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地下鉄サリン事件。あれから25年以上がたった。読後感じた事は終末論。最近頻繁している横浜の異臭騒ぎ。まさか、元オウム信者の仕業ではないな? 穿った事を感じてしまった。 金正男はvxガスで殺られた。知らなかったのでビックリ。 サリンは土谷が全て精製した。中川も遠藤も作れなかった。作ったサリンを国会議事堂にヘリコプターで散布する事を考えていたと言うから、ウ~ン。手塚治虫のムウ、村上龍のコインロッカーベイビーズの発想とおんなじ。時は経過しても、発想は飛んでいる!
2020.12.12
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寂しいのに嬉しい、楽しいのに切ない、幸福なのに虚しい。 矛盾の言葉を逆絶的に炸裂させる饒舌な文体。詩のような小説、散文詩のような、淫らさ。Fと言う作家の面倒臭さ。 風呂は、風呂に入るまでが面倒くさい。 何処までもイエスの後にノーが続く。 手の表と裏。
2020.01.10
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何が燃えるゴミなのか、そうでないのか、よくわかった。ありそうでなかったゴミ清掃員の話し。漫画になっているのであっという間に読めました。(≧▽≦)
2020.01.08
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フランス人の女性が、書いた関東の銭湯。 どれも行ってみたい。リニューアルしている銭湯も多く、魅力的です。
2020.01.08
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映画でも作品になったが、「少年A」を題材にしたかの様な作品。小説家は人間の根本と向かい合う時、殺人を題材にして取り組む。人間以外の動物は食うためだけに犯す行為なのだが、悪魔に最も近い人間は正義、悪意、選ばれた等の理由で一線を越えてしまう。22年目の告白ー私が殺人犯ですー (講談社文庫) [ 浜口 倫太郎 ]楽天で購入構成が緻密で読みすすめていくうちに、驚きが脳内を活性化させていく。
2019.10.16
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図書館でリサイクルに出ていたので、持ち帰り読んでみた。惹かれたのは勿論タイトル。川上健一の小説を読むのは初めて。1部は雨鱒と川の中で心平が語るシーン。以下私のつぶやき。東北の自然が一杯の川っていいなあ。ヤマメもウグイも一杯いて。毎日魚を採ることが楽しい日々。心平の書く絵は自然の色に溢れているんだろうなあ。何か一つの事に夢中になれる少年の日々。小学校は本当に昆虫が好きだった。親父に連れられて行った川でのカジカ・鮎釣り。あの感触は今でも私の手の中に残っている。2部は成長した小百合を囲んで揺れ動く男たちの心情が描かれている。初恋に揺れる男心がうまく描かれている。・・が現実はこううまくいかない気がする。物語として、母親の死に不自然さは残る。まあいろいろストーリーの不自然さを言い出せばきりがない。メルヘンとして読むなら、とても余韻の残る・・・素敵な小説だ。
2016.07.16
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朝の、連続ドラマ。「朝が来た」。その番組を見たら一日の楽しみが終わってしまうかのようで寂しい。その番組で福沢諭吉が出てくる。で、まあ「学問のすすめ」読んでみたわけだ。おおー、やっぱいいこと言っている。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤きせん上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資とり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥どろとの相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教じつごきょう』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役りきえきはやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。 身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々しもじもの者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本もとを尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺ことわざにいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人げにんとなるなり。 学問とは、ただむずかしき字を知り、解げし難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦よろこばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴とうとむべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟ひっきょうその学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬たとえば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言もんごん、帳合いの仕方、算盤そろばんの稽古、天秤てんびんの取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土ふうど道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。 学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれつきは、繋つながれず縛られず、一人前いちにんまえの男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限ぶんげんを知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。すなわちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。自由とわがままとの界さかいは、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬たとえば自分の金銀を費やしてなすことなれば、たとい酒色に耽ふけり放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、けっして然しからず、一人の放蕩は諸人の手本となり、ついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりとも、その罪許すべからず。
2016.03.07
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キザでケチな田島。でも女にはまめ。かつぎ屋で普段は汚いけど押し入れの中にはピカピカに光る靴が・・大食漢で怪力でお金にシビアなキヌ子。田島は画家の女と別れるため、キヌ子と一緒に部屋に行く。そこには永く満洲で軍隊生活をして、小さい時からの乱暴者で、大男の兄がいた。さてこの続きはどうなるのか。想像するだけでも、楽しい。田島は兄に怪しからんと言って投げられるのか・・キヌ子が投げちゃうのか。なんかこんな話、手塚治虫の漫画にもあったな。絶食すると絶世の美女に変身してしまう女。30年振りに読んだけど、やっぱ太宰治「グッド バイ」面白い。最近ゲスな話題があったが「グッド バイ」にもあったので記載しておくね。「ピアノが聞えるね。」 彼は、いよいよキザになる。眼を細めて、遠くのラジオに耳を傾ける。「あなたにも音楽がわかるの? 音痴みたいな顔をしているけど。」「ばか、僕の音楽通を知らんな、君は。名曲ならば、一日一ぱいでも聞いていたい。」「あの曲は、何?」「ショパン。」 でたらめ。「へえ? 私は越後獅子(えちごじし)かと思った。」 音痴同志のトンチンカンな会話。どうも、気持が浮き立たぬので、田島は、すばやく話頭を転ずる。「君も、しかし、いままで誰かと恋愛した事は、あるだろうね。」「ばからしい。あなたみたいな淫乱(いんらん)じゃありませんよ。」「言葉をつつしんだら、どうだい。ゲスなやつだ。」 急に不快になって、さらにウイスキイをがぶりと飲む。こりゃ、もう駄目(だめ)かも知れない。しかし、ここで敗退しては、色男としての名誉にかかわる。どうしても、ねばって成功しなければならぬ。「恋愛と淫乱とは、根本的にちがいますよ。君は、なんにも知らんらしいね。教えてあげましょうかね。」 自分で言って、自分でそのいやらしい口調に寒気を覚えた。これは、いかん。少し時刻が早いけど、もう酔いつぶれた振りをして寝てしまおう。「ああ、酔った。すきっぱらに飲んだので、ひどく酔った。ちょっとここへ寝かせてもらおうか。」「だめよ!」 鴉声が蛮声に変った。「ばかにしないで! 見えすいていますよ。泊りたかったら、五十万、いや百万円お出し。」 すべて、失敗である。「何も、君、そんなに怒る事は無いじゃないか。酔ったから、ここへ、ちょっと、……」「だめ、だめ、お帰り。」 キヌ子は立って、ドアを開け放す。 田島は窮して、最もぶざまで拙劣な手段、立っていきなりキヌ子に抱きつこうとした。 グワンと、こぶしで頬(ほお)を殴(なぐ)られ、田島は、ぎゃっという甚(はなは)だ奇怪な悲鳴を挙げた。その瞬間、田島は、十貫を楽々とかつぐキヌ子のあの怪力を思い出し、慄然(りつぜん)として、「ゆるしてくれえ。どろぼう!」 とわけのわからぬ事を叫んで、はだしで廊下に飛び出した。 キヌ子は落ちついて、ドアをしめる。 しばらくして、ドアの外で、「あのう、僕の靴を、すまないけど。……それから、ひものようなものがありましたら、お願いします。眼鏡のツルがこわれましたから。」 色男としての歴史に於いて、かつて無かった大屈辱にはらわたの煮えくりかえるのを覚えつつ、彼はキヌ子から恵まれた赤いテープで、眼鏡をつくろい、その赤いテープを両耳にかけ、「ありがとう!」 ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中、階段を踏みはずして、また、ぎゃっと言った。
