浜松中納言物語 0
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「春爛漫--散歩日和12」 「上海発!画像の更新!」では、散歩途中に撮影した画像を公開しています。台湾は中国の一部か?それとも独立した国家か?このような論争が何十年も続けられて来て今尚解決しない。中国に言わせれば、台湾省と中国の一部であると理解している。台湾は戦前戦中と日本の植民地だったので日本語を話す人も多い。中国は中華人民共和国になる前は中華民国で、台湾は今中華民国と呼ばれているが蒋介石が内戦に敗れた1949年、中国国民党は台湾へ逃げたが、日本の教育を受けた台湾人は、蒋介石や国民党が台湾へ入るのを嫌い抵抗をしたと言う。毛沢東の死去後、中国も劉少奇/李先念や楊尚昆と、主席が交代し34年間が過ぎた1993年に江沢民が主席になった。私は一年後の1994年に中国の居住証を取得したが、2年後の1996年に、軍事演習がエスカレートし台湾海峡へミサイルを発射した。その後、台湾と中国の緊張感は一般国民にも及び江西省のミサイル基地から、台湾へ向けミサイル発射の準備段階に入ったとの噂が流れた。私はその頃中国広州におり、その事で中国人と議論、挙句の果てに日本の中国侵略戦争の話にまで発展する事もあった。日本が中国と戦後国交を開いたのは1972年だったが、その時点で、台湾との国交は台湾側から断交するという事態にまで陥った。現在のようにビザ無しで簡単に台湾へは入れなかった。蒋介石の死去後、台湾の総統は息子の蒋経国が引継ぐ。その蒋経国は4年の任期後再選されたが1988年臓器疾患で死去した。蒋経国死去の後、台湾総統は副総統だった李登輝が総統に就任。だが反攻大陸の思想で台湾国を主張し、1996年の総統選挙の時に、軍事演習中の中国が台湾海峡へミサイルを発射し威嚇した。
2012.01.12
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「春爛漫--散歩日和13」 「上海発!画像の更新!」では、散歩途中に撮影した画像を公開しています。台湾のみやげ物にも色々あるが、台湾茶が良いと思う。台湾茶と言えば、よく知られている鉄観音茶であろう。烏龍茶などに比べて、苦味やくせが少なく飲み易いと思う。コクのある甘い香りがする台湾茶を、多くの人が買っていた。私は土産物に関しては、何度も騙されて高額を支払って来た。そのトップに上げられるのは薬だろうし巧妙な話術を信じて、中国元のカードで決済するが請求を見て何となく脱力感を感じる。一番悔しいのはチベットの熊の胆の苦い薬であったが、効き目は、8千元(11万日本円)もしたにも関わらず、なかったような?薬などは中々お土産にする事は出来ないが、お茶などは、意外と無難な贈り物ではないのだろうかと勧めている。しかし、注意をしないと万人が好むとは言えないので、パイナップルケーキや蓮の実などの詰め合わせなども喜ばれる。中国雲南地方へ3度旅行し、お土産にお茶を買った。雲南のお茶と言えばプーアル茶が有名であり味もコクがある。だが台湾の茶屋にてプーアル茶の話をした所台湾が本場と言う。本当だろうかなどと疑ったように再質問したが今度はムキになり、台湾から雲南へプーアル茶の苗を持って指導に行き今至ると言う。台湾ではそれほどお茶の製法に長けているのか?まだ台湾が大日本帝国台湾だった頃に、日本人から茶の手解きを、受けその文化が台湾風に変化していったのではないか?などと、思ったが、そのような事を面と向かってはとても言えなかった。
2012.01.12
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「春爛漫--散歩日和10」 「上海発!画像の更新!」では、散歩途中に撮影した画像を公開しています。中国国内で中国人だけの観光ツアーに混じって、日本人が参加する事は、最近では増えてきたように思われる。だが、私が11年前に中国の旅行社に一人で申し込んだ時には、色々と質問されたし、その質問は全て中国語であった。私は、何故こんな面接をしなくてはならないのか?と中国旅行社の担当官に面と向かって質問したことがある。担当官は、中国人なら問題なくツアーに参加して頂くが、外国人の場合に過去に一度迷子になり多くの人に迷惑を掛け、予定の観光地を時間の都合で回り切れないことがあったと言う。その外国人は日本人かそれとも他の国の人だったかと、聞いてはみたものの、その担当官はそこまでは分からないと、少し不機嫌そうな感じをしていた事を思い出す。何れにしても、中国語が満足に話せない人は敬遠された。今回台北の二日目のツアーは台北の旅行社にお願いした。なぜならば日本の旅行社でフリーツアーを選ぶとかなり割高。日本の30%ほどの金額で同じようなツアーに参加できる。だが旅行社は敬遠気味な応対でホテルフロントからの電話で、申し込みをしていたので、フロントに代わって頂いた。フロントに旅行社に電話中だが台湾人に代わってと、フロントでは笑いながらも受話器を取り担当者と会話していた。顔見知りなのか相当話が弾んでいるようであったが、この人の中国語であるならば問題ない太鼓判を押しますよと、話した後、只奥さんは何も話せれないようで、それはご主人に、フォローして頂くと言う事でと参加出来た。
2012.01.12
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「春爛漫--散歩日和6」 「上海発!画像の更新!」では、散歩途中に撮影した画像を公開しています。禁煙の概念は、中国では殆ど無く自由である。自由と言う表現と書くと公共の場などでも何となく規制が、ないように感じるが、大きく禁煙と書かれている。しかし、タバコを吸う側のマナーの問題で自由と表現した。工場などの定例会議の最中でもタバコを、吸うためだけに集まっているように感じて仕方が無い。どちらが管理者か分からないような状態で会議は進行し、最後に疑問点など無いか質問してもタバコを持った手で、無い!無い!と振るのでタバコの灰がテーブルに落ちる。さすがに生産工場のラインの中では吸わない。だが階段には毎日のようにタバコの吸殻が落ちている。幾ら全体会議で注意をしようが張り紙をしたとしても、やはり教育の問題なのか?マナーが徹底されない。台北では2月1日より屋根がある下では、前面禁煙が実施されており観光協会からも政府に、少しやり過ぎであると講義をしているとの事であった。屋根がない路地などでも灰皿が設置していないと、タバコを吸っていれば罰金になると説明を受けた。私はタバコを辞めて7年以上になるが、同行した妻は今でもスッパスッパタバコを吸う。バスの中は勿論タバコが吸えないし観光スポットへ、行くとガイドの集合時間などの注意なども聞かずに、タバコを吸う所をうろうろ探しているから落ち着かない。つづく
2012.01.12
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「春爛漫--散歩日和4」 「上海発!画像の更新!」では、散歩途中に撮影した画像を公開しています。春爛漫--散歩日和2の記事について、ある女性よりメールを頂きました。内容的には公開しても問題ないと思ったので、その一部を公開致したいと思います。私のブログへはコメント禁止になっております。その内容はカタカナ中国語についてです。その人もカタカナで中国語の発音を覚えたと言う事で、そのカタカナ中国語のURLアドレスも、付け加えてあり見に行って来ました。なるほどと思った事柄は10年前とは、カタカナ表記も大きく様変わりしていた事です。昔は中国語の発音は濁っては駄目だと教えられ、カタカナも例えば、張をチャンと書かれていた。ピンインでは張をzhangと書き、ヂャンにしてある。ピンインではzhi,chi,shi,riと、日本人にとって巻舌音の発音が難しい。現在のカタカナ表記は以前疑問に思っていた事柄が、ある意味解消されていて取り組み易いと思った。だが拘るわけではないが折角世界共通の、ピンイン表記方法で始めから学習した方が、良いのではと思った事は確かであった。何れにせよ中国人に話した言葉が通じた時の嬉しさは、次の勉強のステップとなり更に勉強する気にさせる。
2012.01.12
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「宋は初代皇帝で北魏が第7代」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。時代背景に少し触れるならば、280年に呉を滅ぼして、三国時代を終焉させ、司馬炎が晋を建国した。南北朝時代は、北魏が華北を統一した439年からはじまり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が、並立していた時代で、宋と北魏に分かれていた。宋は初代孝武皇帝で、北魏が第7代皇帝孝文帝の時代だった。達磨がインドより海を渡りたどり着いたのが南方で、孝武皇帝の、納める宋の国であったが、達磨を快く迎え入れ達磨に質問した。即位して已来、多くの寺を造り、経を写し三宝の僧を度すこと、数え切れないほどであるが、どのような功徳が有るのかと質問。達磨は功徳無しと答え、何を以て功徳無しと言うのかと更に質問。十界(地獄界から菩薩界・仏界)の中の人天界の中で動く生命であり、煩悩(人間界・天上界)から抜け出す事など出来ないと答える。このままでは、煩悩の因を作っているだけだと武帝に答えたところ、武帝は、何が真の功徳だと更に質問、達磨は寺を建てることも、もとより功徳がないとはいえないが、有限の功徳であって、真実無限の功徳とは言いがたいと答える。この頃、武帝は仏法を深く帰依するあまりに、自ら袈裟をかけて、般若経と涅槃経を講じたと言われるほどで、また、皇帝自ら、命令を発して寺寺を建て、多くの僧尼を得度させた。だが、当時の中国には、釈尊の仏教は公布はわずかだった。根底にあるのは道教で、仏教の僧など皆無の状態であった。殆どの人は、仏の真の心を知らなかったし、当然のことながら、仏教に対しても無知であった。