帰って来たかえるのへや

その18)09月22日記


2007.9.22記)その18「アカネと言う彼女。そしてまだkaeruの学びは続く」


これでアカネとのやり取りはすべて終わり。
が、その中で気付かされた事は
今もkaeruの中でいろいろ膨らみ、育ち続けている。

この記録を書き綴る間にもまた新たに気付かされた事も一杯あった。
さしあたってはなるべく当時感じた、
わかっていた内容で書こうと努力はしたが、
ある程度現在の見方が混じるのはいたしかたない。

kaeruがこの関係の中で学んだ事は本当に一杯あるが、
中でも(それをアカネに当てはめて良かったかどうかはともかく)
「見守り」についての発見は大きかった。
自分が相手を見守る事を学ぶと言う事も大事だったが、
もしや自分も見守られているかも?という
想像ができた事は意外な程kaeruの助けになった。
アカネのように周囲に戦いを挑みはしなかったが、
周囲がいつも自分を批判している、裁こうとしていると言う
「誰も自分の味方ではない」という感覚はアカネと共通だったのだ。

また、 アキラとの関係でも書いたが
別れのショックを握りしめ、誰ともいつかは来る別れの日を待って
恐怖と不安に取り憑かれながら暮らすのではなく、
その相手に出会え、今共にいる、またはいた嬉しさの方を
存分に味わい抱き締める生き方を選び取る事、
これはkaeruの大きな努力目標になった。

その中でやはり今案外大きな壁になっているのは
「ショックを手放す事」の困難さだ。車への恐怖、みぢかな者を失う恐怖...。
自分がその出来事で何かを気付くことができたのなら、
それがその出来事の目的で、
何もわたしに一生のトラウマを背負わせるために起こったわけではない、
十分学ぶものを学んだらショックの方は体から振るい落とそう、
魂を凍り付かせまい、萎縮させまい、魂に染み付かせまい。
いつもナチュラルな傷つきやすい魂のままで。
そうkaeruは考えている。
いつかkaeruの生が終わった時、
「何ものもわたしの本質を変える事も歪める事もできませんでした」と
かみさまの前で胸を張れるならそんな自分は格好良いのではと想像してみる。
.....言うは易く、行なうは難いのだが。

と、長々自分にとっての学びを書いてはみたが
わたしに多大な学びを与えてくれたにも関わらず、
この物語の主役はやはりkaeruではなく、アカネだ。
わたしはアカネという困難な生に挑んだいきもののサポーターの一人に過ぎない。
アカネという自分に似ている点も確かにあるが、
大きく異なった点も多かった彼女が本当はどんな存在であったのか。
それはきっとわたしの成長につれてどんどんまた見方が変わる気がする。
幾度も幾度も反芻し、方向を変えて彼女を見直す。
理解したいと思わせてくれた「他者」。

わたしはアカネにまだ本当の「ありがとう」を返せていない。
きっとそれが終わるまでわたしの学びは続くのだ。

(これで本編は終わり。次は軽い番外編です。)





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