とは概観が違う。現在の上海にある天主堂は中国で初めて西洋建築の手法を、取り入れた教会としても有名で、1910年に建設された。上海徐家匯にかつて多くの文化人が住んでいたのも頷ける。写真の女神像は、第一次世界大戦戦勝記念女神像と呼ぶ。第一次大戦で戦死した欧米居留民を記念して1924年に、建設した平和の女神像であるが「新・上海灘」の撮影にも、平和の女神像がバックに使われている。だが、1924年に建てられた場所に、この女神像はない。現在では、上海影視楽園の天主堂から100mの位置に建つ。女神像の跡に、上海第一代目市長、陳毅像が立っている。1948年は国民党との戦いで上海解放!南京が解放され、中華民国から中華人民共和国にり、陳毅は蒋介石を見送った。1924年当時、華僑の人達の寄付により女神像が建てられた。だが、第二次大戦中、旧日本軍により撤去されてしまった。
2009.07.15
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「信仰の自由は制限がある」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。中国では宗教の自由は1954年の憲法で、宗教信仰の自由を持つと規定されている。だが、日本で言う所の信仰の自由は制限がある。私が中国に来た1994年当時私の通訳者はキリスト教の、信者であり、日曜日ともなれば近くの教会へ出向き、私の中国の宗教観が大きく変わり共産党員に、中国の信教の自由について聞いた事がある。その時の通訳はキリスト教信者の通訳者だったので、少し緊張したし、年配の彼も緊張していた。返ってきた返事は、国家安定のため、中国の国情に、調和しないものは、規制をかけられると言われた。キリスト教の中国での歴史は、1549年に2年半の期間、フランシスコ・ザビエルは自ら中国宣教を試みたが、果たせず病没し、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、ザビエルの遺志を継いで中国宣教の実現を図った。ミケーレ・ルッジェーリは1579年にマカオに到着して、中国語を学び3年後にはマテオ・リッチがこれに加わった。実に430年~450年の歴史で1億人ほどの信者数になった。だが法輪功はわずか10年ほどの期間で1億人に達したので、中国中央が弾圧逮捕に乗り出したのかもしれない。
2009.07.14
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「蘇州川の上に架かる外白渡橋」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。上海の紹介写真のトップに挙げられる場所は、外灘から浦東を望んだ写真ではないだろうか。写真は上海世博会を前に点検修理する前の、外白渡橋を撮影した写真である。外白渡橋は、1907年に建設され蘇州河と黄浦江の、合流地点に掛けられた鉄鋼橋で、長さは104mある。102年の歴史を持つ橋であり、様々な歴史を刻んできた。中国のテレビドラマ「清深深雨濛濛」で「趙薇」が橋から、飛び降りたモデルになったのが、この「外白渡橋」である。その撮影は、外白渡橋をモデルに造られた写真の橋で、行われたが、ドラマで見た橋より低く感じられた。 実際の外白渡橋を渡り終えると、その向こう側には、旧日本租界の「虹口」があるが、第二次大戦以前には、多くの日本人が住んでいた。今もその面影はある。日清戦争の時代から第二次大戦前までの上海は欧米や、日本の租界となり「魔都」といわれるほど魅力があった。そんな「魔都」の時代は、中国の屈辱の歴史の上に成り立ち、我々はもとより、日本政府首脳も忘れてはならない事である。
2009.07.13
