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ゆのさんのボーイズ・ラブの館
13-4・・・蘭月
時田は別段表情を変えることなく告げるのだが
抱いていた悪い予感、それを更に上回る事実を拓真は知らされることになる
やっぱり
あの日、雨に濡れたのが原因なら・・・
それは自分のせいだ
「それで・・・諸藤さんの容体は・・・どうなんですか・・・」
この三日間、その不安は膨れ上がる一方だった
責任を負うつもりで、おそるおそる真実を突き詰めるが
はたして時田がなんと答えるか
目を逸らしながらその瞬間を待つ
「一週間の予定だそうだ」
断定された一週間
長い・・・
拓真の頭の中には病室で熱にうなされ苦しむ日樹の姿が廻る
「そんなに長くかかるんですか!?」
食い入るように時田の方へ身を屈め
うっかり大声を出してしまい、慌てて口を塞ぐ
こじれた風邪は肺炎にでもなってしまったのか
悪い方、悪い方へとしか思いが運ばない
「昨日手術のはずだから、来週早々には退院できるだろう」
拓真の高鳴る心臓と心配をよそに
時田は意外にも落ち着きのある明るい口調で返してきた
が、何か違和感を感じ
拓真は彼が言ったことをもう一度リピートしてみる
・・・手術のはず?・・・
「先生は今、手術って言い・・ましたよね」
「そうだ」
「手術って・・・なんの・・・」
手術するほどの状態・・・
いったい何がどうなっているんだろう
全てが途切れ途切れの断片で一つに繋がらない
拓真の様子から、どうも何か勘違いをしているのではないだろうか
そう察した時田は念のため付け加える
「入院は足の手術の為だぞ」
「・・・足の・・?」
「そう、足にはめ込んである金属を外す手術だ」
「金属を・・・」
拓真は思い返す
そういえば・・・あの日
ジーンズの上から太腿に手を添え
“ここに・・・まだ金属が入っているから”
諸藤さんはそんなことを言っていた
だから走れないんだ、と
辛いとか、苦しいとか
そんなことを一切悟られまいと、逆にその気遣いが痛々しかった
この学校に入学すれば、また憧れの人の走る姿を見ることができる
そう胸をときめかせていた
合格発表の日にグランドで見た、真っ白なユニフォーム姿の
諸藤さん
なのに・・・
「諸藤は今回の入院を皆に隠すつもりはないんだ だが公けにもしていない
君が彼と親しというなら、わかるはずだろう」
そうだ、諸藤さんはいつも
こちらが聞き出すまでは自分の内面に秘めたものを出そうとはしない
入院の前日、俺は逢っていたにもかかわらず
そんなことを一言も言ってはいなかった
「彼は陸上部の大事な選手だ 何かと人の目を惹いてしまうが
つまらない興味や好奇心で諸藤を傷つけるようなまねだけはしないでほしい」
以前、陸上部内で口火を切った陰湿な噂のことだろうか
この噂が発端となって事故につながったと聞いている
不慮の事故
何の罪も無いはずなのに・・・
走れなくなってしまった
下駄箱に入れられていた避妊具と、愚弄する内容の走り書き
誰かの心無い嫌がらせの一件も
おそらく諸藤さん絡みのことなのだろう
彼が厳しく釘を刺す意が素直に受け取れる
そして、時田はまだ日樹の退部を認めていないようだ
『大事な選手』
今でも耳に残っている
確かに彼はそう言った
「君の真っ直ぐな眼差しに偽りはないと判断した
わざわざ私のところに出向いて来てくれた君のことだ」
さらりと流すようで、受け止めればチクリと刺さる言葉
だがたった今、諸藤さんに会うことを許可される
「大丈夫だね」
「はい」
最後の確認は
他言は無用ということ
時田と拓真、瞳で交わす約束は真剣な表情へ変わる
「教えてください どこの病院ですか」
拓真は深く頭を下げた
前回の入院同様
日樹に用意されたのは費用に糸目をつけない個室
グローバルな視野で経営を展開させる企業
その会社社長の子息となれば当然の待遇
設備も環境も整う個室は快適だが、やはり所詮は病室
清潔感あふれる真っ白な天井も壁も身の廻りのもの全て、一人になればただ殺風景で物悲しいだけ
なまじ部屋が広い分、余計な孤独感が募る
