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ポリーニの演奏を聴くと、音楽というものが通常の概念を超えて、生命体となり、ポリーニを通して、躍動している自分を現しているように思えてならないことがよくある。
ポリーニが初来日したとき、ベートーヴェンのソナタを聴きに行ったが、そのリサイタルで初めてその感覚を得た。ベートーヴェンが乗り移ったかと思うほど、音楽そのものが生きて、前へ、前へと進んでいった。クライマックスに向かって次第に盛り上がっていく場面では、音楽が要求しているとおりにうねるようにクレッシェンドし、アッチェレランドして頂点に達する。その過程に作られたものという感じは全くない。
ポリーニが弾くショパンのCDでもよく感じることである。作曲家が異なっても、音楽そのものが、作曲家に自分の分身を楽譜に記録させ、ポリーニのような、桁違いの才能を持った演奏家に自分を再現させているという、そんな感じがするのである。
音楽のジャンルを問わず、演奏が白熱し、感極まるとき、よく「乗っている」という表現がされるが、その状態がまさに「音楽が演奏家を突き動かしている」状態なのではないだろうか。
ショパン:ピアノソナタ第2番&第3番
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)録音:1984年9月ミュンヘン
ドイツ・グラモフォンF35G 50311
このショパンのソナタの場合も、ポリーニの存在は透明に近いものがあり、音楽という生命体がショパンとポリーニを通して、姿を現した感があり、とてつもなく深い感動を与えてくれる。前々回までソナタ2番を何人かのピアニストで聴いてきたが、ポリーニを聴くと、比較しようなどとは全く思わない。「音楽」に対して透明になれる演奏家はなかなかいないと思われるからだ。
ポリーニらしいところを敢えて挙げれば、ペダルの使用を抑えられるだけ抑え、濁りのない澄んだ音にしている点だろう。硬質な音だが、それが、気高さや意志の強さの表現を可能にし、微細なニュアンスを伝えることができる。第4楽章の風が動き回るような不気味なパッセージもクリアーに見せてくれるところが、その一例といえる。
ペルルミュテールのショパン ソナタ第2番 2009年08月30日
グリモーのショパン ソナタ第2番 2009年08月30日
アシュケナージのショパン ソナタ第2番 2009年08月28日