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ゆのさんのボーイズ・ラブの館
13-2
それが時として懐かしく思えたり
ある時には残酷だったり・・・
麻酔はもう切れてるのに
体中が眠りを欲している
うつらうつらと
日樹は起伏する睡魔の中でさ迷っていた
今頃どうしてそんな夢を?・・・
西蘭学園に入学したその当時
もう四年も前のことだ
何も知らずにいた
まだ子供だったから・・・?
心の片隅に小さな寂しさは抱いていた
でも・・・幸せだった
「諸藤クン、もう帰るの?」
帰り支度を始める日樹に声をかけてきたのはクラスメイトの山田という少年だった
「うん」
机の中の教科書を学生鞄に納める最中だった
「ちょっと面白い場所を発見!一緒に行かない?」
「・・・・」
日樹は少し思い悩んだ
別段、家に帰っても特にしなければならないこともない
部活動にもまだ所属していない、これといってまだ決めていないのだから
断る理由もない
校内を探検するなら・・・
「行こう~」
クラスメイトは楽しそうに日樹を誘う
「・・・うん、じゃ・・・」
半分押し切られた気もする
彼と特に親しいわけではなかった
昼食の時間を一緒に、そんな程度である
西蘭は名門だけあって頭脳明晰は勿論、良家の子息が多い
彼もそんなうちの一人だった
日樹はもともと内向的な性格で
自分から進んで友達を作ろうとするタイプの人間ではない
群れをなしたり特定の友達をもつ必要もなく
一人で居ることが好きだったかもしれない
だが、こうやって誘われ行動を共にするのも悪くなかった
「美術の小梶先生って知ってる?」
「小梶先生?」
目的の場所へ向い歩き出すと訊ねてきた
「ううん・・・」
1年の教科の担当でなければ名前も顔も一致しない
まして高等部の教師に限ってはからきし
日樹は首を横に傾げた
「上級学年を受け持ってるんだけど、その先生がね・・・」
思い出しただけでも可笑しくなるらしく
彼は笑みをこぼす
向っているのは校舎一番北のはずれの美術室
途中、高等部の校舎を抜ける
入学式の頃には満開だった桜の花も今ではすっかり散ってしまった
どこを見渡しても男子生徒ばかり
そのはず、ここは男子校なのだから
右左見ても詰襟学ラン姿の生徒ばかり
西蘭学園の制服は伝統を重んじ、昔から変わらなぬデザインの学生服のまま
これだけの人数がみな同じ学ランだと、さすがに圧迫感がある
二つ目の校舎を越える
渡り廊下を通り抜けるときに
サーっと吹き溜まりの風に煽られる
「あっ・・」
日樹は思わず乱れた前髪を押さえた
一瞬・・・
駆け抜けていった風がこれから起こる何か胸騒ぎに似た予感を漂わせた
立ち止まり空を仰げば、雲ひとつない澄んだ青空
やがて緑葉の季節が訪れる
「どうかしたの?」
クラスメイトに気遣いされ、ニコリと笑い返す
中等部の教員室は高等部と別だ
もちろん教科教室も別になる
小梶先生・・・
入学してから数日のうちに、顔を合わせた教師を一人一人思い浮かべる
名前も初めて聞いた上に、どうも記憶にはない
「それがね、美術部の見学に行ったときに会ったんだけどね・・・」
静かな校舎の廊下に、二人の靴音だけが響き渡る
彼が思わせぶりに言いかけてやめたのは
立ち止まったそこがもう美術室隣の準備室だったからだ
「到着~」
初めて足を踏み入れる場所
扉の向こうに何があるのか期待と不安が高鳴る未知の世界
コンコン・・・
クラスメイトは慣れ知ったようにノックし、扉を開ける
「先生~居るぅ?」
扉を開いた瞬間
挽き立ての珈琲の香りがプーンと匂ってきた
良い香り・・・
「お、また来たのか 一年坊主」
そう広くはない部屋の中央で一人の青年が爽やかな笑顔をこちらに
自分の城にやってきた小さな二人の生徒を穏やかに迎えていた
「先生、今日は親友を連れてきたよ~」
親友って・・・
日樹には言われる心当たりがなかったのか
自分をそう紹介され、ちょっと照れくさかった
彼は日樹の手を引き、一緒に部屋の中に足を踏み入れる
「・・あっ・・山田君・・・」
それが急で、躊躇していた日樹はうっかり躓きそうになる
その上、腕を引かれる力がことのほか強い
日樹は体制を直す暇もなく、ついには引きずられるように前のめりで倒れこんでしまった
しかも前を歩くクラスメイトを巻き込んで
「わぁっ~!」
ドテドテと二人は次々に床に重なり合って倒れる
青年教師が慌てて駆け寄るときにはもう遅かった
「君達!大丈夫かっ!?」
二人は床に転げて顔を見合わせていた
「痛てて・・・」
「・・・ごめんね・・・山田くん・・・・」
「うん、こっちこそごめん・・・」
それから二人でなぜか笑い転げてしまった
理由もないのに笑いが止まらなかった・・・
可愛い生徒たちが怪我もなく、青年は安堵したようだった
「先生、諸藤君っていうんだよ・・・綺麗な子でしょ」
それはちょっと得意気に
まだ転げたまま、クラスメイトは日樹を紹介した
「ああ、そうだね」
心配顔をしていた青年は、顔をほころばせ返事をする
「ようこそ、お二人さん」
中等部一年の春
それが日樹と小梶の初めての出逢い・・・
季節が廻るたびに、過ぎ去った同じ季節のあの頃を思い出す・・・
