いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2008.09.24
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 基本的に、その「世界観」特有の力を多く受けるには、その「世界観」に出来るだけドップリ浸かる事が大切に感じます。

 ゆえに、ある程度のその世界観に対する「信頼」というモノも大切と感じています。 TVなどに出て、能力を示したりするのも初対面の人から「信頼」を得る1つの手段でしょう。しかし、私の母の気功治療には、それがなくても全く初対面の方でも変わらず変化が表れます。

 母とも少し話したことがありますが、そこには、「クチコミ」という信頼のおける人間間の強い「想い」の連鎖を感じます。少し意地悪い言い方に変えると、「信頼をおける仲間から外れないための気遣い」と言う意味合いもありますかね。そこにも少なからず治癒との因果関係を感じます。ただ母には、それとは別に他人の信頼を呼び込む能力があります。後ほど・・・

 また、私がとても注意している言葉の一つが、その「信じる」(信頼)でもあります。一見とても素晴らしい言葉で、前記もした様に、とても強い「気」(力)を背負う資質を感じます。しかし、それだけに「言葉」にしたとたん、本当に責任感の強い人にとっては、何よりも重いプレッシャーとなります。

 そして、そのプレッシャーに負けたり、単に気が変わったりして期待にそぐわない結果になると、「信じる」が「裏切られた」という、より強い「想い」に変化したりします。そこから、さらに「恨み」や「妬み」に進むと、人の存在も潰すほどの「想い」(力)になると感じています。得てして人は負のイメージの「想い」の方が容易に強められる様です。

 また、スポーツなどの実力差がある勝負などにおいて、実力の上の人が「勝って当たり前」的プレッシャーを感じ(負のイメージの「もしかして(想い)」を強め)、同時に実力の下の人が「負けて元々」的リラックスを感じ(正のイメージの「もしかして(想い)」を強め)た時に、想いもよらない番狂わせが起こったりするように感じますね。

 「信じる」(期待する)は、良い意味で責任に「鈍感な人」には良い後押しの「力」になりますが、悪い意味で責任に「敏感な人」にとっては、「信じない」(期待しない)事が、逆に良い後押しの「力」になったりもする様です。一個人が感じた「良い」イメージの事が、全ての人の「良い」に常に当てはまるとは限らないようです。

 「文字」や「言葉」のニュアンスは、遣う人(特に受ける側)それぞれの微妙にズレた「世界観」や、その時の精神状態によって不安定に変化し、「想い」に影響する様に感じています。 よって私は信頼しきれません。ただ、「文字」や「言葉」には「ワガママ」(欲求)を通す言い訳的質を感じます。だとすれば不確かで信頼しきれないで良いのかもしれませんね。

 そして「他世界観」に関しては、「信じる」よりも「共感」し、時には楽しむように一時的にその世界観にドップリ浸かってみるような感覚で良いのではないでしょうかね? (07.7.14著) 

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 討論番組で政治家達や専門家がかみ合わない議論をしていました。

 相手の発言中にも拘らず自分の意見を被せたりしていましたが、自分は全て把握していたり、皆とは違った考え方が出来るとかいう自慢を含め、単に自分の意見(主張)を吐き出すことで満足感を得ている人も少なくないようですね。そして特に反対でもない意見に対しても過剰に反応して自分を守るように何度も同じ議論を繰り返しているような人もいたようです。

 私も自分の主張が相手に理解されている感覚を得られないと、どうしても相手の発言で終わらせられない、ある意味負けず嫌いの気質が強くありますね。もどかしさもありますが、相手の主張の内容よりも自分の主張を理解させる一方の議論をしてしまうこともありますかね。普段の生活においても人が話をする時は必ずしも意見や答えを求めているとは限らないようです。

