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にほんブログ村 古代には存在したが、失われた技術。そして今なお再現できない技術。そのひとつに「ダマスカス鋼(ダマスカスナイフ)」があります。古代インドで作られていたダマスカス鋼。刀剣などに使われたこの鋼には、表面に木目調あるいは水滴状の美しい模様が表れます。「ダマスカス鋼(ダマスカスナイフ): 古代インド王朝」(画像出典: Wikipedia)しかしその製法は18世紀には失われてしまいました。ダマスカス鋼の模様は、融点や結晶化の温度が異なる成分により作られると推定されます。しかし今なお、その完全な再現には成功していません。今日でも「ダマスカスナイフ」は作られています。しかしこれは、古代インドのダマスカスナイフとは違います。「現代のダマスカスナイフ」(画像出典: Wikipedia)現代のダマスカス鋼は、異なる金属を積層し鍛造して作られます。バウムクーヘンの様な構造で、表面には古代のダマスカス鋼に似た模様が表れます。しかし現代のダマスカス鋼には古代と大きな違いがあります。古代のダマスカス鋼は、再度溶かして固めると、再び模様が出ます。一方、現代のダマスカス鋼は、溶かすと二度と模様は出ません。失われた古代の技術。古代インドの人々は、私達が知らない何を知っていたのでしょうか。【 ダマスカスナイフ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.04.17
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にほんブログ村 奈良県の石棺仏のリンク集です。石棺仏とは、古墳の石棺の石材を再利用して、仏像として利用した石仏です。もっと多くをご紹介したつもりでしたが、過去の記事が見当たりません。奈良は文化財が豊富なので、ご紹介できていなかったかもしれません。いずれ機会を見てご紹介するかと思います。◆石棺仏◆●【石棺蓋石】 「奈良県 長谷寺 弥勒石棺仏 (鎌倉時代)」●【石棺石材多数】 「奈良県香芝市 阿弥陀橋石棺仏」【 奈良 赤膚焼 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.03.12
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にほんブログ村 ヨーロッパで普及が遅れたジャガイモ。しかし、後にジャガイモは見直される様になりました。それはジャガイモが、飢饉の対策に有効だったからです。ジャガイモは比較的寒冷で、荒れた土地でも育ちます。さらに収穫までの期間も短く、多くの食料を確保できます。さらにヨーロッパは戦乱が多く、畑もしばしば踏み荒らされました。その際も地中にあるジャガイモは、ある程度の収穫を得ることができました。フランスでも、飢饉対策としてジャガイモが注目されました。そこで王室もジャガイモの普及に画策しました。ある日、貴族を集めた舞踏会に、マリーアントワネットが参列した時、彼女の髪は知られていない花で飾られていました。そのマリーアントワネットの髪飾りは、ジャガイモの花でした。「ジャガイモの花」たちまちジャガイモの花は、貴族の憧れの花になりました。貴族たちは、争う様にジャガイモの栽培を始めました。当然の様に、街の人々もジャガイモを求める様になりました。王宮はジャガイモ庭園を作りました。そして日中は庭園を厳重に警備させ、国民の注目を集めました。しかし夜間はわざと無警戒にし、ジャガイモを盗ませました。こうした王室の努力もあり、ジャガイモはフランスに普及しました。その結果、フランス国民は飢餓から救われるようになりました。マリーアントワネットは国民の飢餓を憂い、その救済にも努めました。しかし、不運な誤解と急進派の暴走からフランス革命が勃発。国民の飢餓を救ったマリーアントワネットは、断頭台の露と消えました。【 2023年 ロイヤルコペンハーゲン イヤープレート 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.12.28
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にほんブログ村 ジャガイモは、南アメリカ大陸が原産地。そのため、ヨーロッパにジャガイモが持ち込まれたのは16世紀になってからでした。寒冷で飢饉が多かったドイツ以外では、ジャガイモの普及は遅れました。大きな理由は、ジャガイモの調理法を知らなかったからです。今日では誰もが知るうように、ジャガイモの芽は有毒です。しかし、当時は王室の調理師さえ、それを知りませんでした。そのため、エリザベス1世までもが芽を食べて、食中毒になりました。その結果、イギリスでもジャガイモの普及は遅れました。度重なる食中毒。そして魔女裁判が盛んな頃、ついにジャガイモも裁判にかけられました。「被告ジャガイモは有罪。」判決はあっさりと下されました。罪状と刑罰は次の通りでした。「ジャガイモは種イモのみで子孫を残す。 これは雌雄で子孫を残すという神の定めに反し、 極めて不純で悪魔的である。 よって、火あぶりの刑に処す。」かわいそうなジャガイモは、今日でも許されていません。今日もジャガイモは、焼かれ、ゆでられ、油で揚げられて、人に食われる刑罰に遭い続けているのです。【 2023年 バカラ うさぎ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.12.26
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にほんブログ村 震災後、地名に注目されたことがありました。震災では、宮城県石巻市も大きな被害を受けました。その被災した小学校があったのが、石巻市釜谷でした。つまり、「かま」(かまれた様な凹んだ地形)と「谷」です。水害に弱い地域を示す地名でした。他にっも、岩手県釜石市や宮城県塩竃市、いずれもリアス式海岸の凹んだ地域にあります。水難の危険を示す地名は、東北に限りません。有名なのは「鎌倉市」です。「鎌倉」の「かま」は凹み、「くら」は谷を示します。実際、鎌倉は何度も地震や津波で被災しました。地名には先人からの教えがあります。特に神社は災害除けとして、被災地との境界に建てられることもよくあります。皆さんも地名とハザードマップを見比べて。災害時の避難場所や経路をご確認ください。【 健康のためには冬は加湿 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.12.12
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にほんブログ村 16世紀、インカ帝国は168名のスペイン人によって滅ぼされました。その滅亡の理由は諸説あります。その中で大きな原因として「天然痘」が考えられています。スペイン人はインカに天然痘ウイルスをもたらしました。免疫がないインカ人は、瞬く間に天然痘に感染。数年間で人口の60〜90%が死亡したと言われます。その数は900万〜1440万人にも及びます。(画像出典: Wikipedia)現在では天然痘にはワクチンがあります。そして今、私達もワクチンを盾に、ウイルスと戦っています。現代の私達がウイルスに勝利するか否か。その答えは、まだ出ません。この戦いは、まだ終わってはいないのですから。・・・・・・・・・風とケーナさんは、インカを舞台に小説を連載されています。【リンク】 「風とケーナさん」 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.10.22
