いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2007.08.27
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 気功師にも「精神的成長」や「立派」(崇高なイメージ)を期待されますね。

 「気」による治療(?)には、正直「気功師は特別な存在である」とした考え方の持つ資質がとても大切に感じます。患者さんが気功の世界観にドップリ漬かり(頼り)易くなりますからね。医学においても、医者と患者さんにその様な関係が結べた時、変化が顕著に現れると感じます。ただ、それぞれに依存の懸念とジレンマも感じています。

 小さい頃から自分の感覚を矯正されない環境にあることも、その能力を得る大切な要素だと感じますが、「苦行」や「儀式」、「大病」・「臨死体験」などの極致体験等、ある意味「崇高」なイメージの経験によって能力を得るなど、この世界観の入り口にも「崇高」が付いて回っているように感じます。

 いずれも自分の固まってしまった世界観を緩める良いきっかけになる体験と感じますが、私は「痛い」や「怖い」は苦手なので後者は勘弁です。(笑)ちなみに母は、「大病」をきっかけに、明確な「気功」の能力を得ています。

 人の経験・理想から確信が強まる「精神的成長」によって、全ての能力は誰にでも備わると感じますが、単に能力を備えるのに、皆さんがおそらく持っている崇高なイメージの「精神的成長」が、必ずしも必要とも感じません。ただその能力によって他人や自分を潰してしまわない様に、そのイメージの「精神的成長」が必要になると感じています。

 人の根本は、どんな周りからの刺激でも変えられないと感じます。崇高なイメージの「精神的成長」とは、「経験」によって、他人の理想とする崇高なイメージを理解し、自分の理想とするそれと折り合いをつけながら、自分に着重ねていく作業のように感じます。ある意味、人前で常にそのイメージを装える力こそ「精神的成長」といえるように感じます。

 本来「崇高」とは、あらゆる過程を経ず、元からモノや人に備わる気質を指すように感じます。ただ、個人的には、「精神的成長」などのプロセス(努力)を指してほしいと願います。ただ、「崇高」な本人からすれば、自分がしている事に対して、「崇高」や「努力」の観念も無いでしょう。テニスを好きな人がテニスを楽しむように・・・。(07.9.29著)

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 TVで僧侶が「精進料理」を作って食べていました。

 肉や魚まで本物そっくりに他の食材を遣って作るんですね。確かに肉や魚は食べていませんが、肉や魚を食べたいという「想い」は引き摺っていても修業には差し支えないのでしょうかね。ちょっと私にはしっくり来ませんでした。

 マフィアの映画を見ました。

 彼らはとても信仰深いようです。人を殺すと教会にいって懺悔をし、罪を祓ってまた人殺しに出掛けて生きました。そしてこの手のマフィアモノはアカデミー賞を受賞したり、色々な国でとてもウケが良いように感じます。

 宗教にまつわるものはとても煌びやかで美しいですね。

 そうとうお金も掛かっているでしょうね。また「存在の平等」的価値観において、僧侶に位(階級・権力)があるのもちょっとしっくりきませんね。ただ私も「煌びやか」や「自分より高位」なモノに「崇高」を当てたくなるのも事実です。

 私も「信頼」を置く対象には、自分と同じような失敗や過ちを経験している事を望みますかね。同じ経験をしていれば、おそらく自分と同じような「想い」を想像し易いと感じるからでしょうかね。ただ、その相手も「結局自分と同じような失敗や過ちを犯してしまうんだ」的不信感から、「崇高」を置くことは難しく感じます。

 私が感じる「崇高」なイメージは、初めから完璧で失敗もないモノに当てられますかね。人物に対しては、特に恵まれない生い立ち(家系)などには、後に「徳」を積んでもどうしても「卑屈」的なモノがチラついてしまい、「尊敬」は置けたとしても「崇高」は置きにくく感じてしまいます。時には「経験してみないと・・・」自体に不信を感じてしまいますね。

 歴史的に「崇高」される人物も、恵まれた生い立ちが少なくないと感じます。私も時に人間以外の存在(神や時にはモノ等)が必要と感じます。そして時に「崇高」は、「ワガママ」を通す名分として使われているように感じます。(08.6.18著)

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 「神様」ってどんな存在?

 「純粋な善」とか?「純粋」なモノに「善・悪」の区別があるのですかね。「善・悪」含めて、ひたすら自分の欲求に素直なモノこそ「純粋」のように感じますが。「善・悪」の区別(判断)をするとなると、少なからずそのモノの中にその両方を備えていなければならないように感じます。そしていずれも特に「人」と変わりないように感じますね。

 「善・悪」の判断?

 時に「愛する」ことは何より尊い事(善)のように言われますが、お互いに恋人や所帯をすでに持っていて他を「愛する」とその価値も逆転(悪)してしまいますね。また少し前まで「常識」(善)と言われていたモノが、今では「非常識」(悪)になっていることもざらですね。その切り替えは人間以外の意識(神様など)によって成されてきていますかね?