2016.02.26
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猫がブームだそうである。実際イオンにあるペットショップに行ったら、いつの間にか、犬に代わって、猫が半分のスペースをしめていた。ま、そんなワケで猫文学「吾輩は猫である」の話をしよう。読み進めていると、我欲についての考察について記述している文章があった。唸る。漱石の文学は哲学を感じる時がある。「ぴん助やきしゃごが何を云ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。どうせ下らんのだから。中学の生徒なんか構う価値があるものか。なに妨害になる。だって談判しても、喧嘩をしてもその妨害はとれんのじゃないか。僕はそう云う点になると西洋人より昔むかしの日本人の方がよほどえらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分だいぶ流行はやるが、あれは大だいなる欠点を持っているよ。第一積極的と云ったって際限がない話しだ。いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境さかいにいけるものじゃない。向むこうに檜ひのきがあるだろう。あれが目障めざわりになるから取り払う。とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪しゃくに触る。どこまで行っても際限のない話しさ。西洋人の遣やり口くちはみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭ほうていへ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまで焦あせったって片付く事があるものか。寡人政治かじんせいじがいかんから、代議政体だいぎせいたいにする。代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと云って隧道トンネルを堀る。交通が面倒だと云って鉄道を布しく。それで永久満足が出来るものじゃない。さればと云って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大おおいに違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下もとに発達しているのだ。親子の関係が面白くないと云って欧洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。親子の関係は在来のままでとうてい動かす事が出来んものとして、その関係の下もとに安心を求むる手段を講ずるにある。夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の区別もその通り、自然その物を観みるのもその通り。――山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。それだから君見給え。禅家ぜんけでも儒家じゅかでもきっと根本的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日らくじつを回めぐらす事も、加茂川を逆さかに流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。ぴん助なんか愚ぐな事を云ったらこの馬鹿野郎とすましておれば仔細しさいなかろう。何でも昔しの坊主は人に斬きり付けられた時電光影裏でんこうえいりに春風しゅんぷうを斬るとか、何とか洒落しゃれた事を云ったと云う話だぜ。心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤まっているようだ。現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。君の権力であの学校を閉鎖するか、または先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢たぜいに無勢ぶぜいの問題になる。換言すると君が金持に頭を下げなければならんと云う事になる。衆を恃たのむ小供に恐れ入らなければならんと云う事になる。君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと云うのがそもそも君の不平の種さ。どうだい分ったかい」 主人は分ったとも、分らないとも言わずに聞いていた。珍客が帰ったあとで書斎へ這入はいって書物も読まずに何か考えていた。
2016.02.12
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ストーカーとか誘拐とかヘビーな内容だったけど、テーマは愛だ。素直になった柴崎、手塚ペアは大事に思い合えるようになって良かった。映画と違って、本は向き合って読むので体力がいる。しかしその分、想像力の翼が格段に広がる。作家は書くことによって、読み手に必ずテーマを伝えようとする。その思いは伝わったよ。
2016.01.25
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川村元気 億男読後思った。億と言わず毎月個人で生活費以外、50万使えるとしたら、どう使うのだろうか。釣り15万 旅行5万 本5万 食事10万 結構これで家族が安泰なら幸せ。計35万。考えてみれば今でも回数が少ないけどやっている。つまりお金が、ガツンと入ってもやる事はいつもの日常と変わらないって事だ。結構つつましやかだ。まあそれで欲が無くなるかどうかは使ってみないとわからない。あれ買いたい、これを買いたい。でも、お金がないから我慢する。それを我慢しつづけていると、今度は欲が無くなってくる。欲が無くなると生きている実感が薄れる。ほどほどの欲。バランスが必要だ。この本にはそんな気づきがあった。二度読みたくなる本です。
2015.11.21
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電子図書の中に「青空文庫」と言う著作権が切れた作家の読み物を扱う誠に結構なコンテンツがある。魯山人の随筆「魯山人の美食手帖」に書かれた「個性」が面白かったので下記記載する。ある晴れた日の午後であった。と、こう書き出しても、芥川賞をもらうつもりで、文学的に書き出したのではないから心配しないでくれ給(たま)え。 いったいこのごろは、何賞何々賞というものが多過ぎるようだ。常務取締役に社長が多すぎるのも気にかかる。知人に道ででも会って、久しぶりに会ったなつかしさかなんだか知らんが、きまって名刺を出される。例えばどんな若僧にもらっても、見給え、たいていは社長か常務取締役である。社長だからと思ってあわててはいけない。電話が一本に机一つ椅子一つ、社長一人の社長もあれば、銀行に知人があるというので、金を借りに行くだけの常務取締役だってある。何々賞も それと似たようなもので、余り多過ぎはしないか。ひとをけなすよりほめる方が美しいことだし楽しいことには違いないが、賞(ほ)めそこなったために、そのひとの前途をあやまらす結果にならぬともかぎらぬ。たまたま格のある何々賞があってそれを受けたと思ったら、棺桶に片足突っこんでいることの証明みたいなことになってしまったり……。 さて、なにをいおうと思っていたのかな。そうだ。ある晴れた日の午後であった……のつづきだ。わたしは、犬をつれて散歩に出た。いや、そうではない。小学校の先生と散歩したのだ。その先生は、遠いところからわたしを訪ねてきてくれたのである。福井県のひとであった。わたしに、福井の産物をいつも送ってく れるひとだ。福井のガクブツである。 わけても福井のうには日本一だ。方々の国々にうにの産地はあっても、おそらく福井のうには格別である。福井の四箇浦(しかうら)のうにはとげがない。とげというか、針というか、あのくちゃくちゃと突き出た奴がないのだ。割ってみると、他のうにのように、やわらかい肉がなくて、からの中にかたまった、乾いたような、ちょうど木の実のような奴がはいっている。落とせば、かんからかんのかんと鳴るだろう。