孝武帝は達磨の回答を喜べず、達磨は縁がなかったと宋の国から北魏に向かい孝文帝に会った。 「心とは実に不可思議」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺第二祖慧可は達磨大師の信念を受け継ぎ、広く信徒を集め、禅の理を伝授し、禅宗を切り開いた。禅宗の修行する禅法は、壁に直面して姿勢を正して、坐った状態で精神統一を行う禅の基本的な修行法である。姿勢を整え、呼吸、心を整え、意識は1m先を見る感じ。顎を引き、口を軽く結び、肩の力を抜き、背筋を伸ばす。腰は引き気味にし、腹を少し前に突き出す。呼吸は自然にまかせ、鼻からゆっくり吐き吸う。テレビドラマなどで見たり、芸能人の大麻所持などで、座禅の修行を行いに禅寺で、座禅を組む姿を見た事がある。また新入社員の研修の一環として、座禅を体験コースも、昔からあるようだし、テレビのドキュメントでも見た事がある。だが、その研修も一時である。芸能人の懺悔の座禅も1年ほど、心とは実に不可思議なもの、求めても求めても宙に浮いた感じ。自分自身で決意をして、その決心は揺らぎないものと確信しても、縁に触れ、いとも簡単にその決意が崩れ去ってしまう。禅の僧侶もまだ修行中なので、禅の真意は観念としては、分かるが会得するまでには、一体いつになる事やらと話す。心とは、決まった形がないという事実を、自らの観念ではなく、体験として知ることが、安心を得ることであり、成仏すると説くが、実際には、そのような簡単には知り得るものではないと思う。達磨は9年間の座禅で手足が腐り落ちたと伝えられている。
2010.04.17
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「釈迦から数えて28代目」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。世間では少林寺と言えば、少林拳法と答える人も多い。実際には、中国各地の禅寺と全く同じ修行をしている。ただ、一般の禅寺と違う事柄は、運動不足になりがちな、僧侶の体の事を考え、運動不足にならないようにと、拳法を取り入れ、それを修行の一環とするようになった。少林寺の寺院は、遷都した洛陽の近くにあり、次第に拡大し、僧侶も日を追うごとに増え出し、多い時期には3000人を、超えるまでになり、当時少林寺の評判は各地に轟いていた。後に禅宗の祖の庭と称されるようになり、武術を修得したく、少林寺に殺到した若者が多くなり、寺の外に多くの少林武術の、学校が立ち並ぶ繁栄ぶりは600年ほど後の事となる。少林寺は紀元495年に孝文帝によって禅宗の寺として建てられ、35年後に孝文帝は釈迦から数えて28代目とされる達磨大師と、出会う事となり少林寺の祖となり9年間にも及び洛陽郊外の、嵩山少林寺にて面壁、いわゆる座禅を行い、その姿に、自分の腕を切り取り入門を願い出て、許された第二祖慧可の、力にもより、少林寺は多くの人々に知られる事となる。禅宗の起源はインドで、禅宗28祖の達磨大師は527年に、インドから船で中国に渡り、苦難を重ねてたどり着く。中国南方にたどり着いた達磨大師は宋の武帝にあう。仏教を厚く信仰していた武帝は、天竺から来た高僧を、喜んで迎え、宋の武帝は達磨に、これ程までに仏教に、供養しているが、未だ苦悩が続くと質問。それに対し達磨は、人界にて一喜一憂しているだけでは悩みなど解決しないと説き、中国宋の武帝はいい気分ではなかった。つづく
2010.04.16
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「少林寺は人類遺産」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺は、河南省登封県の西北にある少室山中にあり、たくさんの峰が聳え立ち、渓水が流れ、木が茂り、優雅な佇まいは、心を一瞬にして和ませてくれる。中国仏教界ではインドよりの達摩は中国の禅宗の祖され、達摩が修行した少林寺は禅宗の祖庭と讃えられている。少室山林の中にあるため、少林寺と称されるのである。少林寺の歴史は古く、北魏に作られ、インドの僧は、少林寺に来て禅宗を伝授したが、その菩提は少林寺にて、手厚く弔われており、それは塔林を見ても歴然とする。上の写真は、江沢民直筆による「少林寺人類遺産」の石碑。その石碑の前で、少林寺の僧侶と外国人との語らいを見た。近寄って聞いてみると、会話は英語ではなく中国語だった。
2010.04.15
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「天下第一祖庭」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。四天王では、広目天は蛇を腕に巻いており、持国天は琵琶を持ち、増長天は宝剣を持っている。そして、多聞天は傘を持っているのだが、少林寺の、四天王の場合、それがハッキリと断定出来なかった。上の画像は、宝塔を持っているので、宝刀と読み替え、宝刀=宝剣と理解するならば、増長天なのかも知れない。だが、そんなダジャレも中国語のピンイン読みでは、全くダジャレとしては通用しないだろう。ゆえに、前のページの最後に書いたフレーズは、増長天ではと思うが定かではない。と書いたのである。中国河南省の嵩山少林寺は、禅宗初祖達磨大師が、坐禅修行した地として知られている。その歴史も古く西暦495年、孝文帝がインドからの、渡来僧のために建てた寺であり、その後1515年の間、少林寺は苦難の歴史を歩みながらも、天下第一山の、禅の祖庭として名を確立した。
2010.04.14
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「少林寺の四天王像」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。写真は、腕に蛇を巻きつけている広目天で西方を守っている。ノートパソコンがやっと自分の手元へ戻って来た。新しいノートパソコンを買ってブログを更新しても、あまり意味をなさなかった。なぜならば、壊れたパソコンの、HDDの中には写真画像データが保存されており、今回は、そのデータの保存をしていなかったので、新たなパソコンでは、データが入っていない、ゆえに意味をなさなかった。写真は、禅宗の寺には必ず安置してある四天王像である。日本の東大寺などを守る四天王の表情と、中国の四天王とは、文化の違いからなのか、四天王像の表情は違った。日本では荘厳さが感じられ、中国では微笑ましさが感じられる。だが、嵩山少林寺の四天王は、また感じが違っていた。上の写真は琵琶を抱えている持国天で東方を守るとされている。下の画像は宝剣を持った増長天ではと思うが定かではない。
2010.04.13
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「ノートパソコンが壊れた24(完)」 「中国写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。1月中旬に購入した5台目のノートパソコンが壊れてより、メーカーへ修理依頼を出していたが、やっと手元に着いた。今回の修理料金は、3か月以内の故障であり1年未満無料修理。壊れたところはマザーボードだった。ノートパソコンに限らず、機械物はどの個所の故障でも、作動しなくなってしまう。2週間前に6台目のノートパソコンを購入したが、まだ梱包も、開けていないし、当然使ってもいない。早い内に使おうと思う。今回、「ノートパソコンが壊れた」と題してブログを更新したが、色々な個所の修理代金を調べてみたところ、かなりの開きがある。今回のマザーボード交換代金は、部品代が1万~4万で作業代は、1万~2万円ほどで、2万から6万円と消費税が掛かる。以前ノートパソコンの液晶パネルが壊れたが、修理依頼に出せば、2万~7万ほど掛かり、インバーターなどの交換となれば、更に高く3万~10万円になり新品を購入した方が安い場合もある。キーボードの修理の場合は、1万~2万5千円くらいで、HDDの交換は、HDDそのものは1万円未満で購入できるが、作業代金が2万円もする。またHDDが壊れた場合は、中に保存してあったデータの全てを失う。もし、データ復旧業者に頼めば6万円ほど掛かってしまい、その後、HDDの交換作業の費用が掛かってしまうので、普段からデータ保存の、大切さを認識しなければならない。今回自分の驕りからデータの、保存をしなかった為に、冷や汗をかいたが、HDDが無事でよかった。HDDの交換が終了しても、OSインストールとセットアップ作業に、業者に頼めば2万円の費用が必要である。自分で行えば3時間ほどで、セットアップ出来てしまうが、初心者には不安で出来ない人も多い。DVDドライブが壊れて交換する場合の費用は、2万~3万掛かってしまう。以上のように、全てが壊れた場合には、新品を買うべきではあるが、HDDなどやマザーボードの場合は、修理か新品か迷うところである。今回、パソコンとは違うが、キャノン一眼レフ用純正レンズEF70-200mmF2.8LISの修理に出したが、3万5千円ほど掛かった。レンズだけで、定価28万円するので、それぐらいの修理代かなとは思うが、部品代は、1万円足らずと安いが、ほとんどが人件費で高くなってしまう。5台目のノートパソコンが私の手元に戻り、HDD内データも残っており、心が曇っている時はの続きから更新したい。
2010.04.12
