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「生者は死者の為に煩わさるべからず」 毎年、十月三日に「土佐の会」という集まりがある。日付は「と(十)さ(三)」の語呂合わせであり、勤務していた会社の四国支店にゆかりのある者が、新宿の本社近くの居酒屋に集まっての懇親会である。 土佐の会というくらいであるから、元々は四国支店の中でも高知地区(土佐)に勤務した者ということで始まった。それが範囲を拡大して、現在では四国支店経験者ということに落ち着いたらしい。 会の存在を知ってはいたが、ボクの場合は勤務地が香川県であり、高知での勤務実績はなかった。そのため、この飲み会のためにわざわざ大阪から上京するのもどうかと迷いもあり参加してはいなかった。ところが十年ほど前の十月、法事で千葉の義妹宅に出かけた時、退職後も親しくしていた知人からこの会への誘いを受けて初めて参加した。 参加者は二十人ほどいたが、ほとんど知っている顔ぶれであったので、すぐにその場の雰囲気に溶け込むことが出来た。以来、コロナ禍で中止になった数回をのぞいてほぼ毎年、参加している。 ところでボクの国内旅行歴は、北海道から沖縄まで広範囲ではあるが、東北地方がすっぽり抜け落ちている。そこで、この会に合わせて上京し、千葉県に住む義妹夫婦と東北を旅行しようと考えた。義妹夫婦とは、海外旅行にも何度か同行している間柄なので、この計画はすぐにまとまった。 初回は2013年の福島県であった。磐梯山に登り、猫魔ヶ岳や裏磐梯五色沼などウォーク中心の旅をした。その後は新幹線とレンタカー利用で、二~三泊のドライブを繰り返し、都合五回の東北地方の旅を楽しんだ。 大雨の中を歩き通した奥入瀬渓流、白神山地のブナ林散策、暗門の滝ハイキング、最上川の舟下り体験、陸前高田など東北大震災の被災地訪問など、東北地方の旅はとても楽しく思い出に残るものばかりである。 昨年は趣向を変えて、日本の三大名瀑の一つ、茨城県の「袋田の滝」を目的地に選んだ。今年はその延長線上で、やはり三大名瀑のひとつである日光「華厳の滝」を中心にしたドライブを予定している。 ところがこの夏には思いもかけず、八~九月の間に弟二人が病気で旅立つという思いがけない出来事に遭遇した。二人とも短期間の入院で、一人は肺がん末期、もう一人は熱中症から内臓をやられるという、予想もしないことであった。こんなことが現実に起こるのかという惨憺たる思いである。 さて、飲み会と旅行だが、「行ける時に行く」、「生者は死者の為に煩わさるべからず」というまことに身勝手な理屈で、予定通りに出かけることにしている。(2024年9月)
2024/09/26
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今月一日、八歳下の弟が肺がんで亡くなった。 のどが痛くて声が出にくい、モノが食べられない、という症状で耳鼻咽喉科を受診したが、すぐに関西医大へ紹介された。 検査の結果、のどの症状は肺にできた腫瘍が声帯を圧迫しているのが原因だった。さらに肺がんは大腸にも転移していることがわかった。肺の腫瘍もさることながら、閉塞状態の大腸に穴が空いたら命の保証はないと言われて、七月二十二日に入院、翌二十三日、人工肛門の手術となった。 手術をした日の深夜、病院からの電話で駆け付けたところ、弟はゼイゼイと苦しそうな呼吸でベッドに横たわっていた。病院としてはこれ以上、手の尽くしようがないと言われて、最悪の場合を覚悟せざるを得なかった。 その日は終日、弟に付き添った。痛み止めのモルヒネが効いたのか、朝の七時ごろには苦し紛れに酸素吸入のマスクを取り外そうとする動作も収まり、呼吸はずいぶん楽になったようである。 少し気持ちにゆとりができたところで、弟の三人の子どもたちのことを考えた。弟は結婚して一男二女の三人の子どもがいたが、子どもたちが中学生の頃に離婚して、以後はほとんど行き来がなく一人暮らしをしている。 しかし離婚する前の一家は近所に住んでいたので、三人の子どもたち、ボクにとっての甥と姪は、ボクのことをビッグジョンと呼んで慕ってくれていた。そんなことを思い出しながら、〈とにかく弟のことを彼らに知らせよう〉と連絡を取った。 娘のマミとマオの姉妹は誘い合わせて、長男のコウジは仕事の途中で、それぞれ時間を取って病院にやってきた。耳が聞こえにくいことを伝えると、大きな声で「オトーサン、オトーサン」と呼びかけるがいまひとつ弟の反応は鈍い。 彼らはいったん引き上げて、五時過ぎにはそれぞれの家族を連れて再びやってきた。狭い病室は三組の夫婦と六人の子どもたちでいっぱいになった。 辛抱強く「オトーサン、オトーサン、俺や、コウジや、わかるか」と繰り返し呼びかけていた息子の声に、ようやく弟が反応した。「えっ、オトーサン、わかったの? これ俺の子どもや、オトーサンの孫やでー」「私、マオ、オトーサンわかる?」「オトーサン、マミやで」 次々に呼びかける子どもたちの声に、弟は笑顔を見せてうなずいた。目が覚めて状況が理解できたらしい。「オトーサン、痛いとこない?」「全部吹っ飛んだよ、人生最高!」 声はかすれて聞き取りにくかったが、近くにいた長男のコウジが弟の言葉を皆に伝えた。病室一杯に「ワーッ」と大歓声が響いた。その場にいて見守っていたボクも感動で胸がいっぱいになった。 このひとことで、その場のみんなの緊張が解けたのか、三人の子どもたちは自分たちの父の思い出を口々に語り始めた。「お母さんには怒られたけど、お父さんに怒られた記憶がないよなあ」「お父さんにどこかへ連れて行ってもらったこともないよ」「お父さんには、いい人がいたんやろか」等々。 この日から九日目の八月一日に弟は息を引き取った。その間、弟は小康状態を保ち、一日の大半は眠っていたが、大声で呼びかけると目を覚ましてなんとか会話がなりたった。離婚後、三人の子育てをして、現在は一人暮らしをしている彼の元の奥さんも、マミとマオの二人の娘の案内で病室に顔を見せた。交わした言葉は少なかったが、それなりに想いを交換できたのではないだろうか。 傍らでこのような経緯を見守っていて、弟も最後にみなに会えてよかったと、ほっとした気持ちになった。その時、ふいに弟に対する父の助言のことが頭によみがえった。離婚した後、弟は地元を出て生活に便利な市の中心部で一人暮らしをしたいと言い出した。それに対して父は、「今は元気でも歳をとると人の世話にならねばならない時が来る。兄たちのいるこの地元で暮らせ。」と説得したのだった。 いま思うと父の言う通りにして正解だったのだろう。地元を離れて独り暮らしをしていたならば、あわや孤独死なんてことだってありえたかもしれない。 通夜と葬儀は弟の三人の子どもたちと相談して家族葬で行った。〈高岳優蓮禅定門〉、百八十センチ超の身長と優しかった性格にちなんでの戒名である。 ひとりの肉親の死に立ち会った暑い夏であった。
2024/08/28