それを取り出して、俎板の上で、念入りに何度もムラのないように練られたものだ。そのうにの産地のひとと、駅へわたしも行くので、いっしょに出かけたのだ。すると、道ばたで遊んでいた小学生が、その先生を見て、チョコンと頭をさげたものだ。その先生はわたしを見返って、笑いながらいう。「わたしはどこへ行っても、子供におじぎをされますよ。どこへ旅行しても、わたしは子供たちの目からは学校の先生に見えるのですね」 わたしは感心したり、寒心したりした。先生、という型にはまりこんでしまったひとを、わたしは立派だと思ったが、同時に大変さみしく思った。型にはまったればこそ、型にはまった教育を間違いなくやれるのだ。だが、型にはまってしまっているがために、型にはまったことしかできないのだ、と、思った。 料理だって同じことだ。型にはまって教えられた料理は、型にはまったことしかできない。わたしは、決して型にはまったものを悪いというのではない。無茶苦茶な心ない料理よりは、まだ型にはまったものの方が見苦しくない。大学を出ない無知よりは、同じ大学を出た無知の方がましだ。だが、大学に行っても自分でやろうと思ったこと以外はなにも身につかないものだ。本当にやろうと思って努力するひとにとって、学校は不要だ。学校は、やらされねばならない人間のためにある。自分で努力し研究するひとなら、なにも別に学校へ行かなくともよい。とはいうものの、習ったから、自分でやったからといって、大きな違いがある わけでもない。字でいえば、習った「山」という字と、自分で研究し、努力した「山」という字が別に違うわけではない。やはり、どちらが書いても、山の字に 変わりはなく「山」は「山」である。違いは、型にはまった「山」には個性がなく、みずから修めた「山」という字には個性があるということである。みずから 修めた字には力があり、心があり、美しさがあるということだ。型にはまって習ったものは、仮に正しいかも知れないが、正しいもの、必ずしも楽しく美しいと はかぎらない。個性のあるものには、楽しさや尊さや美しさがある。しかも、自分で失敗を何度も重ねてたどりつくところは、型にはまって習ったと同じ場所に たどりつくものだ。そのたどりつくところのものはなにか。正しさだ。しかも、個性のあるものの中には、型や、見かけや、立法だけでなく、おのずからなる、 にじみ出た味があり、力があり、美があり、色も匂いもある。いや、習いたければ習うもよい。習ったとて、やはり力を、美を、味をと教えてくれるだろう。気をつけねばならぬことは、レディーメイドの力や美を教えこまれぬことだ。型から始まるのも悪くはないが、自然に型の中にはいって満足してしまうことが恐ろしい。型を抜けねばならぬ。型を越えねばならぬ。型を卒業したら、すぐ自分の足で歩き始めねばならぬ。同じ型のものがたくさん出ても日本は幸福にはなら ぬ。山あり、河あり、谷ありで美しいのだ。しかも、山にも、谷にも、一本の同じ形の木も、同じ寸法の花もない。しかも、その花の一つ一つは、初めはみな同じような種から発芽したのだ。芽を出したが最後、それらのものは、みなそれぞれ自分自身で育ってゆく。 習うな、とわたしがいうことは、型にはまって満足するな、精進を怠るなということだ。 この本を読んだからとて、決して立派になるとはかぎらない。表面だけ読んで、満足してしまってはなお困る。実行してくれることだ。そして、それぞれに研究し、成長してくれることだ。読みっぱなしで分ったようなつもりになってくれては困る。 それでは、個性とはどんなものか。 うりのつるになすびはならぬ――ということだ。 自分自身のよさを知らないで、ひとをうらやましがることも困る。誰にも、よさはあるということ。しかも、それぞれのよさはそれぞれにみな大切だということだ。 牛肉が上等で、だいこんは安ものだと思ってはいけない。だいこんが、牛肉になりたいと思ってはいけないように、わたしたちは、料理の上に常に値段の高いものがいいのだと思い違いをしないことだ。 すきやきの後では、誰だって漬けものがほしくなり、茶漬けが食べたくなるものだ。料理にそのひとの個性というものが表われることも大切であると同時に、その材料のそれぞれの個性を楽しく、美しく生かさねばならないとわたしは思う。
2015.11.10
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図書館の話だと言うので借りて読んでみた。市立図書館で働く4人の男女がそれぞれの想いを綴った形式で話が展開していくんだね。派遣社員として図書館にミニスカートでやってきた、超絶美少女・春香の設定は良いね。私的には図書館で働いている人ってエプロンつけているが、地味なズボンはいている人しかお目にかかったことがないので、ミニ大歓迎なのだけどね。登場人物としてドキッとしたのはロリコン男・松田かな。彼のはいたセリフ「性の対象として好きなやつが児童館の職員や小学校や中学校の教員の中に混ざっている。俺が興味あるのは女子中学生だけで、小学生に対してはしっかりと仕事上の愛情で接している。ゲイにはゲイが分かるし、カツラをしている人にはカツラをしている人が分かるらしい。同族同士で何かしらの匂いを嗅ぎつけるのだろう」このセリフは面白い。彼は突然フェイド・アウトしてしまう。その後彼がどうなったのか。続編を書いてもらいたいね。真面目堅物アニメ大好き女・日野は果たしてこれから松田と会えるのかと言うところも気になる。特になんの特徴もない主人公・本田と春香が最後一緒に暮らそうと言うところでこの物語は終わる。畑野智美の作品を始めて読んだけど、この人の書く人物達の空気感がとても良い。重い話も持たれない。お勧め作品です。
2015.11.07
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港町食堂 奥田英朗の本を読み終える。抱腹絶倒の旅行紀だ。その旅行記で気にいった文章があった。『だいたい「生きがい」だの「自分探し」だと言うのは、現代病の一種である。「みんなが主役」などとマスコミが甘言をささやいた時点で、人は新手の悩みを抱えるようになった』その後「学徒出陣の記録」を読む。色川大吉の記述にこんな文章があった。「死を前にしても自由が無いという事が、飢餓感をいっそう望みのないものにしている」「飢えの前では性欲なんて贅沢な本能だ」「人間をギリギリに追いつめるもの、徴兵検査で人間を四つん這いにさせ人間の尊厳を失わせる」「飢えに追い詰められたとき人間がどんなに下劣にあさましくなるのか。それを見た人間は人間の尊厳をどう信じたらいいのか」 改めて感じた。生きがい」だの「自分探し」だと言うのは、飢えの前では考える余裕すらないんだと。贅沢な現代病の一種なんだと。 港町食堂はとにかくたべまくる紀行文である。飢餓と飽食は相いれないものである。ゆえに人間の尊厳を奪いつくす飢餓に対して底知れぬおそろしさを感じた。
2015.03.20
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吉田調書を読み解く 門田隆将福島原発の未曾有の危機を命がけで守ろうとしている人達の事を朝日新聞が誤報報道したことによるジャーナリストの驕りについて、露わにした本。所長命令に違反して9割撤退した人達に対して朝日新聞社のジャーナリストはちゃんと裏付けは取っていたのか?吉田氏の取った行動を我が身に置き換えて考えてみるがいい。「死」を覚悟して仕事をするという事は、どういうことなのか。この記事を書いた本人、そして朝日新聞社としての姿勢について猛反省するのは当然の事だ。戦う人間を安全な場所から見物し、したり顔で論評する。そして最後には冷笑する。そんなジャーナリストであってはならない。明日は3月11日、もう4年経つのか。実際に現場を目で見て、体感した風景は忘れることができない。ご冥福をお祈り申し上げけます。
2015.03.10
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あれ、相当ブログ書いてないぞ。そう思って久しぶりに書いちゃいました。奥田英朗の本って面白いね。「田舎でロックンロール」読んで同時代、音楽について同じような趣向だったということもあってすっきり気に入ってしまった。根底にこの人の作品にはロックがある。今読んでいる「サウスバウンド」すこぶる面白い。ちなみにこのタイトル、オールマン・ブラザーズ・バンドの曲なんだね。わかる人はわかる。奥田氏の文体はわかりやすくっていい。何よりも夢と希望を強く感じる。だから読むと元気が出る。この本は直木賞受賞第一作目の作品。お勧めだよ。ジョンリーは今だ冬眠。花粉も怖いしね。したがってインドア生活を満喫。ポテトチップスをかじりながら本を読む時間至福だね。映画(テレビ)は孤独のグルメにはまっている。ただ食べるだけなんだけど、それが何ともいい味出しているんだね。
2015.02.19
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きらきらした若手アイドルの水着等の写真が満載なのもうれしいけど、細野晋司の評論が素晴らしい。【送料無料選択可!】グラビア美少女の時代 (集英社新書 ヴィジュアル版 030V) (新書) / 細野晋...価格:1,296円(税込、送料別)写真は自分の心で溶かすもの新垣結衣2012年「EOSM」のCMのキャッチコピー「写真は時間を冷凍保存するんだよ。心の中で溶かすと思い出になる」何と素晴らしいキャッチコピーなんだろう。これ程端的に写真を撮る意味を明確に表した言葉があろうか。
2015.01.23
