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…なんて悠長な時代ではないのですが… なんやら連休だそうですね。 年中連休の私にはピント来ないニュースです。 目の前の浜には鯉のぼりが200匹ほど泳いでいます。この鯉のぼりも随分前から続いています。しかし、いまは全国の川や海辺で鯉のぼりの大群が泳いでいるので、客を呼ぶようなものでもないですね。 かつては四万十の鯉のぼりが有名でしたがすっかり影を潜めましたね。全国ニュースではなくローカルニュースに格下げですね。 このところ、熊野古道関連のニュースは全然新聞にも載りません。ゴールデンウィークだからと言って何も企画は無いようです。無いことには大賛成です。仕込みの参加者で実績を作るようなイベントはもう卒業してもらわないと困ります。 ほんの少し車が増えたのかな??? この程度だともっと短いお盆休みの方が車が多いですね。 静かで良いです・・・ 熊野はすべてこともなし・・・ ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/30
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以前にも書きましたように、かつて人と物の往来が人間の足に寄った時代は少々の山があろうと地図の上で近いところは近かったのです。 海抜0m海の村『新鹿』と海抜300m山の村『飛鳥』は500mほどの峠を越えればすぐそばなのです。昔の歩く道は直線的に登っていましたから本当に見たとおりに近かったものです。当然のようにそこに道ができ『八丁坂』と呼ばれました。飛鳥側からは歩く道がつずら折れの牛車用の道に改良はされたのですが、いわゆる『新道』という車の道路にはなりませんでした。 この八丁阪を車が越せるように・・・と、戦後しばらくして海岸部を中心に運動が置きました。そして県道としての認可は下りたのですが工事は遅々として進みませんでした。 当初の計画では八丁坂をほとんど頂上まで登って短いトンネルで超えてゆくと言うものでした。設計を始めた昭和30年頃では当然ともいえるのですが距離が長くなり余計も時間が掛かるのです。 この計画を一気に進めたのが18年ほど前の住民運動でした。何時まで経っても進まない工事に痺れを切らしたのです。そのおかげでルートが今式に変更なりそれまでできていた新鹿側区間を少し使わないまでにトンネル位置を下げたものになりました。当初150mのトンネルが1050mと言う長いトンネルになり、それと同時に一気に新規測量、工事着工と進みました。 今から7年ほど前に開通した県道・新鹿佐渡線は全長11kmですが、実質飛鳥町で国道42号線に合流するまで9Kmほどです。それまでは海岸線を大泊まで戻り、そこから42号線で名古屋、大阪方面に行ったのに比べると半分以下になりました。 悲願の道路は開通したのですが、最初の頃に行われた工事が『暫定工事』で林道並みのものだったためロングボディの車が通れないままです。産業道路としては未完成なものですが、小型トラックや乗用車は便利になりました。 写真は八丁坂の新しい頂上になったトンネル入り口です。昔の八丁峠はまだまだ上です。カメラは レチナ2c・カータークセノン35mm 熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/30
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団子虫は 悪い虫 子苗をたーべた 葉を食べたー (コガネムシの節で…) 前にも書きましたが、『ダンゴ虫』は絶対に害虫です。 確かに、落ち葉やゴミも食べて土に返すでしょう。しかし、あの不器用そうな体つきに似合わず結構身軽です。雑食性ですから何でも食べます。何も枯葉やゴミだけが好きなのではありません。おいしいもののほうが手に入れにくいから地面のものを食べているのです。 夏になって活発に動くようになると、夜中に1mほど上のキュウリを食べに登っていることもあります。あの体でどんどん登ります。落っこちても手足が短いから足をくじくことも無いでしょうし、固い体で打撲も無いでしょう。 野菜の苗の大敵は『夜盗虫』と相場は決まっていますが、『ダンゴ虫』はようやく出てきた双葉をかじります。棒だけを残して食べちゃいますから再起不能です。 やられました・・・冬瓜らしき1cmほどの緑の軸が立っていました。夜盗虫と違いどれが犯人か分かりません。農薬無しで退治するのはかなり難しいですね。目茶目茶乾かせばいなくなりますが、そんなわけにも行きません。 ダンゴ虫は外来生物だそうですね。 私が子供の頃山間部には居なかったのに今ではごろごろ居ます。 碌なもんじゃねえ!!! ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/29
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写真に使った石切り場跡は新鹿町内、県道新鹿・佐渡線(あたしか・さわたり)のそばにあります。 急坂を登ってゆく途中で広くなり、思わず休憩したくなるかもしれません。入り口には細い土方ロープ一本で立ち入り禁止を示しているだけです。入るに関してはまるでフリーパスです。 きれいな山水が湧き出し。切り出した岩壁を滝になって落ちているところもあります。これから上には民家も何も無いですから当然きれいな山水です。 岩の壁は恐ろしく高く聳えていますが、紀州御影の岩壁なのでそう簡単には崩れ落ちません。上に乗っている表層土も雑木林でしっかり捕まえられているので廃止されて20年にもなるのに崩れた様子もありません。 しかし、この岩の壁には一杯切れ目が走っています。決して一枚岩ではありません。ある日突然、倒れてくる可能性はあります。万一倒れて下敷きになると、『トムとジェリー』でない限りペッチャンコになって伊に血はありません。数百トンと言う岩につぶされますから救助とて数十日を要すると思います。 人間が龍門山と言うなんだか怖そうな山の裾を無理やり削った跡ですから。自然の斜面に戻るまでの数千年とかは危険なところだと思います。 くれぐれも車を留めて岩壁の下に行くことが無いようにしてください。私も良い写真を撮るには岩ノ下に入らなくてはならないのdすが、東南海地震が何時あってもおかしくないですし、近寄らずに迫力の無い写真で我慢しました。熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/29
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今日は熊野古道の写真を撮りがてら紀和町に行ってきました。 目的は『丸山千枚田』でした。 今日もカスミがかなりひどいのでどうしようかと思ったのですが、連休になればいくら観光客の少ない紀和町でもチョコチョコ居て写真が撮りにくかったら悪いので一日早く行ってきました。 去年の秋まではよその町でしたが、11月からは同じ市内になりましたが、別に距離が短くなったわけではありません。その辺りのことは『熊野古道』の記事のほうに書きます。 途中の田圃はもう水が張られ、早いところは田植えが済んでいました。この辺りではお盆開けには稲刈りになりますからね。昔は10月から11月でしたから二ヶ月ほど早くなっていますね。 途中で面白いものを見つけました。 『藤の木』です。 正体は一本の杉の木に藤蔓が巻きついて覆い尽くしているだけです。田のそばの谷に生えた杉の機が犠牲になっています。昔なら、一本の杉でも藤蔓の好きにさせるようなことは無かったはずですが、見事に『藤の木』状態です。 そばに寄ったらおそらく杉の幹は藤に締め付けられてくびれているはずです。柔らかい藤の蔓と言っても生きていますから杉が生長してはちきれることが無く食い込んでよくのです。想像を絶する生存競争が行われています。 でも、単純に眺めればきれいなものです。 葛かずらと違い木を枯らすまでの事も無いでしょう・・・ ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/28
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熊野を訪れると山間部などはやたらrと石垣で囲った家が目に付くと思います。 平野部では防風林用の林とかきれいな生垣に囲まれた家が多いのですが、この辺ではそうした家は少ないのです。又、熊野古道も自然石の石畳が見られます。 石垣は木本町の辺りの砂岩を積んだもの以外は、切石でも自然石でも紀州御影です。この一体の山は紀州御影で出来ているからです。おまけに固くて風化しにくく石垣に向くからでしょう。 この紀州御影は切り出されて地元はもちろん関西方面に出荷されていました。 私が子供の頃は、まだ大型機械が無かったので土の中にある大きな丸石を割っていましたが、機械が大型になり、エアー削岩機が導入されると山全体が御影石と言う石山に手を付ける様になりました。搬出は船であったり鉄道であったりしたのです。 石山は熊野市内でも大泊町と新鹿町に集中していました。『いました』と書いたのは最早石切、石割は熊野市内で事実上行われていないからです。 紀州御影は固いので石垣には向くのですが、その材質から、固くて鋸で切り出せるものではなく、四角い石材を作るのは苦手です。結晶が荒くて墓石にも向きにくいので四角く切る石材店はありませんでした。地元の犬走りの縁石には加工していたようですが・・・ 作るものは四角錐の『けんち石』です。コンクリート製のものが道路わきの石垣などに使われていますが、あの形を石工はゲンノウ(ハンマー)一丁で作り出すのです。 石には目があり、それの通りに割れば力はいらない・・・とはいわれますが、決められた大きさに作らなくてはならないので当然、不良品と端材の山を築きます。この『ガラ』が谷を埋め危険な状態の時代もありました。そしてこれの砕けたものが新鹿海岸などの白砂を作っているのです。 今では石切り場も廃墟となり、谷には砂防が作られ、谷がきれいな緑に覆われていますが砂の流下は減っているのだと思います。100年後の新鹿海岸はどうなっているのでしょうか? 今でも。石切り場のそばには、二級品の石材が野積みされています。熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/28
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関西以外の人には分からない?、551のCMのように、けしの花は『天気のいい時』と『天気の悪い時』がまるで様子が変わります。 『お日様のある時』はにぎやかに上を向いて開いています。 『お日様の無い時』はしょぼくれて下を向いています。 551蓬莱のシュウマイや肉まん・あんまんはまだ大阪限定なのでしょうね。 物の旨さよりコマーシャルの印象の強いところです。 けしの花は種が多いからか花粉もものすごい量です。蜜はあまり無さそうですが天気が良いと蜂がせっせとやってきます。足の花粉袋はポンポンに膨れていますが、どうも蜜を吸わせてもらっていないような感じです、 キャメディアで一つ蜂でも撮ろうかと思って近づいてみましたが、コンパクト・デジタルカメラではどうも具合が悪いです。やはり、こんな時は一眼の出番ですね。しかし、デジタル一眼はあまり欲しいとも思いません。そんな接写をやることも無いですからね。 真ん中の花の花びらに這いつくばっているのが蜂です。ストロボ強制発光で飛び立ったところも何枚か撮ったのですが普通のカメラのように制御できず旨く行きませんでした。 かといって、フィルムを使ってまで撮りたいとも思いません。と言うより、こうした世界はジャンル外でしたからね。 マクロ・マイクロレンズの時代では無かったですから…今は一応使えるらしきレンズがありますが、習慣からか使いませんね。ニッコールの接写レンズやローライの接写レンズまでゲットしましたが、使わないでしょうね。 花カメラマン、虫カメラマンの人たちも大変でしょうね。昔なら『写せる』だけで結構飯の種になったのに、今では花カメラマン、虫カメラマンが一千万人くらい居るようですから… ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/27