まどろむ意識の中で
どれだけの時間をさかのぼったか・・・
若葉の季節に想いを馳せ
『親友の諸藤君で~す 綺麗な子でしょ?先生っ』
何度思い出しても恥ずかしくなる
それが初対面の人間へ、自分を紹介された時の言葉
「あの時のことは今思い出しても笑ってしまうな」
小梶は淹れたての珈琲を二つのマグカップに注ぐ
人がここを訪れて来るたびに、彼は豆を挽き新しく珈琲をおとす
そして客人は皆、この西蘭学園の生徒たち
「山田と諸藤が将棋倒しになった時には驚いたな」
あの日、美術準備室でまだ初々しさの残る新一年生を迎え入れたのはこの青年教師、小梶 陽
高等部の美術を担当している
コポコポと音をさせながら珈琲を注いだ二客揃いのマグカップからは香ばしい湯気が立つ
部屋の中央に設置された簡単な応接セットのソファに二人は顔を並べそれを見つめていた
真新しい制服は少々大きめで、裄丈は体に合っていない
これから成長することを前提に縫製された学生服
「諸藤君が痩せっぽちでヨカッタ じゃなかったら俺はつぶれてたよ~」
ほんの数ヶ月前までは小学生だった二人
背丈は標準に近くても横幅は平均値よりかなり下回っている日樹
隣に並ぶ彼もそうかわりはしない
「ごめんね・・・」
その思い出話はここへ来れば何度でも持ち上がり、そうしては頬を紅潮させて
日樹は詫びるのだ
二人重なり合って床に転げた
そんな二人をいつも快く迎える教師
「あぁ~良い匂い」
香りの誘惑にもう待てない、山田がクーンと鼻をカップに近づける
「おいおい、ところで山田は入部届けを出したのか?」
小梶は自分の飲みかけのカップを持って二人の対面に腰掛ける
「あ・・・まだです」
カップに伸ばしかけた手を止めざるを得ない
その手をそろそろと引っ込める
「見学といって、この部屋に来てばかりいては活動内容もわからないだろう?」
「・・う・・・え、・・あぁ・・・」
いきなり核心をつかれて山田は目を泳がせる
彼には入部する意思はあるのだろうか
「じゃ、残念だが砂糖とミルクまではサービスできないなぁ」
ちょっと意地悪げに、小梶はカップを口元に運びながらチラリと山田を覗く
「えぇ~先生、ブラックじゃ飲めないよ~ ねっ諸藤君」
「・・え?・・あぁ・・・うん」
中学生にブラック珈琲はほろ苦く大人の味だ
同意を求められ、日樹ははずみで返事をする
どうやら山田は美術部入部希望を名目にここへ遊びに来ているらしい
だがこの教師はそれを咎めることも、入部を強制することもしない
冗談交じりのたわいもない会話をしながら生徒と接するのを楽しんでいる
彼の話術にすっかり乗せられ生徒たちは自然と、うちに秘めた心を開く
本人の気づかぬ間にカウンセリングし、深層心理をさぐりながら
日々、生徒達の心のケアをする
それが教師としての勤め、と
小梶はわきまえていた
ここへ来れば心が軽くなる
そんな思いで訪れる生徒も少なくない
そして静かなこの準備室は、なぜか居心地が良かった
こうやってクラスメイトと一緒にここへ通ってきたのはもう何度目だろうか
名門校だけあり、学園全体が落ち着いた雰囲気だった
多々ある部活動の中に大会出場やコンクール出場など数々の成績を残している部も多い
体育系、文科系に偏ることなく
まさに文武両道に秀でた学園なのだ
「そうだ、諸藤君も一緒に美術部に入らない?」
いつの間にか日樹を親友として扱う山田がとんでもないことを言い出す
入学してまだ一ヶ月足らず、
自分を親友と呼ぶが、彼のことなど何も知らない
「・・えっ?・・・僕は・・・」
まだどの部に所属するかまったく考えていない
そう言い返すつもりだった
「・・・諸藤君は運動神経が良いからやっぱり体育系の部活に入るのかな?」
表情から察したか、日樹の否定的な返事で山田は顔を曇らせる
「そんな・・・」
まだ何も決めていないのだから返事のしようもない
「じゃ、一緒に美術部に入ろうよ そしたら毎日美味しい珈琲が飲めるから」
ころっと変わり、再び日樹を誘う明るく弾む表情の山田
「こらこら、それが目当てじゃ困るぞ」
二人のやり取りを面白そうに眺めていた小梶が軽く言葉を挟んだ
山田は日樹の両手を握り締めくどき続ける
「諸藤クン~そうしようよ」
「でも・・」
「一緒に入部しよっ」
軽い気持ちでついてきたのは良いが
まさかこんな展開になるとは思わなかった
山田にしてもなかな決心がつかなかった入部だが
日樹と一緒ならこの場で決める勢いもつくのだろう
じっと見つめられては目のやり場に困る、これでは説得に押し切られてしまいそうだ
「・・山田君・・・」
「ねっ!いいでしょ」
美術を勉強したいのか珈琲を飲みに来たいのか
彼の真意もわからない
いきなり親友呼ばわりされた上、熱心に誘いかけられる
もしかしたら『うん』というまでここから帰れないのだろうか
助けを求めるつもりで目の前の小梶に視線を移すと
彼はじっと日樹を見つめていた
それはとても温かく穏やかな瞳
不思議と初めて逢うような気もせず
しばらくその瞳を離すことができなかった
そして・・・
「・・・・・・うん・・」
日樹はいつの間にか頷いていた
そう返事をしてしまったのは
この青年が義兄に似ていたせいだろうか・・・