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にほんブログ村 お休みは、郷土史を調べるのも良いでしょう。以前、愛知県岡崎市最古の石灯篭と、それに関連した馬頭観音を取り上げたのを覚えておられるでしょうか?いずれも塩問屋 国分家の関連でした。その後、調べると国分家は西三河で有力な塩問屋だったとわかりました。江戸時代、岡崎には7軒の塩問屋があり、西三河の塩の専売権を持っていました。当時、一色町、吉良町、蒲郡市には塩田地帯がありました。岡崎の塩問屋は、それらの仕入れの独占権を持っていました。塩問屋は矢作川を使い船で塩を運びました。その後は陸路を、馬を使って塩を運びました。この経路は「塩の道」として今に伝わります。塩問屋が塩を独占した背景には、徳川家康の権威がありました。1575年に家康に専売権を認められた。それが岡崎塩問屋の主張でしたが、専売権を示す書面もなく、怪しいものでした。三河の製塩については、トンカツ1188さんが書かれています。写真付きの製塩の実演ですから、ぜひご覧ください。【トンカツ1188さん】 「愛知県西尾市 吉良饗庭塩の里」【 天然塩あまび 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.08.11
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にほんブログ村 1584年4月9日、今から438年前。長久手合戦により、多くの命が奪われました。写真は、その供養のための首塚です。首塚は、愛知県長久手市にあります。首塚は、安昌寺の雲山和尚が、村人と協力して築きました。「長久手市 安昌寺」この首塚には、戦死者が敵味方の区別なく葬られました。死ねば敵も味方も区別はありません。そこにあるのは、戦争という愚行に翻弄された、犠牲者たちの涙です。【 日本刀 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村 にほんブログ村 1584年4月9日、今から438年前。長久手合戦により、多くの命が奪われました。写真は、その供養のための首塚です。首塚は、愛知県長久手市にあります。首塚は、安昌寺の雲山和尚が、村人と協力して築きました。「長久手市 安昌寺」この首塚には、戦死者が敵味方の区別なく葬られました。死ねば敵も味方も区別はありません。そこにあるのは、戦争という愚行に翻弄された、犠牲者たちの涙です。【 日本刀 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.04.09
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にほんブログ村 始めてしまった戦争は、簡単には止められない。今のウクライナ侵攻をみれば、それがよくわかります。如何なる理由があっても、戦争は始めてはなりません。高い政治手腕で長期政権を維持してきたプーチンですが、今では彼の評価は地に落ちました。「現代のヒトラー」、それが今の彼の呼び名です。さらに揶揄して「プトラ―」と呼ぶのも目にしますが、戦争の悲劇を茶化すようで、相応しくありません。今起きているのは、戦争犯罪なのですから。国家の指導者の判断ミスだけで、容易に戦争は始まってしまう。今回のウクライナ侵攻で、平和が如何に脆いかを痛感しました。みなさんは、さらに大きな悲劇があり得たことにお気づきでしょうか?もし、あの選挙でバイデンではなく、トランプが米国大統領に再選されていたならば・・・。今頃、世界はどうなっていたことでしょう?(画像: Wikipedia)※ ウクライナ問題は、現在、ザビ神父さんが連載中です。 「ザビ神父」【 未来を占う 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.03.20
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にほんブログ村 屋根瓦の上にも置かれる、鍾馗(しょうき)様。鍾馗様は、中国の伝説に現れます。鍾馗様には、病気を招く鬼を退治する力があります。そのため、鍾馗様は、疫病除けの浮世絵にも描かれました。「麻疹疫病除」 歌川芳艶 文久2年(1862年) フィラディルフィア美術館所蔵特に、赤絵の鍾馗様には、強い疫病除けの力があるとされました。赤色が意味するのは、疱瘡(天然痘)。「中村芝翫九変化ノ内 朱鍾馗」 歌川国貞 天保4年(1833年) ボストン美術館蔵当時、天然痘には治癒法がなく、人々はただ願うしかありませんでした。「七変化之内 朱しょうき 関三十郎」 歌川豊国 ボストン美術館蔵私達もこのパンデミックを克服し、次の時代にバトンをつなぎたい。そしてその時、私達は朱鍾馗の代わりに、何を残せるのだろう。【 赤べこの赤色も、天然痘除けの赤 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.03.04
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にほんブログ村 ファイザー・ワクチン接種3回目、終えました。接種1回目こそ腕の痛み程度はありましたが、2回目,3回目と、副反応どころか、腕の痛みすらありません。ワクチンが効いているのか不安にすらなります。現代は、ワクチンがあるので救われます。かつて、疫病の流行では、様々な民間療法が広まりました。次の浮世絵は、麻疹(はしか)の流行を描いた絵です。「麻疹を軽くする伝」 歌川芳宗 文久2年(1862年) ボストン美術館蔵この浮世絵では、麻疹治療に対して下記が書かれています。食べて良いもの: かんぴょう,どじょう,さつまいも,ながいも,あずき, こんぶ,ひじき,・・・・悪いもの: 入湯75日間,酒75日間,そら豆,さといも,ねぎ,さとう, ・・・・なぜ、さといもだけ駄目なのか?砂糖はむしろ良いのでは?怪しさのある民間治療法です。つくづく、医療技術が進歩した現代で良かったと思います。【 マスクに付ける ワクチン接種済みバッジ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.03.02
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にほんブログ村 1877年(明治10年頃)、夜空に赤く輝く星が現れました。まさに時代は、西南戦争の混乱期。人々の間に、次の様な噂が広まりました。「あの赤い星の中に、陸軍大将の正装をした西郷隆盛の姿が見えた。」そしてその星は「西郷星」と呼ばれました。(Wikipedia)西郷星は浮世絵に描かれ、さらに話題になりました。そして西郷星に願えば願いが叶うと評判にもなりました。浮世絵にも、人々が勝手な願いを西郷星に託す様子が描かれています。(平塚市博物館: 永島辰五郎(歌川芳虎)画 千葉私立郷土博物館蔵)今日では、西郷星は火星であったと分かっています。まさにこの時、火星が地球に大接近したのです。(太田記念美術館所蔵)御霊神社や天満宮など、日本では不運な最期となった人物を祀る風習があります。それは”たたり”を恐れるためですが、いつしか祀られた人物に異能の力があるという信仰に変わります。西郷星も同じ感覚だったのでしょう。(朝日新聞デジタル 鹿児島市立美術館所蔵)今でも鹿児島では、火星を西郷星と呼ぶそうです。【 プラネットボール 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.02.17