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駅のアナウンスは親切か騒音か 先日、地元のウォークの会で大阪市立長居植物園へジャカランダの花を見に行った。途中、JR天王寺駅で、環状線から阪和線の各駅停車に乗り換えた。最近は都心に出かけることも少ないので、街の人ごみの中を歩くだけで疲れてしまう。幸い当日は十時を過ぎていたので、通勤のラッシュには出遭わなくて済んだ。 ところが、駅では列車の発着を知らせるアナウンスや、電車がホームに出入りする際に流れる注意喚起のメロディーなど、ひっきりなしに音が流れている。駅ってこんなに騒がしかったのかなあ。それもかなりひどくて、耳を覆いたくなるほどだ。 騒音といえば、本田勝一という人が騒音について書いた本のことを思い出した。読んだのは、現役で通勤していた頃だからもう三十年も前のことである。当時、この著者の作品を集中して読んでいた。しかし以前のこと故、本の題名はもちろん、内容についてもかなり記憶が薄れている。 そんなええ加減な記憶をもとに、この拙文を書いている。 日本の都市はやたらと不要な音が多く、騒がしすぎるという趣旨のことを書いていた。そのことに苦情を言わないのは「日本人が騒音鈍感民族である」からだ、とも。 対極にあるのはドイツの鉄道で、発車時刻になれば何のアナウンスもなくドアが閉まって発車する、というのである。日本人は過保護であり、ドイツは自己責任というお国柄からくるという意味のことも書いてあったと思う。 ドイツの鉄道のことは、本を読んだ何年か後のドイツ旅行で実際に体験したが、全く著者の言う通りであった。ただしベルリンの地下鉄は少し様子が違って、駅のアナウンスがあったような記憶もあり、何とも頼りないことである。「エスカレーターでは黄色い線の内側に立って手すりをお持ちください」「〇時〇分発〇〇行き急行は〇番線から発車します、黄色い線の内側に下がってお待ちください」 さらに車内放送でも、次の停車駅はもちろんのこと、降車時にどちら側のドアが開くかまで、親切丁寧にアナウンスをしている。親切と言えば親切だが、余計なおせっかいだともいえる。 要するに著者の訴えたかった「日本人は騒音鈍感民族である」という事実は、三十年経った今も少しも変わっていないということになる。 今回、このようなことを感じたのは、最初にも書いた通り、久しぶりの都心ターミナル駅体験であったからであろう。現役のころの騒音に対する「馴れ」がいつの間にか消えて、先入観のない真っ白な頭で、駅のホームでの状況を受け止められたのだと思う。 最近、何かの拍子に昔のことを思い出す機会が増えている。先日も朝日歌壇の短歌で「四万十川」という語句から、二十数年前の四国遍路で四万十大橋を渡ったときの、橋の上から眺めた投網の光景を思い出したばかりである。このように過去のことに思いが行くのは歳のせいに違いない。(2024年6月)
2024/06/27
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親子で滝巡り 五月の連休の一日、親子で奈良県十津川村の滝巡りをした。 連休で高松から帰省していた息子の希望である。息子夫婦は三日間の滞在中、植木の剪定や物置の片づけなどをしてくれた。そして一日は滝見物に行きたいという。息子も滝が好きで、休日を利用して四国内の滝を夫婦でドライブしている。親子そろって似たようなことをしているわけだ。 娘夫婦が日本の滝100選の十津川村の「笹の滝」へのドライブを計画してくれて、親子三組の夫婦で出かけた。 例外はあるけれど、ほとんどの滝は山中の渓谷にあるので、電車やバスなどの公共交通機関で訪ねるのは難しい。やはり車が便利である。その点、ムコドノの運転は腕がたしかな上に、地理感覚が抜群である。下調べはするのだろうけれど、カーナビを使わないで迷うことがない。これはもう類まれなる才能というほかない。おかげでここ十年ほどの間にずいぶん多くの滝を案内してもらった。 笹の滝は日本の滝100選に選ばれているだけあって、駐車場とトイレが完備されている。二週間前に訪ねた三重県の「布引の滝」も、やはり100選の一つで、途中の案内看板はもちろん、トイレと駐車場がそろっていた。100選であるかないかでずいぶん待遇が違うものである。 頭上に「笹の滝」と書いたゲートをくぐって新緑の林の中を滝へと向かう。車道から滝までの道中がまた滝を訪ねる楽しみの一つである。これはもう滝によって千差万別、この滝の場合は、やや登り勾配で、足元は木の根っこと苔むした岩である。十分ほど歩くと滝に出た。 ずっと奥まったところに真っ直ぐに落ちる滝が見える。そこから大きな一枚岩のようなところを大量の水が勢いよく流れてきている。とりあえずそこで写真を撮って、岩穴をくぐって先へ進む。ずっと前方の滝壺のあたりで息子が手を振っている。こちらは登山靴で慎重に歩いているのに、向こうはゴム草履のような履物でよく登れたものだと感心する。 カミさんと娘、それに息子の妻はここまで来たら十分だと言って休んでいる。要所にある鉄の鎖と手すりを利用して滝壷が見える場所までたどり着いた。先行のムコドノは適当に足がかりやルートを遠慮がちに? 助言してくれる。 たどり着いたところは落差三十mほどの滝の右側で、滝壷の水面より少し高く、滝壷を見おろす位置である。滝の音が急に大きく響き、水しぶきがふりかかってくる。これが滝だ。よく耳にするマイナスイオンの効果だろうか。じっとしていると滝の音さえ遠のいて動から静の世界に引きこまれ、そして癒される。 結局この日は十津川村で、笹の滝の他に五つの滝を訪ねた。不動滝、二の滝、清納(せいのう)の滝、大泰(おおたい)の滝、めん滝である。 不動滝は滝への降り口がなく車道から遠望しただけ、清納の滝とめん滝へは100~200mの平坦な道、二の滝と大泰の滝は車道から滝まで急斜面を降りた。特に大泰の滝は車道脇に滝見台を設けてあったが、木が茂って見晴らしが悪い。そこで、男三人で手分けして河原へ下りる道を探した。簡単にあきらめないのが良かった。息子が一番乗りで、ほぼ滝の全景が見える河原まで到達してラインで写真を送ってきた。ムコドノとボクもあとに続いて、道らしくないところをロープに頼ったりしながら何とか降りることが出来た。 やはりこの位置から見なきゃなあ、と喜びつつ滝の全景を写真に収めた。降りた急斜面を元の車道へ戻りながら、息子たちはまだ若いが、八十も半ばのボクはいつまでこんなことが出来るのだろう? 「お父さん、危ないからやめた方がいいよ」と、息子やムコドノから言われるようになれば自重しなきゃいけないだろうな。そんな考えが頭をよぎるのであった。 ドライブの締めは十津川温泉郷の上湯温泉、上湯川のほとりにある露天風呂であった。コンクリートの浴槽にはしごがかかり、2mほど下の清流に降りられるようになっている。一人の客が水風呂の代わりに流れに浸かって平泳ぎをしていた。 湯につかりながら今日一日の充足感にひたっている時、今年のエッセイの課題が「私の元気の素」であることが頭に浮かんだ。そうか、これだな! 元気の素といえば大好きなアルコール、旅行、山歩き、滝巡り、家庭菜園など決して一つではない。これらをひっくるめると「自然」という答えが見えてくる。滝もまた自然の一つである。 ボクたち人間は自然から元気をもらい、自然の中で生かされている。
2024/05/22
