わたしのこだわりブログ(仮)

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2009年08月06日
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カテゴリ: 偉人・画家・聖人


しかも、半分に切ってより長ーくなってしまいました。

オランダで生まれたとは言え、ゴッホの活動は、パリや主に南仏です。彼を援助してくれていた父親が亡くなると(32才の時)2度とオランダには戻っていません。
故郷オランダと言うより、「両親の懐に帰っていた。」のだと思います。
彼の画家としての足跡はフランスにあります。


フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)(1853年~1890年)
ポスト印象派あるいは、後期印象派の代表的画家ですが、生前に売れたのはたった一枚の絵(「赤いぶどう畑」プーシキン美術館)だけだったそうです。

下は、ゴッホ(36才)の肖像画です。フランス、オルセー美術館所蔵。
ゴッホ自画像
1889年(5月以降)に描かれたこの自画像はサン・レミのサン・ボール・ド・モゾール修道院兼精神病院で療養中に描いた最後の自画像とされています。写真が少し鮮やかに写り過ぎているようですが、自分を観察、分析するようなこの肖像画に、彼の気難しさと不穏な気配を感じます。落した右耳を見せないようにポーズがとられています。


祖父、父共に牧師だったそうです。貧しい村だったそうですが、牧師の息子としても、彼の親族にしても裕福なようで、(田舎の上流階級? )どちらかと言えばお坊ちゃま育ちだったようです。
生涯、常に誰かの援助を受けないと生計の立てられない人生を送っています。それは生まれついての脳の障害があったから? なのかもしれませんが・・。

仕事にしても、恋愛にしても三行半(みくだりはん)状態での失敗あるいは挫折の連続で、挫折の度に人生の方向を変え、最終的に画家に落ち着いたわけです。
他人とのトラブルが多く、(パリを出たのも喧嘩が発端)人とのコミニュケーションが苦手? また物に対する執着も強かった? 狂気的にのめり込む性質だったのか?
画家ゴーギャンとのトラブルは、画家として憧れ、崇拝し、同志としてあるいは友として愛した彼に三行半を突きつけられた事件でした。

パリで居られなくなり、南仏アルルに楽国(芸術家のコロニーの建設)を夢見て、1888年早春に着いた頃は明るい絵を描いています。それは、仲間(最終的にはゴーギャンのみ10月に到着)を待っている時です。ゴーギャンとの事件は1888年12月の事です。

下は、その頃描かれたアルルに借りた黄色い家の寝室です。フランス、オルセー美術館所蔵。(実物より発色が良すぎるかもしれません。)
アルルの寝室
1888年早春にアルルに着いてから、パリの仲間を待っている間ルンルン気分でゴッホは黄色の寝室を描いています。黄色の部屋の寝室の絵がアムステルダムのゴッホ美術館(撮影禁止)にあります。この青の部屋は塗り替えられたのではなくイメージの色なのでしょうか? この絵はオルセー美術館所蔵ですが、写真で撮ってきたので、来歴がわかりません。

最初の内はうまく行っていた関係は、束縛されるのが嫌いなゴーギャンをうっとうしがらせます。そもそもゴーギャンはテオ(ゴッホの弟)に頼まれて旅費をもらって来ていました。
事件は、「ゴッホがカミソリを持ってゴーギャンにかかっていった。」と言われています。結果ゴーギャンを傷つけられなかったゴッホは「自分の右耳をそぎ落とした。」と言われています。(が、「ゴーギャンが切ったのでは? 」と言う説もあるようです。)

恋愛どころか、死を意味するくらいのショックで傷が癒えても立ち直れず、より、精神的に不安定になり、奇行を行ったのでしょう。「狂人を監禁せよ」と言う地元住民80人の嘆願書により、病院に監禁されています。

エスパース・ヴァン・ゴッホ(Espace Van Gogh)

下は、アルルにある後世エスパース・ヴァン・ゴッホと名が付けられたゴッホの監禁されていた精神病院です。
エスパース・ゴッホ 1
おそらく1889年3月からサン・レミの精神病院(5月に入所)に自ら向かうまでに隔離されていた病院です。1989年に一般に開放されたらしいです。
この庭の、この角度で彼は絵を残してします。
エスパース・ゴッホ 2
ゴーギャンとの事件以降、発作は頻繁に・・てんかん、分裂症、生まれながらの脳への障害により精神は悪化していったと言われています。
(アブサン(薬草系のリキュール)の飲酒中毒が脳への負担を大きくしたとも言われています。)
下は、この庭に建てられた看板です。ここで、この絵が描かれたようです。本家はどこか不明です。
エスパース・ゴッホ 3
3ヶ月毎に起こるひきつけ、幻覚の発作を繰り返し、良くなる事はないながらも絵を描き続けてるので、ゴッホの作品は起伏の良い時と悪い時が一目で判ります。
この作品は精神に冷静さがもたれてきた退院前くらいなのではないでしょうか?

退院してすぐ、彼は決断し、自らサン・レミの病院に赴いています。
サン・レミの病院(1889年5月~1890年5月?)では、僅か1年あまりに200点もの作品を描いたといわれています。

1890年5月には、弟テオと共にオーヴェールに移り住んでいます。
精神も安定して筆が進んでいたようですが、テオの経済事情が悪くなり、心配したゴッホの病状は再び鬱期に入ります。
そして、拳銃で自ら胸を撃ち、2日後に弟テオの腕の中で亡くなったそうです。1890年7月29日(37才)

下は、最後の地、オーヴェール・シュル・オワーズで亡くなる前に描かれたオーヴェールの教会。1890年5~7月の間に制作。フランス、オルセー美術館所蔵。
オーヴェールの教会

ゴッホの紹介でたいてい使われる絵です。オーヴェールについたばかりの頃の作品かもしれません。
ゴッホの家の近くの教会であり、ゴッホと弟テオの墓の近くでもあるそうです。この教会のリアル写真があったはずですが、ネガ写真なので載せませんでした。

ゴッホ家の家系図は16世紀まで遡り、代々金銀細工師か、牧師の職であったそうです。画商となった弟テオの助けを受けながらの画業に入る前、16才で伯父の経営する画商の合併会社グーピル商会で画商として努め、24才の時にはロンドンで伝道師を志し、伝道師にもなれなかった彼は、結局画家の道を選択しています。
彼の血の環境は芸術か、聖職かへ進むべくあったのかもしれません。
が、精神の病は彼の人生を思うに進ませず、破綻させて行きます。それでも、そんな精神錯乱しながらも描いた個性ある特異な作品の評価は後世になって驚くべき評価額となって世間を驚かせています。(本人が知ったら卒倒するかも・・。)

せっかくアムステルダムに国立ゴッホ美術館があるのにそこの作品が載せられなくて残念です。でも、ぶっちゃけ私の記憶では、地味な絵(有名な絵はあまりない)しかなかったような・・。 (浮世絵にはまっていたのが判る作品はけっこうありました。)
良い絵は、アメリカ人に買われて海を渡っているのでは?
印象派の画家を最初に評価したのは、アメリカ人の富豪達ですから・・。






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Last updated  2009年08月06日 19時48分55秒
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