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にほんブログ村 先日のクイズには、たくさんの回答を頂き、ありがとうざいました。愛知県高浜市の芳川神明社の境内にある球体。初めは私も正体がわかりませんでした。ただ後に、愛知県の文化財に関する、図書館の本で知りました。みなさんのコメントにも、正解がありました。そのコメントはこちら。「これは、ダイキライなキライだすな。」 (悠々愛々 さん)一見して正解バレしないように、カタカナで書く配慮。瞬時に正解を見抜く、博識ぶり。そして最高のギャクセンス。悠々愛々さん、正解おめでとうございます。正解のお祝いは、上記の”ほめ殺し”でした。謎の球体は、海の地雷「機雷」でした。その他にも、「軍事関係」や「ブイ」など、ニアピン賞もありました。”争い”をテーマにした「GANTZ」は、軍事関係のヒントでした。文献では、この機雷は次のように説明されています。「海軍省 下附水雷罐 昭和11年3月」神社には、軍事関係品の奉納もよくあります。これらの軍事関係品は、なぜここにあるのでしょう。一つは、戦時中なら、戦勝祈願でしょう。そして私が想う、奉納者の想い。それは、戦争で失われた尊い命への鎮魂と、兵器が不要な世界であれと願い続けた、平和への想い。【 機雷 プラモデル 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.02.13
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にほんブログ村 昨年、土偶の記念切手が出ていたことを知りました。有名な土偶には愛称があります。切手には愛称は書かれていませんが、愛称とともに切手を紹介しましょう。そして、せっかくですから人気投票です。①~⑤で、好きな土偶に投票をお願いします。①縄文のビーナス(長野県)②中空土偶(北海道)③合掌土偶(青森県)④縄文の女神(山形県)⑤仮面の女神(長野県)(画像出典: 郵便局 H.P.)女性、特に妊婦を模したという土偶。みなさんは、どれがお気に入りでしょうか?【 スマホケース 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2021.10.29
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にほんブログ村 以前に撮影した土偶の写真を眺めていました。せっかくですので、有名な土偶を紹介しましょう。【遮光器土偶】眼がサングラス(遮光器)の様に見える土偶。遮光器土偶は幾つもありますが、これはそのひとつ。女性の表現は納得ですが、眼は謎。宇宙人説まである、話題性の高い土偶です。この遮光器土偶には、何かほのぼのした感じがあります。【みみずく土偶】茨城県立木貝塚出土の土偶。その姿から、ミミズクに例えられます。実際は、耳飾りや櫛で髪を巻いた女性と考えられます。縄文時代の女性もおしゃれだったのでしょう。それをミミズクとは失礼!【ハート形土偶】群馬県我妻郡出土の土偶。美しいとしか言いようがない、デフォルメされた造形。芸術的な土偶を、縄文人が作り得たことが驚きです。こうして写真を見ていると、久しぶりに博物館に行きたくなりました。【 スタンプ ハート形土偶 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2021.10.27
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にほんブログ村 古い写真を整理していると「踏み絵」の写真がありました。踏み絵も時代とともに、形骸化していきました。やがて踏み絵は年中行事となり、正月に行われるイベントとなりました。特に写真の様な「真鍮踏み絵」は奉行所が発注して作らせた心が込められていない「工芸品」にすぎませんでした。つまり真鍮踏み絵は信仰の対象ではなく、これらを踏む信者も負担が軽く、ただの年中行事として参加したと伝わります。「真鍮踏み絵 キリスト像」 (1669年 長崎奉行所発注、 荻原裕佐作)「真鍮踏み絵 聖母子像」 (1669年 長崎奉行所発注、 荻原裕佐作)「真鍮踏み絵 キリスト像」 (1669年 長崎奉行所発注、 荻原裕佐作)「真鍮踏み絵 ピエタ」 (1669年 長崎奉行所発注、 荻原裕佐作)まさにこれらの踏み絵は、同じ作者の多量製作による工芸品です。宗教弾圧さえも、年中行事として流してしまう。日本人のこの”明るさ”が、幾たびもの苦難を乗り越えてくるための秘訣だったのかもしれません。【 天空のチーズケーキ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2021.09.01
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にほんブログ村 奈良県の唐古・鍵遺跡が地域に受け入れられた証。それはゆるキャラに見ることができます。これはゆるキャラの「楼閣くん」。( 参考:田原本町 唐古・鍵 総合サイト )遺跡の楼閣と比べて見ましょう。くるくるした屋根飾りがアクセントです。文化財がゆるキャラになる例は、他にもあります。例えば、奈良県王寺町のゆるキャラ「雪丸」。雪丸は聖徳太子の愛犬です。雪丸は、なんと人語を解したと伝わります。奈良県王寺町の達磨寺に雪丸像はあります。ゆるキャラ「雪丸」はこちら。(参考:王寺町総務部政策推進課 資料)ゆるキャラ「雪丸」デビューの日、公開地の達磨寺に私も行きました。雪丸のステッカーなどを頂き、ブログでも記事を書きました。その際は、四本脚では着ぐるみにし難いと書きました。後の着ぐるみ化では、雪丸はやはり2足歩行になっていました。以下、雪丸デビューの日(2011年5月11日)、達磨寺で撮影した写真。感染症の流行もあり、下火になってしまったゆるキャラ。今後はYouTubeやSNSが、街のPRの主役になるのかもしれません。町興しが、どの様な形でもかまいません。ただ結果として、文化財が保護され、愛されれば十分です。【 三輪そうめん みわのにじ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2021.08.19
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にほんブログ村 奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡。これは弥生時代の環濠集落跡です。写真の楼閣は、土器片に残されたわずかな線刻から復元されました。くるっと巻き込んだ屋根飾りも、土器片を参考にした復元品です。( 参考:唐古・鍵 考古学ミュージアム H.P. )この遺跡は1936年(昭和11年)の道路工事中に発見されました。そのため発掘調査が行われ、地元住民が期待していた道路工事は中断。発掘調査に対して、住民の猛烈な抗議活動があったことは有名です。初めは住民による遺跡破壊から、遺跡を守ろうとしましたが失敗。そこで住民を雇用して発掘活動を行いましたが、やはり失敗。調査団の目の前で、住民が大きな土器を粉砕破壊するなどの破壊が続きました。長い月日がかかりましたが、住民にも遺跡の重要性が理解されました。今では、観光遺跡として整備され、資料館やカラーマンホールなどもあります。遺跡発掘や保護は、地域住民の負担となります。より良い保護のためには、辛抱強い理解活動が必要です。【 はにわぷりん 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2021.08.15
