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昨日、今日と出張で宮崎。あったかだけど、夜はちょっとひんやり。昨日、叔父とその娘、ぼくにとっては従姉妹がふたりで母の見舞いに来てくれたそう。姉が言うには、母は熱があってアイスノンを使っているものの賢そうな表情でふたりを迎えたとか。倒れてすぐに来てくれて以来の面会。その時の母は、目を開くこともなく、ひたすらくーくー眠っているだけ。でも、昨日の母は、言葉は発しないし、意思の疎通はとれないものの、目はパッチリ開いて表情も少しあったので、叔父と従姉妹はとても喜んでくれたとか。母は、ことに従姉妹の顔をじっと見つめていたらしい。「見覚えがあるなぁ」と思っていたのかも。母の妹の叔母は圧迫骨折の影響で同行できなかったそうだ。残念だっただろうな。歳を重ねると、体も傷んでくる。それがゆるゆるとやってくのか、どかんと一気に訪れるのかは人それぞれで違うのだろう。しかし、ホテルのベッドで寝ていると、なんだか体が痛くなってくる。ゆるゆる、老い、かな。
2017.05.19
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どうしたら、より良かったのかなぁ・・・。時々、そう考える。母が今の状態にならずにすんだポイントがどこかにあったんじゃないかなぁ。母が肺炎で入院する前、熱を出して寝ている間に、ぼくは二度、救急車を呼ぼうとした。一度目は、母が姿勢を維持できなくなった夜。ジャージの上下をジーンズとパーカーに着替えて、救急に電話をしようとした。でも、やめた。以前、母が同様の症状をみせたとき、徐々に元へ戻っていったのを目にしていたので、今回もそうじゃないかな、と期待したから。母の表情が辛そうではなかったことも、電話をする気持ちを抑えた。二度目は、その翌々日。熱が38度半ばを超えた午後。やはり、ジャージを着替えて携帯を手にし・・・でも、電話はしなかった。声をかけると、元気に返事をする。ベッドに横になったままだけど、口元に運ぶものはちゃんと食べる。おにぎり、サツマイモ、リンゴにイチゴ。出せば出すだけ食べそうな勢いなので、いい加減で切り上げたけど。その翌日、医師会病院で診療してもらうことが決まっていたからというのも、電話をしなかった理由にはある。でもなぁ。救急車を呼ばなきゃ、というのは直感みたいなものだから、その直感を信ずるべきだったのかなという思いが残る。悔いではないけど、別の現在があったような思いは残る。今日も姉は母を訪ねてくれた。当人も検査帰り。まだ本調子ではないんだろう。ぼくはと言えば、3時前に帰宅したものの、今日中にあげなければいけない台本に追われるままに面会時間を過ぎた。あ〜あ、と思いながらも、どこかホッとしている。
2017.05.16
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母は、医師会病院のパジャマのまま救急病院に運ばれ、そのまま入院した。救急車で運ばれる前、身の回りのものをまとめていると、看護師長が、「こんな時になんですが、落ちつかれたらパジャマをご返却ください」と言った。入院した翌日の午後、借りていたパジャマの返却を兼ねて医師会病院へ挨拶に行く。「まだ目は覚めていませんが、容態は落ちついてきたみたいです」看護師長は残念そうに、気の毒そうに、ぼくの話を聞いてくれていた。若い担当医にも報告。「先生のお見たての通り、脳の中央部分の出血でした。出血した部位からみて、手術はできないし、回復は難しいかもしれないとのことです」ぼくの言葉を聞いた若い担当医は、「肺炎は治ってきていたのに、残念です。お力になれずに申しわけありません」そう言って頭を下げてくれた。自宅に戻りながら、ふと思った。高い熱が10日間以上続き、軽い誤嚥性肺炎と診断され、入院。その治療中に脳卒中で倒れた。夕食後、看護師や介護士の歓談に混じっているとき、急に血圧が上がり、ゆっくりと意識が薄れていった。病院側が、治療中の患者である母のそんな変調に気づかなかったのは、医療過誤になるのかな?ちらりと思った。患部に既に動脈瘤があり、血圧の上昇がきっかけでそれが破裂した可能性がある。救急病院の担当医はMRIの画像を見ながらそう説明した。脳のMRIは、最初に入院した病院でも撮っていたはず。そこで異変を発見出来なかったのは、医療過誤になるのかな?ちらりと思った。でも、その思いは頭をかすめただけで、ぼくの考えの中心には降りてこなかった。運命なのかな。その思いが、ぼくの頭の中を占めていた。