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時々取り上げるように『熊野古道』は官製観光地化してきています。 発想が少し違いますし、無い無いと言いつつ庶民の財布と違い無限に近く借金でき、誰も責任を取らない『財政』と言う財布を持っているのでものを一つ作るのも『立派過ぎる』物が多いです。 熊野古道が世界遺産に指定される前の誘致活動当時は予算も限られていたため、道の整備も付帯施設も古道らしい素朴なものでした。 こうした素朴な道標の方が熊野古道には似合うと思うのですが、指定の後は毎年追加でどんどん立派なものが立てられています。 ステンレス製、那智黒風、御影石原石風など恐ろしくお金の掛かったものが作られています。どうしてなのでしょうね。 立派であればすばらしい・・・5万の予算の事業より50万の事業の方が良い事業・・・自己満足の世界のような気がします。 この標識は引っこ抜かれて変に立派なものにされていないので『熊野古道らしいな』と思えます。使ったカメラは コダック・レチナ2c 熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/27
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古いカメラなので、昔日本人が使っていた呼び方を使います。 『ライカ判』とは35mmです。ブローニー判とは6*9です。 私が子供の頃は二眼レフの時代で66(ロクロク)判の時代でしたが、すぐに35mm判に移って行きました。 昔は引き延ばしなどしないで、密着でしたから、35mmなんかでは何が写っているか分かりません。フィルムが良くなって、『引伸ばし』ということが一般になってあの小さな35mmのネガでも良くなったのです。 今時『ジャンボ』なんていうと『飛行機』しか浮かばないでしょうが、昔、白黒写真が機械で焼けるようになった頃、それまで一般的だった『名刺判』という小さなものから『大手札判』位の大きなサイズが安く焼いてもらえるようになりました。この大きなサイズを『ジャンボ判』と呼び、自動焼付けの機械もジャンボと呼びました。 ものすごく大きくなったと思いましたが、今のサービスサイズより少し小さいですね。 引伸ばしが前提になり、カメラは35mmになりましたが、やはり原版の大きさは緻密さに現れます。 PCの画面では出しにくいのですが少しやってみます。 上の写真が、レチナ2cにカータークセノンと言う35mmワイドを付けたもの、 下の写真が、ベッサ、スコパー105mmです。同じ時に撮ったものです。 写真は大きなアイコンになっています。クリックすると拡大します。ファイルサイズを小さくしてあるので差が出るかどうか分かりませんが・・・ レチナ2c カータークセノン35mm…上の写真をクリック ベッサ スコパー105mm…上の写真をクリック これで四つ切より少し大きいサイズでしょうか・・・共にトリミング無しのフル画面です。 印画ですとはっきり出るのですか、岩や木々の葉っぱの描写が違ってきます。レンズの差より原板サイズの差の方が風景写真では大きいような気がします。カラーでも同じことです。 こんなに古い戦前のカメラでも充分使えますから、戦後の二眼レフでもぜひ使っていただきたいと思います。 クラシックカメラの解説は カメラリスト にあります。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/26
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熊野は田舎です。熊野でも私の育った飛鳥町は木本町に比べはるかに田舎です。はるかにと言うより、本当の田舎です。 今と違い、その頃は都会と田舎町そしてド田舎の違いはものすごいものでした。 テレビが無いから都会の様子など知る由もなし、青年団のお兄さんたちの流行ファッションは『平凡』『明星』のグラビアの真似です。 冷蔵庫なんて無かったですから食べるものも遠距離輸送できるもの以外は現地調達です。したがって、田舎町ならまだしもド田舎では自給も出来ず無い物尽くしでした。 都会ではやったと言う『ロバのパン屋』『ワラビ餅売り』『アイスキャンディー売り』・・・そんなものある訳がありません。小学館の本で見るだけでした。そうそう、『紙芝居』も学校やお寺でやってくれるの以外ありませんでした。飴をしゃぶりながら見る光景は絵本と写真の世界でした。 そんな田舎の子が口に出来るおやつはまさに「自力更生」です。食べられる物が野山にあるときは良いのですが、無い時は今の猿やイノシシ並みに畑のものを盗んでいましたね。 しかし、生で食べられるものはそうあるものではありません。いくら甘いと言っても生の人参はそう食べられるものではありません。丸かじりの大根もおいしいものではないです。 柿の木もどこの柿が甘くてどこのが渋いか部落中のを把握していました。更に、どこの持ち主が甘いかまで・・・ 渋柿も今なら焼酎で渋抜きしたりしますが、当時の子供が大切な焼酎を使うことなど出来るわけも無く、編み出したのが『泥田の中に埋める』やり方です。 空気が遮断されてかびることも無く甘く熟してきます。焼酎などより時間はかかりますが食べ物の確保には役立ちました。 渋柿と言えども昔は貴重なものですから、中々うまく盗めないものです。ほふく前進あるのみです。それも遊びの一環でしたが・・・ そうして柿の木も今では甘がきすら採られずに熟して烏の餌になっていますね。 飽食もありますが柿の木に登ったり出来る人は居なくなりました。切り倒すことも出来ないようです。 今なら怒られずに腹いっぱい食べられたでしょうね。熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/26
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玄関のドアを開けて目線の高さで飛び込んでくる『春の庭』です。 今回はちょいと車をたくさん留めるために花壇ぎりぎりまでよっていますが、普段は空っぽです。 この時期は前の国道を歩く人が『きれいやねー』と声を掛けて行きます。 まさにド派手な春です。 表側から見るとこんな感じです。 狭い花壇ですが良く目立ち、日当たりが良いので春の花は早く咲きます。 東から南に開けていろ…お向さんはアメリカですから…台風の時は大変です。台風が近づくと左からのかぜが真正面になり右に移ってゆきます。風の当たる方向で台風の位置が分かります。当然家はもっと風当たりが強いですから風速の発表より強い風が瞬間的に当たるので、叩きつけられるように揺れますね。これは柱の数や太さ、筋交いなどの問題ではないですね。 でも、耐えられるように設計したつもりですし、今まで耐えてきたのですから慣れもあって平気ですね。 台風時期は夏野菜が終わる季節ですがキュウリのツルやゴーヤのツルが切れて飛びます。台風の時期によっては野菜の収穫時期が縮んでしまいます。我が家ではそれがつらいですね。 後ろのベランダは花火を見るために付けたものです。目の前が会場なので一等地になります。花火が無ければベランダなんか作らなかったでしょうね。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/25
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これは子供のおやつには少々高価すぎるお菓子ですが、『木本名物』に『豆板』がありました。 非常に簡単なお菓子で今でも土産物として小さなのが作られているようです。 『伊勢名物・生姜糖』の変形のようなもので、砂糖を溶かさない程度に過熱して型に入れて固めた砂糖の塊です。伊勢には名の通り生姜を入れて味付けしています。木本のは飾りと味付けを兼ねて小豆の甘納豆状の物をちりばめてあります。 家に近所の『小松屋』さんと言う饅頭屋さんが作っていましたね。 昔はどこの町にでも地元の小さな饅頭屋さんがあったものですが、この周辺の中心街であった木本町には私が記憶している本町通のものだけでも『小松屋』『長嶋屋』などありましたね。 おいしいのかと聞かれると困る代物ですね。なにせ、砂糖の塊ですから甘いものの乏しい時はたまに貰うとうれしかったものです。しかし、『旨かった!』と言う記憶はありませんね。 昨日の『ピーピー饅頭』は焼く匂いからして記憶に残るおいしいものでしたが・・・ そうしたお菓子ですから『名物』として細々と生きながらえているだけで、『お菓子』としては忘れられてしまったようです。 『ピーピー饅頭』もその呼び名はすっかり消えてよそ流に『今川焼き』などといっているようです。こんなところのグローバル化だけは進んでいるようです。熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/25
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今日のニュースでも、理由も無く地図をひっくり返して書いていましたね。 日本では北が上です。 『高田馬場』は『新大久保』の下ではなく上にあるんです。そして都心は右下なんです。 都の西北は地図の左上です。 『わかんねーだろう』と思っても、ど田舎の住民にでも分かるんです。 書いた方に『わかんねーのかよ!』と言いたいです。 国際的になったでしょうか、地図が逆立ちしたり寝そべったりした報道が時々あります。せめて、方位矢印でも入れてくださいよ。 学力低下を報道する前に社会科の常識を守ってください。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/24
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昨日までの『一山いくら』には写真が揃わない高級レンズフードなど小物がさらに加わるのです。 今日は又違う一山いくら商品です。 この時も商品説明がいいかげんで小さな写真での判断でしたが、後ろの方でかすかに見えているものが私には必要なのに高いので代替品で我慢していたものでした。一山いくらのおかげで特価でゲット出来ました。 一眼レフ時代になってすっかり忘れられた外付けファインダー、そしてパララックスと言うものの解決にも役立つものです。 右のレチナ2cの上に乗っているのがそれです。寝そべったような形ですが、これはアクセサリーシューがレンズの真上に無いからそれを補正するために寝っ転がったのです。 『たったこれだけの差で…』と思われるでしょうが1m程度まで近付いて撮影するときは大問題なのです。左のカメラに載せたのは汎用のユニバーサルファインダーですがこれでは付属しているダイアルで上下の補正はしても、左右のずれは残ってしまいます。 しかし、なぜレンズ交換式のレチナCシリーズのアクセサリーシューはずれているのか理解できません。 高い純正を買わせたかったのでしょうか? これは大昔のものですが日本では少なかった、ケーブルレリーズにつけてセルフタイマーにする優れものです。 さらに これは余り大きなものは掴めませんが、その辺のものを掴まえて三脚代わりにするアイディア商品です。これは使うとは思いませんがね。 ほかに、ニコンFの付属品が二個入っていました。フラッシュアダプターと接写レンズです。 これも私の時代のものらしく『日本光学』マークの革ケースに入っています。これを掛けると65mmレンズで幅15cmのものまでアップで撮れます。しかし、アップのものをいまさらニコンで撮るかどうか…撮らないでしょうね。 ニコンの付属品がニコン党の私に要らないとは不思議な現象です。 最近は一山いくらばかり狙っています。うまく行けばものすごく安いですからね。 大体、価値のわかる、上手に出品できる人はカメラや付属品を一山いくらでは出しません。分からないからまともな写真も説明も無く出してくるのです。じっくり眺めて、写っているものが何かが分かればお買い得品を探せます。暇と根気のある方はチャレンジしてみてください。 ただし、検索などでは探しようが無いですね。ひたすら根気良く探すことです。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/24