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四月二十日、孫のナツキが四国で結婚式を挙げた。場所は高松港からフェリーで約二十分の女木島の海岸である。新郎は高松高専の同期生ということで、学生時代の二人の共通の友人を中心に両家の親族など三十数人が参列した。 式は露天の浜辺だというので天気を心配したが、どうやら天が味方してくれたようで現地の天候は薄曇りであった。空にはトンビがピーヒョロと舞って、都会を離れた島にふさわしくゆったりとした時間の流れを感じた。 浜辺にはサッカーのゴールポストのような白い角材のゲートが海に向かって組んであり、その前に人数分の折りたたみのパイプ椅子が並んでいる。道路を挟んだゲストハウスの庭には白いテーブルがセットされて披露宴の準備も整っている。テーブルの花も山野草のような素朴なもので好感が持てる。 八十歳を過ぎると結婚式にはあまり縁がない。子どもたちの結婚、甥や姪たちの結婚も今はもう昔の話、というわけで久しぶりの結婚式体験であった。 ナツキは昨秋に前撮りを行い、すでに入籍も済ませ、そして今回の結婚式、新婚旅行はまた後日という具合で、何もかも一緒に行った自分たちの結婚とは様変わりを感じた。 前撮りには興味があって、和装で撮る京都の寺院から洋装の琵琶湖岸まで、カミさん、娘夫婦と同行して、なるほどこれが前撮りというのかと納得した。同時に場所や小物の選定について、ナツキの強いこだわりを感じた。彼女にはこういう一面があったのかと新たな発見であった。これは今回の結婚式当日のウエルカムボードやリボンワンズを手作りしたことからも再確認できた。 披露宴の最後に浜辺での相撲大会があったのには驚いた。相撲はトーナメントで、優勝者と優勝予想が的中した人に豪華賞品が当たるというのである。もっとも、ナツキは横綱照ノ富士後援会のプレミアム会員だというくらいの相撲好きなのだから驚くこともないのかもしれない。出場者はあらかじめ決まっていた高専の男子同級生の他に、飛び込み歓迎とあってムコドノが参戦したので応援にも力が入った。 こんな具合で式は予定通り無事に終了、十七時二十分発の最終フェリーに乗船すべく港に向かった。乗船間際に、息子が元妻のヒデ子さんに近づいて何やら話しかけている姿が目に入った。おそらく離婚して以来、会話は初めてのことであろう、あとでカミさんから聞いたところによると二人の子どもを育ててくれたお礼の言葉であったらしい。この光景を見て、長年胸につかえていたものがストンと消えて安堵の思いを抱いたことであった。このことはボクにとって当日の望外な収穫であった。
2024/04/24
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三月の花 冬から春へと季節が変わる三月、野でも庭でも春を待ちかねて咲く花がある。毎年のことではあるがその花たちを見ると、春への期待感が高まって、うれしい気持ちになる。 野道を歩いて目につくのがホトケノザやヒメオドリコソウ、この二つはちょっと見にはよく似ているので見分けがつかない。オオイヌノフグリという気の毒な名前を付けられたブルーの小さな花も、地面にへばりついて咲いている姿が美しい。誰かが「星の瞳」という素敵な別名を進呈した。おそらくオオイヌノフグリではあまりに可哀そうだと思ってのことだろう。でもまだこちらの名前は定着していないようだ。 目立たないけれどハコベの小さな白い花も咲く。花があまりにも小さいので、ほとんどの人は見向きもしない、というより花に気づいていないのだろう。フユシラズという黄色い花も目立つ。本来なら名前の通り、冬の間も咲くのだろうが、当地は寒冷地のため、冬の終わりのいまごろになって咲き始めた。 畑では小松菜や勝山水菜の花が咲き始めた。いわゆる菜の花である。茹でて辛子和えにすると春の味がする。 ハナダイコンという鮮やかな紫のかわいい花もある。別名をショカッサイ(諸喝采)とか、ムラサキハナナ(紫花菜)という。黄色い花が多い中で紫がひときわ目立つ。 庭ではヒヤシンス、カンアヤメ、スイセン、オキザリスなどの宿根草が咲く。一年草では大輪のパンジー、ピンクパンサー、この春初めて我が家の庭に仲間入りしたネモフィラなどが咲き始めている。 偏見かもしれないが、一年草は華やかではあるが宿根草と違って、いかにも人工的な感じがして、どちらかというとボクの好みではない。 木に咲く花ではマンサクやサンシュユ、レンギョウ、ミモザなどの黄色い花が目立つ。他にも椿、木瓜、馬酔木が庭で咲いている。そこにはうれしいことにうぐいすも仲間入りしてホーホケキョと春を告げてくれる。 我が家の周辺はまだまだ自然が豊かで、それは子どものころからほとんど変わりがない。しかし祖父母も両親ももうこの世にはいない。まさに「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」の世界である。 子どものころから身の回りの山野草などにはなんの興味もなく、目には入っていても観てはいなかった。それが定年退職後、時間に余裕ができたからか、山野草への関心が深まり、花を見つけては写真に撮って名前を調べるようになった。金持ちではなく時間持ちになったのだ。その分だけ周りの自然と仲良くなれて、心が豊かになった気がしている。(2024年3月)
2024/03/27
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夜の十一時五分から始まるNHKのラジオ深夜便という放送を時々聴いている。先日、「試験、テストと言えば」という番組があった。ほんの一部分を聴いただけで眠りに落ちたので、内容についてはほとんど記憶がない。しかし番組の題名「試験、テストと言えば」はボクにもいろいろ思い出もあるので、今回のエッセイのタイトルに借用することにした。 考えてみればこれまでの人生で実にたくさんの試験とかかわりあってきた。さすがに小学校の試験のことは、あったかどうかさえ覚えていないが、中学、高校では中間試験、期末試験があった。高校、大学の入学試験も受けた。社会人になってからも仕事に関係する資格試験をたくさん受けた。車の運転免許の試験は定年前の五十八歳、定年後はアマチュア無線の資格もとった。八十歳を過ぎた現在でも、運転免許更新の際の認知機能検査が三年に一度ある。 過去の経験から言って、試験との相性は良い方だと思っている。節目の試験では、高校入試は倍率が一倍とちょっと、よほどのことがない限り落ちることはない。大学は二校受けて一勝一敗で国立に入れた。なにも二校に合格する必要はなく、一つ合格すればそれで十分。また我家の当時の経済事情から、どうしても学費の安い国立に行く必要があったので、結果良しであった。 就職試験もまた幸運に恵まれた。時は東京五輪の二年前、東京はじめ日本全国が建設ブームであった。そういう時代に就職期を迎えたボクが目指したのはいわゆるゼネコンで、当時は売り手市場であった。夏休みの初め頃、指定された日時に東京の本社に行くと、胸部のレントゲン撮影をした後、他社は受けませんと言う誓約書を書いておしまい、というあっけなさ。卒業の年次によっては就職氷河期などと言われた世代のことを考えると、ただただ「幸運」の一言であった。 それでも一つだけ苦労した試験がある。それは一級建築士の試験で、仕事の上では一番重要な資格であり、会社からも早期の取得を促される。大学を卒業して三年目に受験資格ができる。試験はいくつかの学科と製図に分かれている。学科が通ってあとは製図だけとなったところで、お粗末なことに試験の時間を間違えた。午前中の試験を午後からだと思い込んでいたのだった。当時住んでいた社宅から道路を一本隔てた試験場に向かうと、受験者がぞろぞろと帰途につくところであった。茫然自失という熟語があるが、この時の心境を表すのに、これ以上ぴったりの言葉はないだろう。 悪いことは重なるもので、この後、試験の制度が変わったため、また元の学科を受け直さねばならない羽目になり、合格までさらに二、三年を要した。 試験と言えばもう一つ、カンニングに関する思い出がある。カンニングと言えば、手元にカンニングペーパーなどの資料を隠し持つとか、他人の答案をのぞき込むなどが考えられる。ひどいのになると替え玉受験というのも聞いたことがあるがそれは問題外のこと。とにかくカンニングのようなせこいことは考えたことがない。そんなにしてまで良い点を取りたいこともなく、また合格したいと思う試験はない。