「諸藤君!本当~!?」
クラスメイトの少年、山田はソファから勢い良く立ち上がった
「本当に美術部に入る!?」
「・・・え・・あ、うん・・・」
自分でもわからずに、なぜかそう返事をしていた
念を押されてから、安易に返事をしてしまったと後悔はあったが
それでも良かった
この親友?の喜び様を見れば、今更やめるとも言えない
「先生!そういうことです~!! 二人で今日入部します」
瞳を輝かせ、山田は声を弾ませた
「わかった、わかったから、落ち着け山田」
何がそんなに嬉しかったのだろうか
テーブル越しに身を乗り出して何度も何度も顧問の小梶に伝えていた
彼らがそうしている間、日樹はじっと小梶の顔を見つめていた
その歳の頃合、背格好が
今は別々に暮らす大好きな義兄にそっくりだ・・・
翌日の放課後から日樹はにぎやかな放課後の時間を過ごすようになった
二人はこの美術部への入部をきっかけに
“親友”と呼ぶにふさわしく、日に日に仲を深めていく
昨日の今日、突然の入部で美術教材も用意できず
この新一年生が初めて取りかかったのは風景画のスケッチ
小梶の用意してくれたスケッチブックをそれぞれ持って
二人は校内の中庭にいた
「諸藤くんの進み具合はどう?」
隣にいる日樹のスケッチブックを覗き込んでくる
広い中庭
何もべったり寄り添わなくてもいいのに・・・
日樹はほんの少し、そんな風に思わなくもなかった
まるで猫にでも擦り寄られているようだ
今まで親しい友達を傍においたことがない
小学生時代もクラスの仲間とは当たり障りなく過ごしてきた
何につけても秀でた日樹は、本人の自覚はまったくなしに
まわりから一目おかれていたのだ
祖父の代から企業経営を行う、どちらかといえば上流家庭に生まれた日樹には
品格、教養が備わり
もっとも日樹にとっては日々、それが当たり前の暮らしにしか過ぎなかった
静かにマイペースで下書きをする日樹とは対照的に
隣に座るクラスメイトはどうも落ち着かない様子
先ほどから何度も日樹のスケッチブックをチラチラと気にしている
どんどん描きあがっていく下絵が、目の前の光景とまるで同じだったから
日樹にしてみれば、気が散って仕方ない
職員室や事務室などがある校舎と中等部の間にある一つ目の中庭は
日本古来の“和”を強調した庭園に施され、
静寂さをかもし出す
そこにたたずめば、時代をさかのぼり遥か昔へ
おのおのが思い浮かべる歴史上の人物が活躍した世界へタイムとリップする
そんな錯覚を起こしてしまいそうになるここは、
『時の広場』と呼ばれる
中等部とその次にある高等部との校舎の間には
前者とは対照的な洋風の庭園だった
木立の合間に、石膏でできたオブジェが無造作に散在する
中でもここの別称の由来となる彫刻出できた大きな噴水が学園のシンボルでもある
『水の広場』
生徒たちはそう呼んでいる
そして、高等部の校舎と美術室や特別教室のある一番奥の校舎との狭間は
『風の広場』と称される
三つのそれは個々に特長があった
どこか他の二つの広場とは異なる空気が流れると感じるのは
生い茂る木々のせいだろうか
自然の群生緑豊かな『風の広場』には
四季折々に花や果実を実らせる木々、草花が種類多く植えられている
ところどころに地面から露出している木の幹がちょうど良い腰掛になり
日樹と山田は並んでそこに居た
「諸藤君はなんで西蘭に入学したの?」
どうやら創作意欲がまったくないような質問だった
話題は手元のスケッチブックとは無縁のこと
「・・うん・・義兄の母校だから・・・かな・・・」
確かにそれが一番の理由だった
日樹は義兄を想い浮かべ、はにかみながら答えた
「ふ~ん」
反応は期待していた答えとは違ったようだった
「山田君は」
少しの間を置いて、今度は日樹が訊ねる
「僕?」
う~ん、なんて答えようか
瞳は楽しそうな表情で青空を仰ぐ
そして、トンと立ち上がり日樹の目の前に立つ
日樹のスケッチブックに彼の人影が映し出されると一瞬気を取られ
再び彼に視線を向け直す
「遥(はるか)って呼んで」
クラスメイトはそう囁いた
「・・・遥・・・?」
「うん、僕の名前だよ」
そして彼は日樹を見つめながら後ろ退る
大きな歩幅でゆっくりとゆっくりと一歩ずつ
二人の間には小声では聞き取れないほどの距離が開いていた
「あのね~」
山田が何か言い始めた
「え?」
日樹もそれを聞き取ろうとする
「にゅ・・・・」
通り過ぎる春風に、木々の葉が擦り合い、サワサワ音を立て
クラスメイトの言葉は遮られてしまった
「なに・・・?今聞こえなかった」
クラスメイトは揺れる髪を押さえながら
気のせいか照れくさそうに笑んでいた
二度と日樹には届かなかった言葉・・・
『入学式の日、
君を見た時からずっと好きだったよ・・・』
彼はそう言ったのだ
一瞬通り過ぎる春風に、
木々の葉が擦り合いサワサワと音を立る
クラスメイトの言葉は遮られてしまった
「聞こえなかったから、もう一度言って」
日樹は彼に届くように声を出した
クラスメイトは揺れる髪を押さえながら
気のせいか照れくさそうに笑んでいる
そして、また一歩一歩日樹のもとに戻ってきた
「僕が西蘭に入学したのは、一流の人間になるためだよ」
「・・・えっ?」
日樹は目の前の遥を見上げた
先ほど聞き取れなかった言葉はそれだったのだろうか
そうかもしれない・・・
「僕はこの『風の広場』が一番好きだよ 諸藤君は?」
時の広場に水の広場
そしてここ、風の広場だけが唯一
植樹以外にあまり手を加えられていない
緑は人間の視覚に優しく心癒されるが
自然のモチーフを生かしただけ、見ようによっては樹木だけの景観
他の美術部員たちにしてもスケッチにこの場所を選ぶ人間は少ない
同じように平行に建てられた校舎のはずなのに
不思議とこの高等部と特別教室の間だけ吹きぬける風がひときわ爽快なのだ
恐らく特別教室のある校舎が他と比べ階数が少ない低層だからかもしれない
あまり校内を歩き回った事がない
でも・・・
彼と同じようにこの場所が一番心地よいかもしれない
「・・・僕も、ここかな・・・」
「本当!?一緒だねっ」
遥は日樹が自分と同じ場所を一番に選んでくれた事が嬉しかったのか
そのまま勢い良く抱きついた
「やっぱり僕たち親友だ~」
「・・え・・あ・・山田・・く・・・・」
わぁつ!?・・・・・
二人は同時に声を上げた
抱きついたというよりは、猫が大好きな飼い主に飛び掛かったといった方がふさわしい
日樹と遥は勢いついたまま後ろにひっくり返ってしまった
この前とは逆に今度は遥が日樹の上になった
とっさの出来事に目を丸くして驚く日樹
その瞳に木漏れ日溢れる木々の葉がすぐに飛び込んでくる
土の匂い、自然の香り
清々しい・・・
きっと義兄もこうして西蘭で六年間過ごしたのだろう
「諸藤君、ごめんね~」
日樹の瞳に、緑の木々から今度はいきなり遥の心配そうな顔が現れた
「大丈夫?」
「うん・・・」
ほっとしたのか、遥の眉尻が下がる
「ヨカッタ・・・」
遥かは日樹の隣に身を転がす
そして二人は寝転んだまま大きく深呼吸し
顔を見合わせて同時に吹き出した
そんな幼い二人の姿を
美術準備室の窓に肘をかけ見守る小梶の姿があった
親友・・・
その意味を知ったのはずっと後
自主性を重んじる西蘭の校風
皆、自分から強く望んでこの学園を目指してきた生徒ばかりだ
他校の同じ歳頃の生徒たちに比べ、少し大人っぽく感じられるのはそのせい
その中で彼は異質な存在だったかもしれない
山田 遥
・・・はるか・・・・
入学式が終わって、新しい教室へ
四月初め、新一年生のどのクラス内でも見られる光景
新しく出逢ったクラスメイトたちと大騒ぎしながら挨拶を交わす
ここ西蘭でそのような初々しい光景を見るのは稀だ
それは男子校であるから、というひとつの理由もあった
「諸藤君、終わった?」
積み上げたスケッチブックの山を棚に乗せると、手をパンパンとはたいて遥は振り向いた
「うん、もう少し」
放課後、
西日射す、がらんと静まり返った美術教室の後方
その端と端に日樹と遥はいた
『美術部員の仕事』、そう小梶に言い渡され
高等部生徒三学年分のスケッチブックを、出席番号順に整理し棚に戻す作業
これが結構な重労働なのだ
上手く言いくるめられたが、よくよく考えると罰当番にしか思えない
そしてその見返りは、淹れたての珈琲
中学生の二人にはちょっと大人の味
「これも美術部の活動のうちなのかなぁ?」
遥がやれやれという表情で日樹を見る
日樹は表情豊かな遥の顔を見ては微笑み返す
少し前まではろくに話したこともなかったクラスメイト
その人懐こさも、こうやって一緒に過ごす時間も心地よかった
全員でいったい何人いるのかわからない美術部
活動はやはり自主性に任せてあるせいか、校内の適所を選んで絵を描いたり
美術室で造形に取り組んだりと生徒はまちまちだ
だが今日、この美術室に残っているのはこの二人だけ
扉を隔てた隣の準備室では、小梶が残務整理をしている
彼は生徒達からの信望も厚いらしく、談話を目当てに数人が出入りしていた
進路、学習のこと、そして時には恋の悩み相談まで持ちかけられるようだ
美術部の新入り、小さな二人は自分の分担をひたすらせっせと片付ける
遥の手際は良く、日樹と半分にした同じ量にもかかわらず早く終わってしまった
「大丈夫?」
見かねて遥が日樹に駆け寄る
「あと少しだから大丈夫」
同じ高さの視線
互いの瞳に日樹、遥それぞれが映る
「手伝うよ!」
並んでみれば背丈は一緒
遥は手を差し出し、残ったスケッチブックを自分の方へと寄せる
15冊ほどとなればかなり重さもある
「あ、この人僕と同じ名前だ」
遥は目ざとい
一番上のスケッチブックに書かれている名前は確かに“山田”
今度はそれを開きパラパラとめくり始める
だが、日樹としてはそんな遥の大胆な行動に
ビックリさせられるばかり
「あ・・・遥くん・・駄目だよ」
「平気、平気」
遥はちらっと教室前方の準備室続きの扉を見る
大胆で好奇心旺盛で、行動的
日樹にはないものばかり
だから知らずに魅かれ合うのか
「凄い上手だよ!」
自分と同じ名前というだけで親近感が沸き
罪の意識がなくなってしまうのだろう
他人のものを勝手に見てはいけないとわかっていながらも
平然とやってのけてしまう遥に対して日樹の方がよほど罪悪感に駆られていた
背後の準備室の扉が気になる
先生に見られたら・・・
お願いだから早くスケッチブックを閉じて!
