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8 バルセロナにて
バルセロナにて
ピレネー山脈を越えると何もかもが違っていた。そこは、これまでの緑の大地から赤茶
けた山々が幾重にも重なり、旱魃に強いぶどうの木だけがわずかに緑を添えていた。
ここが、かつて栄華を誇っていたスペインである。どこにそのようなエネルギーがあっ
たのか、そのかけらでも触れることができれば、と思い心は浮き立った。
堀田善衛は「スペインには生を肯定する何かがあるようだ。そして、何年かおきにドン・
キホーテを生み出したセルバンテスとか、ゴヤ、ピカソのような巨人が、突然出てくる基
盤がある。」と言っている。
今回の旅行では、北欧に行けなかったが、行った人の話では、北欧には酔っ払いが多い
とのことである。それもちゃんと背広を着た身分的にも経済的にも一応安定しているよう
な中年紳士が、昼間から酒を飲みすぎて、道路上とか公園などに動けなくなっているとい
うことだった。
スペインでも酒飲みは多い。朝の8時前に路地を散歩していたとき、開いたばかりの店
の中で、何人かの客がワイワイ言って飲んでいた。仕事に行く前に、ちょっと1杯という
ふうに飲んで行くらしい。しかし、泥酔して道に寝ころんでいるのを見かけたことはなか
った。
北の国と南では酒の飲み方が違うようだ。北では、酒にやり場のない身を任せているよ
うな気がするし、南では底抜けに明るい。肩を組んで大声で歌っているとことを見ると、
ここでは、酒は生活の潤滑油のようだ。
スペイン人はまた、よく話をする。東京でもパリでもそうだが、地下鉄というのは無言
で来て無言で過ぎていく。車内でも人々は話という話はせず、自分の降りる駅をじっと待
っている。バルセロナでは違った。主要幹線は非常に幅が広く、電車も大きい。それがガ
タゴトとやかましく走る。しかし、それ以上に中に乗り合わせた客の話し声は大きい。途
中で乗ってきた客が、それに同調するかのように大声を張り上げて話すのを聴くと、やか
ましさを通り越して愉快になってしまう。
スペインには孤独という言葉はないのではなかろうか。老人を見ているとそれがよくわ
かる。
フランス以北のわれわれがまわった国で感じたことは、老人が孤独だということだ。朝
も早いウイーンの公園で、今にも雨の降りそうな寒空の下で、1人の老女がベンチに座り、
なにもしないでじっとしていたし、パリの公園では、雀や鳩に餌をやったり編物をしてい
た。
スペインでは、公園で何人かの老人が玉をころがしてゲームをしていたし、カフェでは
常連とみられる老女がそこのマスターと堂々と口論していた。われわれが近くに席を取る
と、前日あったガス爆発の大惨事を伝える新聞を指し出して、しきりに説明してくれた。
夕方、涼しくなる頃、広場でその地方に伝わる民族ダンスが行われるので行ってみた。
協会の前で10人くらいで構成されたバンド演奏が始まると、広場のいたるところに輪を
作って人々が踊りだした。その複雑なステップは、音楽のリズムに合っていないようで、
実は微妙に合っていた。輪の中を見ると、買い物かご、通勤かばんが山積みになっており、
行きずりの人たちが踊っていることを示していた。
スペインは確かに経済的には豊かではない。しかし、人々を見ると何をするのにも楽し
そうに見える。仕事を終えて、家路に着く人々の後姿は明日という言葉が「明るい日」と
いう感じがする。
日本はスペインよりも進んだ文明国である。しかし、本当の意味でスペインより豊かで
あろうか。
人間は物を作ったり、商ったりしているうちに、いつしか利益を求める怪人「法人」と
いうものを作り出した。その組織は、止まることを知らぬように、益々巨大化していった。
組織を動かすには役職が必要になった。人が人の上に立ち、指図をしていく。組織が巨大
化するにつれて、人の役割は細分化され、自分が一体何をしているのか、会社における自
分の存在は…と問う暇も与えられず、コンピューターを始めとする多くの機械に使われる
ようになっていった。
確かに、われわれの生活は便利になたし、楽になった。しかし、われわれは、組織の中
での人間関係と間違うことの許されない仕事に心をすり減らすようになった。
北欧では、いち早く人間性の回復を求め、高福祉による生活の安定を得たし、休暇も十
分にとることもできるようになった。だが、個々人の素朴な疑問とか声にまともに応える
こともなく、それらは確立された制度に吸い込まれていった。当たり前となった核家族制
度が、老人を世の片隅に追いやることも省みずに、生活するのに十分な年金を与えること
で、国の責任が果たせるものと思われるようになった。
孤独は老人から、だんだん若い層に降りてきた。社会の仕組みが細分化し専門化してい
くうちに、人々に共通する関心事が少なくなってきた。世の中に評論家という商売が生ま
れ、彼らに情報の解説、評価は任されるようになった。
考えることもいらなくなった人々は、次第に口数も少なくなっていった。自己表現の場
とされる芸術でさえ、一部の芸術家といわれる集団にその評価が任せられ、ますます人々
から離れていった。
科学はすでに神までを否定してしまい、もはやとりすがる絶対的なものは人間の世界か
ら消された。現代文明のもたらした「不確実性の時代」の到来をみるのである。
われわれは、あまりにも「もの」を追い過ぎていたのではないだろうか。過去を振り返
ったとき、古きよき時代を懐かしむのは、「もの」とそれに伴う「こころ」のバランスがう
まく調和していたからだろう。そこには、「もの」のの中にちゃんと価値の世界を築くこと
ができていた。今の時代は「こころ」があまりにも置き去りにされすぎた。時代遅れにな
るというだけで、流行の波に乗ることが精一杯だった。そこには「もの」に意味付けする
余裕がなかったのだ。
しかし、だからといって今、人間性が失われてしまったとは思えない。人間性の喪失が
叫ばれることが、人間の犯したあやまちに気づいているのだから。
われわれに今必要なことは、「こころ」を「もの」の進歩した段階までに高めることであ
り、そんな意識の上に立つ人間関係を作り上げることではなかろうか。それには、もう一
度自分にかかわる知識や情報を吟味しながら、自分の中にしっかりと位置付けすることが
大切であり、そこに本物の文化が育つ要素が生まれる。
バルセロナに来て、馬車が町によく似合うのは、「もの」と「こころ」の較差がまだ少な
いからであり、素朴な「こころ」が生活と密着しているよう感じられる。
堀田善衛のいう巨人の出る基盤ができているということは、それらがよく調和している、
本来の社会が存在しているということだと思う。なぜなら、巨人とは、しっかりと生活に
密着したときに生まれるものであるし、最も人間的な人のことだから。(終)
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