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しばらく休日が続いている。今年は年末から正月にかけても仕事が入っていたが、スケジュールを見直してみると、それ以来ほとんど毎日、なんらかの仕事が入っていた。その合間を縫って近所を散歩するぐらいの暇はあったが、久方ぶりの休日なので、体力の回復を兼ねて自転車で遠出をしてみた。 子供が小さいときは、前と後ろに乗せて三人乗りで出かけたこともある。警察が自転車の三人乗りの禁止を徹底させようとしたところ、子育て中の母親らから総すかんをくったそうだが、無理もない話である。ただし、子供を乗せているときは、ふだん以上の注意が必要なことは言うまでもない。 室見川にそって海の近くまで下ったら、ただとにかく西へ自転車を走らせる。茫洋とした鉛色の海には緑に覆われた能古島、その先には金印が発見された志賀島が浮かび、左右にはあちらこちらの小山が波打つように重なりながら湾をぐるりと取り囲んでいる。 福岡の西部にある今宿は、関東大震災のさいに大杉栄とともに殺された伊藤野枝の実家があったところで、二人の間に生れた娘であるルイさんが育ったところでもある。裏道に入ると、今でも海と山が同居する半農半漁の雰囲気が残っていて、ここまでくると同じ福岡の市内でもなんとなく匂いが違う。ちょうど小学生の下校時間にぶつかり、ランドセルをしょって集団で下校する児童らを、角々に立った日焼けした顔の小父さんが小旗を持って見守っていた。 さらに先へ行くと、『魏志倭人伝』 にある伊都国があったとされる地域になる。原田大六が発掘した平原遺跡からは、直径46.5cmという国内有数の巨大な銅鏡も出土している。ここから唐津にかけた地域は、朝鮮を経由した大陸の文化が最初に根付いたところと言っていいだろう。 ただ、駅前ともなると、すでに近代的な高層マンションがいくつも建ち並んでいる。おまけに、市内各所に散在する大学キャンパスの統合計画が進んでいるせいで、学生や研究者らによる需要増加を当て込んだ開発があちこちで進められている。土砂をたんまりと積んだダンプが表皮を剥ぎ取られてむき出しになった大地の上を行きかい、黄色い重機が鉄の腕を振り上げて山を崩している。 黄色い砂ぼこり以外なにもないのっぺらぼうの景色の中に、映画のセットのような銀色の高架駅と、砦のように巨大な赤茶色のショッピングセンターが突如として出現し、なんとも異質な空間を作っている。整地が済んだ空き地には、名前を聞いたことのあるゲームセンターの建設予定を示す看板が立っていた。 日がすでに傾き少し暗くなりかけたところで、帰路についた。狭い旧国道が海岸ぎりぎりを走る最大の難所では、山がすぐそこまで迫って鋸歯のようなリアス式の細かい入江を作り、海の中には山から転げ落ちたような岩礁がいくつも頭をのぞかせている。山の横っ腹にあいた穴から、不意に電車が地を揺るがすような轟音を先導にして姿を現し、車体を傾かせながらすぐ横を走りすぎた。 くねくねとうねる難所を無事通り抜け、まっすぐした道をしばらく走ってから振り返ると、赤い円盤のような太陽が、建物が乱立して作った幾何学的な陰で下のほうを切り取られた西の空に浮かんでいた。昔聞いた、吉田拓郎の 「落陽」 の一節を思い出した。帰ったら、ほぼ一週間ぶりに新しい仕事の依頼メールが届いていた。ありゃりゃである。
2008.03.14
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伝説の名投手、稲尾和久が昨日死去した。報道によれば、先月末急に体調を崩して入院したばかりのことだったそうだ。享年70歳、中国の故事では古来希なりとはいうものの、現代ではまだまだ早い死である。川上も金田も、まだまだ元気であるというのに残念なことだ。 もっとも、記憶の中にある投手としての稲尾は、中西が選手兼監督を務めていた時代の最晩年の姿であるから、それほどの印象があるわけではない。西鉄自体が、やがて親会社の経営不振と「黒い霧」事件による有力選手の追放によって、弱小球団に転落し下位にあえいでいた頃の記憶しかない。 やがて、西鉄ライオンズは 「太平洋クラブライオンズ」、「クラウンライターライオンズ」 と日替わりメニューのように名称をかえ、最後には堤義明が率いる西武グループに買収され、埼玉の所沢に移転して今の西武ライオンズが誕生することになる。その堤義明も、いまやただの人になってしまったのだから、人生とは皮肉なものだ。 「神様、仏様、稲尾様」 という言葉を生んだ1958年の日本シリーズでの3連敗という瀬戸際からの4連投は有名な話だが、とにかく30勝以上が4回、うち1回は前人未到の42勝、入団からわずか7年目で200勝を達成したというのだからすごいものだ。むろん、当時の野球と今の野球をそのまま比較することはできないが、途中で肩を壊すことさえなければ、間違いなく300勝は軽く越していただろう。 ニュースでは、稲尾が先頭に立った運動のおかげで 「名誉回復」 が実現した元西鉄のエース、池永正明の泣く姿が印象的だった。とにかく、地元では皆に愛された人である。もし、九州がいま独立するとすれば、間違いなく初代大統領に選ばれていただろう。そのくらいに、惜しい人であった。