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にほんブログ村 戦時中の資材不足を補うための金属供出。その痕跡として、寺院のコンクリート製の梵鐘などをとりあげてきました。しかし金属供出の象徴といえば、東京上野公園の上野大仏ではないかと思います。上野大仏は金属供出で体は失われ、お顔のみが残されました。お顔は公園内の丘(大仏山)の上にあります。丘の上には祈願塔もある静かな場所。体を失ったことで、大仏様のお顔を近くで見ることができます。丘の上は、公園内の喧騒とは別世界。日常とは切り離された世界があります。上野大仏は再建されることがなく、今日に至ります。お顔のみとなった大仏様は、戦争という大きな過ちへの戒めです。体を失っても、穏やかな表情の大仏様。自己犠牲の尊さ、上野大仏様は身をもって、私たちにその意味を語りかけてきます。【 ピースマーク 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2021.08.12
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にほんブログ村 1550年6月20日、戦国武将の筒井順昭は他界しました。しかし、跡継ぎの筒井順慶はこの時、まだ幼く混乱が予想されました。「筒井順昭」 (画像: Wikipedia)そこで、盲人の木阿弥を、順昭の影武者に仕立てました。木阿弥の声が順昭に似ていたからです。木阿弥は、床に就いて顔を隠し、順昭の代わりを務めます。一方でぜいたくな暮らしを送ることができました。「木阿弥」 (画像: http://hiki0506.jugem.jp/?eid=29)しかし、時が過ぎ、筒井順慶が成長。順慶で統率が取れると判断されると、順昭の死が発表されました。すると影武者は不要となり、木阿弥は元の生活に戻されました。これが「元の木阿弥」の由来と言われます。声が似ているという、才能を与えられた木阿弥。しかしチャンスを生かす努力と工夫がなければ、それも結局、元の木阿弥。【 手筒まんじゅう 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2021.06.19
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にほんブログ村 この墓は、美濃国加賀野井城主 加賀野井弥八郎重茂の墓です。関ケ原の合戦の直前、加賀野井は石田三成の命で、徳川家康の暗殺に、関東に行きました。しかし暗殺の機会なく、帰路、徳川方の浜松城主、堀尾吉晴に出会います。加賀野井は、堀尾と愛知県知立市で酒宴。その際に、加賀野井は同席していた徳川方の刈谷城主 水野忠重を斬り殺しました。きっかけは、些細な口論であったと言われます。さらに、加賀野井は堀尾にも斬りかかりましたが、逆に切り殺されました。その加賀野井の墓は、愛知県知立市の宝蔵寺にあります。こちらは追腹塚(おいばらつか)。暗殺された、水野忠重の付き人ふたりの墓です。主君を守れなかった責任を負い、ふたりは切腹となりました。ふたりの墓も、宝蔵寺にあります。敵対する者同士が、同じ寺に墓があります。ふたりはさぞや、無念なことでしょう。さらに、後日談があります。関ケ原の合戦後、加賀野井弥八郎重茂の子は、大垣城に籠城しました。そして大垣城は落城。加賀野井弥八郎重茂の子は、水野忠重の子の水野勝成に処刑されたと伝わります。父の敵討ちということなのでしょう。【 抹茶菓子 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2021.06.05
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にほんブログ村 愛知県知立市。古くから東海道の要所であったこの地には、当時を偲ばせる物も多くあります。歌川広重は「五十三次名所図会」で、池鯉鮒(現在の知立市)を描きました。(画像出典: 国立国会図書館デジタルコレクション)この浮世絵に描かれた松が、次のクロマツと言われます。この松は「根上りの松」と言われます。松の樹齢は推定600年。鎌倉街道沿いにあります。浮世絵の中の松が、今も生きている。植物のたくましさに、今更ながら感動していました。・・・・・・・・・・・・・・・・【 日本橋 】 にほんブログ村
2021.02.26
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愛知県小牧市の岩崎山。この場所で偶然、市指定有形文化財の切支丹(キリシタン)灯籠に出会いました。石柱の形は十字架を、石柱下の人物像はマリア像とのことです。この岩崎の地では、1663~1667年に男女17人の切支丹宗門者が捕らえられました。宗教弾圧の哀しい歴史。現代のクリスマス。その自由こそが、幸せの証です。【キリシタン灯籠 ①】 「愛知県知多郡東浦町のキリシタン灯籠」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・※ ロイヤルコペンハーゲン クリスマスシリーズ【 2021 クリスマスプレート / フィギュリン 】 にほんブログ村
2020.12.23
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名古屋市内には3ヶ所で、ラジオ塔が保存されています。名古屋市中村区の中村公園(昭和17年)のラジオ塔は、先日ご紹介しました。【名古屋市のラジオ塔①】 「中村公園のラジオ塔(昭和17年)」 今回は、残り2か所をご紹介します。◆ 名古屋市北区 志賀公園(昭和17年)グランド傍の緑地にあります。紅葉の季節に訪れるのが良いでしょう。◆ 名古屋市中川区 松葉公園(昭和18年)こちらはグランド横の駐車場に隣接してあります。中村公園、志賀公園に比べると、目立たない場所にあります。役目を終えたラジオ塔。今はアナログ放送のテレビ塔が、役目を終えつつあります。かつてインターネットが、通信の主流だった時代があった。そういう時代も、いつか来るのでしょうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・※ 【動物雑貨】 ラジオ塔前で、ラジオ体操したのでしょうか【 ラジオ体操(関西弁) / 体操ブーブー(第1+第2) 】 にほんブログ村
2020.12.21
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かつて、各地にラジオ塔がありました。写真は名古屋市の中村公園に保存されている、ラジオ塔。昭和5年以降、市民がラジオ放送を聴けるように、ラジオ塔が設置されました。塔の上には、受信機とスピーカが置かれました。人々はこのラジオ塔の周囲に集まり、ラジオを聴きました。ラジオ塔が使われた頃、ラジオ塔の周囲には人と人の交流がありました。人々が集まる場であったラジオ塔も、今では使われることはありません。ラジオ、テレビ、インターネット。誰でも容易に情報を得られる時代になりました。そして社交の場も、バーチャルな世界へと変わりました。パンデミックにより、バーチャルでの交流が加速しています。リモートワークに、ネット飲み会。リアル世界での交流が薄れていきます。ラジオを聴くことすら楽しみに、そしてそこに交流があった日々。私達が失った、ひとの温かみを感じることができた日々。私達は、便利な生活に支えられ、かつてより豊かになりました。しかし、もしこのまま、リアルとバーチャルが反転するなら、私たちは本当に幸せでしょうか。・・・・・・・・・・・・・・リアルよりも、バーチャルよりも、夢の世界に。【 リヤドロ お月様のベッド / リヤドロ うたた寝 】 にほんブログ村
2020.12.02