そう願うばかり
心臓を高鳴らせる日樹に反し
「諸藤君!見てみて!!」
遥はスケッチブックを両手で思いきり広げていた
「遥・・く・・・」
制止しようとした日樹の言葉が止まる
そこには『風の広場』
遥が一番好きだという、この建物と高等部の校舎の間の中庭が
緑鮮やかに描かれてあった
生きている絵、まるで風のざわめきが聞こえてきそうだ
二人は、今にも触れ合いそうに体を並ばせ夢中で見入った
まるで魔法にかかってしまったように
スケッチブックから目が離せない
めくっていくページのどれにも、至る視線から描かれた風の広場があったのだ
吸い込まれそうだ・・・
「素敵だね」
「うん」
それまでの罪の意識など何処へやら
我を忘れ、静寂の美術室
同じ絵を見て、同じように心動かされ
二人はもはや風の広場に身を馳せらせていた
「お前たち、終わったのか!?」
美術室続きの準備室のドアが開き、聞き覚えのある声がしたのだ
小さな二人の体が現実に引き戻され、同時にビクッとする
そこからの遥の行動が素早かった
スケッチブックをパタッと閉じて体の後ろに隠し振り向いた
「あ、はいっ!!もうちょっとです ね、諸藤君」
「・・・う・・うん」
一歩遅れて日樹が振り向く
「ご苦労さん」
優しく響く声で小梶が労う
「終わったらお茶でも飲もう」
二人の様子を確認すると小梶はまた準備室に戻ってしまったようだ
パタンと閉まる扉の音
それを確認すると二人は顔を見合す
浮かぶ言葉は同じ
あぶなかったね・・・
無意識に留めていた息を、安堵し大きく吐く
そして、
堪えていた笑いを一気に放つ
どんな小さなことでも二人一緒なら楽しかった
無邪気に笑っていたあの頃・・・・
同じ季節はやがて必ず巡ってくる
だが
同じ時は二度と告げることはない
僕を許して・・・
もうすぐ夏が来る
入学してすでに三ヶ月経ち
制服も夏服に衣替えしていた
古くから伝統のある学生服の上着を脱げば、真っ白なワイシャツ姿が眩しい
その頃には、もうさすがにクラスメイト全員の名前と顔も一致するようになっていた
「ねぇ先生、うちのクラスの広川と、河口って付き合ってるんでしょ?」
遥はテーブルの上のクッキーを口いっぱいに頬張り、隣に座る日樹にも勧める
砂糖とミルクを入れても、珈琲はやはり幼い口にちょっと苦い
これは遥の差し入れ
中等部の教室からここまでこっそり運びこんだ放課後のそれは
小梶も黙認し、堂々とテーブルの上に開け広げられた
「広川・・・河口・・・?」
日樹は、遥の言う二人の名前を繰り返してみる
この美術準備室の窓の下に風の広場が広がる
生い茂った木々の背丈が、この部屋のある三階までもうすぐ届きそう
部活動ではなく、こうして週に何度か顧問の小梶の手伝いをしては
褒美にお茶会への招待を受ける遥と日樹だった
「諸藤君、河口は隣のクラスね」
さすがに隣のクラスの生徒までは覚えきれない
頭の中でこっそり座席順にクラスメイトの顔を思い浮かべていた日樹に
遥はコソコソと耳打ちする
「ゼッタイ付き合ってるよ」
「・・・えっ?・・・」
聞き間違えではないかと、日樹は遥の顔を追う
「あの二人怪しいよ」
眉尻をピックと上げるその表情は、まだ幼さのこるいたずらっ子のようだ
対面に座る小梶に同意を求めるが彼はニコリと笑み、無言のまま二人を見ている
「先生のところへ二人でノロケに来てるでしょう? そうでしょ? ねぇ教えてよ~」
遥は小梶のもとに通う二人の姿でも目撃したのだろうか
それとも他に何か確証があるのだろうか
西蘭は中等部、高等部全て男子生徒だけなのだ
日樹には遥の言うことが信じがたい
「だって~クラスが違うのに、帰りはなぜかいつも一緒だよ」
生徒から信頼の厚い小梶なら何か知っているだろうというのが
遥の狙いどころ
どうしても二人の関係が知りたくて小梶に迫るが相変わらず黙ったまま
逆に、遥の愉快な仕草をじっと見つめている
いや、見守っているというに相応しかった
ここに来る生徒たちは、何かを打ち明けたくてやってくる
小梶は懺悔を聞く神父のような存在
どの生徒の悩みも相談も、決して口外するはずがないのを承知の上で遥が絡んでくるのが面白いらしい
一種の根比べだ
その勝敗はいつも決まっている
「知りたいなぁ~」
しまいには大きな黒目の瞳を上目がちに、甘え声を小梶に向ける
声変わりもまだせぬ遥の声
日樹より少しショートのクセ毛が揺れる
並んでいると、二人はとても良く似た容姿
お茶会はいつも遥を中心に、こんな風に過ごしていた
あの手この手で一生懸命な遥
さすがに小梶も堪えきれなくなり口を緩めてしまう
フッ、と笑みを漏らす
「そういう遥だっていつも諸藤と一緒だが? さて、お前たちはどうなんだ?」
穏やかで静かな低音が耳に心地よい
“遥”・・・
小梶が遥を名前で呼ぶようになっていたのが少し羨ましかった
遥は、彼を父兄のように慕い、こうして甘えながら何でも構わず言い合えるから
日樹も小梶とこうしている時間が好きだった
今は離れて暮らす義兄との時間が戻ってきたような気がするから
そのきっかけを作ってくれたのは遥
明るくて誰からも好感を持たれる遥
その人あたりの良さはクラスでも大事なムードメーカーだった
遥がいれば場が明るくなる
日樹はいつもそのすぐ傍にいた
だから意識していたわけではない
他人から言われてあらためて気づくのだ
いつも遥と一緒・・・
「えっ?」
小梶の問いに、遥と日樹は瞳を大きく輝かせ顔を見合わせた
どうやら今度は矛先が自分たちに向けられてしまったと
「怪しいぞ」
小梶が二人をからかう
遥に誘われるから、それが当たり前になっていたから・・・
いや、それだけではないような気がする
それが自分では何なのか手探りしてもわからない
でも、
「僕たちは親友だもんね」
遥はにっこり笑って日樹にそう言ったのだ
もし、君がいなかったら・・・
そんなことを
考えたこともなかった
「どうだった?」
後ろを振り返り、返却された答案用紙を覗き込む遥