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小泉今日子が推薦していたので、読んでみたら、何とまあ、下ネタの話の連作なんだね。その中でも心温まる『ピース』が良かった。女子大生、光子は3人の男たちをとっかえ、ひっかえ、小暮荘に連れ込む。光子は子供が産めない身体であったんだ。だからってやりまくっていいもんでもないけどね。でも話は、やりまくりでは終わらない。縁があってまだ名前も付いていない友人の赤ちゃんを預かり、光子は母性に目覚める。その先に切ない思いが待っているというストーリーなんですな。油断させておいて涙腺をピンポイントで攻めてくる、やっぱ売れるだけの事はあるね。もっていきかたが、実にうまい。「こどもがいないやつは、血だか遺伝子だかの流れには乗れない、何にも残さず生まれて死んでいくだけの生き物になるってことなのか」光子のこの言葉は心に残った。
2015.01.20
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タイトルが気になって川村元気の「世界から猫が消えたなら」を読んだ。「人生はチョコレートの箱、開けてみるまで分からない」フォレストガンプもし自分が死ぬとわかって、今やってみたい10の事と言われた場合、何を選択するのだろうか。チョコレートの箱を開けてみると「死」という現実が身に降りかかってきたとして・・。フォレストガンブは、ひたすら走り続けた。私にはそんなことは出来ない。又したくもない。人それぞれやりたいことは違う。人は何かを覚えるために忘れる。母が亡くなった後、猫のキャベツと二人暮らしをしていた僕は、余命僅かと宣告された。呆然とする僕の前に現れた悪魔は「ひとつだけ何かを消すと、一日寿命 が伸びる」取引を持ちかける。電話、映画、時計が消え、最後に提案されたのは、猫を消すことだった。人は水と食べ物と寝床があれば死にはしない。人はそれでは満足が出来ず、次から次へと生きるために必要な最低限以外のものを作り続けた。なぜ狩りが楽しいのか。それらすべて人間が作り出せないものばかりだから。あってもなくてもよいものが、この世には重要なものだとさえ思えてくる。
2015.01.15
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村上龍の中篇小説本を読む前に、NHKテレビで「結婚相談所」「空を飛ぶ夢をもう一度」「トラベルヘルパー」と言う題名のドラマを見た。年代と近かったこともあり、身につまされる内容ばかりであった。その中でも、リリーフランキーが出演した「キャンピングカー」のドラマは趣味の面、生き方の面でも近い感じがして、どうしても内容を読みたくなっていたこともあり、あきる野中央図書館でレンタルをしてみた。小説の中には、早期退職、営業、コーヒーが好き、キャンピングカーで日本中を回りたいと言ったキーワードが随所にちりばめられていて、主人公富裕太郎の営業に対する考え方、「営業に必要なのは体力と、商品知識と、コミュニケーションスキルで、業種には関係ない」その思考が同じなので、ついニヤリとしてしまった。主人公は私と同世代であり、再就職にトライしていくが、なかなか決まらず、いかに自分がアマチャンであったか思い知らされるシーンが何度も繰り返されある意味での共感を覚えた。そういう展開になるだろうとは予想していたが、まったくその通りになっていく主人公を見て、龍さん、よく人間観察して書いているなと感心してしまった。籠もりがちになった富裕に、友人、駒野が「どこでもいいんだよ。家の中にずっといるとわからないが、外出して寒い中、家に戻ると家が暖かく感じるだろう」話すシーンがある。「ああーなんかいいなあ、人生をどう生きていくか、頭で考えるより外に出て体験、体感してみるとわかる」正に応援歌のようなセリフであった。全編読み終えて感じたことは、「ようこそ人生を」と言う題名通り、家庭、夫婦、恋愛を通し重要なのは、龍さんもあとがきで言っているように、「その人物が、それまでの人生で、誰とどんな信頼関係を築いていくのかという事がとても大事なんだ」って事。早期退職後、考えてきたことは、収入以上に「好きな事をやろう」が人生のキーワードであった。そのキーワードさえ、ぶれなければ、どんな逆境にあっても何とかなる。人生は常にチャレンジである。それは企業のありかたであっても同じだ。生き方において最初からサクセスストーリーを描いた内容より挫折から這い上がってくる生きざまは、共感を覚える。
2014.12.26
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今日のテレビでも紹介していたが佐賀の武雄市立図書館が明日オープン。これは楽しみだ。ツタヤやってくれたね。知の読書離れがすさまじいが、本来図書館は税金で運営されており地域の人達のためにある。指定管理制度に対しての賛否は多いが、私は働く立場として司書の門戸が開かれとてもいいことだと思っている。図書館司書が踏ん反りかえっている時代はとっくに終了したのだ。図書館は完全なサービス業である。ここには知の宝が埋まっている。本のみならず視聴覚資料がタダなのだ。無制限に本を貸し出ししている公共図書館も在り利用しない手はない。三浦しおん、有川浩の影響もあり図書館が最近特に見直されている。「40万冊の図書」も最近公開された。まだ見ていないけどいずれ見る機会を作ろうと考えている。子供本の読み聞かせを題材にした「じんじん」も7.13より全国の劇場でロードショーがスタートする。本の持つパワーは人間の尊厳だと思う。人間だけが知を享受することが出来る。電子図書「キンドル」とアナログ雑誌の共栄共存。プログラミング言語の人間の言葉に近いアセンブリ言語なんて機械語もどんどん進化してきている。本に限らず音楽の聴き方も変わってきている。MP3はとても便利な音楽圧縮方法となった。bluetoothで機器間無線通信を行いユー・チューブをカーステレオで聴くことも出来るようになった。30年前は考えることすら出来なかった。何せ磁気テープ全盛だったからね。しかし共通するのはソースが一番大事って事。良書、良音楽、良映画を視聴覚する事が大事。まあこの点は10年スパンで見ていけば取捨選択はシンプルになると考える。その点図書館は選書されているのでまず間違いはない。さて今日は913と726の目録のワールドを楽しんでくるか。ちなみに726は漫画なんだね。
2013.03.31
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本好きの人はこう言った題名に弱いのではないかと思う。作者は三上延本のカバーを見ると男は引いてしまうかも知れない。女性をターゲットにして売りだそうとした戦略がありあり。テレビでは篠川 栞子(店主)役を剛力彩芽が演じていた。第1巻夏目漱石『漱石全集・新書版』(岩波書店)「それから」を扱っていた。これはとんでもない不倫小説。何せ親友の奥さんを寝取って奪っちゃうんだから・・・主人公の葛藤が凄くて、うむむむ・・・ドウナンダベーと感情移入しちゃう小説なんだ。漱石作品の中では「心」と「それから」がジョンリーは好きだ。「わかっちゃいるけどやめられねー」この人間臭がたまんなくて、はまった。まあ、まさか民放でこんな本に関するドラマが展開されるとは・・視聴率が低いかと思えば16.3%だって。ゴ剛力彩芽様様だね。小説は小山清『落穂拾ひ・聖アンデルセン』(新潮文庫)ヴィノグラードフ、クジミン共著『論理学入門』(青木文庫)太宰治『晩年』(砂子屋書房)と具合に進んでいく。読んだこともない本も次から次に出てくるので参考になるね。「小石川図書館」行ったら「なんかゾクゾクするくらい面白い本ねえの」って司書に聞いていた。もしかしたらその一冊がこの小説からめっかるかもしんない。ちなみに小山清『落穂拾ひ・聖アンデルセン』(新潮文庫)は読んだことがない。楽天アフェリエイト情報【内容情報】(「BOOK」データベースより)鎌倉の片隅でひっそりと営業をしている古本屋「ビブリア古書堂」。そこの店主は古本屋のイメージに合わない若くきれいな女性だ。残念なのは、初対面の人間とは口もきけない人見知り。接客業を営む者として心配になる女性だった。だが、古書の知識は並大低ではない。人に対してと真逆に、本には人一倍の情熱を燃やす彼女のもとには、いわくつきの古書が持ち込まれることも、彼女は古書にまつわる謎と秘密を、まるで見てきたかのように解き明かしていく。これは“古書と秘密”の物語。本に対する情熱が半端じゃないってのがいいね。さてと・・残雪見ながら今日も自分の株が上がらないかなあチェックしながら一日スケジュールにあわせて動くとするか。
2013.01.16
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この本を読み始めてから何日が経つのだろう。確か後楽園近くの中央大学で情報検索に関する試験を受けてから読み始めたのだから、17日間以上かかったことになる。本を読むというのは時間を食べるのと一緒だ。結構かかったなあ。読んだ後、満足感と同時に記憶の風化がどんどん進行してゆく。まあ、それでいいのだと思っている。「1Q84」は様々な問題がありながら答えが出ていない。 はっきりしているのは二人の主人公は出会えハッピーエンドとなったこと。鏡の中のアリスが穴に落ちて別の世界を見てきたようにこの物語も「1984」ではない別の世界をくぐってきた。1,800ページにもなろうかと言うこの本をちゃんと読めた時間を書き手と共有できたことに感謝する。「人はどのように生き、死んでゆくのか」大量の活字を読みながら考えさせてくれた。青豆と天吾、ふかえりとリーダ、牛河とタマル。あなたたちに出会えたことに感謝する。