 もっとも人智(理屈)を超えたモノが神様の定義とも感じますがね。そして他世界観に触れることで、今まで信じて(守って)いたモノ(自信)が崩れ、体裁を整えながら表向きその世界観に便乗して生きていることも少なくないように感じます。利害関係(欲求)の同意ですか。(08.7.10著)

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 「勝ち組・負け組」という言葉も定着してきましたね。

 他人に「人とは・・・」を説くような占い師も多いですが、「成功」という言葉は、結果的に沢山のお金を手にした人間に当てていることが多いように感じますかね。また他人に「人とは・・・」を説くようなスピリチュアルな人も多いですが、「高貴な前世」を持つ人に、結果的に現世で表立って活躍しているような人達を当てていることが多いように感じますかね。

 最終的に「素晴らしい人間」は、お金や見た目の派手さも伴っていなければならないようですね?ただそういった人の中には、例えば他の人よりワガママだったりしてあまり人間的に尊敬も置き辛い人も少なくなかったように感じますがね。そして「金持ち」にはどうしてもあまり良い人間のイメージも当て辛かったりしますかね。嫉妬は自覚していますがね。

 世の中に飢えや貧困で困っている人が沢山居ることを知りながら余裕のある生活を頑なに続けている訳で、その神経を疑いたくなることもありますかね。ただ歴史的に「崇高」な人物も「恵まれた生い立ち」が少なくないように感じますし、金銭的余裕がないと「卑屈」が生まれたり、「崇高」と呼ばれる程のリスクの大きい人生の選択も難しいかも知れませんかね。

 本来「崇高」とは、あらゆる過程を経ず、元からモノや人に備わる気質を指すようにも感じますし、また「煌びやか」の方が「崇高」を当て易いですかね。人が目指す姿であれば「煌びやか」であって欲しいという願望もあったりしますかね。

 またどんなに素晴らしい訓えを説いて廻った神の子も、迫害されたり、終いには殺されたりして多くの人に受け入れられなかったりしましたかね?今の常識的な善悪的感覚で感じれば神の子に共感も多く集ると感じますが、彼の訓えを拒んだ多くの人達も、単純にその訓えでは広い意味で「生き辛い」と少なからず感じたからではないですかね?(09.12.9著)

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 「女神様は嫉妬深い」

 とある神様が祀られている島は女人禁制だそうです。祀られている神様が女性なので、人間の女性が立ち入ると嫉妬をして、良くないことが起こるようですね。そもそも神様に性別があること自体にもちょっと違和感も残りますし、その神様を人として置き換えてみると尊敬も置けませんが、それでも神として尊ばれてしまうのですよね。怒らせると怖いですかね。

 結局神様も自分の気に入らないことには、天変地異など大きな力を持って人に制裁を加えるって事ですかね?増しては人間の女性への嫉妬が原因なんて・・・「ワガママ」ですよね?また世界には戦いを司る神とかも居るようで、人の言う「善悪」的価値観を神様には当てはめられないようで、とにかく人並はずれた(制裁)能力を持ったモノが神様のようで・・・

 こうして見ると、神様も中途半端な存在で減滅すら感じ、逆に都合の良いヒトの創造物のようにも感じますが、ヒトよりも上に存在を創ることで自らの抑止力となり、また逆に祭事などのように時にヒトから責任を外し、ヒトの「ワガママ」を体裁よく排出させてくれますよね?良くも悪くも「信じる」ことで世の中動いているように感じますし、大切な存在ですかね。

 また最近歴史上の人物を敬うようなブームがあるようですが、特に戦国武将など、当時の価値観の違いやその高い志を差し引いても、割と安易に多くの他人の命を浪費していたようにも感じ、個人的には尊敬もおけませんがね?(10.5.30著)

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 ご利益がありますように・・・

 ヒトはモノに何か力の存在を期待しますよね?少し反れるかもしれませんが、奇跡的に災害を免れたモノだったりするとそんな期待もしたくなりもしますが・・・例えば周りの建物が全て壊れてしまったのに、ある祠だけが奇跡的に残って・・・確かに私もそこには日常・偶然を超えた何かの関与は感じますかね?「力」と言いますか・・・「想い」ですかね?

 ただその祠を造った人は災害に巻き込まれて亡くなってしまったりすると・・・あれ?本当にそのモノに何かしらの力があるのならば、自分(祠)を犠牲にしてでも少なくとも造った人位は助けないと・・・それこそがご利益のようにも感じますが・・・ね?そのモノは残ってもヒトが無くなってしまったらご利益としては本末転倒にもなってしまいそうですがね?

 また、最近はパワーのありそうなモノや場所を携帯電話の待ち受けにするだけでご利益を得られるそうですが・・・例えば神社などにおいては、元々は願いを叶える為には面倒(苦)な儀式を行ってきたと感じますが、そのうちに小銭を放り込んで手を打ってお辞儀をするだけになってしまい、今では写真を撮って持ち歩くだけで良くなってしまっているようで・・・

 チベットなどでもお経の書かれた筒状のモノを1回転するだけでお経を1回唱えた事になるようですし、その時々で色々な合理的(楽)な解釈に変えられてしまい、逆にバチでもあたりそうですが、私もご利益を得る(想いを叶える)にはいかに自分を納得させられるか(想い込むか)だと感じますのでその方法・解釈も様々で良いと感じていますがね。(12.1.1著)


姉妹日記:  「不思議」 「気」  / 「索引1」 「索引2」 「索引3」





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Last updated  2012.11.17 17:38:45
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