これなら、たとえプライバシーが無くとも大部屋の方がどれだけ気が紛れるだろうか
いや、日樹に限ってはそれも当てはまらない
もともと内向的な日樹
ことさらに人と関わるのを避け、いつからか自分で築いた砦の奥深く身を閉じ込めるようになってしまった
それが自分を守る術であり、同時に相手を傷つけない最良の方法
関わらなければ何も起こらない
相手に感情移すことなく、心を揺れ動かされること無く
高原との関係もそのはずだった
自分のことで彼を苦しめないため
それが唯一の望みだったはず
なのに今となっては、幻影の彼を追っている
空虚な心を埋めるものを何でも良いから手探りで求めている
これだけ高原を意識して囚われている自分
何度となくループする想い
手に入れたものを失うのは
手に入らない悲しみより二倍悲しい
いずれ失う日が来るなら手にしなければ良い
単純な等式が成り立つ
高原自身が今の状態を最良とし、自分を不要とするなら
役目が終わったことを認め身を引き、静かに消えるだけ
それで何もかも終わり
無になる
この心さえ抑えきれれば
感情をコントロールできない自分
一度味わい知った悦からの状況の変化が今は苦し過ぎる
「私はそろそろ戻ります さ、日樹さん少し休んでください」
上体を起こしている日樹へ、ベッドに横になるように促す鏡
面会時間終了時刻に近づいていく
「傷に障りますよ」
今回の手術は金具を取り外すため大腿部より上部の臀部に近い部位を切開した
傷も小さく2針
とはいえ全身麻酔の手術後、そして傷もすぐにふさがるわけでもない
鏡の気遣いが耳に入らないのか
日樹はしばらく虚ろな瞳をどことなく向けていた
誰よりも繊細な貴方だから・・・
鏡は日樹に届かなかった自分の言葉にフッと苦笑いをする
「日樹さん?」
今度は耳元にじかに囁く
咄嗟に我に返った日樹は慌てて鏡を顔を見つめた
「ごめんなさい・・・」
話を聞いていなかったと、すぐに謝る
「日樹さんの心ここにあらず、ですね」
「それは・・・」
「心配です だからもう少しここに居ますよ」
帰りに足を向けようとした鏡は溜息を落とし、もう一度付き添い人用の椅子に腰を下ろした
日樹を一人残して帰るにはやはり心苦しい
「・・・でも・・」
「仕事は朋樹さん一人で片付けていただきましょう」
朋樹の有能な片腕、鏡のちょっとしたジョーク
自宅マンションで今、朋樹は残務に追われているはず
その朋樹のかけがえのない義弟、日樹の為となれば
多少時間が押したところで主人も大目に見てくれることだろう
日樹にとっても身近な存在
「鏡さん・・・」
誰でも良い
少しでも傍にいて欲しい
そんな気持ちを鏡が察してくれたのだろうか
「少しお話をしませんか?」
眼鏡越しに鏡が穏やかな瞳をのぞかせた
面会時間は残り30分を少し切ったところ
「少しお話をしませんか?」
眼鏡越しに鏡が穏やかな瞳をのぞかせた
鈍色のスーツを着こなす彼は実年齢よりずっと歳上に見える
なまじ “若造”、と見下げあしらわれるなら外見の良し悪しなどには拘らない
そうして義兄に仕えてどれくらいになるだろう
鏡 静那(かがみ せな)
名が現す通り、どことなく女性のようにしなやかさを持つ麗姿だ
仰向けに横たわる日樹は、真上の天井から鏡へ視線を移す
「・・・と、言ったところで
朋樹さん付きの私に、日樹さんご自身のことを話されるとも思いませんので」
「鏡さん・・・」
「そんな顔をしないで下さい」
胸中を悟られまいと気構えしていた日樹は
図星を突かれ、戸惑う
鏡は重々承知している
何を聞き訊ねたところで日樹が本心で答えるはずがないことを
その上、ここで話したことは朋樹へ報告します、と
先もっての告知
残念ながら一枚も二枚も上手
以前、日樹が睡眠薬を服用していたことを即座に義兄へ告げたのも
朋樹と深い信頼関係にあるこの鏡だ
全て筒抜けなのだ
鏡にじっと見つめられる日樹
フレーム越しに覗く真っ直ぐな瞳を見る限り、彼に誤魔化しは通用しない
互いに様子を見合う沈黙の時間が流れる
日樹は義弟として、鏡は秘書として、朋樹を通じ相見る間柄
その想いは異なる
鏡に嫉妬した時期もあった
