New Worid

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A→W→A

 1964年12月18日テキサス州オースチンで誕生したスティーブ・アンダーソン、のちの”ストーンコールド”スティーブ・オースチンは物心つく前に両親の離婚という遭遇にあいます。オースチンら3人の兄弟は母ビバリーに連れられテキサス州ビクトリアへ引っ越します。その後ビバリーはケン・ウィリアムスと出会い再婚。テキサス州エドナで暮らし始めます。オースチンと養父の関係は良好で実の父親以上に敬愛しています。やがて多くのアメリカ人の少年同様フットボールにのめり込みます。ロックシンガーになるという夢もあったみたいですが、かなりの音痴だったため断念。しかしのちに別の意味で真価を発揮することに(笑)。フットボールは大学までやっていましたが、大学中退と同時に足を洗うことに。しばらくは倉庫内でのフォークリフトの運転作業をやっていましたがテレビでレスリング・スクールのCMをみてレスラーになることを決意します。
 このレスリング・スクールを運営していたのが”ジェントルマン”クリス・アダムスです。アダムスは80年代前半活躍していた有名なレスラーで、WCCW(代表はフリッツ・フォン・エリック。本拠地はテキサス州ダラス)で活動してました。日本にも何回か来日していて初代タイガーマスクと戦ったこともあります。オースチンはアダムスからマンツーマンでトレーニングをしていました。実際は何人か生徒がいたけどレスラーになれたのはオースチンだけでした。
 「オレはてっきりボディービルダーみたいなのがゴロゴロいるのかと思ったら、集まってきた連中のレベルの低さにあきれてしまった。運動選手としてのね。」―スティーブ・オースチン。
 もっとも活動し始めて業界のしきたりを覚えてからアダムスが実際は不誠実な人間であることに気が付きました。自伝「トゥルース」にも書かれてますが、ある日アダムスが自分の所で試合をするようオースチンに要請しました。このときオースチンは既にほかのところで試合をすることに合意していてアダムスのオファーを断りました。そのときアダムスはWCWと話をつけてきたと嘘をついて強引にオースチンを自分の所で試合をさせようとしました。結局アダムスの所で試合をしましたが、約束されていたギャラの額が少ないことにオースチンが激怒。そういうやりとりが続いたのでやがて縁を切ったのだと思います。余談ですがスクールへの受付を済ませたあとにレスラーでもなかったオースチンにサインを求めたファンが近づきました。オースチンはオレはレスラーじゃないと言いましたが、キミは絶対レスラーになるはずだからサインが欲しいと言われ結局サインしました。このファンの見る目は正しかったということですか。
 こうしてオースチンは1989年5月テキサス州ダラスにてプロレスデビューを果たしました。約2年位ダラスとテネシー州メンフィスを往復する生活をしていました。そしてメンフィスにて本名のスティーブ・ウイリアムスからスティーブ・オースチンと名乗り始めました。これはメンフィスのブッカーであるダッチ・マンテルから”ドクターデス”スティーブ・ウイリアムスとの混合を避けるため改名をするよう言われたからです。しばらくたっても思いつかず、そのときマンテルがスティーブ・オースチンの名を思いつきます。最初オースチンは難色しました。というのもアメリカのテレビドラマ「600万ドルの男」の主人公の名前と同じだったからです。かなり有名なドラマだったので真似しているのではないかと受け止められるのを嫌がったからでした。結局他の名前が思いつかなかったのでオースチンはスティーブ・オースチンとなりました。それとマンテルはアダムスと違いさまざまなアドバイスをオースチンに与えてくれました。ちなみにマンテルは日本のプロレスの歴史上有名な試合に関わっています。その試合とは83年4月11日に旗揚げした旧UWFでの前田日明との試合です。結果はアッサリ負けましたが前田とオースチンという両極端な個性のレスラーと関わっていたと考えるととても面白いものです。
 こうしてさまざまな体験を繰り返しながら約2年ほどWCWと契約するまでオースチンはプロレスを学んでいました。メンフィスではのちに最大のライバルの1人となるジ・アンダーテイカーとも出会っています。当時のテイカーのリングネームはザ・パニッシャー。のちのアテテュード時代で活躍する両雄の邂逅があったというのも興味深いです。



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