第一、他人の答案を見たところで、それが正しいかどうかわからないではないか。 高校三年の期末試験の時、試験官の教師が突然ボクの席へ駆け寄ってきた。えっ、なに? カンニングを疑われたのある。これには腹が立った。何か紛らわしい動作をしたのかもしれないが、その時はそんなことを考える余裕はなく、疑われたことに無性に腹が立った。それで試験を続ける気がなくなってしまい、答案の裏に「○○のバカヤロウ」と書いて答案用紙を提出、教室を出た。○○はもちろんその時の監督の先生の名前である。 カンニングの話をもう一つ。大学一年の時のいくつかの試験は、無監督で行われていた。教員は試験の用紙を配ると教室からいなくなる。それを良いことに、教科書などを引っ張り出して、いわゆるカンニングをする学生も出てくる。この時は多分ボクも同じことをしたと思う。そんなところにひょっこりと教官が姿を現すことがあった。その時は教科書などを慌てて机にしまうガタガタという音で、教室がざわついたものである。何が行われていたかは丸わかりであったはず。そんなことは見込んだうえでの無監督試験だったのかもしれない。遠い昔の話であるが、現在はどうなっているのだろう。 今回はラジオの深夜放送で聞いた番組が、エッセイのヒントになったのだが、実を言うとボクにとって深夜放送は睡眠薬替わりなのである。トイレなどで目が覚めた時、タイマーを十五分にセットしてラジオをつける。隣に寝ているカミさんに言わせると、ラジオをつけるのはいいが五分も経たないうちにいびきをかいているという。何とも締まらない話である。(2024年2月)
2024/02/28
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年賀状 今年の正月で年賀状を出すのをやめることにした。昨年はたしか親戚を主体に六十枚ほど出した記憶がある。それを一挙にやめるのだから多少の迷いはあった。 数年前から、「今年限りにて年賀状を失礼します」という類のことわりを書き添えた年賀状が届くようになった。これを〈年賀状じまい〉というらしい。ボク自身も、歳を重ねるごとに年賀状を出すことに負担を感じるようになっていたので、「あ、そうですか」と、何の抵抗もなく受け止めている。 そんなわけで、いくらか残っていた迷いを振り切って出すのをやめた。事前の断りもなく突然やめたので、相手には失礼なことをしたことになるが、いずれにしても不義理をすることに変わりはない。そうは言うもののやはり気が咎める。せめて賀状をいただいた相手には何らかのお断りをと考え、ラインやメールアドレスのわかる人には、賀状のお礼を兼ねて、今年からの年賀状欠礼の意思をお伝えした。 不義理と言えば、以前に大学の同窓生の「メーリングリスト」で、年寄りが元気に生きるための三原則というのを受信したことがある。それは「転ぶな」、「風邪ひくな」、「義理を欠け」というのである。この中で最後の「義理を欠け」というのが意外に難しい。今回の年賀状対応は、その「義理を欠く」を実行したことになるだろう。 手元に1976年以降の自分が出した年賀状の控えが残っている。ほぼ半世紀も前のものであるが、一つ紹介しよう。1976年の願いジャイアンツの優勝と高松での雪見酒昨年度は惜しくも優勝できなかったジャイアンツにはぜひ優勝してもらいたいと思います。それと、ここ何年か積もるほど降らない高松に雪が積もって雪見酒をやるのを楽しみにしています。1976年1月(原文はタテのハガキに横書き) 当時は仕事の関係で高松在住、かなりのジャイアンツファンであった。懐かしい。ただ、ボクの年賀状には謹賀新年という言葉と、干支に関する表現を一切使わないことを信条としてきたことがこれを見ておわかりいただけると思う。 たまたま、このエッセイを書いている本日、一月二十日の朝日新聞朝刊「折々のことば」に以下の文があった。「身の回りの一つ二つのものを捨てれば、かなりの程度世を捨てられるし、世から捨てられるのである。」 ドイツ文学者の種村季弘という人の著書『雨の日はソファで散歩』の中の一文だという。短い言葉だがタイムリーであったので心に響いた。ボクは身の回りのものを一つ捨てたことになる。(2024年1月)*今夜はエッセーサークルの新年会コロナで休んでいたが4年ぶりの開催
2024/01/24
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袋田の滝と仁和寺にある法師 徒然草に「仁和寺にある法師」という段がある。学校で習ったきりなのでほとんどの話は忘れてしまったが、この話だけはなぜか覚えている。 仁和寺の老僧が長年の念願であった石清水八幡宮を参拝した。ところがこの僧は麓の極楽寺や高良神社などを拝むと、八幡宮はこれで全部だと思いこんで、本来の目的である山上の八幡宮を拝まずに帰ってしまった。 そして同僚に向かって「長年、心にかけていた参拝を果たせてよかった。それにしても、参詣者が皆、山へ登ったのは何があったのでしょうか。」と間の抜けた会話をする話である。兼好法師は最後に「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。」と、その段を結んでいる。 今年の十月、ボクはこの仁和寺の法師を地でいく体験をした。義妹夫婦と夫婦二組で、茨城県にある〈袋田の滝〉を訪ねるドライブに出かけた。この滝は日本三大名瀑の一つで、かねてから訪ねてみたいと思っていた場所の一つである。 事前の調べで、町営の駐車場から滝までは1.2キロ、この往復だけでは面白くないので近くの月居山(つきおれさん)を通る4.5キロのハイキングコースを選んだ。標高差は450mであるが、ピークが二つあり、コースの半分は山道で、残り半分は急な階段が続く。思ったよりきついコースであった。月居山から最後の急階段を降りる途中、滝の音が聞こえ、木間がくれに滝を見下ろすことが出来た。 川岸まで下りて吊り橋を渡ると、観瀑台へのトンネル中間入り口がある。ここで入場料三百円を払って観瀑台へと向かった。トンネルは高さ3m、幅4m、全長276mの立派なものであった。吊り橋の中間入り口から5分ばかり進むと観瀑台に出る。突然、前が開けて正面に幅73ⅿの滝が姿を現した。アッと息をのむほどの素晴らしい景観。 「ついに来たー」興奮が一気に最高潮に達する。何枚も写真を撮り、去りがたい気持ちをなだめて帰路についた。この時、エレベーターのサイン(案内表示)を見かけたが、体の不自由な人が利用するのだろうと思って出口に向かった。念願を果たせて大きな満足感にひたりながら。滝を訪ねる三日間のドライブの他に、カミさんの両親の墓参などの用事を済ませて一週間後に帰宅した。 滝のことをブログの記事にするべく、資料を整理していて唖然とした。なんと袋田の滝には我々が訪ねた観瀑台の他に、滝の全景を見渡すことが出来る、もう一つの観瀑台があったのだ。あのエレベーターはそこへ登るための設備であった。アリャー! 何たること! せっかく念願の滝を訪ねたというのに。これではまるであの仁和寺の法師と同じではないか。(2023年12月)
2023/12/27