「わっ!諸藤君すごい!!」
主要教科を平均し、ほとんど満点に近い答案用紙を見れば遥でなくてもそう声をあげてしまう
だが遥とて日樹に負けず劣らず立派な点数を取っている
遥も優秀な生徒だ
期末テストが終わり、夏休み目前
心なしかクラスの雰囲気もザワザワと浮かれ出している
生徒の頭の中はもう、数日後に突入する夏休みのことでいっぱいなようだ
「諸藤君は夏休みどうするの?」
「・・・今のところ予定はまだなくて・・・」
きっと父や義兄の仕事の関係で家族が一緒に集まれるのも数日間だけだろう
それでも毎年、別荘への家族旅行は欠かしたことはない
「部活には来るよね?」
「うん・・・」
教壇の先生に聞こえないように前後の座席の二人は小声でやり取りする
授業中のそのスリル感はたまらない
「どうせ夏休み中の部活なんて、小梶先生の手伝いで終わりでしょ?」
そう言いながらもいつも楽しんで手伝いをしている遥が
まともに作品に取り組んでいる姿を見たことがない
不満そうな顔があまりにも愉快で日樹はじっと見入ってしまう
次はどんな表情を見せてくれるのだろう
「美術部は夏休みの後半しか部活予定表になかったけど」
「先生は全然やる気ないみたいだなぁ・・・」
教師に友達言葉で接してしまうのも遥ならではのこと
勿論、小梶もそれを咎めたりしない
小梶との掛け合いは媚びても自然で心地よく、それをいつも身近で感じていた
「遥くんは夏休みはどうするの?」
「え?・・あ、あぁ・・・」
一緒にいる日樹の代弁までしてしまうぐらいハキハキとしている遥なのに
珍しくこの時の返事ははっきりしない言いようだった
そして遥の瞳はしばらくどこか遠くを見つめていた
「遥・・・はるかくん・・・?」
「・・・ん、あ・・ごめん」
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
首をフルフルと振っておどけて見せる
少し気になったがいつもの遥だ
きっと一瞬、何か他のことを考えていたのだろう
そんなことぐらいにしか思わなかった
それに話が弾むと、もう声量を気に留められなくなっていた
「やっぱり夏は海だよね~」
遥の口から出てくる言葉は何もかも全部楽しく感じられる
「うん」
日樹はその続きが聞きたくて仕方ない
だが、今は授業中
「夜の浜辺で打ち上げ花火も最高だよ」
遥は日樹の経験していないことを沢山知っている
きっと遥も自分と同じように家族で出かけてるのだろうか
よくよく考えれば、自分のことを話したがらなく
遥のことをほとんど知らない
「今度一緒に行こう」
日樹は嬉しくて、うんと頷く
遥に誘われると何事も簡単に実現してしまいそうだ
「そこの二人!」
教室に響く教師の怒鳴り声が、自分たちに向けられたものだと
二人は身を竦める
早くも見つかってしまった・・・
「は・・はい・・」
シュンとし日樹は姿勢を正し、遥はゆっくりと前に向き直す
二人に対し無言で廊下を指差す合図は、『授業の妨害になるから廊下に出てなさい』の意
椅子を静かに引き、立ち上がると二人はクラスメイトの視線を浴びながら教室をこっそり出て行く
運が悪かった
教科担任の中でも最も厳しい年配の教師
下手をすれば、“廊下に正座”という罰を与えられることもある
今回 “正座”のオプションは付いていなかったのは
成績優秀な日樹に免じてということだろうか
二人に指示を出すと、もうすでに授業を続行している
後ろの扉から静かに廊下に出た二人は言いつけを守りきちんと並んで立った
教室側の壁を背に立てば、真正面に高等部の校舎が窓から見える
「怒られちゃったね」
そう呟く遥の視線が少し上のような気がした
それまで気がつかなかったが、いつの間にか遥の身長が日樹を越して高くなっている
「うん」
「高等部から丸見えかなぁ・・・」
「気になる?」
「全然~!」
そしてクスクスと笑い出す
罰で立たされているのにすっかり反省を忘れてしまった
むしろこうして遥と二人だけの時間が嬉しくて、こんな機会を与えてくれた先生に感謝してしまいそうだ
遥といるとどうしてこんなに心弾むのだろう
「さっきの続きだけどね・・・」
高等部の授業風景を見つめながら中断してしまった夏休みの話題をこっそり再開する
まったく懲りていない
触れ合いそうで触れない手と手から、遥の息遣いと体温を感じる
遥・・・
この夏休み、成長期に入った遥の背はもっと伸びるかもしれない
「諸藤くん~」
後ろを振り向けば、校門をくぐり抜け
遥が手を振りながら駆けてくる
夏の朝午前9時、陽はもう随分高く昇りジリジリと容赦なく肌に射しつける
遥の額にもうっすら汗が噴き出していた
施錠された校舎は通り抜けることができず
校舎をぐるっと大回りで一番奥の美術室へと向うのだ
夏休みの後半、10日間だけの部活動
文化系の部活となればさほど必要性もないような気もする
特に美術部は・・・
好奇心旺盛で、行動的な遥
その遥がいつもに増し、どんな小さなことも逃すまいとしては
はしゃいでいるように感じたのがこの10日間だった
夏は開放的だから
そうとも思えたが・・・
一番奥の美術室のある校舎まで寄り道をしながら
遥と歩くのがここ数日間の日課
時の広場で道草をし、そして水の広場
噴水の水をイタズラしては真っ白なワイシャツから肌が透けるまでびしょ濡れになったりもした
だが、立ち止まっては遥は何かに思いにふけていた
それに・・・いつもだったら大好きな“風の広場”以外はあまり見向きもしないのに・・・
「間に合って良かった~」
息を切りながら日樹の隣に並んで歩調を合わせる
日に焼けた顔は随分たくましくなっていたような気もする
夏休みに入ってたった一ヶ月足らず逢わなかっただけなのに
「遥くんまた背が伸びた?」
「みたい・・・」
ちょっと照れくさそうだった
160センチは楽に越しているだろう
同じような背格好で少女のような面影だったのに
今では誰の目から見ても明らかに、その差も一目瞭然だ
遥は一足先に少年から少しずつ青年へと成長している