その記憶は、時と共にすでに塗り替えられている
先に目を逸らしてしまったのは日樹だった
この間が苦手だ
やがて鏡が日樹へ静かに語り始める
「私ごとですが・・・」
日樹はリクライニングで起こしたベッドに横になったまま瞳を閉じて鏡の話を聞き入る
自分が何か話さなければ、という義務感からやっと解放された
話を聞く側、受身のずっと方が楽なのだ
「もう何年前になるでしょう・・・私には絶望の淵を彷徨っていた時期がありました・・・」
それは予期せぬ切り出しだった
再び鏡に戻す
なのに鏡は何の躊躇いもなく、
はるか昔を恋焦がせ懐かしむように、スラスラと言葉は途切れることはない
個室のここでは誰に話を聞かれることもないから
「自分だけでは解決できない問題に直面していました、もっともその原因は自分で作ってしまったものですが・・・」
ふっと苦笑いをする鏡
思えば鏡のことで知っていることの方が少ないのかもしれない
義兄の秘書、恋人、
家族同様に諸藤家を出入りする
それが当たり前に過ごしてきた
「そして、それを救ってくれたのが日樹さん・・・貴方のお義兄さんだったんです」
いつも実直な鏡
その一瞬、他人には滅多に見せることのなかろう
はにかんだ表情を見せた
30歳男のそれはまるで少女のように純粋だった
「義兄さんが・・・」
大学で一緒だったというlことは知っていたが、二人の馴れ初めは聞いた事がない
いつしか父付きの秘書になり
その後、義兄の秘書へと肩書きが変更になった
知らない彼の過去
鏡はいったい何を言おうとしているのだろう
義兄から監視のほどをどう仰せ付かっているのだろうか
「どうか、一人で苦しまないでください」
いったい何を思い悩んでいるか
鏡は気づいているのだろうか
それは助言というより、鏡自身に重複させる懇願と受け取れた
「朋樹さんは、いつも日樹さんのことを心配しています」
鏡は付け加えた
言われなくても承知している
義兄の過剰なまでの警戒心がひしひしと伝わるのだから
マンション前で居合わせてしまった拓真に対し必要以上の威圧
それが何よりの証拠
西蘭を退学した時から、義兄も
自分の生活も何もかも全て変わってしまった
それは、自分が起こしてしまった事実
「朋樹さん、そして私も日樹さんを守りますから」
守る?
それが重荷で仕方ないのに
わかっていない
違う・・・
そんなことじゃない
日樹がそう言いかけた時だった
「諸藤さんっ!!」
息を切らした少年が額に汗を浮かべ日樹の病室に駆け込んできた
消燈時間までは開放される病室のドア
緊急時には迅速に対応できるようにとの病院側からの指示
もしくは患者が重病でないことを標す
「拓真君・・・」
いち早くその姿を確認した日樹が少年の名を呼ぶ
「君は!?」
日樹に続き、外部から完全に保護されているはずの空間に
躊躇いもなく足を踏み入れてきた拓真へ、鏡が鋭く冷たい視線を刺す
拓真の姿を見た鏡は、一瞬眼鏡の下の瞳を曇らせた
今まで日樹に向けていたものとは全く違う、ビジネスの眼光
朋樹と共に自宅マンション前で行き会った少年、拓真へ
この個室を用意した朋樹の意図には
身分上、そして素性知れない部外者の侵入を阻止する警戒目的もあったのだ
大部屋と違って人の出入りもなく、ナースステーションからも間近
日樹にとってこの上ない入院生活の環境を整えたはずだった
なのに予想外にも彼は簡単に踏み込んできた
二人の視線を一度に感じ、拓真はハッと一歩後ずさり息を飲む
「あ・・・」
気まずい雰囲気
拓真を見る鏡の表情はまさに訝しげだった
「すみません・・・」
威圧する視線に思わず拓真は詫びてしまう
「失礼だが君はこの前の」
日樹の盾になるように鏡がすかさず拓真に歩み寄る
君はなぜここにいる
その存在を否定するような口調だった
招きたくない客・・・
「あ・・・はい 北都です、諸藤さんの後輩の・・」
伏目がちに拓真は “後輩”、今はそう自己紹介をする
果たして鏡がその“後輩”という言葉をどれだけの意味に受け取ったか
きっとここを訪れてきたことを義兄に伝えられてしまう
予期しなかった好機に関わらず日樹としては喜んでもいられない