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「一番長く時間を費やした場所」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。1999年に一般に公開された上海影視楽園は上海松江区に、位置し映画やドラマの実物大風景セットを備えた大型の、屋外スタジオで1930年代のオールド上海の街並みを中心に、いろいろな場面用の建物が用意されている。上海影視楽園では実際に映画やドラマの撮影に使われ、映画作成側は使用量と屋内外セットを負担し撮影後、セットは全て元通りにして返却し次の映画製作者が、困らないようにとの最低限のルールを守る。写真の場所は上海影視楽園に3回訪れた中でも、一番長く時間を費やし撮影しまた回想に耽った場所である。1930年代の南京路から路地に入った所で趙薇や古巨基の、テレビドラマの「情深深雨蒙蒙」の趙薇の家の前である。北京映画撮影所製作が撮影し中央テレビから全国に放送。この場所で趙薇や古巨基が出会い抱き合ったその時に、雨が降り出す48回全てのオープニング場面が印象に残り、その場所を探すのが、第一回目に訪れた目的だった。見つけた後は、カメラがどの位置に置かれたか研究した。1930年代の上海の建築で今では解体され少なくなった、上海新天地で石庫門を利用し博物館になっており、中に入れば1930年代の世界にタイムスリップできる。しかし、上海では石庫門も解体され少なくなってしまった。
2009.07.12
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「中国の凧の起源は」 「中国上海写真ライフ」では、上海世紀公園の写真を公開しています。 凧揚げと言えば正月に揚げた思い出がある。日本の凧は長方形の凧の下側に新聞紙を切って、作った尻尾を糊でつなぎ合わせ凧揚げをしたものである。中国の凧の起源は紀元前400年の頃だと聞いた。凧は古代中国で発明され世界各地に伝わったとも・・。 日本と同じように中国でも凧は、竹ヒゴと紙で作られている。中国では公園などで季節に関係なく凧揚げをしている。それも年配者が一心不乱に凧揚げをしているが、カイトと呼ばれるようなビニール製の丈夫な凧が主流。また公園では犬の散歩が多くなったと感じる。その昔は、中国では犬の肉が重宝がられた時代もあった。最近では犬の肉を食べる事への反対運動が起こっている。上海世紀公園の中を歩いて来たが出口が近づいてきた。地下鉄は公園の両端に駅を造り何れの駅からも入れる。写真は「上海科技館」の駅で土地が広いのか、かなりゆったりとしたスペース空間が心を和ませてくれる。 「人力車が街の雰囲気つくる」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。断定は出来ないが浙江中路と南京東路の交差点の信号機。南京路を横切る浙江中路で幾度かタクシーに乗った。奥のビルは永安百貨だろうか、現在も同じ位置に建つ。私も数え切れないほど、この百貨店に買い物に行った。人力車は1870年代半ばより中国を中心にブームに。日本で人力車からイメージする映画といえば、「無法松の一生」ではないだろうか。しかし、この人力車は京都など祇園をも連想させる。1930年代の南京路の風情を現す人力車。1930年代の上海を舞台にした連続テレビドラマの、「情深深雨蒙蒙」でも人力車の思い出が残る。 「不要な小道具の処理」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。浙江省横店影視城では大掛かりなセットが造られ、香港映画史上に残る映画を作製してきた。映画「西遊記」なども横店影視城で撮影されたが、映画に使われた小道具の処理に困っているようである。製作者側は不要な小道具の処理をどうするべきか、真剣に会議を開き、その処理方法を決定しても、その決定事項を受け継ぐ下請け業者の意識が薄い。そのため、上海影視楽園でも多くのセットに使われた、小道具が乱雑に捨てられて、時と共に忘れ去られてしまう。今では、誰もが関心を持たないようにまでになっている。写真は1930年代の裁判所のセットである。上海影視楽園でも他の映画村でも消火栓が設置され、撮影中の故意の火災や残り火による出火に対処している。中国は木造住宅は稀で、殆どレンガ造りの住宅で、日本に比べ火災出火率は低いが消火栓の設置義務は、かなり厳しくルール決めされている。写真は仙華堂と薬局のような名前であるが醤油卸しの店。中国の醤油も品数が沢山あり、日本のような味の醤油を、探すのに苦労している。上海でも同じであるが醤油に、黒酢が入っているもの、餃子の醤油のようなものが、多く出回っており、買って来ては公開している。
2009.07.11
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