2012.12.12
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ブームが去った頃に図書館で借りれなかった本を読む。これが最近のジョンリーのブック本の読み方です。で、面白かったら購入する。ま、春樹の本は面白いので結局購入しちゃうんだけどね。行定勲監督の映画話を書こうかとも思ったが、今日は「1Q84」予定調和はつまらない。また悪い癖が出た。村上春樹のこの本を読むには今しかない。時間はたっぷりあるからだ。毎度の事ながら最初の20Pを我慢すればこの人のワールドに吸い込まれていく。「アンダーグラウンド」からずっと春樹はオーム教に対してずーと書き続けている。前作の「海辺のカフカ」にもそれは表現されていた。「1Q84」では更にそれが克明に小説としての題材として描かれている。「ノルウェーの森」でも共同コミュニティの話があったが今回は「さきがけ」これが結構不気味に描かれている。ワクワクする展開だ。ブックス2の234pに差し掛かった所で天吾の彼女とヤナーチェックの「シンフォニエッタ」を聴くシーン。ルイ・アームストロングがw・Cハンディのブルースを集めて歌ったレコードの話がある。ここでクラリネットを吹くバーニー・ビガードの話が出る。ジャズ・ファンにとってはたまらない話だ。彼女は天吾に向かって「バーニー・ビカードは天才的な二塁手のように美しくプレイする」村上春樹を読みたくなるのはこういう音楽の話がよく出るからだ。小説家としては中上健二と村上龍と伊坂幸太郎くらいしか思い出さない。スィング・ジャーナルも廃刊となりジャズのパワーが消えかかろうとしている昨今であるが、いいものはいいんだ。さて青豆がこれからどういう形で「さきがけ」のリーダーに会えるのか・・天吾と青豆はいつ遭遇するのか・・失踪したふかえりは今どこにいるのか・・・「1Q84」の意味も分かったし、後は読みふけるだけだ。
2012.11.28
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図書館で山崎マキコという女性作家の「ためらいもイエス」という本を見つけたとき思わず「読んでねー」って語りかけていました。まあ本音は表紙の写真が美人で「ひょっとしたらこの人が書いたの?」不埒な願望があったのが本音の所ですが・・・・もっともいまだにこの人かどうかは不明です。動機はなんであれ、読んだ瞬間に面白くて、楽しくて、おかしくてはまっちゃっいました。続いて読んだのか「マリモ」なに?この感性・・・オンタイムで生きている女性の感性が三行事に「ほよよよんっ」て感じで表現されているんです。まるでこの感覚はドクター・スランプのアラレちゃんです。今までの、女性作家で味わったことのない文章の面白さでした。主人公は、呑み助でだらしなく自分が何者かよくわかっていない。自分探しをしているような主人公がで「でーん」と真ん中にいます。山崎マキコの小説の面白さは言葉の面白さです。この言葉のワールドには、はまりますよ。大推奨です。 お、なんかブログ的です。
2010.05.05
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富士山でこけて肩を痛打するわ、得体の知れない熱が出て、ふらふらになるわで、身体が腐りかけた状態になっているジョンリーであります。まだ咳が断続的に出るのが、うざいのでありますが、そろそろ復活しないと富士山にいけないので適当に復活宣言します。「転んでもただでは起きない」そうです。転んでも蕨は我が手中に残りました。保存用に、軸の太い蕨はちどりさん流に重曹でアクダシしてから干してみました。3日たちミイラのようになったので今日ポリ袋に回収しました。 アクヌキした蕨は味噌汁、昆布あえ、油揚げとあわせての煮付けにて綺麗に食しました。瞼を閉じると無様にこけたシーンが浮かびます。クソー。日曜日は富士山に必ず行きますので、是非声かけてくださいね。まだ体調が完全復帰していないので今日はこれくらいにて・・・・・でも、これだけでは面白くないので最近ものすごく笑った本ご紹介します。群ようこの「鞄に本だけつめこんで」群さんは私より2歳年上なんですね。年代が近いせいか、とっても共感がもてます。そしてとってもかわいい人だとエッセイを読むと感じることが出来ます。猫に対する愛情が深く梶井基次郎「愛撫」の中に書かれているトラちゃんに対しての「インディアンののろし」のシーン笑い転げてしまいました。群ようこさんの文章は人を楽しませる要素が一杯あるんですね。椎名誠「本の雑誌」のコラムを書いていた人だったんですね。なるほどと思いました。
2009.05.14
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先日の会見で金賢姫が「拉致問題の解決は北朝鮮のプライドを守りながら交渉を・・」と言った言葉は『 いま、女として 』を読んでみたら、なる程な!と思えます。金賢姫の『 いま、女として 』の下巻には北朝鮮の嘘が一杯書かれています。北朝鮮は今また人工衛星という嘘をついて爆弾実験をしようとしています。日本から見たら頭を捻るようなことばかりですが北朝鮮側から見たらそれが国民に対して進歩の象徴を示す実験なのかも知れません。しかし高級官僚の一部にはその嘘を知っている人も一杯いるはずなのにどこからも謀反の旗が起こりません。一人独裁の国では金日正をあがめたてないと生きていけない。悲しいけどそれが現実なのでしょう。しかしそんな現実でしか生きていけない国なんて・・・・・考えれば考えるほど自由主義はいいなぁと思います。下巻 第24章には北朝鮮の生活のウソが克明に書かれています。北朝鮮の女性は「結婚して独立するときは、住む家を行政区域に申請すれば、順番によって家をもらえます」「結婚している女性は、夫より30分遅く出勤し、1時間半先に退勤し、夫の退勤の時刻は6時30分です。ご飯工場を利用しているから、夕食の支度に追われる事はありません」これは南朝鮮の代表達と北朝鮮の女性達との談話で北側の女性が話した内容だそうです。何故そんなウソをつかなければならなかったのか?一重にプライドのなせる業、そして金日正の賢明な指導力と偉大性を神のように褒め称えないと生きていけない国のなせる業です。実際に家をもらえるのは高級幹部の子弟でない限り夢のような話であること。出退勤の時間は男女平等という名の下に、各種労働時間は労働力の不足で夜遅くまで激しい激務をしている。食生活に関しても品物の値段の「高い」「安い」が問題ではなく、高くても買う品物がないのが問題なのだと金賢姫は吐き捨てています。金賢姫を見て最初に感じたのはなんでしょう。やはりその美貌にあると思います。そして今回公けの場所に姿を現したときも凛とした美しさを感じました。そして、何より惹きつけられたのは「生きる意志の強さ」です。絶対消えることのない過ちを背負ったまま生きるという行為は生半可な事では出来ないと思います。毎日の日々葛藤を思うと・・とても辛いものがあると思います。冷ややかに言う人はいますが当然です。罪を犯したのですから・・人間の屑になったのですから・・善悪だけで切って落とせないと思うのですが罪は罪です。しかし希望を感じるのは罪を背負って毎日を生きているというその行為です。その事そのものが贖罪になるのではないかと思うのです。ラスコリーニコフが罰を受けてから生き続けたように・・毎日懺悔を行うその行為に希望があると思うのです。人は希望がなくては生きていけません。例えそれがシーシュポスのようであっても登る希望がないと生きていけません。金賢姫の「文庫本へのあとがき」にはこう書かれています。「罪人の身としてどのように生きていけば良いのやら、たとえ恩赦を受けて無罪を宣告されたとはいえ、人々の身を射すような、恨めしそうな視線の中で一生つらい思いをして生きていかなくてはならないのか、という多くの葛藤と悩みをも体験いたしました。人生は「空手来空手去」〔何も持たずに生まれて何も持たず去る〕といいますが、私には今後、私のために犠牲になった人達に対して何かをやらなければならないという荷物を、死ぬまで背負っていく義務があり、今までよりいっそう積極的に生きなければならないと思っています。〔中略〕「全てを神にゆだねよ」。そして今は、主である神を信じてクリスチャンになり、過ぎし日の罪をきれいに贖罪し、再び生まれ変わりたいという、切実な気持ちを心にいだきながら、一歩一歩前に進んでいきたいという思いで生きております」「夢と希望のさいなむ人は幸せである」ジョンリーはボードレールよりこの言葉を貰い今でも問い続けています。希望には楽しむというスパイスが必要だと・・そのスパイスには喜怒哀楽が含まれていると・・・それがどんな運命のひとひねりで変わってしまおうとも喜楽があってこそ道は続くと・・
2009.03.14