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「ノートパソコンが壊れた22」 「中国写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。5台目のノートパソコンの故障はマザーボードの故障。購入してまだ3カ月足らずという短い時間であった。壊れた時は、スイッチ部分の接触不良かなどと思ったが、バッテリーがあるので、電源が落ちる筈もなく何が原因か、思い当る節を考えた。一番懸念したのはマザーボードだ。マザーボードの故障が原因でパソコンが立ち上がらない。このような記事は至る所で見ていたが、まさか自分が・・。しかし、中古パソコンのコーナーで起こっている故障で、まだ購入して3カ月の新品同様なのに壊れる筈もないと、別の原因を色々と考えたが、電源が全く立ち上がらないので、調べようもなかったが、一番の心配はデータの消失だった。ノートパソコンハードディスク内のデータを移し替えようと、考えても起動しない以上、データを抜き出す事も出来なかった。壊れたノートパソコンを分解して中のHDDを取り出し、ハードディスクを更に分解し、ハードディスクケースに入れ、中のデータを取り出してより、メーカーに修理依頼をすればと、考えたまでは良いが、修理の保証は効かないとのことだった。ハードディスクケースの安いのであれば、980円ほどで手に入る。だが、メーカーサイドの指摘の通り、内部を分解した痕跡が、見つかれば、その時点で有料修理の承諾メールを送るとの事。私よりは、HDDが壊れているとは考えられないので、極力、HDD内データの消去は避けて頂きますようにと念を押し、メーカーからも、その旨サポートから伝えます。との、メール確認後、ノートパソコンを入院させた。つづく
2010.04.11
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「ノートパソコンが壊れた20」 「中国写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。3台目のノートパソコンは、かろうじて生きていた。そんな折、一時帰国し4台目のノートパソコンをハンドキャリーした。今度のパソコンは自分でカスタマイズしたもので快適だった。4年経った現在でも現役で頑張ってくれている。セキュリティソフトも万全過ぎるほどだった。しかし、そのパソコンもACコード接触不良を起こし、液晶画面がパカパカと暗くなったり明るくなったりと、見辛くなってきたので、メーカーのサポートまでメールした。2日ほど経ってよりメーカーサポートよりメールが入った。私のAC電源コネクター部の接触不良の問い合わせに対し、パソコンを元払いで送って頂き、こちらにて調べた結果を、報告させて頂きたい旨の内容だった。しかし、中国より、EMSで送ったにしても、日本のメーカーから中国までは、送ってくれないだろうし(注意書きに明記)断念した。仕方なく、上海のパソコン販売店を回ったが、同じAC電源アダプターは沢山あったが、私のパソコンに合うジャックは、見つからずに、帰ってきてしまった。それで、苦肉の策で、AC電源コネクター部分の周りに包帯を巻きつけ、少し高くし、傾きを利用しジャックの接触不良を抑えた。つづく
2010.04.10
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「ノートパソコンが壊れた19」 「中国写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。3台目のノートパソコンは、音源からマウスパッドまた、バッテリー、外付けDVD-Rに至るまで壊れ果ててしまい、ホームページを作成段階で、何度もノートパソコンが、壊れた為、その旨の書き込みをしていた。その「楽が貴重」の掲示板である。見られる場合はMIDIの音を小さくして下さい。ノートパソコンが壊れた時に、手助けをしてして下さった女性。Xiuqiuhuaさんと云う女性だったが、その後の消息で、北海道に住んでいる事が分ったものの、彼女とはそのまま、掲示板の禁止により、お互いに分かれ離れになってしまった。ネットの思いも掛けない嬉しい事柄は、当時のホームページから、ブログに変更して、ホームページのタイトルを、生かして、ブログを作っていた処、その女性よりメッセージが入っていた。ちょうど1年前の彼女のメッセージは、私のyahooIDの誤削除により、色々と自分の過去のデータを探している折りに見つけた。彼女には、メールを認め送信し、直ぐに彼女から返信があった。長い間の空白もネット上では、その空白が埋まったようだった。電話で語り合う間柄ではないが、文章のやり取りだけでも、十分に空白を埋めることは出来ると思った。つづく
2010.04.09
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「ノートパソコンが壊れた18」 「中国写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。3台目のノートパソコンの故障は、液晶パネルの蓋が、疲れて倒れるかのように、ゆっくりと後ろ側へ倒れた。音声が聞こえなくなり、バッテリーまで壊れてしまった。そして、バッテリーを付けないままの形で実に軽量だった。次には、マウスパットまでが壊れ、全く動かなくなった。最後には、ノートパソコンを購入した時に、同時に、購入した外付けDVD-Rの調子が悪くなり、最後には書き込みが、出来なくなってしまい、DVDの再生機能もおかしくなってしまった。何とかDVD-Rのみ、違うメーカーで手に入ったので書き込みをした。だが、すでに壊れたDVD-Rで書き込みしたデータは、新しい方では、見る事さえできなく、また壊れたDVD-Rでデータを送れない。DVD-Rが壊れているのでデータを本体に保存する事も出来ず、かといって以前のデータは、2台目の壊れたパソコンの中から、データをバックアップしたものであり、既に2台目のパソコンは、私の手元にはなく、パソコンが壊れると被害は甚大である。私の場合は、過去の写真画像データは失われている場合が多い。ゆえに、ID誤削除で失ったyahooブログには、3000枚以上の、画像データが保存してあり、例えパソコンが壊れても安心と、思っていたが、IDを誤削除するという前代未聞の馬鹿な事をした。4台目のノートパソコンにも不具合が起こったが、現在も頑張って、データ作成に手助けをしてくれている。現在、ブログの更新は、4台目が頑張っており、パソコンが壊れメーカー送りとなっているのは、買って3カ月足らずの5台目のノートパソコンである。つづく
2010.04.08
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「ノートパソコンが壊れた17」 「中国写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。ノートパソコンの液晶パネルが直ぐに後ろ側に倒れてしまい、偶に持ち出しても、私以外の者が使うと驚いてしまう。その驚きは、音声が出なくイヤーホーンで聞く事にも、私自身は慣れっこになっていたが、中国人には異様に、感じたようであった。今ではイヤーホーンで聞く事は当たり前、ノートパソコンの本体から聞こえるミュージックを聞くのは、その当時では、何となく中国人にとってステータスな、感じにみえ、殆どの人が休憩時間に聞いていた。次には、バッテリーがない状態であり、バッテリーが、壊れていても、ノートパソコンに着いていれば格好もついたが、何とも不似合いな感じで、哀れな格好にも思えた。そのノートパソコンも、今度はマウスパッドが使えなくなった。再起動しようが、マウスのデバイスの中も見たが駄目だった。仕方なく、中国人のデスクトップのマウスを抜き借りて使った。その頃には、中国語学習のブログの、作成にも意欲を燃やしており、私の意欲に反するかのように、3台目のノートパソコンは次から次へと壊れていった。つづく
2010.04.07
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「ノートパソコンが壊れた16」 「中国写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。3代目のノートパソコンでは、液晶パネル蓋が倒れてしまう。次には、音声が出なくなり、小さいスピーカーを購入し、デスクの両脇に置き、中国語など語学の学習をした。全くノートパソコンではなく、デスクトップ型になり、外へ持ち出すことも皆無に近かったが仕方なかった。AC電源コードからの電源供給で、バッテリーがいつも、通電している状態が続き、バッテリーが壊れてしまった。バッテリーに関しては、日本から出張に来る商社マンに、ノートパソコンのメーカー名や型番を伝え、帰国してより、探してもらったものの、型番に合うバッテリーは無かった。ノートパソコンでもデスクトップ型と同じだったので、バッテリーが無くてもAC電源で困りはしなかったが、不意の、停電などの時にバッテリーは役に立っていた。最近の、中国での停電は少ないが、その頃はよく停電しており困った。そして、商社マンに渡したバッテリーは壊れているので、必要はないだろうと、日本でバッテリーを捨ててしまっていた。何とも変な格好のノートパソコンでHPを作成したり、その頃からブログの作成などを始め出していた。つづく
2010.04.06
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「ノートパソコンが壊れた15」 「中国写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。3台目のノートパソコンが壊れた時の話を書いている。販売店の店長と交渉の結果、展示品限定価格商品を購入して、中国へ持ち込んだものの、使っていくうちに次から次へと、起こる悲劇に、パソコン運の悪さに嫌気がさす思いだった。パソコン液晶パネル蓋の開け閉めする部分が緩んでいる事を、知らずに、出張に持って行き、その不具合を、出張先の、女の子が見つけてしまい恥をかいてしまうことになる。そんな3台目のノートパソコンも、まだ買ったばかりだが、店頭新品で買い、自分が使っている日数分の消耗よりも、何倍か輪をかけて消耗していたのかも知れなかった。次に、アクシデントが起こったのは、音声が聞こえなくなり、サウンドインターフェースのデバイスを入れ直したが、音声は全く聞こえなくなり、上海の町へ出てスピーカーを、購入して来て、イヤーホーン端子より音声を出し、小型軽量のノートパソコンが、全くのデスクトップ型の、ノートパソコンに様変わりをしてしまうことになった。つづく
