梨畑稲造日乗

梨畑稲造日乗

カラオケアーティスト



ひるがえって、路上には、未熟だけれど青かったり赤かったり茶色かったり色とりどりの情熱をこめて歌うストリートシンガーがあふれている。

楽器屋さんは楽器を売ることの付加価値として、また販売促進の一環として、かつてフォーク少年やロック少年、バンド小僧だった連中の心にくすぶっている‘あの頃の情熱’をたきつけるために教室を開く。すると、思いのほか大勢のオヤジやおばさんたちが通ってくる。

こういった現象をなぞってみると、乱暴な見方かもしれないけれど、「人の音楽は聞かない。自分たちが演奏する」ことに快感を見出している、<音楽好き=プレイヤー>現象が進んでいると見えなくもない。

カラオケが好調でCDが売れないのはEVER GREENな「往年の名曲」が手元にあれば事足りるから。カラオケで歌う曲はカラオケで歌えるような易しい曲が多いから。歌手になった気分になれるから。でもCDは買わない、というのは楽曲に買うほどの価値がないから。

ぼくたちがカラオケで唄う歌、その歌だってまぎれもない‘演奏’なのである。

かたや、小金を稼いで昔は手のとどかななった楽器を買いバンドを組み、果てはライブハウスを時間で借りてまでして演奏する人たち。
かつての自分たちのヒロインやヒーローはもう年をとってしまって、自分たちと同じオヤジやおばさんになってしまっているから、「あの頃の」若々しさは望めない、目の前でその老体をさらされて幻滅するよりは、自分でなりきってしまえばそれはそれでかつての情熱、かつて声を限りに歌っていたりしたその頃の自分かわいさに帰り着ける。リアルタイムでヒーローたちにあこがれた頃、おませな子たちは小学生くらいで歳の離れた姉妹兄弟や親の世代が好む音楽を聴き始めたりするから、その人たちのヒーローはいまや還暦を越えていたり、すでに物故してしまっていたりする・・・、だったらおれたちが!と正統な後継者を情熱だけで根拠もなく自認する彼らは自分で音を出し始める。
しかし、そういう人たちばかりがバンドを組んでいるのだろうか? いや、層は思ったより厚い。
なんとなくスタジオを借りてバンド遊びをする大人たちの楽しみは、カラオケに行くのと同じ感覚なのだ。

ついでだが、面白いことにへヴィなCD購買層であればあるほど、あるいは配信も含め可処分所得の相当多くの金額を音楽に費やす人たちの多くは、楽器を演奏しない、という一面も興味深い。コレクターが蒐集という特質をもって世の中に存在し、売れ行きの落ち続けるCDの売上の中でも彼らの層はずっとかわらずに一定の売上を確保しているのだから、これは別途考察してみる価値のある現象かもしれない。およそコレクターとはそういうものだといってもいいだろう。パトロンの系譜である。
それなら100万枚も売れる流行歌手とは? これは音楽ファンのものではなく、経営者のお財布、意地悪を言わないなら「利益の最大化」を信奉する音楽産業の経営資源に違いない。

もちろん、音楽を聴く修行は必要だし、ぜったいに見くびってはならない。
総音楽家現象には音楽を聴くことが一朝一夕にはできるようにはならないことが閑却されている。音を受容する器官が耳であるため、視覚に比べて受容器官の精度が低いし、機能が限定されているので、あたかも音楽を聴くことがたやすいものと誤解される。
(読む>見る>聞く)
いまカッコ付きで書いたのは、人間の外部刺激の知的受容について便宜的にその序列を示してみたものだ。すべてがこうはいかないにしても、風呂に入っていようが満員電車のなかだろうが、はたまたまっくら闇だって、そっぽを向いてたって音はいつだって場所をあまり選ばずに聞くことができる。一般的な難易度から言って‘聞く’ことがいちばんラクだし、‘ながら’でできるのは聞くことだけなのだ。