2017.05.14
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1月6日、母が倒れた翌日の朝。久留米に住む従姉妹に電話をした。母はふたり姉妹で、妹、僕にとっての叔母は久留米に住んでいる。叔母は姉思いで、母が認知症の症状を見せるようになってからは気にかけてくれて、よく電話をくれた。母は電話に出ることが出来なくなっていたので、まずぼくが出て、「叔母さんから」と言って母に受話器をわたす。母はもう相手が自分の妹であることを思い出せず、電話に出ても会話にならない。なので、叔母は母に電話をするかわりに、ぼくの姉に母の様子を尋ねるようになった。年末には年越しのお小遣いとして母にお金を送ってくれていて、昨年の暮れに送ってくれたお金は、母の電気あんかと、監視用のカメラに使わせてもらった。熱を出して入院するまで、母はベッドをイスがわりに机に向かって座り、日々を過ごしていた。在宅の際、ぼくは二階の部屋にいる。すると、なんだかんだと母の部屋から音がする。ほとんどは本を読み上げる声だったり、トイレに立ってドアを開ける音だったりなのだけど、時に妙な物音が気になり降りて行くと、ベッドと机の間に落っこちていていたりした。足腰の力が落ちていて、一度座り込むと立ち上がれない。また落っこちているのではないかと気にかかり、物音がするたびに下へ降りて行く。それが日常になっていた。叔母が送ってくれたお金で買ったカメラは、机に座った母に向けて本棚の縁に取り付けた。映像はiPadで見ることが出来る。画像はかなりクリアで、わずかな明かりでも映るので、夜、電気を消した部屋の様子もよく分かる。母の部屋で物音がするとiPadでその様子をちょいと拝見。ベッドに入ってからも声を上げたりしたら、画面を見てどんな風かを確認することが出来るようになった。おかげで、二階から降りていく回数が格段に減った。そのカメラも、母が熱を出して入院するまで、実働はわずかに半月ほど。叔母の心遣いで購入した電気あんかは、三晩しか使わなかった。6日の朝、従姉妹には、母が倒れて入院したこと。今のところ意識はもどっていないことなどを伝えた。姉思いの叔母は、さぞかし驚き、落胆しただろう。翌日、叔母はもうひとりの従姉妹に連れられて、病室の母を訪ねた。ぼくは同行できなかったけれど、ベッドの脇に座り、眠る母の頭をずっと撫でていたという。
2017.05.13
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1月5日。検査を終え、担当医の説明を聞き、母が集中治療室を出たのが10時過ぎ。看護師さんが押してくれる母のベッドの脇について3階の病室へ。一人部屋だ。一人部屋をお願いしたのは、夜遅くで他の入院患者に申しわけないのと、もうひとつ、姉が面会に来たとき、母とふたりだけになれた方がいいだろうなという思いがあった。母が病室に落ちついてからか、その前だったか、はっきりしないけど、入院にあたってのこまごました手続きや心得、注意などについて、病棟の担当看護師さんから説明を受けた。でも、その内容は、断片的に、バラバラと思い出す。保証人、連帯保証人が必要なこと。着替えやタオルなどは患者側が用意すること。歯ブラシや紙パッドなど、身の回りのこまごましたモノで、患者側が用意しなければならないモノと、病院独自に準備しているモノの説明。