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今日も私が子供だった頃のおやつについて書きます。 お店で買えるお菓子の中でこの辺だけなのか変な名前を付けられたお饅頭がありました。 『ピーピー饅頭』です。別名を『焼き饅頭』とも呼びました。正体は『今川焼き』なのです。名前の由来は知らないのですが、私にとっては響きの悪いものでした。焼き芋と同じように「ぴー」と言う音を出して売る店があったのかもしれませんが、子供の私にはお腹を壊した時に言う擬音と同じイメージになって、『こいつを食べると下痢をするのかなあ?』なんて思いました。しかし、甘いものの少ない時代ですから、たまにありつくと下痢の怖さなど忘れてかぶりついたものです。 ものすごくおいしかったものですが、今考えると『サッカリン』がたっぷり入ったものだったのでしょうね。 今の人に『サッカリン』と言ってもわからないでしょうが、「人口甘味料」で発がん性があるということで後に禁止されたものです。砂糖の乏しかった頃には安くて目茶甘くなるものとして大量に使われたものです。 この『ピーピー饅頭』を焼くのもガスではなく『炭火』でした。今なら『本格炭火焼』なんて看板が出るでしょし、小豆も国産でした。これしかなかったのですからね。田舎でガスが使えるようになったのはずっと後のことですから・・・ こうした炭の使用が里山を守ってきたのです。雑木は余太くならないうちに切られて炭に焼かれたから雑木林が日当たりの良い林相に保たれたのです。 子供のおやつからいささか脱線しました。カメラは 日本光学・ニコマートEL 熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/24
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昨日に引き続きオークションでゲットした宝の山の中身です。 前回は二眼レフ三種でフジカが二台あるので合計4台です。 それに引き続きミノルタSR7とヤシカTLの二台の一眼レフです。共に一眼レフが露出計内蔵、露出計連動と進化する頃のものです。 このうちでミノルタSR7はミノルタの一眼レフを世界に有名にしたものです。宇宙に出て行ったカメラとして有名になったものです。この二つは残すことは無いと思います。普通の選択肢ではフジカよりこちらなのですが… もう一つ なんともクラシックなカメラですが、多分これだと思われる『コダックNo.1 タイプ2』が入っているはずです。 これは使うとかテストするとかの物ではないですね。飾っていくにはいかにも『クラシックカメラ』と言うスタイルでいいと思います。 店でもしていれば飾るのですが、残す理由が無いカメラです。 更に、今すでにあるビトー2とイコンタ512/2が入ってきます。以上、9台+ポラロイド一台合計10台のカメラが一括で来るはずです。大変な量です。今までと違い比較的新しい1960年代から70年代のものです。クラシックカメラに入るのは蛇腹の三台だけです。つまり私の範囲外ではあります。しかし。一度くらいは実物を見てみたいと思ったものもあります。フジカST605なんてお目にかかったこがないですからね。 これだけのカメラが全部きちんと動くとは信じにくいのですが、動くことを祈っています。動かなくても価値がある・・・なんて名機ではないですからね。古めかしいですがイコンタが一番価値がありそうです。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/23
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私が子供の頃は大昔ではないにしても食料が乏しい時代でもあり、かなり昔の食生活に近い物だったのだと思います。 子供におやつなど出ることはほとんどありませんでした。出るとすれば「ふかし芋」「干し芋」「なんば(とうもろこし)」「マクワ瓜」「ふかした新じゃが」などでした。 子供たちはおやつを自己調達していたのです。自力更生・・・当然のように探す対象は今の子のようにスーパーや商店の売り場ではなく、日ごろ遊んでいる野山、川原、畑です。自然物なので季節によって食べられるものが変わります。まさに、『旬の物』を食していたのです。 この時期だと『笹竹』の筍は生で食べられました。東北の方では笹の筍を食べるところがあるそうですが、この辺の笹は熊笹などに比べると小さいので皮をむくと何も無いくらいです。腹の足しになるほど食べられるものではないですが遊びの一環で食べましたね。 他のターゲットはまだ小さいうちのソラマメです。大きくなってくると生臭くて生では食べづらくなりますが本当に小さい頃は生でもおいしいです。ただし、これは大切な作物なので危険の伴う食料調達でした。 今の時期、怒られないで食べられたのは田の石垣に植えられた『さつきの花』でした。丸石で積んだ石垣を補強するためにさつきが一杯植えられているので石垣が赤くなるほど咲きます。この花は少しすっぱいものです。これもお腹の足し荷はならないのですが口の寂しかった昔の子には大切なおやつでした。更に、さつきの葉に出来た『コブ』も食べました。虫に食われたりすると出来るものらしいですが『蓚酸』があってよくないとか聞いたこともあります。誰も死んだ子供も居ませんが・・・ 野山のおやつの王者は『ゴンパチ』でしたね。「イタドリ」と言うのが標準語かと思いますが、いたるところに生えてきます。細いやつは駄目ですが太くて折る時『ポン』と鳴る肉厚のものが上物です。手で皮をむいてそのままかじります。酸っぱくておいしいものです。これの酸も『蓚酸』で発がん性があるとか後日言われましたね。 こんな風に色んなものを食べながら遊んでいました。 『ゴンパチ』ですが、こうなってしまうと食べられません。 地面から顔を出して日当たりお良いところなら30cm日陰なら60cm位までで枝葉の出ないうちに採ります。 同じ株から毎年出てきます。アスパラのような感じで良く肥えたところの良い株からは毎年良い『ゴンパチ』が生えます。カメラは フォクトレンダー・ビトーII 熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/23
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カメラの世界では中々標準規格というものは成立しません。 三脚穴は大体二種類、アクセサリーシューはかつては統一規格でしたが今では駄目、フィルターはいろいろ合ってもねじだけは共通…レンズに関しては昔には39・ライカマウントなんて標準があリました。一眼レフではM42と言うねじ込み式のレンズマウントが世界中で使われたことがあります。絞りの開放を制御するレバー位置も統一されていました。ドイツのプラクチカと言うカメラが使い出したので『プラクチカマウント』とも言われます。しかし、自動露出などが入りだすと対応できず、各メーカー共にこの方式を蜂起しました。 統一マウントなのでカメラの種類も色々あります。レンズの方も実にさまざまです。つまり、色々遊べると言うことです。そうしたことでなくなった時代になってからマニアが増えています。 これはソ連製のゼニットBと言われる1968~73のものです。自動絞りも無い、シャッターダイアルが回転する前時代的な代物ですがM42の一つの代表機です。今回のどっさりカメラの中に入っています。 この他に荷物にはペンタックスSP、ヤシカTL-エレクトロ、と下の写真のフジカST605Nが入っています。 このフジカST605NはNの付かないものと同じ物で輸出専用バージョンです。30年ぶりの里帰りです。 この他にもニコンやキャノン以外の一眼レフの古いものはこれらと同じレンズを使えます。ライカマウント以上にレンズのバリエーションが多いようです。 ただ、便利な一眼レフはありません。せいぜい露出計が入っている程度です。ややこしい制御には向かないし、ややこしくなると独自性がでてきます。 私は35mmでは余り遊ぶ気が無いのですが、こうした色んなレンズの使えるカメラも一台くらい在って良いかなと思い始めました。 この中で何を残すのか・・・普通ならペンタックスなのですが・・・フジカのほうが面白いかも・・・ 荷物が来るまで三ヶ月ほど・・・考える時間はたっぷりあります(笑) ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/22
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熊野は自然は豊かですが、歴史上、庶民は貧乏な土地です。 熊野古道なんて言ったところで、平安だ鎌倉だとかの大昔、おまけにこちら側『伊勢路』は歩く人もそうは多くありませんでしたし、物流に使われることもありませんから栄えようが無かったのですね。 紀州御影が搬出されるようになったのは汽船と汽車が使えるようになってからです。紀州材と呼ばれる材木とて同じことです。筏流しで新宮まで運び出し、材木屋が羽振りが良かったのも近代に入ってからです。つまり。神代の時代から貧乏だったのです。そして、今も所得は全国平均を大幅に下回っています。 老齢化が進んで年金生活者が増えてきても、この所得格差は埋まりません。厚生年金の人でも給料の安い熊野の人はもらいも少ないです。おまけに、厚生年金ではなく国民年金の人が圧倒的に多いのですからますます広がるわけです。 こんなこの地方では昔から贅沢な料理は発展していません。なんだか、由緒正しき様に錯覚させるような料理が発明?され、出されている向きがあるようですね。これは何も熊野地方だけのことではなく、ブランド好き、能書き好きの日本人の特性を利用するのもで、全国にありますね。地元の人が知らない名産や郷土料理がね。 熊野のこの季節は山菜採りの季節です。『山菜採り』などと言う今風ではなく「ワラビ採り」「ゼンマイ採り」「ゴンパチ採り」と呼びます。この三種類を取るのですからね。ヨモギを採る時は「ヨモギ摘み」です。 昔はワラビやゼンマイを採りに行く時は背中に大きな籠をしょい、両手には袋を持って、もてる限りの量をとってきました。ゼンマイは干して保存できるので熱心に採ったものです。今では、手間のかかるゼンマイは敬遠され、簡単なワラビをスーパーの袋で採る程度の「ワラビ採り」になっているようです。 昔の農繁期はわらび、ゼンマイの似たものばかり出てきたものです。今の、都会の人が言うような優雅な?鄙びた?「山菜料理」ではなく、「山菜しかない定食」が続いたものです。 嗜好品ではなく大切な食料だった時代は目の色を変えてとったものです。子供も、親にほめてもらえるので遊びを兼ねて採って回りました。 どこにどの時期に生えてくるかは大切な秘密情報でした。最近行って見ると里山が荒れて駄目になったところが多いですね。里山は過疎の先取りをしますから・・・熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/22
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ものすごい宝に山らしきものを手に入れました。 例によって穴落ちねらいの成功です。イコンタ 512/2 オプトン・テッサー 105mm 3.5VITO 2 カラー・スコパー 50mm 3.5KODAK No.1 ZENIT-B MINOLTA SR-7 オート・ロッコール 55mm1.8FUJICA ST605 FUJINON 55mm 2.2FUJICA ST605 PROMATIC AUTO 28mm2.8YASHICA A PENTAX SP スーパータクマー50mm 1.8ポラロイド 600 レンズ トプコール 135mm 4 曲がりレンズ セコール 100mm 3.5ストロボ ビビター ズーム3500ストロボ ****フィルター ローライ純正フィルターセット ケースつきフィルター ビトー純正フード ローライ純正プロクサー ローライ純正 1プロクサー ローライ純正 2三脚 1 2 3 以上が一山での入札です。 一番上は天下の名機、少し前に手に入れたもののレンズ違いです。傷が無ければ最高級レベルのカメラです。ただ、この型は三台目になりレンズが全部違うのが揃うのですが私には恐らく違いがわからないでしょうね。『違いの分からない男のイコンタ…』…洒落にもならないです。 二番目も私が持っているものと同じビトーですが、結構人気の機種です。 ZENIT-Bと言うのはロシアの一眼レフです。問題がある可能性のあるものですが興味はあります。 それから下、5台は国産の一眼レフ… 高いのはなんとフィルターなのです。天下のローライ純正のセットですから日本ではバカらしくて買う気になれないものです。その下のプロクサーも同様です。 で、こんなに要るのかって言われると困りますね。 太字にしたのを残そうかと思っています。他のものは残す穂そのものでもないような気がします。すでに使い切れない量の名機がすでに手元にありますから… 予想ではこれだけ残しても元は取れる勘定です。うまく行けばすごくラッキーなのですがね。 今度こそ最後の入札のつもりでした。 一度に使えるカメラはせいぜい三台程度ですから・・・いくら名機ぞろいでも・・・ 目下手元にあるカメラは以下のURLに載せたものです。 http://www.geocities.jp/je2luz/cameralist01.htm ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/21