「どんどん追い越されちゃうね」
「・・そんなことないよ・・」
日樹は手をかざし、遥と自分の身長の差を比べる
「ずっと同じクラスだと良いな」
「・・・そうだね」
ずっと一緒にいられたら
この時間を手放したくなくて
ただそんな風に思った
立ち並ぶ校舎の西側に位置する体育館
そこからも残夏の暑さに負けず練習に励む生徒たちの活発な声が聞こえる
「やってる、やってる~」
遥は開け放たれた体育館の出入り口に駆け寄る
館内ではバレー部が練習をしていた
体育館の床に白球が弾む音、
シューズと床が摩擦で出すキュッキュッという音が絶えずリズムとなって聞こえる
「カッコいいなぁ・・・」
遥は釘付けになっていた
レシーブからスパイクまでの三つのポイントに
まるで一寸の狂いもなくボールが運ばれていく
息の合ったチームプレイ
選手たちの額から流れる汗がキラキラ光り飛沫となって落ちる
そんな躍動感ある光景をみていると胸が高鳴る
軽快なリズムに見ている者でさえも心をひき込まれる
「諸藤君は・・・運動部に入らなくて良かったの?」
「・・・え?・・」
唐突すぎて遥の言う意味がわからなかった
「だって諸藤君は運動神経が良いから体育系の部活に入ると思ってた」
「・・あ・・・そんなこと・・・」
「僕が無理やり美術部に誘っちゃったみたいだし・・・」
「そんなこと・・・ないよ」
見たことがない切ない表情
一瞬、遥ではないような錯覚を起こした
今更なぜそんなことを言い出すのが不思議でならなかった
無論、遥が思うようなことはいっさいない
美術部への入部は自分の意志で決めたことだから
それに遥とこうして一緒にいられる
「本当に?」
「うん」
「なら良かった・・・」
日樹が頷くと遥はほっとしたようだった
あの日、
『一緒に美術部に入らない?』
遥は日樹を誘った
それを無理強いだったとずっと気にしていたのだろうか
またいつもの明るい彼に戻っていた
遥は足を止める
鬱蒼と茂った風の広場の木々たち
その間から射す暑い日ざしを仰ぐ
その横顔を今でも忘れずに覚えている
今年の夏は格別暑いような気がした
そして夏休み最後の部活の日
その日、遥は先生に話があるから、と
日樹へ先に帰るように促した
いつもと違う遥の立ち振る舞い、その言葉に不安を覚えた
まさか・・・
それが最後の日になろうとは
遥との別れを迎えるなんて
思いもしなかった
笑顔の下に隠された悲しみを知ることができたなら
君の泣き顔を思い浮かべることもなかっただろう
過ぎ去りし日
胸に刻みつけたその名は永遠に忘れることはない
それが儚い想いと気づいた時・・・
出逢いは偶然ではなかった
心安らぐ日々が
いつか終わりを迎えるとは考えたこともなかった
温かいぬくもりが
忽然と消える・・・
二学期が始まり数日間、
遥の姿はなかった
体調でも悪くしているのだろうか
主のいない机がぽつんと、なぜか淋しそうだった
気になりながらも明日にはきっと、いつもの明るい笑顔の遥が
“おはよう”と声をかけてくれる
そう信じていた
だが、
担任が告げる言葉はその期待を無残に打ち消してしまった
遥の在籍はクラスから消えていた
うそでしょ・・・
先生は何を言ってるの?
だって
遥は何も言っていなかったから
夏休みの部活動にも参加していた
数日前、何も変わりなく会っていた
いつもの遥だった
だから先生は勘違いしてる
その証拠に、遥のいない教室だって皆だって今まで通り何も変わっていないもの
夢?
そうだ・・・
これは夢なんだ
放課後、美術準備室めがけて走っていた
途中、誰かにぶつかったかもしれない
顔見知りの先生に声をかけられたかもしれない
でも、何も目に入らなかった
高等部の校舎を抜け特別教室への渡り廊下
その向こうに、まるで日樹が来るのを知っていたように小梶が立たずんていた
高等部の校舎を抜け特別教室への渡り廊下
その向こうに、まるで日樹が来るのを知っていたように小梶が立たずんていた
小梶の目の前で足を止めた時には
随分と息が切れていた
自分では早足ぐらいの意識しかなかったのに
脇目も振らず、必死に走ってきたのだろう
ハァハァと、荒れた息遣いはなかなかおさまらない
「せ、・・せん・・せい・・・」
近づく小梶の表情が自分を全身包み込んでくれそうな
そんな穏やかな表情だったことだけしか覚えていない
手を指し伸ばせば触れ合いそうな距離
小梶はゆっくりと口元を開いた
「待っていた・・・」
いつもどんな時もここへ来るときは遥と一緒だ
でも今日は違う
隣に遥はいない
「遥が・・」
何も知らない
知らせてはくれなかった
どうして?
だから間違えだよね、先生
小梶なら本当のことを教えてくれるだろう
だから日樹はここへ来た
「あぁ・・」
彼の否定とも肯定ともとれない返事
だが自分が映る小梶の瞳を見ると気づかぬほどの影を帯びていた
それは認めなければいけないということ
「・・・どうして・・・」
だとしたら、あっけなさ過ぎる
遥はどうして自分に黙って行ってしまったんだろう
夏休みの部活最後の日
彼は珍しく日樹を先に帰した
その後、小梶と話していたのだろうか
「“サヨナラを言うと、もう逢えなくなってしまいそうだから” 遥がね、そう言っていた」
やはり先生は知っていた
そして・・・
間違えではなかった
頭の中が真っ白になりふわっと体が揺れた
小さな眩暈とともに今までピンと張りつめていた全身の力が一気に緩んでしまった
立っていることさえもやっとの体に小梶の両腕が伸び、瞬時に日樹の体を支えていた
“諸藤君ごめんね”
小梶の指先を伝わり遥の声が日樹の心に届いた
どうにでもなれ、手放してしまいたくなった曖昧な意識が
澄み渡って戻ってくる
小梶の瞳が何かを語ろうとしている
僕・・・一年の山田 遥です
家庭の事情で、いつまでここに通えるかわからないんです
せっかく西蘭に合格できたから、その日が来るまで
悔いのないように過ごそうと思います
またここへ遊びに来ても良いですか?