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ご存知、徳川家の家紋、「三つ葉葵」です。写真は名古屋市の建中寺にある、徳川光友廟。三つ葉葵は初めから徳川家(松平家)の家紋ではありません。松平家が家臣の本多家か酒井家の家紋を譲り受けたといわれます。家紋にも譲渡はありました。家紋で面白いのは前田家の家紋。前田家の家紋は「加賀梅鉢」です。この家紋の別名を、剣梅鉢とも呼びます。 (画像出典: https://sengoku-his.com/766)前田家は徳川家に従いつつも、内心では反抗していました。その気持ちを家紋の中に、剣として描きました。次の写真は、金沢市で見た祠の瓦など。剣梅鉢の家紋は、一種の符丁でした。特に幕府に反意が強い武功派は剣梅鉢の剣を長くし、穏健的な文治派は梅鉢の剣を短くして示しました。かつて家紋には、家主の想いが込められていたのです。【なにかに使えそうな家紋タイル】にほんブログ村
2020.09.01
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にほんブログ村最近、キリシタン灯篭に疑問を持っています。変わった形の灯篭に、織部灯篭があります。そして隠れキリシタンが信仰の対象とした織部灯篭を、キリシタン灯篭と呼びます。織部灯篭の形が十字架を示し、地蔵の彫刻をマリア像に見立てたと言われます。灯篭に彫られた文字がキリスト教に関連するという説もあります。次の画像の灯篭は、現地でもキリシタン灯篭として紹介されています。しかしこの灯篭は、愛知県西尾市の片岡山華厳寺の墓地にあります。華厳寺は忠臣蔵で有名な吉良家の菩提寺。しかもこの灯篭は、吉良義定の墓前にあります。とても隠れキリシタンと関連あるとは思えません。以前、京都府の若宮八幡宮にある灯篭を紹介しました。この灯篭には十字架状の横長の石もあり、キリシタン灯篭ではないかと思います。次の画像は名古屋市の栄国寺にある灯篭。栄国寺は隠れキリシタン関連で有名なお寺。これはキリシタン灯篭と思って良いでしょう。キリシタン灯篭と呼ばれていても、全国には無関係な灯篭がある様に思います。その灯篭がキリシタン灯篭か否か。それを決めるのは、キリスト教信者がその灯篭を拝んだか否か。信者がその信仰を隠した以上、キリシタン灯篭の真実も解明されることはないのでしょう。【暑くなりました】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2020.07.12
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かつては日本の自動車でも3輪車が流行りました。3輪車の代表といえば、ダイハツ・ミゼット。【ダイハツ ミゼット DKⅡ型】1957年発売の ミゼット DKⅡ型。バイクの様なハンドルで一人乗り、ドアもありません。通称、バーハンドルミゼットです。249ccエンジンで8馬力、最高速度は6km/h。写真は以前に、お台場のMEGA WEBで撮影しました。【ダイハツ ミゼット DP5型】1959年発売のMP5型。通称、丸ハンドルミゼット。305ccエンジン、2人乗りでした。小回りが人気の3輪車ですが、3輪ゆえに不安定。小型軽量ですが、安っぽさもありました。その後の日本は経済成長。自動車も高級車指向となり、3輪車は消えていきました。今も続く、日本車の高級志向と大型化。トヨタの大衆車、ヴィッツあらため、ヤリスZ型ですら200万円超。GRヤリスなら、400万円。高額過ぎ、大きすぎる日本車は、今後もまだ売れ続けるのでしょうか?【ミゼット パトカー】
2020.07.10
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愛知県で古墳を話題にしたことはありませんでした。都市開発により、古墳の多くが破壊され、消滅していることが理由のひとつです。それでもこの地で、私の記憶に強く残っている古墳があります。それは泉田古墳という小さな古墳でした。この古墳では、2体の人骨が発掘されました。やはり工事で消滅する運命にありましたが、幸い移設保存されました。今は愛知県刈谷市の八王子神社の境内に移設されています。泉田古墳は、天井石がない古墳でした。そのため、石室は直接、土で埋まっています。古墳を覆う土の面を、私は不思議な気持ちで見つめていました。境内は子供たちの遊び場です。その日も子供たちは、境内で追い駆けっこをしていました。時には古墳の土面を踏んで子供は逃げますが、それもやむないことでしょう。実はこの古墳の土の中には、今も人骨が眠っています。移設時に保存を支援した人々は、この古墳に人骨を再び”埋葬”しました。やさしい配慮と言えますが、移設古墳の再埋葬は珍しい処置です。古墳は遺跡である前に墓である。その当たり前の事実に、私は違和感を拭えないでいました。【櫻子さんの足下には死体が埋まっている】
2020.06.04
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間もなく皆さんのお手元にも、お楽しみの”アレ”が届くことでしょう。何が届くか?もちろん、みなさんが待ちわびた”アベノマスク”です。なにしろ総予算、466億円もかけたマスクです。豪華絢爛なマスクに違いありません。豪華さを実感頂けるように、予算をグラフでまとめました。感染症予防のため、国立感染症研究所では、ほんの300人の人員で日々格闘しています。その年間予算は、わずか62億円。一方で、アベノマスクには、その約8倍と大盤振る舞い。補正予算で決まったコロナ対策費も、最も高額の「ウイルス等感染症対策技術の開発費」でも予算は110億円。アベノマスクの1/4にもなりません。コロナ対策の研究や治療薬の製造に予算を割くより、マスクの配布が国民のためになる。凡人にはない発想で、さすが賢い方々の考えることは違います。ただただ、感心するばかりです。補正予算の内容に興味がある方は、下記をご覧ください。〇 「令和2年度補正予算の事業概要」また、あまり良い比較ではありませんが、建設予算との比較でも分かりやすいかもしれません。アベノマスクは、スカイツリーや東京ドームより高額です。それをタダで国民に下さるのですから、ありがたい話です。新国立競技場の破格の建設費も気になりますが、賢い方々のお考えがあってのことでしょう。オリンピック、開催できると良いですね?アベノマスクを受注したのは、ユースビオ,横井定,興和,伊藤忠,マツオカ,シマトの6社。大半の企業が経営不振に苦しむ中、466億円の棚ぼた受注、おいしいですね。6社の企業名、しっかり記憶させて戴きました。新型コロナの影響で、レナウンも民事再生法の適用となりました。いよいよ、新型コロナの影響での大規模な連鎖倒産が始まりそうです。本当の苦しみは、これからかもしれません。でもご安心ください。皆さんのお手元には、アベノマスクが届きます。感染症予防のための研究費の数倍をかけて、マスクを配る国はありません。アベノマスクは、日本でしか手に入りません。アベノマスクを大切に。そして、令和の時代の貴重な遺産として、後の世まで永く伝えましょう!【マスクを額に飾ると、疫病除けになるかもしれません】
2020.05.16