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物忘れを思い出すタイミング 歳をとると物忘れがひどくなる。このことを日常生活において実感しているボクは、歳をとっての物忘れは自然現象なのだから、あまり嘆かない方がいいと思っている。しかし現実問題としてはそう簡単に割り切れるわけではない。 物忘れと言えば、ものを置いた場所や約束を忘れる、いま何をしようとしていたのかを忘れるなど、実にいろいろな場面で出現する。 最近の体験では、現金の置き場所を忘れて慌てたことがある。十月の中頃、カミさんと千葉の義妹の家に行った。茨城県の滝を訪ねるドライブ旅行など、一週間の予定を済ませて大阪に帰る日のことである。 旅行先でのホテルの支払いなど、まとまった出費はカードで精算できたので、持参した現金がかなり残ってしまった。千葉から帰る二日前、新宿での旧友との飲み会に出かけるとき、財布代わりのバッグから余分な金をとりだして旅行鞄の辺りに置いた。そのことを思い出したのである。〈あのお金はどこ?〉 義妹のところでは、居間の隣の空き部屋を借りて、自分たちの荷物類は全部そこに置き、寝泊まりしていた。だからその部屋のどこかにあるはずなのだが、それがいくら探しても見つからない。義妹夫婦も一緒になって探してくれたが出てこない。いくら義妹とはいえ、自分の家で金がなくなったなどと騒がれるのはいい気がしないに違いない。 これだけ探して見つからないのは、前日に自宅へ送った宅急便に紛れ込んだのだろうということにして探すのをやめ、東京駅へ向かった。 帰宅後、荷物の整理を始めた時、カミさんが「あったー」と大声で叫んだ。なんとタブレットのケースの中に紛れ込んでいたのだ。ボクにはそんなところへしまい込んだ記憶はない。しかしこれを物忘れというのだ。何はともあれ、義妹に電話で知らせて、騒がせたことをわびた。ボクの探し物を見つけるのはいつもカミさんだ。 後になって思うのだが、思い出すタイミングが悪かったようだ。自宅に帰ってから気がつけば、〈そうだ、別にしておいたあのお金はどうしたんだろう?〉ということで、ボクたち夫婦の間だけの騒動で済んでいた。 いやもっと良かったのはこうだ。タブレットケースの現金を見つけるのは時間の問題だ。〈あれ、この金は? ああそうか、飲み会に行くときに別にしておいた金だ〉。これならだれにも心配をかけることもなくハッピーエンドだった。忘れていた現金が出てきて得をした気分さえ味わえたかもしれない。 忘れていたことを思い出すのは、早ければいいというものでもないようだ。(2023年11月)
2023/11/22
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野菜の種まき 父のあとを継いで家庭菜園を始めてからもう二十年以上になる。そしてボクの年齢も、父が家庭菜園からリタイアした八十八歳に近づいた。「おーい、後は頼むぞ」と言いたい息子はまだ現役で地元にはいない。そんなわけで体調と相談しながら、もう少し頑張ろうというのが現在の心境である。 暑い夏が過ぎた九月、十月は冬野菜の種を播く時期である。野菜栽培で収穫がゴールなら種まきはスタートである。同じ作業を二十年やってきた今でも、種まきには気を遣う。今年の夏のように、九月に入っても真夏日が続いているのは異常で、例年通りの時期に播いたのでは、芽が出たとしても高温と日照りで育たないのではないか、と心配になる。 心配ばかりしていてもしょうがないので、種まきの初めを例年より一週間ほど遅らせた。そして、聖護院大根、青首大根、白菜、カブ、水菜、タマネギ、勝山水菜、ノラボウナ、小松菜、ほうれん草、春菊、人参、子持ち高菜などを播いた。 そのうち、カブはほとんど芽が出なかったので播きなおした。聖護院大根はうまく芽が出て順調だったのに、ちょっと油断したすきに芯食い虫にやられて全滅、これも播きなおした。この二つ以外は有難いことに、順調に芽を出して成長して現在に至っている。 種を播いた後は毎日のように、〈芽はまだかな〉と眺める。芽が出たら出たで、〈生えそろったかな〉、〈昨日より大きくなったかな〉、〈本葉はまだかな〉と眺めている。サトイモ、ジャガイモ、ニンニクなど種芋を植えて、芽が出るのを待つときも全く同じである。種芋の場合は種に比べて芽が出るのに時間がかかり、さらに最初の芽生えから生えそろうまで、さらに時間がかかる。それだけ気がもめる時間も長くなる。 苗の成長に合わせて、苗床に播いたものは畑に定植し、畑に直播きしたものは間引きをして、必要に応じて追肥をする。こうして野菜たちは成長し、やがて収穫期を迎える。 種を播く方法も、長年の間にコツを覚えたり改善したりしている。最近、〈踏みつけまき〉という方法を知って実践しているが、なかなか成績が良い。種を播く前と播いた後に、畝をしっかり足で踏みつける。そうすることにより種が土と密着して土から水分を得やすくなるという。したがって種を播いた後の水やりも不要なので有難い。 野菜の種まきは、少し大げさに言えばとてもスリリングな作業である。加えて播いた後の結果を見守る心配と楽しみが大きい。わが家庭菜園はこんな調子で当分は続きそうである。(2023年10月)
2023/10/25
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月に一回のエッセイサークルの集まり本日提出した作品を掲載しますこの作品は、会から与えられた課題「私が大切にしているもの」について書いたものです*****旅の楽しみ 八月の末に四泊五日の北海道旅行をした。 メンバーはボクたち夫婦を含む、いとこ会の七人の老若男女ならぬ老々男女である。 JTB旅物語のツアーで、往路が太平洋フェリーの船中二泊、北海道では温泉二泊、そして帰路は飛行機という内容である。新聞広告を観て、船中での二泊が面白いと思った。北海道の温泉二泊もボクたち老人グループの望むところである。 と言いうわけでカミさんに相談すると「いいじゃない」。いとこにも声をかけると、五人が参加するという。インターネットで空いている日を調べて七人分を予約したのが六月の初めであった。 いとこ会の旅行は昨年九月の男木島、今年三月の隠岐の島に続いて直近では三度目になる。八十三歳のボクを筆頭に、お互いに高齢である。「行けるうちに行こう」という心理が働いているのは間違いない。現に昨秋、男木島の旅に参加したいとこの一人が年末に亡くなっている。また体力を考えると、従来のようなハイキング中心の旅は難しくなりつつある。そういう意味でも今回のツアーは我々いとこグループにぴったりである。 行きのフェリーは名古屋港を午後七時に出港。途中、仙台に寄港して三日目の朝に苫小牧港に着いた。船は一万五千トン、全長二百メートル、太平洋を航行したが大した波もなく、まったく揺れることはなかった。船酔いを心配する声もあったが杞憂であった。 船中での食事はすべて旅行代金に含まれている。三食ともバイキングスタイルで、いつも同行の七人全員が同じテーブルを囲んだ。個室にシャワーが用意されているが、二日とも大浴場を利用した。寝る時以外は船のロビーで談笑しながら過ごした。話題というのはいくらでもあるものだと感心する。その一方、運動不足にならないように甲板や船室の通路を歩いて一日一万歩を確保した。 北海道での三日間は、観光地を訪ねながらのバス移動である。訪れたところは、帯広市の「紫竹ガーデン」、中富良野町のラベンダーで有名な「ファーム富田」、旭川市の「上野ファーム」という広々とした観光庭園三カ所。それに水面が澄んだコバルトブルー色をした美瑛町の「青い池」、最終日には旭岳のロープウエイ・姿見駅周辺の散策であった。 道中、車窓から、まっすぐに伸びる道路、その両側に広がる広大な野菜畑や収穫直前の黄金色の稲田、本土ではめったに見かけないエゾマツ・トドマツの林などを眺めながら北海道を体感した。北海道は八度目になるボクは、船中での二泊と十勝川温泉、層雲峡温泉の二泊で十分に満足した。観光は付録みたいなものである。 ただ旭岳のロープウエイ・姿見駅は十四年前に、ここから黒岳まで縦走した懐かしい場所である。ちょうど七月中旬で、チングルマやコマクサをはじめ三十種類以上の高山植物を堪能できて感動したことをよく覚えている。後にも先にもこれだけの高山植物を見ることが出来た山歩きを経験したことはない。しかし現地はあいにくガスの中で視界ゼロ、今回の旅でこれだけはちょっと残念であった。 「北海道へゆったり船旅」というのがテーマである今回の旅は、同行のいとこたちも喜んでくれたし、もちろんボクも楽しかった。旅行会社のツアー利用もたまには悪くないと思った。 今回の旅をこの小文にまとめながら、過去の数々の国内外への旅を思い出している。旅はやはりボクの人生で大きなウエイトを占めている。とても大切にしているもののひとつだと言って間違いないと、つくづく思うのである。(2023年9月)