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バラではなく ケーシが咲いた ケーシが咲いた 真っ赤なケーシいが・・・ 寂しかった 僕の庭が 明るくなあたー 我が家の玄関を出た時の眺めです。 一年のうちで一番華やかな時期です。 昔々はバラを植えていました。赤ん坊の頭ほどのバラを咲かせていましたが、棘があるのと消毒の面で子供が庭に出るようになってやめました。バラの方が時期も長く、もっと華やかですが、まさに消毒の塊のような園芸は良くないですね。 つるバラや小輪のものは病気も出にくいから良いですが、巨大輪の物は大変です。雨のときは傘をささなくては水を含んでお辞儀をして枝が折れる時さえありました。 バラだと、春秋に花を楽しめますが、畑は永久にバラだけです。せいぜい花壇周りにアリッサムなどを植える程度で、我が家のような規模の庭では本当の意味では楽しめませんね。 生まれ変わってウィンザー城かベルサイユの持ち主になればそのときに楽しみます。 庶民はケシの後はキュウリ、キュウリの後は大根…そんなせこい園芸の方が似合います。 ケシが散っても見かけは寂しくなっても、キュウリやゴーヤの苗の成長を楽しめますし、すぐに食料が採れて趣味と実益を兼ねてくれます。 食料が豊かでなかった時代は記憶に無いのですが、三つ子の魂…でしょうかね。 MEIJIの板チョコ…森永のキャラメル…ものすごくおいしかったです。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/21
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紀州藩のお殿様が居た和歌山から50里も離れたこの辺りは直接治めることが出来ないので代官所が置かれました。つまり『お代官様』が居たのです。 代官所は木本町の漁師町からは少し離れ、海岸からも離れた所にありました。ややこしい下々からも、恐ろしい高波、津波からも離れたところに構えたのでしょう。 この代官所は何時の時代に無くなったのか分かりませんが、木本小学校の敷地の一角になります。木本小学校は昭和30年代くらいに少し位置を変えました。新校舎を建てるのに資金が無かったため、敷地の一部、校舎と講堂のあった部分を売り払いました。今では『木本代官所跡』と言うところには天理教南紀大教会が建っています。 代官所が取り壊されたのは、木本小学校旧校舎が作られた時だとすると、明治時代なのでしょうかね。小学校の校門の脇に松の古木が立っていました。そして、この松を待ちの人は『代官所の松』と呼んでいました。 小学校の敷地が天理教に売られたときも、この松の一角は除外され、その古木は道端に威風堂々と立っていました。 しかし、戦後に入ってきて猛威を振るった『松くい虫』はこの老木を見逃してくれませんでした。段々と樹勢が衰えとうとう10年ほど前に枯れてはじめてしまいました。消毒、更には樹木医にもかかりましたが中心部が空洞で助かる見込みも無く、住宅街の真ん中なので倒れるに任せるわけには行かず切り倒しました。そして、今は写真のように切り株が残されたままです。中が完全に空洞化して巨大な植木鉢状態です。 樹齢からすると代官所跡に植えたものではなく『代官所の松』の名の通り代官所のあった時からの松のようです。この状態ですから後数十年で跡形もなくなると思います。 切り株とその根っこはシロアリの元になりますから、当初はきちんと処理をしたのですが今はどうしているんか知りません。この根っこにシロアリが入れば周囲数十軒の家が巻き添えになるでしょうね。熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/21
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我が家の庭の片隅、水仙が咲いたり槍水仙になったり百合が咲いたり、その隙間に雑草がのさばるあたりに『イチゴ』が生えています。30年ほど昔に買った苗の子孫です。きちんと名前のある、成長点培養、メリクロン苗とかの立派な品種の子孫です。 生い茂る中をランナーを走らせてその時その時に応じて隙間に根を下ろして生き延びてきました。忘れているのですが、この時期の開花期には回りが空いて日が当たるところの分だけが実を付けます。 ご覧のように足元にはびっしりバルボコジュームが生えていて、三枚葉もつやつやしたものはイチゴではなく雑草のものです。これからしばらくは日が当たりますが、一月もすれば、すぐ後ろに生えている槍水仙が倒れこんできて日陰になりそうです。 この辺りを移動しながら生き延びてきて、毎年一個か二個私にイチゴを供給してくれます。 植木鉢にでも移せば立派な実を付けてくれるのでしょうね。でも、そのほうが枯らす率も高いですが… 紫蘭は本格的に咲き始めました。これはやたらと増えて庭の外まで進出しています。きれいなのと根が込んでいて雑草も生えなくするので放置しています。こんな風に雑草より強い花はいいですね(笑) ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/20
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新鹿湾は下の写真のようにあまり深く入った入り江ではありません。海岸に立っても広く外洋が見えていかにも「海水浴に来た」という実感のわくものです。 その分、台風の影響も受けよいところです。 この湾の右側には新鹿漁港があり、左側の岬の途中に遊木漁港があります。 いまでこそ道路が出来てほんの5分あまりのところですが、道路の無かった頃は全く別の集落といった感じでした。 この二つの漁村では昔から魚を揚げていましたが、今と違い販路が少なかったのです。船で中心部の木本に運ぶほかは、徒歩で『八丁坂』を越えて飛鳥町方面の山間部に売りに行っていました。私が子供の頃には海から一山越えた飛鳥町(飛鳥村)には各方面から魚売りが来ていました。『新鹿の魚売り』『泊の魚売り』『木本の魚売り』と三箇所から入ってきていました。当然、競争も激しく。結構新鮮な魚が安く買えました。だから昔は『魚は山で買え』という言葉があったくらいです。 自動車が少なく、歩くのが平気な時代は全部の魚売りが歩いて山を越えてきました。三箇所共に片道10Kmほどです。今は道路沿いに考えますが、昔は最短の峠越えだったので今と距離感がかなり違います。 ここは近年通れるようになった『県道・新鹿佐渡線』の八丁峠までの中腹です。新鹿湾を眼下に見る典型的な峠越えの道です。着手から開通まで半世紀に及んだものです。 道路は急斜面を這い回って登っていますが、昔の街道は谷沿いに進み。道のりはうんと短いものです。今では通る人も無く判らなくなっている可能性があります。 カメラの名誉のためにお断りしておきます。遠景のカスミは黄砂によるものです。 フォクトレンダー・ベッサー・スコパー105mm 熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/20
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先月末に買ってきて植えた『甘長唐辛子』と『茄子』寒い日が続いて伸びないと思っていましたが、今日見ると『甘長唐辛子』はほぼ3cm伸びていました。伸び始めると結構早いものですから庭を見るのも楽しみです。『茄子』はほとんどそのままのようです。 まいた種も、大分前に発芽した『半白キュウリ』はようやく本葉は出始めたところです。応接室の出窓に乗ったままです。他に蒔いた物では『ゴーヤ』が一本頭を持ち上げてきました。???ゴーヤだと思うやつです。他は『半白キュウリ』の続きが発芽し始めたような感じです。残るは『冬瓜』ですが今のところ発芽する気が無いようです。『ミニトマト』は落ち生え待ちですが今のところ発見出来ずです。やはり、このところ寒いので出たくないようです。 これらも苗を買ってくれば簡単なのですがね。 落ち生えが出てくるはずのもののないを買うのは何か損するような気がします。 苗を買うか、きちんと早めに種を蒔くかした方が絶対に早く収穫始められるのですがね。どうも、貧乏人根性が抜けません。秀吉殿の母上の気持ちが分かります。 今発芽してくるキュウリなどが定植できるような苗に育つ頃にはケシも終わりになるはずです。 今は我が家の花壇が花壇に戻るほんの短い時期です。 娘には『前の花壇には野菜を植えるな』と言われているのですが・・・それでも、真ん中の花壇以外は野菜を植えないのですが、夏場はつるが延びてあちこちにゴーヤがぶら下がり、去年などは冬瓜が転がっていました。だって、夏場はひまわりとかしか無いし、冬には周りで水仙が咲いているし…と、言うことです。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/19
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熊野市新鹿町は新鹿海岸海水浴場を抱え、中心部とは別の形態で観光地であります。そのため、新鹿には独立した新鹿観光協会があります。その協会が中心となって新鹿海岸の保全に取り組んでいます。 今の時期に県下全海水浴場の水質検査が行われています。来月あたりに発表されるのですが、新鹿海岸海水浴場と大泊海水浴場は最高のランキングを保っています。 海には漂流物がたくさんありますが、新鹿は湾の奥にあり外海からの漂着物は割りと少ないところです。日本海側のようなハングル文字や漢字で書いたポリタンクなどが流れ着くこともありません。安心できる海岸です。 この新鹿海岸も時々漂着物が帯のように打ち上げられていることがあります。これらはほとんど裏山の龍門山、八丁坂の八家から流れ出る二本の川、『里川』『港川』によって運ばれてくる枯れ枝などです。 山から流れ出たこうしたものは、外海にあまり出てゆかないで湾内にとどまります。 今年は春先の豪雨があったのでこの時期なのに河口の川底には木の皮などが堆積して黒くなったところもあり、白い砂浜には大量の流木などが打ち上げられています。 海水浴にはまだ時間はありますが、新鹿海岸ではそれを集めて焼却しています。広い砂浜ですから簡単に終わる作業ではないのでしばらく続くのでしょうね。 こうした作業は昔から地元の力でやってきています。その力が新鹿海岸の美しさを保ってきたのです。 『日本の海岸百選』とかの投票があったときも、新鹿町は町をあげて投票に参加(一人何十票も・・・)こんなに人口の少ない入込み客も少ない新鹿海岸がちゃんと選ばれています。良さだけでは選ばれないだけに地元は実に熱心でした。 新鹿海岸についての新鹿の人たちの『地元力』はたいしたものです。 写真ののたなびく煙は漂着した木切れなどを焼く煙です。 もう少しひなびていれば、小学唱歌の世界なのですが・・・ 吾は海の子 白波の 騒ぐ岸辺の松原に 煙たなびく苫家こそ 輪が懐かしき 棲家なれ カメラは第二次世界大戦の前のドイツで作られたものです。 フォクトレンダー・ベッサー・スコパー105mm 熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/19
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…そんな歌があったような気がしますね。 にしても、迷惑ですね。 日本は『こんにゃく爆弾』…『風船爆弾』で米国本土を攻撃しようとしましたが、中国は毎年毎年黄砂を降らせてきます。 これに微量の放射性物質でも含んでいたら日本国民はじわりじわりと蝕まれて、遺伝子異常まできたすでしょうね。 湾岸戦争が中東であったのは日本にとっては幸いですね。あの土地が中国奥地にあったら、微弱放射能だとUSアーミーの主張する『劣化ウラン弾』のチリが運ばれてきます。中途半端なテロ攻撃などの日ではありませんね。西日本に納まらず全国に雨あられと降り注ぐわけです。 黄砂は目に見えますが、原爆実験の目に見えないチリは何度も日本にも来ていますね。運の悪い人はそれを吸い込み、関連も分からないままに癌や白血病で亡くなったのでしょうね。ゼロだといえる状態ではないはずです。 アフリカ東海岸で発生するモンスーンがヒマラヤ経由、中国経由で日本の気候を左右しているわけですが、アフガンもかすめるんですよね。パキスタンも… 地の果ての紛争、アメリカの介入なんて言ってられない面もあるのですね。 中国の原子力発電所も果たしてどんなものやら… 一つ吹き上げれば…ほんの隣ですからね。怖いですね。 怖くないのは通産官僚と大企業の幹部でしょうか? 組合ぐるみで右翼化している企業もあるとか報道されていましたが… のんびり、『春霞だ』『黄砂だ』なんて喜んでもいられません。地球が丸くて狭いことの証明ですからね。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/18