2010.04.05
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「ノートパソコンが壊れた14」 「中国写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。私が自分の部屋で使う時は、机が壁に引っ付いて置いてあり、壁からパソコンまでは、中国語の辞書類を置いていたので、その辞書に液晶パネル蓋が当たり、それ以上は倒れなかった。購入してより、2ヶ月ほど倒れるまで経験した事がなかった。何となく恥をかいてしまったようで、まだ購入して間もないが、このパソコンも相当使い込んでいるからな~などと、訳の分からない事を話した記憶が残っている。この時も、中国パソコンショップへ持ち込み、修理を依頼したが、修理不能とされ、そのパソコンは出張には持って出ず、もっぱら、デスクトップのような感じになってしまった。買い物は安いから良いと言う事はない。特にパソコンなどは、販売店の妥当価格で購入すべきと思うが、ノートパソコンを、使っていくうちに、次から次へと悲劇が起こってしまい、パソコン運の悪さに嫌気がさす思いだった。つづく話題は異なるが、昨夜NHKで古代史ドラマ「大仏開眼」を見た。今回は前編で、1週間後には後編を放送する。そこに出て来る、唐の時代の話より、奈良の大仏建立までのドラマで、唐代の「洛陽」の盧舎那大仏をモチーフとして作られた。
2010.04.04
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「ノートパソコンが壊れた13」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。3台目のパソコンの壊れ方が一番悲惨だったが、悲惨な中でも一番長持ちしたのではないかと思う。OSはWondows2000からNTに変わった頃だった。3台目のノートパソコンは店頭展示品を販売価格より、さらに2万円ほど低価格で購入したが、既に店頭で、半年ほど展示されており、1日に来店するのお客様が、キーボードや液晶パネルの開け閉めなどは頭になかった。購入して、その手で中国までハンドキャリーをした。A5型ノートパソコンは、小型軽量であり、重宝した。はじめに不具合を感じたのが、2ヶ月ほど経った日の事。中国の出張先で、メールを打ちたいのでパソコンを、貸してほしいと、他の貿易商社の女性から頼まれたが、別に断る理由もなく貸した。彼女がタイプをしている間、私は、工場の幹部たちとミーティングをしていた。1時間ほどのミーティングが終了し、彼女のいるデスクへ、向かって行くと、液晶パネルの背に花瓶をあてがっていた。彼女は、液晶パネルの蓋が直ぐに倒れてしまうと言う。どうやら、展示品を購入したためか、開閉の両サイドヒンジが、ゆる過ぎ、ちょうど良い位置で止まっておらず倒れてしまうので、花瓶を置いて倒れないようにしていたと言う。つづく
2010.04.03
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「ノートパソコンが壊れた12」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。13日前の3月19日、1月に購入したノートパソコンが壊れた。突然ノートPCがクラッシュ↑その時のブログのページその後メーカーと連絡を取り合い、こちらからの要求は、HDDの大部分は別付けHDDに保存してあるが、最近のデータは、保存していないので、HDDのフォーマットだけは避けて、もしもの事態には、必ず私に連絡をする要求を出していた。4月2日、本日パソコンメーカーより、メール連絡が入った。それによるとマザーボードの故障による通電不良と、バッテリーのラッチ部破損の不具合との内容であった。私は、くれぐれも慎重にHDDデータ誤削除のないように、修理の依頼をしたが、どうしてこんな短期間でPCの、マザーボードが故障してしまったのかは聞かなかった。1週間後には、メーカーからPCを送って来れば良いが・・。
2010.04.02
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「ノートパソコンが壊れた11」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。ホームページやメールやその他サービスがID誤削除で、すべて失ってしまってから、メールは戻らないが、ホームページだけでも、何とかデータをと思いながら、やっとの思いで、ホームページを立ち上げた。だが、11年前に作ったので、フラッシュなどは使わず、全く手書きのHTMLの組み合わせホームページである。そのホームページを作っていて、ウィルスにより、OSデータが破壊され、HDDのフォーマットを繰り返し、3代目のノートパソコンに不具合が生じた事が書いてあった。かなり長文なので、見疲れるかもしれない。添付型ウィルスの話もし見る人は、midiが煩いので、ボリュームを下げて下さい。
2010.04.01
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「ノートパソコンが壊れた10」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。語削除してしまったyahooIDは戻らないが、新しく別の、IDを取得し、HPを作成し出してから丸1日が経った。だが、11年前に作ったホームページの全ての内容を、記憶している訳でもなく、途方に暮れていた。2003年にノートパソコンのOSを含めて壊れる度合いも多く、以前のホームページを別のIDで作ったホームページへ、移していた事を思い出し、編集をし出したと言う訳だ。しかし、indexページの各項目からリンクしていたページは、誤削除して消えてしまったIDで削除したページだった。すべてのページをファイルマネージャーで数えてみたが、340ページ以上あり、その中の5箇所ほどのリンク先を、変更して確認する作業は、気の遠くなるような作業である。それより、もっと情けなかった事柄は、2003年に別のIDで、作成したホームページ以降に、今は消え去ったHPのページを、更新し続けた文章が、更新されておらず、その部分が、消え去った錯覚さえ覚えたが、今はリンク先への、変更作業で時間が無くなってしまう。つづく
2010.03.31
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「ノートパソコンが壊れた9」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。中国版のwindows98とは別に、友人から借りたOSの、日本語版「Windows95」をインストールした。この当時のOSは「Windows98」が主流であった。中国語はWindows98で日本語はWindows95という奇妙な、設定をし、次に帰国する4ヶ月間を過ごした。その間に、Yahooでgeoitiesのホームページの開設をした。その後、約11年間過ぎた2010年3月にyahooIDを削除しようと、間違ってメインIDまで削除をしてしまうことになった。YahooIDにしろ、他のIDにしても、削除するときは、必ず、本当に削除してもよいかの確認画面が出て警告を促す。しかし、今回の語削除では、何の警告も出なかった。その翌日、YahooはID削除が現在出来ないとお知らせが出た。私は、自分自身の誤動作により語削除してしまったが、あと1日早く、ID削除が出来ないエラーが出ていたらと、やはり、悔やまずにはおれなかったが仕方のないことである。今、別のyahooIDで全く同じホームページを更新していた事を、思い出し、昨夜よりアドレスの書き換えを始めだした。つづく
2010.03.30
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「ノートパソコンが壊れた8」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。3ヶ月足らずで2代目のノートパソコンのHDDが壊れた。バッグにPCを入れ、ホテルを出るとき、コードを、足で引っ掛けた客室係とエレベーターの所で、すれ違いざま、「パソコンは大丈夫でした」の声に、大丈夫ですからと、心にもない事を言った。私は出張に来ていた広東省広州市のホテルを出て、パソコンを扱うショップへと向かい、修理依頼をした。だが、この時代の中国へは発売されたばかりの、小型薄型ノートパソコンの流通はなかった。日本のメーカーに中国から頼んで修理してもらってもよいが、新しく購入した方が、安い可能性もあると言われ、ホテルへ、帰ってからも散々考えたが、急ぎ帰国しても会社の経費で、帰国は出来なく、身銭を切ってまで帰国するのもと思った。と言うのも、この2ヶ月前に島根の義父の通夜に間に合わせるため、急ぎ東京経由で帰国し、東京から出雲空港へと大分出費が、嵩んだため、考えに考えた。最終、夕方またパソコンショップを訪れ、中国のノートPCを購入したが、馬鹿デカかった。上海へ戻った私は、友人から、日本語版「Windows95」をインストールした。この当時のOSは「Windows98」が主流だった。つづく
2010.03.29