入院費の締め日と支払日について。急性期の患者向けの病院なので、いずれ他の病院を見つけて移転しなければならないこと。卒中患者の追跡調査を行っているので、可能ならば協力して欲しいこと。・・・などなどなどなど、他にもあったはずだけど、思い出せないなぁ。あとから考えると、そんなにいっぺんに説明する必要は無いんじゃない?、というぐらいの量があった気がする。病院を出たのは10時半ぐらいだったろうか。出る前、母の様子を覗くと、眠っている。検査室から運ばれる間も、そして部屋にベッドが落ちついてからも、ずっと眠っていた。その寝顔だけを見れば、脳の中央が出血で傷んでいるとは思えない。ただぐっすり眠っている。そんな感じだ。
2017.05.12
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今日から三日間、宮崎に出張だ。母が入院してから、出かけやすくなった。皮肉なものというか、どこか後ろめたい感じがするけど、病院に世話になっているという事実が安心感につながっているのも事実。2か月ほど前、都城に出張した夜、母の夢を見て目が覚めた。原稿が書けない、原稿が書けない、原稿が書けない。そう言って、悩んでいた。夜中に起きて、ぼくも悩んだ。ぼくは直感霊感を信じる方ではないけれど、母のことを夢に見るなんてことはそれまでなかったし。ちょっと、気味が悪かった。夢枕に立つという言葉もあるし、何かあったのかな?でもまぁ夜中だし、何かあったら連絡が来るだろう。そう思って、寝直した。翌日、病室に寄ると、母は変わりなく、すーすー寝ていた。
2017.05.09
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脳のMRIを撮り終えるのに、10分もかからなかった気がする。あっと言う間だった。MRIの画像を見ながら、担当医から説明を受ける。「脳の真ん中あたりに、卒中を起こしているようです」確かに、脳の輪切り画像の真ん中に、黒く影が映っている。これが出血した患部だろうか。「この病院には脳外科がありませんので、近くの病院に移送したいと思います。すぐ救急車の準備をしますので、ちょっとお待ちください」待っている間、病室を片付ける。パジャマや下着、ティッシュに歯ブラシなど、1週間ほどの入院でもかなりたくさんの荷物があった。荷物を車に載せ、病院のロビーで待つ。患者の姿もなくなり、ガランとしたロビーに、担当医の怒号が事務室から響く。「一刻を争うのに、なにしとるんや!」どうやら、搬送しようとしている一番近い脳外科がある病院の対応が期待に添うほどテキパキしてないらしい。一度はこの病院に行くことが決まったようだが、結局満床で別の救急病院へ搬送することに。ここでちょっと時間のロスがあった。「一緒に行かれますか?」担当医が、救急病院まで救急車に同乗して行くか、尋ねてくれた。車を病院の駐車場に置いて行くと取りに来なくてはならないし、救急病院から自宅へ戻る際にも手間がかかる。救急病院の名前と住所を教えてもらい、ぼくは自分の車で救急車より先に出る。目的の救急病院は、仕事でよく通る国道から少し入ったところで、車で20分ほどで着く。母の救急車より先に着くかと思っていたら、国道に出てからすぐ追い抜かれた。他の車両と同じように車を少し脇に寄せて停まり、救急車をやり過ごす。なんか、緊急の措置をしてもらっているのかなぁ。遠ざかるサイレンを聞きながらあとを追うが、サイレンはどんどん小さくなり、聞こえなくなった。救急病院に着くと、母は既に検査室へ入っていて、待合室には誰もいない。時計を見ると午後7時40分を過ぎていた。搬送先を決めるのに少々時間がとられた感がある。検査は小一時間ぐらい続いたろうか。救急病院の担当医から呼ばれ、検査室へ。ベッドでぐーぐー寝ている母の横で、MRIの画像をモニターに映し出しつつ説明を受ける。担当医は至極冷静。急患には慣れているんだろう、やっぱり。MRIで見る母の脳の画像は、ここへ運ばれる前に撮ってもらった画像とほぼ同じ。