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タイトルまで打ち間違いで再アップしました。 所用があって市内新鹿町から八丁阪を越えて飛鳥町に抜けて走りました。 新鹿町は新鹿海水浴場を抱えるきれいな海岸の町です。 この新鹿海水浴場の白い砂浜を養ってきたのは背後にある龍門山や八丁峠など紀州御影で出来た山々です。 こうした山では古くから石材切り出しが行われました。 硬く丈夫な紀州御影は石垣の材料として使われ関西、中京方面に出荷されていました。古くは船で、そして国鉄の貨車でそしてトラックで運ばれてゆきました。 新鹿の町は古くから全国から集まってくる石工が入り込み栄えたところのようです。その分、ばくちが盛んで戦後すぐ位までは『雨が降ると田圃の持ち主が変わる』などといわれるような賭け碁、掛け将棋、花札などが行われていたそうです。 子の周辺には石を切り出した山があちこちにありますが、切り出しが廃れた頃はまだ今のような機械になる前なので山が消えると言うようなものすごいものではありません。しかし、小さなブル程度でここまで切り取ったのは大変だったと思われる壁が残されています。もちろん、石山には事故がつき物の時代のものです。 子の現場も閉鎖されて20年を越えると思います。立ち入り禁止のロープが一本惹かれています。紀州御影は中々風化されることのない石ですが何時崩れてもおかしくないような絶壁です。落ちてくれば数百キロ数トンというものですから危険を通り越しています。掘り起こすことも難しいものですから、崖の下には近づかないでください。近づかないと迫力のある写真は取れないのですが、東南海地震の震源地のすぐそばですから・・・ こうしたい仕切りは道路の悪さから新鹿方面は放棄され中心は尾鷲市賀田に移ってく来ました。そちらには立派な港があり大量輸送にも耐えられるからです。しかし。そちらも石工の日当の高さや白蝋病の関係で下火になってきています。東南アジアからの石材輸入が増えています。 カメラは第二次世界大戦の前のドイツで作られたものです。 フォクトレンダー・ベッサー・スコパー105mm 熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/18
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今日一日あちこちしているうちに終わってしまいました。 所用のついでにカメラのテストをしようと、ベッサにモノクロ、エンサインにカラーを入れて出かけました。中々撮りたい物が出てこないのでたった八枚にてこずりました。カラーの方は終わらずじまいです。 35mmもレチナ2cにモノクロをいれレンズ一式を出かけましたがこちらも半分も進まずでした。 デジタルカメラの方はたった一カット・・・『もくれん』を撮って来ました。 このもくれんは私の育った実家のそばにありますが、子供の頃には無かった木です。お袋が晩年に植えたものですね。 私が子供の頃はこの畑も、バックに写っている一段上の杉の木の林もみんな野菜畑でした。ジャガイモやサツマイモの植えられた大切な畑だったのです。 こうした大切な畑が段々持て余されて花が植えられたり、杉桧が植えられていったのです。日本中の山里からこうした畑が消えていますね。小さい頃は山裾を開墾して畑を広げたりしたものなのに、あっという間に又山に帰りつつあります。戦時中の開墾から高度成長までほんの30年ほどだったのですね。 幸いなことに、私の育った集落は山間部と言っても国道の通ったところなので『廃集落』になるまでにはかなり時間があると思います。この集落でも、一歩山に入ったところでは、小学の時仲のよかった子の家があったところは今では完全に山に飲み込まれています。 その人がここに帰ってきても、自分の育った家の面影すらありません。悲しいことですね。 人口が減少に転じ、日本国全体が過疎になってきていますから、こうした生きているうちに故里が消えてしまう人が増えるのでしょうね。寂しいですね。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/17
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菜の花畑に入日薄れ… ところでこんな黄色?の文字って見えますか? 菜の花なのでやはり黄色かな?と思って黄色にはしましたが、あまり見えないでしょうね。 菜の花って本来は油をとる菜っ葉の花ですよね。 見かけは同じですが、水菜なんかがトウ立ちしたものは『菜の花畑』にはなりませんものね。 この『菜の花』は「壬生菜」の花です。それでも、立派に菜の花に見えます。夕方日が傾いてきても残念ながら『朧月』は出ていません。 今日は旧暦、弥生十九日…立待ち、居待ち、寝待ち・・・次は何ですか?要するに待ちきれないくらいの月ですからとても夕日の時間には無理ですね。先週の日曜辺りならこの花の後ろ方向に居たかも知れません。今頃の月なら水蒸気が多くて『朧月』になる可能性が強いですね。 右の真っ赤なのは『ケシ』です。派手ですね。 霞みまくっていましたが、・フォクトレンダー・ベッサにモノクロフィルムを入れました。たった8枚撮りなのですが、遠景が霞んで撮れないのでやはり駄目でした。結局、3枚撮っただけです。この際、霞の無い日を待って、新しく市内になった『丸山千枚田』にでも行って来ましょうかね。そろそろ、田植えの頃ですから… ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/16
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熊野は海のそばですから昔から魚をたくさん食べてきました。魚ばかり食べてきたと言って良いでしょう。 ここは外海ですから汚染物質は拡散してしまいますし、工場と言っても三つの製糸工場があっただけで他の工業は一切ありませんでしたから怖い公害病の心配もありませんでしたが、そんなものがあるところなら間違いなく庶民は発病しただろうと思えるほど魚を食べていたものです。今は、全国平均より少し多いくらいしか魚は食べていないような気がします。 前にも書いたように、この辺は冠婚葬祭何があっても『シビの刺身』・・・マグロの刺身が出る土地柄です。つまり、ものすごくたくさん消費するけどご馳走だったのです。御呼ばれで食べる機会はものすごく多いですが、自分で買って食べるものではなかったのです。 海の魚と言うものはものすごく多いです。いまだに名前の分からないものが取れるくらいですからね。それだけに、数限りない種類のものを食べてきたのです。 庶民が口にしてきたものに『とうひゃく』という魚があります。どうも『しいら』らしいですね。長くて鱗があるような無いような魚です。 この『とうひゃく』は生でも食べますがアレルギーを起こしよいらしく、ものすごく新鮮なの以外は駄目だとか言います。そのため、あまり生で食べようとはしませんね。塩焼きなどにしますが、干物にして出回ることが多いですね。大きな魚ですから『切り身の干物』で出てきます。 背中が青くて腹の方は銀色に脂の黄色が掛かったものです。適当に脂もありそこそこのものですが、大敷(定置網)に掛かる時は大群でかかりますから当然のように安い干物になります。従って、この『とうひゃくの干物』は安い魚の代名詞でもあり、庶民の食べ物だったのです。 最近では安いからと言って皆が食べると言う時代でもない様ですね。 これがものすごく旨ければ別ですが、あくまでも「そこそこ」ですから・・・ 熊野古道歩きにこられた時には買って帰ってみてください。旅館ではあらかじめ催促しておかないと出ないと思います。・・・客に出すようなものじゃない・・・と、思っているでしょうからね。熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/16
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私は『若紫』にあこがれたのですが・・・いや、若紫を掻っ攫って来て育てた光源氏がうらやましかったのかな?源氏が18歳か位で9歳とかに若紫を引き取ったのですが、源氏物語が身の回りに合った受験時代に下宿の子と私が丁度そのくらいだったので覚えているわけです。その子がかわいくなかったら覚えていないと言うか考えもしなかったでしょうね。あの子はどうしているでしょう?昔の歌謡曲に『あの子は とうに二十歳はよー超えたろにーー』なんてあったと思いますが…現実は『あの娘は とうに五十もよー 越えたろにーー』なんですよね。合いたくない! 自分は永遠の青年ですから・・・ 話がずれちゃいましたが、我が家の春は末摘む花のような赤い花の芥子軍団に対し紫の花軍団が美しさを競い合います。赤い芥子が開花したのにあわせ紫側はバビアナが開き始めました。紫ランも秒読みですね。と言うことは三番目の槍水仙もそろそろ穂を出してくるはずです。 春本番ですね。 それにしてもよく降りますね。おまけに結構寒めですし・・・キュウリの発芽したものも伸びるのを嫌がっています。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/15
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この熊野古道についての記事を書き始める前からクラシックカメラと言われるカメラを使ってこの周辺の写真を撮っていました。写真を撮る目的はクラシックカメラのテストが主でした。 この記事を書き始めてテーマにあった写真がある場合はなるべく古いカメラの写真を使ってきました。そんなときは写真の下にカメラの解説へのリンクを貼って来ています。 紀州路の案内をするにはもう少し範囲を広げないと・・・と思い、串本まで足を伸ばすつもりで暖かくなるのを待っていました。そして、暖かくなりました。 動けません。まともな晴天が見込めません。今回予定している撮影ポイントは、新宮・三輪崎・佐野・宇久井・那智・天満・勝浦・湯川・太地・・・・・と電車区間並みに間の狭い紀勢西線の駅の写真です。新宮ー串本hじゃ50Kmほどかと思います。それなのに駅の数は十個以上です。駅舎は建て直されたりしていますが、古い無人駅ばかりです。 こんな駅は白黒写真が似合うと思っています。紀勢東線側の時も天候が悪かったのですが、今回は晴天の時に回りたいと思います。 動員するカメラは最近手元に来たものを中心にクラシックカメラたちが主役になります。1938年ごろのものが二台ほど動員されます。このカメラが現役だった頃は紀勢西線には蒸気機関車に引っ張られた小さな窓の黒っぽい客車が走っていたのです。 あと一週間ほどはこうした撮影にも行けないとの予報です。早く天気が固まってネタを一杯拾って来たいものです。 これらのカメラは典型的なクラシックカメラです。左のコダック・メダリストを除いて全部蛇腹式スプリングカメラです。ネガサイズはブローニー6*9cmと言うものです。写真屋さんが出張で記念写真を撮る大きさです。年代は古いものは1938年位、新しいもので1950年くらいです。 これらにプラスするのが35mmのこれまたクラシックカメラ達ですね。 こんなものをバッグに詰め込んで三脚を担いで・・・と言っても鞍馬から下ろした場所が撮影場所ですが・・・回ってきます。しばらくお待ちください。つえでにえんせんで拾ってくるネタがあれば拾ってきます。カメラについては カメラリスト にまとめてあります。熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/15
