New Worid

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ネイチャーボーイへの道

 1976年1月31日リック・フレアーは悪夢の飛行機事故から奇跡の復帰を成し遂げました。フレアーと相対したのは事故以前から抗争していたワフー・マクダニエル。事故のときは立場を忘れてフレアーの身を案じたりして非常に人情味ある男で、フレアーをシャーロットに導いたのもワフーでした。そして試合でもフレアーに強烈な洗礼を浴びせました。ワフーの得意技であるトマホークチョップをフレアーは受けまくり、フレアーも負けじとバックハンドチョップをワフーに浴びせました。フレアーの代名詞といえる技の1つでもあるバックハンドチョップはワフーとの抗争で誕生しました。
 この年の3月1日フレアーは初めてニューヨークのMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)のリングに上がりました。当時のWWWF(現WWE)世界王者はブルーノ・サンマルチノでした。フレアーがMSGに上がった約1ヵ月後にスタン・ハンセンによる首折り事件が起こりました。フレアーもこの試合をバックステージで見ていたようです。ただフレアーのサンマルチノ評はかなり低いです。フレアーのイメージする世界王者はドリー・ファンク・ジュニアでありハーリー・レイスでありジャック・ブリスコでした。確かにこの3人と比べるとサンマルチノはパワーファイターなのでないか違うなと思ったのも仕方ないかもしれません。人気面ではサンマルチノは3人より上ではありましたが。
 1977年フレアーにとって生涯最高のライバルとの出会いが待っていました。その名はリチャード・ブラッド。またの名をリッキー・スティムボートといいます。最初こそ観客の反応は鈍かったものの、試合を重ねるごとに盛り上がっていき何時しかフレアーVSスティムボートはクロケット・プロの黄金カードとなっていきました。もう1人フレアーとライバル関係だったのがジミー・スヌーカ。フレアー、スティムボート、スヌーカ、この3人の共通点は3人ともバックハンドチョップを得意としていたことです。他にこの頃のフレアーとライバルだったのはグレッグ・バレンタイン、ブラックジャック・マリガンといったところですか。もう1人忘れてはいけないレスラーがいます。”ラウディ”ロディー・パイパーもフレアーのライバルの1人でした。
 1979年”元祖ネイチャーボーイ”バディ・ロジャースと短期間ながら抗争しました。ロジャースとの戦いは”ネイチャーボーイ”の称号の禅譲を意味しました。この戦いを制しフレアーは”ネイチャーボーイ”として認知されました。そしてNWA世界王座を獲得へ動きました。



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