「脳室の壁をやぶって、中へ出血しています。手術はちょっと不可能な部位です」担当医の説明は、4月21日付けの日記に書いた通り。要は出血が続くのか止まるのか、目が覚めるのか覚めないのか、現時点ではなんとも言えないということだ。「意識を取り戻すのは・・・、ちょっと厳しいかと思います」一連の説明を、モニターの前に立ったままで聞いた。説明を終えた担当医は、どこまで治療を望むかをぼくに尋ねた。前の病院に入院する際もきかれたが、延命治療をどうするか、ということだ。本来は患者本人の意思を確認しなければいけないのだが、今はしっかり眠っているし、意識を取り戻したとしても認知症の症状を考えるときちんとした回答が出来るとは思えない。母からはっきり聞いたことはないが、可能性の低い延命は避けたいような話はちらりほらりとしていた。なので、胃ろうなど手術を伴う治療はやめてもらう旨、証書を書いた。苦痛をやわらげる処置はするが、人工的に命を延ばすことはしないということに。「結局、餓死する様子を見ていられるかっていうことなのよね」友人の奥さんで、ベテランの看護師さんがそう言っていたことを思い出す。確かにそうだ。自分で食事をとれなくなる可能性が高い母は、外部から栄養を注入しないと、そのまま餓死してしまう。強制的に栄養をとらせる処置が無かったころは、母は眠ったまま衰弱していき、世を去ることとなるに違いない。母は、鼻から入れたチューブから点滴で養分をとることになるだろうということ。なんとなくホッとする。が、胃に穴を開けて直接胃に送り込むのとでは、やり方は違っていても、命を延ばすという目的は同じなんじゃないか?それでも、痛い思いはして欲しくない。
2017.05.08
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1月5日。車椅子を押してもらいながらリハビリに行く母の姿を見送ってから3時間後だ。携帯が鳴り、母の血圧が急激に上がったことを看護師が伝えてきたのは。車で病院に着き、1階でエレベーターを待つ。降りてきたエレベーターの扉が開く直前、中から、「いずみさん? それ、息子さん? 娘さん?」と、大きな声が聞こえた。開いたエレベーターから、ベッドに横たわった母が運び出される。聞こえてきたのは、付き添ってくれている若い担当医の声だった。担当医は母に、誰が来るかを尋ねたのかもしれない。母はぼくの名前を口にし、担当医はそれを聞き返していたのかもしれない。もう数分早く病院に着いていれば、ぼくの名を呼ぶ声を聞くことができたかも。ジーパンに着替えず、ジャージのまま出ていれば1、2分早く着けたかな。駐車場まで車を取りに行かず、走った方が早かったかな。階段をのぼったら、行き違いになっていたかも。ぼくの名前を言えたのかな、忘れてたくせに。最後の言葉になるのかな・・・。母が脳のMRIを撮ってもらっている間、ぼくは廊下の椅子に座り、そんなことを考えていた。
2017.05.07
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母が倒れた日、1月5日のことをかなり思い出してきた。午後、病室に行くと、母は看護師が集まる部屋で、テーブルの周りに丸くなった看護師の中に車椅子のまま混ぜてもらっていた。お風呂に入れてもらったあとだったように思う。分からないながらも話の輪の中に加わることは、母のリハビリにもいいことなんだろう。看護師に母の容態を聞いた記憶がある。熱はほぼ下がり、点滴は1日2回に減ったとのこと。食事はまだゼリー状のモノだが、そろそろ固形にかえていける段階に入る。「退院後はどうします?」そんな話も出た。熱を出す前までは、自分で着替えは出来ないものの、食事やトイレは時間をかければなんとか出来る状態だった。でも、12月半ばからはベッドでの生活が続き、熱が下がった今は車椅子での生活だ。ベッドも今のヤツじゃダメだから、電動のベッドをリースして・・・、車椅子も借りなきゃな。