2007.11.14
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昨日はなかなかよい天気であった。ちょうど仕事も一段落つき、次の締め切りまでは、十分に余裕があるので、運動がてらちょいと離れた愛宕神社まで足を伸ばしてみた。 愛宕神社というのは日本中あちこちにあるが、その大元は京都の愛宕神社なのだそうだ。なんでも火の神様を祀っているので、「火の用心」 に役立つのだそうだ。火の神というのは、古事記によれば、イザナギさんとイザナミさんの間にできた最後の神様で、イザナミさんはこの神様を産んだために火傷を負って死んじゃったということになっている。 で、この火の神様は、「イザナミが死んだのはおまえのせいだー」 と怒り狂った実の親父のイザナギにいきなり首を切り落とされ、そっからまたいろんな神様が生まれ、さらにはイザナミ恋しや、とイザナギが黄泉の国に降っていくという、ギリシアのオルフェウス神話とそっくりの話につながっていく。 そういうわけで、福岡の愛宕神社には火産霊神と伊耶那美尊、それともとは別の神社で祀られていた伊耶那岐尊と天忍穂耳尊が、明治末期の合祀によって1つにまとめられて祀られている。南方熊楠は全国で進められた合祀に強硬に反対したが、ここの場合は、イザナギさんとイザナミさんがまた一緒になれたのだから、一応はよいことなのかもしれない。 福岡の愛宕神社は室見川河口付近の小高い丘の上にある。もとは、元の襲来に備えて北条時宗が建てた鷲尾城という小さな砦があったそうで、急な石段をえっちらおっちら登っていかなければならない。戦前までは、上まで登る小さなケーブルカーがあったそうだが、今はその跡も残っていない。 うかつにも、登ってみて初めて気づいたのだが、ちょうど七五三の時期で、お宮さんの稼ぎ時にあたっていたのだった。わが家でも、子供が小さいときにいちおう七五三はやったのだが、それはたまたま、近所の別の神社にどんぐり拾いに出かけたら千歳飴が売られていて、娘が 「あれ買ってぇー」 と言い出し、買おうとしたところ 「お祓い受けないと売ってあげないよー」 と言われたので、やむなく神妙な顔で本殿に並んで神主さんからお祓いを受けたという、ずいぶん出鱈目な話なのであった。 境内には、あちこちに 「日本三大愛宕」 という看板が出ているのだが、これを言っているのはここだけで、あまり根拠はないらしい。実際、丘のてっぺんにあるのは祠に毛が生えた程度の小さな本殿で、「日本三大愛宕」 というのにはちと無理がある。 ただし、そこからの眺めは絶景である。右手からは海ノ中道が志賀島まで、入江を抱きかかえるようにずいずいと伸び、正面には陽水の歌にもある能古島が、左手には糸島半島の海に迫った山並みが、曙と小錦、武蔵丸が三人並んで寝そべっているかのように並んでいて、博多湾が一望の下に見渡せるのである。 ちょうど湾内には白い客船や黒い貨物船が、ユーミンの歌詞のように何艘かぷかぷかと浮かんでいたが、元寇のさいには、この海いっぱいに元と高麗の軍船がひしめくように並んでいたのかと思うと、感慨ひとしきりである。 帰りはひざをがくがくさせ、転げ落ちないように気をつけながら石段を下った。喉が渇いたので、目に付いた自動販売機で冷たいコーヒーを買おうとお金を入れてボタンを押したら、がらがらっと缶が転がり出てきて、「今日も一日頑張ってください」 と声をかけられてしまった。不意をつかれてしまったもので、不覚にも思わず 「はい、頑張ります」 と返事をして頭を下げてしまったのであった。 ああ、それから、X X 党の名前を変えたらどうだとか、X X 党と X X 党が手を組んだらどうだとか、その手の床屋政談に付き合うつもりはないので、そこんとこよろしく。
2007.11.10