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にほんブログ村岐阜県のさるぼぼが赤いのは、赤が魔除けになるから。これはご存知の方も多いと思います。サルボボの赤は疱瘡(天然痘)の感染を意味します。人々は赤い疫病を真似ることで疫病を支配し、疫病除けとしました。 (画像: ウィキペディアより)奈良県北葛城郡広陵町の鴨山古墳。古墳時代後期の古墳で、内部からは成人男性3名、女性2名、幼児2名の計7名分の人骨が発掘されました。多人数が埋葬された理由に、疫病が原因のだったとも言われています。なぜなら、この地域では珍しい”緑泥片岩”が石棺に使われているからです。疫病とは、やはり天然痘。天然痘の赤を、補色となる緑の石には抑え込む力があると信じられていました。信仰に頼るしかなかった時代も、人々は疫病を克服してきました。そして今や、天然痘は地球上から根絶されています。奈良県香芝市にある志都美神社。この神社の本殿背後の石垣に石碑があります。その石碑には『明治十二年八月 虎列拉病流行 氏子祈願無一人患者無人歡呼奉納』とあります。虎列拉病とは、疫病のコレラです。明治12年(1879)の8月、日本でコレラが大流行しました。明治になり関所が廃止され、人々の移動が自由になったのも大流行の理由と言われます。特にこの年のコレラでは、死者は10万人を超えました。この際にこの地の氏人は、氏神様に患者が出ないよう祈願しました。これはその結果、ひとりの患者も出なかったことの感謝を示した記念碑です。医学がまだ十分でなかった時代も、人々は疫病を克服してきました。そして日本では、今やコレラが流行することはありません。私達も現代の疫病に打ち勝ち、記念碑を建てるのも良いかもしれません。【さるぼぼ】 にほんブログ村
2020.05.11
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にほんブログ村 「いもかわうどん」をご存知でしょうか?芋川うどん(いもかわうどん)は、三河国芋川(現愛知県刈谷市)で名物だった平打ちのうどんだそうです。この写真は、いもかわうどん発祥の地を示す碑。愛知県刈谷市の洞隣寺の前にあります。それにしても、このポストは最近設置されたようです。なぜこんな場所にポストを設置したのでしょうか?郵政省さん、文化財保護の配慮がありませんね。 いもかわうどんは「東海道中膝栗毛」にも名物と記述があるそうです。いもかわうどんは、名古屋の「きしめん」の起源と言われます。さらに東京で平打ちうどんを「ひもかわ」と呼ぶそうですが、その語源とか。私はいもかわうどんどころか、東京の「ひもかわ」も知りませんでした。いもかわうどんを再現したお店から、いもかわうどんの画像をお借りしました。かなり幅広のうどんですね。(画像出典: https://kisan1999.jimdofree.com/)いつか食べてみましょうか。【楽天商品: これは「ひもかわ」】 にほんブログ村
2020.03.26
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にほんブログ村 秋田城は奈良時代の城柵。中国との国交で重要な役目を果たしました。秋田城といえば、水洗式トイレが有名。外部のスロープが、汚物を流す水洗路。トイレの下には沈殿槽があり、上澄みを流すことで水が流れ込む沼の汚染を緩和しました。個室は3個。内部には水瓶があります。トイレの内部には注意書きがあります。「ここは古代の水洗トイレを復元した施設です。 実際に使用して用をたすことはできません。 お急ぎの方は、西側道路に出て左手にある現代の水洗トイレをご使用ください。」幸い急いでいませんでしたので、注意書きを守ることができました。*****「楽天商品: 訳アリの理由は?」< ↓ ランキングクリックはこちらから >にほんブログ村
2019.09.21
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100円だと買わないのに、99円だと買ってしまう。不思議な人の心理ですね。99円や98円の端数で終わる、商品価格。この端数価格は、19世紀のアメリカで始まりました。しかし、そのねらいは販売数の増加ではありません。当時のアメリカでは、店員の現金管理に革命が起きていました。それはレジスターの普及の始まりです。レジスターは便利。しかし、お客から受け取った現金を、レジを使わずポケットに入れる店員も増えました。つまり、店員による窃盗の多発です。そこで店主は対策を考えました。それが商品価格末尾を99や98とする、端数価格の設定。端数価格では、店員はレジを使ってお釣りを出さなくてはなりません。するとレジで販売価格が記録され、店員による盗難が防止されます。しかし店主は、予想外の効果に気づきました。端数価格とすることで、商品の販売数が9%も増えたのです。盗難防止、売り上げアップ。99や98は、店主に幸せをもたらす魔法の数なのです。****「楽天商品 陶器ブログらしく”ねりこみ” 998円」
2019.05.29
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江戸時代の踏み絵を見る機会がありました。踏み絵はひとりに1度使われるだけではありません。地域によっては年中行事の様に、毎年踏ませる地域もありました。信者にはつらいことだったでしょう。一度我慢すれば良いわけではないですから。ただし、踏み絵は激しく減っています。大半の人には、踏み絵もお祭りの様なものだったのでしょう。宗教弾圧の悲しい歴史を伝える踏み絵。でもその向こうには、笑顔の村民の姿も見える気がしました。「下の踏み絵は楽天商品のレプリカ」
2019.02.07
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イスラエルで謎の石仮面が発見されました。同種の石仮面の発見はこれで16個目です。これらの石灰岩製の仮面は、9000年前の旧石器時代の遺物と考えられています。しかし一方で、石仮面の真贋を疑う声も多くあります。それは、これらの石化面は大半が個人のコレクションで、学術的には未調査。また、正確な発見地などが不明だからです。【石仮面 正面】※ 出典 National Geographic (PHOTOGRAPH BY CLARA AMIT, ISRAEL ANTIQUITIES AUTHORITY)側面には紐を通すためか、穴が開いています。【石仮面 正面】かつては中南米の遺物と言われた、クリスタル・スカル(水晶髑髏)。恐竜と人類が同時期を生きた証拠と言われた、メキシコの恐竜土偶。オーパーツともされたこれらは、ほぼ現代の捏造品と判明しています。この石仮面の真贋は分かりません。でも「謎の石仮面」の響きには魅力を感じます。「ジョジョの奇妙な冒険」の様に、石仮面をかぶっても吸血鬼にはならないでしょう。害はないと思うので、石仮面の謎は謎のままで良いのではないでしょうか。*
2018.12.16
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名古屋は全国でも地下街が多い地域と言われます。名古屋駅周辺に9箇所、栄周辺に3箇所の地下街があります。その中でも名古屋駅前の地下街「サンロード」は、日本初の本格的な地下街と言われます。サンロードができたのは、1957年3月でした。当時、名古屋駅前には多くのバスや自動車が流入し、歩行者には危険な地域した。そこで、歩行者が安全に通行できる地下道の建設が構想されました。しかし長い地下道は暗く不潔で、治安上も好ましくありません。そこで地下道に商店街を併設して、にぎやかで清潔、そして安全な地下道とすることになりました。こうして生まれたのが、日本初の地下街サンロードです。人々の安全を守り、そして楽しませる。さらには地域の商業を活性化させる。地下街は多くの夢を一度にかなえる、素晴らしい施設なのです。
2018.09.12
