海外旅行紀行・戯言日記

海外旅行紀行・戯言日記

天才アーベル



1933年共立社高等数学講座として刊行され、1995年に岩波文庫として発行された、高木貞治(1875 - 1960)著「近世数学史談」には次のように紹介されています。

アーベルは1802年8月にノルウェーの首都(今のオスロ)に近いFinnoと言う所で貧しい牧師の家に生まれて、貧乏と結核とに苦しめられた短い生涯の間に、数学史上無類と言うべき華々しい業績を遺して、1829年4月に世を去った。

1824年、16世紀以来問題となって5次方程式の解法を“5次の一般的な方程式を解くことは不可能”として決着させたのである。貧乏な彼は自費出版の印刷代を節約するため、論文を短縮したので説明が十分でなかったことから、その時点では時のドイツの大数学者ガウスの認める迄に至らなかった。
1825年、ノルウェー政府の第一回外国留学生4人中の1人として、ドイツ・フランスに二年間在留して失意の帰国をし、その2年後、死に至るのですが、異常なる業績を遺すことになった。

その間の行実の概要は次に掲げる。
1825年9月コペンハーゲン、ハンブルク経由ベルリンに至る。クレルレと行を結び、数学雑誌発行に参与。
1826年2月ドレスデン、ウィーンを経てイタリーに入り、スイスを経てパリに至る。パリ科学院に論文提出するも顧みられず。
1827年1月再度ベルリン在留。
1827年5月帰国、大学から年額200ターラーの給付を受けての窮乏生活。
1828年陸軍士官学校及び大学の代理講師となる。楕円関数論発表し、ヤコービとの論争。
1829年4月病を獲て逝去、享年27。

1828年になってアーベルの楕円関数論はガウスに知られ賞賛されているが、遺された時間はあまりにも短かった。
その論争をしたヤコービは立派な男であった。彼はアーベルの論文に接し「我の及ばざる所、賞賛するに辞無し」と感激を極めて言うている。喜ばしいことに間接にアーベルの耳に入ったのである。
そしてアーベルを黙殺していたパリ科学院のルジャンドルに「斯くの如き大発見が二年前に貴科学院に報告されながら、貴下及び後同僚の注意を惹かなかったのは何と言うことでしょう」と憤慨の書簡を送りつけたのです。

この二人は対蹠的であった。アーベルは北欧の貧しい新米牧師の子であったが、ヤコービはユダヤ族の銀行家の子としてポツダムに生まれた。アーベルは病弱で内気であったが、ヤコービは精力的な活動家であった。アーベルの天才は或いはガウスを凌ぐものがあったかも知れないが、才能に恵まれたヤコービは精励に於いてガウスに劣らなかったであろう。

生誕百年に当たってBjornonは記念詩中の一節にこの様に記されている:

Lorsqu’il s’apercut
que la mort venait le chercher
il la pria d’attendre
Il fit des calculs, des calculs,
et posa sa signature,
la derniere,
sous ce que personne ne savait encore,
et qu’a peine l’on comprit,
aujourd’hui base des recherches.     

死が彼を連れに来たことを知った時、
彼は待つことを乞うた。
計算に計算を重ね、
そして最後の署名をした。
今日研究の基礎となっている
誰も未だ知らなかったことの下に、 
誰も了解しなかったことの下に。

最初の論文で彼を認めず、アーベルに傲慢と非難された大数学者ガウスも彼の死を知った時、「実に学問界の損失です。この異常なる英才の経歴に関して手に入りましたらお知らせ下さい。」と述べるに至りました。


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: