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タイトルを変更しました。これは次の「アジアと欧州を結ぶ交易路 」の序章となっています。 ラストに画家カラヴァッジオ (Caravaggio)について説明不足だったので追記もました。さて、そろそろ向き合わないといけない頃合いです。中断していた「アジアと欧州を結ぶ交易路 」シリーズですが、実質マゼラン隊の活躍までを紹介していましたから、ポルトガルからスペインが台頭してきたあたりで終わっていました。リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)一時はポルトガルとスペインにより独占されていた世界への航海事業ですが、1537年以降、大きく事情が変わり、世界への進出は早い者勝ちのサバイバル戦に突入していきます。その後、オランダが参入し、英国も大航海に参入。フランスも艦隊を持ち、欧州各国の東インド会社が林立する欧州勢によるアジアの植民地化が始まるのです。この情勢の変化については、すでに「マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図」の中、「サラゴサ条約線と教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)」で紹介していますが、教皇パウルス3世(Paulus III)(1468年~1549年)が1537年に公布した教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)が要因でした。教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)は1493年に発令されていた教皇勅書「インテル・カエテラ(Inter caetera)」を否定し、無効としたと言う内容です。これによりローマ教皇アレクサンデル6世(Alexander Ⅵ)(1431年~1503年)が決めたポルトガルとスペインの海洋進出の境界線となる「教皇子午線」が無効となったのでした。※ 1493年の教皇勅書は、海洋進出の先端を行っていたポルトガルとスペインの争いを止める為にローマ教皇による裁定として、ポルトガルは東へ、スペインは西へと領土の獲得を認めたもの。その境界の線が「教皇子午線」と呼ばれるものです。※ この教皇子午線を後に両国の話し合いで微妙にラインの位置を調整。それがトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)線です。そもそもこの境界線を設けるにいたった1493年の教皇勅書インテル・カエテラ(Inter caetera)は、実はスペイン王(カステーリャの王)からの申し出で、スペイン出身の教皇アレクサンデル6世(Alexander Ⅵ)を使いスペイン有利に動かした勅書だったようです。しかし、各国の海洋進出が始まるとそもそも「ポルトガルとスペインだけが世界の土地を獲得できる。」とする裁定は不公平だ。と言う苦情は当然の話。それが1537年の教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)の発令に至ったようです。そんなわけで、1537年以降、大航海時代は欧州各国が参戦しての第二章? に突入したのです。今後、どこまで書けるかは資料しだいです。現段階では白紙なので・・で、今回はまだ病み上がりの身。とは言え退院の報告だけと言うわけにはいかないので「アジアと欧州を結ぶ交易路 」のイントロのつもりで、次の大航海の覇者となるオランダの静物画から紹介しようかと思います。静物画? これは大航海がもたらした交易品の見本でもあるのです。大航海時代の静物画オランダの貿易を示した名画アメリカ大陸からの珍獣とブドウと黄金絵画のカキとオレンジ80年戦争終結後のオランダの快進撃ヴァニタス(vanitas)画カラヴァッジオ (Caravaggio)「stillevent」はオランダ語で「静物」。静物画は17世紀のオランダで確立した絵画と言われる。オランダ語で stillevent → 英語で still life「動かない生命 or 物言わぬ生命 or 静かな生命」 の意から 日本語では「静物」と和訳。しかし、フランス語では → Nature Morte「死せる自然」と、「静物」を意味しながらも解釈に違い(悪意)がある。これには、フランスやイタリアなどでは、静物画に対する評価が低かった。と言う背景があったらしい。昔から静物画の絵師はいたし、少ないながらもあるにはあったのですが、ジャンルとして確立したのがこの時代なのかもしれない。理由の一つがオランダはプロテスタント国であると言う事。つまりプロテスタント国なので宗教画が存在しない。それ故、オランダでは風俗画や静物画が生まれる土壌にあったと言う事です。今回紹介する絵は静物画でも、オランダならではの静物画と言える逸品です。また、それは当時のオランダを物語る絵画でもあるのです。オランダの貿易を示した名画今回はウイーン美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)で見つけたヤン・ターフィッツゾーン・デ・へーム (Jan Davidszoon de Heem) (1606年頃~1683/1684年)の静物画から。A Richly Laid Table with Parrots(オウムと豪華なテーブル) 1650年代一見、豪華な食卓。明らかにこれは王侯貴族や富裕な商人の食卓?はっきり言えばこれは自慢(じまん)とも言える絵画です。こんな豊かな、種類豊富な品がうちにはあるのですよ。と言う絵なのです。つまり、オランダがすでに海洋進出を果たして、「世界から素晴らしい逸品を集めて来た」と言う自慢の絵であり、同時にこんな品が手にいれられますよ。と言うセールスの意味もあるのです。アメリカ大陸からの珍獣とブドウと黄金大型インコカラフルな鳥は Red-and-green macaw(紅コンゴウインコ)。南米北部と中央部の森林や林地に広く生息するAra属(新熱帯のコンゴウインコ属)の中で最大の種。ペットとしてのみならず、肉用に狩猟もされていたらしい。はるばる大洋を越えて運ばれて来た大型のカラフルな鳥。珍品中の珍品である。しかも生きて運ばれてきた事は凄い事である。またその美しい色に魅了された事だろう。※ 近年は土地利用の変化によりアルゼンチンの生息域全体で絶滅されかけ、絶滅危惧種に指定されている。また、紅コンゴウインコは一般的に生涯にわたってつがいで行動するらしい。黄金絵画に描かれている黄金はもちろん南米からの品と思われる。むしろ南米を示唆する為に敢えてのせたのかも・・。オランダは当初スペインハプスブルグ家の統治下にあったから、オランダが最初に船を進めたのは南米であったと思われる。ブドウブドウであるが、これもまた輸入品であろう。スペインかポルトガルかフランスあたりから?ブドウの栽培には一定の温度が必要。近年は品種改良して北限が上がっているが、かつてはドイツが北限とされていた。オランダでも南のフランドル地方では10世紀頃にはワイン用のブドウ栽培はされていたらしいがかつてのフランドルは広域だったからね。※ ワインの産地ブルゴーニュもフランドルと合併して、かつてはフランドル公領であった。桃と生ハム絵画の桃もまたスペインかもしれない。丸い桃だから。では生ハムは?諸々スペインなのでスペイン産の生ハムやかもしれないが、私的にはイタリアのパルマの生ハムの方が優位。鍵のついた箱は、中に富がつまっている事を象徴としているのかも。こういう静物画は、描かれているモチーフの意味がよく言及されるものだ。特にヴァニタス(vanitas)と呼ばれる静物画はそのモチーフが象徴を持って暗示される事から、絵画事態の意味を言及しがちであるが、今回の「オウムと豪華なテーブル」のような単に持って要る物自慢のような静物画も存在する。ヒラガキの皿の手前の銀の容器は胡椒(こしょう)入れかも。つまりスパイスも輸入できます。アジア方面もお任せください。と言う意味かも。絵画のカキとオレンジ学名:Ostrea edulis 俗にヨーロッパヒラガキと呼ばれるカキで、分布域はノルウェー中部からモロッコ、特にブリテン島および地中海沿岸に生息しているカキ。絵画のヒラガキは現在は養殖され欧州の主流であるが、当時オランダには生息せず、これらは輸入品である。フランスブルターニュのブロン川(Belon River)が本場な事からブロン牡蠣(Belon oyster)とも呼ばれる。1950年代になってオランダは自国での養殖を試みたが失敗している。(その後自生)オレンジも同じく輸入品。オランダでは生産できないのだ。スペインからの輸入品と思われる。先にも触れたが、オランダは独立を果たすまで、長い間スペインの統治下にあったからだ。それにしてもオランダでは現在もオレンジは非常に人気のフルーツ。そのまま食すと言うより、主にジュースとして食す。スーパーにはオレンジと共にオレンジ絞りのマシンが必ず置いてある。80年戦争終結後のオランダの快進撃この絵の制作年は1650年代。この絵は80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)終結後に描かれたと推定される。80年戦争は結果的にオランダがスペイン・ハプスブルグ家支配から独立を果たした戦いであったが、戦争終結後も変わらず物流はあったのだろう。80年戦争については、以下で書いてます。リンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)独立の中心人物となるオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)については以下に。リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)この回もよかったら見てね。オラニエ公の屋敷と、オランダと日本の関係のきっかけとなったヤン・ヨーステン(Jan Joosten)の事にふれています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)オランダが30年戦争(1618年~1648年)でプロテスタント側として勝利し、神聖ローマ帝国からの離脱が認められた事。80年戦争で勝利し、ネーデルラント連邦共和国が国家として認められた事。これらはオランダの海洋進出の快進撃につながって行く。つまり、オランダの快進撃が始まるのはスペインからの独立後であり、ローマ・カトリックからの離脱後なのである。1603年、すでにオランダはジャワに商館を置いてアジア諸国との交易は始まっていた。国の独立とカトリックからの離脱はオランダと言う国が宗教にとらわれず、商魂たくましく、利益追求で商売を成功させる後押しになっている。ヴァニタス(vanitas)画ヴァニタス(vanitas)とはラテン語で虚しさを現す語。静物画の一つです。ウィキペディアには、「16世紀から17世紀にかけてフランドルやネーデルラントなどヨーロッパ北部で特に多く描かれた。」と書かれていますが、実は古代ローマの時代にはすでに存在していたのです。※ 以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権」の中、「古代のヴァニタス(vanitas)画」として紹介しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権ただし、内容はカトリックの時代のヴァニタス(vanitas)画と古代ローマ時代のヴァニタス画は全く意味が異なるのです。それは宗教の違いによる死生観が異なるからです。カトリックの時代のヴァニタス画を最初に描いたのはイタリアのカラヴァッジオ (Caravaggio)(1571年~1610年)かもしれません。バッカス(Bacchus) 1596年制作。ウィキメディアからかりました。所蔵 ウフィツィ美術館(フィレンツェ)バッカス(Bacchus)は、ローマ神話のお酒の神様。※ ギリシア神話のディオニューソス(Dionȳsos)。通常のバッカスならば、描かれるのはブドウのみ。彼は酒の神。ワインの神であるからだ。しかし、カゴの中には熟してはじけたザクロと虫食いのリンゴや腐りかけたフルーツなどもりだくさん。しかも、若い少年でバッカスを表現したカラヴァッジオ。しかも妙になまめかしく少年バッカスは誘っている。故に、そこには若さは一瞬のもの。すべては腐敗し、滅びゆくもの。喜びもまたつかのもの儚いもの。と言う暗示がこめられている。この絵は彼の後援者であった枢機卿の為に描いたとされる事から枢機卿に男色があったのか? と言う事も想像される。モデルは枢機卿のお気に入りか? あるいはカラヴァッジオ自身も男色だったので、彼の恋人がモデルの可能性もある。カラヴァッジオはこれ以前にもバッカスを描いているし、また少年がフルーツ籠を持つ絵も描いている。こだわったのは少年か? フルーツか? いずれも儚い生命だ。ところでカラヴァッジオは「花を描くことは人物を描くのと同じ価値がある」と言って静物画も描いている。その言葉通り、彼の静物画はまるで写真のような写実画となっている。さすがカラヴァッジオである。素行は悪かったが、絵の腕は一級品だった。果物籠(Basket of Fruit) 1595年~1596年頃制作。ウィキメディアからかりました。所蔵 アンブロジアーナ図書館以前デルフトのプリンセンホフ博物館で見つけたヴァニタス(vanitas)画を紹介しています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)一般的に中世以降のヴァニタス(vanitas)画が意図するのは、「人生の儚さ(はかなさ)、現世の虚しさ(むなしさ)を警告する寓意」が主である。カラヴァッジオ (Caravaggio)カラヴァッジオ (Caravaggio)(1571年~1610年)聖書をモチーフにした作品が多いイタリア、バロック期の画家。彼の描く聖人のドラマはどれも傑作で、本当に腕は素晴らしい画家であるし、彼の功績は諸々あるのだが、他の画家らの作品をけなしたり、破いたり、誰に対しても不品行で喧嘩っ早く、すぐに暴力事件を起こす問題児であった。その為、恨みで襲われる事もあったからか? 画家なのに常に武器を携帯し、ついにはそれで人を殺してしまう。パトロンらも彼をかばいきれなくなるとローマから逃走。ナポリに逃げ、次に地中海に浮かぶマルタ島に渡るが、ここでもマルタ騎士団といざこざを起こし投獄される。それを脱獄して今度はシチリア島に渡る。彼の後半生は逃亡の歴史だ。しかし、彼は行く先々で多数の名画を残している。シチリアでも素晴らしい作品をたくさん残している。逃亡中とは言え、彼は一流の画家、多額の謝礼を受け取れる仕事をあちこちでこなしているのだ。素行は悪いのに彼はカトリックの聖人像を多く描いているのだから驚く。教会の仕事が多いのだ。光と影の画家と言うとレンブラントが思い浮かぶ人は多いかもしれないが、そのレンブラントは実はカラヴァッジオをお手本にしている。しかもカラバッジオはリアリズムを追求する画家。「死せるキリスト」を描くのに、テレベ川に浮かんだ水死体をモデルに描いた。と言うとんでもエピソードが私に画家カラバッジオを印象づけた。美術館に行けば必ず確認する画家の1人となったのだ。たいていの大きな美術館には必ず所蔵されています。シチリアに9か月滞在し、またナポリに戻るが、最終的に恩赦を待ちローマに戻る予定であったらしい。が、ここで彼の消息は消える。途中熱病で亡くなったと言う知らせがローマに届いたらしい。本当に病死なのか? 殺されたのでは? 1610年7月18日に亡くなったと言う知らせ以外に情報はなく、遺骸がどこに埋葬されたかも不明なのだ。次回は、「アジアと欧州を結ぶ交易路 」シリーズ、オランダ編の予定。Back number 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2024年09月02日
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またまた遅くなりました。m(_ _;)m12月に突入したら色々忙しくなり、夜はパソコン前で居眠りしてました。コクトーは今回2冊読みなおし、1冊取り寄せ。ちょっと改編を出したかっただけなのに深堀してしまった。専門家がたくさん書いていらっしゃるので、素人の出る幕ではないですが、私なりの感想も入れてみました。フランスの、ど田舎のマントン(Menton)。とは言えそこはカンヌ、ニース、(モナコ)、マントンと続く南仏のコート・ダジュール(Cote d'Azur)に連なる街。地中海性気候で冬でもこそこ温かく陽光の明るい南仏海岸は、高級リゾート地である。以前「マルク・シャガール(Marc Chagall)1~3」の所で、シャガールやピカソがニース(Nice)やヴァンス(Vence・鷲の巣村)で同じ陶芸教室に通っていた事など紹介しましたが、明るい陽光を求めて画家や作家らがこぞって地中海に面した南仏に集まっているのです。シャガールはニースに自分の作品の美術館があったので、その近郊(サン・ポール・ド・ヴァンス)に永住。ジャン・コクトーも1950年以降、ニースのフェラ岬(サン ジャン カップ フェラ・Saint-Jean-Cap-Ferrat)の友人のヴィラを気に入り南仏には度々来ていた中、マントン(Menton)市の仕事やマントン市による要塞の提供で自身の美術館建設をする事になり、コクトーとマントン市の間には強い関係が生まれたのだ。マントン(Menton)にはコクトー自身が生前手掛けた古い要塞をアレンジした美術館の他に、近年造られた新美術館も存在。また、市長舎やヴィラなどの物件にコクトーの手掛けた絵画が存在し、名所となっています。コクトーもマントンに永住し、終の住みかになるのか? と思いきや、拠点(家)は俗にパリ地方と呼ばれるイル・ド・フランスのミリー・ラ・フォレ(Milly-la-Forêt)にあったのです。パリから50km。 コクトー自身の墓はそこにある。今回は、初期に出していたマントンの写真をまとめてジャン・コクトーの章を造り直した感じです。作品は追加していますが、近年できたコクトーの新美術館(2011年11月開館)やお墓の写真は観光局からお借りしました。※ 2011年11月、海沿いにできた新美術館は世界有数のコクトー・コレクターであるゼブラン・ワンダーマンのコレクション寄贈によってできた美術館だそうです。が、災害にあい、現在美術館は復旧工事で閉鎖中らしい。後で詳しく紹介。それにしても、マントンは本当に辺境です。近場の空港はニースですが、列車の場合、一度モナコに入り、再びフランスに入ると言う飛び地。しかもその向こう隣はイタリアの国境です。個人で行くのは便がとても悪いのです。ジャン・コクトー(Jean Cocteau)とマントン(Menton)何者? ジャン・コクトー略歴匿名小説 「白書(La Livre Blanc)」エッセイ? 「 阿片(Opium)」阿片ブーム到来?ジャック・マリタンへの手紙(Lettre à Jacques Maritain)フランスでは合法だった同性愛著作権問題ヴィラ・サント・ソスピール(Villa Santo Sospir)フランシス・パルメロ(Francis Palmero)マントン市長舎(Maire de Menton) 婚礼の間マントン・スタイル(style de Menton)フランス共和国の象徴 マリアンヌ(Marianne)の横顔ル・バスティオン(Le Bastion)(要塞)新 ジャン・コクトー美術館(Musee Jean Cocteau)晩年の恋人と終焉の地ミリー・ラ・フォレジャン・デボルト(Jean Desbordes)ジャン・マレー(Jean Marais)エドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)コクトーの終の住みかミリ・ラフォレ(Milly-la-Forêt)コクトーとマントン市の係わりの前に、ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)は何者か? を先に紹介。何者? ジャン・コクトー略歴正式名 ジャン・モリス・ウジェーヌ・クレマン・コクトー(Jean Maurice Eugène Clément Cocteau) (1889年~1963年10月)父は弁護士で、社会的に裕福な家で生まれたコクトーだが、父は彼が9歳の時にピストル自殺。それでもコクトーの家はブルジョアで、彼は母方の父(祖父)の元で育てられたらしい。1900年~1904年まではパリ9区にあるブルジョワジーの子弟が行く古くからの名門校リセ・コンドルセ(Le lycée Condorcet)(1804 年に開校)に通っていた。※ 金持ち校なのに寮は無い自宅通学の学校。※ 白書から推察するに、この頃学友と娼館通いもしていたようだ。15歳(1904年)で家を出た? 1人暮らしを始めた?19 歳(1909年)で最初の詩集「アラディンのランプ(Aladdin's Lamp)」を自費出版して詩人としてデビュー。1910年、詩集「浮かれ王子(Le Prince Frivole)」を発表。金持ちでイケメン? 社交界でも有名で、タイトルと同じく「浮かれ王子」として知られる事になる。 コクトーは、まず詩人としてデビューしたのである。ウィキメディアから借りました。1910年~1912年 ジャン・コクトーの肖像(Portrait de Jean Cocteau)画家 Federico de Madrazo y Ochoa(フェデリコ・デ・マドラソ・イ・オチョア)(1875年~1934年)※スペインの画家。彼はコクトーと共に1912 年、セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev)のバレエ団、「バレエ・リュス(Ballets Russes)」のバレエ「ル・デュー・ブルー(Le Dieu bleu )青い神(The Blue God)」に携わっている。20歳から22歳くらいの間に描かれた油性のポートレート。「浮かれ王子」の頃ですね。彼のイケメンぶりを示す意味で利用しました。※ この絵は著作権が期限切れであり、また提出者?が匿名であるため、パブリック ドメインとなっているとの事。調べたら1988年にオークションに出され落札されている絵でした。こちらはジャン・コクトーの美術館案内のサイトから借りました。リンク BIOGRAPHIE DE JEAN COCTEAU1929年、40歳? パリで撮影されたポートレート。撮影 ジェルメーヌ・クルル(Germaine Krull)(1897年~1985年)※ 第二次世界大戦前に、ドイツ、オランダ、フランスなどで活動したドイツ出身の女性写真家。写真提供? Germaine Krull Estate, Folkwand Museum下は、現在開催されているコクトー美術館でのイベント・ポスターから借りました。XPOSITION EN COURS - JE RESTE AVEC VOUS現在の展示 -「私はあなたのそばにいます」 2023年11月25日~2024年6月17日ポスターに使用された絵は1961 年 漁師と少女(pêcheur et la jeune fille)ポスターに記される「JE RESTE AVEC VOUS」「Je reste avec vous.(私はあなたのそばにいます)」はコクトーの墓碑に刻まれた彼の言葉らしい。コクトーは、詩人としての作品多数の他、小説や戯曲を書き、また映画の監督、脚本もこなす劇作家。デザイナーとしても活躍。彼の書くシンプルな個性的なイラストは作品の細部を伝えるだけでなく、コクトーらしい魅力ある人物が多い。特にこのマントンで創作されたマントンの恋人たち(les amoureux de Menton)のシリーズと、技法においては、マントンスタイル(style de Menton)を生み出した。※ マントンでコクトーが手掛けた恋人たちシリーズは「インナモラティ(Innamorati)」と呼ばれてもいますが、Innamoratiはイタリア語です。コクトーもマントンの街もフランスなのに・・。※ マントン・スタイルについては後で紹介。わが魂の告白の挿絵からわが魂の告白の挿絵からまた彼の交流、その人脈がすごい。20代前半、コクトーはマルセル・プルースト(Marcel Proust)、アンドレ・ジッド(André Gide)、モーリス・バレス(Maurice Barrès)などの大物作家と交流を持つだけでなく、バレエの関係者(ダンサー含)、印象派の画家らとも幅広く交流。※ 元々金持ち故、若いうちから社交界に出られたので人脈がより早く広がったのかも・・。詩や小説だけでなく、その才はバレエの演出や演劇、また映画などにも多数生かされている。特にバレエの舞台演出は多数の若手アーティストが共演していて、彼らは皆、出世している。先に書いたが、ロシアの興行師セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev)のバレエ団「バレエ・リュス(Ballets Russes)」の為のシナリオを書いてほしいとコクトーにお願い。1917年、「パレード(Parade)」が発表された。この作品はディアギレフがプロデュースし、舞台装置はピカソ(Picasso)、台本はアポリネール(Apollinaire)、音楽はエリック・サティ(Erik Satie)が担当する豪華な顔ぶれ。「バレエ・リュス(Ballets Russes)」に関しては、ココ・シャネル(Coco Chanel)やマリー・ローランサン(Marie Laurencin)、モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)、ジョルジュ・ブラック(Georges Braque)など画家以外の分野でもそうそうたるメンバーが名を連ねている。求龍堂版「阿片」の中のイラストから芸術のデパートと称されるくらいにその活動も才能も多岐にわたっているが、コクトー自身は何よりも、詩人として扱ってほしかったらしい。匿名小説 「白書(La Livre Blanc)」他に彼を特徴づけるのは、1928年、彼が匿名で、出版社さえ隠して出版した小説「白書(Le Livre Blanc)」。自身の性癖について告白するような自伝的な小説を38歳のコクトーが書いた。※ その時、彼の傍らには20歳の恋人ジャン・デボルト(Jean Desbordes)(1906年~1944年)がいた。限定21部? あくまで架空の小説を装っていて本人とは設定が多少異なるが、匿名でもすぐに身バレしたらしい。「白書」は、再販含めて、序文をコクトー自身が書き、コクトーのイラストが多数 使用されているにもかかわらず、どれにもコクトーの名前はサインされていない。つまり、はっきり自分の作品だとは最後まで認めていないらしい。日本では、1994年に山上昌子 氏訳で求龍堂から出版されている。イラストは法的に? ヤバ過ぎてどれも載せられません。エッセイ? 「 阿片(Opium)」また、彼は阿片(あへん)中毒で2度ほど入院している。1度目の入院療養(1925年3月 パリのテルム・ユルバン療養所 2度目の入院療養(1928年12月~1929年4月) サン・クルー療養院2度目の入院時の手慰みに書いたノートとメモしたイラストが「阿片(Opium)」のタイトルで1930年に発行された。告白と異なり、阿片や闘病の事など彼の感想や言いたい事などが単発的に書かれている詩のような、また手紙のような、ある時は日記のような療養所でのエピソードなど短編が集められている。最初はコクトー流の屁理屈が並ぶので頭に入らなったが、入院中の看護士らのエピソードや、また社交界での事なども綴られている。個人的にはコメディー・フランセーズの事、演劇論なども語られているところが興味。コクトー曰く、1909年頃の芸術家は大方が阿片を吸っていた。ただ人に言わなかっただけ。ただ、魂の指揮者なる神経中枢を阿片が犯す時、阿片は初めて悲劇的になる。さもない時、阿片は解毒剤であり、歓楽であり、大げさな午睡(シェスタ)だ。総じて、阿片はそんなに悪いものじゃない。使い方だと言ってるようだ。実際、2度の辛い中毒後、彼は阿片を表向きはやめたが、実は中毒の苦しみには3度会わないよう? 適当に軽微に注意しながら楽しんでいたらしい。1936年、彼が世界一周の旅で日本に来た時も、ホテルのバスルームで密かに慎ましく吸っていたのが、いじらしい。と堀口大學 氏が綴っている。そもそも彼が阿片中毒にまで陥った原因は、恋人レーモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)(1903年~1923年)の急死が原因であった。1918年、コクトー(29歳)はレーモン・ラディゲ(15歳)と出会う。コクトーは彼の才能を見い出し売る為の努力をおしまずラディゲの才能は開花を始めていた。しかし、ラディゲはあまりにも早い死を迎える事になる。1923年享年20歳。腸チフスで闘病中に急死短い人生の中でレイモン・ラディゲは作品を残している。18歳で小説「肉体の悪魔(Le Diable au corps)」20歳で長編小説「ドルジェル伯の舞踏会(Le Bal du comte d'Orgel)」※ 三島由紀夫は「少年時代の私の聖書」だったと言ったと言う。日本訳はやはり堀口大學 氏がおこなっているが、「ドルジェル伯の舞踏会(Le Bal du comte d'Orgel)」はそもそも構成中に亡くなっているので、普及版はコクトーらの手が加わった初版に基づいたものが発行されているそうだ。コクトーは恋人レーモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)(1903年~1923年)の死に耐え切れなくて苦しむので、見かねた友人が南仏の阿片窟に彼を連れて行ったらしい。レーモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)のポートレート?わが魂の告白の挿絵からMarcelle Meyer amb el jove poeta Raymond Radiguet (1921)マルセル・メイエと若い詩人レーモン・ラディゲこの写真はMarcelle Meyerのウィキメディアの方からお借りしました。18歳のレーモン・ラディゲ。※ マルセル・メイエ(Marcelle Meyer)(1897年~1958年)フランスのピアニスト。「悪魔のパンが差し出された。平生(へいぜい)なら東洋趣味を退ける僕なのに、この時は阿片と言う名の飛行絨毯(ひこう・じゅうたん)を選んだのだ。」コクトーはコクトーの言葉を借りると「眠りの世界に慰安を求めた」のだ。(ジャック・マリタンへの手紙から)こちらの日本訳は、コクトーと親しかった? 堀口大學 氏が訳を行っている。近々では改訂版を1994年に白書と同じ求龍堂から出版されている。そこには同じくサン・クルー療養院に入院中に書きなぐったデッサンとを集成した本となっている。ところで、二度目の中毒の時はすでに新しい恋人ジャン・デボルト(Jean Desbordes)(1906年~1944年)と同棲中である。1926年、コクトーはジャン・デボルト(20歳)を見た時、レーモン・ラディゲの再来を見たと言う。先にも書いたが、「白書」を執筆しながら、デボルトの推敲を手伝っている。つまり、彼は阿片により現実から逃避をしていただけ。本当にコクトーを救ったのは新恋人ジャン・デボルト(Jean Desbordes)の出現であったのだろう。彼は決心して? 自分の性の告白を綴る前出の白書(La Livre Blanc)を書き、匿名にせよ世に出した。が、彼を心配して見守り、かつコクトーを信仰で救おうとしていたジャック・マリタン(Jacques Maritain)(1882年~1973年)は神に反する行動に「悪魔の契約」と非難したと言う。タイトルや解説は一切ないのですが、阿片(あへん)を吸う中毒者を描いた挿絵を「阿片(Opium)」の本からお借りしました。コクトーが自身2度の阿片中毒で療養を余儀なくされていた時の作品。阿片を吸う時、コクトーは古びた竹筒のようなものを自ら用意して阿片を吸っていたと言うので、そのパイプを象徴として描いた作品のようです。パイプシリーズは阿片がテーマとなっているという事です。阿片の本からまさにこのように横になって吸引するようです。阿片の本から阿片中毒の親子?阿片の本からアヘン・阿片(opium)言うと私も阿片戦争くらいしか浮かびませんが、ケシの実から抽出するアルカロイド系の麻薬の一種で、医療や娯楽目的で古代から(紀元3000年前)利用されローマ帝国時代は鎮痛剤や睡眠剤としてすでに使用されていた薬用植物らしいです。ガンの鎮痛や麻酔などに使われるモルヒネ(morphine)がまさにケシからの抽出です。阿片の本から普通にハイになっているうちは良いが・・。中毒になると体中の関節に激痛、悪寒、嘔吐、失神を伴い、そんな禁断症状が続くと正常な精神活動を保てなくなり、やがて人格崩壊。 ショック状態から、こん睡状態、呼吸停止に至るらしい。阿片の本から末期のアヘン中毒患者がよく表されていまね。阿片ブーム到来?ローマの滅亡と共に一度すたれた阿片は十字軍時代に再び欧州に上陸。大航海時代にハーブ・スパイスだけでなく、阿片は重要な交易品だったそうです。インドを植民していた英国は阿片を中国(清国)に広めた元凶だ。皆が阿片に溺れ、その危機感から清国政府は英国の阿片を焼却。阿片戦争が勃発した。中国人に広められた阿片は、逆輸入? 三度欧州に戻り広まり始める。中国人らのコミュニティーから阿片窟(あへんくつ)が国内に誕生したらしい。彼は阿片と麻薬を分けていて「阿片は崇高な物」、「阿片は宗教にも似ている。」「阿片はその使用法の機微さえよろしきを得たら多くの霊魂に高翔の素地を準備する。」とまで言っている。ジャック・マリタンへの手紙(Lettre à Jacques Maritain)阿片中毒から退院した後に同性愛の事とか、阿片の事とか、心を入れ替え、キリストに帰依しようと心が揺れたらしい。同郷の友人でありキリスト教哲学者(神学者)ジャック・マリタン(Jacques Maritain)(1882年~1973年)は彼を心配して見守りつつ、信仰への道へ彼を導いていた。※ ジャック・マリタンはトマス・アクナイス哲学を復興させようとする中心人物。1913年、パリ・カトリック大学教授。1945年、バチカン市国大使。1925年、コクトーは心情を語り、ジャック・マリタンはそれに返答した。コクトーは「告解者」だ。マリタンは「聖体のパン」をアスピリンとして使うよう」コクトーに薦める。ジャック・マリタンとのやり取りは、「告解者」と「教夫」の関係だ。さながら手紙は、自らの罪を司祭に告白して神のゆるしを得る「告解(Confession)」の部屋の中のやりとりのようだ。コクトーは屁理屈屋だ。そしてうまい言葉で表現してはジャック・マリタンに自分を擁護する。ジャック・マリタンもそれを心得ているからコクトーの心は揺れたのだろう。ついにジャック・マリタンは奧の手、シャルル教夫をつかわした。・・とっさに僕は、シャルル教夫に備わるあの美しさの秘密を理解し、同時に「神様は永遠だから我慢強くいつまでもお待ちくださる。」との言葉を思い出した。・・・・・・僕があの時見たのは、人間の形をした祈りだった。生命や死後の生命に対する彼の意欲は、バラモンの苦行僧の無我の眠りを眠っていた。・・・・・一人の教夫が、ストラヴィンスキーやピカソと同じショックを僕に与えたのだった。こうして彼は、僕に神の存在を立証して見せた。ピカソとストラヴィンスキーは紙上にいろいろの傑作を誌す(しるす)ことはできるが、聖体のパンのみがシャルル教夫が僕に差し出す唯一の傑作だった。コクトーはキリスト聖心祭の日の朝、ジャック・マリタンの家の礼拝堂で、数人の親しい人々に見守られてシャルル・アンリオン教父によって聖体拝受を受けたのだ。その時、シャルル・アンリオン教父はコクトーに「自由になりなさい(Soyez libre)」と、言ったらしい。※ シャルル・アンリオン(Charles Henrion)(1887年~1969年) 1924年にチュニジアに向けて出発し、司祭に叙階。36年間砂漠にいて活動したらしい。この書の中ではレーモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)の事も書かれている。僕はあらかじめ十分用心していた。初めから僕にはラディゲは借り物なので。やがては返さなければならないとわかっていた。・・・都会で暮らしたその冬は悲惨だった。なぜ僕は、あんなに彼に嘆願したりしたのだろうか?なぜ僕は、自分の生活を変えたり彼に範を示そうとしたりしたのだろうか?借金、強い酒、不眠症、堆い汚れもの、ホテルからホテルへ犯罪の部屋から犯罪の部屋へのあわただしい生活。それらがみんな一緒になってラディゲの転身の原因になった。悲しい転身は1923年12月12日。ビキニ街の病院で行われた。レーモン・ラディゲは治療の甲斐なく、腸チフスで亡くなった。・・・ラディゲの死は、麻酔をかけずに僕を手術した。「天使がとって置いてくれた」教会の席に戻った・・と手紙に書き、1925年6月にはジャック・マリタンの勧めで前出、シャルル・アンリオン教父によって聖体拝受を受けた。一時は修道院にも入ろうとさえ考えた? 「白書」のラストでは修道院に入る予定で行ったのに、主人公は決別して帰っている。コクトーの教会への接近と離反。ジャック・マリタンを慕い、シャルル・アンリオン教父には確かに崇敬さえ感じたのは確かだろう。前出、シャルル・アンリオン教父はコクトーに「自由になりなさい(Soyez libre)」と言った。多分これは「魂の解放」が真意だったのではないか? と思われるが、コクトーはそうとらなかったのかもしれない。コクトーは欲望と言うよりは、自身の直観を運命として、自由に生きる事にしたのかもしれない。そもそも彼は芸術家だからね。自分を制御して信仰に生きるだけなんて、とうてい彼にはできなかったろう。刺激に満ちた人生こそが彼のインスピレーションの源だったと思えるし・・。神に背いたわけではないが、彼の自由は神の世界と相反する。でも、神はきっと許してくれる。と思ったのかもしれない。二人のやり取りは「ジャック・マクリタンへの手紙」として1926年発行されている。ジャック・マリタン(Jacques Maritain)に宛てた「芸術と信仰」についての手紙。英語版のタイトル「Art and Faith: Letters between Jacques Maritain and Jean Cocteau」日本訳のタイトル「ジャック・マリタンへの手紙」。同時期に出されたデッサン集「療養所」を加え、「ジャック・マリタンへの手紙」の改定版は「わが魂の告白」とタイトルされている。いずれも堀口大學 氏が訳している。フランスでは合法だった同性愛ところで、小説「白書(Le Livre Blanc)」で明らかになったのが、彼が同性愛嗜好であると言う事実。若い頃に娼館通いもしているので女性が全くダメだったわけではないだろうが、彼は自分に素直に生きた。葛藤があったのも確かだが・・。以前、ビアズリーとサロメ(Salomé)の時に紹介したオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)(1854年~1900年)は、同性愛ゆえに転落した。相手の親に訴訟を起こされ敗訴したのだ。英国とフランスは法律が違う。英国では同性愛は法的に犯罪であったが、フランスではラッキーな事に「ナポレオン法典」が同性愛を認めていたのだ。つまり、ナポレオン以降、フランスにおいては、英国のような犯罪として扱われる事はなかった。コクトー自身が、ナポレオン法典が長命な為に「この悪徳によって処刑場送りになる事はない。」と言っている。※ 今のフランスの民法は1804年にできた「ナポレオン法典」がほぼそのまま使われているらしい。「ナポレオン法典」を造った法律家が同性愛者だった事から? フランスでは犯罪にはされなかったようだ。※ 英国が「同性愛禁止を撤廃」するのは1967年。フランスから160年も遅れた。それにしてもカトリックでは、そもそも「子をなさない性交」は認められなかったから、カトリック一色の欧州では同性愛は表だっては難しかったはず。にもかかわらず、フランスでは1804年と言う早い時期に自由恋愛に踏み切っていたというのが凄すぎる。「白書(Le Livre Blanc)」の人物の恋愛模様を見ると、それが実際か? はわからないが、主人公が女性と恋人の取り合い? 複雑な三角関係が多い。実際のコクトーもそうだった? と読者が思っても不思議ではない。出会いも軽いし、かなりハチャメチャな性ライフが行われている。付属のイラスト描写は文章以上である。告白のラストで三角関係の末に恋人が自殺。(姉弟を相手にしての三角関係)主人公は、自身の罪ゆえに修道院に行く決心をしたが、主人公は案内の修道僧に、最初の性の目覚めから行為を寄せた男たちの顏が走馬灯のように映り替わり見えてしまい、気が失せて断念する。実際の登場人物の名前も出ているので、どこまでが創作なのか?著作権問題ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年10月)は現在、没後60年。以前シャガールでも触れましたが、画家の死後70年が経過すると著作権が消滅するので、世界の大方でジャン・コクトーにはまだ著作権の壁が存在します。ただし、日本の場合、2018年12月30日に改正著作権法が施行されるまで、著作権の保護期間は死後50年間だったのです。つまり、ジャン・コクトーの著作権は10年前に一度撤廃されていたので、日本の関連では改定後の死後70年の壁は無いようです。ヴィラ・サント・ソスピール(Villa Santo Sospir)1950年、ジャン・コクトーが「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」の撮影を終えたばかりの頃、友人のフランシーヌ・ヴァイスヴァイラー(Francine Weisweiller)に、ニース近郊のフェラ岬(サン ジャン カップ フェラ・Saint-Jean-Cap-Ferrat)の屋敷ヴィラ・サント・ソスピール(Villa Santo Sospir)に誘われたそうだ。※「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」の原作は1929年。映化は1950年。コクトーは南仏も、彼女の別荘も気にいり、数か月間滞在したばかりか、以降、定期的に訪れるようになったと言う。そして別荘に来ては、ヴイラの白い壁に彼はイレズミ(壁画)を施した。「壁を飾るのではなく、彼らの肌にタトゥーを描くのだ。」彼はタトゥーを際立たせるために最小限の線を用いたフレスコ画を残したのである。写真はニース観光局サン ジャン カップ フェラ観光案内所のものをお借りしました。リンク先も添付します。リンク Welcome to Nice Côte d'Azur2007 年より歴史記念碑(Monument Historique )として国家遺産(national heritage site) に登録されたそうです。※ 現在、ヴイラはガイド付きツアーがあり公開されている。住所14 avenue Jean Cocteauジャン・コクトー通り14番地06230 Saint-Jean-Cap-Ferrat06230 サン・ジャン・カップ・フェラFRANCEヴイラを気に入ったコクトーは映像作品でもこのヴイラを使用している。ヴィラ・サント・ソスピール(La Villa Santo-Sospir)(1952年) 監督オルフェの遺言(Le testament d'Orphée) -私に何故と問い給うな(ou ne me demandez pas pourquoi!)(1960年) 監督・脚本・出演ヴイラ自体はニースのはずれ? です。この時にコートダジュールを気に入った? コクトーはマントンの街に「一目惚れ」したと伝えられるが、何きっかけか? はわからない。ただ、当時のマントンの市長フランシス・パルメロ(Francis Palmero)(1917年~1985年)との出会いから全てが始まった気がする。フランシス・パルメロ(Francis Palmero)今、マントンの観光の目玉となっているマントン市役所の婚礼の間の絵画やコクトーの要塞美術館も、フランシス・パルメロの提案から始まっている。彼の方の経歴から探ると、マントンの市長フランシス・パルメロがコクトーに出会うのは1955年8月、マントン音楽祭である。実はこの市長はただ者ではなかった。フランシス・パルメロ(Francis Palmero)(1917年~1985年)1954年2月~1977年3月 マントン市長※ 1977年、マントン市選挙で敗退。1958年~1968年 アルプ・マリティーム県議員(4期)1971年~1985年 アルプ・マリティーム県上院議員マントン市議会 議員(1958年→1985年) 市議会議長(1961年→1964年、1967年→1973年) どうもフランスでは市長と国会議員が兼任できるらしい。フランシス・パルメロは政治家になった。1954年2月~1977年3月 マントン市長となったフランシス・パルメロ(Francis Palmero)(1917年~1985年)は1958年には県議、1971年には上院議員となり国会議員となって行く政治家。しかも非常にアクティブで南仏にフランス版のシリコンバレー、ソフィア・アンティポリス(Sophia Antipolis)を創設した功労者でもある。南仏にあっては、かなりの影響力のある実力者だったようだ。亡くなる1985年まで県上院議員をしている。マントン市長舎(Maire de Menton) 婚礼の間欧州では市役所や街役場で結婚届を出すので、まさにウエディングドレスを着て役所から出て来るパターンに遭遇する事が多々ある。1955年、マントン市では、使われなくなった裁判所を結婚式場に変えようと言う案が出されていた。当時のマントン市長であったフランシス・パルメロ(Francis Palmero)は音楽祭で知り合ったジャン・コクトーに装飾を依頼することを思いついた。彼はヴィルフランシュ・シュル・メール礼拝堂(la chapelle de Villefranche-sur-Mer)の装飾と並行して取り組み、 1956年4月、 婚礼の間(ウエディング・サロン)の為の最初の絵を描いた。※ 同年のマントン音楽祭(Festival de musique de Mento)のポスターも制作。マントン市長舎マントン市長舎の婚礼の間(ウェディング・サロン)部屋は今よりも薄暗かったので写真はかなり明るくしています。また、カメラの性能もよくなかったので綺麗な写真とは言えませんが・・。部屋はコクトーが全てデザインしたので当時のままのようです。コクトーは装飾の細部にまで注意を払っている。壁画は側面、天井にも及ぶ。スペイン・スタイルの椅子や錬鉄製の照明器具など調度品のデザインはもちろん、バージン・ロードにヒョウ柄のカーペットを指示した。式場なのに、バージン・ロードなのに・・。ヒョウ柄なんて非常に珍しい。どう言う意図だったのか?現在はわかりませんが、これを撮影した当時、写真撮影に制限が無かったのでほぼ全部撮っています。反対入口側マントン市長舎の婚礼の間のコクトーの壁画から LE COUPLE MENTONNAIS マントンのカップル 恋人たちから夫婦へ。マントン・スタイル(style de Menton)1950 年代、コクトーはカラーチョークなどの新しい技法に取り組んでいた時?マントン市の結婚式の間の仕事中、彼は紙に習作を記入し、次に壁の絵にカラフルな曲がりくねった線を描き始めた。迷路のようなイレズミのような特徴的な文様。そう、やはりクレタ(Crete)島のクノッソス(Knossos)の迷宮(ラビリンス・labyrinth)からインスピレーションを経てマントンスタイル(style de Menton)は考案されたらしい。1956 年 4 月 8 日に最初の絵を描き、婚礼の間は 1958 年 3 月 22 日に落成。完成時、コクトーは69歳である。ほぼ丸2年かかっている。天井画 天使たち正面右壁から作業するコクトーの写真。こちらはジャン・コクトーの美術館案内のサイトから借りました。リンク BIOGRAPHIE DE JEAN COCTEAU1957 年~1958 年にかけて描かれたこの作品のテーマは、「マントンの恋人たち(les amoureux de Menton)」正面左壁からエウリュディケ(Eurydice)エウリュディケが黄泉の国に連れていかれる所?オルフェウス(Orphée)オルフェウスやエウリディケのバックには大量のケンタウロス(Centaurus)。ケンタウロスが、なぜ射られているのかは謎。結婚式にはふさわしく無い絵の気もするが・・。コクトーの真意は?コクトーは今までのウエディング・サロンでは華やかさに欠けると考えたらしい。独特の演劇性を持たせることで面白さを加えたのかもしれないが・・。「野蛮な結婚」がタイトル? らしい。・・・なるほどフランス共和国の象徴 マリアンヌ(Marianne)の横顔ところで、部屋の端に置かれた鏡にサンドブラストで刻まれた謎めいた女性の顏が左右対称に 2 つ。フリジア帽を被るマリアンヌ(Marianne)像だと思われる。マリアンヌ(Marianne)像は、フランスを擬人化した女性であり、フランス共和国の象徴なのである。フランスの国旗のトリコロールは自由(青)、平等(白)、博愛(赤)。政府広報では、平等(白)の部分にマリアンヌの横顔が置かれている。フランスの市庁舎には、フランス共和国の象徴としてマリアンヌの胸像がたいてい設置されるものらしい。その時代のフランスの顔となる女性(女優、モデル、歌手など)が選ばれて、彫像のモデルとなるらしい。コクトーはそれを彫像でなく鏡に刻んだのだ。ただ、コクトーが誰をイメージして描いたか? はわからない。ル・バスティオン(Le Bastion)(要塞)要塞美術館(Musee du Bastion)マントンには現在ジャン・コクトーの美術館が2つある。近年、新しい美術館がバスティオン美術館近くに開館したらしい。新しい美術館がジャン・コクトー美術館(Musee Jean Cocteau)で、古くからの美術館がジャン・コクトー・バスティオン美術館 (Musée du Bastion Jean Cocteau)と仕分けされている。ジャン・コクトー・バスティオン美術館は、その名の通り要塞美術館(Musee du Bastion)。それは海に突出した17世紀の砦を改築して造られたものだからである。※ その昔は海賊監視の為のサラセンの塔(トッレサラチェーノ・Torre Saracena)があったのではないか? 最初に話が出たのは1957年、彼がマントン(Menton)市役所の婚礼の間の装飾に取り組んでいた時。当時の市長フランシス・パルメロ(Francis Palmero)(1917年~1985年)から提案があったそうだ。この要塞は当時放置されていたもの。市が場所を提供するので、ここにコクトー自身がデザインして自分の美術館を造ればどうか? コクトー曰く、「私の作品の美術館なんて、邪悪なものでしょう。」 当初、彼は自身の美術館と言うものに否定的だったらしいが、コクトーも68歳。自身のキャリアを象徴する作品を置いて形に残そうと考えたのかもしれない。「コクトーの美術館」ではなく、「要塞、ジャンコトー」? ル・バスティオン・ジャン・コトー(Le Bastion Jean Coteau)」はどうか? と本人が提案。マントン市はル・バスティオン(Le Bastion)で紹介している。それだけでコクトーの美術館だと誰もが認識しているからだ。結婚の間が終わった1958年から作業が始まる。建物の改築も、内装も、作品の配置も、どんな作品を展示するかまで細部に並々ならぬこだわりを持ってコクトー自身が指揮をとり造り始めたそうだ。※ コクトーがかかわるのは1958年~1963年。色とりどりのパステル画、記念碑的なタペストリー、驚くべき絵画、大胆な陶磁器などがこの美術館の展示品として飾られる。しかも作品は定期的に入れ替え。コクトーのこだわりの美術館は、まさしく遺言博物館となった。ジャン・コクトー(Jean Cocteau) (1889年~1963年10月)は完成前の1963年に74歳で亡くなった。ル・バスティオン(Le Bastion)は1966 年に開館。下は全景が撮影できなかった為に部分で撮影したものを順番にくっつけました。壁画はビーチで採集した玉砂利で出来ている。近くで見ると玉砂利が飛び出しているので写真よりは感動があります。残念ながら、館内の撮影は禁止されていたので内部の写真は一切ありません。美術館の中はタペストリーや陶芸作品や絵画が展示されていましたが、そもそも要塞内部を改築しての美術館と言うよりは、コクトーのこだわりが詰まったアトリエのような所です。今は大きなコクトー作品の展示は新コクトー美術館の方にもって行かれた感じ? こちらはテーマを取り入れた展示室の一室として展示されていたようです。そもそもこちらの所蔵は当初コクトー自身の持っていた作品だったと思われる。コクトー美術館のチケットで「こちらも見られます。」扱い。が、新美術館の方で災害によるトラブル? 現在ほぼ機能不全の状態ようです。正面の全景が無かったので、ル・バスティオンの写真はマントン市のコクトーのサイトからお借りしました。リンク MUSÉE JEAN COCTEAU LE BASTION新 ジャン・コクトー美術館(Musee Jean Cocteau)こちらは2011年11月に開館した新たなコクトー美術館なのであるが、ここの所蔵品のほとんどがセヴラン・ワンダーマン(Severin Wunderman)氏による寄贈で成り立っている。それ故、2005年9月、フランス文化通信省は寄贈者の名を加える事を許可。ジャン コクトー美術館 セヴラン ワンダーマン コレクション(Jean Cocteau Museum Severin Wunderman Collection)と呼ばれるのである。スイスの腕時計ブランド、コルム(Corum)社の会長兼オーナーであるセヴラン・ワンダーマン氏(Severin Wunderman)(1939年~2008年)。時計製造業界で最も大胆な人物の一人とされただけでなく、人道主義者であり、アートシーンの熱心な後援者でもあった。1910年代から1950年代までのコクトー作品の多数のコレクションがあり、フランス文化省の後押しを得て2005年に990点のコクトー作品と、840点の関連作品の寄贈がされている。新美術館の開館は、そのコレクションを公開する為の建築であった。残念ながら美術館開館前にセヴラン・ワンダーマン氏(Severin Wunderman)氏は2008年、69歳で亡くなった。新美術館は2011年11月に開館にこぎつけだが・・。しかし、現在閉鎖中です。オープンして丸7年。2018年10月29日から30日の夜に発生した大雨? 大嵐? 高潮? により美術館地下は大量の海水が入り込み、ほぼ水没。コレクションの所蔵室も地下にあったようで、ほとんどのコレクションが被害を受けたようです。建物自体の問題だけでなく、作品の修復も大量に発生しているようなのです。一説には保険でも、もめているとか・・。作品が蘇れる事を祈るばかりです。下の写真はウィキメディアから借りました。 海からの美術館。非常に海が近い。1 April 2012 2700 ㎡の敷地に 2 つの展示スペース、特別展示エリア、教育ワークショップ、アート グラフィック、資料資料エリア、カフェ、ブティック、本屋が設置。元のバスティオンがそもそも要塞を利用したアトリエのような美術館であったので、こちらは一般の美術館としての最新の設備も諸々備えている。近年は、外からの訪問者はむしろこちらメインでバスティオンはオマケ的な扱いになっていたのかもしれない。新たな美術館の建設は 2003年12月にマントン市議会で決まり、2007年に市議会によって国際コンペが開催。2008 年 6 月、設計コンペでは、フランスの建築家ルディ・リッチョッティ(Rudy Ricciotti)が優勝。リッチョッティのデザインはコクトーの人生と作品から(詩人の個性、光と闇のゾーン、コントラストによって支えられた謎めいた自己神話など)直接インスピレーションを得たものと言われる。公式の美術館のサイトから写真をお借りしました。公式リンク MUSÉE JEAN COCTEAU COLLECTION SÉVERIN WUNDERMANでも、本当に海岸へりです。ちょっと高潮になれば被害が及ぶ事を考えなかったのだろうか?これはデザイナーの問題ではなく、デザインを現実に建築する施工の問題です。地下に排水施設も無かった? みたいですね。建物が戻っても、今後も同じ事が起きる可能性はあるわけで、建物の構造も変えざる負えない。しかも、肝心の作品のほとんどが大なり小なりの被害を受けているようだから、いつ再開できるのか? 海外の美術館は、その休館などの情報をほとんど表立って出しません。かつて、ハーグの美術館での事、行ったら長期工事で閉まっていたのです。目当ての絵画は海外ドサ周り中。全く意味の無い訪問になりました。何重にも調べて情報を確認しないとムダ足になります。晩年の恋人と終焉の地ミリー・ラ・フォレジャン・デボルト(Jean Desbordes)1926年、コクトー(37歳)はレーモン・ラディゲの再来を見て、ジャン・デボルト(Jean Desbordes)(1906年~1944年)(20歳)と同棲。(1933年)、7年間コクトーと一緒に暮らした後、彼は(27歳)コクトー(44歳)と別れた?母親と妹と一緒に引っ越し1937 年に結婚。1936年にコクトーが世界一周で日本に着た時は、若い友人? マルセル・キルを同伴していたと堀口大學 氏は書いている。ジャン・マレー(Jean Marais)1937年、 シェルブール出身の俳優ジャン・マレー(Jean Marais)(1913年~1998年)(24歳)と出会う。彼は俳優。コクトーの舞台「恐るべき親達(Les Parents terribles)」(1938年)(25歳)で主演に抜擢。※ 「恐るべき親達」の映画は1948年。1942年のジャン・マレー(Jean Marais) 29歳。写真はウィキメディアから借りました。Studio Harcourtによるブロマイドかと思います。29歳でもさすが役者さん。美しいです。第二次世界大戦では出征するも、復員後は舞台と映画で活躍。戦後はほとんどのコクトー作品に出演。映画「美女と野獣(La Belle et la Bête)」(1946年)、映画「双頭の鷲(L'Aigle à deux têtes)」(1948年)、戯曲(1946年)映画「オルフェ(Orphée)」(1950年)ジャン・マレー(Jean Marais) はコクトー作品のほとんどに出演したと同時に長くコクトーの愛人であったとされる。エドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)1947年、コクトーは後に養子となるエドゥアール・デルミット(Edouard Dermit) (1925年~1995年)(22歳)に出会う。 彼が、コクトーの最後を看取った恋人となる。※ 実はエドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)は本名ではない。正式な洗礼名はアントワーヌ・デルミット(Antoine Dermit)なのである。なぜか? 母がエドゥアール(Edouard)と呼んでいたらしい。ロレーヌで鉱夫として働いていた彼はポール・モリヒアン(Paul Morihien)の書店で偶然、ジャン・コクトーに出会う。彼の容姿はコクトーの美の理想に一致したらしい。最初は庭師になり、その後運転手にもなった。優しい性格から「ドゥドゥ(Doudou)」というあだ名がつけられたと言う。コクトーは彼を役者としても採用。双頭の鷲(L'Aigle à deux têtes)(1948年)以降の映画すべてに彼を登場させていたそうだ。映画「双頭の鷲(L'Aigle à deux têtes)」(1948年)※ エドゥアール・デルミット23歳の時。映画「恐るべき親達(Les Parents terribles)」(1948年)映画「オルフェ(Orphée)」(1950年)映画「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」(1950年)※ ポール役映画「サント・ソスピール荘(La Villa Santo-Sospir)」(1952年)映画「オルフェの遺言 ―私に何故と問い給うな―(Le testament d'Orphée, ou ne me demandez pas pourquoi!) 」(1960年) 独学で画家となった彼はパリで数回個展も開いている。その事が突然ジャン・コクトーが死去して、仕事半ばで止まった仕事の後処理を彼が行えたと言える。※ 1965年にフレジュスのノートルダム・ド・エルサレム礼拝堂を完成。※ メスのサン・マクシマン教会のステンドグラスプロジェクト。先に紹介した要塞美術館、ル・バスティオン(Le Bastion)もコクトーは仕事半ば1963年で亡くなっている。コクトーは亡くなる直前まで作品リストや美術館にこだわりを持って改変を続けていたらしい。3年後、それに終了(完成)の許可を出したのは芸術家であり、コクトーの養子となり、相続人となったエドゥアール・デルミットなのだ。フランス・アカデミーのアンドレ・モーロワ(André Maurois)フランシーヌ・ヴァイスヴァイラー(Francine Weisweiller)エドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)の立会いのもとル・バスティオン(Le Bastion)美術館は 1966 年開館した。また、彼は1989年、モンペリエ(Montpellier)のポール ヴァレリー(Paul-Valéry)大学でコクトー基金の設立に貢献している。エドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)は、1995年5月、パリで亡くなった。コクトーの死(1963年)よりも32年も後になるが、その亡骸はコクトーと同じ場所、ミリー・ラ・フォレ(Milly-la-Forêt)のサン・ブレーズ・デ・シンプル(Saint-Blaise-des-Simples)礼拝堂に埋葬された。コクトーの終の住みかミリ・ラフォレ(Milly-la-Forêt)冒頭ふれたが、ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)の住まいは、イル・ド・フランスのミリー・ラ・フォレ(Milly-la-Forêt)にあった。パリから南に50km。田舎ではあるが都会の喧騒から逃れるにはうってつけ? 環境も、利便も良かった?ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)は1947年から亡くなる1963年までの16年間、そこを住まいとし、実は亡くなった場所もミリー・ラ・フォレ(Milly-la-Forêt)の寝室だった。1947年、最初にここを居に求めたのは、実はコクトーとジャン・マレー(Jean Marais)だったらしい。1946年、映画「美女と野獣(La Belle et la Bête)」の後、二人はここで同棲していたのかもしれない。同年、知り合うエドゥアール・デルミットは、最初コクトーの運転手となるので、途中からここに住み始めたのかもしれない。1958 年3 月 にマントンの婚礼の間が落成した後、彼はバスティオン修復プロジェクトに取り組んでいるが、その翌年(1959年)、住まいのミリ・ラフォレ(Milly-la-Forêt)市の依頼でサン・ブレーズ・デ・シンプル礼拝堂(Chapelle Saint-Blaise-des-Simples)の修復を手掛けている。下は、Milly-la-Forêt の観光局の写真をお借りしました。リンク Milly-la-Forêt観光局サン・ブレーズ・デ・シンプル礼拝堂(Chapelle Saint-Blaise-des-Simples)と薬草畑コクトーが内装の修復を頼まれ、かつね自身も眠る事になった古いチャペルです。12 世紀に建てられた古い礼拝堂は、ハンセン病患者達の祈りの場であった。周りの薬草畑は、ハンセン病患者の為の薬として栽培されていたらしい。コクトーは1959年に市から要請を受けて、内部をデザイン装飾する事になったのだ。彼が装飾したこの小さなチャペルに、コクトー自身が眠る事になるとは、彼は想像していただろうか?1963年10月10日、コクトーの友人のシャンソン歌手エディット・ピアフ(Édith Piaf)(1915年~1963年)(47歳)が癌(ガン)の為に亡くなった。コクトーはその知らせをミリー・ラ・フォレで聞いてショックを受けて寝室に向かったらしい。翌日、1963年10月11日ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)は寝室で亡くなっていた。突然の心臓発作だったらしい。享年74歳。前出イベントポスターの事ですでに触れたが、コクトーの名前が刻まれた大きな石板には「Je reste avec vous(私はあなたのそばにいます)」という彼のシンプルな忠誠の言葉が刻まれていると言う。これは同じ墓に眠るエドゥアール・デルミットの気持ちなのか? と一瞬思ったが、どうもコクトーの神への懺悔(ざんげ)? 今まで散々神に対する罪を重ねて来てはいるが、「私はいつも貴方(キリスト)に忠誠を誓っています。」と言う意味のようです。下は私がプライベートで持っているコクトーのリトグラフ(lithograph)です。反射があるので少し斜め撮りしてますが・・。マントン・スタイルで描かれている作品です。「ヨハネによる福音書」ではイエスが十字架にかけられた時、弟子としてただ一人、十字架の下にいたのがヨハネとされるので、祈っているのはヨハネなのかもしれない。それとも、コクトーは自身の姿を投影させたか?こちらもプライベートで持っているコクトーです。星座シリーズの一枚かもしれません。これらを購入した後にマントンのコクトー美術館に行ったのです。お土産で、コクトー美術館でコクトー・デザインの素敵なブローチを購入したのですが、最終国コペンハーゲンのホテルで消えてしまいました。ガックリです。古いコクトー関係は削除しました。これにて終わります。
2023年12月17日
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毎度の事ですが、後からチェックで修正入れています。また、サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)の所、若干追加しています。そこそこ写真もあるのでピサ(Pisa)とダ・ヴィンチでも紹介しようか? 実はちょっと勘違いしていたみたいで、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)がピサの洗礼堂で洗礼を受けたと聞いたと思い込んでいたのです。ところが、どこの資料にもそれが書いていない。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)の出身地、トスカーナ州フィレンツェ県のヴィンチ(Vinci)村はピサから東へ約43km。フィレンツェからは西に28km。フィレンツェのが近いし縁もあった。 洗礼堂で洗礼を受けていたのはガリレオの間違いだった? ピサ(Pisa)は没に・・。 でも、ダ・ヴィンチは行っておきたいかも・・。私が尊敬する芸術家の一人として真っ先にあげたいのがレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)だから・・。万能な彼はもはや神。°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°で、ダ・ヴィンチを探ぐっていたら、ミラノに行き着きました。今回ミラノの写真が多いです。そしてラストにどうしてもサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)を入れたかったのですが、想定外の事がおきていて、ちょっと時間を食いました。尚、絵画の写真はほぼウィキメディアから借りています。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)両親幼少期のエピソードヴェロッキオ(Verrocchio)工房ヴェロッキオ工房でのエピソードミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ像プラトン・アカデミー(Platonic Academy)ミラノとの関わりミラノで手がけた仕事岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) ウィトルウィウス的人体図(Vitruvian Man)ウィトルウィウス(Vitruvius)の建築論最後の晩餐(L'Ultima Cena)ミラノ公居城スフォルツェスコ城サラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)ミラノ公とのミラノでの仕事レオナルドの兵器フィレンツェ時代小悪魔・サライ(Salaì)と洗礼者ヨハネ像サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)真作としての発見1516年~1519年フランス、ローワール時代両親彼の実父はフィレンツェの裕福な公証人であったが、小作人の娘であったレオナルドの母(Caterina)とは身段違いの為に結婚はしなかった。故に彼は未婚の母の元にヴィンチ村で生まれ、そこで育ったと考えられていた。※ 生誕はフィレンツェの父の家と言う可能性も出ている。本人 レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ(Leonardo di ser Piero da Vinci) (1452年4月15日~1519年5月2日)父 Ser Piero da Vinci d'Antonio di ser Piero di ser Guido(1426年~1504年)母 Caterina di Meo Lippi (1434年~1494年)※ 通称として出身地が付くらしい。ヴィンチ(Vinci)村のレオナルドだからレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)であり、父にも同じくda Vinciが付いている。また、レオナルドには、父の名(セル・ピエーロ)も付されている事から私生児ではなく、ちゃんと公認された親子関係はあったと認識できるし、実際父に喜んで向かい入れられたと伝えられている。レオナルドが生まれた翌年、実父セル・ピエーロも実母カテリーナも別々の人と結婚している。実父セル・ピエーロに関しては、幾度かの結婚をし、最終的にレオナルドの異母兄弟は16人となっている。レオナルドはしばらく母の元で育てられたのかもしれないが、1457年(5歳)には彼は父方の祖父アントニオ・ダ・ヴィンチの家に住んでいた事が納税記録により証明されているそうだ。幼少期の事は不明と言われるが、彼は義母やダ・ヴィンチ家の家族に育てられたのは間違いない。思っている以上に「彼は不遇ではなかった」のだと思われる。それにしても、富裕な家にも関わらず、教育は非公式なものしか受けていないらしい。父(Ser Piero da Vinci)は仕事で忙しく、叔父(Francesco da Vinci)と親しかった事は解っているので叔父からいろいろ広い世界を学んだのかもしれない。なぜなら、画業だけにとどまらずかかわったあらゆる世界。また、後年彼が考案するに至る飛行機械、装甲車両、投石機などの開発につながる素養はある程度小さい頃からの興味に起因するからね。幼少期のエピソード美術史家ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)(1511年~1574年)が伝えている事によれば、レオナルドの絵が上手な事を知った農民が丸い盾に絵を描いて欲しいと依頼した所、あまりに絵が怖すぎて父がそれを売り、別の盾を購入して農民に贈ったと言うもの。ここで引っかかるのが「絵が怖すぎて父が売った。」と言う点。絵は高く売れ、最終的にミラノ公の元に渡ったらしい。最初から解説すると、当時、農民は農閑期には戦争などにかり出されるので、樽(たる)の蓋(ふた)等を利用した自身の盾(たて)を自ら制作したのであろう。その盾に農民は気の利いた絵を描いて欲しいと軽い気持ちで頼んだのかもしれない。しかし、レオナルドが描いたのは、一介の農民が持つには過ぎるできだったのだろう。おそらく、盾に描かれた絵はメドゥーサの首(顔)だったと思われる。「ペルセウスとメドゥーサ」の神話で、アテナイの命でメドゥーサを退治したペルセウスは見ると石になると言うメドゥーサの首をアテナイに贈った。アテナイはその首を自分の盾(アイギス)にはめ込み最強の盾(たて)としたのである。最強の盾(たて)と言えば、これに勝るものは無い。何しろメドゥーサの髪一本一本はヘビでできているから、それ自体が怖いし不気味。伝統的にもメドゥーサの首は最強の絵図なのである。完璧すぎたのだろう。父は農民にそれを渡さず、フィレンツェの美術商に100ダカット(ducats)で売却している。父がレオナルドの才能を確信した瞬間かもしれない。※ 余談ですが、メドウーサの首について過去に書いています。メドウーサを知りたい方はどうぞ。リンク ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首ヴェロッキオ(Verrocchio)工房レオナルドはヴェロッキオ(Verrocchio)の工房に14歳(1466年)で弟子入り。※ アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)(1435年頃~1488年)彼には早くから芸術の才能があった事がわかっているのでダ・ヴィンチ家では当初からそちらの才能を伸ばす事に方針を決めたらしい。父はレオナルドを当時フィレンツェで最高の工房に入れた。そもそも、ヴェロッキオは父の友人であったとも言われている。レオナルドの作品を見せられたヴェロッキオは非常に感心し、入門を許可したらしい。7年、レオナルドは20歳(1472年)になるまでに親方ギルドの資格を取得し、聖ルカ(Guild of Saint Luke)の正会員になっている。父はレオナルドがルカの会員になると彼の工房を設立しているが、レオナルド自身はその後もしばらくはヴェロッキオ工房に寝泊まりして仕事を手伝っていたらしい。レオナルドは確かに、最初に画家として名声を得たが、実は発明など彼の功績は幅が広い。製図、化学、冶金、金属加工、石膏鋳造、皮革加工、機械学などの幅広い技術力。