2004/04/26
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 商店街の八百屋の店先、ゴボウを漬けている入れ物の水をぴちゃぴちゃと猫が舐めていた。通りがかりのおばちゃんが不思議そうに猫を眺め、奥にいる店の主人には伝えようとしない。その傍をどこかから逃げ出してきた細い引き綱付きのポメラニアンが駆け抜けて行く。雑踏の中、追う人も見えず、蹴られもせず。前を歩く阪神タイガースのハッピを着たおばちゃん二人は元木(巨)のトレードについて話し合っている。「元木は出たくないって」「セ・リーグにはやらんて」なんだか元木がポメラニアンに思えてきて、せめて捕まえてやるべきだったかと思って振り返るが、とっくにポメラニアンの姿はなく、猫はまだ水を舐めていた。


「待て、ぼうず。適当な教会が見つかるまで待て、我慢しろ」
 でもその朝、またどこかの司祭に怒鳴りつけられないうちにズボンに洩らそうとぼくは心に決めていた。炭酸飲料とアイスクリームでぼくの腹をふくらませて教会の扉に小便をかけさせる、そんな悪戯をぼくたちは繰り返してきた。それもぼくが歩きはじめた日からだ。そんなに幼いぼくを老人は襲撃仲間に、つまり、引退したアナーキストがいっしょに悪ふざけをするための相棒にしたのだった。

『どこでもない場所への旅』より


 ルイス・セプルベダ、1949年チリ生まれ。祖父は元アナーキスト。祖父の影響を受け社会主義運動に傾倒しピノチェト独裁政権下で942日に及ぶ刑務所生活を強いられる。その後いろいろ。
 パタゴニア!  パタゴニア!! パタゴニャ!!!  と叫びだしたくなるような、幻想的で雄大で残酷な大地パタゴニア。人が少ないパタゴニア。ペンギン友達パタゴニア。人がよく死ぬパタゴニア。

パタゴニア [Patagonia]

南アメリカの南端部、アルゼンチン・チリ両国の南部、ネグロ川以南の地域。乾燥気候で牧羊が盛ん。
(gooの国語辞典より)


 山下和美『不思議な少年』の二巻収録の、辺境の地で灯台守として暮らす夫婦を描いた話をパタゴニアのイメージとして読んだ。現在のパタゴニアで暮らす人が読んだら失礼かもしれない。「パタゴニア・エキスプレス」とは、「いまの時代、詩情では収益があがらないことがはっきりしたせいでその鉄道はもう存在していないが、パタゴニアの人々の心の中ではいまなお旅をしつづけている。」鉄道からとった名前。『酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』のように、一本の鉄道に乗っての旅の話ではない。主人公は少年時代に祖父から「どこでもない場所へ」の旅の切符として、ニコライ・オストロフスキー『鋼鉄はいかにして鍛えられたか』という書物を与えられ、社会主義者としての道を歩み出す。そのせいで、国々を転々とし、僻地を遍歴し、トラブルに、友情に、厄介ごとに巻き込まれる旅。最後は祖父の生誕の地へと到る。ただそれだけでも、国自体、地域自体が、嘘を交えず(脚色はもちろんあるだろうが)描いただけでも、面白いものになる上に、セプルベダの筆致が焦らずたゆまず素晴らしい。今年読んだ外国人作家では一番じゃないだろうか。


 プエルト・ボリバルでは全世界に向けてエクアドル・バナナが船積みされる。突堤から五キロくらいのところに、深さは分からないがサッカー場くらいの巨大な穴が開いている。そこには早く熟ればじめたり、虫が食っている疑いがあったり、農園主か運送業者がその業種のマフィアにおきまりの上納金のどれかを払い忘れたりして輸出できないバナナが何トンとなく捨てられる。
 そこは深鍋(ラ・オージャ)と呼ばれ、いつも煮えたぎっている。たえず腐っていく何千トンものバナナがぷつぷつ泡を立てる、むかつくような濃いペーストを作っている。役に立たないものはなにもかもそのラ・オージャに放り込まれる。そのぞっとしないシチューの材料となっているのは植物だけではない。政治的大物の敵たちもそこで腐っている。体に何オンスかの鉛をくらったり、山刀で手足を切り落とされたりして。ラ・オージャは休みなく煮えたぎる。その悪臭は海の香りを追い払うほど強烈で、ヒメコンドルさえ寄りつかない。
「出ていけ。いますぐ出ていくんだ。あのいまいましい悪臭があんたの意志を殺し、おれみたいにこんなとこで生きたまんま腐っていく、そんなことにならんうちに。ピアノ弾きはぼくに会うたびそう言った。

『往きの旅』より


『明日に向かって撃て!』で有名な(いやもっとそれ以前から有名な)ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドが逃げ込んだ地パタゴニア。二人が蜂の巣になって殺された場所パタゴニア。書くだけでも気持ちいいから口に出して言ってみた。思ったほど気持ち良くない。いつか何かを飼う時が来たら、パタゴニアと名付けようと思ったのに、やめるしかない。馬に似合う。


「最期の言葉。あんなくだらんことを言うとはな。息をひきとる二、三分まえに彼は昏睡状態から抜けだした。わたしの手をとり、こう言ったんだ。『へまをした、トルコ人、へまをしたよ、あんたの冷蔵庫、直さんかった』。分かるだろ? 心にやましいことがあったら、わたしの冷蔵庫のことを心配しながら死ぬもんか」

 そしてぼくは彼を捜した。この酒場に腰をおろし、ゆっくり空にしつつあるラムを一瓶頼むまえに、くたくたになるまで捜した。見つからなかった。相棒のムラートも。二人はどこかへ飛び立ったきりもどってこなかったと誰かが話してくれた。それがいつのことだったのか、教えてくれた男はっきり覚えていなかった。人生と忘却は世界のこのあたりではあまりにも速く進む。

『帰りの旅』より


 ところで、バンと引用文貼られてもあんまり読まないよなあ、とは思う。十の紹介百の感想より引用一つの方が人に読む気を起こさせると自分の経験上判断してやってることだけれど、そこに辿り着くまでの文章なしに一部だけを味わって好きになれるかは難しいところだ。でも、まあ、いいや。


国書刊行会 1997年 単行本





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Last updated  2004/04/26 11:26:06 PM
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