New Worid

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運命の地シャーロット

 1973年6月リック・フレアーは初めて日本へ来日しました。団体名は国際プロレス。かつてラッシャー木村、アニマル浜口、ストロング小林らが在籍していた団体でした。フレアーはダスティ・ローデス、ディック・マードックと共に来日しました。もっともそれはローデスとマードックの付き人みたいな扱いでした。来日中散々手荒い目に遭ったようです。ローデスたちに言わせると新人レスラーが必ず受ける”洗礼”のようなもので、そこで今後そのレスラーが見込みがるかどうかをテストするという伝統が昔からあったようです。ちなみに現在そういう風習があるかは定かではありませんが。フレアーはこの試練を乗り越えることに成功しました。それ以外にものちにNWA世界王座を争うことになるハーリー・レイスと初めて移動のためのドライブを共にしたときもレイスが100キロ以上スピードを出してフレアーが吐いてしまったりなどの経験を積まされることになりましたが。
 そして1人のレスラーと出会います。その名はワフー・マクダニエル。ノースカロライナ州シャーロットに本拠地を置く”クロケット・プロモーション”で主に活動していたワフーとフレアーはお互いに意気投合し、ワフーはフレアーに対してシャーロットに来るよ誘いました。そして1974年フレアーは運命の地シャーロットへ辿り着きました。1935年に設立したクロケット・プロの創始者はジム・クロケット・シニア。通称”ビッグ・ジム”と呼ばれた人物で創設以来クロケット・プロの隆盛に力を尽くしました。1973年に死去したので残念ながらフレアーとは面識がありませんでした。フレアーが訪れたときクロケット・プロのオーナーとなっていたのはビッグ・ジムの息子、ジム・クロケット・ジュニアでした。そしてクロケット・ジュニアをブッカーとしてサポートしていたのがジョージ・スコットという人物です。ブッカーは優秀なレスラーを呼び寄せ、どのように才能を生かすかを考えてマッチメークする役割を担っています。スコットはその点で優秀な人物でした。
 スコットはまずフレアーをリック・ホークというレスラーとタッグを組ませました。ホークはフレアーと組む前はスウェード・ハンセンというレスラーとタッグで活動していました。ホークと組むことでフレアーのレスラーとしての幅が広がると考えたのでしょう。事実フレアーはホークと組んで多くのことを学んだようです。1974年7月4日フレアーはホークとのチームでミッド・アトランティック・タッグ王座を獲得しました。フレアーにとって初めてのタイトル獲得となりました。だいたいこの頃からフレアーのトレードマークともいえる”Woooooo!”という叫び声を始めたようです。のちの”フォー・ホースメン”のメンバーの1人、オレイ・アンダーソンと知り合ったのもこの頃です。やがてフレアーはNWA、WWWF世界王座を獲得したスーパースター、”ネイチャーボーイ”バディ・ロジャースのスタイルを意識し始めました。のちにフレアーは”ネイチャーボーイ”という代名詞を頂くことになりますが。
 しかし一見順調に見えたフレアーのレスラー人生を大きく覆す大事件が訪れようとしていました。1975年10月4日のことでした。



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