木工品や、デッサン、絵画、彫刻などの芸術的スキル。本当にマルチな才能を発揮している人なのだ。だから芸術家として彼を扱って良いのか? 肩書きは迷う所でもある。ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ像ミラノ、スカラザ前に設置されているレオナルド・ダ・ヴィンチ像。レオナルドの評価は特にミラノが高い。1858 年に彫刻家ピエトロ マーニ(Pietro Magni)(1817年~1877年)によって制作。政情による資金難で遅れ1872 年に除幕に至った。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)(1452年4月15日~1519年5月2日)写真左側がミラノ・スカラ座。その対面側がガレリア。トップにレオナルド・ダ・ヴィンチ像台座には弟子の像4体が設置。1.Giovanni Antonio Boltraffio(1466 or 1467年~1516年)※ Salvator Mundiは長らく彼の作品と思われていた。2.Marco d'Oggiono(1470年~1549年)3.Cesare da Sesto(1477年~1523年)4.Gian Giacomo Caprotti (1480年~1524年) ※ under the name Andrea Salaino サライである。さらに台座にはエピソードのレリーフが4面。1.Giovanni Antonio Boltraffio(1466 or 1467年~1516年)最後に解説入れますが、世紀の大発見と言われたサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)は2011年まで彼の作品と思われていたらしい。4.Gian Giacomo Caprotti Andrea Salaino(1480年~1524年) ※ 撮影時の像が汚れていて見栄えが悪かったのでサライの写真はウィキメディアから借りています。洗礼者ヨハネのモデルであり、レオナルドの側に最後までいて、モナリザを所有していた人物。ヴェロッキオ工房でのエピソードこちらも美術史家ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)が伝えている事であり、あまりに有名な話ではあるが・・。どうも偽りの話だったらしい。ヴェロッキオは弟子レオナルドに自身の作品「キリストの洗礼(Baptism of Christ)」の中の天使(左)を描かせた。1475年頃 キリストの洗礼(The Baptism of Christ)画家 アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)所蔵 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)Leonardo da Vinciの部分レオナルドの天使を見て、ヴェロッキオは筆を置いたと言われる。確かに目を引くのは美しい天使。特に色使いが自分よりもすぐれていると思ったらしいのだ。ヴェロッキオの芸術に対する審美眼が高かったのは確からしい。ヴェロッキオはその後「彫刻の方を専門とした」とも聞いた。実際、ヴェロッキオは彫像の方が有名だ。若い弟子時代の話のように語られているが・・。1475年頃と言う制作年代を見るとヴェロッキオ40歳。レオナルド23歳頃で、すでに聖ルカの会員になり、自身の工房を持っていた頃でもある。レオナルドは行かなくてもいいのにヴェロッキオの所に通っていた年代である。もしかしたら任せられる人材がいなくてレオナルドに頼んだのか? 仕事が無いレオナルドに仕事を与えたのか?親方になったって、仕事が無い人は無いからね。フェルメールのように・・。そもそも工房作品であるなら、どこもほぼほぼ弟子が描いている。親方がどの程度手を入れるか? はどこからの依頼か? あるいは金額による違いがあったのではないか? と思う。そう考えると、有能な弟子を持っているか? は重要だ。マンガ家のアシスタントみたいな感じかな?レオナルドはモデルも努めている。同じくヴェロッキオの所で弟子をしていたフランチェスコ・ボッティチーニ(Francesco Botticini)(1446年~1498年)はレオナルドより6歳上の兄弟子。1470年 トビアスと3人の大天使(I tre Arcangeli e Tobias)画家 フランチェスコ・ボッティチーニ(Francesco Botticini)所蔵 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)大天使ミカエル(Michael)のモデルは18歳当時のレオナルドではないか? 似ている。と言われている。日付がはっきりしているレオナルド作品で最も古い絵。1473 年 アルノ渓谷の眺望(Landscape of the Arno Valley)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)フィレンツェ市内を流れるアルノ川は河口の街ピサを通りリグリア海に注いでいる。物流の為にアルノ川を航行できる川にするよう最初に進言したのはレオナルドだそうだ。レオナルドへの正式な依頼はこの頃から1478年、ヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)の聖バーナード礼拝堂(Chapel of Saint Bernard)の祭壇画の依頼。1481年3月、彼はスコペト(Scopeto)のサン・ドナート(San Donato)の修道士から「東方三博士の礼拝」の依頼。しかし、急遽? ミラノに立つことになったようで「東方三博士の礼拝」は未完に終わっている。プラトン・アカデミー(Platonic Academy)ところで、レオナルドは1480年にメディチ家に居たと言う話がある。どうやらプラトン・アカデミー(Platonic Academy)に出入りしていたらしいのだ。メディチ家が主催するプラトン・アカデミー(Platonic Academy)は、後生の人が付けた名前だ。そもそも学校ではなく、高尚(こうしょう)なサロンだったと思われる。先代のコジモが古代ギリシア哲学、プラトンの思想に関心を持っていた事から?メディチ家別邸にマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino)(1433年~1499年)を(1462年頃)住まわせ、プラトン全集やヘルメス文書などをラテン語に翻訳させていたらしい。※ ルネサンス期の人文主義者、哲学者、神学者。1439年のフィレンツェ公会議がきっかけならコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici)(1389年~1464年)が最初にプラトンに傾倒したのかもしれない。が、コジモは1464年に亡くなっている。次代を継いだのがまだ若いロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年)。彼は20歳にしてメディチ家(本家)の当主となるとメディチ家の黄金時代を作り上げた人物だ。そして彼も多くの学者や芸術家を援助した事で知られる。いずれにせよ、マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino)が居るメディチ家には人文主義者らが集ってきた。メディチ家はいわゆるサロンとなり人文学者のみならず芸術家、詩人、哲学者らも集う場所となったのだろう。そこでは皆、有益な情報を得られるから、アカデミーのような毎回勉強会の場であったのだろうと推察できる。また、メディチ家はそんな彼らへの支援を惜しまなかったから、有能な人材が多く輩出された。以前「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)のところで触れているが、1480年頃はメディチ家全盛期で、ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)気にいられたサンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)がメディチ家の為にいろいろ描いていた頃だ。1482年、「プリマヴェーラ 春の寓意(La Primavera) 」1485年、「ヴィーナスの誕生 (Nascita di Venere)(Birth of Venus)」これらは今、現在 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)を代表する絵画となっている。※ メディチ家とメディチ銀行の事かなり詳しく書いています。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)このサンドロ・ボッティチェッリはアンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)(1435年頃~1488年)の弟子だったと言われている。同じ師匠の弟子であったレオナルドが兄弟子と居ても不思議ではない。あるいはフィレンツェで成功していた公証人の父からのつてかもしれない。 博識なレオナルドはこのサロンで造られたのかもしれない? 少なくとも、より広い世界の扉を開いたのかもしれない。ミラノとの関わり先にレオナルドの評価はミラノが高いと紹介したがミラノ公に気にいられ、彼の元で働いていた期間が長いからだ。1482年から1499年まで、確かにレオナルドはミラノで活動していた。1482年、ロレンツォ・デ・メディチの命でレオナルドはミラノに向かった。先のプラトン・アカデミーの話を裏付けるエピソードだ。当時のミラノ公は、ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)(在位;1479年~1499年)が就任したばかり。※ ムーア人のような色黒だった事から通称ルドヴィコ・イル・モーロと呼ばれていた。想像の域であるが、ミラノ公となったルドヴィコ・スフォルツァがロレンツォに「誰が人材がいたら回してほしい」と頼んだのではないか? その白羽の矢が立ったのがレオナルドだったのだと考えられる。レオナルドはミラノ公に自分が何ができるかの手紙を書いている。それによれば「工学と兵器設計の分野で自分ができる事、また絵を描くこともできる。」としているので、画家だけでなく何事もこなせる人材をミラノ公は欲していた。実際レオナルドは武器開発含めてスフォルツアの多くのプロジェクトで活躍する事になる。先に触れたが、レオナルドのミラノ滞在は1482年から1499年。ミラノ公がフランス軍の侵攻によりに捉えられる1499年までレオナルドはミラノ公の下で働いていた。ミラノ公は神聖ローマ帝国側についたのでミラノはフランスと敵対し、フランス軍の侵攻を受けた(イタリア戦争)。ミラノが占領されるとレオナルドは助手のサライと友人の数学者ルカ・パチョーリと共にミラノを脱出してヴェネツィアへ避難している。ミラノで手がけた仕事岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) 無原罪懐胎協会(Confraternity of the Immaculate Conception) からの依頼で「岩窟の聖母(the Virgin of the Rocks)」。ほぼ同じ構図、構成で描かれた高さが約 2 m の2点の作品が存在する。左、1483年にミラノで制作依頼を受けて描かれた最初の作品がルーヴル・ヴァージョンではないか? と考えられている。この作品はレオナルドが1人で描いたとされぼかし技法スフマートが使われている。1483年~1486年 岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) ルーブル・ヴァージョン画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)何らかの理由でレオナルドは2枚目のナショナル・ギャラリー ヴァージョンを新たに描き、納品したのではないか? と考えられている。では1枚目はどこに?制作年代で類推すると、一番考えられるのは、最初の作品がフランス占領下で略奪されたから後に新しい作品を描いて送った? と言うのが現実的かも。実際、最初の作品はルーブルに収まっているからね。1495年~1508年 岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) ナショナル・ギャラリー バージョン画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ナショナル・ギャラリー (National Gallery)ウィトルウィウス的人体図(Vitruvian Man)あまりに有名な絵図であるが、これが何を意味しているか知っている人は少ないだろう。この絵図は古代ローマの建築家ウィトルウィウス(Vitruvius)(BC80~70年~ BC15年)の著した建築論内で人の比率について述べられていた人体の理論図を具現化したものなのである。第3巻、第1章で、ウィトルウィウスは人間の比率について述べている。へそは本来人間の体の中心。仰向けに寝て、手足を伸ばし、へそを中心にして円を描くと、それは彼の指と足の指に触れることになる。しかし、人体は円だけで囲まれているわけでは無い。今度は人体を正方形の中に配置。足から頭頂部までを測定し、腕を完全に伸ばした状態で測定すると、後者の寸法が前者の寸法と等しいことが解る。1492年 ウィトルウィウス的人体図(Vitruvian Man) 円と正方形に内接する人体の図所蔵 アカデミア美術館(Gallerie dell'Accademia)※ 常に公開されている作品ではない。この画像はウィキメディアから借りました。今まで多くの人が描いているが、レオナルドの作品が最も美しい完璧な図。ウィトルウィウス(Vitruvius)の建築論古代ローマの建築家ウィトルウィウス(Vitruvius)(BC80~70年~ BC15年)は建築論、十書を著して初代ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)(BC63年~BC14年)(在位:BC27年~AD14年)に捧げた。それは最古の建築論の書である。この著は長らく失われていたが、フィレンツェの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニによってスイスのザンクト・ガレ修道院(the Abbey of St. Galle)の図書館で1414年に発見されたのだ。※ ベネディクト会では古来の良書を写本して残すのも修道士の仕事であった。1450年頃、レオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti)が「De re aedificatoria(建物について)」で紹介。当然、ローマ時代の建築論はプラトン・アカデミーでの話題になっただろう。ブラマンテ(Bramante)、ミケランジェロ(Michelangelo)、パッラーディオ(Palladio)、ヴィニョーラVignola)など、多くの建築家がウィトルウィウスの作品を研究したことが知られている。彼の建築論によれば、建築は「firmitas(強さ・安定性)」、「utilitas(実用性)」、「venustas(美・魅力)」の3つの要素が必要であるとしている。以降、ローマの建築物には、この原則は適用されている。今に残るローマのパンテオン(Pantheon)もその一つ。ウィトルウィウスによれば、建築は自然の模倣。鳥やミツバチのように、人間も自然素材で巣(家)を作る。ウィトルウィウスは住宅建築に関連した気候や都市の場所の選び方についても書いているらしいが、この建築技術を完成させる際に重要なのは比率としている。ギリシャ人はドリス式、イオニア式、コリント式という建築オーダーを発明。美の完成には比率こそが大事な要因としているのだ。また、彼は「建築家は図面、幾何学、光学(照明)、歴史、哲学、音楽、演劇、医学、法律に精通している必要がある」と述べている。それは建築が他の多くの科学から生じた科学であるからで、それはまた多様な学習によって装飾されるものとしているからだ。さらに、彼は理論的であると同時に実践的である事を推奨している。以前、「ローマでは服飾のデザイナーでも建築を学ぶ。」と言うのを聞いて不思議だったのだが、ウィトルウィウス(Vitruvius)の建築論がローマでもルネッサンス以降、脈々と受け継がれているからなのかと納得した。ローマだけではない、欧州で、画家らが古典古代を学ぶ為に、みなイタリアに留学していたのもそうした理由なのだろう。最後の晩餐(L'Ultima Cena)サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)の修道院食堂の壁画。1495年~1498年 最後の晩餐(L'Ultima Cena)(The Last Supper)撮影禁止なのでウィキメディアからかりました。詳しい事は「修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復」で書いています。リンク先はまとめてます。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie) 本体の堂13世紀にすでにこの場に教会はあったらしい。ドミニコ会派の修道会として礎石されたのは1463年9月。度重なるペストなどで信者も減少。その存続さえ難しい時にドミニコ会修道会自体の再建をかけた改革が行われている。その中での建築である。清貧、勤労を重んじるドミニコ会が望んだのは簡素な建物。しかし、後援となったVimercate伯爵は違った。教会ともめたが、結局教会の建築家はクリストフォロ・ソラーリ(Cristoforo Solari) (1460年~1527年)に決まった。ソラーリはすでに評判のトスカーナの建築家。堂はルネッサンス様式を意識しているものの、基本的にはロマネスク様式に近い建築となっているが技術的には高価なできだ。質素どころではない。教会と修道院の建設は長い年月がかかる。ミラノ公、ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)(在位;1479年~1499年)が引き継ぐと後陣はスフォルツァ家の霊廟としてブラマンテに造りかえさせた。ブラマンテはソラーリが完成したばかりの後陣を取り壊し、現在のような後陣を完成。結局、フランスの侵略があり、霊廟にならなかったが・・。僧院回廊はドナト・ブラマンテ(Donato Bramante)(1444年頃~1514年)今見てもオシャレです。リンク 修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復リンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-1 (会員登録と仮予約)リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-2 (仮予約と支払い)ミラノ公居城スフォルツェスコ城ミラノ公に呼ばれたレオナルドもこの城の中で暮らしていたと思われる。1450年にミラノ公爵フランチェスコ・スフォルツァがヴィスコンティ家の居城を改築して城塞化。16~17世紀にかけて増改築された居城は欧州でも有数の規模の城塞となっていた。図は城に置かれていた看板に少し着色しました。六芒星(ろくぼうせい)の形に城壁と堀を配置した鉄壁の守りをとった要塞です。今は堀は無く、一部形跡は残っていますが、正面には噴水広場が造られている。現在残っている城は少し形が違う? 1891年~1905年にかけて、建築家ルカ・ベルトラミらによって修復されているからかも。現存しているのは1/4程度。現在、内部は市立博物館(Musei del Castello Sforzesco)となっていて、近年復元作業のすすめられているレオナルドの天井壁画がある。サラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)1498年、レオナルドとその助手たちはミラノ公からスフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)のサラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)(アッセの間)の絵を描くよう依頼されたという。その証拠はレオナルドがミラノ公(ルドヴィコ・スフォルツァ)に「9月までに完成させると約束している」と書かれた1498 年4月21日付け書簡により判明。レオナルドは石膏にテンペラでアッセの間に木から茂る植物(桑の木?)を描いた。まるで屋外のパーゴラの下に居るようなだまし絵である。しかし、この手紙の直後、1499年にミラノはルイ12世率いるフランス軍に進軍されスフォルツェスコ城は陥落。アッセの間の絵は未完となった。未完の絵は後年塗りつぶされていた事が判明。1498年 サラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)2013年以降修復作業が続けられた。上の写真は修復前のもの。下はウィキメディアから。ミラノ陥落後、城は何世紀も他国の要塞として軍事利用されてきた。その過程で部屋の絵は白く塗りつぶされ失われていた。1861年、イタリアが統一された時、城は完全にボロボロ。取り壊しか? 修復か?建築史家ルカ・ベルトラミ(Luca Beltrami)(1854年~1933年) がその修復に携わると1893年、部屋を覆う白い表面の下、元の塗装の痕跡がいくつか検出されたと言う。現存数が少ないレオナルドの作品としてサラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)は貴重なのである。ミラノ公とのミラノでの仕事レオナルドのミラノでの功績は先に紹介したスカラザ前のレオナルド像にレリーフで刻まれている。実はレリーフの説明がどこにも無くて困っていた。意外な所(Ludovico Maria Sforza)から出てきたのだ。20年間ほぼ公国に専念したミラノ公ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)(在位;1479年~1499年)の評判はすこぶる良い。エレガントでハンサムな容姿(詩人たちは彼のそのかっこよさを賞賛した)、教養があり、現地語とラテン語を操る。優れた作家であり、機知に富み、愉快な雄弁家でもある。楽しい会話や音楽を好み絵画の愛好家でもあると言う寛大な存在感を持っていたと言う。魅力的な完璧なルネッサンス期の紳士だったらしい。※ 実弟が対照的に悪かったらしい。レオナルドとはかなり息が合ったのではないか? と推察できる。もし、ミラノがフランスの侵攻を受けなければ、ルドヴィコ・スフォルツァが捉えられなければ、二人はずっとタッグを組んでたくさんの作品や仕事を残してくれただろうに・・。レオナルドはミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァに「前任者フランチェスコ・スフォルツァの巨大なブロンズの騎馬記念碑」の依頼を受けていた。原型の石膏像を見せている所?このブロンズは戦争の為にブロンズが供出されたので完成できなかった。レオナルドはルドヴィコ公爵とベアトリス公爵に運河の水門を見せている。ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァは「最後の晩餐」の進捗を見に来たので説明している。レオナルドはモロ? の要塞の計画を示している図。イーモラ(Imola)防衛の事? ミラノとは関係なくなるが・・。ヴェネツィアでは、レオナルドは軍事建築家および技術者として雇用され、海軍の攻撃から都市を守る方法を考案。レオナルドの兵器1502 年、レオナルドは教皇アレクサンドル 6 世の息子チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)(1475年~1507年)に仕え、主任軍事技師兼建築家として採用されている。レオナルドはチェーザレ・ボルジアと共にイタリアを周り、軍事建築家および技術者として活動している期間が8ヶ月ほどあるのだ。チェーザレはレオナルドに、彼の領土内で進行中および計画されているすべての建設を検査および監督するための無制限の許可を与えている。またロマーニャ(Romagna)滞在中、レオナルドはチェゼーナからチェゼナーティコ港(Porto Cesenatico)までの運河を建設。またレオナルドは新兵器のデッサンやイーモラ地図を残している。※ 図面などはミラノで見学しているのですが、暗い部屋で撮影も禁止でしたレオナルド・ダ・ヴィンチによる発明品、戦車、巨大投石機(カタパルト)、飛行機など、ロワール地方にあるクロ・リュセ城の庭園で実物大の立体展示がされているらしい。図面を探がしたけど見つからず、フランス観光局のサイトから写真を借りました。リンク Explore Franceクロ・リュセ城に展示されたレオナルド・ダ・ヴィンチの発明品サイトには他の写真もあります。連接グライダー(Flying Machine)空圧ネジ(Aerial Screw crop)戦車(Armored Tank crop)走行距離計(Odometer crop)話をチェーザレ・ボルジアに戻すと。実はチェーザレ・ボルジアはスペイン・アラゴン系のボルジア家の一員。先のイタリア戦争(神聖ローマ帝国vsフランス)ではフランス王ルイ12世のコンドッティエーレ(condottiere)(傭兵隊長)を務め、先のイタリア戦争ではミラノとナポリを占領している。要するにフランスの傭兵としてミラノを攻めていたのである。以前、スイスの傭兵の事を書いたが、イタリア内でも同じような状況があった。経済基盤を持たない地方都市は、傭兵として出稼ぎに出ていた。ヴェネツィアやジェノバのような金持ちの海洋共和国は別であるが逆にそうした所は妬みをかい、常に野心の対象とされていたそうだ。だから彼らは傭兵を雇う側。ただ、イタリアの傭兵はスイス兵とはかなり異なる。負け戦はなるべくかかわるのを避け、全滅するまで戦うような事はなかったと言う。勝つ見込みがあるまで戦い。負けそうになれば撤退。だから、かつてヴァチカンが襲われた時にイタリアの傭兵は逃げた。最後まで戦ってくれたのはスイス兵だけ。これが現在に至りヴァチカンがスイス兵しか信用せず雇わない理由だ。※ 以前、スイス人の傭兵の事書いています。リンク バチカンのスイスガード(衛兵)違いは他にも・・。イタリアの傭兵トップは洗練され教養ある事を尊いとした。チェーザレ・ボルジアはローマで暮らし、ピサやペルージャの大学で法律等を学んでいる学識者。しかし狩猟や武芸にも励んだ強者。そんな男が教会の重責もになっていたのだから中世は不思議だ。1492年 バレンシア大司教1493年 バレンシア枢機卿また、君主論の中でマキャヴェリは君主となる者はチェーザレを見習うべき人物としてあげている。彼はチェーザレの印象を「容姿はことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢であった」とも書いているそうだ。32歳と若死にしているのが残念ですね。ところでレオナルドは1503年初めにはフィレンツェに戻り、10月に聖ルカ(ギルド)の会員に復帰している。それはつまり、また絵を描くと言う事。フィレンツェ時代1503年頃~1519年 聖母子と聖アンナ(The Virgin and Child with Saint Anne)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)聖母マリアと幼児キリスト、そしてマリアの母聖アンナが油彩で描かれた板絵。ベースはポプラの木。スフマート(Sfumato)技法で描かれている。スフマートとは、いわゆるボカシ技法。レオナルド自身が煙のようなと形容しているが、境界をはっきり出さない描き方。1499 年、フランス王ルイ12世の一人娘クロードの誕生を祝う為に依頼されたと考えられている。が、この絵はルイ12世に届けられず、1517年時点でもまだレオナルドの工房にあったと言う。※ ウィキアートからどうもこの絵には諸説あるらしいが、1499年はフランスがミラノに侵攻し、ミラノ公が捉えられた年。先にふれたが、レオナルドは弟子らと共にヴェネツィアに逃げていたはず。どう依頼を受けたかも疑問。1506年~1508年 La Scapigliata (ほつれ髪の女)所蔵 パルマ国立美術館(Galleria Nazionale di Parma)1503年~1519年 モナ・リザ(Mona Lisa)(La Gioconda)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)美術史家ジョルジョ・ヴァザーリの著書「芸出家列伝」によれば「レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンダから妻モナ・リザの肖像画制作の依頼を受けた」と書いている事から「La Gioconda」とも呼ばれる。※ 「ma donna」はイタリア語で「私の貴婦人」を意味。その短縮形が「mona」。モナ・リザ(Mona Lisa)とは、「貴婦人リザ」と言うことになる。ジョルジョ・ヴァザーリの話は「当てにならない」のが最近の考えだが、1477年に出版されたキケロ全集の余白部分にラテン語の落書きがあり、「レオナルドがリザ・デル・ジョコンダの肖像画を制作している最中である」事が1503年10月という日付と共にに記されていた事が判明したそうだ。落書きしたのは、アゴスティーノ・ヴェスプッチ (Agostino Vespucci) と言うフィレンツェの役人。2004年、科学的検証(赤外線分析)から、絵の制作開始年が、ジョコンダが次男を出産した1503年頃だと言う事も判明したそうだ。それ故、この作品は、デル・ジョコンダ家の新居引越しと次男アドレアの出産祝いだったのでは? と考えられるそうだ。小悪魔・サライ(Salaì)と洗礼者ヨハネ像1513年~1516年 洗礼者ヨハネ(Saint John the Baptist)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)イエス・キリストに洗礼を行った洗礼者ヨハネを描いた作品。左手に葦の十字架を持ち、右手は天国を指している。モデルは弟子のサライ(Salaì)と考えられている。明暗を駆使した「陰影法(いんえいほう)」。暗闇から浮かび上がるように描かれており、不敵な微笑みを浮かべている。「モナ・リザ」や「聖アンナと聖母子」と共にともに最後まで手元に残した作品と言われる。サライ自身がモデルだからか?先にミラノの銅像で弟子の一人として写真をUPしている弟子のサライ。人生のほとんどをレオナルド・ダ・ヴィンチと共に過ごした愛弟子であるが、終生悪ガキだった?※ ジャン・ジャコモ・カプロッティ(Gian Giacomo Caprotti)(1480年~1524年) 画家として名乗る時 アンドレア・サライノ(Andrea Salaino)美術史家ジョルジョ・ヴァザーリによれば「優雅で美しい若者で、レオナルドは(サライの)巻き毛を非常に好んでいた」と記している。が、名前の小悪魔(サライ)が示すよう、サライには手を焼いたのだろう。レオナルドの金銭や貴重品を何度も盗み、また嘘つきで強情で10歳でレオナルドに入門してからどれだけレオナルドを困らせた事か?絵の才能はあったらしいから、彼は見捨てずに育てた? 彼はレオナルドが亡くなる直前までずっと側に居た。「洗礼者聖ヨハネ(St. John the Baptist)」と「バッカス (Bacchus)」はサライがモデルとなったと考えられている。問題はヨハネが美しすぎる事。だと私は思う。荒野の修道士である洗礼者ヨハネはたいてい薄汚れたおじさんで描かれてきた。こんな美しい、色気のある洗礼者ヨハネは他に見た事がない。次に紹介する絵はバッカス (Bacchus)と言う表題とされているが実は洗礼者ヨハネだったかもしれない作品として揺れているのである。制作年代で言えば、バッカス (Bacchus)の方が先に描かれている?1510年~1515年 バッカス (Bacchus)? 洗礼者ヨハネ(Saint John the Baptist)?画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)ブドウの葉の冠を頭に戴き、ヒョウ皮の腰巻きを付け、左手に杖をつかんでいる。これはほぼバッカス (Bacchus)の象徴である。バッカスであるなら杖はテュルソス(thyrsos)だと思われる。※ バッカス (Bacchus)ローマ神話の酒の神。ギリシア神話のディオニューソス(Dionȳsos)。※ ウイキョウの茎に蔦があしらった杖がテュルソス(thyrsos)。気になるのは右手で右方面を指さしている事。これはレオナルドお気に入りのポーズと思われるが、バッカスならワイングラスを持たせてもよかったのだ。この不思議、どうもレオナルド本人は洗礼者ヨハネを描いたらしいのだ。しかし、1683年から1693年の間にローマ神話のバッカス(ギリシア神話の酒神ディオニューソス)に書き換え変更されているらしい。つまり、誰かが絵の主題の変更をおこなっているのだ。何故に変更されたのかははっきりしていない。考えうるのは、美しく、若々しく、両性具有的な雰囲気を漂わせる色気をかもす洗礼者ヨハネの姿は、セオリーから遠い。なまめかしい洗礼者ヨハネに教会からクレームでも入ったのか?その可能性は高いと思われる。逆に、レオナルドは今までに無い美しくさえある聖人を描いたのだ。そこに彼が意図した事を読み解く方が面白い。この絵はフランソワ1世(François I)(1494年~1547年)の治世にフランスの王室コレクションに入り、ルーブルに収まったと考えられている。ロワールのアンボワーズにレオナルドが居た時に本人から受け取っているのかも?サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)「世界の救世主」の意を持つサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)とはイエス・キリストの肖像である。1500年 Salvator Mundi(世界の救世主)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル アブダビ(Louvre Abu Dhabi)? ではないようです。写真はウィキメディアから借りました。真作としての発見この絵には不思議な来歴がある。レオナルド・ダ・ヴィンチの真作として歴史の表に出たのはほんの近年の事。ミラノを侵略したヴァロワ朝のフランス王ルイ12世(Louis XII)(1462年~1515年)の為に描かれたと言うキリストの絵。チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)経由で依頼されたのかもしれない。が、英国のチャールズ1世(Charles I)(1600年~1649年)の手に渡って1763年以降行方知れずとなっていた。1900年に英国の収集家フランシス・クックが、ロンドンのリッチモンドにあるダウティ・ハウスのコレクションの為にJ・C・ロビンソンから購入した絵画(Salvator Mundi)は当初、レオナルドの弟子ジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオの作品と信じられていた。※ 前出、ミラノの弟子の銅像で紹介。1958 年のオークションで 45ポンドで売却。 2011 年まで彼の作とされ続けていたのだ。それは、過去の修復の問題であった。2005年サルバトール・ムンディが、ニューオーリンズのセント チャールズ ギャラリー オークション ハウス(St. Charles Gallery auction house)でオークションに出品された時点では、絵は模写に似ているほどにかなり塗り重ねられていたと言う。アートディーラーのコンソーシアム(consortium)は 1175ドルで購入したが、そもそもこのひどい状態の絵画が、長らく行方不明だったレオナルドのオリジナルである可能性を信じていたらしい。だからしかるべき所に修復を依頼。※ ニューヨーク大学のダイアン・ドワイヤー・モデスティニ(Dianne Dwyer Modestini)に依頼。そもそもパネルの虫食いはひどく、修復過程で絵画が7つの断片に割れている。修復プロセスの開始時に上絵をアセトンで除去し始めた時、コピーではあり得ない事実を発見(指の位置に修正が加えられていた事)された。コンソーシアム(consortium)は 2005年、1175ドルで入手した作品は修復の結果ダ・ヴィンチの真筆と報道した。2008年、ロンドンのナショナル・ギャラリーが世界中の権威5人に鑑定依頼。結果は賛成1、保留3,反対1。弟子の作か? 工房の2級品か? 結局わからないまま?2011年、ロンドンのナショナル・ギャラリーで展示。期待値は高まり値段は高騰。2013年、サザビーズ (Sotheby's)のオークションでスイス人美術商イヴ・ブーヴィエ(Yves Bouvier)に8000万ドル(約90億円)で落札。