ココ の ブログ

考える葦(1)

考える葦

 「人は、考える葦である」という。パスカルの有名な言葉である。その意味は「人間というものは風になびく1本の葦のように弱々しい存在に過ぎないが、考えるということで自分がそこに存在するという点が単なる葦と違うのだ」ということだろうとボクは想っている。確かに人間は観念論によってこそアイデンティティが立証され、生き甲斐をもって生きて行ける動物と言っても過言ではないとも想う。考えるということが無ければ単なる物質に過ぎず、人類の発展もないからである。これは12年ほど前に書いたボクの自分史の書き出しである。読み直して少しばかり青臭い気がしない訳でもないが今も基本的に考え方は変わらない。

京都博物館(1)
京都国立博物館のロダンの考える人

 その次に、無神論者の事例を書いて観念論者に対立する人々が現実に多いことも書いているのだが、その中で、死後の世界について少しばかり考えている。つまり、今を基準に考えてみた場合、過去と未来という観念があることを人間は知るのであるが、それは毎朝太陽が登り、夕方には沈む繰り返しを経験している内に時間という概念に気付く訳で、火山活動や地震・雷・火事・猛獣・怪我・病気を見聴きしていると自然への畏敬の念も抱くように成るだろうし、過去や未来の間にある今にやっと気がついて、今この時から再び同じ季節がやって来るであろうことを予測し希望という概念を持つようになるのである。

地獄門
東京上野のロダンの地獄門(中央上部に考える人が居る)。

 しかし、未来に希望や目的を託すようになったところで、有史以来、数千年の人間の営みなぞ宇宙時間からすればほんの一瞬に過ぎず、50億年もすれば我々の住む太陽系宇宙は無くなってしまうことが分かってしまうと、冷静に考えれば人間は生まれた瞬間から死に向かって走っているようなもので何ともはかない存在なのだと気付かされるのである。が、そうは言いながらも、ほんの一瞬でも「人間は、生命の営みと共に無限に広がる世界と永遠の時間を感じ取っている葦である」と考えるなら、アダムとイヴが地球上に現れ、大陸を移動しながら黒人種から白人種と黄色人種が生まれ世界に散って行った長い歴史という事実は、如何に人間がしぶとく環境に順応しながら生きているかを教えられるのである。

静岡県立美術館
静岡県立美術館のロダンの考える人

 ところで、考える葦という比喩からボクはロダンの彫刻「考える人」を連想してしまうのだが、想えば小学時分、京都博物館でそのブロンズ像を見上げる度に何故こんなに身体をねじってうつむく必要があるのか不思議で仕方が無かった。ところが大人になってから東京上野の美術館で、それがダンテの「神曲」に触発されて造られた「地獄門」という作品の中央上部に取り付けられた小さな一部分であることを観て、成程と納得したのだった。つまり、京都博物館の台座に乗っていた拡大された「考える人」を間近に観ればうつむきの角度が強調されすぎて思索するよりも苦悩する男にしか見えなかったのだった。

パリ美術館
パリ美術館のロダンの考える人

 しかし、実は、ダンテ本人がが地獄・煉極・天国について悩み苦悩している姿なのだとロダンが判断して地獄に入る入口の上部に一人の男の姿として飾った為に、観る者からすればかなり高い位置なので無理にねじって俯かせ、何とか観た目のバランスをとっただけのことだと知ったのだ。世に有名な姿も裏を返せば、内面的な思索の姿と言うよりも下から見上げてこそ成り立つ姿で、仮に上から見下ろす位置に飾られるとするならああいう姿には決して成らなかったのだ。それが分かるとボクはロダンが急に身近な存在になり、弟子のブールデルがロダンを凌ぐ大作家として世にもてはやされるようになると、焦りと苦悩の日々を送らざるを得なくなったという面に愛着さえ感じるのである。(つづく)

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