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実はこの本は我が家に5年前位からありました。しかしどうしても手をつける事が出来ずに今までひっそりと埃を被ったまま書庫に眠っていました。ようやく読み始めたのは田口八重子さんの事が最近クローズアップされたという点にあります。金賢姫がマスコミの前でTVにて李恩恵という日本人の名前を出した時1970年代~1980年代にかけて多発していた連続失踪事件の真相が明らかになった瞬間でもありました。この金賢姫の「いま、女として」を読み終わった後に残るのは林郁夫の手記に感じた部分と同じでした。「一人の権力者によって正義の名の下に爆破せといわれたら爆破せざるを得ない」「この人も私であり・・すべての人間が同じ環境におかれたら同じようにやらざるを得なかったのではないか・・」記者会見が終了した後の手記に金賢姫のこんな言葉があります。「私はなんの間違いで、人間の屑のような状況におちいってしまったのだろうか」そう、屑という言葉に琴線が触れました。罪を犯したら罰を受ける。それは当たり前の事です。金賢姫の事件に関してはもっと罰されなければならない人物がいます。世の中景気の問題がマスコミによって麻疹のように取りざたされていますが本当に叩かなければいけないのは拉致問題なのじゃないでしょうか。人間の尊厳を無視した拉致は屑の行為です。もし自分がその立場に置かれたらたまらない気持ちになります。「いま、女として」は文藝春秋の文庫本として出ています。最初は興味本位から読んでいただいても結構です。読み進むに連れて人間の持っている善悪の価値観が思想によってこうも変わってくのか・・その怖さに震撼するでしょう。救いのある本ではないのですが金賢姫の手記には不思議なユーモアがあります。そこがこの手記を読み進められる点なのかも知れません。
2009.03.04
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小さいときから本を読むのが好きでした。それは今もオンタイムで続いています。歳を重ねるに連れて読んだ本を片っ端から忘れていきます。痛快な程忘れていきます。ですから興味のある本はまず図書館で借ります。そして再読したい本を本屋で買います。しかしそんな本はめったにありません。最近読んでいる本の多くは漫画です。電車と風呂に入っているとき読みます。時々居眠りこくので風呂に入っている時は水びたしになります。ここのところは手塚治虫の本を全巻読むと決め片っ端からやけくそのように読んでいます♪。近くの図書館に手塚作品が全部揃っている凄い図書館があるのです。絶筆となった「ネオ・ファゥスト」もたった今読み終わりました。いやあ、凄い本です。ゲーテの「ファウスト」を手塚風にアレンジした作品です。まるで映画を見ているようです。読んで引き込まれます。「バルボラ」に少し類似しているところがあります。最近は随筆と言うのか短い文章だと読みきれるので土屋賢二の本をかあちゃんに薦められてよく読んでいます。ユーモアたっぷりなエッセイでなかなか笑わせてくれます。
2009.01.08
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「自由って一体なんだい!」尾崎豊がスクランブル・ロックン・ロールで歌っている。好きな時に自由に歌える。それが自由だよ。そうつぶやきながら30年ぶりに「きけわだつみのこえ」を読み返した。当時私は22歳。学生であった。「戦争を知らない子供達」そんな歌がヒットしていた記憶もある。ただし私はその歌が嫌いだった。戦争を題材にして商業主義に走った歌という印象が強かったからだ。今思えばどこかそういったあの詩の中で語られている若者の表現対して唾棄したい気持ちがあったのだと思う。食べたいときに食べたいだけある食物。読みたいとき読みたいだけある本。膨大な量。のめりこみたければのめるこめるだけの膨大な時間。遊ぼうと思えばいつでも遊べ、自堕落にしようと思えばいくらでも自堕落にできる自由。生を制限されていない身体であれば健康を保ちさえすれば多少の制約はあれどこれからどうするかという未来がいくらでも考えられた。死に意味はない。どう生きたかだ。1944年、10月から始まった学徒出陣。彼らにはどう生きたかという自由が与えられなかった。戦況下にあって必然的に戦場に往かざるを得ない彼らにとってどう死ぬかかといった究極の選択肢しか与えられるものはなかった。一部にこの本は左翼かかっていると言う人もいるが私にはそんな事はくだらない議論である。「自由って一体なんだい」そう叫ぶ事の出来た尾崎を見て彼らはどう思うのか。少なくとも好きな事を好きなように出来る自由は夢にも勝る天上の世界であったはずなんだ。川島正。29歳 華中にて戦死。「中沢隊の一兵が一シナ人を岩石で殴打し頭蓋骨が割れて鮮血にまみれて地上に倒れた。それを足蹴にしまた石を投げつける。見るに忍びない。それを中沢隊の将校も冷然と見ている。高木少尉の指示らしい。冷血漢。罪なき民の身の上を思い、あの時なぜ遅ればせでもよい。俺はあの農夫を助けなかったのか。自責の念がおきる。女房であろう。血にまみれた男に取りついてないていた。しかし死ななかった。軍隊が去ると立ち上がって女房に支えられながらトボトホと歩き去った。俺の子供はもう軍人にはしない」柳田陽一。23歳 木更津にて殉職。「わけのわからないものが渦巻きのごとく身を取り巻く。それが私を未知の世界に吹き上げる。なんという時なのだ。人間とは、歴史とは世界とは一体何なんだ。誰が歴史を動かすのだ。人間とは一体なんだ。一体俺をどうしようというのだろう」「今夜は最後の夜だ。それが私の疑問なのだ。期待しない。望まない。これが私の理想なのである。最後の問い。歴史とは何であるのか」彼らの血肉を粉砕する事によって得た代償とは・・・平和・・・武力の戦争が終わっても資源戦、経済戦など結局人類の滅亡まで平和と言うものは訪れないものかも知れない、宮沢賢治の言うところの「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」東洋的な神秘にも感じる賢治の考え方が好きでなんかこの言葉が平和という意味を代弁しているようで・・いつも繰り返しつぶやく。歴史はサイパンの敗戦で終わっていたはずなのだ。しかし国家は一億玉砕で戦い続けた。結果1945年8/6広島 原爆投下8/9長崎 原爆投下8/15終戦。なぜ日本は「民族共同体」という思想の元「天皇万歳」で死ねたのか。死にたくなくても死なざるを得なかった300万人の英霊。学徒10万人。靖国にはその英霊が宿っている。つらつら書いてどうなる。もう一人の私がつぶやく。答えはない。ただいえるのは忘れないこと。生きるための自由を与えられる事もなく死にただ向かっていかざるを得なかった若者の手記を忘れない事。その事を忘れないため、またこの本を一度も読んだ事がない人のために30年の歳月を経て書いている。当時22歳の時思ったのは自己における前進。向上の姿勢を目指すこと。それが彼らから教えられた未来への姿勢だった。あれから30年経った今それがなされているかどうか恥ずかしながらその事は今も問い続けている。何があろうと忘れない。それが歴史に対する贖罪ではないかと思う。
2008.07.30
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浅田次郎「キンピカ2」」再読。抱腹絶倒。まるでマンガを読むように面白いね。「憑神」も面白いけどなんてんだろう。喜怒哀楽のつぼを知っているというのか、読み手がこう書けば笑うだろうというコツを知っているんだね。でも実際書こうと思ったらこんな風にはなかなか書けないよ。岩明均「風子のいる店」読む。こちらはモーニングKCで連載されていたマンガ。全4巻。喫茶店で働く高校生の風子を中心にした地味なお話なんだけど、なんか感じるんだね。漫画絵も巻が進むにつれて風子の表情が豊かになっていくんだね。この人ただもんじゃないと思っていたけど「寄生獣」でその内なる凄味が開花した漫画家だね。読書はほとんど電車か風呂に浸かりながら読むんだ。明日からは漫画版の「鬼平犯科帳69~71」読む予定。オンタイムでNHKでやっているね。池波正太郎の小説も文章がわかりやすくて読みやすいんだね。付き合わせはもちろん音楽。GFRとエリカ・バドゥとカウント・ベイシーを明日はしっかり聞きながら楽しむ事にしよう。話は全く関係ないけど「赤福」事業再開したね。ファンが一杯いて買えなかった人もいたようだね。ファンがいるというのはありがたいことだよね。
2008.02.06
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村上春樹の「ノルウエーの森」再読。これで3回目。やれやれだ。この小説って性描写やたら多いんだけどなんていうのか不思議な程いやらしさを感じないんだね。直子が死んだ後レイコさんとワタナベ君が寂しくない葬式を数え切れない歌で葬送したのちありえないだろうではなく自然にやっちゃうシーンがあるんだけどあのシーンやばくねぇ。レイコさんひょっとしたらワタナベ君の赤ちゃん孕んだかも知れない。セックス終了後、緑に電話かけたシーンでこの小説は含みをもたせたまま終るんだけど2人はこれからうまく行くのだろうか?含みを持たせたまま終っちゃってるんだね。その後レイコさんにワタナベ君の子供が出来てレイコさんはそれをワタナベ君につけず旭川で音楽教室の先生をやりながら育てる。なんかそんな未来を感じさせるんだね。小説の終わり方としては余韻を残すなんというか読み手に未来を託す手法なんだね。最近漫画ばっか読んでいて小説ほとんど読んでいなくて活字だけの世界に浸ったの久しぶりなんだけど春樹の書く世界観ってクールだけど濡れるんだね。「海辺のカフカ」もそうだけど春樹の小説って何か感じさせるんだね。
2008.01.18
