すっ転んでも、だいじょうぶだ~!

すっ転んでも、だいじょうぶだ~!

今までの歩み~こうめいの自叙伝



私が大切だと思うものは、少なくとも6つあります。

家族・健康・信頼しあえる仲間・自由なことに使える時間・お金・教育

おいおい、いきなり何を言ってるんだ!
現実は、そんなに甘くないぞ!

と、怒られてしまうかもしれません。


私も現在、これらのことについて、多くの問題を抱えるひとりの人間です。

私の名前は山本幸明と申します。
1966年10月20日、静岡県三島市にある父の恩師の開業する病院で、
高度経済成長の真っ只中を電器屋の経営者として生きる父親と、
今は亡き母親の長男として有難くこの世に生を受けました。

はじめに、私の人生において、忘れてはいけない一人の女性について、お話します。
同じ境遇のかたもおられるかもしれませんが、
私をこの世に生んでくれた感謝すべき母親のことです。
残念なことに癌を患い、5歳の私を生き形見として残し、
30年と少しで悲しくも早すぎる人生の幕を閉じることになりました。
今でもその母との5年間の想い出は、断片的ではありますが、
胸に焼き付き離れることはありません。
いつ想い出しても不思議なもので、記憶を幾度たどろうとも、
楽しかったことは思い出せず、母の買ってくれたばかりの新品の麦藁帽子を
バスから飛ばし失くしたことをはじめ、母の入院する病院へ祖母と見舞いに行き、
はぐれてしまい独りエレベーターに閉じ込められ泣きじゃくったこと、
母の葬儀の時、火葬場でお骨を拾うのがいやで泣きじゃくったことなど、
マイナスのことばかり思い出すのは、どうしてだろうと思います?
幼少の頃の心に深く刻み込まれた体験とは、かくも苦々しいものだと思うと、
やるせない気持にさえなります。

一方、野球と酒を愛し家族を養う父親は、商売柄、社交的でしたので、
頻繁に酔っ払って帰宅しました。
まだ若かりし頃の親父は短期で内弁慶なところがあり、
言いたい事も我慢していたようで外面が良かった反面、
機嫌が良かったと思うと一変して、母親を罵倒し食卓の物を投げ割り、
逃げ惑う母を家中大声で追い回す、鬼のような一面もありました。
私はただただ恐くて布団の中で打ち震え、声を潜め嗚咽にむせんでいるばかりでした。
父を知る人の大半は、こんな話をしても信じられないことでしょう。
母の手料理が所狭しと並べられた決して広いとは言えぬちゃぶ台が、
突然目の前でひっくり返る有様を何度も目の当たりにしているのは、私と今の母親ぐらいでしょう。
自分自身を客観的に見ると、引っ込み思案で気の弱い一面もありますが、
幼児期を通してのこういった体験が、無意識に潜在意識に植えつけられ、
対人関係での恐怖心として形作られた性格の一面ではないかと考えたりもしました。
今でこそ、それらは私が成長する為に与えられた一つの問題に過ぎませんが・・・。

そして、幼稚園、小中学校と進学、高校時代はもっぱら父の好きだった野球に明け暮れ、
一年の浪人生活の末、私立の大学へ合格。
祖父から受け継いだ家業の電器屋を営む親父と育ての母は、
身に着けるものも贅沢はせず、旅行に出かけることも無く、
浪人までして東京の私立大学に通う一人息子のために、
当人達は決して口には出すこともありませんが、日柄、暮らすに必要なお金を抑えていたことでしょう。
特に育ての母は、常につきまとうお金の心配と酒の勢いで豹変する夫のために
心細ぃ日も少なくなかったのではないかと思います。
私の聞き及ぶ昨今の夫婦関係では、即、「離婚だ、慰謝料だ、DVだ」といわれますが、
現在は70才を過ぎた孫達を愛でる母親の背中を見るにつけ、
自己犠牲を当たり前のこととし、家長たる父であり夫を常にたて、
労苦を厭わず耐え忍ぶ一人の芯が強い女性であり続ける凄さが見て取れます。

親元を離れたことで、父への恐怖心からも解き放たれ、母の辛い姿を見ることも無く
一人前に一人暮らしを経験させてもらえたことが、自分を見つめ直す何よりの機会となりました。
大学を卒業後、北千住にある大手住宅メーカーのFC会社に就職。
家業の電器屋を継ぐことを頑なに拒否し、2年半の短期間ではありますが、
ハウスメーカーの営業マンとして東京でサラリーマンとして過ごしました。
親父にしてみれば、一人息子の就職によほどいぶかしい想いを抱いていたと見え、
帰省時に就職の報告をしても、浮かない顔だったことが想い出されます。
当時は、ちょうどバブル期の最中、市中金利も高かったにもかかわらず、住宅不動産の需要も旺盛でした。
同期入社の男性は4人、私以外は専門学校卒の19歳と若く、一浪大卒の年長者でもあったので、
負けてはいかんという競争心が私を仕事漬けの毎日に向かわせていたのかもしれません。
おかげで年間受注棟数も同期社員の倍でしたが、サラリー(営業収入)が倍になるということはなく、
何でこんなに実績が違うのに収入にそれほど反映されないのかと、会社に憤りを感じたこともありました。