後、ロシア人富豪ドミトリー・リボロフレフ(Dmitry Rybolovlev)が1億2750万ドル(約140億円)で購入。※ 画商と購入者間の手数料問題で訴訟トラブルが起きている。またリボレロフ氏はサザビーズも訴えた。2017年11月15日にクリスティーズ(Christie's)のオークションで4億5031万2500ドル(当時のレートで約508億円。手数料を含む)で落札された。※ 2015年に落札されたパブロ・ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」の1億7940万ドル(約200億円)を抜き史上最高額。香港やロンドン、そしてニューヨークでのプレビューに訪れた人数だけでもクリスティーズ史上最高の2万7000人。それだけ感心が高かったと言う事。真贋、分かれながらも、本物として値段は高騰して行った。この時点で落札者は不明だった。2017年11月8日、ルーヴル美術館の姉妹館としてフランスのマクロン大統領とアラブ首長国連邦のムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム副大統領とムハンマド・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン皇太子によってアブダビ市街に隣接するサディヤット島の文化地区にルーヴル・アブダビ(Louvre Abu Dhabi)開館。600点の所蔵作品に加え、パリのルーヴル美術館をはじめとするフランス国内13の美術館・博物館から貸し出された300点が展示ルーブル・パリとの契約金は30年で5億2500万米ドル。このルーヴル・アブダビ(Louvre Abu Dhabi)の目玉として、サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)が公開される事が2017年12月6日に発表された。サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン(Prince Mohammed bin Salman)皇太子が個人で、代理人を通じて購入していたらしい。ルーヴル・アブダビでサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)が公開される事。当時、私もテレビの特番で知った。誰か女優さんがUAEに行って作品を直接見せてもらっている画像もあった。UAEに行けば見られるのかと思っていた。ところが、その後、UAEでのサルバトール・ムンディの公開は中止となっていた。2018年9月、ルーヴル・アブダビで予定されていたこの絵画の展覧会が無期限延期されることが発表。また、2019年10月に予定されていたパリでのヴィンチ展でも公開されるはずであった。これに関しては、どこに飾るか? でサウジ側と意見が合わず中止になった模様。では絵画はどこに?2020年末までムハンマド・ビン・サルマン皇太子のヨット(Serene)の船内に飾られていたらしい。潮風に当たったらまずいのでは?結局、未だ公にはほとんど公開されぬままの状態。2024年に完成予定のサウジアラビアのWadi AlFannに新しい美術館がオープンするので、そこで公開される予定はあるらしい。1516年~1519年フランス、ローワール時代フランソワ1世(François I)(1494年~1547年)は1516年、ロワールのアンボワーズにレオナルドを招聘(しょうへい)した。アンボワーズ城(Château d'Amboise)自身の城は歴代ヴァロワ朝の国王が過ごしたアンボワーズ城(Château d'Amboise)。※ シャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、フランソワ1世。アンボワーズ城近くに自分が幼少期に暮らしたクロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)があり、そこにレオナルドを住まわせた。レオナルドは亡くなるまでそこに居た。クロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)模型の置かれたクロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)は、晩年のレオナルドの住まい。ウィキメディアから借りました。The chamber of Leonardo da Vinciレオナルド・ダ・ヴィンチの部屋1482年から1499年まで、レオナルドはミラノで活動していた。本当は、そんなに長く居るはずではなかったのかもしれない。おそらく事情が変わったのはメディチ家の没落である。以前、「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)」の中でメディチ家銀行の事、ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年)の事を書いているが、メディチ銀行は最終的に1494年に破綻し、全ての支部の解散宣言が出て1499年に閉鎖している。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)芸術家を支援し、フィレンツェを一流の都市に押し上げていたメディチ家の没落が社会に与えた影響は大きい。レオナルドもパトロンを失い、戻るに戻れず、ミラノでお世話になっていたのだろうと想われる。ところが、そのミラノでも頼りにしていたミラノ公は、ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)はイタリア戦争のおりに捕らわれ、身代金を払って解放される時に暗殺されてしまった。レオナルドは当時有数の海洋共和国であったヴェネツィアにとりあえず渡ったのもうなずける。でも、ヴェネツィアはヴェネツィア派と呼ばれるジャンルがあるくらい画家も多い。きっと新たなパトロンを見つけられず? フィレンッエに戻っている。仕方なく? チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)(1475年~1507年)の元に何でもすると売り込みに? 行ったのかもしれない。実際、レオナルドは1502年~1503年、イタリア諸都市の要塞を見学してまわっている。若いチェーザレ・ボルジアは頼りにしていたかもしれない。しかし、レオナルドは8ヶ月でフィレンッエに戻っている。結局ボルジアも7年後には亡くなっているので居ても二の舞だったが・・。1503年、フィレンツェに戻ったレオナルドはルカの会員に戻り、普通の親方絵師として個人の依頼をこなしている。もはや仕事は選んでいる場合ではなかったのだろう。しかし、持ち前の実験好き。それはトラブルの元になって行く。報酬の返還要請や描き直し、修復の依頼など多発。レオナルドは全て無視したらしい。もはやフィレンツェに居られず?ロレンツォ・デ・メディチの息子がレオ10世として教皇となっていたのでローマにも行ったらしい。だが、期待に反してレオ10世には相手にされなかった。ローマでは、レオナルドはもはや過去の人になっていたらしい。好奇心の強いレオナルドが普通に依頼の絵を描いているだけの事に満足するはずが無い。好きに絵を描いたり、彫刻を造ったり、研究をしたりするにはやはり大物のパトロンが必要。1516年、ミラノと敵対していたルイ12世の後継者であるフランス王フランソワ1世が声をかけてくれた。脳卒中ですでに手にマヒも出ていたレオナルドだが、フランソワ1世はレオナルドを非常に尊敬していたらしい。ロワール渓谷のアンボワーズで、穏やかに隠遁生活を送れるよう、自分が育った居城をレオナルドの為に提供もしてくれた。そこで手稿をしたためたり、好きな事をして、お気に入りの弟子と共に最後の3年を過ごし亡くなった。レオナルドの最後はフランソワ1世に抱きかかえられながら息を引き取ったとも伝えられる。絵画でそんな絵がある。本当かはわからないが、フランソワ1世に大事にされていただろう事は伝わる。享年67歳。(1452年4月15日~1519年5月2日)最後が幸せで良かったと想う。完がんばったげど、8月中に載せられなくて残念
2023年09月01日
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写真はニースのシャガール美術館を後半たくさん入れてます。意外に撮ってたのだな・・と驚いています。一部載せるだけの予定でしたが、資料としてまとまっていると言うのは結構貴重なのでほぼ載せました。マルク・シャガール(Marc Chagall) 3 戦後編「聖書の言葉」My Life(わが生涯)NYのピエール・マティス ギャラリー(Pierre Matisse Gallery)ダグ・ハマーショルドとNY国連事務局ビルのステンドグラス最愛の妻ベラ(Bella)の死消された恋人ヴァージニア・ハガードヴァヴァがしかけた広報戦略象徴としてのアイコン(icon)聖書の動物 贖罪(しょくざい)の山羊赤い天使1950年代から増える商業ベースの絵画1950年から南フランスに移動宗教画はライフワーク?ニースのシャガール美術館1956年~1958年 人間の創造1961年 楽園を追われたアダムとイブ1960年~1966年 燃える柴の前に立つモーセ1960年~1966年 岩を打つモーセ1960年~1966年 十戒の石版を授かるモーセ1960年~1966年 アブラハムと3人の天使1960年~1966年 イサクの犠牲1960年~1966年 天使と戦うヤコブ1960年~1966年 ヤコブの夢1961年~1966年 ノアの箱舟1961年~1966年 ノアと虹1960年 雅歌(がか)Ⅰ1957年 雅歌(がか)Ⅱ1960年 雅歌(がか)Ⅲ1958年 雅歌(がか)Ⅳ1965年~1966年 雅歌(がか)ⅤMy Life(わが生涯)シャガールの父がニシン商人だと言う事は知っていたが、実際、重い樽を運んだりの雑用係で「ガレー船の奴隷」のような仕事をしていたらしい。敬虔なユダヤ教徒(ハシディスト)の家庭で、しかも貧乏子たくさん? シャガールは9人兄弟の長男だった。父は朝は集会所で誰かが亡くなれば祈り、雑用して帰ってきていたらしい。貧しいのに真面目なユダヤ教徒の父。その頃の彼は父を軽蔑していた。シャガール35歳、モスクワ時代(1921 年~1922 年)に著した回想録「My Life(わが生涯)」の中でそれは語られており、父のようになりたく無い一身で芸術家を志したそうだ。※ 妻ベラの訳でフランス語版「Ma vie(わが生涯)」1931年、刊行。My Life(わが生涯)の表紙 むろん努力だけで結果が出る世界ではない。非凡な才能は初期の絵画からもうかがえるので、成るべくして成功を手にした画家なのだろう。ところで、話を父に戻すと、画家は後年、一転して父に敬意を示している。何きかけかは解らなかったが、彼の絵画に登場してくる魚は「漁師だった」と言う所から父のアイコンとなった。NYのピエール・マティス ギャラリー(Pierre Matisse Gallery)ヒトラーが嫌った退廃的芸術はアメリカでは近代美術・モダンアート(modern art)として人気急上昇していた。そこには画商ピエール・マティスの努力があったのだ。フランスの画家アンリ・マティス(Henri Matisse)(1869年~1954年)の次男、ピエール・マティス(Pierre Matisse) (1900年~1989年)。彼は1924年にアメリカに移住し、1931年にはニューヨークに自分の画廊ピエール・マティス ギャラリー(Pierre Matisse Gallery)を経営していた。※ 住所 Fuller Building at 41 East 57th Street in New York Cityピエール・マティスは欧州の芸術をアメリカに紹介、普及。それに啓発されたジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)(1912年~1956年)など多くのアメリカ人アーティスト達が誕生している。ピエール・マティス ギャラリーは、1930年~1940年代のニューヨーク美術界に多大な影響を与えたギャラリーだった。欧州では、戦争と言う中断があった事もあるが、モダンアート(modern art)、そして次代の現代アート(Contemporary Art)を牽引して行くのはアメリカとなった。1941年6月~1948年(アメリカ亡命時代にシャガールを後援した画商)そんなピエール・マティス ギャラリーがアメリカに身寄りの無いシャガールをバックアップしてくれていた。彼は1910年から1941年にかけニューヨークやシカゴでのシャガールの個展のマネジメントもしてくれていた。もしかしたらナチスがシャガールの絵を「退廃的アート」として排除しようとしていた。と言う所を逆に使って宣伝したかもしれない。※ 退廃芸術については以下に書いてます。リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)だからアメリカ亡命時代に、シャガールの知名度も評価もあがった?モダニスト(modernist)の名称が付き「20世紀芸術の最重要人物の一人」とまで評価されたのかもしれない。※ 1947年にはパリに一時帰国。※ 1948 年にフランスに帰国する前に、ニューヨーク近代美術館 (MoMA) とシカゴ美術館の両方で回顧展を開催。ダグ・ハマーショルドとNY国連事務局ビルのステンドグラス1964年 Peace Window(平和の窓)United Nations Visitors Services New Yorkのサイトから UN Photoニューヨークの国連事務局ビル(United Nations Secretariat Building)に設置されているシャガール作ステンドグラス「Peace Window(平和の窓)」1964年制作 縦12ft(366cm)、横15ft(458cm)部分シャガールらしさと言える動物がたくさん描かれている。ステンドグラスと言っても、ガラスに絵を描いて焼き付けると言うエナメル絵付けによるものだ。ティファニーがガラスそのものにこだわったステンドグラスとは「一線を画す」。実はこうしたガラスに色を焼き付けるステンドグラスが近代の主流になったのはガラス職人がいなくなった。と言うのも背景にある。※ 昔は鉱物をまぜてガラスそれぞれの色出しをしていたから手間もお金もかかった。どうも絵付けのステンドグラスは私的には「単調でつまらない。」絵の具が一緒だからガラスからの光はどの作品もほぼ一緒。ステンドグラスとして見ると言うより絵そのものを見るだけ。色ガラスなら同じものは造れ無いから全て微妙に違う。初期のステンドグラスは絵柄と言うよりは、そのガラスの偏光により天国のような光の世界を演出していたのだ。ニューヨークの国連事務局ビル(United Nations Secretariat Building)のステンドグラス「Peace Window(平和の窓)」は1961年に飛行機事故で亡くなった第二代国連事務総長のダグ・ハマーショルドと 彼と共に事故にあった15人の人々を偲んで制作されている。1964年に国連の職員とマルク・シャガール本人が寄贈したもの。※ 絵図の内容は国連が求める平和と愛の象徴が描き込まれたもの。ダグ・ハマーショルド(Dag Hammarskjöld)(1905年~1961年)スウェーデンの政治家、外交官。第2代国際連合事務総長(任期:1953年4月~1961年9月)。在任中に事故? で逝去。ハマーショルドは、「国連は人類を天国に連れて行くためではなく、地獄から救うために作られた」と語っている。在任中で特に顕著な功績を挙げたのはスエズ戦争。1956年には第一次国際連合緊急軍(UNEF)を組織し、イスラエルとアラブ諸国の調停に尽力。ダグ・ハマーショルドの死ベルギーから独立を果たしたコンゴ共和国は、激化する内乱(コンゴ動乱)の沈静化のため国際連合に援助を求めた為、ハマーショルドは4度に渡りコンゴを訪問。1961年9月17日夜、そのコンゴ動乱の停戦調停に赴く途上、国連チャーター機ダグラス DC-6B(機体記号SE-BDY)が墜落。現職の事務総長の事故死に撃墜説や暗殺説が浮上していたが、当時は解らなかったらしい。2017年10月に公表された調査報告書では外部からの攻撃や脅威が原因による暗殺の可能性が示唆された。1961年にノーベル平和賞がハマーショルドに授与されている。(生前に決っていた)。シャガールはステンドグラスを贈るにあたり、手書きの献辞を添えている。「国家憲章の諸制度と原則は、国家と社会を守るための重要な役割を果たす。その目的と原則に奉仕し命を捧げたダグ・ハマーショルドと、全ての人たちへ。」※ 超訳です。多くの同胞を第二次世界大戦で失っているだけにシャガールが世界平和に掛けた思いが伝わる。国際連盟(League of Nations)(LON)(1919年~1946年)は第二次世界大戦を防ぐことができなかった。特にナチス・ドイツによる第二次大戦下でのユダヤ人の大量虐殺を止める事もできなかった。その反省を踏まえ、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国などの連合国(the united nations)が中心となって新たに1945年10月、国際連合(United Nations)(UN)を設立。※ 51ヵ国加盟。活動の目的は、国際平和と安全の維持(安全保障)であり、また、経済・社会・文化など国際協力の実現。最愛の妻ベラ(Bella)の死1944年、9月。シャガールが28歳で結婚し、28年連れ添った最愛の妻を失った。※ 結婚生活(1915年~1944年)ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)は1944年9月2日、戦時下のアメリカで病気で亡くなった。※ viral infection(ウイルス感染)なのか? bacterial infection(細菌感染)なのか?流行り病と言うが、どちらか確定できなかった。アメリカと言えど戦時下に薬が不足し、満足な治療さえ受けることができなかったらしい。シャガールは深く悲しみ秋から冬の間ずっと喪に服し、絵筆はとらなかった。翌年の春、悲しみから立ち上がるべく最初に取り組んだ仕事は、ベラが残していた手記を出版する事。これらには、ユダヤの習慣、家族の愛、故郷への思い。最初の出会いなどが書かれていたらしい。Brenendike likht (The Burning Lights)1945年発行。Di ershte bagegenish (The First Encounter)1947年発行。いずれも、ベラがイディッシュ語(Yiddish)語)で書いていた草稿にシャガールが絵を付けたもの。また、この時、シャガールは古い描きかけのキャンバスを2たつに切って、左側に「The Wedding Lights(ウェディング ライト)」を描いた。1945年 The Wedding Lights(ウェディング ライト)Private collectionベラの手記をイメージしたもの? 故郷ヴィテブスク(Witebsk)でのベラの回想? ユダヤ人がまだ穏やかに暮らしていた時代の思い出だろう。それを共有していたシャガールが彼なりにイメージして描いた作品と思われる。戦後作品ではあるが、穏やかな故郷の情景が描かれている。象徴のアイコンを散りばめたシャガールらしい絵である。Artpedia(アートペディア)の「ベラ・ローゼンフェルド・シャガール」から写真をお借りしました。左から娘イーダ、シャガール、ベラ娘のイーダは1916年に誕生。イーダの年齢からも1920年以降のモスクワ時代の写真と思われる。ベラは20代半ば?バックには1915年制作の「Birthday(誕生日)」のキャンパスが置かれている。シャガールが描いているのはベラであるがリストにこの絵は見当たらない。そもそもモスクワ時代の作品はほぼ不明。Part1で紹介しているが、一家は故郷ヴィテブスク(Witebsk)から逃れるように脱出して1920年にモスクワへ移動。そして1922年、リトアニアへ移り、その後ベルリンを経由して1923年にパリへ戻っている。ロシア圏からの脱出に一時的にモスクワ移住し、リトアニア経由で西欧圏に国境越えしたものと思われる。消された恋人ヴァージニア・ハガード1944年9月に最愛の妻ベラを失ったシャガールであるが・・・。ベラを生涯愛していたと思っている人も多々いるかと思うが・・。Part1では、1952年、65歳でシャガールはヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年) と再婚したとも紹介してはいるが・・。実はシャガールはいつまでもメソメソはしていなかった? いや、一時は確かにショックで絵も描けなかったらしいが、翌年そんな彼の元にヴァージニアという若い女性が家政婦として派遣された。ヴァージニア・ハガード(Virginia Haggard)(1915年~2006年)ヴァージニア・ハガードは元駐米英国領事の娘と言うのでかなりの品格も備えていたのではないか? と思われるが、彼女はすでに人妻であったらしい。シャガールは58歳、ヴァージニアは30歳。ヴァージニア・ハガードは娘イーダとほぼ同学年。若いヴァージニアの魅力にシャガールはすぐに恋に落ちる。やがて恋愛関係になった彼女とシャガールは7年の生活を共にする事になる。つまり、1945年~1952年。ちょうど二人の妻の間をつなぐようにヴァージニアがいたのである。実はシャガールのキャリアの全盛期と言うのがヴァージニアといた期間に重なっている。作品や展示会、また出版に関しても最も成功を収めている時期で、シャガールにとって浮き浮きが仕事にプラスになっていたのは確かだ。そういう意味では、ヴァージニアは功労者とも言える存在。なのにヴァージニア・ハガードの名が歴史から消えている。(・_・?) ハテ?しかも、二人の間には息子もいた。付き合いだして翌年、1946年には息子ダヴィッドが誕生する。が、息子にシャガールの姓はついていない。ダヴィッド・マクニール(David McNeill)(1946年~「McNeill」はヴァージニア・ハガードの夫の名前らしい。ヴァージニアは後に夫と離婚するが、シャガールとは結婚せず? ダヴィドはほぼ私生児状態? だったようだ。※ ダヴィドは自らもアルバムを出しているが、シャンソン歌手のイヴ・モンタンなどに曲を提供する作詞・作曲家となっている。7年後に2人に破局が訪れる。1952年、ヴァージニアはシャガールの元を離れベルギーの写真家の所に行ってしまったそうだ。育児放棄し、浮気はするし・・彼女は非常に奔放な女性だったと伝えられる。(そもそも若いからね。)※ どこまでが真実かは不明。これは一方的な評価なので。この時、なぜか?ヴァージニアはシャガールの絵18点をもらい。時々売りながら(2点は自分用)生活? 2006年亡くなるまでベルギーで暮らしている。その後のシャガールとの接触は一切無いらしい。ヴァージニアが出て行ったのにシャガールの絵を手切れ金のようにもらっている所が非常に気になります。シャガールは? と言えば、振られたシャガール当人はショックで落ち込む日々。そんな時? 娘イーダからヴァランティーヌ・ブロツキーを紹介され、すぐに再婚(2番目の妻)している。ヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年) シャガール史から消されたヴァージニア・ハガードは後に自分で回顧録を書いている。ここにもしかして?ヴァージニア・ハガード VS. ヴァランティーヌ・ブロツキーの抗争が見え隠れする。ヴァヴァがしかけた広報戦略再婚した時、シャガールは65歳。ほぼ切れる事なく、シャガールの人生には女性が寄り添っていた事になる。生涯ベラ(最初の妻)を愛していた? 愛の画家? 本当に?実は、「生涯ベラを愛し抜いた愛の画家」のキャッチはヴァランティーヌ・ブロツキーがしかけたシャガールのイメージ戦略だったらしいのだ。※ ヴァランティーヌ・ブロツキー(ヴァヴァ)は元々キャリア・ウーマンだった女性。「生涯最初の妻だけを愛していた。愛の画家が描く愛が広がる絵。」売れるよね。その為には自分も影に徹したのかもしれない。特にシャガールの売り方の戦略にシャガール作品初期の「空飛ぶ恋人」イメージを植え付ける事に奔走したと言われる。その為にはヴァージニア・ハガードの存在はあってはならない。シャガールの履歴から消去する必要があった。そう言う事実を見ると、18点の作品をヴァージニアに渡して、シャガールとの一切の縁を切らせたのはヴァヴァだったのではないか? と言う気もする。息子も父との縁を切られたのかもしれない。イメージ戦略とは言うが、もしかしたらヴァヴァが、ヴァージニア・ハガードに嫉妬していたからでは?と言う気もするよね。象徴としてのアイコン(icon)アイコン(icon)は、最近スマホなどで利用されているアプリの絵柄と思われるかもしれないが、実はもともと(正教会系)聖像図のイコンから発した言葉らしい。それには「象徴(symbol)」の意味もある。例えば、キリスト教では、それだけで聖人を表現するアイテム(アイコン)がある。「十字架」がイエス・キリストを象徴するのは周知の事実であるが・・。聖母マリアの象徴は短剣で突き刺された「ハート(心臓)」。また受胎告知の時に使われた「ユリの花」など複数ある。度々紹介してるのが12使徒のペテロを象徴する「鍵(かぎ)」。天国の番人に選ばれたペテロはキリストからその門の鍵を預ったとされている。それ故、鍵のみでペテロが示される。ペテロ(Petrus)・・鍵(かぎ)また4人の福音書記者(Evangelistae)にもそれぞれ象徴のアイテムがあり紹介している。マルコ(Marcam)・・獅子(しし)マタイ(Mattheum)・・天使(てんし)ルカ(Lucam)・・雄牛(おうし)ヨハネ(Iohannem)・・鷲(わし)※ 表記はラテン語にしてあります。キリスト教の聖人名はラテン語読みが一般。※ 以前「サグラダ・ファミリア 5 (天井と福音書記者の柱)」の中、「福音書記者(Evangelist)とキリスト教の正典」で少し触れています。リンク サグラダ・ファミリア 5 (天井と福音書記者の柱)キリスト教における象徴の解説本も出ています。象徴を幾つも持つ聖人もいれば逆に一つのアイコンが複数の意味を持つ場合もあるのです。ユダヤ教の場合もまた同じ。例えば、旧約聖書、創世記のオリーブの枝は洪水後の最初の植物であり、それは平和の象徴を意味する。その象徴が何を意味するか? どう解釈するのか? 聖書の研究にはそんな解釈問題もあります。後年のシャガールの絵画は彼の周りにあった記憶や登場人物を象徴(symbol)とする物をアイコンに置き換えて配置され構成されている。それがファンタジー的な要素を与えているのだと思う。「魚」は父親。「時計」は流れる時間。「キリスト」はユダヤ人の受難とユダヤ人の大戦下での死。「花嫁」は娘の結婚から登場し、時に自身の妻(ベラの時もヴァランティーヌの時もある)。「シャガール自身」のアイコンはおそらく山羊(やぎ)かと思われる。「バイオリンやバイオリン弾き」のおじさんは祭りなど典礼で欠かせない音楽の担当。故にユダヤのコミョニティーでの典礼がおこなわれている事を示す?お決まりの「故郷の街並」。これは記憶を示しているのでは?「動物達」は故郷の・・と言うよりは聖書に登場する動物が主に使われている気がする。1950年 The Blue Circus(ブルー・サーカス)左側 所蔵 London, Tate Modern右側 所蔵 National Marc Chagall Bible Verse Museum※ シャガール美術館の方のThe Blue Circus(ブルー・サーカス)の制作年は不明。1950年 The Dance and the Circus(ダンス&サーカス)左側 所蔵 London, Tate Modern右側 所蔵 National Marc Chagall Bible Verse Museum※ シャガール美術館の方のThe Dance and the Circus(ダンス&サーカス)の制作年は不明。聖書の動物 贖罪(しょくざい)の山羊旧約聖書でしばしば現れる動物は山羊(やぎ)、牛、羊など偶蹄目(ぐうていもく)である。なぜなら「蹄(ひづめ)が分かれており」「反すうする」という二つの条件を満たさない動物は清くないとされ、ユダヤ教では神に捧げたり、人が食べたりする事ができないのだ。蹄(ひずめ)はあっても先が分かれていなければ絶対にダメなのである。なぜか? は不明。だから豚(ぶた)肉は今でも食べないらしい。そもそもユダヤ教徒の食事には、食事の内容や食べ方にも戒律に基づく厳格なルールが存在している。なんでもOKな我々日本人とは違うのである。山羊は特に聖書では重要な役がある。「身代わり」「生贄(いけにえ)」などの意であるスケープゴート(scapegoat)は、まさしく旧約聖書のレビ記「贖罪(しょくざい)の山羊」から由来している。※ 贖罪の日に人々の代わりに山羊に罪を背負ってもらって荒野に放した。1947年 Self-Portrait with a Clock. In front of Crucifixion(時計を持つ自画像。 磔刑の前で)Private Collectionキリストを描きながら、彼は何をに贖罪(しょくざい)しようとしているのか?絵の中のキリストに寄りそう花嫁は聖母か? 聖母マリアはしばしばキリストの花嫁の役割も持つ。赤い天使1923年~1947年 The Falling AngelPrivate collection最初の構想は1923年。それはロシアを脱出してパリに来た年だ。当初はユダヤ人と天使の姿だけの予定だったらしい。もしかしたらパリで契約していた画廊のオーナーであるアンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)(1866年~1939年)の依頼から始まったのかもしれない。私の想像では当初は白い天使を予定していたがイメージがわかなかったから保留にした? 長く温められていた作品と言うのは納得が行くまで加筆していく。と言う場合にあるだろう。とは言え、Part1で紹介した1934年~1947年「Bouquet with Flying Lovers(空飛ぶ恋人たちの花束)」は構想から14年。「The Falling Angel」(堕天使)」に至っては構想から25年。ちょと長い。最も、シャガールの場合は戦争でしかた無く中断をよぎなくされた期間がある。※ パリを離れる時に預けていた作品の戦後の再開。「Bouquet with Flying Lovers(空飛ぶ恋人たちの花束)」は、亡命時代のベラの死(1944年)を受け、花の静物画はベラを偲ぶような作品に変化した。※ Part1で紹介 リンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンス「The Falling Angel」も戦後の再開。保留にしている間にパリは不穏な状況になり、欧州でのユダヤ人迫害がものすごい勢いで進んで行った。今回の戦争は、特にユダヤ人にとっては悲劇。彼もかろうじて生きながらえたが、シャガールにとってはショック以上に人生の事、ユダヤ民族の事を根本から考えざるを得ない状況だったと思われる。この絵はユダヤ民族の持つ宗教感(旧約聖書と律法の伝承)に加え、制作過程で生じた芸術家の多くの経験(戦争、亡命、多くの仲間の死)が詰め込まれ、象徴のもとに組み合わされてできている。ファンタジーのシャガールで無く、強い意志とメッセージが込められた逸品になっている。ところで、中央の目立つ天使は赤色だ。それはおそらく当初の天使とは異なる。タイトルはThe Falling Angel(堕天使)となっているが、中央の赤い天使は、死の天使(Azrael・アズラエル)と思われる。ヘブライ語では、アズラエルは「神の天使」または「神からの助け」を意味するらしい。その天使はユダヤ教やイスラム教では死後に死者の魂を運ぶ任務も負っているらしい。キリスト教の方では聞いた覚えが無いが、イスラム教では、4代天使の1人で、彼は生者の名を記した書物(名簿台帳)を持ち、人が生まれれば記し、死ねばそこから名前を消去する任を追っているとか・・。ユダヤ教の考えはイスラム教の方が近い。と言うよりはユダヤ教をベースにイスラム教ができたからだ。まあ、キリスト教も、そもそもはユダヤ教ベースなんだけどね。遠くにキリストの磔刑があるから、ついキリスト教を軸に考えてしまうが、前回紹介した通り、シャガールはキリストをメシアとして扱ってはいない。あくまで、ユダヤ人キリストの受難と死を示したアイコンなのである。※ 簡単に言えば、ユダヤ民族の代表としてキリストを前面に出している。1950年代から増える商業ベースの絵画マルク・シャガール(Marc Chagall)(1887年~1985年)はまだ亡くなって38年程。実はまだ著作権内なのでいにしえの巨匠の名画のように簡単にコピーしたり載せたりはできないのである。美術館公式ならともかく、Private collection(個人蔵)となると、まさに制限がかかる。版権を買って大量にリトグラフなどが出回り、それらなら使用できるかもしれないが、原画の方はなかなか難しい。※ 撮影OKの美術館で自分で撮影してきた写真ならいいか? と思うが・・。下の絵「The Bride(花嫁) 」は、1999 年の映画「Notting Hill(ノッティングヒル)」で取り上げられた作品。2003年にクリスティーズによって100万ドル強で売却され現在Private collectionとなっている作品。下は英語版のウィキメディアから借りた写真ですが、解像度がものすごく低くおさえられているのは、著作権問題があるからだそうです。実際、映画「Notting Hill(ノッティングヒル)」の撮影では一時的に精巧なフェイクが造られ、撮影後は破棄する契約だったらしい。1950年 The Bride(花嫁) or La MariePrivate collectionウィキメディアの解説ではこの作品はGouache pastel(ガッシュ パステル)となっている。最初からパステルしか無いのか? oil painting(油性)の原画があるのかは不明である。映画が大ヒットでこの作品は広く知られた為に商業用の複製品はたくさん出回っている。※ 複製品にもレベルがあります。ただの紙ポスターに価値は無い。限定数の公約されたリトグラフやシルクスクリーンなら多少ある。(製造枚数による)1950年 Lovers in the Red Sky(赤い空の恋人たち)所蔵 San Francisco Museum of Modern Art(サンフランシスコ近代美術館)年代的に、相手はヴァージニア・ハガード(Virginia Haggard)(1915年~2006年)なのかな? と思った事もあり、載せた。この作品は浮かれたシャガールか? 明らかに相手は若い。※ 下の街はキューポラが見えるからヴィテブスク(Witebsk)では無いだろう。まだ、この作品からはシャガールの愛のメッセージが伝わるが、以降、シャガールのアイコンをファンタジー調に並べただけの商業用と思われる作品が一般市場にあふれてくる。長く生きた事でシャガールの作品数はたくさんあるが、絵画として意味のある作品(彼のメッセージが伝わる作品)は商業ベースの中にはほぼ無いのでは?そもそもシャガールの作品リストに商業用作品の原画も無い気がする。先に、「ヴァヴァがしかけた広報戦略」の中で触れたが、ヴァヴァの仕掛けたイメージ戦略は、シャガールの絵画を商品として売る事が前提になっている。画家として名を残す絵なら、イメージなど関係無い。商業用版画をたくさん売る為の広報戦略だった可能性しか考えられない。そうなると、絵の方もそれらしい絵しか描かされていなかったのではないか? と想像する。バックには必ずヴィテブスクの村が入り、必ず花嫁がいる。花嫁は必ず最初の妻ベラと言うことになっている。一般に、花とか花嫁の絵なら需要はあったはず。もし、そうであるなら、クリエイティブな仕事をする画家にとって、それを続けるのは辛い。実際、よくわからなくなった時、シャガールはアイコンを並べるだけの時もあったと言っている。確かに、どうでもよくて、アイコンを適当に置いただけの、何のメッセージも無い作品もたくさん描いたのかもしれない。1950年から南フランスに移動パリから南仏に移動し、最初にニース(Nice)、それから程近いヴァンス(Vence・鷲の巣村)、最終的には終焉の地となるサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)に居している。いずれも風光明媚な南仏沿岸コートダジュール (Côte d'Azur)である。前にも触れたが、ピカソと共に陶芸教室に通ったりしている。また、1951年には彫刻も始めたらしい。この頃はまだヴァージニア・ハガードとは同棲中。1952年、シャガール60歳。同年、ヴァージニア・ハガードはシャガールの元を去って行った。前述したようにシャガールは娘イーダから紹介されたヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年)とすぐに結婚(1952年~1985年)。再婚の結婚式はパリで挙げた。1952年~ 1954年 Le ciel embrase(夕焼け空)Private collection上の絵と似たような構図の青バージョンが後年「1959年~1960年 Bouquet by the Window(窓辺の花束)」Private collection。で出ている。