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まろ0301さんの「坂口弘歌稿」に関するブログ読んでいたら林郁夫の事が思いおこされた。 坂口弘は20年前のあさま山荘事件で逮捕され、今年死刑が確定した、あの坂口弘の事である林郁夫は多くを語らなくてもオウムといえばわかるであろう。「オウムと私」は繰り返し繰り返し再読している本である。この本は罪が永遠に許されないシューシポス懺悔の本である。林郁夫の血、肉を切り刻んだ本である。林郁夫でなければ書けなかった本である。おいらはこの本を読むたび思う。「法とは?善とは?罪とは?」東野圭吾の「手紙」読後ブログでも書いたのだけど「人が人を殺す」そこに個と集団〔国〕の違いによって罪の違いが現れる。曹操もナポレオンもブッシュも人殺しだ。林郁夫とブッシュのドコが違うのか?「大儀」が成就されたのか、されなかったのか?その違いだけで英雄と人殺しの選別がされるだけではないのか?林郁夫の行動が仮に国を救ったと仮定したら・・不毛な発想である事は重々承知している。「人間は罪深い」今は平和が続いているが歴史は血の歴史であった。人間の本性は法では結局の所見えてこない。個であろうが集団〔国〕であろうが「大儀」そのために人は人をあやめる。・・この本は人間の本性を書いた本である。生きている間にこのブログを覗いている皆々様には一度は読んでもらい本である。人間の本性の愚かさともしかしたら出口を見いだす事が出来る本であるかも知れない。
2007.02.10
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「唸る」そんな作品を一つ。東野圭吾の「手紙」この人の作品はテレビ又は映画でも上映されることが多いので今や知る人ぞ知るポップな作家と読んでもいいだろう。出張の際本を読む事が多いもので東京駅に行くと必ず本屋に立ち寄る。そこで「読んで!」とささやきかけていたのがこの本である。内容は日本の「罪と罰」それも加害者の視点から実に見事に起承転結を伴って描かれている。「この手の内容なら俺でも書ける」と言い切る作家はいるだろう。しかし実際の所被害者の立場ではなく加害者の立場で書かれた小説は数えるほどしかないだろう。皆無かも知れない。犯罪作家と言えば佐木隆三が有名であるけど彼の本は小説ではない。犯罪の事実を丹念に分析して真実を付きとめようと書いているのだあるけどその事実から得られる事は犯罪の残酷さによる虚しさだけが残るのである。読み手をあまり想定していないからである。だからどうしても読み手に飽きさせる面がある。東野圭吾の「手紙」の内容は出口がないけど飽きない。それは何故か?簡単な事である。彼の作品全てに通じている面であるのだけど「読み手」を想定して常に書いている。いわゆる一人よがりではない文体で終始貫かれている。そして何よりここが重要なのだけど文体がわかりやすい。シンプルだからこそメッセージがストレートに伝わって行くのである。ゆえに加害者が何度も夢を掴み掛けて落ちて行く様を気の毒だと思いながら「ざまあみろ」「やっぱり」と読み手に思わせる。「現実は甘くない」そう思わせる事で読者をこのテーマに引きずりこんで行くのである。加害者の弟は殺人を犯していない。しかし殺人者の弟と言うだけで何度も挫折を繰り返す。恋人、仕事・・・何をやっても犯罪者の弟と言うだけで奈落の底に落とされる。最後は自分の息子までがその責め苦を背負わされると予言するところまで行く。読み手からするとテーマの「出口」がないため重苦しい雰囲気になる。思うに東野圭吾が何故このテーマに取り組んだのか?推測の域を出ないが「人が人を殺す」その先に「救いはあるのか?」出口がないとわかっていても小説家・・というより物書きである以上このテーマは避けられなかった。避けられない以上真正面から取り組んでみようと思ったんだと思う。毎日テレビで殺人が繰り返されている。被害者は必ず口を揃えて同じ事を言う。「何もいらない。もとのままで返してくれれば何もいらない」「死んだものは二度と生き返らないんだ!」「罪を犯せば罰を受ける」あったり前の事だ。その中でも殺人は一番罪深い。殺人を犯した兄は罰を受けるが弟は何も侵していないにも関わらず世間から罰を受ける。ラストのシーン。東野圭吾はこの場面を最後に書きたかったんだなと思わせる展開で終わる。おいらが「唸った」のはまさにこの場面である。ミュージッシャンになる夢を兄のために経たれた直貴が兄のいる千葉の刑務所で音楽仲間の寺尾と一緒に受刑者の慰問コンサートで「イマジン」を歌うシーン。「その男は深く項垂れていた。直貴の記憶にある姿より小さく見えた。彼の姿勢を見て、直貴は身体の奥から突然熱いものが押し寄せてくるのを感じた。男は胸の前で合掌していた。詫びるように。そして祈るように。さらに彼の細かく震えている気配まで直貴には伝わってきた」その描写の見事さ。「イマジン」は歌われたのか?「差別や偏見のない世界。そんなものは想像の産物でしかない。人間というのは、そういうものとも付き合っていかなきゃならない生き物なんだ」寺尾の発した言葉の先にある「イマジン」が絵空事に終わるのか、リアルな言葉として発せられるのか?イントロだけが流れて直貴の声がついに発せられないまま終わるラストシーン。答えを読み手にゆだねたあまりの見事さに「唸った」のである。小説って結局人間をどう表現するかであると思う。その面で余韻の残る「手紙」は確実においらの心に届いた。
2007.01.30
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読むシリーズだぁ。やっぱ井上雄彦の書くマンガは読ませる。唸らせる。吉川英治を下地にしていながら物真似じゃあない。画風もお気に入りなのだけどストーリーの持っていき方がとにかく素晴らしい。だらだらと買っていたのだけど先日一気に一巻から通読したんだ。「面白い」武蔵だけでなくちゃーんと小次郎もきちんと描かれている。吉岡清十郎にしたって宍戸梅軒にしたってきちんと人間が描かれている。売れるわけだ。我が家では「スラムダンク」が家宝のようになっているんだけどスポーツ漫画だけの人じゃないね。殺しの螺旋に惹かれるね。刀の持つ魅力に惹かれるはおいらだけなのだろうか。今じゃ考えられない事だけど日本人は人を殺せる刀と言う文化とも言える時代が長くあったんだね。三島が惹かれた気持ちもなんとなくわかる。
2006.09.13
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きのこ仲間の天目太郎さんと仲間由紀恵の着物姿の話を富士山の行き帰りに話していたら無性に原作を読みたくなって図書館で借りてきたんだ。改めて司馬遼太郎の書く本は面白いね。ツボを心得ていて読み手の興味を惹くように誘い込むと言うのか気がつくと虜になっている。電車の行き帰りの楽しみが増えたね。
2006.09.12
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きっかけは何であれいい本に巡り合えたと思っている。冷徹なまでにホワイト・ファングの視点で人間(神)を見、憎悪~愛の変遷を見事に描ききっている。教育(おこがましいのであるが)と言う視点で考えてもこの本は子供にも読ませたい本である。ホワイト・ファングの一生を通して人間に置き換えてみると全てがここに表現されている。妬み、敵意、裏切り等々暗黒面と規則、秩序と言った社会面そして表現しずらい愛・・全てが冷徹なまでの客観性を持って表現されている。こういう本を読むといい音楽に巡り合えたのと同等に感じるものがある。理屈ではなく理論ではなく生きる根底「食うか、食われるか」自然の厳しさを背景に描ききった作者の力量に深い憧憬と屈折した部分の側面も見え隠れしていてだらけ切った身体に活を入れてくれる。導入部分を何とか読み終えた後にやってくる次のページをめくりたいと言う衝動。久々にこういう感動を覚えた小説である。
2006.03.23
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それは本と音楽である。本は菊地敬一「ヴィレッジ・ヴァンガードで休日を」と浅田次郎「プリズン・ホテル4」をかばんに詰め込み電車の移動時間に眠りこけていないときはしっかりと読みまくっていた。ヴィレッジ・ヴァンガードは今週のプレイボーイにもコルトレーン特集が組まれていたけどジャズメンがライブを演奏する聖地(多分)見たいな所である。そしてその名をちゃっかり拝借したのが本屋の「ヴィレッジ・ヴァンガード」である。この本で面白いなあと感じだのがメジャー路線ではなくマイナー路線、それも「ノスタルジー」をキイとした品揃えに特化して販売戦略を組んだところ。「好きな品揃え」にこだわり成功した本屋。まあ本屋と言うのか雑貨屋というのかようわからんげどね。おいらも最初このヴィレッジ・ヴァンガードに入ったとき面食らったもんね。POPが洒落ていて「むむ」「なんじゃこりゃあ」松田優作張りの素っ頓狂な声あげちまったもんね。ここで買った本とかCD、結構へんてこなもんも多いいけれど、味のある本もめっかったりして「ありがとうごぜえます」と言う気になった事もちびっとあったもんね。「ムーン・パレス」なんて本は最高だった。中島らもって言う人もこの本屋で知った。ま、そんな自己主張めためたの社長が書いた本なのでなかなか面白い。特にかあちゃんとの会話が楽しい。「経営方針発表会その2」でのかあちゃんとの会話が思わず「ウン」とうなづいてしまった。そこでかあちゃんが言ってる事は「話のうまいやつにろくなのいないわ」と言うくだり。「プロジェクターなんてなんぼのものよ」コレにも笑ってしまった。「ドロップアウトの集団が人のやらないことをやって大きくなればいいのよと」励ますかあちゃんの科白はなんかとっても安心感と共感持てる。「そうだ!