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「ノートパソコンが壊れた7」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。ホテルの若い女性客室係の足に引っかかったパソコンコードは、そのまま、軽量コンパクトなパソコンと共に部屋の床に落ちた。私がトイレから出て来た直後の出来事であり、声を上げるのが、やっとという感じだった。その時はパソコンが壊れたなど、思いもよらず、かわいい女性従業員が、私に謝るのを、長いコードをピンと張っている方が悪いので、心配しなくても、いいよなどと言ってみせたものの、客室係が再度頭を下げ、部屋を出て行ってより、慌ててパソコン液晶モニターを見た。液晶モニターは真っ黒になっており、初めスクリーンセーバーと、思いながら、キーボードを叩いたりしていたが、電源が落ちたと、想い、再度電源を入れ直したものの、何一つ電子音がしない。私が、トイレに入ったとき、客室係は部屋に入っており、片づけ出したところだったが、電源は入っておりハードディスクは、当然回っていた。そこへ机からコンクリートの上に絨毯を張った床に、落下したので、今回もハードディスクが、壊れたと思った。こんな時は、ため息しか出ない。なぜか、客室係への恨みはなかった。現に、後からホテルを出るとき、客室係とエレベーターの所で、すれ違いざま、パソコン大丈夫でしたの声に、大丈夫ですから、心配しなくとも良いですよと話していた。つづく
2010.03.28
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「ノートパソコンが壊れた6」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。新しく購入したノートパソコンは、その当時中国では、まだ珍しいSONY VAIOで、どこへでも持ち出し重宝した。出張には必ずと言って良いほど持って出かけた。ホテルでは、今のような光ファイバーのような設備もなく、どこのホテルも電話回線しか使用できず、使用料も、一晩で500元(7500円)を超える事もしばしばであった。ある日の事、ホテルのデスクの上に置いてあったノート型、パソコンを部屋の掃除に来た若い女性従業員が、ベッド近くから延長コードで接続していたが、足で、引っ掛けて床に落としてしまったから大変・・。今回買ったパソコンは薄くB5型で軽かったので、落ちて行くパソコンを見たときは、スローモーションでも、見ているかのような、ゆっくりとしたスピードに見えた。私がトイレから出て来た直後の事柄であった。つづく
2010.03.27
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「ノートパソコンが壊れた5」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。ノートパソコンが完全に乾ききる前に電流を通せば、ショートして再生不能になる事は予感していた事でもあった。壊れてより1年間ほどは中国のデスクトップで過ごしたが、日本とのメールのやり取りで、文字化けが発生するくらいで、そのほかは、外で使えない事意外は、不便さは感じなかった。お陰でこの時期に中国語を打つスピードが一気に増した。日本へ一時帰国した折に、新しいノートパソコンを購入した。壊れたノートパソコン購入時点より、3年経っていた所為もあり、パソコンの性能は、目覚しく発展している事に驚いた。1台目がNEC、2台目がSony VAIOを買ってハンドキャリーした。それまでは、デスクトップだったので外へ持ち出せなかったが、新しいノートパソコンは、どこへでも持ち出し重宝した。だが、使い出して3ヶ月ほど経ったある日、壊れてしまった。その時の話は、次回話をしたい。つづく
2010.03.26
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「ノートPCが壊れた4」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。1998年当時のノートパソコン事情は、現在のようには、普及しておらず、ノートパソコンの値段も安くて35万位だった。おまけに、メモリーは256MBだったように覚えている。今、35万出せば、メモリは8GBはあり、書き込み可能な、DVDはもちろんのこと、HDDだって500GBはあるだろう。だが、その当時は、フロッピーディスクに文書ファイルを、書き込む位で、今考えると大分原始的なノートPCだった。そのような高額なパソコンを雨水に浸けたようにしてしまった。ベランダの風通しの良い所へ陰干しにし、帰宅してから、2時間ほどドライヤーで乾かしてより、思い切って電源を入れた。一瞬ランプが点いたが「パチパチ」って言うような小さな音の後、パソコンは何も反応しなくなってしまった。この時は既に、中国に居り、まだまだノートパソコンは出回ってはおらず、それより、1年間ほどは中国のデスクトップで過ごした。つづく
2010.03.25
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「ノートPCが壊れた3」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。デスクトップの電源を入れたが、メールは出張先のPCで、返信処理していたので、また一眠りする事にした。一眠りするはずが、一気に2時間半が過ぎており、ベッドから飛び起きた私は、軽い食事をして、迎えに来ている車に飛び乗り事務所へ向かった。仕事をしている最中も、水に濡れたノートパソコンが、脳裏をかすめては消え去った。この時代のバックアップは、今のような外付けハードディスクは高価で手に入らず、もっぱらフロッピーディスクにコピーするくらいであった。この1年後からCD-Rを購入する事になったが、写真の、JPG画像はデータ容量が大き過ぎて、沢山のデータを、コピーする事はできなかった。つづく
2010.03.24
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「ノートPCが壊れた2」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。3日間の出張を終え、6時間掛け車を走らせて、夜中、住まいに辿り着いたが、そのまま疲れ寝てしまった。早朝4時ごろ目がさめ、バッグごと置いてある窓際まで、見に行ったが、まだ日の出前で辺りは真っ暗だった。急ぎ電気をつけ見てみると、雨で絨毯が乾かず、その境目が良く分かった。そ~っと忍び足で歩いた。それでも、スリッパを超えて水が靴下に冷たい水の感覚が、伝わって来るのが分かった。バッグを取り上げると、雨水で濡れたバッグ全体は重たく感じた。おまけに、私が出張に出た4日前は、慌てており、バッグのファスナーをも閉めずに窓際に置いただけだった。中に手を入れてみると、雨水の湿気とバッグの底には、まだ水が溜まっており、急ぎパソコンを取り出した。開けてみるとキーボードには水滴が沢山ついており、今、電源を入れては完全にショートして使えなくなると、まず、ドライヤーで乾かすが、中に染み込んだ雨水は乾かない。仕方なくデスクトップの電源を入れ、メールの確認をするが、メールの内容は、出張先のPCで確認返信をしていたので、また一眠りする事にし、ベットへ潜り込んだ。写真は、酔白池公園前の獅子像。つづく
2010.03.23
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「ノートPCが壊れた1」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。ノートパソコンが壊れたのは、今回で4台目である。すべてが中国での出来事であるが、不注意から起こった。1台目は、12年前の事で、太陽が燦々と照りつける朝、急な3日間の出張で、手荷物も多くなり、パソコンは、出張先にあるとのことで部屋に置いていった。天気予報では、快晴が続くはずであったが、出張先に、着いて2日経った夕方から夕立に見舞われた。私は、部屋の窓を閉めてきたかどうか思い出せず、3日間の出張を終え、6時間掛け車を走らせて、夜中、住まいに辿り着いたが、そのまま疲れ寝てしまった。写真は、上海から1時間半ほどにある酔白池である。つづく
2010.03.22
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「今生の別れと悟る」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。外藩の王が側妾を欲しいと聞き込んだ徳全・王仁と、賈環・賈芸は、巧姐を嫁がせ儲けようと企て、輿入れと言う事になったが、巧姐と平児は寝耳に水で驚く。そこへ現れた劉婆婆は、私の住む村へと提案し、合意を得ると車を用意し巧姐を乗せ栄国邸から脱出させる。一方、宝玉は科挙受験に出向く前に、妻の宝釵へ手を胸に当て挨拶をした時、宝釵は宝玉と今生の別れと悟り、涙があふれ出る。宝玉は科挙の受験後に行方不明となったが、賈政は史太君の柩を、守り金陵まで来ていた途中、雪の中で自分に向かって拝礼する者の姿を見る。坊主頭に裸足に宝玉では?と問う賈政に、悲しそうな、仕草をする宝玉だが、僧と道士と共に背を向ける宝玉を追っただが、宝玉ら3人の姿は靄の中に消えてしまう。その事を知った襲人は、すべてが前世からの、因縁だという事を悟ったように一点を見つめた。紅楼夢の話はこれで終わり。だが、中国の友人達は紅楼夢を18世紀清の時代の皇帝風刺だと言う。私は飲酒が過ぎて他界した作者の曹雪芹は、前世・現世・未来世の三世の因果を書いたのではと思う。おわり
2010.03.02
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「自身の素性を知り出家する」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。史太君は心労続きで胃を悪くして大病を患い、83歳で家族の見守る中、他界してしまった。史太君の侍女の鸚鵡は柩の前で泣き崩れる。鸚鵡は殉死をするべきか、考えながら歩いて行くと、誰かが首にロープを、掛けようとする姿に出会った。それは秦可卿だった。鸚鵡は自分に死に方を教えてくれたと信じて、梁に腰帯をかけ、首を入れた。史太君の葬儀の夜、栄国邸に強盗が入ったが、美貌の妙玉に惚れ、動けなくした妙玉を背負って、城門を抜け出し連れ去ってしまった。気丈だった王熙鳳も病で床に伏せる事が多くなり、栄国邸に強盗が入った後は起き上がれなくなった。熙鳳が死に追いやった尤二姐の亡霊にうなされる毎日だった。そんな時、劉婆婆が史太君の悲報を聞き悔やみに訪れる。以前は劉婆婆が熙鳳に頭を下げてお願いした。だが今回は、劉婆婆の願掛けに、熙鳳は頭を下げ最後の望みを託した。王熙鳳の体力は日に日に落ち、王熙鳳は、26歳の若さで、この世を去ってしまう。一方通霊宝玉を、受け取った宝玉の霊魂は、僧のあとに着いて、幻境の前まで来てた。宝玉は、再度、金陵十二釵を読み、終に自分の素性を知り出家を決意する。