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平成12年の東海豪雨では、私も愛車を氾濫した水に流されました。それで、あの時の出来事はよく覚えています。東海豪雨では、床上浸水22,077世帯。床下浸水も40,401世帯の大規模なものでした。今回の西日本豪雨では、現時点では床上浸水9,915棟。床上浸水17,008棟と、東海豪雨より少ない集計値となっています。西日本豪雨から1週間。被災数は集計途中かもしれません。それでも意外なのは、東海豪雨では死者7名に留めることができたこと。西日本豪雨と東海豪雨の決定的な違いは何でしょうか。今回の西日本豪雨でも、私は被災地域で帰宅難民となっていました。今回もたしかに危機感は乏しかったかもしれませんが、東海豪雨の時と大きく違ったとは思えません。集計値でわかる大きな違いは、全壊家屋数にあるとわかります。東海豪雨の全壊数は、18棟。それに対して、西日本豪雨では401棟に及びます。この全壊数の違いが、西日本豪雨での大規模な人的被害につながったと考えられます。東海豪雨に比べて、西日本豪雨では家屋が全壊するほどの局所的な被害が発生しました。土石流の影響もあるでしょうが、この局所的な被災の大きさが今回の特徴に思えます。両者の豪雨の比較検証から、今後の防災対策が強化されることを願います。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災地の早期復興を祈念します。
2018.07.16
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今から35年前、1983年にミノルタカメラから発売された「エクステンダー」。小型カメラ用のこの商品は、特許出願もされた世界初の自撮り棒です。しかし単なる棒として認識され、まったく普及しませんでした。カメラが重すぎ、自撮り棒に付けると不安定だったためでもあります。ついにはアメリカでの特許も失効し、「役立たずの発明品」として揶揄されました。ところが2013年、「セルカ棒」と呼ばれた自撮り棒が、韓国でブームになりました。そのきっかけは、自撮り棒がスマートフォンに使われたことでした。さらにはあれほど役立たずと言われたアメリカで、自撮り棒は2014年アメリカ・タイム誌の「ベスト発明品」のひとつに選ばれたのです。カメラに比べて小型軽量のスマートフォンなら、自撮り棒に付けても安定します。スマートフォンの急激な普及にも後押しされ、自撮り棒は人気商品になりました。自撮り棒がその価値を認められたきっかけは、スマートフォンという良き友を得たこと。物も、人も、良き友を得ることは、価値あることなのです。
2018.04.24
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食では誤った調理法が採られることがあります。例えば、ワインを甘くするために。ローマ時代のワインは、酸味が強すぎました。ワインの酸味を消すために、ローマ人はワインを鉛製の鍋で加熱しました。加熱によりワインに鉛が溶けると、酒石酸鉛ができます。この酒石酸鉛が甘いために、ワインが甘く変わります。もちろん、鉛は有毒です。残虐で知られるローマ皇帝ネロの性格は、鉛入りワインによる精神疾患の結果とも言われます。18世紀末頃の欧州でも、ワインに鉛は加えられました。この時代は、ワインに酸化鉛の粉を加えて飲む習慣がありました。その効果は、やはりワインを甘くするためです。この時代に、作曲家のベートーベンは生きました。彼が晩年に病魔に苦しんだのも、鉛中毒の結果とも言われます。誤った調理法、あなたは採用していませんか?【以前の日記】 「その数は 人を指す - 獣の数 666 -」 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2018.04.04
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なぜか謎と誤解がつきまとう、望遠鏡。望遠鏡の発明者がだれかは、実ははっきりしていません。最初に望遠鏡が歴史に記されたのは、イタリア人ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタの書物「博物史」。1589年のことでした。その後、1604年にオランダのミデルブルフの眼鏡職人、サハリアス・ヤンセンが望遠鏡を作りました。彼はイタリア人が持つ望遠鏡を真似て作ったと言われます。1608年には、ミデルブルフの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイが、望遠鏡の特許申請をしました。しかし、特許登録はされませんでした。望遠鏡を天体観測に活用したのは、ガリレオ・ガリレイ。ハンス・リッペルスハイの発明を知ったガリレオは、望遠鏡の原理を推測して自作しました。望遠鏡は天文学を進歩させましたが、もちろんガリレオは望遠鏡の発明者ではありません。真の望遠鏡の発明者は、いまだ謎のままです。ところで、ここに1枚の切手があります。 ※画像出典: http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-1232.htmlこれは、1903年に英領セントキッツ・ネイビスで発行された1シリング切手。望遠鏡を手にしたコロンブスが描かれています。この切手に描かれているのは、コロンブスがセントキッツ島を発見した様子です。それは、1493年のことでした。当然、この時代に望遠鏡はなく、この切手の図柄は間違いです。望遠鏡もなく、未知の海を大航海したコロンブス。そう思うと、冒険者としての彼の偉大さが、あらためてわかります。
2018.02.10
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映画の特殊映像の祖、ジョルジュ・メリエス。フランス人の彼は奇術師で、奇術専門劇場の支配人でもありました。彼に特撮映像が作れたのは、彼に奇術の知識があったからです。彼の代表作は、ヴェルヌ原作の「月世界旅行」。この作品はあまりに有名ですから、今回は別の作品を取り上げましょう。彼の「ゴム頭の男」は、コミカルな作品です。まずは、頭だけを撮影します。そのうえで頭をズームすると、頭が大きく脹れて見えます。周囲の撮影では、頭の場所を黒い背景にします。その背景に頭の映像を重ねることで、この作品が完成します。この特撮の手法は、まさに奇術。今日のコンピュータによるCGにはない工夫がありました。アイデア次第の特撮映像。CGのない時代の特撮は味があります。
2018.02.02
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2016年の熊本地震では、熊本城が大きな被害に遭いました。現在、熊本城は20年かけての修復工事中です。熊本城に限らず、日本各地の城は何度となく修復されてきました。例えば長野県の松本城でも、大きな修復工事がされました。明治時代の松本城の天守閣の写真をご覧ください。天守閣が大きく傾いているのがわかります。 (※ウィキペディア・フリーライセンス画像より)松本城が傾いたのは、明治時代になって放置されたためでした。明治時代には各地の城は無用の長物となり、荒廃した松本城は傾きました。明治36年、松本中学校校長の尽力により、松本城は修復されました。その修復は、天守閣に綱を掛け引っ張るという、乱暴な方法で行われました。そのために完全には傾きは取れず、1分だけ傾きが残ったそうです。明治以降の時代でも、城は地域の人々の心の支えとなりました。第二次世界大戦では、アメリカ軍が各地の城を空爆しました。城を破壊することで、日本人の戦意の喪失を狙ったのです。第二次世界大戦で焼失した城も、幾つかは再建されました。名古屋城など再建された城は、今も各地のシンボルとなっています。次にこの城が失われるのは、震災か、それとも戦乱か。各地で城を見ると、そう遠くはない時のことの様に思えます。壮大で、荘厳で、そこはかとなく危うい日本の城。各地の城が、いつまでも私たちの心の支えであり続けますように。
2017.12.03