 また今の総理は庶民的でなく失言も多いようですね。ただ政治家の本質に正直さを強く望みますよね?おそらく本音(正直)が出てしまっていることも少なくないと感じます。そして時に私は、あの強引な「言葉」に強いリーダーシップを感じ、安心感を得ているのも正直な所でして、また庶民的でない環境で育ったために培われた気質によるモノのようにも感じます。

 確かに聖職的政治家のイメージから考えれば元々の人間性に違和感もありますが、皆(様々)の気持ちを本当に理解できる人に強いリーダーシップ(決断)が取れるのか疑問も感じます。自分の中にジレンマも感じてしまいます。そして「言葉」は本音が伝わらないから安心して付き合えることもありますかね。「言葉」は色んな意味で大切と感じますね。(08.11.22著)

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 最近の若者は言葉が乱れていますかね。

 「チョ~○○」も大分耳に慣れてきましたかね。記憶が正しければ、私が中~高校生だった頃にチョ~流行った漫画がきっかけではないですかね。(Dr.○○ンプでしたかね)その頃から、私よりもう少し下の世代が遣うようになったように記憶していますがね。ただ昔から「超大型」とか「超○○級」とか遣われていましたよね。名詞の前に付けるのがルールとか?

 付けたことで違和感がある名詞も少なくないと感じますかね。特に遣い方に違いも感じませんがね。であるならばその人それぞれの感覚次第で何に付けてもルール違反ではないように感じますけどね。何かあるんでしょうね。ただ時間(慣れ)が解決してくれるようにも感じますがね。ただそれでも言葉遣いに限らず、想わず突っつきたくなる事ってありますよね。

 新しくて理解できないモノ(感覚)への不安、自分の世代のルール(感覚)の主張、自分を抑えてまで正しいと信じて守ってきた前世代のルール(感覚)に従わない「自由さ」への嫉妬などもあったりしますかね。今の「正しい」日本語も、それより前に遣われていた日本語に煩わしさなどを感じたり、文化的遊びなどにより乱れ(変化し)たモノのようにも感じますがね。

 間違いなく私の若い時も上の世代からそう言われ、下の世代にも同じ事を言っていますよね。「マジで」(笑)また世代を問わず、各界で外来語が沢山遣われていますが、簡単にインパクトを与える力と共に、意味を曖昧にして、いざと言う時には責任を回避する質も感じたりしますかね。日本車に日本名が少ない事には対外国評価への弱さも感じますかね。(09.10.19著)

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 「差別用語」

 テレビでコメンテーターが、「コジキ」を連発していました。司会者は慌ててそれを制していました。コメンテーター自体もその言葉は「放送禁止用語」であることは自覚があったようですが、あることを説明するのに有名な文学作品からの引用として仕方なく出したものらしいです。結果的には不謹慎な発言として謝りを入れていましたね。

 ただその引用された作品はとても文学的に評価されているものであり、おそらく差別に見識のある人達も全ての人達に読むことを薦めることになると感じますし、そうなると皆「コジキ」を目にするわけで、目にすれば当然その意味も調べることになったり・・・普段遣われている言葉にも遣う人により差別的想いを強く背負うモノが沢山あると感じますがね。

 私は高校生の時の授業で、周りの人達によって差別を受けているある地域の人達の話を聞きましてね・・・歴史的な背景があって、今もそれが一部の地域に引き継がれてきているようです。私はそれを聞いてしまった事で正直意識してしまいましてね・・・そんな話を聞かなければ何も無く普通にその人達とも付き合えたのにと疑問も持ちましたかね。

 ただ「知らずに関る」のと「知っていてあえて関る」のではその意味合いも変わってきて、例えば人間的な成長・大きさなどの・・・人間的な大きさ?結局そんな感じで他人よりも上に立ちたいと感じてしまい、ある意味生きていく上で「差別」的なモノが常に基本に必要とされて・・・「言葉」(自己主張)には基本にその資質があると感じますがね。(10.5.2著)



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Last updated  2012.04.14 13:57:59
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