2010.03.02
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「喀血して倒れてしまった」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。林黛玉の所に王熙鳳と王夫人が来て、嫁にやる話をするが、死んでも、江南には戻らない、たとえ侍女となり暮らしても良いから置いてと、史太君に頼んでみるが手遅れだと聞き入れてくれない。黛玉は泣いて、頼むがどうにもならなかったが、それは夢だった。熙鳳は史太君に、宝玉の縁組で金の錠前を持っている者と結婚をすると言い、史太君は、納得して黛玉と宝玉、宝釵と宝玉の運命が決められてしまったようだ。ある日賈政が涙ながらに入って来て貴妃が急病で、助からないと話す。史太君と王夫人が見舞うと、貴妃は痰が詰まり、物言えず、涙も枯れて、貴妃の顔色が変わってしまっており、やがて貴妃薨去の下達がある。通霊宝玉を失い白痴状態お宝玉を救うために、史太君は宝玉と宝釵の、婚儀を急ぎ行う事を決める。襲人は宝玉の黛玉を想う気持ちを考え、王夫人から史太君に報告する。黛玉は宝玉と宝釵の婚儀の事を感じ、黛玉は宝玉を探し宝玉の病気の原因を聞くが、宝玉は黛玉が原因だと、答えた為、黛玉は走って瀟湘館へ戻ると喀血して倒れてしまった。 「涙は枯れ果て一滴も出ない」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。林黛玉の容態は急激に悪化し、不安になった紫鵑は史太君へ、報告に走ったが正房も宝玉の部屋にも誰も居なく呆然とする。墨雨から今晩、挙式をすると聞いた紫鵑は黛玉と結婚するはずと、涙を流しながら瀟湘館に戻るが、黛玉は高熱で苦しんでおり、もはや口も利けねば、涙は枯れ果て一滴も出ない感じだった。紫鵑から宝玉は宝釵と結婚すると聞いて、恨みを言い残し、林黛玉は宝玉の挙式の時刻に息を引き取ってしまった。一方、宝玉の体も良くなり、新婦の赤い被り布を取った宝玉は、黛玉の筈が、宝釵であるのを見て呆然とし、黛玉に、会いに行くと言うが、宝釵から黛玉がこの世を去った事を、告げると、倒れ込み寝込んでしまった。大観園に亡霊が出る噂が流れ、怖がって園内の管理もずさんになる。熙鳳は秦可卿の幽霊に会い、死に追いやった尤二姐の亡霊も、尤氏は精神の病になり、賈蓉・賈珍も次々に病に倒れてしまった。盛大に妖魔退散の法要を行ったが全く効果はなかった。宝玉は宝釵の誕生祝を抜け出し大観園に入り、黛玉が亡くなったあと、いつも黛玉の泣き声がすると、言われた宝玉は、黛玉を殺したのは私だと涙を流して言う。襲人は急ぎ宝玉を大観園から宝釵の元へ連れ戻した。だが、宝玉は表の間で就寝し、奥の間で寝た宝釵は、なかなか、寝付けれない一夜を送った。
2010.03.01
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「誤解していた事を反省」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。怡紅院で昼寝をする宝玉のわきで襲人が針仕事している所へ、薛宝釵が訪れる。襲人が作っているのは宝玉の腹掛けだった。襲人が所用で出かけた後、宝釵が針を取り刺繍を続ける。その時、林黛玉と湘雲が怡紅院を訪れ、宝玉と宝釵を見て驚き帰ってしまう。場面は詩社結成で招請状を手に宝玉は喜んで秋爽斎へやって来る。黛玉の提案で別号を考え、宝玉は怡紅公子、黛玉は瀟湘妃子、宝釵は衡蕪君、他も別名を決め、詩社結成の名も海棠社と決める。宝釵は黛玉を衡蕪苑に連れて行き、酒令の席の句はどこかで聞いたと、質問するが、黛玉も盗作だったと話して、詫びをいれる黛玉だった。体の弱い黛玉は咳き込み床につき、宝釵が見舞いに上がり海燕の巣を、お粥に入れ食べると良いと言う。黛玉は宝釵の事を誤解していたと、反省する。場面は王熙鳳の誕生祝いのあと部屋に帰ると夫の賈蓮が、女を連れ込んでいると聞かされ、中を伺うと女と賈蓮の話し声がする。妻が死ねば、お前と一緒になるよなどと聞いた王熙鳳は激怒して戸を、蹴破り中へ入るなり平手打ち、逆ギレした賈蓮は剣を持って追いかけ、熙鳳は史太君のところへ逃げ込み、賈蓮を見て史太君は大激怒する。 「尤二姐と尤三姐の悲劇」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。紅楼夢で忘れてならない人物は尤二姐と尤三姐だ。王熙鳳の夫の、賈蓮は何とかして尤二姐を妾にしようと躍起だったが熙鳳には、内緒で婚礼までたどり着く。尤三姐は、柳湘蓮に心を寄せており、賈蓮は柳湘蓮が肌身放さず持ち歩いていた鴛鴦剣を渡され、その鴛鴦剣を手渡された尤三姐は、毎日千秋の思いで彼を待った。しかし、やっと柳湘蓮に会えたが、結婚できないから鴛鴦剣を、返してほしいと現れる。尤三姐は剣を手に湘蓮を訪ね結納の品を、返し大粒の涙を零しながら、自分の首を切り自害してしまった。 ある日、王熙鳳は尤二姐を訪ね、夫の賈蓮の女の尤二姐への怒りを、抑えて大観園へ誘い込んだ。王熙鳳は二姐を許す事が出来ずに、軟禁し、最後には食事も満足に与えなくなり、二姐は病気になる。病床の彼女の夢枕に、自害した尤三姐が立ち、剣で熙鳳を殺すよう、言うが、二姐は辛くても我慢すると答える。だが、その後、医者の、手で堕胎させられた二姐は、終に覚悟を決め、地金の塊を呑み込み、急ぎ晴れ着を着て、髪も整え、床に横たわり翌朝遺体で発見される。
2010.02.28
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「昏睡状態に陥ってしまう」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。賈元春妃より灯謎が届けられた。灯謎とは読んで字の如く、灯篭や提灯の上に謎々(なぞなぞ)を書いて当てさせる遊びで、中国の伝統的な元宵節(旧暦の正月15日)の遊びである。現在でも中国春節に帰省した従業員たちは、元宵節を家庭で過ごし、その後、工場へ向け出発するので、旧正月が終わっても直ぐには、作業員が集まらない工場も多いので、商品納期に誤算が出る。灯謎は、賈迎春・賈環以外は皆正解し、宴席は盛り上がりを見せた。賈環は、王夫人に言われ写経をしている所へ、結婚祝より、賈宝玉が帰ってきたが、まだ酔いがさめずに、はしゃいでいる。写経をしていた賈環は、堪らずに宝玉に熱油を浴びせた。左の頬に火膨れをし、帰った宝玉を見て、襲人たちは慌てる。林黛玉は知らせを聞いて見舞いに駆けつけたが顔を隠して見せない。容態が急激に悪化し、3日もたつと昏睡状態に陥ってしまった。 「後悔し詫びを入れる」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。賈宝玉は暑さのため寝込んでしまった林黛玉を見舞ったが黛玉は、卑屈になっており、私など居ない方が良いとまで言いだす始末。今までの思いが一気に噴き出し宝玉もどうして良いか分からずに、思わず通霊玉を床に叩きつけるが、襲人と紫鵑が割って入った。宝玉は怒りのあまり歩きまわり、黛玉は悲しみのあまりに、飲んだばかりの薬湯を全部もどしてしまった。さらに黛玉は、宝玉の通霊玉のふさをハサミでズタズタに切り刻んでしまった。宝玉と黛玉は後悔し宝玉は黛玉に詫びを入れる。黛玉は宝玉の姿に、私たち二人はやはり親しい仲だったのだと気付き泣きだしてしまう。黛玉が私が死んだらと宝玉に言うと、その時は坊主になると言い返す。 ある日、突然の雨でずぶ濡れになった宝玉は、一目散に怡紅院に、駆け戻り門を何度も叩くが誰も出て来ないので、門を叩き続ける。やっと門が開けられる音に逆上した宝玉が思い切り蹴り上げた所、襲人だった。その晩、襲人は咳き込んで血痰を吐いてしまう。
2010.02.27
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「食べ物の恨み」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。寧国邸での芝居見物に飽きた宝玉は、宿下がりした花襲人を訪ね、生家に戻っていた襲人は、母と兄から買い戻す話をしていたが、襲人は家には戻りたくない意志が強く、どんな事をしても戻らないと、話している最中に、宝玉が突然現れ、驚きながらも彼の世話をする。その姿を見た母と兄は襲人を連れ戻す事を思いなおす。宝玉とともに、邸に戻った襲人は、宝玉に実家へ帰る事を告げ、我が儘な行いを、諌めよう考えた。涙を浮かべてベットに横たわる宝玉を見て、クスッと、笑いながら襲人は、あなたが私の言う事を守ってくれたら帰らないと、宝玉に告げた途端に、何でも言う事を聞くとベットから起き上った。林黛玉の部屋でキャーキャー言いながら宝玉がじゃれ合っている。宝玉は自分の部屋で誰か騒いでいるのを聞きつけ、駆けつけた。宝玉の李乳母が宝玉をたぶらかし、好き放題の事をするなら下男の、嫁にしてしまうよと襲人が叱られており、襲人も涙にくれていた。事の起こりは蒸ケーキを食べようと楽しみにしていたら、宝玉が、先に食べてしまっており、それで今までの鬱憤が一気に出たようだった。この件は、林黛玉や薛宝釵では収まりが着かず王熙鳳が来て収まった。 「別居生活を始める」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。巧姐が疱瘡にかかり、隔離するため賈蓮は外で別居生活を始める。しかし、賈蓮は別の女と寝てしまう。巧姐の病も癒え、賈蓮は、邸に戻った折に、平児が荷物の整理をすると、黒髪が出て来る。平児は、早速賈蓮に向かって誰の黒髪か聞くが、賈蓮はスキを見て、平児から髪の毛を奪い返した。怒る平児の姿に欲情した賈蓮は平児を抱こうとするが、平児はその手を払って庭に逃げた。宝釵の誕生日に芝居をする事になり、子役の一人を指していた所、王熙鳳が一人の子役を指して、誰かに似ていると言うと、史湘雲が、林黛玉姉さんに似ていると話す。林黛玉と聞いて宝玉は慌てている。林黛玉も軽はずみに目配せするなんてと怒っている。何となく好意が、仇となり二人の機嫌を損ねてしまった宝玉は、部屋に戻ると筆で、何か悟りを開いたようで一つの偈陀を書くのだった。