デイ・サービスはこれまで通り行けるのかな。車椅子で通うことになるだろうけど、玄関の上がりかまちと、玄関から門にかけての短いたたきにはいくつかの段差があるので、迎えに来てくれる車まで連れて行くのがちょっと手間だな・・・。ま、なんとかなるか。看護師には、そんな返事をした。看護師詰め所から出て来た母のところへ、リハビリ担当の若い介護士がやってきた。前日からリハビリを始めてくれているとのことだった。「熱を出すまでは、それでも手すりにすがって、ベッドから5〜6メートルほどのトイレまで歩いて往復していたんですよ」立てなくなったからの母しか知らない介護士は驚いて、「へぇ、そりゃすごいなぁ。じゃ、その頃に戻るのをリハビリの目標にしましょうね」後半は母に向かって話しかけながら、介護士は母をリハビリへと連れて行った。その後ろ姿が、体を起こしている母を見た最後になった、今のところは。
2017.05.06
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携帯にひと言ふた言書き込んでいるメモを元に母の現在に至る経過を思い出しつつ書いているが、1月4日だけ、メモがない。1月4日は病院が普通の診療に戻る日。この日に母の検査が本格化し、高熱が出た原因や、姿勢を維持できないワケなどが分かっていく。そのはずだったんだけど、メモはないし、記憶もまったく残っていない。年末年始の休みに入る前、担当医は、「4日になったら脳のMRIも撮りますから」と言ってくれたけど、その結果どころか、撮ったのかどうかも覚えていない。なんだかな〜。年末に入院してから徐々にだけど熱は下がり、顔色も良くなっていっていたのは事実なので、このまま良くなるな、きっと、という感じで安心していたのかなぁ。面会に行った記憶はある。3日に届いた年賀状を持って行った。母は文面を読むでもなく眺めていたような気がする。母の病室がある階へのエレベーターのドアが開くと、母の歌声が聞こえていたような気もするが、それがこの日だったかは分からない。大学病院から一時帰宅していた姉も、母が回復傾向にあることもあり、結局母には会わずじまいで病院へと戻った。記憶も記録もない1月4日。何ごともない、普通の日だったんだな、きっと。
2017.05.05
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1月3日。正月とは思えない好天が続き、南向きの病室はポカポカ。窓側の母のベッドあたりはじっとしていると汗ばむほどだ。体温を測ると、微熱の範囲だけれど熱がある。「気温が上がると、お年寄りは体温もあがりがちなんですよね」でも、39度近い熱があったころと比べると、顔色も普通に戻って来た。ベッドの上で歌を口ずさんでいる。元気になってきた。ま、高熱が出たときも、元気はあったけど。食事はまだゼリー状の流動食。90歳近くになるにしては残っている歯は多い母、ちゃんと噛めるモノが食べたいだろうな。しかし、静かだ。新年もまだ三日目。入院患者の多くが帰宅し、スタッフも最小限の人員を残してほとんどが休みの病院はがらんとして物音もしない。母の歌う童謡がのんびり響く。
2017.05.04
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1月2日。14時ごろ、面会に。入院の際に持参した赤いパジャマに着替えていた母は、ぼくの顔を見て「あら」と言った。その「あら」は、意外な人物が来たという「あら」なのか、今までどこに言ってたの?という「あら」なのか。母の興味は「あら」からすぐ離れてしまうので、判然としない。でも、母の意識の中には何かしらぼくの姿があるのだろう。それが息子としてなのか、どこかで見たことのある人なのか、それはぼくには、そして恐らく母にも、分からないのだろうけど。ロッカーを開くと、洗濯物が。入院して五日目にして初めて洗濯物が出た。それまでは、入院したときの姿そのままに、ベッドでジッとしていたことになる。まぁ、パジャマの上にトレーナー姿だったから、それはそれでいいのかも。ベッドの上の簡易テーブルには、介護士さんがチェックしてくれてるのだろう、家から持参してきて欲しいモノの表が貼られていた。見てみると、ティッシュなどの他に、タオルや石けん、リンスにシャンプーなどなど。お風呂に入れようとしてくれているのかも。まだ少し熱がある。