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この桜、樹齢にすると30年ほどのものだと思います。 段々畑などが放棄されるようになって植えられたもののようです。 場所は『水大師』と言われる、民間信仰の聖地?です。 山間の狭いところに桜の木が植えられ、その周りは杉桧の山です。桜を見ると華やかですが全体はひっそいという感じです。 この写真を撮ったカメラは第二次世界大戦の前に製造されたものです。レンズの製造番号から1938年のものです。68歳ということです。桜の木よりはずっと前のものです。 1950年ごろまでのカメラのレンズは今のレンズとは違いレンズの表面処理をしていません。そのため、余分な光線が回り込んだりしてぼんやりしたりします。更に、その時代はカラーなんてものが無い時代ですから色の違いによる屈折率の違いなどもあまり考えられていなかったものです。おまけにコンピュータなどありませんからレンズの設計は大変な作業でした。 この大変な作業を数式化してきっちり設計された最初とも言えるものが『テッサー』と言われる4枚レンズのものです。このレンズの出現で写真が『写真』になったとも言えます。曲がらず、精密にきちんと写るようになったのですから… それ以来、このレンズの真似や変形のものがたくさん作られました。ズーム時代に入り枚数の多いレンズが主力になりましたが、近年、又この『テッサー』を見直して作られたりしています。 この写真に使ったカメラは本家本元『ツァイス』の『イコンタ521/2』と言われるものです。レンズは『カール・ツァイス・イエナ・テッサー105mm 1:3.5』です。歴史に残る名玉です。 いくら名玉とは言え、コーティングも無い大昔のレンズなので心配しましたが、こうした花びらから光が透けてくるような条件でもフレアーもほとんど無く色もきちんと出ています。 さすが・・・としかいえないものです。 詳しくは下のカメラアイコンをクリックしてください。 ツァイス・イコンタ521/2 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/14
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私の家は国道42号線沿線で木本町の中心部にあります。目の前が七里御浜で熊野古道歩きの人の半分以上が歩くところです。もちろん、熊野に来る車は全部通ります。 こうした立地条件なので人口も通行量も少ない熊野市ですが、ファーストフード、テイクアウトの店が固まっていました。 『かまどや』『モスバーガー』『アオキーズピザ』の三軒が並び。お弁当、ハンバーガー、ピザとお好みのお弁当が30m以内で買えると言う観光客にとってはありがたい場所でした。 『かまどや』は長年やっていた前のオーナーが老齢化して一旦閉店していたのですが、近年復活したものでした。『モスバーガー』ももう10年を越す営業です。『アオキーズピザ』は昨年のオープンでした。 こうした店は市内には他にはありません。少し離れてコンビニが国道沿いにあるだけです。 熊野古道が世界遺産に指定され役所が言うように入り込み客が増加すれば食堂もあまり無い熊野市ですからこうしたテイクアウトの店も需要が増えるはずだったのです。ああそれなのにそれなのに・・・『アオキーズピザ』は半年ももたずにすでに閉店、『かまどや』は再開後でも数年はやっていたのに今月で閉店だそうです。コンビニ弁当との競合で少ないパイを取りっこして負けたようです。残るは『モスバーガー』だけです。しかし、こうしたものは飲み屋同様並んでいた方が目に留まりよく商売がしよいものです。一軒だけ残ったら成績は落ちるでしょうね。 前にも書いたように、数少ない宿泊施設の『熊野簡易保険保養センター』いわゆる『簡保センター』も閉鎖への秒読みが始まるとか・・・ それなのに関連事業の公共事業だけは千万単位で続行されています。数億なんてのも立案されています。 お役人のための世界遺産指定なのですね。およそ熊野古道とは関係ない施設や熊野古道を壊すような事業が一杯ですね。 もはや込み合うこともありませんし、今ならお役所に目茶目茶にされていない所もありますから、早くおいでください。もっとも、立派な施設や整備された公園が好きな人はしばらくお待ちください。あなた方の税金でどんどん作ってくれますからね。 我が家のすぐとなり、ファーストのメッカ・・・あと少しでハンバーグしか買えなくなります。 観光シーズンだというのに熊野古道歩きのハイカーはめっきり減りましたね。 向こうに見える山の低いところが『松本峠』、その山が海に落ち込むところが『鬼ヶ城』背中方向に500m戻ると『獅子岩』そして『花の窟』です。ここは浜街道の入り口なのです。 熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/14
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・・・けしの花~ そうです、本日、曇天ながらケシが咲き、我が家の庭が明るくなりました。バラの花でなくても明るくなります。たった一輪ですが・・・ これからどんどん咲いてきます。 足元には気の毒に高菜が押しつぶされています。壬生菜も必死に乗り越えて花を咲かせています。あれよあれよという間に1mほどに伸びますし、株も大きくなります。この勢いに勝てる草はありません。まさに雑草そのものです。 これは明日開くピンクの花ですね。 我が家の庭のケシで確認できているのは『赤』『芯の黒い赤』『ピンク』『かば色』『しろ』ですね、いろんな色に分化しています。 恐ろしく薄い花びらがこのつぼみを押し広げて出てきます。そして莢が落ちると皺一つ無い花びらになります。きれいですね。 これから一ヶ月あまり玄関先はド派手な花壇になります。 これが終わると後にはゴーヤやキュウリの夏野菜になります。真夏は緑の農園です。その後には冬野菜・・・その二回分の作付けの間ケシ達は賢く地面で我慢して次の春を待っています。 こんなにきれいだのに、言われるままにじっと出番を待っているなんて… ね!そうでしょう? ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/13
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最近配られてきた熊野熊野古道と木本町に関する観光パンフレットを見て改めて思ったのですが、この辺りには元々面白そうな伝承も郷土史もあまり無いようなのですが、その少ない中でのひとつに、『鬼ヶ城』にまつわる伝承があります。 例によって全国にある『坂上田村麻呂による鬼退治』の話です。 地元のパンフレットでは町内の笛吹橋という橋の名の由来のところに・・・ 約千年前、鬼ヶ城に多蛾丸(たがまる)と言う悪党の大将がいました。命令を受けた征夷大将軍坂上田村麻呂がその大将を退治して、部下と共に笛を吹きながらこの橋を渡ったいわれから、『笛吹橋』の名が付きました。 と、あります。(余談ですがこの橋のたもとが木本町一番地になっています。) これに出てくる『悪党』は昔の言葉で「野武士」「海賊」「山賊」「夜盗」はもちろん地方に乱立する豪族までを含め大和朝廷と時の政権に逆らう集団を指した言葉をそのまま使っているものだと思いますが、ここはその『悪党、多蛾丸』の本拠地です。一般人向けのパンフレットで悪党を括弧書きするでもなし、注釈をつけるでもなしで書けば『悪人』と同列に見えてしまうでしょう。 古い歴史は日本書紀、大鏡などでも朝廷による官製のものです。中央から見た歴史観は今の時代以上に地方の立場との差が大きかったはずです。 熊野市だけではなく日本全国のパンフレットの類で共通するのはこうした中央の歴史観に基づく記述がそのまま郷土の歴史として、何の疑いも無く書かれていることが多いですね。 郷土史を郷土の民衆の目で見て書いたら如何なのでしょうね。 『多蛾丸』さんははたして悪い親方だったのでしょうか?こんな平地が少なく都からも遠い辺地で漁業をしながらたまに通る船からミカジメ料を巻き上げて皆を食べさせてくれる、強くて頼もしい親方様だったと思うのですが・・・ その親方様を征夷大将軍だとか名乗る一群がやってきて殺してしまい、美しい娘(いたかどうか分かりませんが)は自分たちのものにして・・・面白かったはずは無いのです。 ああ、それなのにそれなのに・・・ 平和な国民性でしょうかね。おかげで日本は平和なのですが・・・良い意味でも悪い意味でも・・・ そういう視点で郷土史を書き直したら国がばらばらになるかもしれませんね。 『多蛾丸親方』の根城だったと言われる『鬼ヶ城』です。台風の時にはここまで波が来ますから住んだと言うことは無いでしょうね。この上の山は見張り場所にしたのは間違いないでしょうが・・・カメラは バルダ・バルディックス/エナゴン75mm 熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/13
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昨日は予想通りものすごい雨でした。 この辺りでは年に何回かある降り方ですが、まさにバケツを撒けた様な状態です。傘の骨が曲がるような振り方でした。 私は傘をさして歩くのが嫌いですから雨の日はぬれて歩きます。Jast walk'n in the rain なんて悠長なものではなく、あわてて走るのですが…したがって、あんな激しい雨のときは外に出ません。当然のように広報熊野で国道の通行止めが流れていました。まさに、『毎度!』ですね。 おかげで庭の桜もほとんど残らずに散ってあちこちに流れた花びらが引っかかっています。 それを見て思い出しました・・・花の首飾りを作ったことを・・・ 花咲く娘たちは 花咲く野辺で ひなぎくの花の首飾り 優しく編んでいた・・・ これは知る人ぞ知る名曲で、材料は「ひなぎく」ですね。 私が幼い頃作った首飾りは『桜の花びら』を針で突き刺して糸に通したものです。 あの薄い花びらを校庭にしゃがみ込んで一枚ずつ突き刺してゆくのです。今考えると随分気の遠くなるような作業ですね。 1mmに二枚とすると短い50cmの首飾りで1000枚ですね。ぎっしり押し付けて作ったと思いますからもっと密度が高かったのでしょうね。出来上がるとずしりと手ごたえがあったのを覚えています。 春の数日しか出来ない遊びですね。優雅と言えば優雅ですが、ひたすら地面を見つめて黙々と…それも結構大勢で…暗いと言えば暗いですね。 出来た首飾りは彼女ではなくおふくろに持って帰った気がします。おそらく小学の低学年しかしなかったと思いますからね。 もっとも、首飾りを掛けてもお袋は何にも変化しませんでしたがね。
2006/04/12
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熊野の川にも昔は天然の鮎がたくさん居ました。 全国でも有数の清流『大又川』には本流熊野川から遡上した物がいたのです。 昭和30年代に次々と作られたダムにより熊野川水系は河口の新宮から北山川、十津川の二本の支流、最下流のダムのところまでしか鮎、うなぎの遡上が出来なくなってしまいました。いまでのそこまでの川には天然のうなぎや鮎がたくさん居ます。 だむん建設と共にダムの補償で稚鮎とうなぎの放流が開始されました。その放流は今も続けられていて、桜の咲く頃に琵琶湖などから稚鮎が運ばれてきて大又川各所に放されます。この放流鮎も稚鮎から清流、急流の中で育ちますからおいしい鮎に育ちます。ただ、昔のように新宮の河口から延々と川をさかのぼってきて大又川まで上ってきたものとは運動量も違い大きさも小ぶりになります。 6月の解禁と共に大又川には釣り人の姿が見られるようになります。よそからのいりこみの釣り客も結構居ます。 紀伊半島でも少し前に大台ケ原の山裾、川上村に大迫ダムが出来て鮎つりのメッカが一つ減りました。ダムが出来るとその下流に残された部分も水質が悪くなって鮎の成育に悪い影響が出るものです。 熊野市は今度の合併で紀和町をしない荷物用になりましたから、天然の鮎の釣れる北山川下流部分も市内と言う事になりました。そちらは大河です。流されると大変と言うくらいの大きな川ですが釣れれば天然ですね。 大又川の鮎つりも遊漁がばかりなので中々大又川の準天然鮎が口に入ることはありません。漁業者がいないのですから仕方ないですね。大又川漁業協同組合なんて立派な団体があるのですが・・・設立は古くダム建設のときです。熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/12