2010.02.26
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「持前の采配で取り仕切る」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。紅楼夢の秦可卿を演じた唐一菲を初めて見た時、私は中森明菜を、連想してしまうほどによく似ていた。秦可卿は夫がある身で、密通に溺れ、不運にも自らの命を終えてしまった。秦氏の一人が、秦可卿の死を痛み、柱に頭を打ちつけて殉死した。賈珍は、殉死した侍女を孫娘として葬った。そんな中、王熙鳳は秦可卿の、葬儀の手配で大勢の人が自分勝手に振る舞い乱れ、それを持前の、采配で取り仕切った。葬送の日を迎え菩提寺である鉄檻寺に柩を、安置し王熙鳳と賈宝玉、秦鐘の3人は水月庵に宿をとった。菩提寺である鉄檻寺は、寧栄二公が建立された寺で一族の柩は、鉄檻寺に預けられ野辺送りの人々が寝泊りする用意も整っていた。だが、鉄檻寺では殺風景で不便なため、王熙鳳は他の人々が、鉄檻寺に宿泊する中、自分は近くの水月庵に二間ばかり部屋を、用意させ鉄檻寺に泊まらず、水月庵に宿をとっていた。秦鐘は、暗くなったのを幸い、皿を洗っている智能に飛びつき灯りを消し、智能を抱こうとしていたが、突然賈宝玉が入って来て未遂に終わる。 「追い剥ぎに遭う」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。賈元春が皇帝の貴妃となって程なく元春妃の帰省の許可を出す。栄寧邸内に豪華絢爛な大観園が造成され、賈一族の長の賈政は、賈宝玉を連れ、お客様と共に完成した大観園の検分に出かけたが、正殿前に造られた牌楼を見て宝玉は、どこかで見たことがあると、気になっている時、大観園から帰る途中に追い剥ぎに着ている服を、剥ぎ取られ、その事を知った林黛玉は、宝玉を心配するよりも自分が、作った巾着袋を盗られて腹を立て、作りかけの匂袋を切り裂いてしまう。 それを見た宝玉は懐から黛玉の巾着袋を取り出して林黛玉に見せる。そして、黛玉からもらった巾着袋を返してしまう。間をおいて黛玉は、涙を流しながら、折角作って宝玉にプレゼントした巾着袋にハサミを、入れようとするので、賈宝玉はあわてて林黛玉に許しを乞うシーン。 旧暦の1月15日の元宵節に、元春妃を乗せた籠が到着し史太君の正室に、入ると、史太君と王熙鳳と抱き合い感極まり、むせび泣いてしまう。
2010.02.25
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「約束の時間に待っていた罠」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。常日頃から王熙鳳を慕っていた賈瑞は憧れの熙鳳に接近することができた。色目を使う賈瑞に微笑みを見せながらも、心では憤慨し不愉快感を見せる、王熙鳳は、賈瑞を殺害する計画を練り始め、実行に移す日がやってきた。門の鍵を開けておくから、自分で入って穿堂(ベランダ)で待つように、話してあったが、約束の時間通りに賈瑞は、やって来て王熙鳳の名を呼ぶ。暗闇の中、王熙鳳の姿を探すが、いきなり門が閉められてしまったかと、その時に塀の上から汚物が賈瑞の頭から、何度も掛けられてしまう。一晩中真冬の寒風の中に置かれ、凍え死にそうで朝を迎える賈瑞は、急ぎ、祖父の賈代儒の元へ帰り、井戸水で汚物を洗い流すが寒さの為、失神して床に着いてしまい高熱にうなされる日々が続く。祖父は、道士が置いて行った手鏡を賈瑞に渡すが、手鏡に映った王熙鳳の姿が、頭蓋骨に変わった瞬間に心臓発作で、他界してしまう。 「秦可卿の死」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。王熙鳳は寧国邸の賈蓉の妻秦可卿の病を見舞い、すっかり、痩せているのを見て、共に見舞いに来た賈宝玉も思わず、涙を流してしまうが、王熙鳳は賈宝玉をたしなめ、秦可卿を、励ます。父の秦業は半ば病は治らないと諦めている表情。だが秦可卿の病は実際は賈珍との密通の所を侍女の宝珠と、瑞珠に見られ、恥じて首を吊ったためという事だった。そんなある夜のこと、眠りについた王煕鳳の夢枕に秦可卿が立った。秦可卿は世話になった王煕鳳に別れを告げるためと賈一族の将来を、告げるために枕元へ立った。秦可卿は賈一族は近い将来滅亡すると、予言し、その時のためや起こってからの事に備えるよう話すが、王煕鳳が更に尋ねようとした時、秦可卿の死を告げる雲板の音が、邸内に響き渡ると同時に秦可卿の姿は消えてしまった。
2010.02.24
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「塾生達の交際が乱れる」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。今度は秦可卿が病気になり医者に診せるが一向に良くならないので、賈珍は張友士に診察してもらい、助かる見込みがあると処方箋を書く。 その後、寧国邸で賈敬の誕生祝の折、王煕鳳と賈宝玉が可卿を見舞う。秦可卿は彼らに、私の病気では年は越せないと、か細く言う言葉に、胸を突かれ、感情多感な賈宝玉は大粒の涙をこぼす。賈宝玉が塾に上る日が来たので身支度を整えて、邸内を挨拶に回る。日頃の宝玉の言動を聞いている宝玉の父の賈政は、宝玉が真面目に、勉学に励むとも思われず、挨拶に来た宝玉を叱り追い出してしまう。家塾とは、賈一族の中に貧しく家庭教師を雇えない者のため子弟を、一堂に集めて教育する機関であり、栄国邸から500mの所にある。だが元々常識に欠けた塾生達の交際は乱れ勉学どころではなかった。
2010.02.23
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「劉婆は王熙鳳と面会する」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。紅楼夢では金陵十二釵の12人のヒロインの侍女たちの存在も、紅楼夢物語を引き立たせ、彼女らの生きて来た不運さも心を引く。そんな中、紅楼夢のヒロインの中で75歳という一番の年配役。長安郊外に住んでいる農家の王狗児の義母で、名を劉姥姥と呼び、通称劉婆と呼ばれ身の上は、その冬も越せそうにない貧困ぶり。顔見知りの紹介で王熙鳳と面会でき劉婆は、栄国邸を訪れる。王熙鳳に物をねだろうとするが、劉婆は床に手をつき頭を下げるしか、仕方なかったが、紅楼夢の最終場面では、賈家は滅亡の一途をたどり、十二釵の12人は次々と離散し中でも王熙鳳は他界する。その場面で、心配して来た劉婆だが、貧乏で物乞いに来た10年前と10年後の、世の移り変わりに驚き、馬車で帰って行く劉婆の表情は、未来の事は一寸先闇と言うような厳しい表情が印象的だった。 「欲望の赴くままに」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。賈家の寧国邸で王煕鳳と賈宝玉は、秦可卿の義弟を紹介される。賈宝玉と義弟の秦鐘は賈家が一族の少年たちを教育するために、開いている私塾に通い始めたが、香憐と玉愛二人の男子塾生と、心を通わせあうが、賈宝玉と秦鐘が13歳のころだった。ある日、秦鐘と香憐が二人になった現場を、のぞき見し吹聴して回る。賈宝玉や秦鐘たちは、女の子が大好きだったが男の子も好きで、その辺の教育が出来ていないような、自制が利かないというか、欲望の赴くままに行動しても大貴族の貴公子で誰も咎める者がなく、塾でも投げ合いや殴り合いが始まり、書童たちは物を振り回して、暴れまわったが、罪悪感は全く残らないのが不思議でもある。
2010.02.22
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「誰にも命運は分からない」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。大貴族の賈家の造園した大観園に集まった登場人物の運命は、太虚幻境の薄命司に納められた「金陵十二釵正冊」の中で、定められていた事だった。我々が今の人間関係の中で生活し、将来また新たな人間関係や出来事なども、既に定められており、誰にもその定めが分からないからこそ生きて行けるのかも知れない。だが、過去は変えることが出来ないが未来は変えられるのではと、信じて疑わないが、それも哲学の書物から、そう思うだけである。寧国邸の梅の花を観る宴に招かれた賈宝玉は、秦可卿の部屋で、昼寝をしていたとき、夢の中で太虚幻境を訪れ、薄命司に、納められている金陵十二釵の女性たちの運命が克明に記された、金陵十二釵正冊を目にする。この時点では書かれている意味を、深く考えなかったが、薛宝釵と結婚をすると同時に、林黛玉が、他界したことや、頑なに拒否していた科挙試験の勉学に勤しみ、合格したが無情さを感じ、また太虚幻境を訪ね正冊を見た時に、何かを悟った賈宝玉は、薛宝釵と子供を捨てて出家をしてしまう。 「賈宝玉と金陵十二釵」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。金陵十二釵といわれる十二人のヒロインの名を挙げてみたい。林黛玉---宝玉の従妹で、詩才と機知に富む一方病弱で繊細。薛宝釵---宝玉の従姉で、健康で明晰、円やか、優等生型少女。賈元春---宝玉の同母姉。皇帝に召されて貴妃となった。史湘雲---賈母の実家の史家一族で、両親を早くに亡くしている。王煕鳳---宝玉の伯父賈赦の息子の妻。宝玉の母方の従妹でもある。秦可卿---宝玉の曾祖父初代栄国公の兄初代寧国公の玄孫の妻。賈迎春---賈赦の娘で宝玉の従姉。善良だが無力な人物。 賈探春---宝玉の異母妹で、賢明で詩才のある美少女。 賈惜春---賈珍の妹で絵心があり大観園の絵図を描いたことがある。賈巧姐---王煕鳳と賈蓮の娘で王煕鳳が他界する前に劉婆に託す。妙玉---有髪の尼僧。聡明にして文筆の才あり大観園内の草庵の庵主。李丸---賈元春の夫である賈珠の妹。一番年上で海棠詩社の代表。