もはやある程度の構図は使い回し?1953年~1956年 Portrait of Vava(ヴァヴァの肖像)Private collection画像は「Marc Chagall, and his paintings」で紹介されていた作品から借りています。リンク Marc Chagall, and his paintings90歳代後半まで生きたシャガール(1887年~1985年)のよき伴侶として晩年を共にしたヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年) 愛称ヴァヴァ。Part1で二人の墓を紹介している。リンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンス彼女もユダヤ人であったらしい。結婚後はサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)で隠遁するかのようにヴァヴァと暮らし、彫刻、陶器、ステンドグラス、タペストリーなど活動の幅を広げていた。1966年、シャガールは17点の連作「聖書のメッセージ」をフランス国家に寄贈。すでに聖書関連の絵は描き終え、ここで自身の美術館開館を待っていた。宗教画はライフワーク?彼を代表する作品は、やはり一連の宗教画になるのだろう。それは彼の最後の自身の集大成であったろうし・・。1931年、シャガール自身が聖地イスラエルに赴いた。それは最初、旧約聖書の挿絵の依頼が来たからであったが、その時、彼はユダヤ民族の苦難を体現した?初めて己の宗教(ユダヤ教)について真剣に向き合ったのかもしれない。実際、シャガールはアメリカ亡命時代に信仰(ユダヤ教)が生活に密着してなくて、不自然さを多々感じていた事を吐露している。加えて、第二次大戦下でのユダヤ民族の危機。ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺。歴史的にユダヤ民族は存在自体が否定されて来ていた。彼は亡くなった同胞の追悼の為にも、自身の民族的ルーツを明らかにしようと考えたとしても不思議ではない。彼が自身の集大成として、プライベートで一連の宗教画に取り組み始めたと思われる。実際、シャガールは17点もの大作ををフランス国家に寄贈している。もともと、依頼された絵ではなかったと言う事だ。「宗教画なんて売れないからやめて。」なんて、ヴァヴァから言われてたりして・・。とは言え、宗教画としては少しテイストが違う。旧約聖書なのに独自解釈も入れて、しっかりシャガールしているのは流石である。シャガールの絵を他のユダヤ人がどう評価したのか私は知りたい。1952年~1966年 Exodus(出エジプト記)Private collectionExodus(出エジプト記)の制作は1952年~1966年となっているが、この絵は、実はアメリカ亡命の終わりには制作されていたのでは? と思われている。1931年のパレスチ訪問から己の宗教について考え始めたシャガール。確かに、絵の内容から見ると、これは1948年5月14日イスラエル国(State of Israel)の建国に合わせて制作を始めたのでは? と思える。Exodus(出エジプト記)は紀元前(BC)1200年頃、モーセ(Moyses)がイスラエルの民(ヘブライ人)を連れてエジプトを脱出。乳と蜜の流れるカナンの地へと民族を率いる旧約聖書の話。※ モーセの後継者として最終的にはヨシュアがイスラエルの民をカナンに定住させた。※ 実際、年代も、これが実話かどうかも不明。※ 興味のある方は以下にリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)モーセは神から契約の書「十戒(じゅっかい・Ten Commandments)」を授かっている。絵の右下で十戒の石版を持っているのがシャガール自身らしい。(本来はモーセ)そしてモーセが率いていたイスラエルの民(ヘブライ人)は、今現在迫害されてきたユダヤ人達で置き換えられている。ユダヤ人らはイスラエルへの帰還を望んでいる。Exodus(出エジプト記)に重ねられた現在のユダヤ民族の話なのである。中央の磔刑のキリスト図像は本来いらない気もする。が、絵のインパクトは大だしカトリック教徒の目にも止まるけどね・・。ニースのシャガール美術館正式名は「国立マルク・シャガール聖書の言葉美術館(National Marc Chagall Bible Verse Museum)」1960年、エラスムス賞受賞。同年、当時のフランス共和国文化大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルローはオペラ座の天井画をシャガールに依頼。これは1964年に完成。1966年、シャガールは17点の連作「聖書のメッセージ」をフランス国家に寄贈した。※ それらの絵は以下に紹介しています。フランス国家はそれらを飾る為の美術館を建設してくれる事となった。ニース市が土地を提供するかたちで、1973年のシャガール86歳の誕生日に開館。この建設には、シャガール自身が設計段階から参画している。生きている間に立派な自分の美術館が建てられた事は本当にラッキーだ。エントランスコンサートホール大ホール大ホール旧約聖書を画題とした12枚の油性画が置かれた大ホール。1956年~1958年 人間の創造神は最初の人間(アダム)を塵(ちり)から造ったが、シャガールは天使が人を抱えて地上に降ろしたと言う設定にしているらしい。その背景には、石板を受け取るモーセやヤコブの梯子。そして磔刑のキリストも描かれて居る。それらひっくるめてユダヤ人の歴史の一部と言う意味か?1961年 楽園を追われたアダムとイブイブはヘビにそそのかされて、禁断の木の実を口にした。神に背いたので2人は楽園から追放され、子々孫々の罰を与えられた。シャガールは絵の中でアダムとイブに赤い鳥を添えている。それは希望が2人を見捨てていない事を表したらしい。1960年~1966年 燃える柴の前に立つモーセエジプトで王女の養子として育てられていたモーセはある時、燃える柴に気づく。それは神で、神はモーセに苦しんでいるイスラエルの民をエジプトから連れ出すよう促した。1960年~1966年 岩を打つモーセエジプトを脱出したモーセ一行は水不足に悩む。神の言葉通り、杖で岩を打つと水が湧き出した。1960年~1966年 十戒の石版を授かるモーセエジプトを出て数ヶ月。かつて神の声を聞いた山まで来て、一人山を登る。そこで神が自らの指で書き記した十戒の書かれた石版を受け取った。1960年~1966年 アブラハムと3人の天使老いて子供のいなかったアブラハム夫婦に3人の旅人(天使)は子供が生まれる事を預言した。そして長男イサクが誕生する。1960年~1966年 イサクの犠牲神はアブラハムの忠誠を試した。イサクを犠牲として神に捧げるよう言った。アブラハムは躊躇しながらも神の言う通りに実行。その寸前で神は止めた。この絵は通常それだけなのだが、シャガールは絵の右上にキリストが十字架背負って歩く姿を描き入れている。1960年~1966年 天使と戦うヤコブイサクの子ヤコブは故郷カナンへの帰途、天使と戦った。天使がヤコブを試したのである。勝利したヤコブは祝福され、今後イスラエルを名乗るように言われた。「イスラエル」の名が出たのはここなのである。シャガールは左上には花嫁。右上には出産中の女性や人々を描き込んでいる。1960年~1966年 ヤコブの夢旅の途上、石を枕に寝たヤコブは立てられた梯子から天使が降りてくる夢を見た。天使は、あなたが横たわっているこの地をあなたとあなたの子孫に与えよう。と言った。これが今現在もユダヤ人がイスラエルにこだわる理由です。1961年~1966年 ノアの箱舟アダムとイブの子孫は地上に繁栄したが、堕落していたので神が自ら造った人も地上も洪水を起こして滅ぼす事にした。が、信心深かったノアだけには大きな船を造るように言った。そしてそこに人ではノアの家族(ノアと妻と3人の息子夫婦)と全ての生物の雌雄一対のみを載せるよう言われた。シャガールはノアの家族だけでなく、多くの人々を箱舟に載せるべく人を描いている。1961年~1966年 ノアと虹雨は40日、40夜続き洪水を起こしたので、箱舟に乗っている動物以外は全て死に絶えた。水が引き始め、地が乾き始めた時にあざやかな虹が現れた。ノアは虹に重なるように現れている天使を見ている。シャガールの絵ではたくさん人々が船にのっていたのでその人々が虹を見て歓喜している群像が描かれている。ソロモンの雅歌(がか)シリーズ写真だけ載せます。1960年 雅歌(がか)Ⅰ1957年 雅歌(がか)Ⅱ1960年 雅歌(がか)Ⅲ1958年 雅歌(がか)Ⅳ1965年~1966年 雅歌(がか)Ⅴ1977年 レジオン・ドヌール勲章を受章。ルーブル美術館で展覧会開催。1985年 3月28日逝去。Back numberリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンスリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガール マルク・シャガール(Marc Chagall) 3 戦後編「聖書の言葉」
2023年07月30日
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※ 訂正 14世紀ペストをコロナと書いていましたユダヤ民族の歴史から深掘りしてシャガールに迫りました。結果的にほぼユダヤ民族の受難の話となりました。これはシャガールを語るのに避けられない部分ですから・・。第二次世界大戦のナチス・ドイツが行ったユダヤ人狩り(強制収容所)、劣悪環境での強制労働、人体実験、ガス室での大量殺りく。「アンネの日記(Het Achterhuis)」を読んでそれら事実を知ってはいたが、ゲットー(Ghetto)と呼ばれるユダヤ人隔離居住区が、実はナチス以前の昔から欧州に存在していた事は知らなかった。ユダヤ民族を迫害してきたのは実はナチス・ドイツだけではなかったと言うことだ。はっきり言ってしまえば、西欧全体の国から、歴史的に彼らは嫌われていたと言う事実があった。確かに、歴史に残る特に酷かったのが第二次世界大戦のナチス・ドイツによるホロコースト(Holocaust)である。これによってユダヤ人は激減した。※ ホロコースト(Holocaust)・・ナチス・ドイツがユダヤ人に対して行った大量虐殺を指す。1944年中頃、ナチス・ドイツの侵攻で支配に落ちた地域のユダヤ人社会は、ほぼ全て殲滅(せんめつ)。ポーランドではユダヤ人の約90%、フランスでは25% が殺害された。ドイツ無条件降伏(1945年5月)直前、収容所が解放されるに至ると、戦犯追及を恐れ関係者によって総括書類が破棄され犠牲者の正確な数字は不明となった。※ ニューヨーク・ユダヤ人問題研究所は、戦前に950万人であった欧州のユダヤ人が、1945年には310万人。亡命者60万人を差し引き580万人が犠牲になったと推計しているらしいが、実際はもっと多いと考えられる。シャガールの故郷、ヴィテプスク(Vitebsk)のユダヤ人は、24万人からたった118人になった。シャガール自身はかろうじてアメリカに亡命できて命拾いしたが、ドイツが侵攻した近隣の東欧のユダヤ人は悲惨な運命をたどっている。シャガールの故郷を奪い、友や仲間を奪われ、彼のショックは計り知れ無い。この事が後の彼の作品制作に影響を与えたのは当然である。※ 先に触れたアンネ・フランク(Annelies Marie Frank)(1929年~1945年2月)も父を除いて母も姉妹も、友人もその家族もみな強制収容所で亡くなっている。※ アンネの隠れ住まいはアムステルダムの運河沿いにあり見学に行ったことがある。日記は小学生の時に読んでいたからね。今回はシャガールが第二次世界大戦下でアメリカに亡命するあたりから入ります。その為に、なぜ彼が亡命しなければならなかったのか? の理由を詳細に入れざるを得ませんでした。ユダヤ人、シャガールの特殊な事情は、ユダヤ民族事態に課せられた歴史的な事情にあった事がわかります。また、たいていの解説では「シャガールは第二次大戦下にはアメリカに亡命していた。」だけで終わる部分を詳細に調べました。どのように亡命したのか? が気になっていたからです。実際、当事者の苦労は壮絶で、これも載せる事にしました。そんな訳で、シャガール完結にはいたらず、次回「Part3 戦後編」と続きます。m(_ _)mマルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガール昔から存在していたゲットー(Ghetto)古代からあった住み分けキリスト教徒による迫害とローマ教皇によるゲットー(Ghetto)創設激動の東欧のユダヤ人高い教育水準ダイヤモンド・シンジケートを仕切るユダヤ人1930年~1941年亡命前の不穏なフランス時代ナチス・ドイツによる本格的迫害の開始白い磔刑と黄色い磔刑(white crucifixion and yellow crucifixion)屈辱のイエローバッジ(Yellow Badge)スペインやポルトガルから追い出されたユダヤ人フランス統治下のユダヤ人とゲットーを解体したナポレオンパレスチを旅したシャガールが宗教に向き合うナチス・ドイツによるフランス侵攻フランスからの脱出 アメリカへ亡命シャガール夫妻の欧州脱出娘夫婦の欧州脱出アメリカでは舞台美術に挑むバレエ Aleko(アレコ)昔から存在していたゲットー(Ghetto)現在はゲットー(Ghetto)と言うと貧困層や人種的マイノリティの密集居住地と解釈は広げられているが、かつてのゲットー(Ghetto)は、ユダヤ人を隔離する為に地域地域で造られた居住区を指していたそうだ。古代からあった住み分けユダヤ民族はコミュニティーを造り生活をする。古代のアレクサンドリアやローマにはユダヤ教徒の巨大居住区がすでにあったという。ただ、この頃は単に宗教的な住み分けが主だったらしい。そもそもはキリスト教もユダヤ教から発している。救世主イエス・キリストもまた当初はユダヤ人のメシアとして登場している。だが、ユダヤ教ではキリストをメシアと認めていない。それ故、キリスト教における初期の迫害はユダヤ教徒からのものに限定されている。つまりキリスト教 VS ユダヤ教と言う構図が、キリスト教の誕生当初から存在していたと言うわけだ。ところが、キリスト教がローマ帝国の国教として公認されると立場が逆転。※ 公認されたのは313年、コンスタンティヌス1世(Constantinuss I)(270年代前半~337年)の治世。※ 国教となるのは392年、テオドシウス1世(Theodosius I)(347年~395年)の治世。キリストを死に追いやったユダヤ教徒らはキリスト教徒から敵視され嫌われるようになった。まして、ユダヤ教は選民思想の宗教。内に固められたユダヤ教と異なり、キリスト教は門戸を開き(使徒パウロのおかげ)世界宗教に押し広げられた。もはや全く別物の宗教となり乖離(かいり)していく。何より典礼の違いは大きい。お互い干渉しないよう居住区が存在していたというよりは、やはりキリスト教徒の目に留まるのが嫌だったから。と言うのが理由らしいが・・。キリスト教徒による迫害とローマ教皇によるゲットー(Ghetto)創設当初はお互い不干渉なところもあったらしいが、10世紀から始まるキリスト教徒による十字軍遠征以降、ユダヤ教徒の嫌われ度はアップ。実は、イスラム教はユダヤ教から派生したと言ってよい。宗教関係は兄弟? イスラムの世界の中でもユダヤ教は共存していた。聖地エルサレムをイスラムから奪還した時に、そこにはユダヤ人もいた。それに対してもキリスト教徒は気にいらなかったのかもしれない。※ 最初からイスラムはエルサレム巡礼の制限はしていなかったから、聖地奪還の必要は無かった。14世紀にはペストのパンデミックをユダヤ人のせいだとしてキリスト教徒は避難。徐々にユダヤ教徒の隔離政策は欧州中に広がったと言う。最もこの頃は、キリスト教以外の宗教を全て異端として断罪するというローマ教皇庁の強硬な態度もあった。異端狩りである。1555年、ローマ教皇にパウルス4世(Paulus Ⅳ)(1476年~1559年)(在位:1555年~1559年)が就任するとさらに隔離政策は加速する。1555年7月、パウルス4世は教皇勅書「Cum nimis absurdum(クム・ニムス・アブスルドゥム)」を発布。そしてローマにユダヤ人を隔離する為のゲットーを創設。以降、教皇領中に公式のゲットーが増設されて行ったそうだ。※ 1562年、公式にゲットー(Ghetto)の名称が使用される。パウルス4世は反ユダヤ主義の先鋒。ユダヤ教徒への憎悪は「Cum nimis absurdum」の訳をみるかぎり相当ヒドイ。かつてキリストを断罪したユダヤ人と同じくらいあったようだ。とにかくユダヤ人の悪口雑言(あっこうぞうごん)ばかりが書かれている。教皇勅書とは思えないそもそも、パウルス4世は異端審問所長をしていた経歴がある。厳格と無慈悲で有名で「異端であれば、たとえ自分の父親であっても火炙りにするだろう」と公言する人物。ゲットー(Ghetto)を各地に造ったと言う事は、確実に差別して邪魔者扱いしたと言う事。教皇が率先しているのだから何も知らない市民だって、だんだん刷り込まれユダヤ人を憎悪するようになるさ。ユダヤ教徒からしたらパウルス4世は災いをもたらした最悪な教皇。ローマ教皇庁はユダヤ人に正式に謝罪しているのかな?因みに、システィーナ礼拝堂のミケランジェロ作「最後の審判」の絵図のキリストに腰巻(俗にフンドシ)をつけさせたのも彼。裸体を嫌悪したかららしい。激動の東欧のユダヤ人キリスト教社会から疎外されユダヤ人はまとめてゲットーに隔離された。それは当然職業にも影響した。公職には付け無いから職業が制限されたのだ。お金の無い者󠄂は職工や農業など生産的職業に。お金のある者󠄂は質屋、両替商、銀行などの金融業がユダヤ人の主な職業となった。それにしても、当初のユダヤ人だけの隔離コミュニティーは決して悪いものではなかったらしい。民族のつながりを重視する彼らのコミュニティーは、一つの村なり街なりに成長する。ユダヤ教の会堂「シナゴーグ(synagogue)」を造り、学校も作られ教育水準も高くキープ。部外者がいないから典礼など宗教文化は保たれたからだ。ところで、ユダヤ人が東欧、ポーランドに特に多くいたのは、モンゴル人に荒らされた国土の開発が重視され移民を多く受け入れたから、と言う歴史的事情があったらしい。それ故、当初のポーランドにはユダヤ人自治区「シュテットル」こそあれ、「ゲットー」というものがまったく存在していなかったそうだ。※ 反ユダヤ主義でナチスが台頭する頃はポーランドも反ユダヤ主義になっていたが・・。前回触れたが、シャガールの故郷ヴィテプスク(Vitebsk)はイディシュ語(Yiddish)を話すコミュニティー、シュテットル(shtetl)であったから、他の地域のユダヤ人らより自由に生きられていたのかもしれない。とは言えニシン商人に雇われ重労働を強いられていた父親の給料は、20ルーブル(roubles)しかなかった。妻ベラの家のように成功しているユダヤ人と下々のユダヤ人の差は存在していたようだ。当時は父を蔑視していたシャガールが、後に父親への敬意を示した。シャガールの絵画の中に現れだした「魚のモチーフ」がそうらしい。高い教育水準ところで、ユダヤ教では高い教育が求められる。頭脳こそが身を守る最上の手段と考えられ、昔から勉学による教育が最も重視されて来たからだそうだ。コミュニティーには必ず学校があった。※ 貧しいシャガールの家でも母はシャガールに高い教育を施す為に奔走していた。キリスト教徒でさえ、識字率は低かった。でもユダヤ教徒はどこの子も教育が徹底されて来たから東欧では特に商業や中間管理業務などに従事し、貴族など上流階級とも結びつき、彼らの中から裕福な成功者がたくさん出たそうだ。なるほど・・である。家系は重視されるが、誰でも成功のチャンスはあったわけだ。因みにシャガールの妻ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)の実家は宝石商で、地元の有力者でもあった。ダイヤモンド・シンジケートを仕切るユダヤ人ところで、これも余談であるが、宝石のダイヤモンドには価格暴落を調整する為に採掘から生産、販売までの一環したダイヤモンド・シンジケート(diamond syndicate)が存在している。このシステムを造ったのが後にDe Beers(デビアス)の経営トップになるドイツ系ユダヤ人のアーネスト・オッペンハイマー (Ernest Oppenheimer)(1880年~1957年)である。そもそもDe Beers(デビアス)社はユダヤ系財閥であるロスチャイルド家の資金援助を受けて1881年、セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes、1853年~1902年)により創業された会社だ。オッペンハイマーもまたロスチャイルド家の資金でシンジケートを造りDe Beers(デビアス)の立て直しに貢献した。※ ロスチャイルド家はナポレオンのワーテルローの戦いで触れています。リンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子このシステムで世界のダイヤモンド原石80~90%がデビアス社に集まる。またデビアス社の主要株主はユダヤ系の財閥が中心である事もあり、取引所メンバーの大多数はユダヤ人であり、使用される言語も特殊らしい。そんな事情でダイヤモンド産業は、昔から金融業と並ぶユダヤ人の伝統的な産業になっている。ユダヤ人は裕福。これもまた嫌われた理由である。(全員が裕福なわけでは無かったのに・・。)ナチス・ドイツは彼らを排除し、彼らの財産を奪う。財産の無い者(国外に逃げる資金の無い者)は殺された。ナチス・ドイツの台頭で東欧のユダヤ人が反転して歴史的に最も悲劇にみまわれる事になったのだ。1930年~1941年亡命前の不穏なフランス時代ナチス・ドイツによる本格的迫害の開始反ユダヤ主義を掲げて第一党となったナチス。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler) (1889年~1945年)の首相就任後、嫌がらせは静かに始まった。ユダヤ人を追い出したいドイツと同じく自国から追い出したいポーランドの間で押しつけが始まった。ユダヤ人は国境で右往左往。食料もなく餓死者も出たそうだ。1938年11月7日、それに抗議したポーランド系ユダヤ人青年がドイツ大使館員を暗殺。ユダヤ人青年は国際社会に訴える為のパフォーマンスであったようだが、ヒトラーは怒った。「SA(突撃隊)を解き放つべき時がやって来た」と告げたという。そして1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツ各地で反ユダヤ主義暴動が開始された。ユダヤ人居住地が突然襲撃され、シナゴーグ(ユダヤ人の教会兼集会所)や店や家々に火をつけた。むろん暴動の主力となったのはSA(突撃隊)のメンバーで一般市民ではない。破壊された店舗のガラスが月明かりで煌(きら)めき水晶のようだった所から、ナチスはそれをKristallnacht(クリスタル・ナハト・水晶の夜)事件と命名したらしい。実際、ヒトラーが指示してSAが動いていたが「国民が怒っている?」政府は関与していない風をよそおったと言う。※ 現在はナチスからの名称でなく、November pogrome 1938(11月ポグロム(破壊)1938年)と呼ばれる。白い磔刑と黄色い磔刑(white crucifixion and yellow crucifixion)下は1938年の悲劇を聞いてシャガールが描いたWhite Crucifixion(白い磔刑)である。1938年 White Crucifixion(白い磔刑)所蔵 Art Institute of Chicago(シカゴ美術館)この絵でまず気になるのが中央のキリストである。なぜなら、ユダヤ教ではキリストをメシアと認めていないからユダヤの絵画にキリストが描かれる事は無い。しかし、この絵では中央にキリストが、しかも磔刑の図で描かれている。「キリスト自身がユダヤ人である」事を象徴として敢えてシャガールは取り上げたらしい。この絵ではイエス・キリストとユダヤ人の受難が共に強調されている。キリストを描く事での衝撃は大きい。迫害されるユダヤ人の窮状(きゅうじょう)は世界に知れ渡る事になる。上 左上からSA(突撃隊)が攻めてくる所。下が放火されたユダヤ人の家々。船で逃げる難民。下 商店が襲撃されショーウインドウが割られて火をつけられた所? あるいはシナゴーグか?旗はリトアニアの国旗らしい。リトアニアの窮状がひどかったのか?リトアニア共和国(Republic of Lithuania)と言えば杉原 千畝(すぎはら ちうね)(1900年~1986年)氏の「命のビザ」発行がある。リトアニアのカウナス(Kaunas)領事館に赴任中、1940年7月~8月にかけて多くのビザを発行してユダヤ難民を国外に逃げがした事で知られる。※ シベリア鉄道でウラジオストクから船で敦賀港に。日本経由でアメリカなどに亡命させた。ここに、年代は異なるが、もう一枚の絵を紹介しておく。「White Crucifixion(白い磔刑)」と対になるような「Yellow Cricifixion(黄色い磔刑)」。自身の「白い磔刑」をオマージュ(hommage)するように描かれた「黄色い磔刑」。「白い磔刑」ではユダヤ人の受難を、「黄色い磔刑」ではユダヤ人の死が表現されている。この絵は大戦中のアメリカで描かれたと思われる。シャガールは1941年にアメリカに亡命している。1942年 The Yellow Crucifixion(黄色い磔刑)所蔵 Musée National d'Art Moderne in Paris(パリの国立近代美術館)?※ リストでは黄色い磔刑はArt Institute of Chicago(シカゴ美術館)所蔵になっているがいずれも確認が取れない。こちらは敢えて「White Crucifixion(白い磔刑)」と同スタイルを使用。ユダヤ人の受難の象徴として、敢えて描かれた「磔刑のユダヤ人キリスト」。おそらく黄色は炎の象徴ではないか? と思う。中段右、ユダヤ人の街やユダヤ人が炎に飲み込まれて行く。つまり多くのユダヤ人の命が失われていると言う現状を示しているのだろう。前作の白い磔刑にもあった船が今度は転覆する絵が描かれている。これは1942年のストルマ号惨事(Struma disaster)の事らしい。ルーマニアから800人近くのユダヤ人難民を委任統治領パレスチナに連れて行こうとしていた船MVストルマ号は英国がユダヤ人たちのパレスチナでの下船を許可しなかった為、航海上をさまよい船はトルコで拿捕。そしてその数か月後に黒海でソ連軍により撃沈された。キリストの足下に描かれている梯子(はしご)は旧約聖書、創世記28章に登場するヤコブの夢から現れる「ヤコブの梯子」らしい。それは地上から天国に通じる階段の役割を持つ。上には巨大な命の書の開いた巻物。巻物の緑は希望を表していると言うが・・。天使がラッパを吹く。人に死の予告を与えるラッパ? あるいは黙示録的、終末の音(ね)、アポカリプティック・サウンド(apocalyptic sounds)なのか?いずれにせよ死者が蘇(よみがえ)る事はない。ここでは、天使のラッパは死者の魂を救済するラッパと解釈するのが正しいかもしれない。屈辱のイエローバッジ(Yellow Badge)1930〜40年代、ナチスはユダヤ人を識別する為にダビデの星型をしたイエローバッジ(Yellow Badge)をユダヤ人が付ける事を強要した。「この印を着けている者は国民の敵である」とナチスは言ったのだ。写真はウィキメディアから。ユダヤ教徒にとって黄色は恥辱のバッチの色となった。スペインやポルトガルから追い出されたユダヤ人ところで、レコンキスタ後のスペインやポルトガルはカトリック押しであるから異教徒には厳しかった。が、しかしイスラム教徒も改宗すれば国内に留まれたので、ユダヤ人の場合もそうであったと思われる。ただ、ユダヤ人は絶対的に改宗しなかったであろうから、皆、国外退去になったのだろうと推察する。オランダに移動したユダヤ人はダイヤモンド関連のビジネスで成功していく。ダイヤモンドを研磨する職人にユダヤ人が多く付いていた事もある。先に紹介したように、De Beers(デビアス)を中心としたダイヤモンドビジネスは現在もユダヤ人の独占である。皮肉な事に、ゲットー(Ghetto)があったからこそ、ユダヤ民族独自の文化が長く継承されたと言える。だが、逆に言えば社会変化に関係なく、かたくなに己の文化を守り続けたからこその弊害が生まれた。それは時代が進むほどに世間一般とは乖離(かいり)して行ったと思われる。ドイツ系ユダヤ人哲学者・啓蒙思想家であるモーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)(1729年~1786年)はユダヤ人はユダヤ人自身も社会の変化に柔軟に適応しなければならない。と提言し、民族信仰をやめて、個人の信仰にとどめ、政治や文化は一般世界のスタイルに合わせるべきだと主張していた。※ モーゼスの孫がロマン派の作曲家、フェリクス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)(1809年~1847年)。ドイツ音楽界の重鎮として君臨したのに、再燃する「反ユダヤ主義」のあおりを受けて死後、過小評価されてきたらしい。因みにモーゼスの息子は銀行家。富裕なユダヤ人の家系であったメンデルスゾーン家は謂(いわ)れなき迫害を受けることが多く、キリスト教へ改宗したらしい。ユダヤ教における宗教的指導者、ラビ (祭司・rabbi)は血統による世襲制。彼らはシナゴーグ(synagogue)の指導者であると同時にユダヤ・コミョニティーの代表でもあった。いにしえからの律法を最も重んじる彼らがすんなり変わる訳ではない。むしろ変化を好まないで来たのだ。だがしかし、フランスにいたユダヤ人は違っていたらしい。フランス統治下のユダヤ人とゲットーを解体したナポレオンフランス革命後、ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年~1821年)の進軍でフランスの領土は欧州に拡大し巨大な帝国を築いた。1806年8月、神聖ローマ帝国は解体。この進軍で、ナポレオンは各地のユダヤ人ゲットーを解放して行ったと伝えられる。実はフランスでは王がユダヤ人を利用していたのでユダヤ人は王権により保護されている部分があった。つまりお互いメリットがあった関係だったから、他の国々のユダヤコミュニティーとは一線を画し、うまく共存していたらしい。それは人権的な意味での関係ではなかったが、決して悪い関係ではなかった。1789年のフランス革命後、自由主義をうたう革命政府の元でユダヤ教徒はプロテスタントらと共に速やかに法の下の平等が約束されたそうだ。1790年、1791年と一斉にではなかったが、順次、職業と居住地を選ぶ権利がユダヤ人に与えられた。最も地方により共存関係には差が出たらしいが・・。そもそも革命政府が、ユダヤ人の地位を議論したと言うところが革新的だったと言える。ナポレオンが帝位ににつくのは1804年であるから、それ以前にフランスのユダヤ人は解放されていた事になる。だから進軍したナポレオンが占領下のゲットーを次々解体して行ったと言う事実は、ナポレオンが、と言うよりは、フランス占領下に置ける市民のいかなる自由も革命政府が認めている。と言う事に基づいていたと思われる。ナポレオンが失脚すると再びユダヤ人に制限が加えられたと言うが、フランスにおいて、それはなかった? 前回触れたが、ジャガールがパリに出て画学生となるのは1910年。彼が23歳の時。おそらく留学に何の制約もなかったと思われる。ただ、ナチス・ドイツがフランスを侵略した時だけは事情が変わった。1941年、シャガールは逮捕され、その後アメリカに亡命して逃れる事ができたが・・。パレスチを旅したシャガールが宗教に向き合う1931年、シャガールに旧約聖書の挿絵の依頼が来ると、直接聖地を体現するべくイスラエル、テルアビブ(Tel Aviv)に家族で訪問。シオニスト(Zionist)のリーダーで、初代テルアビブの市長でもあったメイア・ディゼンゴフ(Meir Dizengoff)(1861年~1936年)に招待されたのだ。1930年、ディゼンゴフは妻亡き後の自宅をテルアビブに寄贈して美術館にする計画があった。※ テルアビブ美術館(Tel Aviv Museum of Art)として1932年に完成。1931年~1934年にかけて、彼は本格的に「聖書」に向き合う機会を得る。※ 聖書絵画の研究の為に巨匠レンブラント(Rembrandt)(1606年~1669年)やエル・グレコ(El Greco)(1541年~1614年)の絵画を見る為にアムステルダムにも渡航している。旧約聖書は自分の民族の歴史であり、子供の頃から心に刻まれてきた句のはずであるが、実は彼はそんなに真面目なユダヤ教徒ではなかったらしいのだ。前回、シャガールはイディシュ語(Yiddish)文化を持つを東欧系ユダヤ・コミュニティーの出身者であると紹介した。敬虔(けいけん)なるユダヤ教徒であった両親はハシディズム(Hasidism)を信奉するハシディストであったと思われる。※ ハシディズム(Hasidism)は「敬虔主義者」,「信心深さ」を意味する。正統派ユダヤ人の慣習を遵守し、宗教的および社会的には保守主義であり、それ故、社会的隔離が見られる。言語も、身につける衣服さえ一般人とは異なる。超正統派路線のユダヤ教徒だ。しかし、公開されている写真などを見る限り、シャガールがハシディストであったとは思え無いのだ。もみあげも無いし、むしろオシャレな髪型、オシャレな服装。普通の若者である。また、彼の初期絵画に、故郷ヴィテプスク(Vitebsk)の街や人々は多々描かれるが、祈りを捧げている風な人々は見られない。真面目に祈りを捧げる父とは、宗教的にかなり対立してきたらしい事が解ってきた。だから? 本来父のようなハシディストが巡礼に行きたかったイスラエルに彼は来て、見て、感じるものがあったのかもしれない。改めて自身のルーツとなる宗教と真剣に向き合い、他の敬虔なる画家らの絵画にも向き合いなおしたのかもしれない。1933年 Solitude(ソリチュード・孤独)所蔵 Tel Aviv Museum(テルアビブ美術館)上は孤独(ソリチュード・Solitud)とタイトルされる絵であるが、トーラ(律法の巻物)を抱えて物思いにふける男は、イスラエル帰りのシャガール自身なのではないか? と思える。この絵は自身でテルアビブ美術館に寄贈している。今までありそうで無かった正統派ユダヤ教徒の服装。それにしても牛がカワイイ。深刻な悩みかもしれないが、こう言うと所が「ほんわか」させる。どう言う意図(いと)なのかな?1937年、シャガールはフランス国籍を取得。この頃はまだイタリア旅行もできていた。しかし、ドイツでは、シャガール作品がナチスによってすべて撤去され燃やされたりもしている。※ 以前、ナチスが嫌う退廃芸術について書いています。シャガールの絵は嫌われていました。リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)ナチス・ドイツによるフランス侵攻1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランド侵攻し、その2日後にフランスとイギリスがドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦(1939年~1945年)が始まった。開戦から半年、1940年5月、ナチス・ドイツはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻を開始。1940年6月14日、ドイツ軍は無防備都市宣言していたパリに無血入城し、翌日フランス内閣は総辞職。フランス政府はドイツへの休戦を申し入れ22日、休戦条約が調印(独仏休戦協定)。これによりフランス軍の大半は武装解除されたが、パリを含む北部フランスはドイツ軍の占領下に置かれ、またこの時アルザス=ロレーヌ、サヴォワ・ニースはそれぞれドイツ、イタリアに割譲されてしまった。※ シャガールは1939年にはすでに南フランスへ避難していた。ところで前回「1930年代のパリでの生活の中で、画家は花の静物画をたくさん描いていたらしい。」と紹介した。画商アンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)(1866年~1939年)の元でプライベートの依頼もこなしていたのかもしれない。こんな時期にもかかわらず、描いていた花嫁シリーズ?誰かの結婚祝いで描いたのかもしれない。もしかしたらシャガールの一人娘イーダ・シャガール(Ida Chagall)(1916年~1994年)の結婚があった可能性がある。なぜなら、1941年の亡命時には25歳のイーダには夫がいたからだ。※ 娘婿ミシェル・ゴーディ(Michel Gordey)(1913年~2005年)とは後に離婚。※ イーダも2度結婚している。2番目の夫フランツ・ニコラス・メイヤー(Franz Nicholas Meyer)(1919年~2007年)1939年 Newlyweds on the Eiffel Tower(エッフェル塔の新郎新婦) 所蔵 Musée National d'Art Moderne in Paris(パリの国立近代美術館)上がエッフェル塔を背景にしたパリでの結婚式で、下はイーダの生まれ故郷ヴィテプスク(Vitebsk)を背景にしたものかもしれない。