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豪雨の中郵便屋さんが小包を届けてくれました。 スイス発エコノミーポストとか…川崎港郵便局第二国際郵便課扱いで税関検査を受けていました。中古カメラの表示があるものはほとんど検査無しで来るのですが… フォクトレンダー・ベッサと言えば今の人は日本製の35mmカメラを思い起こすのでしょうね。今の日本のフォクトレンダーは元のドイツ・フォクトレンダー社とは全く関係の無いものです。このブランドを名乗るまでは良いレンズを作りながらマニアに軽蔑の目で見られていた会社が作っているものです。おかしなことに、フォクトレンダーを名乗ったら途端に『すごいカメラだ』『レンズがすばらしい』などと絶賛するマニアが続出しましたね。これって何でしょうね。京セラコンタックスとかね。 これが本家本元、今は無きフォクトレンダー社のベッサです。1937年からの製造かと思います。これも第二次世界大戦前のカメラです。レンズ世界一を誇ったツァイスのテッサーをしのぐかとまで言われたスコパーと言うレンズが付いています。 原版サイズ6*9センチと言う大きなものです。フィルムが高くて貴重だった時代ですから、半分の6*4.5でも使えるようになっています。この写真では半分にした状態です。 もうすぐ70歳になろうかと言うカメラですが非常にきれいな状態です。随分大事に保管されていたようです。 70年って言うと随分ですが、人間でも森光子さんなんかはもっと上でしょう?人間でもあれだけ元気なのですから機械物のカメラならまだまだ現役です。 一応の昨日テストを済ませて解説のページも完成させましたが、実写テストどころの天気ではありません。大雨警報が出たりしていますからね。雲の動きが遅いようですが明日には晴れてくれるのでしょうか?カメラは雨が嫌いです。クラシックの蛇腹カメラは尚更です。 興味をもたれた方は下のカメラアイコンをクリックしてください。カメラ解説は VOIGTLANDER BESSA ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/11
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これは春の味になるのでしょうかね。 『シラス』が一杯出回っています。 この辺りで『シラス』と言うと、イワシの子供をゆでたものの他に、うなぎの子供があります。これは食べるのではなく養殖うなぎの稚魚として売るものです。この漁は春先の寒い時期に始まります。夜中に懐中電灯を頭につけて大きな網ですくうのです。場所は熊野灘に注ぐ川の河口です。川に上ろうとして集まってきたシラスうなぎをすくい採る漁です。漁獲量も減り、あまりうまみの無い漁業ですが、漁師さんの夜のアルバイトのようです。 食べる方の『シラス』はイワシの子供だそうで、細かい『蚊帳』のような網で上げるようです。 揚げたばかりの生のものは半透明の灰色が買ったもので、まだ子供なのでグニュグニュしたようなものです。当然、生のままでも食べられます。酢醤油で流し込むようにして食べます。おいしいといえばおいしい、味が無いと言えば味が無い・・・珍味とはそんなものです。 釜茹でしたシラスはご存知のように真っ白なきれいな姿になります。 最近は保冷施設が整っていますからこの『釜茹でシラス』がどこででも手に入るようになりましたね。昔は少し干して、塩加減ももう少し濃い目のものが多かったのですがね。 干すと段々グレイになってきてしまいますから、きれいな色の半生の『しらす干』で流通させているようですね。 シラスも良く見ると色んなものが混じっています。本家本元の『イワシの子』がほとんどですが、『たこ』『いか』『えび?』『???』じつに色々混じっている時があります。 大きくなれば人間同様毒のあるものもあるわけですが、小さいのうちには毒のある魚も居ないのでしょうね。 子供の頃にはこの混じったのを探すのが楽しみでした。まさに『雑魚』の状態でしたからね。 高級なシラスにはこの混じり物が少ないですが、これってシラス以外の雑魚を取り除くのでしょうか?それとも、一杯混じったのが水揚げされると安いものしか作れないのでしょうか?機会があれば漁師に聞いて見たいと思います。 まもなく、大ぞろ目です。 今まで、およそきり番に常連さんが入ったことがありません。 今回は末広がり 88888 です。どなたになるのでしょうか?熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/11
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『春の嵐』と言ってもヘッセではありません。ヘッセの国ドイツのように春の嵐と共に一夜にして春が来る…なんてことの無いところです。 今夜からはまともな雨が降る可能性があるとか… 三月から四月にかけてにはとんでもない集中豪雨が降ることがあります。量的には六月七月などの時期の集中豪雨や台風時の豪雨には届きませんが、渇水期であった川が満杯状態まで増水することがあります。水量からして大きな被害は出なかったのですが、林業が盛んだった頃には、この予想しにくい豪雨には悩まされました。 この時期は杉、桧の植林の時期になります。広い面積に植林するのですから大量の苗木をあらかじめ山に持ち込んでおきます。一週間分くらいは持ち込みますが、杉の木は水が大好きな木ですから小苗のときも根っこを乾かすと活着が悪くなります。それを防ぐためにも葉っぱからの蒸散も防ぐように束にしてあり、それを植林する山の小さな谷川をせき止めて根っこを漬けた状態にしてあります。 普通の雨程度なら大丈夫なように石を使って押さえてありますが、運悪く洪水になると苗がごっそり流されてしまいます。「やばい」と思うときは谷から上げておくのですが、なるべく上げたくないのが植林人夫の心情です。 今は林業が全く駄目なので私などは全く山を切りませんし、切った人も最早植林をすることが事実上出来なくなっています。その分、杉、桧の苗生産も立ち行かなくなっています。そして、私などはもう何年もこの『春の嵐』を気にしなくなりました。流される杉苗も山に行っていませんからね。これは私だけではなく全国の山村でもこうなっているんでしょうね。そして、ますます仕事が無くなって過疎が進むのですね。最早、『過疎』なんて言葉では表せず『廃村』と言う言葉が飛び交うようになってきています。 ドイツのように春を迎える『春の嵐』でなく。困った『春の豪雨』でも、それを心配する人たちが居るうちが花ですね。そのうちに、大雨が降ったことに誰も気が付かない、『神々の里』が出来上がるのでしょうね。それが一番『熊野らしい』のでしょうね。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/10
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少々気が早いですが、初夏の話です。 昔、熊野では初夏になると出回ってくるものがありました。 それは『生菱』です。今では真空パックしたものが年中出回っていますが、昔は初夏が出盛りのときでそれ以外のシーズンはあまりなかったものです。 『生節』とは未完成の鰹節と言ったものです。鰹節は加熱したカツオを燻製にして干し上げたものですね。出来上がると、半透明になり木の様に硬くなるものです。硬いから包丁で削ることは不可能です。そのため、鰹節を削るために鉋(かんな)をひっくり返して箱の上に載せた『鰹節削り』と言う道具を発明し、ほとんどの家庭にあったものです。 『生節』は加熱しただけでやわらかいままで売る物と、ほんの少し薫蒸して乾かしたものがあります。 柔らかいものは包丁無しでバラバラとほぐせます。ほぐしたものに酢醤油などをかけてそのまま食べたり、ご飯に入れて炊き込みご飯の具にしたり、大根ナマスに入れたりしました。この『浜茹で』とか『朝茹で』と言われるものは、新鮮な獲れたてのカツオを使ってその日のうちに売ります。火を通したとはいえ、塩もしない茹で上げ物ですから全く日持ちはしません。冷蔵庫の無かった時代では、生より日持ちする・・・と、言う程度でした。食べ残したものはコンロで焙って保存しました。しかし、この柔らかい生節はこうした産地でしか食べられない味覚でした。今でもシーズンになると魚屋やスーパーに出回ります。 もう一つはまさに未完成の鰹節状のもので、今ではこれが主流になっています。これは真空パックされるようになり、年中出回っていますね。都会でも買えるようです。どうしても見当たらない時は『ペットフード』のところにあるようです。パッケージが変わって、小さくなっていますが中身は同じはずです。ただ、小さいカツオで作ったものはおいしくないはずですが・・・ この生節は柔らかいのと同じような食べ方になりますが包丁がいるほど硬いものもあります。手でつぶして割れるようなら包丁を使わない方がおいしく食べれます。 鰹節と同じななのですが、干し上げていないためアミノ酸の含有量は少ないそうです。炊き込みご飯の具にするとおいしいだしは出ます。 こちらのものは真空パックをあけなければ長くもちますからお土産にも向きます。地方発送で取り寄せも出来るものです。ぜひご賞味あれ・・・ 東京の物産展で、『あら、ネコちゃんの生節があるわ!』といわれて、『人間用ですよ』と説明したら『人間も食べられるの?』といわれましたが・・・安いものではないのですが・・・ 市内磯崎町などがこれの産地です。 こうした漁船で七里御浜沿いをトローリングしてつったカツオで作っていたのです。『ケンケン』と言う漁法です。左右に日本の竿をだしてトローリングするもので、大きな漁獲は望めません。 熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/10
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花冷えとかいう言葉があるくらいこの時期には寒い日が回ってきます。 昨日に引き続き今日も黄砂があるのかかすんだ天気でした。それに、肌寒いくらいの天気が続いています。 花冷えがすると桜の花が長持ちしますね。今年の桜は見ごろが長いようです。 JR紀勢線大泊駅の桜も今日は花見客がいたのでしょうね。昨日は花見の宴会をしている人も無く、静かな駅前広場でした。土曜日のお昼過ぎでも誰も居ない桜の名所です。 桜が長持ちするのは良いのですが、3月末に定植した『甘長とうがらし』よ『茄子』がちっとも伸びる気を見せません。活着したのは確かですが、高さの目印にそばに立てた細い木の枝から全然上に出ていません。暖かければそろそろ延び始める日にちになっているのですが、寒いのでしょうね。一ヶ月速く苗を買って植えてもこれではちっとも速くなりませんね。ちょっとトンネルでも作ってやれば伸びるのでしょうが… 4月の末ごろに出てくる苗はポットから根がはみ出すようなのが多いですが、今回のはちんまりと納まっていましたから、根っこがきちんと張るのにも日にちが掛かるでしょうね。 早く伸びて実をつけてくれないと野菜が切れてきます。 春菊も花芽を付けたくてうずうずしているようです。こいつらは摘み取っても時期が来るとわき目を出す時につぼみを付けて出てきます。どうやら後半月くらいしか収穫出来なさそうです。 あちこちに『シソ』らしき物が出てきています。去年たった一本生えていた『赤シソ』も生えてきたようです。しかし、梅を漬けるほど作るには畑が足りません。と、言うより『赤シソ』が出来てしまったら、梅を採って来て漬けなくてはならなくなります。去年のには手をつけていません。今年は漬けたくないので赤シソがやたらと増えていないことを祈ります。 カメラは ツァイス・イコンタ521/2 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/09
