New Worid

New Worid

史上最高のユニット

 1985年クロケット・プロにて史上最高のユニットが誕生しました。メンバーはリック・フレアー、オレイ&アーン・アンダーソン、タリー・ブランチャードの4人とマネージャーにJJデュロン。オレイはミネソタ・レッキングクルーというチームのリーダーで活躍。オレイのほかにジーン、ラーズ、そしてアーンがメンバーです。またジョージア・チャンピオンシップの株主の1人(10%保有)でしたが、おなじ株主だったジャック&ジェリー・ブリスコが株をWWEに売却したためWWEで働くことに嫌悪し離脱。クロケット・プロへ活動することになりました。そしてフレアーの最高の親友であるアーンと運命の出会いはこの頃でした。1982年デビューですからホースメン結成のとき3年目!?とてもそうはみえません。いかにアーンが才能溢れるレスラーであるかが伺えます。タリーはテキサス州サンアントニオのプロモーターをやっていたジョー・ブランチャードの息子です。タリーにプロレスのコーチをしていたのがホセ・ロザリオ。あのショーン・マイケルズにコーチをしていた人で、タリーとショーンは兄弟弟子の関係になります。実際ショーンはタリーと”ダイナミック・デュオ”というタッグでパートナーだったジノ・ヘルナンデスの2人に影響を受けていました。ちなみにヘルナンデスもホセ・ロザリオに師事を受けています。そしてマネージャーにはJ・J・デュロン。レスラーでもありましたがマネージャーとしての活躍のほうが印象深いです。有名な話としてはアブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・シークのタッグを実現させて1977年全日本プロレスで開催されたオープン・タッグ戦(現在の世界最強タッグリーグ戦)に参戦させて大いに盛り上げました。
 フォーホースメンというユニット名の名付け親はアーンでした。しかし考え付いて決めたのではなく、インタビュー中に咄嗟に出てきた言葉で、それがフレアーをはじめ皆に気に入ったのでユニット名として定着しました。ホースメンがその悪名を一躍知らしめたのがフレアーVSニキタ・コロフによる金網マッチの試合後。フレアーは試合に勝ったもののWWWF世界王者になったこともある”叔父”イワン・コロフとクラッシャー・クルスチェフ(のちのデモリッション・スマッシュ。その後リーポマンに変身したバリー・ダーソウ)が乱入してフレアーを痛めつけました。そこへライバル関係だったダスティ・ローデスがフレアーを助けました。しかしフレアーはローデスに対して感謝するどころか余計なことしやがってとばかりにローデスを詰ります。そこへオレイとアーンが登場してフレアーと3人でローデスを袋叩きにしました。これには観客も怒り狂ってフレアーたちに物を投げるは金網に押し寄せるはの大騒ぎになりました。
 ホースメンの4人はみんな王座を保持していました。フレアーは言うまでもなくNWA世界王者、オレイとアーンはNWA世界タッグ王者、タリーはUS王者。ホースメンは単なる軍団ではなく超一流の男たちが高いレベルの試合を見せつける最高のユニットでもありました。
 またホースメンは自分たちが豪奢な暮らしをしていることもアピールしていました。実際その通りの生活をしていたようで、車はリムジン、自家用飛行機、豪邸を持ち、服装も上質のスーツ、ワニ皮の靴、ローレックスの時計、ダイヤモンド等等。バーで一晩中呑みまくり、美女たちと一夜を共にするなどとにかく派手に振舞っていました。
 ホースメンに対抗していたのは”アメリカンドリーム”ダスティ・ローデス、マグナムTA、ザ・ロードウォリアーズ(アニマル&ホーク)、ロックンロール・エキスプレス(ロバート・ギブソン&リッキー・モートン)などでした。特にフレアーとローデスの抗争は激しくNWA世界王座巡る戦いはいずれも素晴らしい試合で大いに盛り上がりました。1986年7月26日”グレート・アメリカン・バッシュ”にてローデスはフレアーを破りNWA世界王座を獲得しました。これでローデスは3度目の獲得となりましたが、8月7日のリターンマッチでフレアーはローデスを破り王座を取り戻しました。
 マグナムTAもフレアーのライバルの1人で次期NWA世界王者候補の筆頭でしたが1986年10月14日自動車事故に遭い再起不能となりました。もし事故がなかったらまちがいなく王者になっていたでしょう。そしてクロケット・プロがWCW買収という事態も起こらなかったかも。あまり知られていませんがウォリアーズのアニマルとホーク、ロックンロール・エキスプレスのギブソンやモートンもアメリカン・バッシュ限定ですがフレアーとよく戦っていました。特にモートンはフレアーも高い評価をしていてシングルでもトップクラスのレスラーになれると言っていました。まあモートンはギブソンとのコンビを大切にしてあくまでもタッグプレイヤーとして活躍を選びましたが。
 さてホースメンも1987年になってから綻びが生じました、オレイが息子のアマレスの練習に付き合うために休みがちになり、ついにホースメンから離れてしまいました。代わりに”トータルパッケージ”レックス・ルーガーがメンバーに加わりました。ルーガーは1985年にプロレス入りして順調に出世し、ホースメンのメンバーに選ばれました。とはいえフレアー、アーン、タリーには到底及ばず最初は3人からプロレスのなんたるかを教わるような形で始まりました。しかしクロケット・プロはすぐにルーガーを独立させてフレアーのライバルに仕立てました。これはクロケット・ポロにとってもルーガーにとっても誤った選択だったと言わざるを得ません。もっとホースメンでじっくり鍛えていたら…。ルーガーのその後を考えると間違っていました。
 しかしそのあとにメンバー入りしたのがバリー・ウインダムでした。バリーはブラックジャック・マリガンの息子で素養も良くすぐにホースメンの雰囲気に馴染みました。人によってはバリーがメンバーだったホースメンがベストだったという説もあります。それほどバリーが素晴らしいレスラーだったといえます。ホースメン入りする以前はWWEでマイク・ロトンドとUSエキスプレスというチームでWWE世界タッグ王者にもなっていましたし、フレアーのNWA世界王座に挑戦して名勝負を生み出したこともありました。
 そして1987年9月25日フレアーはロニー・ガービンに敗れて王座を失いました。正直リアルタイムでこのことを知ったとき結構驚きました。ガービンがいいレスラーだったのは理解していましたが地味なキャラだったので、まさかフレアーから王座を奪取するとは予想できませんでした。それでも11月26日のスターケード87でフレアーは王座奪回に成功しました。しかし丁度WWEがサバイバーシリーズ87を同日に開催し、しかもビンス・マクマホンはケーブルテレビの会社にサバイバーシリーズを放送したければ他のプロレスのPPVを一切流さないよう要求し会社もそれを受け入れました。一見すると卑怯だぞビンス!!と受け取れそうですが、ビンスにしてみればサバイバーシリーズを成功させるための処置としてやっただけで、仮にジム・クロケットが同じ立場だったらビンスと同じことをやっていたと考えています。ビンスが先手を打っただけの話です。
 このスターケードの失敗によってクロケット・プロに暗雲が…



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