いずれにせよ下の花嫁の絵はPrivate collectionになっている。1938年~1940年 the-three-candles(3本の蝋燭)所蔵 Private collection下は花嫁ではなさそうだ。1939年 Midsummer Night's Dream(真夏の夜の夢)所蔵 Musée de Grenoble(グルノーブル美術館)?タイトルから読める絵画の人は妖精王オベロン(Oberon)の妻タイターニア(Titania)と、いたずら好きの妖精パック(Puck)にロバの頭をかぶせられた織工のニック・ボトム(Nick Bottom)と言う事になる。ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)(1564年~1616年)の喜劇「A Midsummer Night's Dream(真夏の夜の夢)」妖精王オベロン(Oberon)と妻タイターニア(Titania)の喧嘩から始まる妖精の森でおきた珍事件。タイターニアとロバ頭は媚薬(びやく)のせいて恋に落ちたのである。画面では花嫁はそっけなさそうだが・・。ベールを付けた花嫁らしき女性は青い扇子を持っている。この頃シャガールが繰り返し使用していたモチーフらしい。娘イーダ(Ida)(1916年~1994年)の結婚式であった可能性は高い。そして花嫁はイーダ(Ida)の可能性が極めて高い。最初の結婚式がいつだったか不明であるが・・。花嫁は、度々現れるシャガールのファンタジーに登場する一つのアイコンになっていく。それにしてもシャガールの絵は素敵だ。シャガール自身が、自分は決して目覚めない夢想家だったと語っているが、かつての友人でありライバルでもあるパブロ・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso)(1881年~1973年)はロシア人(シャガール)の光に対する感覚とイメージの独創性に驚嘆し、「彼の頭の中には天使がいるに違いない。」と言ったという。確かに非常に個性的で哲学を語る詩的なシャガールの絵はエコール・ド・パリの芸術家たちの中でも異質だったのかもしれない。それは誰もがうらやむ才能だ。フランスからの脱出 アメリカへ亡命ナチス・ドイツに進軍された所はどこもユダヤ人狩りをされた。自由を与えられたフランスでもナチスに支配されると状況は変わった。シャガール夫妻の欧州脱出1941年 ニューヨーク近代美術館の招聘(しょうへい)を受け、アメリカに向かう途中、南仏マルセイユでナチスに逮捕される。が、アメリカ領事らの尽力で釈放されシャガールは難民船でフランスを脱出。アメリカに亡命する事となった。実はシャガールの脱出には当時ニューヨーク近代美術館の館長だったアルフレッド・H・バー(Alfred H. Barr)が策を講じ、できるだけ早くビザが取得できるように、アメリカでのシャガールの個展開催を考案して招待状を送っていた。シャガール自身はユダヤ人であるだけでなく、ナチスによって「堕落した芸術家」という烙印が押されていたから収容所に送られる危険が十分考えられたからだ。※ 退廃芸術については「ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)」で書いてます。リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)資金はユダヤ系アメリカ人の団体やコレクターが払ったらしい。そして一旦逮捕されたもののシャガールと妻ベラはフランスからの脱出に成功するが、別便で送る予定だったシャガールの作品がスペイン税関に没収されてしまう。何より「芸術家の主な資産は絵画」である。絵画の取り戻しには娘イーダが向かった。娘夫婦の欧州脱出この時、南仏には一人娘イーダ(Ida)(1916年~1994年)と彼女の夫ミシェル・ゴーディ(Michel Gordey)(1913年~2005年)が立ち往生していた。あまりにも事が早くすすみ過ぎて2人のチケットを用意する事ができなかったからだ。父の絵をスペイン税関から取り戻す為にスペインに向かうが夫のミシェルがスペイン国境で逮捕。イーダ(Ida)は二つのミッションを同時に処理し、父親の絵画を取り戻す事ができたが、難民船はすでになく、彼らは逃亡を計るユダヤ人の為の非常に高額な汽船のキップを買わざる終えなかったそうだ。価格は 600 ドル、現在の価格ではそれぞれ約 11,000 ドル相当。それでも親からもらっていたお金でチケットが購入できたのはラッキーだ。このお金が出せなくて、欧州にとどまり、強制収容所に送られて命を落とした者が何万もいる。またお金があっても、絵画を持ち出す事は困難を極めた。何しろイーダ(Ida)とミシェルの乗った船は本来定員15人の貨物船。そこに1180人の乗客と食用の牛が4 頭。絵画はデッキ上に置かれ彼らも40日間の航海をそこで過ごしたらしい。惨状はひどく、多くが航海中に亡くなったそうだ。余談であるが、大戦下、ユダヤ系アメリカ人で、グッゲンハイム一族の一人マルグリット・ペギー・グッゲンハイム(Peggy Guggenheim)(1898年~1979年)はドイツ占領前のパリで有力な芸術家の作品を買い集めていた。彼女は欧州から画家のキャンバスの持ち出しに成功している。また、イーダについてはこんな伝説もあるそうだ。アメリカの諜報員に父の絵を託し、その中の一枚を報酬として渡すと言うもの。諜報員コンラッド・ケレン(Konrad Kellen)は1950 年代に報酬の1枚を売却しているらしい。いずれにせよ、イーダの活躍でシャガールの絵はナチス支配下の欧州から持ち出す事ができた。そして当初予定? だった、ニューヨーク近代美術館でのシャガールの個展は開催できたと言う。何にしても親子は生きて再会できたわけで、それは非常にラッキーな事であったと思う。アメリカでは舞台美術に挑むアメリカ時代(1941年~1948年)の作品数17点 (内、個人蔵 8点、美術館 6点、不明3)ニューヨークの街はシャガールを魅了したようだ。マンハッタンでは小さな店のユダヤ人店主や職人たちとイディッシュ語で会話も楽しめた。ただ、ご時勢がら戦争やユダヤ人の逮捕や強制連行など、スタジオに戻るたびに進む戦況、同胞の殉教。戦争の悲劇には心を痛めていたらしい。だから1942年の春、新しい仕事のおかげで彼の気持ちを散らしてくれた。当時、Ballet Theatre of New York (現 the American Ballet Theatre)で、チャイコフスキーの音楽とプーシキンの詩「ジプシー」に因んだバレエ「アレコ」のメキシコシティでの公演の演出に携わっていた有名なロシアの振付師、レオニード・マシーヌ(Leonide Massine)(1896年~1979年)からシャガールに舞台の風景と衣装のデザインの依頼が来たのだ。※ レオニード・マシーヌはロシアのバレエ振付家でありダンサー。 世界初のシンフォニック バレエ「レ プレサージュ(Les Présages)」をはじめ、同様のバレエ作品を数多く創作。 プーシキンの崇拝者でもあるシャガールは、陰鬱な気を晴らしてくれるこのバレエの舞台演出の話を熱望したと言う。また、シャガールはバレエ劇場の一団としてメキシコにも同行。アメリカの舞台画家組合の管轄外で、自分のデザインで舞台の演出を手がける事ができた。彼はまた、アレコの為の衣装70着を装飾。その一部は妻のベラが縫ったとも言われている。バレエ Aleko(アレコ)初演はMexico City(メキシコ・シティー)1 か月後にニューヨークの Metropolitan Opera House(メトロポリタン オペラ ハウス)で開幕。制作 Ballet Theatre of New York (1942 年初演Mexico City)。振付 Léonide Massine(レオニード・マシーヌ)音楽 Pyotr Ilich Tchaikovsky(ピョートル・イリッチ・チャイコフスキー)Act 1 (1幕) Aleko and Zemphira by Moonlight (月光のアレコとゼンフィラ)Act 2 (2幕) The Carnival (カーニヴァル)Act 3 (3幕) A Wheatfield on a Summer's Afternoon (ある夏の午後の麦畑)Act 4 (4幕) St. Petersburg illusion サンクトペテルブルクの幻想)幕のサイズ 9 m×15 m1942年 Act 1 Aleko and Zemphira by Moonlight (月光のアレコとゼンフィラ)所蔵 Aomori Museum of Art(青森県立美術館)1942年 Act 2 The Carnival (カーニヴァル)所蔵 Aomori Museum of Art(青森県立美術館)1942年 Act 3 A Wheatfield on a Summer's Afternoon (ある夏の午後の麦畑)所蔵 Philadelphia Museum of Art(フィラデルフィア美術館)Credit Line: 1986年 Leslie and Stanley Westreich(レスリー&スタンレイ・ウェストライヒ)からの寄贈部分 黄金色の麦畑の中からカマと動物 ちょっとした所にかわいさが。シャガールは「色だけで遊んで語りたい」と言ってたらしいが、配置されるアイテムが何かの象徴としてある。カマがある事で収穫時期の麦穂だとわかる。では逆さ白樺の意味は? 白樺(しらかば)は中央ロシアで最も広く分布する樹であり、ロシアの国樹らしい。たぶんメキシコに白樺の木など無いであろう。逆さなのはロシアを非難している。と言う意味かも。1942年 Act 4 St. Petersburg illusion (サンクトペテルブルクの幻想)所蔵 Aomori Museum of Art(青森県立美術館)最終幕フィナーレの幕がサンクト・ペテルブルグの幻想(Petersburg fantasy)真っ赤に染まった? 燃えている? サンクトペテルブルクの街並み。戦争と言う暗黒にアレクの狂気を重ねてる?このバレエはロシアの詩人であり作家であるアレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(Aleksandr Sergeyevich Pushkin)(1799年~1837年)の詩「ジプシー」とロシアの作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky)(1840年~1893年)の音楽を基盤にしたもの。ロシアの偉大なる作家と音楽家の作品に競作できた事はシャガール自身がラッキーだったと思っていただろう。そしてこの中にシャガールなりのロシアに対する皮肉も込められているのですね。1943年 The Juggler(ジャグラー) 所蔵 Private collection1945年 Firebird Costume( 火の鳥のコスチューム ) Green Firebird Monster(緑の火の鳥のモンスター)火の鳥のコスチュームの原案でしょうが、The Juggler(ジャグラー)から啓発されている気がしますね。下はAleko and Zemphira by Moonlight (月光のアレコとゼンフィラ)をモチーフにした作品。1944年 Coq rouge dans la nuit(Red rooster in the night)(夜の赤い雄鶏)所蔵 不明やはり、1940年前後に現れる花嫁花婿は、ほぼほぼイーダ・シャガール(Ida Chagall)(1916年~1994年)とその夫ミシェル・ゴーディ(Michel Gordey)(1913年~2005年)と思われる。そしてミシェルは金髪で、イーダは式の時に青い扇子を持っていたと思われる。確定だね。たぶんさて、ニュヨーク近代美術館での個展も成功し、以前からアメリカでのシャガールの評価は高かったがさらに上がる。でもこの後シャガールに悲劇が起こる。 つづくBack numberリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンス マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガールリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 3 戦後編「聖書の言葉」
2023年06月30日
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訂正 1917年 Double portrait au verre de vin (ワイングラスを掲げる2人の肖像)の所蔵場所を間違って載せていました。正解はParis, Centre Pompidou(パリ、ポンピドゥーセンター)です。お待たせいたしました。困った時の芸術シリーズ。今回は画家シャガール(Chagall)にしましたが、知識が足りず、補うのにちょっと時間がかかりました。昔、友人の新居祝いにシャガール風の絵を描いてほしいと頼まれた事があって、その時シャガールがどんな絵を描いたていたか研究した事があった。確か、着ぐるみのような大きな羊と友人に見立てた白いドレスを着るスリムな女性をメインお置き、バックをシャガール・ブルー。背景に夜のヴィテブスク(Witebsk)の街並みとその上を浮遊する新婚(花嫁と花婿)。ユダヤ教で使われる燭台(メノーラー・menorah)。さらに羽の生えた魚などを書き加え、サイン代わりに絵を描いている自分の姿も小さく入れ込んだ。※ 今考えると、それらは後期シャガール作品のまねごとです。シャガール風を描く事は難しい事ではない。繰り返し現れてくる定番の彼のモチーフにはそれぞれ意味がある。まさに象徴を散りばめたと言えるそれらモチーフは例え脇役であっても「シャガールをしている」と言える存在感を持っている。当然、人生が長い彼の作品はある程度のカテゴリーに分けられる。多少傾向が変わろうとも、不思議とどの時代もシャガールと解る個性が見えるのだ。希(まれ)にエッと思う作品もあるが・・。またシャガールは色彩にもこだわりを持っていたから、明にしても、暗にしても、シャガール・カラーが存在する。それにしても不思議な絵。初期の作品こそキュビズムの影響が濃く見えるが、その中にもすでにファンタジー的要素が垣間見える。割と早くに自分スタイルを確立した? いや、割と初期の信念を保ちつつスタイルを確立したのかもしれない。最もそう考えると、彼は最初から売れる絵を描いていたと思う。今回ゼロから作品を見直して、無名時代の絵でさえ「買ってもいいな。」と思う素敵な絵を描いていたからだ。彼の育った街はモスクワに近い田舎の辺境地。決して明るいとは言えない環境の中で、彼の色彩感覚はどこから生まれたのだ? と言う疑問を持つほどずば抜けていた。ロシア・アヴァンギャルド (avant-garde)からは離脱し、シュールレアリストと呼ばれる事を嫌う。キュビズムもフォビズムもシュールも全て詰めて消化した? 唯一無二(ゆいいつむに)のスタイルなのだ。もともともっていたファンタジー要素が、さらにアップしてファンタジー調の幻想絵画を作りあげた。それが舞台デザインに生かされたのは当然だが、彼は宗教画の中にさえそれを持ち込んだ。旧約聖書のストーリーをファンタジー調に描いた作品がニースのシャガール美術館にある。ステンドグラスにもその世界観が表現された。明るくて、かわいくて、素敵な絵だから宗教画だと気づかない人もいるかもしれない。でも、彼の宗教画は見せかけの物ではない。たくさんのユダヤの同胞を先の大戦で失った。そのレイクエムも込められたユダヤ人賛歌でもある。マルク・シャガール(Marc Chagall)(1887年~1985年)今回は何を載せるか迷いに迷い。シャガールに行き着きましたかなり昔にニースのシャガール美術館は行ってますが、絵のほとんどは他からかなり引っ張っています。彼の終焉の地、南フランスのサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)。その墓地の写真はオリジナルです。でも、シャガールは長生きだったから、作品は多すぎるし、何より彼は敬虔(けいけん)なるユダヤ教徒(Hasidic Jews)だったから中身が濃い。一朝一夕には終わらないのよね。やっぱり1回では無理だった。とにかく作品数が多いのです。版画類は別として、その作品数はざっと300を超える。半数は美術館などに収まり、残り半数はPrivate collectionとなっている。※ 版画類を入れたら恐ろしい数では? 商業用リトグラフなど大量に販売されていたからね。商業用絵はがきに関しては、作品のリストに入っていない物もある。作品の年代順のリストをベースに時系列の事象を加えてカテゴリー分けしながら考察してみました。要するに、初期作品から順番に作品を追って行ったのです。シャガールは第一次世界大戦、モスクワ革命、第二次世界大戦ではナチスを逃れてアメリカに亡命。戦争にはかなり翻弄され居場所を変えている。また私生活では2人の妻をめとっている。ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)※ シャガール28歳で結婚。結婚生活(1915年~1944年)死別ヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年) ※ シャガール60歳で再婚。結婚生活(1952年~1985年)戦後作品に出る花嫁は、ベラ(Bella)ではなく、ヴァヴァ(VaVa)?第二次世界大戦直前にどうも娘が結婚? 戦後作品の花嫁は娘をモデルとした? のも多々みられる。社会の激動期に運命に翻弄され続けたシャガール。置かれた環境からくる心境変化は、当然、作品に影響をもたらした。どうしてその作品が生まれたのか? と言う所から攻めたいと思います。内容は非常に濃いです。と、言うわけで2部作になりそうです。マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンスシャガール終焉の地サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)戦後、南仏に移住した訳サン ポール ド ヴァンス墓地(Saint Paul de Vence Cemetery)ユダヤ人(Jews)、マルク・シャガール(Marc Chagall)アシュケナジム(Ashkenazim)とセファルディム(Sephardim)イディシュ語(Yiddish)を話すユダヤ・コミュニティー画家としての成功と同郷のベラ(Bella)との結婚1914年~1922年 ロシア時代(Russia)故郷からの脱出1923年~1941年 フランス時代(France)パリで画商と契約、挿絵の為の銅販画をはじめる夢からインスピレーションシャガール終焉の地カンヌ、ニース、(モナコ)、マントンと南仏のコート・ダジュール(Cote d'Azur)は、風光明媚な上に地中海性気候でバカンスに最適。南仏の陽光を求めて画家らが集まった場所。そこは中世に造られた城壁に囲まれた小さなコミュニティー。サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)は芸術家がこぞって住み着いた村で有名な所。足の便は悪いがニースからほど近い丘陵地の上、中世来の城塞型の小さな村。当初は単にサン・ポール(Saint-Paul)。聖パウロから由来する名前だった。住み着いた芸術家らがサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)と呼び、それが2011年正式名称となった。おそらく暗黒の中世を経て、海賊対策の為に人々は村を城塞化したのではないか?と察する。「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の中で中世の海賊事情を書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)を描いた作品1983年 Soleil dans le ciel de Saint-Paul(サンポールの空に浮かぶ太陽)所蔵 Private collectionoil on canvas(キャンバスに油性)シャガールが抱いて飛んでいる相手はサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)で一緒に暮らしていた2番目の妻ヴァヴァ(VaVa)。※ マルク・シャガール(Marc Chagall)(1887年~1985年)晩年も晩年。作品としてはラストに近い。この2年後にこの地で亡くなっているから95歳時の作品ですね。14世紀のヴァンス(Vence)の門まさに中世を感じる建造物。ちょっと異次元かもしれない。20世紀に入ると俳優、詩人、作家らが寄り集まってきたと言う。それ故か? 画廊が多い。戦後、南仏に移住した訳マルク・シャガール(Marc Chagall)は1944年に、亡命先のアメリカで最初の最愛の妻ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)を失う。戦後、1947年にパリへ戻ったシャガールは、フランス国籍を取得して1950年頃から南仏に移住。当初はやはりニースから近い鷲の巣村ヴァンス(Vence)で当時人気の陶芸を始めたらしい。ピカソらと陶芸教室に通っている。1951年には彫刻も始めている。 1952年、65歳でシャガールは再婚する。やはりユダヤ人であるヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年)である。式はパリで挙げ、結婚生活(1952年~1985年)は彼が亡くなるまで続いた。1966年、シャガールは「聖書のメツセージ(the biblical message」と言う連作を描きフランス国家に寄贈。それらを飾るべく当時の文化大臣アンドレ・マルロー(André Malraux)は美術館建設を進めた。※ アンドレ・マルロー(André Malraux)(1901年~1976年)・・シャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle)政権下で文化大臣をしていた彼は元は作家であり冒険家。非常にアクティブな経歴を持つ。パリ・オペラ座の天井画をシャガールに依頼したのも彼。※ シャガールの作品を展示するための国立美術館の建設。その中でニース市が土地を提供するかたちで、1973年「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館(musée national du message biblique Marc-Chagall)」が開館。シャガール86歳の誕生日OPEN。1966年、居をニースに近いサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)に移したのは美術館建設の事もあったのかもしれない。美術館の庭園や作品配置をシャガール自身が指示しているから。※ サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)には20年近く居たことになる。※ 美術館は次回。ところで、シャガールが初めて舞台美術に取り組んだのは 1914 年ロシアに居た時であるが、以降、シャガールの芸術活動の幅は広くなって行く。壁画や舞台デザイン、1945 年には、ストラヴィンスキーの「火の鳥」のセットと衣装のデザインもしている。パリ、オペラ座の天井画、NYでは壁画、イスラエルの国会議事堂の為のタペストリーもデザイン。また、ステンド グラスのデザインは彼が 70 歳近くになってから。1956 年、アッシー(Assy)の教会の窓。1958 年~1960 年、メッツ大聖堂(Metz Cathedral)の窓。1960 年、エルサレム、ヘブライ大学(Hebrew University)シナゴーグ(synagogue・礼拝所)のステンド グラスの窓。1978年、ドイツ、マインツの聖シュテファン教会(St Stephan's church)の窓。大物教会からの依頼でステンドグラス制作も増えて行く。最後の作品は、シカゴ・リハビリテーション研究所から依頼のタペストリー。原画を元にタペストリーの色の打ち合わせを自宅でしていたその夜に亡くなったそうだ。享年97歳。その亡骸はサン・ポール・ド・ヴァンスにある他民族墓地に埋葬された。サン・ポール・ド・ヴァンス地図墓地は城壁の外。地中海側にある。下はニース門。サン ポール ド ヴァンス墓地(Saint Paul de Vence Cemetery)遠くに見えているのが地中海。陽の当たる良い墓地です。ただ、シャガールの墓はこの写真から見切れた右の方にある。マルク・シャガール(Marc Chagall)のお墓逆光なのでどの写真も暗い。かなり明るくしています。最近は墓の上に小石を乗せているらしいが昔は無い。誰かが撮影用にアップしたまま残ったのか?それにしても芸術家なのにシンプルな墓。と、思ったがユダヤ人一般的な墓のよう。この墓地には彼の妻の他、妻の弟も眠っている。3人で入るとは、シャガールも想定外だったかも。墓碑名マルク・シャガール Marc Chagall (1887年~1985年)ヴァヴァ・シャガール VaVa Chagall (1905年~1993年) ※ 2度目の妻、ヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)ミッシェル・ブロツキー Michel Brodsky (1913年~1997年) ※ ヴァヴァの弟。シャガールの出身地は現在のベラルーシ共和国の田舎街、ヴィテプスク(Vitebsk)。そこはユダヤ人コミュニティーの街だった。※ ロシア語、ポーランド語でヴィテプスク(Vitebsk)※ ベラルーシ語でヴィーツェプスク(Ві́цебск)最初の、最愛の妻ベラも同郷である。ベラルーシは現在ロシアともめているウクライナのすぐ上。彼は生涯にわたり、自身のルーツ。故郷ヴイテプスク(Vitebsk)の街や動物、また思い出をモティーフにし続けた。でもそれは単なる郷愁(きょうしゅう)ではない。第二次世界大戦下でのナチスによるユダヤ人迫害。故郷の滅亡。シャガールがユダヤ人であったから、生き残った彼には使命があったのかもしれない。生涯作品を通して見えるのはユダヤ人としての信仰心だ。アシュケナジム(Ashkenazim)とセファルディム(Sephardim)国と言う定住地を持たないユダヤ人であるが、彼らの結束は強く、地域の中で固まって社会(コミュニティー)を形成していた。※定住地を持たないのではなく、過去の歴史の中でカナンの地を追われたからである。アブラハムから約束されたカナン(イスラエル)を追われ、ユダヤ民族は世界に離散した。※ その辺の話は以下に書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)ドイツ語圏や東欧諸国などに流れて定住したユダヤ人がアシュケナジム(Ashkenazim)。スペイン・ポルトガルまたはイタリアなどの南欧諸国や、トルコ、北アフリカなどに15世紀前後に定住した人がセファルディム(Sephardim)と呼ばれるそうだ。今日のユダヤ社会の二大勢力だという。ユダヤ人はどこに住もうとユダヤ民族として結束している。イディシュ語(Yiddish)を話すユダヤ・コミュニティーマルク・シャガール(Marc Chagall)はユダヤ系リトアニア人として生まれた。その故郷ヴィテプスク(Vitebsk)には人口65000人の半分以上をユダヤ人が占める街だった。つまり、シャガルール自身は東欧系ユダヤ人であるから、前者のアシュケナジム(Ashkenazim)に入る。彼らの村単位? 小規模ユダヤ人のコミュニティーがイディッシュ語の文化を保持したシュテットル(shtetl)を形成していた。※ シュテットル(shtetl)はイディシュ語(Yiddish)を話す人々によって形成された東欧の小規模のユダヤのコミュニティーを指す。イディシュ語(Yiddish)は単語構造はドイツ語に似ているが、ヘブライ語とアラム語の文字を使う、混合スラブ系言語。インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派のうち西ゲルマン語群に属する高地ドイツ語に分類。※ 言語の8割以上が標準ドイツ語に共通。つまり、シャガールはイディシュ語(Yiddish)を話す東欧のユダヤ人コミュニティーの出身者なのである。ユダヤ教徒の人々は特にいろんな制限が課せられている。だからシャガールがユダヤ人であったと言う事実は、彼の作品を理解する上で重要な事なのである。しばしば、「ヴィテブスク特有の風土や文化はシャガールの精神形成に影響している。」と書かれているが、彼の宗教的バックボーンを考えれば当然だ。むしろ「宗教が文化を支配し、風土を作った。」シャガールも「その宗教により形成された。」と、言って過言でない。1908年 Apothecary in Vitebsk(ヴィテプスクの薬局)所蔵 Private collectionシャガールの故郷ヴイテプスク(Vitebsk)。作品は上下ともに1908年。描き出して初期。1908年 A House in Liozna(リオズナの家)所蔵 Moscow. The State Tretyakov Gallery(モスクワ、トレチャコフ美術館)※ リストにはprivate collectionとなっていたが、トレチャコフ美術館のリストに現在ある。リオズナ(Liozna)の家は、ベラルーシ(Belarus)のヴイテプスク(Vitebsk)近郊にあるらしい。家が踊っているような、ちょっとポップにさえ見える描き方。初期から味のある絵を描いてる。画家としての成功と同郷のベラ(Bella)との結婚結婚相手も同じイディシュ語(Yiddish)を話す相手(ユダヤ・コミュニティー)をから選んだ。選択の余地なく、最初からユダヤ人以外は考えられない事。最初の妻ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)との出会いは1909年、サンクトペテルブルクであるが、同郷だったから? 好きになる事に躊躇(ちゅうちょ)はなかったはずだ。ただ、同郷でもベラ(Bella)の家は宝石商で裕福。貧乏なシャガールは娘の結婚相手にはふさわしくなかった。二人が結婚できた(1915年)のはシャガール(1887年~1985年)が頑張って、画家として早くに認められ、収入を得られるようになったからだ。その異例の速さでの出世は彼の努力のたまものだ。1910年、23歳。ジャガールはパリに出て画学生となる。言葉も通じず、お金も無い。人生で最も孤独の時だったらしい。だから? 特にこの時期は恋人ベラ(Bella)や故郷への郷愁が現れたのかもしれない。1911年 The Green Donkey (緑のロバ)所蔵 London, Tate Modern(ロンドン、テート・モダン)1911年 To My Betrothed(私の婚約者へ) 紙にガッシュ、水彩所蔵 Philadelphia Museum of Art(フィラデルフィア美術館)色々模索していた時代ですね。1911年~1912年 The Drunkard(酔っぱらい)所蔵 Private collection1911年~1912年 The Holy Coachman(聖なる御者) 所蔵 Private collection当時のパリはアヴァンギャルド(avant-garde)の中心地。シャガールがパリに初めて来た時、美術界ではキュビスム(Cubism)がトレンドであったそうだ。フォヴィスム(Fauvisme)とキュビスム(Cubism)の技術を吸収した後、シャガールは自身の民俗的スタイルを融合させた?下の絵はフォヴィスム(Fauvisme)とキュビスム(Cubism)両方が感じられる。1911年、I and the Village(私と村) キャンバスに油彩所蔵 New York, Museum of Modern Art(ニューヨーク近代美術館)舞台はシャガールの故郷であるヴイテブスク。ここでは、農民と動物はお互いに助け合って生活をしていた? らしい。動物らも大切にされていたのだろう。全体に愛を感じる絵ですが・・。ところで、シャガールは幼い頃から円、三角形、四角、線といった幾何図像が好きだったらしい。パリでキュビスムを見て、幼少の頃を思い出したと言う。絵の中にはヴイテブスクの街だけでなく、全体に大きく太陽や月がある。中央に描かれた植物は「生命の樹(Tree of Life)」である。つまり、この絵は宇宙をも表しているのである。生命の樹(Tree of Life)」とは、旧約聖書「創世記3章」に記されている永遠の命が得られる木の実が付く樹。カバラ(Kabbalah)ではセフィロトの木(Sephirothic tree)とも呼ばれセフィロトは世界を象徴する概念とされる。因みに、アダムとエバはエデンの園で「知恵の樹の実」を食べた。「生命の樹の実」までも食べないようエデンから追放されたらしい。「知恵の樹の実」泥棒だけでも人類子々孫々の原罪を背負ったが・・。そんな訳で、I and the Village(私と村)は、見て「かわいい絵」だけでなくユダヤ教徒の宇宙観も示されていたようだ。1913年 The Soldier drinks(酒を飲む兵士)所蔵 New York, Solomon R. Guggenheim Museum(ニューヨーク、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館)ソフトなキュビスム(Cubism)ですね。何よりユーモアがある。1913年、Self Portrait with Seven Fingers(7本指の自画像)所蔵 Stedelijk Museum Amsterdam(アムステルダム市立美術館)窓の外にはエッフェル塔が見えるからここはパリの一室。絵を描く画家はシャガールのポートレートそっくり。間違いなく自画像である。また、タイトルにあるよう左手だけ7本。数字の7は、ユダヤ教では創造の意味を持つ神秘的な数。象徴として示したのだろう。フォーヴィスム(Fauvisme)とキュビスム(Cubism)の融合など実験しながら、でもカラーもきれいでファンタジー要素のある彼の絵は確かに詩的と言えば詩的。当初、シャガールの絵は画家らには相手にされなかったが、詩人からの評判は良かったらしい。この発色はフォビスムから? 敢えて、売れる絵を心がけていたのかもしれない。ほとんど眠らずパリの誘惑にも負けず、ひたすら絵を描いていたらしい。彼はとにかく早く認められたかったのだろう。ベラ(Bella)を迎えに行く為に。この辺りが、ベルリン(Berlin)の個展に持ち込んだ絵と思われる。1914年、ベルリンの有名画商から個展を打診されシャガールは40枚ものキャンバスやガッシュ水彩、ドローイングを持ち運んでドイツでの個展に臨む。個展はベルリン(Berlin)のシュトゥルムギャラリー(Galerie Der Sturm)で開催し、大成功。ドイツの批評家らはシャガールを絶賛したと言う。1915年 Birthday(誕生日) 厚紙に油性所蔵 New York, Museum of Modern Art(ニューヨーク近代美術館)シャガールの誕生日に花を届けるベラと浮遊するのはシャガール自身。幸せすぎて「浮かれてるなー」と言う絵ですね。1916年 Pink Lovers(ピンクの恋人たち) キャンバスに油彩所蔵 Private collection1914年~1922年 ロシア時代(Russia)ドイツにはベラ(Bella)も呼び寄せていたが、二人は結婚式の為にヴィテブスク(Witebsk)に戻る。画家の仲間入りも果たしたし、お金も入り生計のメドも付いた。ところが、第一次世界大戦(1914年~1918年)の影響で無期限にロシア国境線が封鎖。パリには戻れなくなった。1917年10月、ロシア革命 (Russian Revolution)勃発。※ 戦争が長引いたことにより革命が勃発。4つの帝国(ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)が崩壊する。不本意ながら? でも幸せな結婚生活がサンクトペテルブルクでスタートする。シャガール28歳。ベラ(Bella)20歳。ベラとの結婚生活(1915年~1944年)はベラが亡くなるまで続いた。※ 1915年、結婚した同年に母が病死。※ 1916年、1人娘誕生。イーダ・シャガール(Ida Chagall)(1916年~1994年)1916年 Bella and Ida by the Window(窓辺のベラとイダ) キャンバスに油彩所蔵 Private collection1917年~1918年 The Promenade(プロムナード・散歩)所蔵 Saint Petersburg, Russian Museum(サンクトペテルブルク、ロシア美術館)1917年 Double portrait au verre de vin (ワイングラスを掲げる2人の肖像) キャンバスに油彩所蔵 Paris, Centre Pompidou(パリ、ポンピドゥーセンター)喜びに満ち溢れた二人。頭上には天使? いや、シャガールの娘イーダかな?それにしても、この頃はアクロバティックな構図が好み? キュビズムだからか? 