「アキ・・・お前の母さんは、誰?」  父は、私に問いかけて来た。

「そんなの決まってる、トシコだよ。」  私のいつもの答えである。

私は、何故父がいつもそのような質問を私にして来るのか、
父は何を考えているのか、不思議でならなかった。
もしかしたら父は、私の答えの変化がある事に期待していたのかもしれない。
しかし、私は断固として、その答えを変える気などさらさらなかった。
ささやかな私の、父に対する反抗であった。

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父は、一人っ子の母との結婚で婿養子に入った。
祖父母、母と三人で小さな町の駅前で商売をしていた。
今で言うスーパーみたいなものである。
小さな町ではあるけれど、駅前という立地条件もあり、かなり繁盛していたようだ。
仕入れた商品は、車から店に移動する間もなくその場で売れてしまったそうだ。
一方父は、サラリーマンで、ある会社に勤務していたのだが、
当然、店を手伝う訳でもなく、サラリーマンを続けていたようだ。
その時、姉は6歳、祖父母、両親に囲まれ温かい家庭で育っていた。

しかし、ある年の11月9日。
その日を境に、全ての歯車が狂ってしまったのである。

その日、母は私を産み4時間後、この世を去った・・・
元々、そんなに身体の丈夫な母ではなかったのだが、
産後の出血が止まらず、帰らぬ人となってしまった。

婿養子の父は、その時、何を思ったのだろう。

そして、祖父は・・・祖母は・・・姉は・・・

生まれたばかりの赤ん坊を見ながら、家族は何を思ったのだろう。

生まれたばかりの私を抱えた祖母はどんな思いだったんだろう。

母の命と引きかえに生まれて来た私・・・
娘の命と引きかえに孫を手にした祖母・・・

娘の葬儀を済ませた祖母は、哀しみに泣き崩れている余裕などなかったんだろう。
孫の私の「母」にならなければならなかったのだ。
それでも商売をしながら、厳格な祖父に仕えながら、
そして何より、7歳の姉の面倒も見らねばならなかった。

その後しばらくして、父は再婚し、新しい母が来た。
しかし、父も継母も祖父母とは「血」は繋がってはおらず・・・
当然のように、家庭はうまく行くはずもなく・・・
一年後、妹が生まれたのだが、その頃から継母は、
実家へ頻繁に帰るようになり、やがては、戻って来なくなってしまった。
その上、父までも継母の実家へ入り浸り、
いつの間にか戻って来なくなってしまったようだ。
その時、父と継母、義妹の三人の新しい家庭が出来たのである。


そんな中、祖父母は、7歳になった姉と、幼い私を必死に育てながら生活していた。
亡き母に代わり、祖母が私を我が子以上の思いで育ててくれた。
何処へ行くにも、私は祖母と一緒だった。
物心が付いた頃、既に私は母がいないという事を理解していた記憶がある。

私が幼稚園だった頃、祖父に病魔が襲いかかり、長い闘病の末、この世を去った。
その頃からの祖母は前にも増して必死な生活だったと思う。
明治生まれの祖母は、気丈なまでに、祖母、母親、一家の主を貫いていたように思う。
そして、祖母と孫娘二人と、女三人の生活が始まったのである。


父と継母は、私が生まれる前から付き合いがあったようだ。
つまり、今で言う「不倫の関係」だったのだ。
「父さんは、私の元へ来る運命だった。父さんは寄り道をして来たんだ。」
と、継母は、自信たっぷりと言ったそうだ。
何処からそんな言葉が出てくるのか、私には全く理解出来ない。理解したくもない。

つまり、その寄り道で出来た子供が姉と私。
継母から見れば、姉と私は「余計な子」なんだろう。
その証拠に、交流などは全くなかった。
一ヶ月に一度、父が生活費を届けに我が子二人と祖母がいる家にやって来た。
ある程度の年齢になると、私も運命と言うものを理解していたが、
その頃から父たちに対してかなりの反抗心があったように思う。

私たちから、父を奪った女(ひと)・・・

そして父も、私たちを捨てた・・・


小学校の参観日、祖母は樟脳の匂いのする着物を着て必ず来てくれた。
運動会でも重箱いっぱいに美味しいお寿司を作って来てくれた。
祖母と孫だけのささやかではあるけれど、幸せな時間だった。

私が中学二年の春、姉は嫁ぐ事になった。
姉には、誰よりも幸せになってもらいたい気持ちと、
寂しい気持ちが入り乱れ、結婚式当日は、泣いてばかりいた。
しかし、泣き顔を人に見られたくなくて、涙をこらえるのに必死だった。

私は幼い頃からいつも不安があった。
姉が嫁ぎ、祖母が年老いて、やがてお迎えが来れば、
私は一人ぼっちになってしまう・・・
誰にも言えなかった・・・
口に出して言ってしまえば、それが現実になる気がして寂しくとても怖かった。

姉が嫁ぎ、祖母と私の二人の生活が始まったのだが、
その秋、祖母は心臓を患い、暫くの入院生活を余儀なくされた。
私は中学三年、一番微妙な時を、一人で過ごしていた。
祖母を手伝い、小さい頃から台所仕事は慣れていたので、苦痛ではなかった。
夜などは、TVでお気に入りの番組を観たりしていたが、やはり寂しさは隠し切れなかった。
近所の幼なじみが泊まりに来てくれたりもしたが、それも毎日という訳にはいかず。
今でもその頃を思い出すと、寂しさに心が逆戻りしてしまうのである。
そんな思いでいたにも関わらず、父も継母も一度も泊まりに来る訳でもなく、
もちろん、泊まりに来いとも言わなかった。
それが、全てなんだと思えてならなかった。

たった一度だけ、継母が私の中学の三者面談に来た事があった。
進路を決める一番大事なそれである。
しかし継母は、常に一方的で、選択の余地などなかったように思う。
もちろん、私立の高校など受験さえさせてもらえず、
私は、一つの高校を受験するしかなかった。
もちろん、私は意地も、反抗心もますます強くなっていた。

何もかも邪魔者扱いをされているような感じだった。
進学の事で言えば、姉と私は公立のみ。
なのに、義妹は私立のみ。
姉は、私と違って、頭脳明晰で努力家、そして何もかも完璧だった。
当然、私は姉には頭が上がらず、叱られてばかり。
お箸の上げ下ろしでさえ、指摘される。
ある時、テーブルに肘を付きながら食事をしていたら、思いっきり殴られた。
私の頬にくっきりと姉の掌の形のアザが出来たほどだ、それほど厳しかった。
姉は、登下校の時も常に本を読みながら歩いていた。
ある時、よほど本に熱中していたのか、そのまま田んぼに落ちた事もあった。
それほど、本が好きで、絵や、音楽も得意だったようだ。
なのに、大学にも行かせてもらえず、私は小さいながらも不満を感じていた。

でも、仕方ない。これが現実だったんだから。。。

つづく・・・


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