2010.02.21
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「英蓮が行方不明になる」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。紅楼夢の物語は一度見たからと言って直ぐに理解できなかった。私が見た連続テレビドラマ紅楼夢が字幕もない中国語だったので、理解に苦労したのかも知れない。これより簡単に物語の内容を、紹介して行きたいと思うが、出て来る人物の名前を書くのが大変。なぜならば、中国語の簡体字で書かれた名前は、楽天では使えない。また中国語の読み方は分かるが、日本語の読み方がまた苦労する。そんな言い訳をまず先にしておけば、私も気が楽になると言うもの。蘇州で甄士隠の一人娘の英蓮を元宵節(1月15日)の日に家人の霍啓に、娘を託し提灯を見に行かせたが、霍啓が目を離した隙に英蓮が、行方不明になる。霍啓も罰を恐れて失踪する。士隠夫婦は泣き暮らし、また隣の葫蘆廟から出火し屋敷が全焼してしまう。甄士隠は、通りすがりの道士の後を追い、逃げ出す。出火した葫蘆廟には、貧乏書生の賈雨村が寄宿していたが甄士隠と友人関係で甄士隠の、援助を受け科挙に合格し、甄士隠の父が居る地の府知事として赴任。だが上司に弾がいされ数年で罷免され、その後諸国を旅していた折、揚州の林如海より娘林黛玉の家庭教師を頼まれる事となる。 「林黛玉と薛宝釵が上京」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。林如海の妻であり林黛玉の母は病気のため他界し林如海は林黛玉を、妻方の実家である賈家へ送ることを決め、賈雨村に同伴を頼んだ。長安の賈家は大貴族であり栄国邸に到着した晩、林黛玉は賈宝玉と、初めて顔を合わせるが、以前に出会った事があると林黛玉は驚く。その一方で豪商の薛蟠は、妹の薛宝釵を都へ送り届けるため出立の、用意をしていた所へ行方不明になった甄英蓮を誘拐犯が売りに来る。 薛宝釵の兄薛蟠は人に命じ誘拐犯馮淵を討ち果たす。法的な罪は、府知事になった賈雨村が薛蟠を救った。英蓮は薛宝釵により香菱と、名を改め薛宝釵らと共に上京する。薛宝釵たちを呼んだ薛未亡人は、賈宝玉の母の妹にあたり、栄国邸へ出て来たが、薛宝釵の母である、薛未亡人は林黛玉の母親代わりとなり一時期、瀟湘館に住んでいた。 紅楼夢は、複雑に交差した人間関係を理解するとより面白くなる。
2010.02.20
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「賈宝玉と林黛玉が碁を打つ」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。門楼を抜けて正面の右側に怡紅院へ入る内門があり、通霊や、絳芸軒や東廂房、後廂房の4室からなっている。宝玉の、日常生活の場である絳芸軒の東側は宝玉の寝室で、酔っぱらった劉婆さんと板児の人形が置かれてる。その隣は襲人と晴文の寝室で、東廂房は宝玉の静養室である。 賈宝玉の住居である怡紅院の書斎である通霊の中に入ると、賈宝玉と林黛玉が碁を打っている場面の蝋人形と、賈宝玉の、身のまわりの世話をする付人である襲人と林黛玉の付人の、紫鵑だが、林黛玉が上京してきた時に侍女としてついた。写真は通霊で宝玉の書斎で碁を打つ宝玉と黛玉の姿だ。 「驚くほど豊満な女性が増加」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。古来より中国では美人の条件として腰が細く雪のように肌が白い事。また美人には2つのタイプがあり、楊貴妃のような豊満な美人と、前漢成帝の皇后の趙飛燕のような痩せ形の陽柳美人で、紅楼夢でも、薛宝釵は豊満美人で、林黛玉はやせ細った低血圧美人という感じだ。中国人全体像は、ほっそり形の美人を好んでおり、豊満な人は、グラビアなどでは重宝されるものの恋人や妻には敬遠されがちである。 楊貴妃などは別格で多くの皇帝が、細腰を好んだため女性たちは、痩せるために食事も満足に摂らなかったという話が伝わっている。だが今の中国の若い人の中には、日本と同様ファーストフードを好み、驚くほど豊満な女性が増加した。紅楼夢に出演したヒロインも、柳腰の美人が多く採用されて、林黛玉は典型的な柳腰美人だ。
2010.02.19
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「賈宝玉の住居怡紅院」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。炎帝神農氏の子孫の共工と呼ぶ古代中国神話に登場する神の、姿は人面蛇身に朱色の髪を持ち、洪水を起こす水神とされ、天地を打ち崩すほどの怪力をもち、共工は神話上の帝王の高陽と、帝の地位を争ったが敗れ、怒りにまかせて暴れ回った末に、天を支える柱がある不周山に激突したため天柱が折れてしまった。中国の河川が東南方向に流れている理由に関して神話の中に、天は傾き西北が低くなり、地は東南がへ込んでしまっため、女禍が、補修した天は再び破れ、地もひび割れたが、直す神はあらわれず、太古の昔、中国の河川が東南方向に流れるようになったとされる。 写真は、怡紅院の入り口で賈宝玉の住居で絳芸軒など4部屋ある。
2010.02.18
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「全ての因果を悟る」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。賈宝玉や金陵十二釵の彼女らの運命は、太虚幻境の薄命司の、中に納められた「金陵十二釵正冊」に未来の事が書かれていた。賈宝玉には父方の林黛玉と母方の薛宝釵の二人の女性がた。二人は境遇や性格は対照的で、薛宝釵の家庭は商人で裕福だが、林黛玉は父母を亡くし、賈家に身を寄せて生活していた。薛宝釵は商人の家に育ったのか周囲に配慮が行き届くのに対し、林黛玉は過敏で疑い深く、自分の運命に不安を感じ日々泣き暮す。林黛玉は前世の因縁により賈宝玉のもとに生まれ心から尽くしたが、薛宝釵と結ばれる運命にあり林黛玉と賈宝玉は結ばれる事はなかった。林黛玉は一生で流す涙を流し、その使命を終え、賈宝玉と薛宝釵の、結婚の時刻に息を引き取る。賈宝玉は再び夢に太虚幻境を訪ね、全ての因果を悟り、薛宝釵を捨てて出家し行方知れずになる。
2010.02.17
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「封神演義での神々の戦い」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。封神演義でも知られる神々の戦いで世界がボロボロになった時、神話の中では、女禍氏の石を使って天のほころびを補った。その中の使われなかった一個の石を大荒山に捨ててしまう。その捨てられた石は自分の不遇に毎日泣き悲しんでいたという。 小説には僧侶と道士が現れ石の前に腰を下ろし人間界の話をし、その話に興味をそそられ、女禍氏の石は下界に下りたいと頼んだ。この場面は詩が縦に現れ、静かに朗読する所で、場面は変わった。そして通霊宝玉が口に女禍氏の石を入れたまま人間界に生まれ落ちた。後に天上界に帰り、人生遍歴を語ったのが「紅楼夢」の物語である。
2010.02.16
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「プラトニックに徹した」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。1966年から10年間続いた文化大革命で古典の多くが迫害された。水滸伝では宋江を悪とし宋江重ね合わせトウ小平を失脚させた。だが、紅楼夢は毛沢東が「歴史小説」として読むように勧め、毛沢東自身も紅楼夢を手放さなかったと言う事も有名な話である。紅楼夢は貴族上流階級の日常生活が描かれ、登場人物も350人を、超える人々を起用し大きな規模だが、細部まで克明に描かれ、1984年にテレビで放映されてより更に文化史的価値があるとされる。男女の人情を描いた中国の古典長篇小説として恋愛模様が、プラトニックに徹し情感も洗練を極めている点に人気を集めた。
2010.02.15
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「紅楼夢を奨励するほどだった」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。古典小説である紅楼夢は上流階級の賈家の賈宝玉を主人公とし、繊細な神経で涙にもろい美少女の林黛玉と賈宝玉の妻となる、薛宝釵の三角関係の中で物語は展開して行き、物語は中国貴族の、上流階級の生活を描きながら主人公たちの交わりを書いている。ヒロインである賈宝玉、林黛玉、薛宝釵の関わりの中で克明に、描写している。私は中国版の紅楼夢のVCDを何度も見ながら、覚えた人間関係であるが、三国志などに比べると少し難しい。清代末期から紅楼夢を専門に研究する学問を紅学と言うが、この言葉は現代でも使用され文化革命時代の毛沢東も愛読し、水滸伝などを読む事に関しては制限したが紅楼夢は奨励した。
2010.02.14
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