もし、あなたが住宅セールスマンだったとしたら、どのように思うか、想像してみてください。
1ヶ月1棟で年間12棟、一棟当り平均2500万円だとして3億円。半分だと1億5千万。
人一倍働き、食事に出かける同期を尻目に夜訪に出かけ、見込みのあるお客様宅に足しげく通いました。
世間話で奥様やご家族との距離を縮め、決定権者のご主人と会えるのは稀なこと、
帰宅は深夜0時を過ぎることは茶飯事で、食事はコンビニ弁当、
社宅は無味乾燥とした一人住まいで、万年床にほとんど使わない電器製品。
そんな日常で少々無理をしてもカラダを壊さず続けられたのも、
まだ25歳と若く気力も体力も十二分に持っていたからでしょう。

しかしながら、悲しいかな、労働力に見合う収入には、なりえず、働き蜂さながら、
こんなスタイルを続けて家庭でも持ったら、家族と過ごす時間もかなり少なくなり、
決して楽しい生活なんて有り得ないだろうとも感じていました。

「労働は搾取される」という言葉が思い出されます。

過酷なサラリーマン生活もある事情で退社をすることになり、次の当所も見つけられなかった当時の私は
急遽地元にUターンし、残された最後の選択肢だと当時は思っていた家業を25歳で継ぐことになります。

どうして、私が電器屋をしているのか?という単純な疑問には
家業が電器屋だったから、と言う答え以上に適切な答えは何も見当たりません。
計画性に乏しく、半ば成り行き任せで何事にも問題意識が低かった私は
長期的視野に立った崇高な理想、会社のビジョンなどに想いを馳せることもせず、
ただただ、弊社をご愛顧くださるかたがたのために電器屋稼業を続けていました。
経営者として、利潤を追求し、生きていくため、会社を継続するために妥当な利益を
ゴールなきエンドレスに続く商品の販売・サービス活動により得ること。
ゴールは働けなくなった時、その時のことを考える余裕もなく、
流れに身を任せ、バブル期以降、売上が減少することも想像できず、
ただただ目先の利益を追い求めるために、発生する業務をなんとかこなしてきました。
しかし、現実は厳しく、予期せぬ変化に柔軟に的確に対応できぬまま
10年以上、赤字と借金を積み増す会社が残ってしまったのです。

転職当初は親父とは何故かうまが合わず、意見の対立も多く、親子喧嘩の種を自ら蒔いていました。
だいぶ角が取れ、私の言い分に耳を貸してくれるようになってきたのも束の間。
親父が大量の鼻血を出し、入院します。
父は元来、病院嫌いで痛風もちの高血圧でしたが、入院するほどの大病の経験はそれまで無く、
突然の入院の報せに、後継者としての自覚が依然として薄かった私は、非常に動揺しました。
主治医からは、「もし鼻からでなく脳にまわっていたら、大変なことになっていたよ。運が良かったね。」と、
言われました。

ちょうど、その頃、縁あって一人の女性と交際していました。
彼女は銀行に勤め、ソフトボールの選手でもある私より9歳年下の女性です。
将来への不安が先に立ち、なかなか身を固める決意が出来なかった私も
父の入院をきっかけに30半ばで結婚を決意します。
父は経過も順調で、1ヶ月ほどで退院、その後も元気になり、二人の門出を祝福してくれました。

その後、妻と結婚してからの5年間にも様々の予期せぬ出来事が次々と起こりました。
今年の10月で40歳、人生の半分ほどでしょうか、折り返し地点です。
こんなことも、今後の人生では2度と経験できないだろうと思われます。

父の代より、2店舗体勢で営業してきましたが、2年前に沼津店を撤退し長泉店に統合。
移転から3ヶ月目のGWのある日。父の様子に異変がありました。
病院での検査の結果、脳梗塞とわかり、即入院です。転院を含め3ヶ月間、落ち着かぬ日々が続きます。
なんとか退院はするものの右半身に障害が残り、言葉も文章にならず会話もできません。
自宅での療養生活、長年続けてきた仕事から70歳で遅すぎる引退となりました。
翌年のGWには父の代に永年働いていた61歳になる従業員が、躁鬱症で入院。
ついに事務を母親に任せる以外、すべての業務は一人で行うことになります。
その従業員は2ヶ月ほどで退院しましたが、体力も衰え、気力も萎え、会社も経営難により
退社してもらうこととなりました。

今まで以上に仕事をする時間は増え、休日も厭わず働きますが、思うように売上はあがらず、
とうとう長泉店も1月末日で閉店せざるをえなくなりました。
再建できるかどうかもわかりませんが、自宅からの再出発を図っている最中です。

家業の電器屋の3代目として、あっという間の13年間。残されたのは借金と不良在庫。
自営業は自由業ではありません。収入の基本は労働収入。収入を増やす為には、
自由な時間はなくなります。収入が増えたとしても自由な時間を持てないビジネスモデルです。
そして、資本力が尽きれば、営業を続けていくこともできなくなります。

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現在、両親と妻、そして愛すべき3人の子宝には恵まれ、計7人で同居、
お茶とみかんの産地で気候も温暖な静岡県三島市に暮らしています。


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