好きなサーカスからヒントを得ているのかな?1918年 On the city(街の上で)所蔵 Moscow. The State Tretyakov Gallery(モスクワ、トレチャコフ美術館)となっているが、トレチャコフ美術館の方に掲載されていないので、現在は無いのかも。ではどこに?故郷ヴィテブスク(Witebsk)の上を浮遊するシャガールとベラ。実際なのかもしれないが、ヴィテブスク(Witebsk)の閉鎖感が鮮明。この絵はシャガールがベラを連れて街を脱しようとしているようにも見える。故郷からの脱出1918年、故郷ヴィテブスク(Witebsk)に創立予定の美術大学にロシアで最も重要な前衛芸術家たちが招集され、その中にシャガールもいた。しかし、そこではマレーヴィチ(Malevich)(1879年~1935年)のような抽象画が好まれ、シャガールの作品は「ブルジョア個人主義的」と非難される。シャガールは学校を退職して故郷ヴィテブスクを去った。1920年、モスクワへ移住。恐らく国境線の封鎖で出られ無かったのだろう。因みに、ロシア・アヴァンギャルドの一翼を担ったマレーヴィチ(Malevich)であるが、スターリン政権下のソ連で美術の保守化が始まり、前衛芸術運動は否定どころか弾圧。マレーヴィチは自分の志した絵を描けずに政治に翻弄されて一生を終えている。シャガールは早くに脱出して正解だった。1918年 Apparition(出現)所蔵 Private collection学校で講師をしていた頃のシャガール作品。シャガールとしてはずいぶん攻めていると思うが、マレーヴィチ(Malevich)の作品が異次元に行っちゃってるからね。1923年~1941年 フランス時代(France)1922年、リトアニアへ移り、その後ベルリンを経由して1923年にパリへ戻っている。脱出成功? これをパリへの亡命と見るべきか?1921年~1922年の作品がリストに無い。1923年代も本の挿絵のような素描が十数点モスクワ、トレチャコフ美術館に所蔵されている。ベルリンに寄ったのは、かつて預けておいた自分の絵を取り戻しに行ったから。だが、絵は無かった。それ故、シャガールの初期作品の多くは紛失状態となったそうだ。いくつかは記憶をたより描いているようだが・・。ところで、シャガールは度々バイオリニストの絵を描いている。左 1920年 Music所蔵 Moscow. The State Tretyakov Gallery(モスクワ、トレチャコフ美術館)※ ここには黒い顔のも存在する。右 1923年 Green Violinist所蔵 NY. Solomon R. Guggenheim Museum(ニューヨーク. ソロモン・R・グッゲンハイム美術館)絵は、シャガールの故郷ヴィテブスク(Witebsk)の街。左の1920年 Musicのカラーが気になる。絵の具の科学変化で発色が飛んだのかな? 故郷でのユダヤの冠婚葬祭で音楽は必須。でも楽器と言えばバイオリンしかなかった? シャガール自身もバイオリンが弾けたらしいが、なぜバイオリニストの絵を繰り返し描くのか? と言う点で気になる絵です。パリで画商と契約、挿絵の為の銅販画をはじめる1923年、パリに戻ると美術商アンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)と契約。小説や聖書のイラストの仕事を請け負う。その為に銅販画の勉強も始め。結果的にそれが彼の版画の才能も開花させた。シャガールが偉かったのは、仕事を選ばなかった事だ。芸術家はこだわりが多くて融通が利かない人が多いからね。ところで、このアンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)(1866年~1939年)は、19~20世紀のフランスでもっとも重要だった美術商の一人。彼は法学出身で画商に転向した異色の人。1908年 ルノワールによるAmbroise Vollardの肖像画家 Pierre-Auguste Renoir (1841年~1919年)所蔵 The Courtauld Institute of Art(コートールド美術館)最初にエドゥアール・マネの大きな個展を開催。ポール・ゴーギャンやフィンセント・ファン・ゴッホの展覧会も矢継ぎ早に開催。他にも彼に援助受けたのは、ポール・セザンヌ、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ルオー、アリスティード・マイヨールらの名があがっている。彼の援助があって世に出られた芸術家は多いと言う事だ。彼に先見の明があった? いや、常にリスクと隣合わせだったらしい。ドガやピカソはヴォラールが無名な画家から安く作品を買い、名を押し上げてから高く売ってもうけている。と嫌っていたらしいが、まあ、画商とは、そもそもそう言うものだけどね。夢からインスピレーション1924年~1925年 The Vision(幻視)所蔵 London, Tate Modern(ロンドン、テート・モダン)Etching, aquatint, gouache and pastel on paper1918年の「Apparition(出現) 」と構図は全く一緒ですね。シャガールは 1923 年にパリに移った後、ロシアで制作した多くの作品の新しいバージョンを描きなおしているそうだ。Visionでは、若い画家の所に天使が出現。何かお告げ?天使もまた彼の作品に多く使われるアイテムであるが、天使はシャガールを未知の世界に導いてくれる使いのようだ。どうもシャガールは、しばしば夢からインスピレーションを得て描いていたらしい。ある時、シャガールは気付いた。絵が「私にとって、別の世界に向かって飛んでいける窓のように見えた」それはつまり、自分の創造する絵の中に自ら入り込み、逃避する事ができると・・。1929年 Time – the river without banks(時間 – 堤防のない川) 所蔵 Madrid, Thyssen-Bornemisza Museum(マドリッド、ティッセン・ボルネミッサ美術館)川に沿って浮かぶ振り子時計と巨大な翼を持つ魚がバイオリンを弾いているシュールな絵。翼の生えた魚はシャガールで、この絵は彼の人生(時計)を象徴的に描いたものらしい。魚は飛行しながらタイミングを計っているようです。1929年 The Rooster(雄鶏)所蔵 Madrid. Thyssen-Bornemisza(マドリッド、ティッセン・ボルネミッサ美術館)1929年 Fruits and Flowers(果物と花) 所蔵 Private collection果物とか花とかの静物は家に飾るアイテムとして喜ばれるモチーフ。注文があって描いたのか?背景には恋人と動物? シャガールらしさがここにある。実際、1930年代のパリでの生活の中で、画家は花の静物画をたくさん描いていたらしい。1932年 Bride with Blue Face(青い顔の花嫁)所蔵 Private collection1934年~1947年 Bouquet with Flying Lovers(空飛ぶ恋人たちの花束)所蔵 London, Tate Modern(ロンドン、テート・モダン)先に触れたよう、花の静物画を描いていた1930年代に最初の構想が生まれたらしい。この絵は、間隔をあけて制作し、最終段階で事情が変わったらしい。一見、幸福そうなほほえましい絵。豪華に活けられた花瓶の花。生活が垣間見える椅子。後方で男が女性を部屋に招き入れているようにも見える。幸福そうな二人?でも、実は完成直前にシャガールは最愛の妻を失っていたそうだ。だからこの絵は「画家の喪失感と郷愁」を表す作品になったらしい。ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld)は、1944年亡命先のアメリカで病死している。この絵の完成は1947年パリに戻ってからかもしれない。妻へのレクイエムでもあるんですね。せめて第二次世界大戦まで進みたかったですが、終わりませんでした。シャガールは非常に長生きです。まだ彼の人生は50年以上残っています。ユダヤ人である彼の試練。そして転換点が第二次世界大戦となるのは周知の事実です。次回はアメリカに亡命するあたりからですね。疲れたので、今回はここで終わります。遅れて申し訳ありませんでしたが、これでも相当ガンバリました。 m(。-_-。)m Back number マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンスリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガールリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 3 戦後編「聖書の言葉」
2023年05月30日
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訂正を入れました。※ 最初にビアズリーの才能を見つけて美術学校に行く事を勧めたのはエドワード・バーン=ジョーンズでした。でもモリスに彼の絵を勧めたのは評論家のエイマー・ヴァランス。しかしモリスには断られたので、次ぎにロバート・ロスが紹介される。ロバート・ロスからワイルドに繋がるようです。ビアズリーはいろんな人に助けられてきたようです。そこに、同志の助け合いも垣間見られます。遅ればせながらやっと新春の一号です。正月明け面倒な事件が続き大幅に遅れました。申しわけありませんでした。<(;_ _)母の体調不良で呼び出され、実質、家政婦状態の毎日で疲労困憊大失態もしました。高級ガラスで造ったステンドグラスのランプシェードを出窓から落として割ってしまったのです。回収できるガラスは取っておこうと鉛を溶かしてそこそこ解体するのに7時間もかかりました。ステンドグラスは造るより修繕の方が時間がかかるのです。確定申告の準備もあるし、パソコンのリニューアルもあるのですが、計画した予定が母で全て吹っ飛びました。さて、昨年に引き続き、19世紀の英国画壇で起きたラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood/P.R.B.) 後編です。今回は追随した第2グループとラファエル前派のもたらした影響と言うあたりかな? P.R.B.自体の活動はほんの5年。でも彼らの絵画への姿勢は英国画壇に革新をもたらした。追随した者らも現れた。少なからず影響を受けた者は数知れず。また絵画のみならず、彼らが社会に与えた影響もある。19世紀の英国を紹介するのに、彼らの活動は微妙に外せない部分でもあるのです。今回も盛り沢山です。ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 2バーン=ジョーンズとモリス文芸書の発行とイラストレーター(Illustrator)の誕生画家とイラストレーター絵の具の新色の発売ジョン・ウィリアム・ウォーターハウステート・ブリテン(Tate Britain)ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)ソロモン・ジョセフ・ソロモン(Solomon Joseph Solomon RA)アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel)アルバート・ジョゼフ・ムーア(Albert Joseph Moore)エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)ラファエル前派兄弟団に追随した第2グループエドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)モリス商会のタペストリー(tapestries) 聖杯(Holy Grail) Vr2モリス商会の Stained glass window(ステンドグラスの窓)ウィリアム・モリス(William Morris)モリス商会のテキスタイル (printed textile)アーサー王と円卓の騎士(King Arthur and the Knights of the Round Table)モリス・マーシャル・フォークナー商会の役割ラファエル前派からデカダンに向かったシメオン・ソロモンシメオン・ソロモン(Simeon Solomon)(1840年~1905年)ヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)から※ 今回、目次は作品名でなく画家の名前で入れました。文芸書の発行とイラストレーター(Illustrator)の誕生活版印刷が1445年に確立されると、以降、聖書の印刷、学術書の印刷など社会に果たす役割は増えていく。だが、それでもまだ庶民が手にするにはほど遠いもの。18世紀になると哲学者や詩人も本を出版。でもまだ上層の貴族階級のもの?それが庶民にいつ頃降りたか? は定かでない。識字率の問題もあるからね。以前フランス革命の直前にプリントのビラや小冊子が街に多数現れて、在る事、無い事、スキャンダラスな情報に惑わされた庶民が革命を起こす機動になったと紹介した。それを考えると18世紀末には、印刷物はかなり庶民の身近な物になりつつあったのかと思う。※ 「マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃」の中、「革命をあおったマスコミ」で紹介。リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃以前「世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)」で紹介したオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)(1872年~1898年)は挿絵画家としてスタートした。画家と言うよりイラストレーターとして作品を発表。 また、やはり以前「ダンテの描いた地獄の図 & 法務省を語る詐欺師」で紹介した英国の詩人であり画家?であるウィリアム・ブレイク(William Blake)(1757年~1827年)は1788年、詩と画像を一枚の銅版画に載せると言う「彩色版画(Illuminated Printing)」を考案。これによりブレイクは自身の銅販画の印刷機で自分の本を印刷する事を可能にした。彼は版画家ではあるが、認知は画家と言うよりはイラスイトレーターだ。リンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)リンク ダンテの描いた地獄の図 & 法務省を語る詐欺師ラファエル前派を創始したメンバーの3人は国立美術学校、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(Royal Academy of Arts, RA)のメンバーで正統な筋の画学生であったが、彼らラファエル前派が求めた画題こそ、まさに小説や詩などの印刷本の挿絵に同じなのである。画家とイラストレーター彼ら以前は、画家と呼ばれる者には厳格な定義があった。中世来確立された手法により伝統的な古典画を描き、かつアカデミーに認められた者である。ここには画家と簡易に絵を描く絵師との厳格な差が存在していた。※ ラファエル前派の活動は、まだ画家となっていない画家の卵が画壇に殴り込みをかけたのに近い。彼らの中でも、ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)(1829年~1896年)はアカデミーも認める画家となれたが・・。話しを活版印刷に戻すと、本の出版が増えた事が多きいのだろうが、産業革命が作興(さっこう)する世にあって絵の需要は商業分野にも増えて行った。文学や小説、詩集に挿絵(イラスト)は付きものとなる。また街角に絵付きのデザインポスターが出現するのもこの頃だ。19世紀の英国では中世騎士物語の「アーサー王伝と円卓の騎士(King Arthur and the Knights of the Round Table)」に始まる文芸物。それらに刺激を受けた詩文。ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)(1564年~1616年)戯曲「ハムレット (Hamlet)」、「ロメオとジュリエット(Romeo and Juliet)」、「夏の世の夢(A Midsummer Night's Dream)」など英国古典文学の書が次々出版される。「ハムレット (Hamlet)のオフィーリア(Ophelia)などのヒロインはラファエル前派らのテーマとなって多数描かれたのもこの影響だろう。需要の増す挿絵、それらの絵、全てを画家が担ったわけではない。むしろここに画家とは呼ばれない商業分野専門の絵師も誕生する。イラストレーター(Illustrator)の定義は今も曖昧な気がするが、商業的には伝える目的が果たせれば良いわけで素人絵師が相当数あらわれたと思われる。前回紹介したダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)は、自ら詩作し、自ら挿絵しているが、彼の場合は元々エリート校の画学生ではあったけどね。つまり19世紀、産業革命と共に社会のステージが上がり識字率も上がった? 文芸書の出版が増え、同時に挿絵による絵の需要も増えて行ったと思われる。※ 以前私の所持品として紹介したオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)の額絵はそうした本の挿絵部分を切り取って販売されたものだ。因みに、私の場合、挿絵画への興味から作品に入った場合もある。素敵な絵は中身への興味をかき立てるのに十分な宣伝効果があるからね。絵の具の新色の発売以前、「ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green」の所、「美しいグリーンの顔料の発明とナポレオン」の中で紹介しているが、18世紀から19世紀はたくさんの発明により顔料が増えた時代なのです。リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green新発見の鉱物や化学合成によって顔料が作られ、絵の具の新色が多数生まれた。※ 年表も少しナポレオンの所で紹介しています。批評家のジョン・ラスキン(John Ruskin)は、ラファエル前派らの絵を「風変りではあるが、素晴らしいデッサンの仕上がり、色彩の輝かしさ、自然の細部に対する注意深さ。」とタイムズ紙に擁護の評論を寄せた。※ ジョン・ラスキン(John Ruskin)(1819年~1900年)「色彩の輝かしさ」に関しては、まさに新しい絵の具を使った事による効果だろう。ラファエル前派以外の画家らも当然、新しいカラーの絵の具を使ったと思われる。だから色彩に関しては、必ずしもラファエル前派に追随した訳ではないだろう。実際、印象派の画家らがまさに好んで使ったのが明るい新色。むしろそうした絵の具が発売されたからこそ、鮮やかに彩られた印象派が誕生したと言ってもいいだろう。そう言えばゴッホの弟テオが新色の絵の具が出ると喜んで兄の元に届けていたっけ。因みに、くすんでいないライトなグリーン。シェーレグリーンやパリスグリーンは印象派やヴィクトリア朝の画家らもよく使ったカラーであるが実はヒ素から造られていた。「ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green」はそんなお話です。産業革命期の新時代のカラーに対して、以前は自然の鉱物や貝や草木をすりつぶしたりして顔料が作られていたから、どうしてもカラーは暗色になりがち。古典画の色が暗色なのは致し方ないのである。アカデミーはもしかしたら絵の具さえも、昔ながらの絵の具を使用するよう学生に言っていたのかも。つまり、19世紀、化学合成により絵の具の新色が増えたと言う事は、当然描かれる絵も様相を大きく変える事になったし、それは必然であったと言うことです。産業革命に対しては諸々批判もあるが、「社会の色」と言う点で考察すると世の中は明らかに明るくなったのである。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスウォーターハウスは両親ともに画家であり、ローマを拠点にしていた父親の影響を多分に受けて1870年には英国のロイヤル・アカデミーに入学。そこでジョン・エヴァレット・ミレーやサー ローレンス アルマ タデマ に指導されていた? と思われる。つまり、元々正統派の画家なのです。ウォーターハウスの作品は古代ローマやギリシアの神話のテーマが多い。それは師のサー ローレンス アルマ タデマの影響か? は不明ですが、英国文学からの作品も多数描いています。そのあたりはジョン・エヴァレット・ミレーの影響か?ウォーターハウスが後期ラファエル前派に入れられる? のはそうした理由で多分に指導なり影響を受けた事が作品に繁栄されているからなのでしょう。今回、最初に紹介するThe Lady of Shalott (1888年)はテイト、ブリテン(Tate Britain)で直接撮影した作品です。確かにこの作品はミレーが意識されている。モチーフのみならず細部まで描かれた自然も・。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse)(1849年~1917年)The Lady of Shalott 1888年所蔵 Tate BritainThe Lady of Shalott(シャロットの貴婦人)※ (Elaine of Astolat)(アストラットの美女)詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson)(1809年~1892年)がアーサー王伝を元に書いた悲恋のストーリー。詩の主人公シャロット姫はアストラット出身の貴族。バーナード(Bernard)家からは兄(Lavaine and Tirre)がアーサー王の円卓の騎士に名を連ねている。彼女は馬上槍試合で偶然ランスロット卿に合い恋をする。彼もまた円卓の騎士の1人。ランスロット卿はアーサー王伝の中ではアーサー王の妃であるギネヴィアと不倫関係にあった事から?ランスロット卿は彼女の思いには応えられない?シャロット姫は片思いの恋煩いで死んでしまう。ランスロット卿への想いを綴った手紙を胸にその亡骸は小舟に乗りアーサー王らの居るキャメロット(Camelot)城までたどり付く。アーサー王や円卓の騎士はそれを知り涙すると言うお話だ。まさに詩に絵が付けられた作品である。絵は無言で詩を語っている。絵では生きているシャロット姫であるが実際は亡骸。本来は黄泉の国に向かうべきなのに敢えてキャメロット(Camelot)へ?実はアーサー王の時代(実在ではないが6世紀頃と推定される。)、亡くなると遺骸は船の聖棺に葬られていた。だから船はあながち間違いではない。シャロット姫に焦点を当てたテニスンもだけど物語がより深くなる絵ですね。ラファエロ前派の絵は、興味をそそる絵が多いのです。アーサー王と円卓の騎士の物語は小学生の時に読んでいたけどラファエロ前派の絵に会うまでシャロット姫の事は全然記憶になかった。小学生時代に恋愛に興味は無かったからね。それより円卓のサイズや円卓をどう運んでいたのかの方が気になっていた私・・そもそもアーサー王の話しは、もともとケルト伝承の話し。それ故、これと言った正解の話しはなく、中世以降に吟遊詩人により創作され追加された話しも多分にあると思われる。物語に一貫性が無いと言われるのもそうした理由だろう。11世紀、また15世紀にはトマス・マロリー(Thomas Malory)が順番にまとめて編纂しているが・・。だから逆にテニスンも、ラファエロ前派の画家らも創作しやすいと言う利点はあったのです。ラファエロ前派らは最初に聖書をモチーフにして失敗した。聖書はいじっちゃいけないのです。これに関しては、彼らがどう感じたとかは不要の産物。だから彼らは総攻撃で叩かれたのだ。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse)(1849年~1917年)Ophelia(オフィーリア) 1894年所蔵 Private collection画像はウィキメディアから借りました。前回紹介したジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)(1829年~1896年)のOphelia(オフィーリア)は1852年作。ウォーターハウスは当然その作品を見ているはず。※ Ophelia(オフィーリア)はウィリアム シェイクスピア(William Shakespeare)(1564年~1616年)の悲劇「ハムレット(Hamlet)」の中で悲劇的な死を迎える女性。脇役の彼女をメインに扱った本作はまさに画家の創造の産物。悲哀を現したミレーの水中のオフィーリアに対してウォーターハウスは入水前の無垢なオフィーリアを描いている。実はウォターハウスは複数のオフィーリアを描いている。最初のオフィーリアは1888 年ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(Royal Academy of Arts)の卒業を決める為の作品として提出されている。人気のテーマだったのかもね。1894年が一番魅惑的。※ 1888年版と1910年版はともに個人コレクターのAndrew Lloyd Webber 氏のCollectionとなっている。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse)(1849年~1917年)Pandora(パンドラ) 1896年所蔵 Private collection画像はウィキメディアから借りました。ゼウスが人間に災いをもたらす為に送り込んだのが1人の女性パンドーラー(Pandōrā)。「全ての贈り物」を意味する名前。彼女は好奇心から箱を開封。箱にはあらゆる災いが詰まっていた。戦争や疫病や悲しみなど人に苦しみを与える物。彼女は慌てて蓋(ふた)をしたけれどほとんどの災いは出てしまい箱にはかろうじて「希望」だけが残ったという。ギリシア神話に由来するお話。つまり人間界のこの世の災いは、彼女が箱を開けた事で放たれた不幸なのである。絵が美しいから簡略な説明でもストーリーが見えてくるでしょ?ウォーターハウスの他作品は「海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦」で「オデュッセイア(Odysseia)とセイレーン(Siren)」を紹介しています。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦テート・ブリテン(Tate Britain)テムズ川畔、ミルバンク地区にある。昔のテート・ギャラリー(Tate Gallery)だ。2000年に近現代美術が分理しテート・モダン(Tate Modern)と、イギリス美術専門のテート・ブリテン(Tate Britain)に分かれ2001年に開館。正面は川側にあるが入口はこちらではない。わざわざ来たのはもちろんラファエル前派の絵を見る為。作品数があるからか? 2段で飾られると上のは見にくい。ルーブルと違って作品は割と小品が多いし・。でもそれは、作品が一般家庭の屋敷に飾られると言う前提で描かれていたからだろう。英国は王室が健在なのでロイヤルコレクションの流出は無いからね。中央 ソロモン・ジョセフ・ソロモン左小品 ローレンス・アルマ=タデマ上の写真の左にある小品ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(1836年~1912年)A Favourite Custom (お気に入りの習慣) 1909年所蔵 Tate Britain写真がボケ気味だったのでこちらはウィキメディアから借りました。ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(1836年~1912年)はヴィクトリア朝時代に活躍した画家で貴族の称号ももらっていますが、実はネーデルランド出身。ベルギーのアントウェルペンにあるロイヤル・アカデミー・アーツ出身の正統派の画家です。※ アントウェルペンのロイヤル・アカデミー創設は1663年。ローマ(1588年)、パリ(1648年)に次いで3番目。世界有数のデザイナーや芸術家を輩出している名門校です。1870年にイギリスへ帰化。1876年に英国のロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの準会員に選ばれ1879年に正会員。1899年に騎士の称号(Sir)を得ている。ローレンス・アルマ=タデマの作品は古代ローマ、古代ギリシア、古代エジプトなどの歴史をテーマにした写実的な絵が多い。しかも割と小品が多い。つまり恐ろしく細密に描かれている写実画と言うことで二度びっくり。一度模写を試みた事がある。キャンパスのサイズを同じに特注した時にこんなに小さいの? と思ったと同時に極細筆も取り寄せたが、とても真似できるものじゃない。筆下の腰が弱いから筆が思うように動かない。筆の毛に何を使っていたのかな?アルマ=タデマの作品には必ず大理石が登場。その大理石の表現が素晴らしいのも特徴。アルマ=タデマの他作品は以前「セレアリアの祝祭(festival of Cerealia)」と「ヘリオガバルスのバラ(The Roses of Heliogabalus)」で紹介してます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックラファエル前派は、ローレンス アルマ タデマのようなロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに所属する画家にも影響を与えている。またローレンス アルマ タデマの影響を受けた画家にソロモン・ジョセフ・ソロモンがいる。上の写真中央の絵。ソロモン・ジョセフ・ソロモン(Solomon Joseph Solomon RA)(1860年~1927年)Eve(イブ)所蔵 Tate Britain1908 年にロイヤル アカデミーで初めて展示渦巻く雲の空を背景に大きな翼のある天使によって高く掲げられた等身大のEve(イブ)。無数の解釈のできるダイナミックな作品。こんな作品を生んだ彼のバックボーンはその経歴。ソロモンは1877 年までロンドンのロイヤル アカデミー でジョン エヴェレット ミレー とサー ローレンス アルマ タデマ に師事。その後1878年、パリのエコール・デ・ボザールでアレクサンドル・カバネルに師事。※ エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)(パリ国立高等美術学校)。ミュンヘン美術院(Academy of Fine Arts Munich)でも学んだ後、スペイン、イタリア、ドイツ、オランダ、モロッコを旅している。あらゆる知識と見聞と当時の流行を見たのだろう。ソロモンはロンドンに戻ると ニュー イングリッシュ アート クラブ(New English Art Club)をメンバーの1人として創設している。※ 国外で美術を学んだ若い芸術家で設立されたにロイヤル・アカデミーに属さない職業画家の協会。だがソロモンはじきにグループを去る。ロイヤル・アカデミーに移籍したからだ。ロイヤル・アカデミーで十分認められる実力のある画家として招かれたのだろう。ちょっとオマケです。彼が最も影響を受けた? と思われるフランスの画家アレクサンドル・カバネルの作品を紹介。アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel)(1823年~1889年)The Birth of Venus(ヴィーナスの誕生) 1875年所蔵 Metropolitan Museum of Art画像はウィキメディアから借りました。アルバート・ジョゼフ・ムーア(Albert Joseph Moore)(1841年~1893年)A Venus(ヴィーナス) 1869年所蔵 Tate Britainこの一見地味な配色の絵画であるが、ムーアはここに色彩美の追究を試みているそうだ。白とグレーを基調に藍色、ピンク、クリーム色くすんだ緑を配して。ここでは色と形に注目してほしいらしい。とは言え、ヴィーナスの腹筋に目が行くが・・ムーアの初期の作品はジョン・ラスキンの影響を受けているらしいが、この作品は19世紀をとおりこして現代的なモダンさを感じる。1860年代には、ウィリアム・モリスの会社、モリス・マーシャル・フォークナー社でタイルと壁紙とステンドグラスをデザイン。またギリシャや英国内で壁画家として活躍しているそうだ。ジャポネズリーを感じるムーア作品があったのでこれもオマケです。アルバート・ジョゼフ・ムーア(Albert Joseph Moore)(1841年~1893年)Midsummer(盛夏) 1887年所蔵 Russell-Cotes Art Gallery & Museumウィキメディアから借りました。エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)The Golden Stairs(黄金の階段) 1880年所蔵 Tate Britain絵画上部に反射が入ってしまいましたから下はウィキメディアから借りました。黄金の階段は、1876 年に製作が開始しされ1880 年 4 月、グロブナー ギャラリーで発表展示された。実はこの作品はエドワード・バーン=ジョーンズがイタリア旅行(1872 年)の時に残したスケッチから着想されたものらしい。特定の詩歌や文学から由来するものではないのだ。若い女性達が楽器を持って「らせん階段」を降りて来る。古典調のローブは新古典様式のブームに起因した古代ローマ風? と思われる衣装。彼女達を人間ではなく、女神にさえ見せている。柔らかな音楽が聞こえてくるような不思議な絵。それは「らせん階段」と言うモチーフを使い、絶妙に美女を配置したからなのだろう。実際、バーン=ジョーンズは流麗に女性像を配置する事でメロディのような感覚を受けて欲しかったらしい。因みにボデイーはプロのモデルを起用しているが、顔は彼の知人の女性等で構成されている。エドワード・バーン・ジョーンズの娘マーガレットは上から 4 番目。ウィリアム・モリスの娘、メイ・モリスはバイオリンを持って上から9番目。先に紹介したアルバート・ジョゼフ・ムーア(Albert Joseph Moore)のA Venus(ヴィーナス)と同じく、実は色調にこだわった作品でもあるらしい。バーン=ジョーンズの初期作品は絵の師匠であるダンテ・ガブリエル・ロセッティの影響が強い。彼自身のスタイルが確立されるのは1870頃?この作品(黄金の階段)の製作年は1876年~1880年だが、ロセッティのスタイルもバーン・ジョーンらしさもある。ラファエル前派兄弟団に追随した第2グループラファエル前派兄弟団(Pre-Raphaelite Brotherhood)の後継者と言って差し支えないのが、エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)とウィリアム・モリス(William Morris)である。二人はラファエル前派兄弟団の一員であったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)の絵を慕って集まった信奉者であった。ラファエル前派兄弟団自体は方向性の違いで1853年に解散した。ミレイはアカデミーに認められ古典に進む中でロセッティは画壇から離れて行く。より中世を題材にした詩や文芸に特化し、作品は個人収集家に売っていたらしい。もともとカリスマ性があったと言うロセッティの回りには信奉者が集まった。画家の卵たちも助言を求めてやってくる。そんなロセッティに指導された彼らが、後期ラファエル前派? を形成して行ったらしい。ロセッティを崇敬していたエドワード・バーン=ジョーンズとウィリアム・モリスは、共に画学生ではなかったが、後々ロセッテイは2人の絵の師匠になる。当時のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは面倒見も良かったのだろう。後々面倒を見てもらっていたエドワード・バーン=ジョーンズはビアズリーに助言し、学校を勧めているし、ウィリアム・モリスは画家仲閒に仕事を提供したりしている。同志のネットワークや助け合いがそこに見える。エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)エドワード・バーン=ジョーンズは神学を学ぶ為にオックスフォード大学エクスター・カレッジ( Exeter College, Oxford)に入学。※ エクスター・カレッジは聖職者養成校として設立されている。※ 神学を学ぶ前に1848年から1852年までバーミンガム美術学校に通っ経歴があった。オックスフォード入学の年がハッキリしないが、1852年とするなら、ウィリアム・モリスとは同級生となる。ウィリアム・モリスとは詩を通して知り合う? 趣味が同じだったのだろう。2人はジョン・ラスキンの思想に傾倒しアルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson)(1809年~1892年)の詩を読み、教会を訪れ、中世の美学と社会について語りあっていたらしい。