いまあえて‘聞く’の字をつかったけれども、聴くとなると話が違ってくる。
耳を傾けることである。‘ながら’ではないのだ。それだけに集中する。
‘聴く’とか‘読む’という行為は理解する、という能動的な行動なのであり、さらには人間であること、他者とある瞬間に魂をとり結んで、そこにヒューマニズムの海が現れる瞬間なのである。
亡くなった吉田秀和氏が、グレン・グールドを‘intimate’な音楽家、すなわち自分の演奏する楽曲を作った人たちへの慈しみにあふれた音楽を創る音楽家と呼んだのは、そういう人間性の発露が、音楽としてグレン・グールドの身を通して表現されつづけたからなのだ。
グールドの音を聴くとわかる、それは作曲した本人も聴けなかった音であることが。そしてその音は作曲家の頭の中だけで鳴っていた音、実際にコンサートホールや練習室などの物理的空間で鳴る音ではない。

ストリートシンガーたちのリクルート状況を見ても、いまや評判を集めればレコード会社がスカウトする、という時代から、スカウトが路上を探し回る時代へ変わりつつある。
ひとつには構造的にいまの音楽産業はかつてほど歌手たちを育てる予算もかけられず、各地からのど自慢が消えてゆき、大掛かりなプロモーションをかけるほどマーケットのモチベーションが高くないことがある。
ふたつめはその音楽産業そのものの構造的な問題である。産業が老成したために、社員の年齢構成が逆ピラミッドになって年配者に払う給料が経営を圧迫するのだ。おのずとミュージシャンの育成にかけられるコストも時間も削られる。
みっつめは、楽曲そのものを歌手たちが作るのが当たり前になっていて、アイドルと呼ばれる容姿ともども商品価値のある芸人以外は、カモネギ状態で曲をしょってレコード会社にやってくるようなものだからである。しかもアイドルは育てるのにカネがかかる。だったら、カモが葱しょってやってくるのを待ってそのまま捕まえて、なべの具にすれば手軽である。うどんを放り込んで満腹するまで骨の髄まで使う。

ところで、ストリートシンガーたちをいくら捕獲しても採算ベースにのらず、それが誤算であることにレコードメーカーの人たちが片目をつぶろうとするのは、そこに骨の髄のうまみが、ほとんどないからなのであろう。うまみは骨だけでは出ないものだし、そもそも時間をかけて煮込んだわけではないのだ。うまみの乏しいスープはすぐに飽きられる。
こうして悪循環はそのループからなかなか抜け出せないでいる・・・

ストリートシンガーたちは随時契約を結んで一定期間の労働を賃金に変える労働者なのだろうか。そうなのだとしても、一度はミュージシャンになることを真剣に考えてしまう最近のワカモノたちは‘派遣’という現実が歴然として市民権を得ている以上、その手もあるさ、とギターをもって、コロガシと呼ばれるアンプに投資してまで街場で歌う。フリーマーケットと同じように買ってくれる人を待つ。彼らの楽曲が商品価値があるのではなく、ストリートシンガーという商品が、音楽という産業の商品と同じ商品であるから買ってくれる人もいるはずと考える。なぜなら、彼らの音楽と、商品として売られている音楽の間にさして大きな質的違いがないものが多いように感じられるからであり、実際にそういうところもある。

残念ながら、まだ十分に育っていないのに、中途半端に産業化した音楽業界では彼らストリートシンガーを‘アーティスト’と呼ぶようになる。正確に言うと、消費者や広告代理店にそう呼ばせるように強いる。そして本人たちも気の毒にその気になってしまうのだ。

すべてをいったんご破算にして、聴くことを捉えなおしてみてはどうだろう?

聴くことを忘れては、心に音は響かない。独学でも人に教わるのでも、ちゃんと教わらないと音楽は聞こえてこないものであるはずなのだ。



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