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デビューからロッカーズまで

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 1965年7月22日、アリゾナ州フェニックスにて父ディック・ヒッケンボトムと母キャロルの間にマイケル・ショーン・ヒッケンボトムという男の子が誕生しました。のちの”ハートブレイク・キッド”ショーン・マイケルズです。父ディックは空軍の軍人でその後テキサス州サンアントニオに移り住みます。ショーン少年はそこでプロレスと出会います。そのころのショーン少年の憧れはリック・フレアー、エリック兄弟、ロックンロール・エキスプレスといったところです。そして12歳のときにプロレスの世界王者になることを夢見ました。1984年ホセ・ロザリオの指導を受けて10月にデビュー。リングネームをショーン・マイケルズと名乗りました。本名だと憶えにくいからでしょうね。
 1984年は折りしもWWEが全米制圧に乗り出した年でした。とはいえ各地に点在しているテリトリーはまだ健在でしたが、デビュー当初のショーンの活動地は、地元サンアントニオ、オクラホマ・ルイジアナ地区、カンザス地区、テキサス州ダラスといったところです。無名の新人に過ぎないショーンのこのころの役割は負け役でした。しかし対戦相手やプロモーターがショーンの才能に目を付けるまでに時間はかかりませんでした。やがてカンザスでショーンは1人のレスラーと知り合います。マーティ・ジャネッティ。最初に出会って意気投合した2人は良き友人同士となりました。
 「しらない奴がうつむき加減で立っていたから、こいつかな?と思った。でもこんな貧弱な奴なわけがないと考え直した。そこでそいつにショーンっていう男を知らないかと聞いてみたら、”オレがショーンだ”と言うからビックリしたよ(笑)それが俺たちの最初の出会いだった。」―マーティ・ジャネッティ
   1986年、そのころAWAに在籍していたジャネッティはタッグチームを組むことを命令されます。そこでジャネッティはサンアントニオに戻っていたショーンにチーム結成を依頼します。ショーンにとってもAWAというメジャー団体で活動できるのは大きなメリットになりますからジャネッティの依頼を快諾。即AWA入りしチームを結成。チーム名は”ミッドナイト・ロッカーズ”。
 「ミッドナイト・ロッカーズは特別さ。AWAを再び面白くしてくれた。当時はファンのオレでも退屈するほどヒドイ試合が多かった。だが彼らは毎回新しいことをやってくれた。面白い試合を期待できたんだ。」―ミック・フォーリー
 当時のライバルでありAWA世界タッグ王者はバディ・ローズ&ダグ・サマーズ。マネージャーはのちにショーンのマネージャーとなる”センセーショナル”シェリー・マーテル。この2チームによる血で血を洗う抗争によってロッカーズの評判は高まりAWA世界タッグ王座を獲得しました。
 この評判に目を付けたWWEが1987年にロッカーズと契約しました。ところが素行不良で2日で解雇。原因はナイトクラブでのJ・J・ファンク(ジミー・ジャック・ファンク=本名ジェシー・バー)に絡まれての乱闘騒ぎを起こしたため。
 「俺たちがバーを破壊したと奴は吹聴していやがった」ーショーン・マイケルズ。
 実際はそれほど大した騒ぎではなかったのですがファンクが必要以上に騒いだためにロッカーズは悪者にされました。結局ビンスに呼ばれて解雇を通達されました。ショーンにとって最初の挫折といえる事件でした。そしてこの挫折に傷ついた影響でドラッグに手を出し始めました。余談ですがロッカーズに濡れ衣を着せたファンクは1990年代初期にメキシコのAAAでエディ・ゲレロとチームを組んでいた”ラブマシーン”アート・バーの兄にあたる奴で日本で”プロレスバカ”剛竜馬とタッグを組んで活動していました。
 その後再びAWAに復帰して2度目の世界タッグ王座獲得に成功したロッカーズは翌88年にWWEと再契約。チーム名を”ザ・ロッカーズ”に改名しました。
 「ロッカーズは今でもお気に入りのチームさ。身体能力は抜群で見た目もクール。見事な連係でダブル攻撃を多用した。これぞレスリングだと一目見て思った」-クリス・ジェリコ。
 当時は”ザ・デモリッション”、”パワー・オブ・ペイン”、”ブリティッシュ・ブルドッグス”、”ハート・ファンデーション”、”ザ・ブレインバスターズ”、”ストライク・フォース”など実力のあるチームが数多くありロッカーズは決して他チームの存在感に負けず奮闘しました。当時のライバルチームはブレインバスターズ。アーン・アンダーソンとタリー・ブランチャードの2人で、あのリック・フレアーのフォーホースメンのオリジナルメンバーでもありました。
 「俺が対戦したなかで最高のチームだったと思う。俺たちと戦うことで彼らの円熟味も増した。」ーアーン・アンダーソン
 1990年遂にWWE世界タッグ王座に挑戦しました。相手はハート・ファンデーション。”ヒットマン”ブレット・ハートとジム”アンビル”ナイドハートの2人。のちに仇敵となるショーンとブレットのファーストコンタクトとなった試合はロッカーズが勝ったものの3本勝負の3本目にトップロープの金具が外れてしまったためにテレビにオンエアできなくなり王座獲得はなかったことになるという不運に見舞われました。結局ロッカーズは1991年末に”仲間割れ”という形でチームを解散。仲間割れのきっかけは1991年サバイバーシリーズでの同士討ちによるものというありがちな展開です。
 結局最終的にはバーバーショップ(ブルータス・ビーフケーキがホストをしているトークショー)でショーンがジャネッティにスイート・チン・ミュージックを見舞ったあとジャネッティを窓ガラスに叩きつけてKO。そのあとショーンはシングル&ヒールに転向しました。”ハートブレイク・キッド”ショーン・マイケルズの長く栄光と苦難の物語の始まりです。



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