2017.05.03
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1月1日。母は、2017年を病院で迎えた。午後1時過ぎ。母宛の年賀状を持って病室を訪ねる。少し傾けてもらった電動ベッドに横たわって窓の方を見ていた母は、気配を感じたのか、こちらに顔を向けた。ぼくの顔を見ても何も言わなかったけど、顔色も良くなってきてるように感じる。年賀状を手渡す。入院したとき、母は何も手に持つことが出来なかった。それが高い熱のせいなのか、それとも別の病の影響なのか、今のところ分からないけれど、今日は年賀状を手に持つことが出来た。母は年賀状を1枚1枚、眺める。これが年賀状という、季節のグリーティングのためのやりとりだということは分かっていないけれど、きれいな絵を描いてくれているハガキは多少なりとも時間をかけて見ている。家族の写真を載せている賀状もお気に入り。1枚の年賀状から、出してくれた方の名前を読み上げて、「覚えてる?」「覚えてるよぉ」でも、反射的に答えているような感じで、どこの誰かを思い出しているわけではないようだ。元旦というのに、今日は暖かい。母の病室は南西を向いているので日中から日が傾く時間は太陽が差し込み、ぽかぽか。フリースを脱ぎ、パーカーを脱ぎ、長袖Tシャツ一枚になっても汗ばむほど。この暖かさがちょっと災いしたのか、お昼、母の体温は少々上がったとか。「年配の方は周囲の基本にも体温が左右されますからね」介護士のお兄さんが教えてくれた。この日、年賀状を手にする母の写真を携帯で撮った。入院先から年末年始だけ帰宅を許された姉に送ろうと思って。姉は帰宅した前日に、母の入院について、夫、ぼくにとっては義兄から聞いたばかりだった。12月の初旬に大学病院に入院してから姉が母の姿を見たのは、この写真が初めてだったかもしれない。ベッドに体を少し起こし、年賀状を手に、ちょっとおどけたような表情に見える母の写真。話すことが出来る最後の写真となった。今のところは。
2017.05.02
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こうやって書いていると、ちょこちょこと思い出してくるもんだなぁ。2016年大晦日。母、入院三日目。午後1時過ぎに病院を訪ねると、仕事を終えて帰宅する担当医に駐車場でばったり。「ずいぶんお元気になりました」年末ギリギリまで勤務、お疲れさまです。病室のある階にエレベーターから降りると、「ポッポッポー」聞き馴染みのある声がする。機嫌のいいときは童謡を歌うことが多い。三つ子の魂百まで、なんだろうか、やっぱり。電動ベッドに支えられて体を起こしていた母は、ぼくの顔を見て「おや?」という顔をした。どこかで見たことのある顔だわ、と思ったのかもしれない。顔色も良くなってきた。額に手をあてる。熱もないようだ。「きつくない?」「きつくなんか、ありまっしぇーん。ポッポッポー、ハト、ポッポー」調子が戻って来て、騒がしさも戻って来た。病室にテレビはないし、あってもテレビを見る習慣がない。ずっとベッドじゃ退屈かもと、詩集や本人の著書など、自宅から持って来た本数冊をベッドを横断するテーブルの上に置く。「これは、何ですか?」「あんたが読んでた本よ」「ふ〜ん」で、関心は歌に戻った。認知症が強くなってからも日がな一日本に目を落としていた母だけど、活字に対する興味はまだ復活してないらしい。
2017.05.01
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