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奇怪な傑作 「ドグラマグラ」 の作者 夢野久作は本名を杉山泰道といい、戦前右翼の大立者であり政界の黒幕ともいわれた杉山茂丸の息子である。 九州は福岡といえば右翼発祥の地の一つであり、かの有名な玄洋社を設立した頭山満や、「日韓合邦」(韓国併合)を推進した黒龍会の内田良平など、錚々たるメンバーがそろっている。条約改正に反対して大隈重信に爆弾を投げ、その場で自殺した来島恒喜も玄洋社の人間である。 杉山茂丸もそのような人物の一人であるが、「ショートショートの神様」 と言われた星新一の父親の星一が製薬事業に乗り出したときに資金援助をしたりもしている。 玄洋社はもともと民権派として出発したのだが、しだいに朝鮮や中国への進出を目指した国権派へと性格を変えていく。そこにはロシアの極東進出に対する危機感であるとか、幕末以来の根強い勤皇思想などの問題があるのだろうと思う。 日本がいまだ対外進出の余力を持っていなかった時期には、彼らのいわゆるアジア主義は、中国の孫文やフィリピンのアギナルドを支援したりといった、一種の反帝国主義的な連帯の試みであったと言えなくもない。 しかし、日本の急速な近代化による対外膨張の開始と、彼ら自身の政府や軍との関係強化の中で、当初のアジア主義は、しだいに単なる日本の東アジア支配という野望の別名でしかなくなっていく。戦争中に声高に宣伝された 「大東亜共栄圏」 とは、まさにその最終形態ともいうべきものだろう。そういうアジア主義の変質を免れていたのは、53歳で死んだ宮崎滔天ぐらいではないだろうか。 頭山満が、大逆事件で刑死した幸徳秋水のお師匠さんである中江兆民と親しかったことは有名だが、5.15事件で暗殺された政党政治家の犬養毅とも親交のあった人物である。 ところで、なんで、こんなことを書き出しかというと、じつは先日近くのスーパーで 「新宿中村屋」 のレトルトカレーを買って食べたからなのである。 中村屋のカレーというのは、その創始者の相馬夫妻がかくまっていたインド独立運動の活動家であったラス・ビハリ・ボースという人物が相馬の娘と結婚したことから始まっていて、このボースの日本亡命のさいにも犬養と頭山は協力している。 福岡という土地の政治風土には独特のものがあるようで、左翼のほうに眼を転じれば、関東大震災で大杉栄とともに殺された伊藤野枝もいる。松下竜一が伝記を書いた、大杉と伊藤の娘のルイさんという方も、両親の死後、福岡にある伊藤の実家で成長している。あと、戦後で言えば 『神聖喜劇』 を書いた大西巨人もそうである。(なんだか、今日は郷土自慢ふう) さて、冒頭に述べた夢野久作の 『近世快人伝』 (青空文庫から)という作品に次のような一節がある。 その翌日から、同じ獄舎に繋がれている少年連は、朝眼が醒めると直ぐに、その方向に向って礼拝した。「先生。お早よう御座います」 と口の中で云っていたが、そのうちに武部先生が一切の罪を負って斬られさっしゃる……俺達はお蔭で助かる……という事実がハッキリとわかると、さすがに眠る者が一人もなくなった。 (中略) そのうちに四五人の人影が固まって向うの獄舎から出て来て広場の真中あたりまで来たと思うと、その中でも武部先生らしい一人がピッタリと立佇まって四方を見まわした。少年連のいる獄舎の位置を心探しにしている様子であったが、忽ち雄獅子の吼えるような颯爽たる声で、天も響けと絶叫した。「行くぞオォ――オオオ――」 健児社の健児十六名。思わず獄舎の床にひれふして顔を上げ得なかった。オイオイ声を立てて泣き出した者もあったという。 「あれが先生の声の聞き納めじゃったが、今でも骨の髄まで泌み透っていて、忘れようにも忘れられん。あの声は今日までわしのはらわたの腐り止めになっている。 (中略) あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、はらわたがグルグルグルとデングリ返って来る。何もかもいらん 『行くぞオ』 という気持ちになる。貧乏が愉快になって来る。先生……先生と思うてなあ……」 と云ううちに奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタポタとこぼれ落ちるのを筆者は見た。 時代は西南戦争の直前で、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、熊本の神風連、江藤新平の佐賀の乱など、いわゆる不平士族の反乱が九州で相継いだころのことである。反乱に直接加わってはいなかった門下の少年らが投獄され拷問を受けていることを知った首謀者の武部小四郎は、逃亡先から処刑覚悟で戻って自首してきた。その武部が処刑される日のことである。 この一節をはじめて読んだのはもうずいぶん前のことだが、「行くぞオォ――オオオ――」 という言葉は一度読むと、まるで自分の耳でじかに聞いたかのように耳を離れない言葉である。 そうそう、中村屋のレトルトカレー、家の者にはあまり評判よくなかったです。
2007.04.07
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