ベストセラーだけ追わなくていいんだ」この主張は今後の未来の日本を導く言葉(大きくでたな)のように聞こえて大いに活をもらったのである。浅田次郎「プリズン・ホテル4」は性懲りもなくこの日記にも何度も登場する本でございます。「小説は面白くなければ読まなくていい」(まったもや、大きくでたな)と持論を持つおいらは中山康樹ばりに「本を読むなら浅田次郎を読め!」派なのである。今回は特に小俣老人が府中刑務所から52年ぶりに娑婆に出てプリズンホテルにて賭場を開いてもらって一人勝ちするシーン。コレにはわかっていたけどやっぱ笑ってしまった。この本は一言で言えば「読み進むにつれて終わりがくるのがとっても寂しくなる小説なのである」まあそんな本との出会いに遭遇するのも運命ちゅうか、必然ちゅうか、まあとっても嬉しい事なのである。読んでいない人は是非読んでいただくことをオススメする。「浅田様!貴殿は起承転結小説の天才であります」「人間の喜怒哀楽を引き出すことの天才であります!」(おだてすぎたかな、なんか出版社からもらえないかな)本の話だけで長くなっちまったな、さてMDに録音したエディ・テイラーとウィントン・マルサリスについて書こうとも思うけど楽天様に再度お願いしたい。アフィリエイトにて紹介したいけどエディにいたっては「アイ・フィール・ソー・バッド 」のCDとマルサリスは今月のスイング・ジャーナルでジャズディスク大賞1位獲得した「ライブアルバム」ないではござんせんか。品数が少ないですよ。もっと努力を喚起します。特にブルース。玉砕状態です。(ええんかいな、こんな事かいて)(ブログけさんといてね、批評ではなく期待しとんですから)ウィントン・マルサリス難解さが排除されジャズって感じのライブです。
2006.01.28
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三島の「豊饒の海」の4部作のラストを飾る作品である。おいらは最初の書き出しの1行で読むか読まないか決めてしまうお気楽な人間である。最初の書き出しは「沖の霞が遠い船の姿を幽玄に見せる」おいらは釣りが大好きなのでこういう書き出しは結構悪くないのだ。映画「春の雪」が上映されておいら改めて三島の4部作を再読しているのだけど、どの作も起承転結が明確であり、輪廻と言う丸い円の中で本多と言う男の生涯を通して語られる三島のナショナルリズムと仏教的思想が登場人物の身体を通して語られる思想はは神秘さえ感じてしまう。ラストのテーマは「破局」である。安永透は結局贋物であった。あくまで本多という男の目を通してそう思うだけで読み手は別の視点から安永と言う18歳の男を見ている。又そういう構成を三島は意図的に行っている。三島は完璧な天邪鬼である。又それを言葉で表現出来たからこそ畏怖と尊敬と嫉妬を覚える。最初に4部作を読んだのが28歳の頃だったか記憶が「天人五衰」の最初の文のように霞がかかっている。その時「春の雪」は究極の美を感じ「奔馬」「暁の寺」に従い何か文章が生き急いでいるかのような不吉さを感じた。予感はその後「自衛隊の割腹自殺」によって的中するのだけど、改めて再読してもその不吉さは変わっていなかった。三島の本を読むたび感じるのは難しい言葉は排除して言うなら「妖しさともろさ」意志の強さの中に何か危うい妖しさともろさを感じてしまうのだ。そしておいらは結局わかっていながらそういった人物たちが少しだけ狂気を秘めているためか深く沈みこんでいってしまうのだ。
2005.11.09
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鮎釣りの最中、時間があるときは浅田次郎「日輪の遺産」を読み続けていた。ようやく今日読み終えた。戦争について書いた本である。「使命」と言うことにとことんこだわった壮絶なる小説である。読後、余韻が「ズシン」と残った。「天皇陛下万歳!」と矛盾を感じながら死んでいった同胞を救うべき魂は何度この本を読んでも見出す事は出来ない。「死」と言うことがこれほど重く二律背反になるがこれほど軽く書かれた小説も体験した事がない。ダグラスマッカーサーもサッチャンも真柴少佐も小泉中尉も海老沢も丹羽も金原も時代こそ違え現在の金にして200兆円の金塊で結ばれ、あるものは生きあるものは死んでいった。8/15がやがてくるがこの小説が語ろうとした事はなんだったんだろう。戦争をしらなくて知らない事が悪い事だとは思わないが「日輪の遺産」と言う小説はおいらに命の軽さと重みの両方を感じさせた。そしてHPを見にやってくる人全てに推奨したいとも思った。要するに共感を得たいのである。改めて戦争時「使命」と言う名のもとに命をかけた登場人物達の慟哭を聞いてもらいたい気持ちで一杯である。そしてこれはとっても重要な事であるのだけど読み物としてとっても面白い。浅田次郎の小説にはこの面白さがある。その点で読んで損をしないと断言できる。「蒼穹の昴」の原点となった本でもある。小説は面白くなければ読む必要もない。だから読んで欲しい。
2005.07.07
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本を読めば読むほど端からストーリー忘れていくのでなるべく印象に残った本だけ再読するようにしている。久しぶりに「ストリッパー物語」読む。ストリッパーの明美を主人公として展開される人間愛。面白い。重ちゃんがストリッパー劇場で最初の挨拶で長々と口上述べるシーンがあるんだけどセリフが凄いね。この口上読んでいると思わずビートたけし思い出しちゃった。言葉のマシンガンって感じたね。ひも道も深いね。浅田次郎の描く人間ももおいら好きなんだけどつかこうへいの屈折した愛の形を貫く人間もおいら好きなんだ。おかまの支配人のキャラ最高だよ。
2005.06.22
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引っ掛かっている言葉がある。それは以下の通りだ。「人間は何で進化していると思う。事故、戦争、病気、犯罪それらを克服するために生きているんだ。だからこそ人為的な犯罪は教養のあるやつがやるべきなんだ。凡庸な犯罪はなんの役にも立たない。誰もやったことのない犯罪、それが僕たちの役割なんだ」宮部みゆきの「模倣犯」の網川浩一=ピースは確かこんな言葉を話していた。ドフトエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフを模倣したようなピースはラストの自爆シーンまで、ラスコーリニコフのように心が、ぶれる事無く死んでいった。犯罪と言う法律破壊行動に関してピースの方が無宗教を最後まで貫き通したため闇が深い。そこには愛が全くない。これを書いている今もブラウン管から兵庫の脱線事件の報道が流れている。時速120キロだったか、速度については忘れたが、ある速度より遅くなった場合爆発すると言う列車犯罪について描いた日本映画があった。主役は高倉健だったと思う。映画は爆発はしなかったが、現実はどうか?ピースの言う所の「進化」について考えた場合、否定出来ない恐さがある。「人間は環境により順応してゆく動物である」これはおいらの考え方なのだけど「道徳」「倫理」は「教育」によってどうにでもなる。人間は想像によって未来を作る。おそらくおいらの時代にはないと思うが、ロボットがいる世界が日常的になり、車が空を飛んでいることであろう。しかし「犯罪、事故、戦争、病気」はなくならない気がする。なぜか?「愛する人を殺された瞬間、その殺した対象を殺したいとおもうだろ」こういう心が巣くうのが人間だからだ。「痛み」を持たない人間は好きにはなれない。「痛み」を感じない人間は好きにはなれない。だからピースと言う人間は嫌いだ。ただ、「痛み」は当事者でない限り、持続性において限界がある。罪を犯せば罰がある。ドフトエフスキーは実に明確に答えを引き出した。罰は保障であったり、牢獄であったりする。ただし痛ましいのはいつの時代も被害者。闇はいつも被害者。ここがムカツク!ビースよ!君の言葉は否定出来ないが、愛がない。最愛の人を失った有馬がピースから受取った赤ん坊これはピースの挑戦状だ!「環境によって人は変わる」JR西日本!北朝鮮!中国!身近なところで君たちにピースは挑戦状を投げかけているのだよ!
2005.05.01
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電車の中でどんな本を読みますか?東京に住んでいてサラリーマンやっているとどうしても行き返りに読む本を何にするかが結構朝の大事な日課となる。勿論僕は週間現代、ポスト等も読む。でも今日は本。疲れたときよく読む本は東海林さだお。僕は食い物に意地汚いので「丸かじりシリーズ」をよく読む。東海林さんの書く食い物はほんと読む毎に食べたくなる。料理の背景にある漫画が食欲を増進させてくれる。正直この本で「人生とは何か・・」なんて考えるのは虚しい。天下国家について語るのも虚しい。でも、とにかく読むと幸せになる。食べ物は人を幸せにしてくれる。ラーメンの話しを読むと幸せになる。ホットケーキの話を読むとメープルシロップをかけまくりたくなる。東海林氏は豚足一本にこだわる。とほうもなく、しつこくこだわる。僕はそのこだわりが好きで内容がうっすらわかるのだけど本屋で図書館で買ったり借りたりしてしまう。そして幸せな気分になる。今日の夕食は鮭のムニエル、肉ジャガ、椎茸と豆腐の味噌汁、きんぴらごぼうだった。さて最近はまっている抹茶飲むぞ。美味いんだぁ。これが。
2005.01.18
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