★み~んな愛されるため生まれた★

【救われる前の証し】2

【その1】 からの続きです~

【“カレンダー埋めなきゃ不安症候群”だった私 その2】

子供が幼稚園に上がって、
晴れて自分ひとりの時間が持てるようになった私は、
一日ピアノに没頭したり、フルートのレッスンに没頭したり、
フィットネスクラブに毎日のように入り浸ったり、
コーラスサークルを3箇所もかけもちしたり、
とにかくフリーな時間をなんとか有効に使いたくて、
毎日カレンダーをぎっしりと埋めていきました。
毎日の予定がぎっしりなのを眺めてると満足している自分があり、
予定が埋まっている限りは満足な毎日だったのです。
家事は最低限にして、私は常に外に目を向け、
外向性だけで生きていた感じでした~。

一方子供が熱を出して、何日も看病が続いたりしたら、
自分自身の時間も犠牲にして、
すべての予定をキャンセルして家にこもることが
苦痛で苦痛で…。
でもうちの子は二人とも本当に体が弱くって、
食も細かったので、毎月どちらかが熱を出し、
そのうちもう一人にも移ってしまって、
結局二人とも時間差で看病しなければならないという
悪循環な日々でした。
親元も遠く離れているし、誰も頼る人がいない中で、
二人の子をかかえてアップアップの毎日…。
自分自身時間が思うように取れなくてイライラ…。

そんな中長男が3歳の時、風邪をこじらせ肺炎となり、
それが重症化して肺化膿症という、肺の一部が壊死して
空洞化するという病気になって数週間入院を余儀なくされました。
CRP(炎症反応)24にもなり、それは相当な重症であり、もしかしたら
回復は難しいかもしれないということも医師から告げられ、
パニックになった私でした・・・。
毎日きちんと小児科を受診していたのに…、しかもこの平成の時代に
肺炎で子供が助からないなんて、あり得ないと思っていた…。

熱も41℃近くが続き、24時間点滴で抗生剤を静注投与され続けた後、
奇跡的になんとか回復しかけたところ、
院内感染でロタウィルスに感染(≧∇≦)。
数週間点滴以外、経口での栄養が全く取れていなかったやせ細った体には、
踏んだり蹴ったりでした。また退院が1週間以上延期されるハメになりました。
その間預ける知り合いのいなかった生後1歳半の妹は
一時預かり無認可保育所の中で高熱を出したりして、泣きたい毎日でした。
私は24時間長男の病棟での付き添いで、病院から出られなかったし、
主人は多忙な仕事を休めるはずもなく、本当に極限の状況だった…。
退院後も、定期的なCT撮影と、経過観察が続き、
ちょっとでも風邪ひいたらヒヤヒヤの毎日。

結局3ヶ月後に引いた風邪がきっかけで再発し、
さらに彼の肺の壊死部分は増大してしまったのでした。
次に再発してしまった時には、肺の摘出手術の可能性も示唆されました。
京都に住む親からは、「北海道なんかに引っ越したから、
そっちの気候が体に合わないのよ…」と言われ、
どうしようもない中で、
長男の体を思って落ち込む毎日でした。

それ以来、長男がちょっとでも咳でもしようものならヒヤヒヤ…。
旅先での沖縄で、兄妹二人揃って40℃近い熱を出された時には、
台風の暴風域で地域の小児科は全部臨時休診となってしまっていて、
遠くの総合病院で点滴を受けるハメに…。
北海道に引っ越して以来、年1回は南国の空気にふれたい~と
毎年訪れていた沖縄では、毎年誰かが熱を出して
病院にかかっていたので、しまいには、
沖縄の調剤薬局のおばさんからも覚えられてしまったくらいでした。

いつ子供が熱出すか…という恐れの中、今までの空白の
予定を取り返すべく、またまたカレンダーをぎっしり
埋めていく毎日の始まり始まり…。
とにかく、外に出て誰かと会っていないと不安で、
孤独で、社会から取り残されていきそうな極端な思いに
支配されていました~。

あれから何年もたって、子供達も入院ざたになるような病気はしなくなりました。
あんなに食が細かったのも見違えるくらいに、
よく食べてくれるようになりました。感謝だなぁって思います。

でも、あの頃の極限の状況がトラウマになってしまっているのかなぁ…。
子供達も元気で学校に行ってくれて、
自分自身の一人の自由な時間がとれる環境にありながら、
何も予定が入っていない状態が、もったいない!
と思ってしまい、躍起になって予定探しをしてしまう私です。


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