「鏡さん、はずしてほしい・・・」
思い立って日樹は鏡に告げる
時計をチラと見やればもう面会時間終了まで10分もない
かといってこのまま鏡が立会いでは拓真も気が休まらないだろう
「日樹さん・・・」
しかしながら朋樹の代役としてやってきた鏡の立場からも
そう簡単には引き下がれないのだ
「彼と少し話したいから」
日樹も引かない
どうせ義兄に筒抜けなら拓真の好意を無駄にしたくはない
わざわざ駆けつけてくれたのにこのまま、
時間ですから、と追い返すわけにもいかない
大事な友人
「お願い、鏡さん」
しばらく間を置き
本来持ち合わせている意志の強そうな朋樹と同じ日樹の瞳
自分に向けられる日樹の瞳に圧され、仕方ないと鏡が重たく唇を開く
「面会時間はもう残り数分です、手早く切り上げてください」
「は・・はい・・・わかりました」
鏡は拓真にそう言い渡し、
「では、私はこれで」
日樹に軽く会釈し病室を出て行った
彼なりに気遣いをしてくれたのだろうか
どちらにしてもあまり快く思われていなかったことが拓真にも伝わる
鏡が立ち去る姿を確認し、二人きりになった病室
拓真の緊張も幾分解けたようだ
「あの人はこの前の」
「うん、義兄さんの秘書」
「すみません・・・突然押しかけてきて」
「ううん・・・」
数日振りの会話は少しぎこちなく、言葉も短く途切れる
「拓真くん・・・どうしてここへ?」
「陸上部の顧問の先生に聞きました・・・」
心配でしかたなかったのだから
「手術・・・だったんですね・・・」
「うん」
「なんであの日、教えてくれなかったんですか」
「ごめんね・・・」
「俺・・・今日諸藤さんに会うまでは心配でどうしようもなかったんです」
高原にさえ伝えてないこと
だが、糸をたどっていけば答えは見つかるところにある
この入院も全て隠していたわけではない
必要なら、その糸をたぐり寄せれば解けること
日樹にとっては小さな賭けだった
もし、今でも彼が自分が必要としてくれるなら
高原自身がそうして答えを見つけ
ここに来てくれるはず
しかし、今目の前にいるのは
高原ではなく拓真なのだ
拓真は自ら答えを解いてここに来た
「それで傷の具合は・・・」
「大丈夫」
日樹の笑顔は拓真をほっとさせる
「なら・・・ヨカッタ・・・諸藤さん・・・」
安堵した拓真は、一気に緊張感が解け
ベッドの脇でよれよれと膝をくじく
「なら・・・ヨカッタ・・・諸藤さん・・・」
一気に緊張感の解けた拓真は、無様にもヘナヘナと床に両手両膝をついてしまった
まるで主に仕える下僕の土下座姿だ
「拓真くん!」
拓真を気遣おうとし、日樹は慌ててベッドから起き上がり足をおろす
咄嗟のことで自分の足を庇うことすら忘れていたのだ
「・・痛・・」
ズキン!と傷に痛みが走り、一瞬体を強張らせる
力が抜けた片足は不意にバランスを失った
日樹は拓真のもとへ身を崩し倒れていく
それは空から堕ちてくる天使にも似て・・・
「諸藤さん・・・」
日樹の姿に見惚れながらも、その体を受けとめようと構える拓真
「あっ・・」
「わっ!」
その声はほぼ同時であった
いくら華奢な日樹といえ、高い位置から勢いついた全体重が押しかかれば
拓真でもそれをキャッチするのは容易ではない
二人は弾みで床に転がり倒れていた
自分が下敷きになり、床を背にする拓真、
そして拓真の胸に大切に抱え守られた日樹
互いの顔はかろうじて接触を逃れた距離にあった
日樹にしてみれば、拓真が自らクッションとなり身を挺して自分を守ってくれたのだ
拓真にしてみれば・・・
今、自分のすぐ目の前にいる
それは、ずっとずっと恋焦がれていた人
ダークブラウンの髪とお揃いの瞳の色
その大きな瞳には今、自身が映っている
諸藤さん
これって
神様のちょっとしたご褒美かな・・・
だって、やっと貴方に逢えたんです
そう受け取っていいのかなぁ
それにしちゃ
ちょっと痛かったけど
洗い立てのパジャマからは柔らかくて良い香りがしている
それとも日樹の香りだろうか
重なり合う体、予期していないハプニングに
頭はのぼせ上がる寸前だ
「痛かったでしょ、拓真くん」
心配そうに呼びかける声が聞こえているのだろうか?
