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老子に学ぶ その③

なのはな2
    老子に学ぶ
 その3

 次に、老子のもう一つの柱と思われる『分けないこと』について考えてみようと思います。
 これは物には二面性があるので分析したり分解したりしない、そうしようものなら本質を取り逃がしてしまう、という教えです。

 善い悪い、大きい小さい、重い軽い、美しい醜い、幸不幸、冷温、等々これらは片方だけでは存在することができません。互いに補いながら存在します。
 重いと軽いを例にとってみます。10㎏の重さの荷物があるとします。これが重いか軽いかは判断できないでしょう。幼児にとっては重いだろうし、大人にとったら軽いのかもしれません。しかし大人でも人によったら重いということになるでしょう。このように絶対的な重さは存在しないし、軽さも存在しません。軽いがあるから重いが存在します。

 もう一つ。物を盗ることはことは善いか悪いか。ということについて考えてみます。ある男が畑のスイカを盗ったとします。それは悪いことでしょう。でも、彼の目的が路上で瀕死の子どもを見て、何とかしてやろうと思い近くにあったスイカを失敬したとします。この場合はどうでしょう。賛否両論あるのではないでしょうか。さらに彼は畑の周りを見渡し、持ち主がいれば断ってスイカをもらおうと思ったけれど、そこには誰もいなかったならば・・・・
 このように、絶対的な善悪も存在しません。ぼくはこのことを老子に学びました。

 話は変わりますが、ぼくが以前読んだ「般若心経」というお経の解説書に、面白いことが書かれてあったので紹介します。「般若心経」は色即是空という言葉が出てくる、例のお経です。
 その色即是空を説明するのに、扇子を例に出して『扇子とは一体何であろうか、よく見ると表に紙が貼ってある、その紙ゆえに扇子と呼ばれるのだろうか、いや紙はあくまで紙であり扇子ではないとすれば、その下に使われている竹でできた骨組みだろうか、いや違う、そしたら扇子とは何だろう、扇子を求めていくと何もないではないか』という話です。

 扇子とは何か追求していくと、扇子そのものから離れてしまって実態を逃してしまいます。扇子は現にあるけれども実態をとらえることができない。
 仏教でいう「空」の考え方にはいろいろなアプロ-チがあると思いますが、この扇子の話は「色即是空」(実体のある物は即ち空である)ということをよく説明しているような気がします。
 ニュアンスは少し違いますが、老子も同じことを言っているような気がします。




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