2023/09/27
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数え年 敬老の日が近づいた。 我が地区の長寿会ではこの日に古希、喜寿、傘寿、米寿などの会員にお祝い金を贈ることになっている。先日、今年の該当者の名簿が会長から届いた。該当者は15名。名簿の欄外に「数え年による」と添え書きがあった。 そうか、「数え年ねえ……」、不思議なものに出会った気分である。なんとなく気になるので、制度上はどうなっているのかを、ウィキペディアで調べた。 ◆1873年(明治6年)2月5日の「太政官布告第36号(年齡計算方ヲ定ム)」で「幾年幾月と数える」という表現で満年齢による年齢計算が規定された。 というから満年齢の始まりは150年も前のことになる。ただしこの布告では、満年齢を原則としながらも旧暦では数え年を使用するという、双方を併用するような表現になっていた。続いて29年後 ◆1902年12月22日施行の「年齢計算ニ関スル法律(明治35年12月2日 法律第50号)」で明治6年太政官布告第36号が廃止され、「出生日を起算日として民法に定める期間計算で年齢を計算する」と規定された。これは結果的に満年齢での年齢計算を規定していることになる。 1873年の規定では双方の併用が認められていたのを、ここで初めて満年齢を使うように定められたのだ。それでも一般の市民生活では法的制度を無視する形で数え年が使われ続けた。それから更に73年 ◆1950年1月1日施行の「年齢のとなえ方に関する法律(昭和24年5月24日 法律第96号)」により、国民には満年齢によって年齢を表すことを改めて推奨し、国・地方公共団体の機関に対しては満年齢の使用を義務付け、数え年を用いる場合は明示することを義務付けた。 現在では満年齢が定着したとはいえ、厄年とか七五三、あるいは先述の古希などの昔からの祝い事では、数え年が生き残っている。ここまでの経緯を見ても、数え年から満年齢への切り替えがいかに難しいかがよくわかる。 人はもともと保守的なのであろう。だから現状を変えることに強い抵抗感を持つ。それは身の回りの多くの事例でいやというほど体験済みである。「昔からやってることだから」と言われると、議論の余地がない。 我が日常は合理主義中心、数え年とか和暦には全く無縁である。また前例を変えることにもそれほど抵抗感はない。むしろ積極的である。 そんな私は当然、神仏やその信心にも無関心である。なのに毎朝、神棚の榊と仏花の水替えをやっている、世の中、合理主義だけでは済まないらしい。(2023年8月)*エッセイサークルの例会上記は本日提出作品です
2023/08/23
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エレベーターの設置について ちょうど一か月ほど前のニュースである。名古屋城の天守復元について、名古屋市が開催した市民討論会の場で、現在再建を計画中の天守のバリアフリー化について話し合われていた。具体的にはエレベーターの設置に関する話であった。そこで差別発言が飛び出したが、その場にいた市長も市職員もそれを制止しなかったという内容であった。 そのことをとやかくいうのではない。ボクにはエレベーターの設置について忘れられない体験がある。 地元の公民館建設に着手した八年前、コンペで決まった設計者のプランをもとに、地元の各団体からなる建設委員会を中心に必要な機能について検討していた。たくさんの意見や要望の中で、意見が分かれたのはエレベーターの要不要であった。 不要論は言う。何で二階建ての建物にエレベーターがいるのか、そんなもったいない話はない。周囲を見ても二階建ての建物でエレベーターを付けている建物などどこにもない。設置費の他に年間管理費が七十万円かかる、その費用はどうするのか。差別発言こそないものの鋭いところを突いている。 長寿会からは、書面でいくつかの要望があり、その中には当然エレベーター設置も含まれていた。しかし会議に出席する代表者からは反対意見の地元の有力者に遠慮してか、意外と発言が控えめである。 「二階建ての建物にエレベーターはいらない」という主張は、名古屋で問題になっている、「復元する昔の建物にエレベーターはなかったのだから設ける必要はない」という主張とどこか通じるものがある。どちらも身体が不自由な利用者の観点が抜け落ちている。 ボクは個人的にはエレベーターの設置に賛成である。賛成というより高齢化社会を見据えれば絶対に必要であると思っている。ただ当時は自治会の副会長だった関係で建設委員会の司会を務めていた。そのため進行役の立場に徹して自分の意見を言うのは出来るだけ差し控えていた。 しかし、バリアフリーというのは何も高齢者だけのことではない。今日ここにおられるみなさんだって、明日交通事故に遭って車いす生活を余儀なくされることだってあり得るのですよ、と言いたかった。そして内心では、なんと物分かりの悪い人たちだろうとあきれていた。ただ、自治会長ともう一人の副会長は設置に賛成の立場であったのは心強かった。 こんな議論を何度か繰り返した。最初のうちは設置賛成と言ってくれた自治会長も、途中で弱気になって「仕方がない、エレベーターはやめるか」と言い出したときにはいささか慌てた。また議論が過熱して、怒鳴りあいから、あわやつかみ合いのけんかにまで発展しそうになったこともある。 賛否の採決をとるのも一つの方法であるが、あとにしこりが残りそうなので次のような案を出した。要するに結論を先延ばそうというのである。 設計はエレベーター設置の方向で進める。設計図が完成し、工事費の見積もりをする段階で予算内に収まれば設置する。もし予算オーバーであればその時は設置しない。ただし将来設置できるようにエレベーターのスペースはそのまま残しておく。仮の床を作って物入れにでも使えばよい。 それでも異論はあったが何とかこれで了承を取り付けることが出来た。 一年後に設計が完了し、市内の建設業者五社による指名競争入札を行なった。予定価格の中で最低価格の業者が落札した。工事費はエレベーターの設置も含んで全体として予算内におさまった。この段階では、あれだけ強硬に反対していた人たちからも何の反応もなかった。 そして公民館が完成して六年が経過、当初問題になったエレベーターの点検・管理費も、公民館の使用料や屋上に設置した太陽光発電の売上金などで問題なく処理できている。 現在、公文などの教室に来る子供たちと、歩人のニックネームのある筆者は常に階段を利用しているけれど、それ以外のほとんどの利用者は、何の躊躇もなく二階への昇降にエレベーターを利用している。 (2023年7月)*月に一度のエッセーサークルの集まり暑さにへばらず、メンバー全員が出席先月提出したお互いの作品に対して今日も熱いコメントが飛び交った!
