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森田療法の巻

森田療法の巻
「とらわれからの解脱」(柏樹社) 宇佐晋一・木下勇作著


 とにかく湧いて出てくる思い(雑念)のほうはほったらかしにして、一方通行的に
いたします。それをそのまま、あるがままと言います。 

 神経質になるということは症状を相手取ることです。今、新しくご自分の問題として
言葉(分別)を使ってしまうところに神経質にひっかかった状態が成立つんですね。
だから、心に言葉を付け加えなかったら、インスタントに治るのです。

 心のほうにますます工夫が加えられて、自分の心のあり方を一層安定させようとい
うことはもう目指されないようにされますと、途端に全治します。

 自分の処理ということを抜きにして、実生活上のことを、それこそ次々になされば
それで満点で、世間の人をはるかに超えています。

 つらい思いでいられる時は、自分の方に骨折りがとかく向きがちです。まず何をお
いても自分の今の状態が、しっかりした充実した満点の状態になることが先決問題の
ように思えたでしょうけれども、そのままほっといて、直ちに、いきなりの実生活が
始まるところに全治がとたんに成立つのです。

 サイダーを飲んだときのようなスカッとしたというあのような気持に関係したもの
は全治に関係ありません。悲嘆にくれている絶望のさ中にでも全治はありうるのです。

 こんな暗い気持でこんな情けない惨めな思いで全治がありうるか…
 いついかなる時にもまさに、瞬間的な全治のみしかありません。したがって全治と
いうものは、全くお膳立てのないもので、どういう心の状態になったら、どういう
考えになったら、というように心の内側に何かの条件を問うということが、もう
すでに全治からの脱線です。

 つまり最も楽な、もっともひっかからない治った状態というものを比較してしまうと
ころに起こるんですね。しかし無分別というのは、それを一切比較しないというとい
う状態です。で、もっぱら実際の生活を次々となさるその場その場でこれこそインス
タントに無分別の状態というのが自分の中に出来上がります。

 全治というものは、あると思ってそれを工夫の対象にするというふうになっては
失敗です。

 ともかく心に湧いて出てくるものは内発的なものですから、良し悪しがなく、
したがって責任もなにもいらないわけです。

 心はいろんなことにひっかかったまま、進んでいる状態というのが引っかか
らない状態なんですね。      




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