いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2008.07.25
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 私もテレビに出演するような職人的人物を何人か上司に持った事があります。

 彼等からは共通して、とても「自信家」的気質を強く感じられました。とにかく一度こうと決めると多くは「理屈無く」突き進むんですね。そして私の感覚において特にその「自信」に結びつくような根拠を感じられることも少なかったですね。また個人的にはむしろ人間的に参考にしたくない気質を多く備えていたようにも感じています。

 ただ私のような気質の人間には、その自信と直向さ・勢いに「安心感」や「手伝ってあげたい」的気質をかりたてられてしまうんです。なにか起こりそうでワクワクしたり、時にはお金儲けの臭いがしたりと、気が付けばその人達の周りには人が集り、奉られるようなことも多いですかね。時に他人の「助け」を得られやすい気質でもあるように感じます。

 私の中にも時々顔を出します「ワガママ」という才能(気質)にも、「能力」(特に強い自己主張系の能力)との強い因果関係を感じています。多くの人は、少なからず常に周りの目を気にして「気」を遣い、目的の事に集中しきれず、「気」を分散させて(バランスをとって)いるように感じます。

 「ワガママ」気質の強い人(天真爛漫や無邪気なども含め)、またその気質が顔を出した時、周りに対して遣っている「気」を、目的の事により多く注ぐことが出来る分、通常を上回る成果を上げられるように感じます。「天才」や「サヴァン」と呼ばれる人達からも似た感覚が伝わってきます。「自閉」も自分に集中する1つの形のように感じられます。

 ただこの気質の人は、その表向きの自由さが嫉妬を受けたりして、ちょっとしたきっかけでも他人の信頼を裏切ったり、「想い」の細かい負の変化に鈍感になって周りの不満を蓄積させ、通常以上に反発を受け、自分自身を潰してしまうリスクを感じます。最近有名人達が受けているバッシングの原因も、品格云々以上にそういった嫉妬的質を強く感じられますね。

 また例え偉業を成したと言われる人であっても、「ワガママ」を通した結果には感動は薄れてしまいます。人並み以上の能力を身に着けた人には、その能力(自己主張)を遣う目的の場面以外の人前では、自・他を守るためにも普通の人以上に皆が持っている崇高なイメージの「精神的成長」を装ってでも持ち合わせることが特に日本では望まれているように感じます。

 ただし、そこには極端な気質の使分けが必要と感じ、少なからず能力を抑えこんでしまうジレンマも感じます。(07.9.1著)

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 最近各分野で才能のあるとされている有名人達が、強いバッシングを受けているようです。

 例えば相撲において、とても強い横綱が「品格が足りない」といったバッシングの対象になっていますね。批評家達の話によれば、元々相撲の最高位は大関であったらしく、その言動は相撲界に限らず多くの人に影響を及ぼすことにより、強さに人間的品格を加えた更に上の位として横綱が設けられたような話を耳にしました。

 「横綱は勝って当たり前!」で、そこに+α(他人を想いやる・自己自制的精神の強さ等)が求められているようですね。元々「神事」でもありますし、他人の目を強く気にする古い日本特有の美的感覚もあり、他のスポーツとは一線を引きたいのでしょうかね。ただ多くのスポーツも元は少なからず「神事」的な要素のモノから変化してきていると感じますがね。

 また祭りなどの「神事」には、日常生活における抑圧を解き放つ役割のようなモノも感じますかね。「神事」には争いや暴力的で正気ではない内容のモノも少なくないですよね。「神」の名の元にガス抜き的「ワガママ」を体裁よく吐き出す場といいましょうか。究極には宗教戦争など、時には「神・崇高」などは、「ワガママ」の発散を正当化する役割も感じますね。

 そして確かに「何が何でも勝つ」的勝利への執着も一流と呼ばれている選手から感じる大きな要素ですし、見る側も「強ければいいじゃない」的解り易い満足感への欲求も感じます。私も基本はそうですし、また私が強さに「品格」を求めるのは、「ワガママ」・「偉そう」・「金儲け」的なモノを感じたときの「嫉妬」が少なくないようにも感じます。(08.10.21著)

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 「頑張って!」という言葉も最近敬遠されているように感じますかね。

 またあまり「我慢」を強いず、「楽」を求めたりする行為が見直されているように感じます。ただ時には心の深い所で「楽」を得るために、体裁整え的に心の浅い所で「苦」を背負ってしまったりしているようにも感じます。私も体裁を守るために具体的にはそこに触れられませんが・・・。そして周りにも少なからず「苦」のシワ寄せが出たりしているように感じますかね。

 また表向き「苦」を選ぶ人は比較的いつも「苦」を選んだりその逆だったり、その選択には気質によって偏りも感じますかね。仲間内で一番頑張って(我慢して)いる感覚を得られないと不安を感じる人もいるように感じますね。そして「たまには逆の立場にもなってみたいよ」とかいいながらもそれぞれの立場でそれぞれの欲求(優越感等)を満たしていたり・・・。