拓真は一心に日樹を見つめたままだった
すみません
もうしばらくこうしていてもいいですか
亮輔・・・信じるか?
俺、諸藤さんと・・・こんなことしてるんだぜ
なんとも我ながら悠長だ
拓真の両腕はこんな時でも遠慮勝ちに日樹をよそよそしく包んでいた
「頭を打ってない?」
日樹が更に顔を近づけ心配そうに覗きこむ
受け取り方によっては唇を重ねるしぐさ、にもとれる
それはあくまでも拓真の解釈
諸藤さん・・・
それはいくらなんでも
この状況で不謹慎です・・・
「だ・・・駄目ですっ!!」
「拓真君?」
「・・・・?」
「大丈夫?拓真くん」
「あれ?・・・俺どうして・・・」
「やっぱり頭を打ったの?」
頭は打っていない
それに正気だった
なのに途中から段々ぼーっとしてきて
そうしているうちに勝手な妄想が現実と倒錯していた・・・
「い、いえ・・・・・・あ・・・・・・・綺麗な百合ですね」
自分の邪な思いを隠し、恥ずかしさを紛らわすために拓真は顔を背けた
「わざわざ時田先生を訊ねて、そしてここを聞いて来てくれたんだね」
無心な拓真の好意、それを日樹は十分汲み取っていた
「ありがとう・・・拓真クン」
並んで歩く二人、拓真の肩口で日樹は囁く
トクトクトク・・・と高鳴る心臓の音が聞こえてしまうのではないか
先ほどのことといい、今日はどうも心臓に良くないことばかり
「い・・いえ・・」
10分なんて・・・
短い時間だった
何を話したか、と言われて思い出せることはひとつもない
大した会話もしていない
ただ・・・
あの後、二人は笑い転げてしまった
拓真の突拍子もない科白
ベッドサイドにある客用のテーブルとソファ
個室ならではの設備
そのテーブルに置かれた眼鏡ケースと文庫本
そして、花瓶に活けられた大輪でありながら清楚な花
誰かが見舞いに届けた品だろうか
少年の病室には少々不似合いだが
これが日樹となれば話は別で
そして、拓真もその花の名前ぐらいは心得ていた
時間の余裕も無く慌てて飛び出して見舞いにやって来た拓真は少々気が引けていたのだ
「何か必要な物とかないですか、その・・・今日は手ぶらで来ちゃって」
常々偽りの無い瞳をしている拓真を察すれば
君が着てくれただけで十分だと日樹は黙ったまま首を左右に振る
何もいらないから・・・
「本が必要だったら、タイトルを教えてくれれば図書館で探して借りてきます」
「ありがとう・・・」
拓真の誠意に日樹は何度目の“ありがとう”を言っただろうか
そして拓真にとってはこの上もなく嬉しい日樹の笑顔付きのお礼
病棟に面会時間の終了を告げるアナウンスが流れる
拓真と時間同じくして面会を終える者が足早に階下へ降りていく
「こんなに歩いても大丈夫なんですか」
「うん」
病室を出てエレベーターホールまで拓真を見送りに出た日樹
傷をかばう歩き方はどこかまだ痛々しい
拓真もそれを案じてやまない
「俺、明日も練習が終わったら来ますから」
「ありがとう、でも無理しないで 大会も近いから」
夏の大会目指し時間ギリギリまでの練習
それが終わって自転車を飛ばしてくれば
面会時間も30分ほどは猶予を見積もれる
それに夏の陽は長く、宵の口はまだまだ人通りもにぎわっている
苦になんてなるはずがない
エレベーターに乗り込む拓真
そしてゆっくり二人を隔てるように閉じる扉
「じゃ、また・・・」
「気をつけて」
日樹の言葉は最後まで拓真に届いただろうか
名残惜しそうな拓真を見送る日樹の笑顔は
少し晴れやかだった
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