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機能は黄砂に覆われて七里御浜の先が見えない状態でした。今日も残っているような感じです。 春になると毎年起きる現象ですね。これがアレルギー物質だったら大変でしょうね。もっとも、中共時代の原爆実験の灰は大丈夫なのでしょうかね。 春はこのほかにも水蒸気による霞が発生します。更に、この海岸線では『霞』なんてものをはるかに越えた水蒸気が目の前の太平洋からたなびいて上がってきます。これは薄い層になって海から陸の方に流れてきます。黄砂と違い真上を見上げると真っ青に晴れています。それでも、七里御浜の先は見えません。悪いことにこのたなびいてくる蒸気には塩分が含まれて居ます。浜に長く座っていると「にがり」で体がべっとりしてくる時もあります。水が蒸発する時は「真水」になるとか言いますが、明らかに塩分があり私の家のように海に面して立っているとガラスや壁が塩だらけになります。ガラスは曇り指でなぜてなめると塩っ辛いのです。 この春先の光景は目にはすごく感じの良いものですか、写真の方では非常に困ったものです。目で少しかすんでいると言うことは写真にするとものすごくかすむと言うことです。写真は中々澄江のようなか住み方をしてくれません。遠景は消え去るのみです。 ヘイズカットなどと言うフィルターが出ていますが、これは目に見えない程度の霞らしきものを軽減させるもので本当の霞などには役に立ちません。変更フィルターも気休めに過ぎません。 こんな日に旅行をしている自分は運が悪いのだと思ってください。写真は近くのものにして遠くは目で見てください。 これをもっと解決できるのは『赤外フィルム』だけです。コニカがフィルムの製造をやめてもはやコダックのものしかありません。コダックのものはかなり高いのと、赤外フィルムの有効期限は短いので普通のカメラ屋には無いことが多いです。それに、黄砂は土ぼこりですからもやのようには抜けてくれません。 春、3・4・5あたりのお昼はこの霞で写真が取れないことも再三ありますね。ひどい時は目ではそんなに感じなくても30mくらいしか離れていないものが写真にするとかすみかけていることがあります。写真は目よりも敏感です。 それと、海から霞?蒸気?が上がってきているところでカメラを使ったら後できちんと拭いて置いてください。塩漬けのカメラはおいしくないです。JR大泊駅の桜の古木です。古木の幹にちょこんとこうした花の塊が咲きます。 荒々しい木の肌と繊細な花の対比が好きです。 桜の季節ならここで下車してのんびりするのもいいと思います。ただし、飲み物食べ物すべて用意して降りてください。お店はもちろん自販機もありませんから・・・ カメラは ツァイス・イコンタ521/2 熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/09
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…… たつたのかわの にしきなりけり なんて、もみじ葉は派手な色をしているので川を彩って歌に読まれていますね。 今日はJR大泊駅の桜も満開を過ぎかけたところで、まさに花吹雪が舞っていました。酢リールのカメラでは中々写しとめられません。 駅のそばの排水路を白く埋め尽くすように落ちてゆきます。雨が降らずにこの位の水量なら後二三日で真っ白になるでしょうね。 これも自然の小川なら風情もあるのですが… 我が家の山桜も満開 今年も満開になりました。 枝を落とされて花の数はうんと少なくなりましたが、満開になってきました。 山桜なので若葉と花が一緒に出てきます。色も白っぽいですね。 この辺りの山には山桜が一杯自生しているので鳥が種を運んであちこちに生えてきます。我が家の庭にも二本生えてきましたがこの一本を残して切り倒しました。樹齢20年以上です。まだまだ敷居の材料にするには細すぎます。枝で燻製くらいは出来そうですが… ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/08
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そろそろ筍の季節です。 熊野も他のところ同様竹やぶが一杯あります。 昔は食料と共に日用品の材料として裏山に竹を植える家が多かったものです。用途も違い筍の時期も違うので、太い孟宗竹と中くらいのハチクの両方を植える家もありました。 春先は普通の筍・・・孟宗竹の筍のシーズンです。ハチクは藤の花が咲く春の終わりからです。 我が家にもこの海岸線と山間部の二箇所に竹やぶがあります。気候が全然違うので筍の生え出す時期も一ヶ月ほど違います。昔はこの時間差が非常にありがたかったようです。今では私が気が向いて出かけない限り筍が里まで降りてくることはありません。 今日は二年ぶりに『気が向いた』ので、竹やぶまで行ってみました。 今年は雨も多いし良い筍が出るだろう・・・そう思いながら山に入って・・・『こりゃ駄目だ!』と思いました。 『いのしし』が来ていました。おととし来た時は人間の手による盗掘でしたが、今回はイノシシさんの盗掘です。これには勝てません。匂いで探して掘るやつですから地面が盛り上がる前に見つけて根こそぎ食べつくします。 彼らが餌場にすると毎晩回ってきて食べますから人間様の取り分はなくなります。 海岸沿いの波田須、新鹿などというところは随分前から筍はイノシシの餌と化してしまっています。猪垣を作って竹やぶを守らないと駄目なのです。 我が家のは木本町の裏山なのでずっとイノシシは来ていなかったのですが、とうとう回って来始めたのですね。これで、イノシシが食べ飽きるまでは採れませんね。 それでも、せっかく来たのだから・・・と、イノシシの見落としを探して回り、小さいのを二本見つけました。本当に小さいのですが無いよりましです。 イノシシが見ていたら、『そんなはず無い!俺様が見落として人間ごときに見つけられるとは・・・』と、地団太を踏んで悔しがるか、『イノシシをやめようかなあ・・・』と自信を無くすかもしれません。熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/08
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誤操作で何も書いてないようなページを送信してしまいました。早くきちんとしたのを送らなくっちゃ・・・ 『病膏肓に入る』とはこういうことなのでしょうね。 昔のカメラで良いカメラ良いレンズで遊びたいと言う病気が高じてしまいました。 丁度一年前…ツァイス・イコン…イコンタ521/2を入手してカメラとしては気に入っていたのですがレンズが…ツァイスと言えばやはりテッサーでないと… 一年がかりでテッサー付の521/2をゲットしました。本日、オーストラリアから到着です。いつもながら中古…太古にカメラが来て荷物をあけるときは『どうぞ動いてくださいよ』『お目目はきれいでしょうか?』と、どきどきします。新品のカメラの時とは別のものです。 カメラ屋さんから買うのなら『動きます』と言えば動くでしょうがオークションですから…それもひたすら安値狙いばかりですから心配も増えます。 さて本日のカメラは…写真の通り塗装は少々剥げ加減…それは良いにして果たしてシャッターは?…速い方は動いて当然ですが1/10以下は???やはり少し遅いようですね。バルブは?これはOK…他にはさほど壊れるところも無いカメラです。 肝心のレンズは?少々汚れあり…そっとクリーニングして…うーーん、完璧ではないですね。コーティングの無い時代なのでそちらの曇りは無いはずだし…これくらいなら上等なのですが、完璧ではないですね。順光では問題は起きないでしょうが… もっともこんなカメラでわざわざ逆光の写真を撮らなくてもいいわけですね。新しいカメラだってあるのですからね。 同じ型番で同じに見えても、今回のは1938年(昭和13年)生まれ、前回のは1947年(昭和22年)生まれ…10年も違います。その間に第二次世界大戦がありドイツも敗戦国になったのです。敗戦すぐだと言うのに前回のも非常にしっかり作られていました。それもそのはず、ほとんど変更しないで戦前、戦中、戦後と作り続けたのですからね。この式の6*9スプリングカメラがなくなるまでほとんど変えなかった、変える必要の無かったカメラですね。 明日の天気は悪いとか・・・天気になればフィルムを入れて…楽しみですね。左が戦前のもの、右が戦後のものです。詳しくは小さな写真をクリックしてください。 イコンタ521/2テッサー付 イコンタ521/2ノバー付 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/07
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日本国中どこへ行っても桜は一杯植わっています。日本人は本当に桜が大好きです。 日本では大きな木で華やかな花を咲かせる木はそんなに多くありません。百日紅なども多く植えられますが桜のように大木になるにはかなりの時間も掛かりますし、時期的にも桜のように『春が来た!』と言う喜びに満ちた時期に咲くものでもありません。 ご他聞にも漏れず熊野にも桜は一杯あります。にぎやかに花見客がたくさん来るところもあります。しかし、中には知る人ぞ知る、ほんの少数の人だけげ花見を楽しむ場所もあります。 以前に取り上げた『水大師』のさくらがそのの一つです。 大馬神社(おおま)への道を途中ではなれて山の中に入ってゆきます。細い道路でこの先何があるのかなという感じですが、分岐点には熊野市が設置している観光道標が立てられていますから安心できます。その道を行き止まりまで進むと、民間信仰の『水大師』があります。謂れとなった湧き水も枯れかけたのか違う場所からホースで引いてきています。 この水大師に信者に方たちが植えた桜があります。もとは畑であったらしい段々の敷地に桜が少々込み合って植えられています。 広くは無いのですが、狭い谷あいのようなところにひっそりと咲く桜も良いものです。染井吉野の向こう側には山桜も立っています。こちらの方が古木のようです。 三月の末から四月の初めにかけて熊野古道に来られて大馬神社に回られた方はほんの少し足を伸ばして水大師にも行かれると良いと思います。ただ、徒歩ですと少し時間が掛かりますね。ここから井戸町、木本町に抜ける本来の参詣道もあるのですが・・・ コダック・メダリスト I 熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください
2006/04/07
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日本では携帯があるから…とか、インターネットがあるから…とか、それがあれば万事解決するかのような話を良く聞きます。役所などもそんなニュアンスの話し方をします。しかし…大丈夫じゃないでしょうね。 アメリカではテロ対策に業務を含め従来の『無線通信』を見直して、大幅に増強してりるそうです。 日本では業務もアマチュアも縮小の一途をたどっています。 かつては200万を越えていたアマチュア無線人口も今では十分の一ほど残っているのでしょうか。我が家でも5人いたアマチュア無線局も今では私と長男の二局になっています。従事者免許は一生有効ですから他のメンバーも何時でも復帰は出来るのですが、その見込みは無いですね。 アクティビティは落ちても、私はいつでも運用が出来るようにはしてあります。何かあったときには昔ほど良いアンテナではないですが、ロケーションの良さでこの周辺をカバーできる基地局に出来るようにはなっています。 かつては日本国内はもちろん世界中で災害が起きるとアマチュア無線家が活躍したものです。アマチュア無線の定義にも決められているように『金銭的目的ではなく…』と言う無料奉仕でした。 どんな条件でもアンテナを設営して運用すると言う無線技師としての力量も資格制度の簡略化でどんどん低下してしまってはいましたが、その中でも少しは育っていたのですが、携帯電話に駆逐されてマイナーなものになりました。 かつてはこれをメインに据えていたアマチュアの人も多かったのではないでしょうか。私は更にもう一つ古い型が座っていました。 井上電気、トリオ。八重洲無線、日本無線、ユニデン、トヨムラ、電菱、ダイワ、ミズホ、松下電器…色んなメーカーがアマチュア無線機を作っていました。井上がICOMにトリオがケンウッドのヤエスがスタンダードになって残っているようですが他は最早アマチュア無線機は作っていないようですね。 アメリカの無線網整備の強化で日本のアイコム・ケンウッド共に受注が好調だそうです。それでもモトローラにははるかに及ばないようです。 昔では考えられないことですがアイコムとケンウッドが提携を結んでいるのだそうです。 最早、私たちアマチュア無線ではこの両者を支える需要はありませんが、ぜひ頑張って欲しいものです。それと、この複雑な地形と、中継チャンネル数の問題でパンクが予想される携帯電話網以外の無線通信網の構築を真剣に考えて欲しいものです。
2006/04/06
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