 いつも「我慢」する側の人がストレスを募らせて精神的に悪い状況を背負いがちに感じますが、むしろいつも「我慢」せずにいる側の人ほど「我慢」に免疫が無く、前者よりひどい状況に陥ったりするようにも感じますね。同様に普段から本当にネガティブな人は、なんだかんだ言って逆境に強いようにも感じますね。心に準備が出来ているといいますか・・・。

 ただ、いつも「我慢」する側の人も、長いことそこに気付いてもらえないと、悪い形での主張が現れてきたりもしますかね。私は今でも「頑張って!」が一番力を貰える言葉ですかね。ただ使われるシチュエーションによって「もっと頑張って!」はカチンッ!、また「よく頑張ったね」にも「俺はまだまだこんなもんじゃない!」的にカチンッ!とね。(08.11.29著)

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 皆さんは「寛容」ですか?

 いよいよ「トラックバック」まで拒否設定に・・・設定の仕方が分からなかったこともありますが、困った書き込みに対してその都度消去することもちょっぴり気持良くて・・・でもさすがに飽きました。コメントも拒否にしましたが、愚痴やストレス解消的ワガママな内容にも何も言わず見守って頂いた方々には感謝もありますね。私はつい諭したくもなりますから。

 「寛容」というと私の中では広い意味で「自分と異なるモノを受け入れられる」ようなことですかね。また他人の失敗を許したり、時には諦め的に遣ったりもしますかね。ただ私に限っては、いずれも「寛容」になることによって相手より優位な立場になり、安心や優越を感じていますかね。言葉は体裁よいですが、気持良さを求める他の行為と変わりなく感じています。

 「次元が違うんだよ♪」・・・他人に言われると腹が立つ言葉ですよね。ただ私も時にこの言葉を遣って容易に立場を優位にしたりしていますかね。「次元」とか言うモノの設定こそその人その時々で勝手・曖昧なモノのように感じ、確かに上下的な設定ばかりではありませんが、私に限っては、どんな時であれこの言葉には少なからず「上下」が含まれていますかね。

 私は次元が低い?理屈によって深く緻密に構築され、それを「次元」のようなカテゴリーに分けるようにして考えられたモノよりも、時に前記した「寛容」の「気持良さを求める他の行為と変わりなく・・・」のように境(次元・カテゴリー)を取り除いて単純にしてしまったモノの方が、「次元」が高くなるように感じられてしまうことも少なくないように感じますかね。

 そして理屈によって難しく構築しても、究極は逆転的発想に留まるわけで、それを繰り返して議論するうちに、いつの間にか立場が入れ替わってしまったり・・・。また口に出さない「想い」も、単純な「欲求(ワガママ)」的なモノと、その「欲求(ワガママ)」を体裁良く満たすためにある程度理屈で(複雑に)構築されたモノが感じられますかね。

 個人的には素直に(浅く)感じようとすると逆に後者(複雑)な方に、深く感じようとすると逆に前者(単純)に繋がってしまう感覚もありますかね。本質は単純な欲求と感じますので、ある意味深く考えたことは心の浅い所に置かれるように感じます。理屈を盛って体裁よくしたことであれば、無意識にも人目に付き易い所に置きたくもなるでしょうからね。

 そして初めから前者にふれてしまうと、大概は機嫌をそこねてしまいますかね。(09.7.22著)

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 「自分を棚に上げてよく言うよ!」

 私はとても短気で、ちょっとしたことでイラっとしてしまうのですが、それ以上に冷めるのも速いので感情を表に出す暇も無く、周りからは穏やかな人に見られているように感じます。イラっとした瞬間に「本当にお前(自分)は今まで一度も他人に同じようなことをしたことはないか?」とか「これからもすることはないか?」とか自問してしまうのですかね。

 同時に何人もの自分が現れてそんな遣り取りをしたり、自分の怒っている姿が浮かんで情けなくなり、気持ちがなえてしまうんですよね。ただ本来、世間で常識や正義と確信を持っているモノであれば、例え今の時点で自分には出来ていなくても、それとは別に主張してしまっても構わないと感じますけどね。皆が共有する「良いこと(理想)」なんでしょうからね。

 ただ皆が共有する「良いこと(理想)」であれば、あえて他人に言われるまでもないことでもあるんでしょうかね?解っていることを他人に言われることほど腹が立つこともないですからね。なかなか欲求には勝てませんかね?最近特にTVなどを見ると政治家や検察などのエリートと呼ばれる人達ほどこの「棚上げ」的才能(鈍感)が大切なようにも感じますね?

 「私は運がいい♪」・・・何回も事故に遭ったにも拘らず奇跡的に無事であった事に対して知人が言います。「不幸中の幸い」的な意味合いもありましょうが、本来「運」が良ければ事故自体に遭わないように感じますし、多くは自分の過失らしく、周りには不運を与えていることでしょう?場合によっては不幸の中で「不幸」が棚に上げられてしまうようです。

 無意識なミスの誤魔化し・自身の慰めも感じますが、不幸な目にあって初めて幸せを実感できたり・・・(10.11.27著)



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Last updated  2012.10.21 12:07:11
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