小さな体には常に不安を抱えて
先生・・・僕ね
クラスに好きな子がいるんだ
今度ここに連れてきても良い?
芽生えた気持ち
はにかみながら伝えた
まさか部活も一緒にできることになるなんて思わなかったんだ
昨夜は嬉しくって眠れなくなちゃった
限られた時間
惜しみながら精一杯過ごした
聞いて!!先生~
今日ね、僕
告白しちゃった!!
返事?
・・・う~ん、ヒ・ミ・ツ
実らない恋でも
かまわない
諸藤君と一緒にいる時間が一番楽しいんだ
ずっと忘れることのない
大切な時間を過ごした
先生知ってる?
諸藤君ってね絵が上手いんだよ
それに勉強だって運動だって
なんでもできるんだよ
そんな君が大好きだった
諸藤君はおとなしいから
僕がいなくなった後
心配だなぁ・・・
短い間だったけど
素敵な想い出がたくさんできたから
悲しくなんてないよ
伝えたい言葉は
ア・リ・ガ・ト・ウ
本当はまだ告白の返事をもらってないんだ
きっとそれで良い
またいつか逢えるよね
だから諸藤君にはサヨナラは言わないんだ
先生にも言わないからね
平気、辛くないよ
絶対、また逢えるから
強がりのやせ我慢
だから・・・泣かないよ
そして遥は小梶の前で静かに涙を落としたのだ
思い出すのは
いつも笑顔の遥
小さな胸に抱いていた不安
笑顔が変わった
大人っぽくなった
それは全部勝手な思い違い
ずっと子供のままでいたかったはずなのに
強くならなければならなかった遥
なのに、どうして気づいてあげられなかったのだろう・・・
随分前から遥に相談を受けていたのだろうか
きっと遥も救いを求めて小梶の部屋を訪れていたに違いない
先生は全てを知っていた
遥の家庭状況も、遥の胸のうちも
遥の父も、日樹の父親と同様に会社経営者だった
父親の経営する小さな会社は経営難が続き
いつ倒産してもおかしくない状態に陥っていた
子供ながらにもその状況は目の当たりに把握できていたはずだ
遥が入学した時すでに、西蘭にいつまで通えるかという切迫した状態だったのだ
従業員の生活を優先させれば、家族の生活など二の次になり
高額な学費を納入していくのは困難なこと
そう長くは在籍できないだろうと、遥には常に不安が付きまとっていたはずだ
毎日をどんな思いで過ごしていたのだろう
わずかな期間であっても西蘭で過ごした証を残しておきたかった
名門の西蘭に実力で入学できたことは一生の誇りだ
一日たりとも無駄にできない
だからこそ、二学期が始まってからという中途半端な期日の転校は
少しでも長く在籍しておきたいという
遥のささやかな我儘だったのだ
悲しみを閉じこめ
いつも明るく振舞って
はしゃいで、笑って
友達も教室も校舎も
目にはいるもの全てを胸に焼き付け
溢れるばかりにたくさんの想い出を抱きしめて
そして
何も言わず一人で行ってしまった
知らぬ間に日樹のまなじりから涙が頬を伝わっていく
引き寄せられるままに小梶の胸に身を任せた
そうすることが小梶を通して遥を感じることができたからだ
遥は泣いていた
きっとこんな風に小梶の胸で泣いたのだ
一番そばにいながら
遥のことを何一つわかっていなかった
それが口惜しい
僕は何もしてあげられなかった・・・
「遥は・・・それで良かったんだよ」
「・・・え・・?・・」
小梶は日樹の髪にそっと触れた
濃茶の柔らかな髪に小梶の指がスーッと馴染む
まるで日樹の心の中を読み取ってしまったようだった
優しく響く低音の声が触れ合う肌から沁みてくる
“僕は楽しかったんだよ”
「そして諸藤、お前に “ありがとう” ・・・それが遥からの伝言だ」
“諸藤君には泣き顔なんてカッコ悪いところ見せたくないからね”
無邪気に笑う遥の声がした
その言葉に少しだけ自分が許されたような気がする
遥はもういない
風の広場から
僕の前から
消えてしまった・・・
空っぽになった心
誰か埋めて・・・
おそらく悲しくて目が覚めたのだろう
現実と夢が同化していた
西蘭に通っていた頃の夢
もう4年も前のことなのに
指先を目尻に運ぶと
やはり潤いに触れた
僕はきっと泣いていたのだろう・・・
ここは病院
まぎれもなく現実の世界だ
「諸藤君、具合はどう?」
日曜日から三日間降り続いた雨も、四日目の朝にはすっかり上がっていた
検温にやってきたナースがカーテンをいっぱいに開け広げると
窓から新しい朝陽が差し込む
それが眩しすぎて
思わず片目を細めた
手術が終わってから母親が傍に付き添ってくれていたのまでは記憶にあった
その後も眠りの中をさ迷っていたのか、一夜が明けていた
そのせいか麻酔が覚めた後の気だるさも無く、気分はすぐれている
「・・はい・・・大丈夫です・・・」
日樹は体温計を受け取りながらそう答えた
悲しみや
苦しみは心に閉じ込めてしまえばいい・・・
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