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奈良では土蜘蛛(つちぐも)を祀った塚を見る機会もありました。土蜘蛛は妖怪ですが、塚があるのはなぜでしょうか。土蜘蛛の塚があるのは、土蜘蛛が実在したから。土蜘蛛も鬼も、当時の政権に従わない人達の呼び名でした。弾圧され、抹殺されたから、祟りを恐れて塚が築かれました。土蜘蛛は、しばしば浮世絵では愛らしく描かれます。妖怪といえども悪くはない。むしろ権力に対抗する力として、人々の好感を得ていたのでしょう。「新形三十六怪撰 源頼光土蜘蛛ヲ切ル図」(月岡芳年)(太田記念美術館HPより)次の選挙、何が起きることでしょう。選挙の時期になると、土蜘蛛や鬼のことを考えてしまいます。
2017.10.14
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中世の魔女狩りは無実の人々を巻き込みましたが、その悲劇は猫にも及びました。猫は魔女の手先とされ、大量の猫が虐殺されたのです。その後、ヨーロッパではペストが流行しました。このペストの流行は、ペスト菌を運ぶネズミを狩る猫が減ったためとも言われます。魔女狩りでの猫の虐殺は、ペストの流行として人の命を奪うこととなりました。因果応報。陰謀や虐殺、悪意のある行いは、それを行う者に返ります。正しく生きるその生き方は、貴方自身のためなのです。
2017.09.01
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天守にそびえる、金の鯱。金鯱には、瓦製と木製とがあります。瓦製の鯱は、素焼きの瓦に漆を塗って金箔を貼ったもの。広島城、岡山城、松本城などに例があります。木製の鯱は、木の鯱に金板を貼っています。名古屋城の他に、江戸城や大阪城にもあったと言われます。金箔貼りの瓦製と、金板貼りの木製の鯱。岡山城と名古屋城の復元品を例に、両者を比較してみましょう。以下の画像は、ともにウィキペディアのフリーライセンス画像から。まずは岡山城の瓦製の金鯱。次に名古屋城の金板貼り木製の金鯱。岡山城の金鯱は、いかにも瓦製らしい硬さを感じます。鬼瓦を連想させる造形です。名古屋城の金鯱は、造形に自由度があるように思えます。そのためか、金鯱が生き生きとしています。後年、瓦製より木製が好まれたのは、この造形の自由度からでしょう。金鯱は装飾のためばかりではなく、火災を防ぐ守り神として祀られました。シャチが海に住むことから、防火の力があると思われたからです。しかし、岡山城も名古屋城も、太平洋戦争の戦火に焼かれて失われました。金鯱も戦火までは防ぎませんでした。「我の役割は、自然災害での防火のみ。 愚かな人間が招く人災までは相手にしない。」金鯱に防火を問えば、きっとそう答えるでしょう。
2017.06.11
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水素は水の素、つまり「水を生むもの」という意味を持ちます。英語でも、ドイツ語でも、水素の意味は水を生むものです。気体としての水素の分離は、1766年にヘンリー・キャヴェンディッシュにより成功しました。水素はその軽さから、すぐに気球に利用されます。水素気球の有人飛行は、1783年のシャルルとニコラ=ルイ・ロベールによるものでした。その年、1783年は、熱気球でモンゴルフィエ兄弟が有人飛行に成功した年でもありました。同じ年に有人飛行に成功した、水素気球と熱気球。両者は競い合いますが、簡便さからその後しばらくは水素気球ばかりが使われるようになりました。水を生むのではなく、空飛ぶ夢を生み出した水素気球。水素気球は人々に夢を与え、しかし時には事故で人の命を奪いました。気球の実用性は薄れても、今再び、資源としての水素に注目が集まっています。21世紀の水素が夢の資源か、それとも危険な気体なのか。それは、水素を扱う、私達次第なのでしょう。・・・・・・・・・・・また、長く外出していました。しかし少しずつ、落ち着きつつあります。日記更新ペースの回復ももう少し。そう思いつつある、この頃です。
2017.06.01
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江戸時代の座頭と言えば、高利貸しでした。江戸時代、座頭は3,700人いました。そのうちの3,000人が高利貸しでした。座頭は、盲目の官名です。最高位の官位が検校、続いて別当、勾当。座頭はそれらに続く、最下位の官名でした。座頭から最高位の検校までは、72もの段階がありました。段階を上がる毎に、お金を収める必要がありました。座頭は出世のために、多額の資金を必要としたのです。資金集めのために、高利貸しを営む座頭。「座頭市」のような生活は、ほとんどの座頭が想定もしないことでした。出世を競うため、庶民から借金を取り立てる高利貸し。そんな世界は、想像もしたくありません。
2017.02.09
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岡っ引きは、十手を持ちません。十手を持つ岡っ引きは、時代劇だけの誤った描写です。そもそも岡っ引きは、役人ではありません。それどころか、岡っ引きの大半は前科者ややくざ者でした。犯罪の捜査では、裏社会に通じた岡っ引きを、同心が内密に雇ったのです。岡っ引きは、いわゆる情報屋に近い存在。岡っ引きは公認の役人ではありませんから、十手も持ちません。ただし同心の同行下では、特別に岡っ引きも十手を持つことが許されました。その際でも、房付きの十手は持てず、岡っ引きは房なし十手限定でした。それでも勝手に、私造の十手を持つ岡っ引きもいました。役人の権威を笠に、ゆすりを働く岡っ引きもいました。そのため、岡っ引き禁止令は、何度も出されていました。 闇社会の住人、岡っ引き。彼らは、権威の象徴の十手にあこがれました。権威は正しい者が行使すれば、強い統率力を生み出します。ふさわしくない者が持てば、権威は悪の温床にもなります。だから江戸幕府は、岡っ引きに十手を与えませんでした。権威を誰が持つべきか、江戸時代の役人は知っていました。それを知らないのは、現代の米国ばかりです。
2017.02.07
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第二次世界大戦で、勝敗を決した技術にレーダーがありました。敵の位置を的確に把握するレーダーは、イギリスが最初に軍用に開発しました。ドイツ空軍はその存在をレーダーで把握され、イギリス軍に迎撃されました。レーダーは、イギリスからアメリカに供与され、日本軍も苦しめました。アメリカ軍に動きを察知された日本軍は、幾度もの海戦で大敗を期しました。しかし、そのレーダーの基礎技術は、本来は日本で生まれました。それが、あの八木・宇田アンテナ。大正14年に日本で開発された八木・宇田アンテナは、指向性が高い画期的なアンテナでした。その完成度の高さは、今なお姿を変えず使われていることからもわかります。しかし、日本はその技術の重要性に気づけませんでした。一方で、イギリスはその高い指向性が、敵の位置の把握に役立つと見抜きます。イギリスは八木・宇田アンテナを利用して、すぐにVHFレーダーを完成させました。さらにレーダー技術をイギリスは進化させ、大戦に勝利します。日本で生まれた技術は、結果的には日本を苦しめました。価値を見出せない愚かさに、その罪はありました。目の前にある、なにげない価値に気づけない。それは、時には致命的な傷を残します。あなたの周りは、たくさんの”価値”で満ちています。見慣れたその価値に気づけたなら、あなたの明日は幸せです。【以前の日記】 「平和を目指し 手をたずさえて ― 八木・宇田アンテナ ―」
2016.11.14
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