2023/07/26
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嘘も方便 昨年十二月、突然意識を失って病院に運ばれ、意識が戻るまで三十六時間、病院のベッドで過ごすという体験をした。MRIや脳波などの検査をして、脳には異常がないことが確認された。担当医によると、脳に異常がなければ「てんかん複雑部分発作」、通称「高齢者てんかん」を疑うことになるという。 しかし、てんかんだと決まったわけではないので、抗てんかん薬を飲みながら、三カ月ごとに通院して一年間様子をみようということになった。 薬を飲み始めて間もなく、日常生活で足元がふらつくことが多くなった。薬の注意書きを見ると、足元のふらつき、眠気、モノが見えにくいなどの症状に注意ということが書いてある。ふらつきの原因はどうやら薬の副作用らしい。 半年ほどたったころ、そのふらつきはかなりひどくなった。平坦な道を歩いているだけでも足元がふらつくのだ。そこで薬の服用をやめて、三週間ほど様子をみると、ふらつきは止まった。やはり薬のせいだったのだと納得した。担当医に無断で薬をやめるのも気が咎めるので、以後は朝夕二錠ずつのところを半分の一錠ずつ飲むことにした。それでもふらつきは気にならない。 そして六カ月目の診断の日が来た。先生にはどう説明しようかと迷った末、半分うそをつくことにした。三週間、薬をやめたというと「そんな勝手なことをして」と叱られるだろう。そこで、薬をやめたことには触れないで、量を半分に減らして様子をみたということにした。嘘も方便である。「その後どうですか?」と先生。「おかげさまであの時のようなことは全く起こりません」ちょっと間をおいて付け加えた。「ただふらつきが随分ひどくなって、平坦な道路を歩いているだけでもふらつくんです。それで自分の勝手な判断で薬の量を半分にしてみました。そしたらふらつきは止まりました」「そういう患者が一番たちが悪いんだ、いつからそうしたんだね」と先生、かなり機嫌を悪くしている。ここまでは想定通りだ。「五月の十日からです」しばらく間があって、次のようなつぶやきが聞こえた。「朝夕二錠ずつの薬を一錠に、そして一日一回に、最終的にはやめる、そういう風にする……」最後の方ははっきり聞きとれなかった。察するに、先生の考えていたことを先取りして実行してしまったらしい。「すみません、ちょっと相談すればよかったんですが……」と、心の中で舌を出しながら神妙に言葉を選んだ。「じゃ、薬が残っているだろう。五月の十日からか? 次はその分を差し引いて出しとくから」「じゃあ今のまま、半分でいいんですね」「そうだ」 面談は終わった。先生のご機嫌悪化はこの程度で済んでよかった。しかし面談が終わってから改めて考えた。薬をやめたとか半分に減らしたなどと余計なことは言わず、ただ「ふらつきがひどくなって困っている」ということだけを訴えればよかったのである。そうすれば先生の機嫌を損ねることもなかったのだ。同じ嘘でも中途半端な嘘をついたものだ。 『後で気がつくてんかん病い』という言葉を聞いたことがある。正確な意味は知らないが面談が済んでから気が付くなんて、ボクはやはりてんかん病みなのだろうか。(2023年6月)
2023/07/01
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ボクが玄関の竹製の靴ベラ折ってしまいその三日後にはカミさんがプラスチックの靴ベラを破損するという事故が続いた昨日、カミさんがスーパーで新しいのを買ってきた今日のブログはこれにしようと書き始めた途中で気が変わり、明日のエッセイの作品に利用するいことを思いついた。出来上がったのが以下のものである 長年使っていた竹の靴ベラがぽっきりと二つに折れてしまった。靴を履こうとした時に足元がふらついて、靴ベラをねじるような力をかけてしまったからだ。 その時、すぐに頭に浮かんだのはスリランカの坊さんから聞いた「命あるものはいつか死ぬ、形あるものはいつか壊れる」という言葉である。折れてしまったものは「しゃあないな」とあきらめた。 次にこの靴ベラをくれたYさんのことが頭に浮かんだ。二十年ほど前のことになる。ボクが退職して間もないころ、地元の過去のことやら将来のことについて先輩の方々と何度か話す機会があった。仕事の関係で地元を離れていた期間が長かったボクには、そのような機会はとても貴重で有難かった。先輩たちはそれぞれに個性が強く、一癖ある人ばかりであった。場所は主に先輩たちの家のことが多かったが、時には野小屋での月見の宴というしゃれた催しもあった。 そのころYさんから、自分で作ったという靴ベラとしゃもじ、それに孫の手の三点をもらった。竹細工は彼の特技で、竹かごなどもお手の物だと聞いた。ボクも退職して時間があるのだから竹細工を教わりたいと考えたこともあったが、残念なことに実現しなかった。 孫の手はめったに使う機会がないが、しゃもじの方は三年前から始めた柑橘類のジャムつくりの最後の工程で、弱火で煮込む際に鍋の中をかき回すのに使っている。 ボクが靴ベラを壊した三日後に、今度はかみさんがプラスチック製の靴ベラを折ってしまった。玄関に靴ベラがないと困るので、カミさんが昨日、スーパーで新しいのを買ってきた。三百円と七百円とがあり、三百円はあまりにちゃちなので七百円の方にしたという。品物についていた札を見ると、靴クリームのコロンブス社の製品で、品名を「カラーシューホーン」と、英語とカタカナで書いてある。ホーンは動物の角のことなので、靴ベラは動物の角からつくっていたようだ。これを見て靴ベラのことを英語ではシューホ-ン(Shoe Horn)というのだと初めて知った。 世の中、何事もカタカナ表記が増えている。乳母車はベビーカー、酒屋はリカーショップという時代である。子どもの頃はもっぱら「靴スベリ」と言っていたが、それが今ではシューホ-ン。高いものでは五万円もする、これにはビックリした。まさにピンからキリである。(2023年5月)
2023/05/23
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エッセーサークルの仲間が先月の例会の時、意外な話をした「Kさんのお父さんは学校の先生だった?」「そうだけど」「中学校の卒業アルバムを見ていたら校長先生の名前がKであなたと同じなの寝屋川二中におられた?」「あ、それ間違いなくポクの父や」「お顔がよく似ているのでひょっとしてと思ったの」父が亡くなって19年になるいまごろになってこんなところに現れるなんてびっくり!それから一か月後、そのことを彼女はエッセーの作品に書いたというそのエッセーの一部を紹介せてもらう 私が60年前に通っていた寝屋川市立第二中学校の校長先生は、今、私が参加しているエッセイクラブの仲間であるKさんの父上であった。 8年間エッセイクラブのメンバーとして顔を合わせてきたが、予期せぬご縁にビックリした。教えてくれたのは、卒業アルバムだ。 本棚の一番上でほこりを被っている本が眼にとまった。いらない本は捨てなくては……。 それは中学校の卒業アルバムだった。古書の風格がある。最初のページには体を斜めに構え手を机の上においてきりりと座っている校長先生校舎の全景、校歌の写真がある。 パラパラとページをめくり3年10組の自分のクラスを見る。高齢化社会を生き抜いているだろうクラスメイトの写真を眺めていると、なぜか校長先生の写真が気になる。 最初のページにもどる。うん、K校長先生やじっと校長先生を見る、あれ、Kさんに似ている。そういえば彼は教師の息子だとエッセイに書いていたことがあった。(中略)「エッセイサークルのKさんのお父さんは二中の校長先生やってん」と、夫に言うと「それは奇遇やね、校長先生がエッセイクラブにきたはるとは」 「ちがう、ちがう、来たはるのは息子さんや」 アルバムの〇〇先生は、年齢はわからないが今の私やKさんより若い。(Kさんは若い時こんな顔してはったんや)と、写真を見る。(ちがう、ちがう、これはお父さんや)お互いに我が歳を忘れ、中学時代をつい昨日のことのように思い出している。この作品を印刷してこんなことがあったと仏前で読み上げようと思う!
2023/04/20
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世の中のあらゆるものが時代の変化に応じて変化するそれは何も珍しいことではなくごく自然な出来事であると思う言葉もその中の一つである今月はその言葉の変化について昔を思い出しつつ書いてみた「懐かしい言葉」 自治会の役員会で、議題が終わった後の雑談になったとき、誰かが「子どもの頃に使っていた言葉がいまはなくなっている」と言い出した。そして次々にこんな言葉があった、あんな言葉もあったという話になって、会議の終わった後のひとときが盛り上がった。その時の雑談を整理してみたのが以下の拙文である。 最初に出たのがクチナワ(クチナ)、これは「へび」の意味である。漢字で書くと「朽ち縄」、蛇の姿が想像できてぴったりではないかと思う。 シルイというのもよく使った。意味は「ぬかるんでいる」ことで、「道がシルイ」というように使う。まだ道路がいまの様に舗装されていなかった時代のことである。方言ではなく普通に使う言葉だと思っていたボクは、学生時代に何気なくこれを使った。すると友人から「なにそれ?」と突っ込みを受けた。そんなのはほかでは言わないよと大笑いされた記憶がある。その時初めて、地元でしか使わない言葉だと知ったのである。 ヒノツリは昼寝のことで、ボクは使ったことがないけれど、向かいのおじさんがよく使っていたのを覚えている。このように自分では使わなかったが周囲の大人が使っていた言葉も多い。そんな言葉の一つにケンズイというのがある。これはおやつのことである。それからモグラのことをオンゴルという。ケンズイやオンゴルも耳にはしていたが自分では使わなかった。 カンコというのは衣類を火で焦がすこと、あるいは焦げたこと自体を指す言葉である。焚火の周りで火に当たっている時にうっかり衣服を焦がしてしまったときに「カンコいかした」、「カンコいった」というように使う。 小皿のことをオテショウと言ったが、これなんかはテショウにわざわざ丁寧語の「オ」がついていることから、京都の言葉ではないかと思う。我が居住地は京都に近い。台所にいると母から「みずやからオテショウを出して」などとなどと言われた。ミズヤは食器棚のことである。 重いものや大きいものを二人で持ち上げることをカクと言った。相手に頼むときに「ちょっと(そっちがわを)カイテ」というように使う。結婚したばかりの頃、カミさんはボクの父から「ちょっとカイテくれるか」と言われて何のことか分からなかったという。よほど印象が強かったのか、いまだにカミさんの思い出話に登場する。 多分「カイテ」は関西弁で、関東育ちの彼女には通じなかったらしい。関西弁と言えば「ナオス」というのがある。これは修繕するという意味と収納するの二つの意味がある。ある時、徳島の友人から「これツマエトキマス(ツマエトク)」というのを聞いたことがある。一瞬、ん? と思ったが前後の関係から意味を察することができた。これはすごい! 「ナオス」の上を行く言葉ではないか。ツマエトクはどういう意味かときかれたら、ほとんどのひとには正解が出ないのではないかと思う。 ヘッツイサンはかまどのことなどまだまだあるが、このくらいにしておこう。かつては使っていたが、今では使わなくなった言葉を死語と言う。世の中はどんどん変わっていく。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」である。ここに書いた言葉を使っていた祖父母はもちろん両親もこの世からいなくなった。使わなくなった言葉に思いをはせたりするのは年齢のせいだろうか。子どもの頃にあった言葉に思いをはせて感傷にひたったひと時である。(2023年3月)
2023/03/26
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サークルの同人誌「叢20号」ができたこのサークルにお世話になったのは「叢12号」の年、2014年から今年でちょうど10年になる10年の間には止める人、新しく入る人結構、人の出入りがあったけれどボクは良く続いたものだと自分で感心している同好会であるから、書くことを楽しもうという共通の接点があり、仲間意識を感じるのも続けられた原因かもしれないあといつまで続けられるか先のことはわからない
2023/03/23
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本日は月に一度のエッセイサークル本日提出の作品ですジャムにもいろいろありますが柑橘類の少し酸っぱい味がボクは気に入っています 三年前の冬に知人からジャンボレモン(英名・ポンデローザ)をもらった。ジャンボレモンとは文字通りでっかいレモンのことで、大きいものは一個が一キロ以上ある。表皮は少しごつごつした感じで、色はレモンより少し濃い。形はミカンのデコポンを大きくしたようなものである。 さて使い道については、届けてくれた知人も何も言ってなかった。カミさんは香りがいいので玄関に飾った。たくさんもらったので何かに使わなきゃと思って使い道を調べた。すると、普通のレモンの絞り汁の代用にするという他に、砂糖漬け、ピール、ジャムなどが見つかった。 よし、ジャムを作ってみよう! レシピの写真では、薄く切った皮が、原形をとどめている。こういうのは苦手である。それに初心者にはいま一つ要領を得ない。その時、思い出したのが以前に大柚子のジャムをくれた友人のことだった。あのジャムはうまかったので毎年、届くのを楽しみにしていた。ところが残念なことに柚子の木が枯れてしまってジャムは届かなくなった。 そうだ、彼女に訊いてみよう、さっそく電話をした。メモ程度だけれどレシピが残っているというので、メールで送ってもらった。そこにヒントがあった。最後の工程である弱火で煮詰める前に、ミキサーを使っている。なるほど、これならいけそう! WEBサイトに載っている手順にミキサーで皮を粉砕する工程を加えて我流のレシピが出来上がった。 ミキサーでの粉砕時に水を使ったので、全体にゆるくなってしまい、煮詰める時間が長くなった。そんな問題はあったけれど、初めての挑戦なのでそのくらいは仕方がない。出来上がったジャムを近所の兄弟などに配ったが、おおむね好評であった。 これに気をよくして翌年もまた作った。我が家で採れたハッサクでも作った。どちらでも要領は全く同じである。三年目の今年もまた三キロのジャンボレモンでジャムを作った。もうレシピを見る必要もなくなった。 ジャムの材料はジャンボレモンとグラニュー糖だけである。またレモンは皮も実も表皮の下の厚いわたも使う。捨てるのは実の袋と種だけである。袋から実を取り出す作業は多少手間がかかるがカミさんが応援してくれる。 三キロも作ると家では食べきれないので、毎年カミさんが近所や知り合いに配っている。次に出来たらまた下さいねと空き瓶を返しに来る人もいる。ボクはトーストにもつけるが、プレーンのヨーグルトにのっけて食べるの気に入っている。
2023/02/22
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