古典でも特に中世に傾倒していたウィリアム・モリス。彼が勧めたのか? はわからないが、この頃バーン=ジョーンズは中世のアーサー王文学の集大成とも言えるトマス・マロリー(Thomas Malory)(1399年~1471年)著の「アーサー王の死(Le Morte d'Arthur)」を知る。ラファエル前派の絵もこの頃知ったのかもしれない。中世への興味が倍増した? 彼の運命はここで方向が変わるのである。実際、彼らが、いつラファエル前派を知りダンテ・ガブリエル・ロセッティを知ったかは不明だが、2人はダンテ・ガブリエル・ロセッティの大ファンとなる。作品に大きな影響を受けただけでなく、ロセッティの宣伝の為にオックスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン(Oxford and Cambridge Magazine)を立ち上げ、そこに寄稿してくれるよう直接ロセッティに交渉したのがモリスだ。それが1856年。2人が個人的にダンテ・ガブリエル・ロセッティと繋がった瞬間かも知れない。ラファエル前派兄弟団(Pre-Raphaelite Brotherhood)自体は1848年結成。1853年に解散。解散後、ロセッティは自ら詩を書き、中世の物語を題材に独自スタイルを確立して行く。ロセッティの信奉者が増えるのはまさにこの頃なのかも。ロセッティがバーン=ジョーンズに宛てた手紙に「詩心があるなら絵を描くべきた。と言うのは詩情はすべて語られ歌われつくしたのに、絵はまだほとんど描き始められてもいないから。」と、描く事をすすめている。バーン=ジョーンズの描く人物像は両性具有のような姿とよく形容されるが、露骨な描写も無く、むしろリアリティーは皆無。潜在的に詩的世界を喚起させる? 絵が語る絵なのである。それはまさにロセッティが言った通り、詩を絵が構築しているのである。そんなバーン=ジョーンズの絵は大陸の象徴派の関心を呼んでいた。審美主義者の嗜好にも合った。彼の絵に対して詩人さえも評価を出している。当時、バーン=ジョーンズが最もロセッティに近い所にいたのは間違いない。※ 神学に進んでいたが、絵に関しては、元々バーミンガム美術学校に通った経歴があったからド素人ではなかった。結局、バーン=ジョーンズはエクスター・カレッジで学位を得ることなくオックスフォード大学を卒業。後々彼はオックスフォード大学から名誉学位を授与され、1882 年には名誉フェロー(fellow)になっている。それはたぶん画家としての成功故だろう。1894 年、準男爵(baronet)の称号も得た。敬称はサー(Sir)。英国では耽美主義運動が生まれつつある中、神学を放棄したエドワード・バーン=ジョーンズは友人モリスと共に美術工芸の分野でデザイナーとして活動。画家としての才能のみならず、そのデザインはタペストリーやステンドグラスなど装飾工芸品の中で生かされた。モリス商会のタペストリー(tapestries) 聖杯(Holy Grail) Vr2エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)ウィリアム・モリス(William Morris)(1834年~1896年)ジョン・ヘンリー・ディアル(John Henry Dearle)(1859年~1932年)The Arming and Departure of the Knights(騎士団の武装と出発)Vr1 Stanmore Hall(スタンモア・ホール)の為に1891年~1894年 モリス商会が最初に製作。画像はウィキメディアから借りました。写真のタペストリーはVr2Vr2 Compton Hall(コンプトンホール)のLawrence Hodson(ローレンス・ホドソン)の為にモリス商会が製作したものらしい。デザインは3人の共作。エドワード・バーン=ジョーンズ・・全体のデザインと人物。ウィリアム・モリス・・全体のデザインと製作。ジョン・ヘンリー・ディアル・・花、装飾のディテール。下は部分拡大。聖杯を求めて出発する円卓の騎士(Knights of the Round Table)に防具や剣を渡す乙女達の図。タペストリーのクオリティーは実際見ていないからわからないけどデザインは素敵。これが中世のフランドルで織られていたら、もっと素敵だったかも。因みに、鎖帷子(くさりかたびら)の説明をしている回があります。リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)モリス商会の Stained glass window(ステンドグラスの窓)エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)ウィリアム・モリス(William Morris)Allegory of Justice(正義の寓意)所在 St.Andrew and St.Paul Presbiterian church Montreal1902年、モントリオールのセントポール教会に設置された。画像はウィキメディアから借りました。エドワード・バーン=ジョーンズが全体をデザイン。バックの植物はまさにウィリアム・モリスの意匠。モリス商会が制作。ウィリアム・モリスは1896年没。エドワード・バーン=ジョーンズは1898年没。設置の時にすでに2人はいない。エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)Saint Cecilia(聖セシリア)所蔵 Princeton University Art Museum画像はウィキメディアから借りました。個人的にステンドグラスをしていたから良く見ているが、焼き付けのステンドグラスとして非常にクオリティーが高いし、絵も素晴らしく美術的価値が高い。大聖堂で見てきたステンドグラスよりはるかにレベルが高い。これはモリス商会がかかえるステンドグラスの焼き付け絵師の職人も一級であったと言う事を証明している。ただの職人ではなく、絵付けに関しては画学生を使っていたのかもしれない。それにしてもエドワード・バーン=ジョーンズの絵はステンドグラス向きなのだと今頃気がついた。ウィリアム・モリス(William Morris)ウィリアム・モリスもまたオックスフォード大学エクスター カレッジ(1852 年入学)の生徒であった。大学での活動はエドワード・バーン=ジョーンズとほぼ同じだろう。そもそも彼が真剣に聖職者になろうとしていたかは不明だ。家も裕福だし・・。それに彼は作家としても成功している。The Well at the World's End (世界の果ての井戸)・・ハイファンタジー小説。News from Nowhere (ユートピア便り)1891年・・社会主義的理想郷を描いた小説。The Earthly Paradise(地上の楽園)・・1868年から1870年にかけて刊行された序詩と24編の物語詩からなる長編叙事詩。古典でも特に中世文学に影響されたモリスは多数の詩やロマンス小説を発表している。その才は指輪物語の著者J・R・R・トールキン(1892年~1973年)にも影響を与えていると言う。※ トールキンもまたオックスフォード大学出身で後に英文学の教授になっている。因みに1892年モリスは桂冠詩人(けいかんしじん)に推薦されたが辞退している。※ 桂冠詩人(poet laureate)とは、優れた詩人に与えられる称号であり、古代ギリシャ・ローマ時代から存在した。詩作も競技として扱われた古代ギリシャ時代には月桂冠(月桂樹の冠)が授与されていた事に由来する名称。ウィリアム・モリス(William Morris)と言えば美術工芸家として認知されている。また彼は事業家であり、19世紀、英国の室内装飾(インテリア)に革命をもたらした人物でもある。画家としてよりデザイナーとして知られている。またその才は非常にマルチであった。ウィリアム・モリスが室内装飾(インテリア)方面に起業するに至ったきっかけこそが実はジョン・ラスキン(John Ruskin)との出合いや、デザインの師匠となるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)、同じオックスフォード大学で知り合う友人エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)らの存在であった。1855年、エドワード・バーン=ジョーンズと共にフランスを旅し、2人は芸術家を志す決心をする。エドワード・バーン=ジョーンズは画家に。ウィリアム・モリスは建築家を目指す。1856年、ウィリアム・モリスは建築事務所に入所。そこでネオ・ゴシック建築家のフィリップ・スピークマン・ウェッブ( Philip Speakman Webb)(1831年~1915年)と出会う。※ ウェッブとモリスはアーツ・アンド・クラフツ運動の重要な役割を担う事になる。ウィリアム・モリスはエドワード・バーン=ジョーンズの師匠であるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの元で絵を習い一時は画家になりたいと願った事もあるらしいが、最終的に装飾美術の方面に道を進めデザイナーとなった。特に草木や葉をモチーフにしたテキスタイルは今現在でも人気。モリス商会のテキスタイル (printed textile)Snakeshead printed textile 1876年designed by William Morris画像は共にウィキメディアから。上下共に柄をはっきりさせるよう色調を調整しています。デザインの特徴はシンメトリー。そして植物は婉曲して描かれている。これらデザインは布や紙にプリントされ、カーテンや家具、壁紙などに使われた。1830年~1870 年、英国の壁紙生産量は30倍に伸び、欧州各地から需要もあった。Strawberry Thief(いちご泥棒) 1883年designed by William Morrisモリスを代表する柄ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum V&A)モリスのコーナがありタペストリとテキスタイルと椅子が展示されている中にもあった。部屋は薄暗く写真がボケてます。エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)The Beguiling of Merlin(マーリンの誘惑) 1872 年~1877 年所蔵 Lady Lever Art Galleryウィキメディアから借りました。1877 年、グロブナー ギャラリーで発表され称賛された作品。実は1860 年代後半、リバプールの船主で美術品収集家であるフレデリック リチャーズ レイランド に依頼された作品らしい。先に彼自身のスタイルが確立されるのは1870年頃としているが、このThe Beguiling of Merlin(マーリンの誘惑)の製作年は1872 年~1877 年。バーン=ジョーンズ スタイルが固まった頃? かもしれない。内容はアーサー王伝から 魔術師マーリン(Merlin)が湖の乙女ニムエ(Nimue)に夢中になった結果彼女に呪文をかけられている。と言う構図。ここでは湖の乙女は魔女なのである。ラファエロ前派の描いた邪悪な女性はすべて魔女なのである。美しい魔女がその美貌で男を虜にするのを責めるべきではないと言っている。逆に言えば、妖艶な美女の力は魔法なのだそうで、エドワード・バーン=ジョーンズは魔女崇拝を流行らせたと言われている。実はアーサー王伝ではドルイドの魔術師マーリンがアイルランドから魔法で石を運び、ストーンヘンジを建てたとされている。マーリン(Merlin)は偉大な魔術師なのである。記憶が定かで無いが、ストーンヘンジに刺さった剣が抜ければ正統なブリテンの王としたマーリン。アーサー王はたやすく剣を引抜き正統を証明。その剣がエクスカリバー(Excalibur)だったような気が・・。エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)The Last Sleep of Arthur in Avalon(アヴァロンのアーサーの最後の眠り)1881年~1898年所蔵 Museum of Art in Ponce Puerto Ricoウィキメディアから借りました。彼の人生に大きな影響を与えることになった、トマス・マロリー(Thomas Malory)(1399年~1471年)の「アーサー王の死(Le Morte d'Arthur)」はオックスフォード大学在学中に出会った。部分 こちらもウィキメディアから傷を癒すためにアヴァロン(Avalon)島に運ばれる。瀕死の重傷を負い横たわるアーサー王とアヴァロンを守護する9人の姉妹と吟遊詩人タリエシン(Taliesin)が描かれている。エドワード・バーン=ジョーンズの運命に影響を及ぼした「アーサー王の死(Le Morte d'Arthur)」「アヴァロンのアーサーの最後の眠り」として彼は描いた。製作は1881年~1898年。1896年、友人のモリスの死がショックでバーン=ジョーンズ自身の健康も悪化。そのまま回復することなく1898年6月永眠。バーン=ジョーンズもアーサー王と同じくアヴァロンにいる心境でラストに大作を描いたのかもしれない。アーサー王と円卓の騎士(King Arthur and the Knights of the Round Table)トマス・マロリー(Thomas Malory)(1399年~1471年)の「アーサー王と円卓の騎士(King Arthur and the Knights of the Round Table)」はもともとケルト伝承から始まっている。5~6世紀頃の話しとしてブリトンに伝わっていた幾多の伝承があった。当初はケルトの王であったはず。おそらく8世紀頃、アーサー王はキリスト教の戦士になったと思われる。最も、現実的にノルマン・コンクエストによりイングランドがキリスト教化するのは 1066年ノルマン朝の初代イングランド王ウィリアム1世(William I)(在位: 1066年~1087年)が王位に即いた時なのだが・・。12世紀には十字軍遠征もあり騎士道文化が興隆していたので聖杯伝説はその頃取り入れられたのかもしれない。15世紀には、そこそこ話しはできあがっていたのかもしれない。トマス・マロリーはそれらをまとめて編纂し、騎士道物語として完成させたのだと思われる。その中には彼のオリジナルもあるのだろうが・・。アーサー王伝のストーリーは、幾つかのパートで構成されている。アーサー王の出生に始まり彼が王になる話し。次いでアーサー王の宮廷(キャメロット)に集った円卓の騎士達と彼らの冒険物語が描かれている。特筆するのは、聖杯伝説はここから生まれたと言う事だ。映画インディジョーンズ最後の聖戦で描かれた「最後の晩餐で使われたという聖杯」はそもそも聖書の話しには無い。ここに端を発している。そもそもはアーサー王と円卓の騎士が探し求めた聖杯伝説だったのである。ロマンスあり、妻(グィネヴィア)の裏切りもある。そして最後は王国の崩壊とアーサー王の死へと続く。アーサー王は致命傷を負い、その傷を癒すためにアヴァロン島に船で運ばれる。アヴァロン(Avalon)はリンゴの成る癒しの島? 傷ついた騎士を癒やす楽園とも・・。「アーサー王のアヴァロンでの最後の眠り」では瀕死の重傷を負い横たわるアーサー王とアヴァロンを守護する9人の姉妹と吟遊詩人タリエシン(Taliesin)が描かれている。モリス・マーシャル・フォークナー商会の役割室内装飾業の企業のきっかけは自邸の建設だったらしい。1861 年、モリスはモリス・マーシャル・フォークナー商会(Morris, Marshall, Faulkner & Co) と言う装飾芸術会社を設立。メンバーはエドワード・バーン=ジョーンズ、フィリップ・スピークマン・ウェッブだ。モリス商会では壁紙やステンドグラス、ファブリック、家具の制作など室内装飾の多岐にわたる要望に応えた。デザインから製作まで一貫して請け負うと同時にそれらは昔ながらの職人の技術、クラフトマンシップ(craftsmanship)に頼って造作された。彼らの造作する品は良質で、ファッショナブルで人気があり、非常に需要あったと言う。因みに、ウィリアム・モリスは中産階級の裕福な家の出身である。気の利いたおしゃれな家具やファブリック、壁紙にまで至るまで高級品を知っていた。そしてもっと素敵な贅沢な品を皆が求めている事も知っていた。教会にしかなかったステンドグラスを家の窓にもはめた。モリスの造り出した草木や花のモチーフの壁紙は今も劣らず人気がある。そして彼にはそれを造り出す事が可能だったのである。モリス商会が起こしたクラフトマンシップによる美術工芸の復興は、19世紀の英国でアーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)を起こす事になる。モリス商会はアーツ・アンド・クラフツ運動の中心でヴィクトリア朝時代を通じて室内装飾に大きな影響を与え続けたのだ。モリス商会の事はまたどこかできっちりやりたい所です。ところでなぜモリスが中世にこだわったのか?モリスの中世主義は、一気に進んだ産業革命期のビクトリア朝社会の問題点に起因する。彼は社会の改善には「中世の強い騎士道的価値観と共同体意識が望ましい。」中世に回帰すべきだと考えたようだ。そう考えると、彼がモリス商会で推し進めたクラフトマン・シップも技術を守るとかではなく、職人技術を大切にした中世社会の再現にあったのかも。ラファエル前派からデカダンに向かったシメオン・ソロモンシメオン・ソロモン(Simeon Solomon)(1840年~1905年)The Sleepers and One that Watcheth (眠る者と見る者) 1867年所蔵 Birmingham Museum & Art Gallery画像はウィキメディアから借りました。シメオン・ソロモン(Simeon Solomon)も、後期ラファエロ前派に分類される画家でした。ポピュラーではないので私も知りませんでしたが、ロイヤル・アカデミー(1855年入学)出身の画家です。ソロモンはユダヤ教徒という出自を活かし画題に旧約聖書という新しい画題を持ち込んだ新進の画家としてラファエル前派に迎えられたらしい。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが妻を亡くした(1852年)後、同居していた過去もある。またロセッティはエドワード・バーン=ジョーンズを紹介したので彼の工房に出入りもしていた。上の絵は夢幻(ゆめまぼろし)の中にいるようなアンニュイな作品で、柔らかいメロデイーが流れているよう。まさにロセッティの言った詩の情景である。1860年代のシメオン・ソロモンはアカデミーや、ダドリー・ギャラリーに精力的に作品を出品。モリス商会のデザインにも参加しているし、聖書にイラストも提供している。1867年「バッカス」発表の後に唯美主義との関わりが始まる。享楽的な人達との交友が始まり自身も享楽的な世界に落ちて行くのである。シメオン・ソロモンはラファエロ前派からデカダン的唯美主義に移行する?自らの性癖などアカデミーからも追放される事になり最後はセント・ジャイルズ救貧院で亡くなっている。ラファエロ前派の絵が象徴主義の先駆けであるとか、耽美的であるのはわかるが、どこからデカダン要素が出たのか? と言う謎が、このあたりにあったのか? と言う事でシメオン・ソロモンを紹介しておきました。シメオン・ソロモン(Simeon Solomon)(1840年~1905年)Autumn(秋)Private collection画像はウィキメディアから借りました。それにしても、デカダンと言えば作家オスカー・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde)(1854年~1900年)であり、挿絵画家オーブリー・ビアズリー Aubrey Vincent Beardsley)(1872年~1898年)が上げられる。退廃的な(デカダンスdécadence)という呼び名はフランス語である。簡単に言えば、キリスト教的、社会道徳を無視して、芸術を至上主義とする人達の思想だ。人で言えば、メチャクチャ、無秩序で、破天荒な人達と言える。作風から、フランスのボードレール、ランボー、ヴェルレーヌ、英国ではワイルドが代表される。ところで、ウィリアム・モリスにビアズリーの絵を挿絵画に使わないか? と最初に紹介したのは美術評論家のエイマー・ヴァランス(Aymer Vallance )(1862年~1943年)。モリスに断られ、エイマーはロバート・ボールドウィン・ロス(Robert Baldwin Ross)(1869年~1918年)をビアズリーに紹介。ロスはビアズリーの絵を非常に気に入る。ワイルドにはロバート・ロスから繋がるらしい。最後にオマケヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)からヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum V&A)もとは1851年のロンドン万国博覧会をきっかけに誕生した美術デザイン博物館でした。創立者であるヴィクトリア女王と夫君アルバート公を讃えて1899年名称が変更。彫刻や工芸の他、甲冑や衣装、アクセサリーなど幅広く展示されている。以前カフェテリアを紹介しています。リンク ビクトリア& アルバート博物館 のカフェテリアここにもバーン=ジョーンズがあった。反射するガラスが入っているので正面から撮影できないのです。下の画像はウィキメディアから借りました。エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)The Mill(ミル) 1870 年製作開始。1882 年完成。所蔵 Victoria and Albert Museum 踊る女性、左からマリア・ザンビコ(マリーの従姉妹)、マリー・スパルタリ・スティルマン、アグライア・コロニオ。The Mill(ミル)はルネサンスにインスパイアされた油彩画らしい。ルネッサンスぽい景観と衣装と、女性を配置したもので、タイトルの「The Mill(ミル)」に意味は全く無いらしい。強いて粉ひきの水車が回っているからだろうか?マリー・スパルタリ・スティルマン(Marie Spartali Stillman)(1844年~1927年)の名があるので共作か? と思ったが、モデルをしていただけのよう。当時、彼女はバーン=ジョーンズの愛人だったらしい。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)マリー・スパルタリ・スティルマンのポートレート 1869年Private collection画像はウィキメディアから借りました。ロセッティやバーン=ジョーンズの絵のモデルとして有名であるが、彼女自身も画家。師匠はラファエロ前派に影響された画家のフォード・マドックス・ブラウン(Ford Madox Brown)(1821年~1893年)。(V&A)に関係なくオマケのオマケエドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)An Angel Playing a Flageolet(フラジオレットを奏でる天使) 1878年所蔵 Sudley House画像はウィキメディアから借りました。紙に油彩とテンペラ(oil and tempera) で描かれているらしい。敢えてフレスコ画風に書いたのか?ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)の名前は知らなくても、たぶん皆さん子供の頃に読んだ物語などの挿絵で見たりしているのではないか?最初の私の印象は挿絵画家だった。彼らが好んでテーマにした「アーサー王と円卓の騎士」や「シェークスピア」作品、ギリシャ神話など。私も好きだったし、何より美しく描かれているので関連の本はずいぶん買った(高校時代から)今はインターネットで簡単に見られるから画集を買う人は少ないのだろうが・・。今回は、そんな本の解説も利用させていただき勉強しました。納得いかないのもあるし、何を言っているかわからない解説もたくさんありましたが・・。ちょうど1年前に「ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のサロメ(Salome)」をやりました。モローはフランス画壇の人なので今回の英国とは異なりますが、時代は一緒。この時代、とにかく面白いのです。無作為に手を付けてましたが、最近繋がってきたのです。どちらかと言えば古典派な私はミレーの後期作品が好きだった。特に赤いコートを着た少女が汽車で居眠りする2作はお気に入りで、模写をしかけて8割で止まっている。そもそもミレーがラファエル前派のミレイと同一だったとは当初全く知らなかったのです。それだけ初期と後期では作風が違う。ロセッティも初期は見るに絶えなさそうな絵ですが、後期は人を魅了する絵を描いている。皆、進化しているのです。ハントが一貫して主義を変え無かった方が不思議。後期ラファエロ前派に入るモリスが起業したモリス商会。古典やアールヌーボーが好きな私には興味はなかったのですが、今回モリスが本物を届けようと奮闘していた事がわかり感動しました。モリス商会はティファニー商会と肩を並べるインテリア会社だったと言うことがわかり、今後、注視して行きたいと思います。遅いかところでジョン・ラスキン(John Ruskin)の妻とミレーの話し入れ忘れました。まあ、ゴシップだから今回はいいや・・と言うわけでおわります。Back numberリンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 1 ヴィクトリア朝 ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 2バーン=ジョーンズとモリス関連 numberリンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)リンク ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のサロメ(Salome)
2023年01月25日
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「創史のメンバーと追随した第2グループの所、「創史のメンバー」に変更させて頂ました。「追随した第2グループ」当初は入れる予定が入らなくなり、次回に回していました。m(_ _)m次回作に関しては近々に載せる予定です。プライベートで事件? なかなか時間がとれなかったので予定を大幅に押しています。 ペコm(_ _ m三m _ _)mペコ今回は年末ラスト、絵画にしました。ラファエル前派兄弟団(Pre-Raphaelite Brotherhood)の絵画を紹介しようかと思います。たぶん今までの紹介本とは全く異なると思います。書いているうちに関連説明も増えすぎて・・。また、彼らは人間関係も複雑。紹介したい画家もたくさんいるし、絵もたくさん紹介したいので2部構成にすることにしました。テイト・ブリテンとヴィクトリア&アルバート美術館でも撮影はしていますが、欲しい写真が無かったので、絵画の写真は大方の所でウィキメディアから借りています。また、スマホ撮影がOKだった三菱一号館美術館(東京)で撮影したロセッティの絵はオリジナル撮影です。問題はどう仕分けして載せるかですでも、その前に時代の社会情勢の説明から入りたいと思います。なぜなら、芸術は社会情勢に大きく起因しているからです。文化は平和な時代にこそ昇華されますが、ラファエル前派が現れた19世紀の英国はまさに安定した国政に市民経済は好調。市民文化が発達した時代でした。19世紀の英国は、フランスとは事なり王政が安定していたから産業革命も早くから進んだ。英国の植民地政策は成功し大金持ちとなった英国で、ヴィクトリア女王 (Victoria)(1819年~ 1901年)(在位:1837年~1901年)の治世は長く続いた。ブルジョワジー(資本家階級)だけでなく、学のあるプロレタリアート(賃金労働者)も出現し、特に中産階級の国民の文化レベルは相当に上がった。印刷技術は黄金期を迎え、本は大量に印刷され出版された。英国の19世紀は中産階級(中世の第三身分の人々)の躍進が経済発展に大きく寄与している。※ 中世の第三身分の人々。以前フランスの身分制度で説明しています。英国も王政なのでカテゴリーは一緒。第1身分 聖職者(司教、司祭、助祭) 第2身分 貴族 (公爵、侯爵、子爵、男爵)第3身分 平民 (ブルジョア、都市の市民、農民)リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃ラファエル前派の絵画はそうした中産階級の人々に受け入れられて行く。また、彼らを支持し装飾美術方面に起業したウィリアム・モリスの顧客もそうした中産階級を顧客としている。※ ウィリアム・モリスは次回予定。ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 1 ヴィクトリア朝フランス革命以降の欧州の情勢ヴィクトリア女王(Queen Victoria)ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)とナザレ運動(Nazarene Movement)ナザレ運動(Nazarene Movement)ラファエル前派とジョン・ラスキン(John Ruskin)創史のメンバーラファエル前派兄弟団の初期作品The Girlhood of Mary VirginEcce Ancilla Domini!The Light of the World (世界の光)The Return of the Dove to the ArkOphelia(オフィーリア)1853年ラファエル前派兄弟団 解散Beata Beatrix (ベアタ・ベアトリクス)Venus Verticordia(魔性のヴィーナス)The Bllessed Damozel(祝福されし乙女) Mnemosyne ムネモシューネー(記憶の女神)The Day Dream(デイドリーム)Proserpine(プロセルピナ) フランス革命以降の欧州の情勢18世紀から19世紀の欧州はパワーバランスが崩れた激動の時代と言ってよい。その皮切りは1789年7月に勃発したフランス革命であった。フランス革命では市民による反乱が王政を倒し、国情を変えた。市民の反乱で王政が倒され、国王が処刑されるなどあり得ない事。近隣の動揺と同時にこの機にフランスを得ようと各国の思惑も働く。そうしてフランス革命戦争(1792年~1802年)が勃発し、欧州各国を巻き込んで行く事になる。1792年4月、フランス革命政府は神聖ローマ帝国(オーストリア)へ宣戦布告。イタリア側からの攻撃を指揮したナポレオンの勝利によりイタリア北部とライン川以西が事実上フランスに併合された。神聖ローマ帝国はナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、ズタボロ。ナポレオン軍が帝都ウイーンに入るとかってに講和交渉。1805年、ナポレオンがイタリア王国の初代国王に就任する頃。中世以来続いた神聖ローマ帝国は解体される(1806年8月)に至ったのだ。それはナポレオンの功績? 1000年以上続いた神聖ローマ帝国の消滅は欧州のパワーバランスを決定的に崩した。ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年~1821年)はフランス市民の英雄となり、フランスに多大な利益をもたらしたが、市民の裏切りも早い。一時はフランスが欧州を統一するか? という勢いであったがナポレオンが負け越すと、ナポレオンは速やかに切られた。ナポレオンが退位を表明した宮殿がフォンテーヌブロー宮殿です。リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠ナポレオンに関しては他にも書いています。リンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子リンク ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Greenではフランスと英国との関係は?フランスと英国はそもそも7年戦争(英国勝利)やアメリカ独立戦争(フランス勝利)で敵であった為、犬猿の関係にあった。またナポレオンがかつて得た北アフリカも英国に奪われていたが、ナポレオンが英国に亡命してから両者はアフリカ大陸における利権問題をうまく回避していた。※ ブルボン朝が復活すると多くのフランス植民地がフランスに返還されたらしい。それ故、ナポレオン問題で争いが起きてはいけない事を理解していた。※ フランスとイギリスの因縁については以下で書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里ところで、19世紀の英国とフランスの違いであるが、フランスでは市民により王政は打倒されたが、英国の方は、むしろ王政が栄えていたと言う点だ。フランス革命はパリ市民の反乱で始まったが、実はパリ市民は昔から過激。1358年。パリの宮殿がパリ市民の暴徒に襲われた時、恐怖を感じた王(シャルル5世)は王宮をパリから離れた所に置いた。以降の王もパリには好んで住まなくなった。マリー・アントワネットらもテュイルリー宮(Palais des Tuileries)の寝室で暴徒に襲われている。容赦ない過激な攻撃を王族にも平気で行うのがパリ市民だ。王と市民の関係であるが、そもそもフランスの場合、王側もパワーによる統治だったのではないか? と思う。王は絶対的な力で統治していたが、市民の怒りの琴線に触れた時、市民もパワーで反発した。最もルイ15世時代までは王も市民の為に「王が市民の病を治す行為」を行なっていた。見える形で市民の為に役に立っていた時代の王はフレンドリーで慕われていたのだろう。何れにせよパリ市民に「王は神に次いで特別な存在である。」と言う「王権神授説(おうけんしんじゅせつ)」は通用していなかったのだろう。※ そのあたりを書いた章です。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)一方、英国の方は、昔から王が市民の為に成す事が多かったから、市民からの敬愛が深かったのではないか? と思う。※ 昔の王は市民のケンカの裁定もしていた。裁判制度が出来るまでは・・。司法制度のほとんどはヘンリー2世(Henry II)(1133年~1189年)の時代に確立されている。それは現在の英国人の英国王室の敬愛ぶりを見ても解る。市民は王族の存在を認めているからだ。19世紀に入って英国の植民地政策が成功し、インド貿易も盛んになると英国は好景気を迎える。ヴィクトリア女王の株はさらに上がって行ったと思われる。最も好景気だと、多少ムチャブリされても気にならないだろうし・・。要するに同じ王政であった両国であるが、市民の王族への敬愛の仕方、また敬愛度が全く異なっていたのだろうな・・。と思ったわけです。ヴィクトリア女王と夫君アルバート公の家族(Queen Victoria and Prince Albert's family) 1846年ウィキメディアから借りました。英王室のRoyal Collectionです。画家フランツ・ヴィンターハルター(Franz Winterhalter)(1805年~1873年)上流貴族御用達のドイ人の肖像画家。ヴィクトリア女王のお気に入りで、ナポレオン3世、フランス国王ルイ・フィリップの肖像画の他、皇妃エリザヴェートの肖像も彼の作品。画家フランツ・ヴィンターハルター(Franz Winterhalter)は本来は古典派の画家であるが肖像画家として成功してしまった。当時は宗教画、歴史画を重んじ風俗画を軽視する時代であったので肖像画家の彼の評価は低い。しかし、ロマン派を感じる彼の作品は従来の肖像画とは異なって神話画の要素が見える。さらにモデルに似せながらも実物以上に美化して描くので非常に評判だったらしい。ヴィクトリア女王の為に120点程描き、Royal Collectionとして多くは英国の宮殿で飾られているそうだ。これから紹介するラファエル前派兄弟団も、古典を否定して新しい時代の芸術を求めた集りであるが、フランツ・ヴィンターハルターの凝った衣装やポージング、そしてその色使いは彼らに通じるものを感じる。決定的に違うのは、そもそも技量があるから絵が上手すぎると言う点だ。逆を返せば、ラファエル前派兄弟団の絵は上手いとは言い難い。何しろまだ学生だし、神学者や詩人が絵を描いていたわけだから・・。ヴィクトリア女王(Queen Victoria)さて、英国の19世紀はヴィクトリア女王あっての世紀。彼女の統治時代をヴィクトリア朝と言う。大英帝国が最も繁栄した時代である。ヴィクトリア女王(Queen Victoria)は英国のハノーヴァー朝第6代女王アレクサンドリナ・ヴィクトリア(Alexandrina Victoria)(1819年~1901年) (在位:1837年~1901年)初代インド皇帝(女帝)(在位:1877年~1901年)3人の伯父たちが嫡出子を残さなかったため、1837年6月20日に18歳で即位。治世は64年。女王として君臨。1901年に崩御(ほうぎょ)。※ 歴代イギリス国王の中でその治世はエリザベス2世に次いで2番目の長さ。二人の女王は共に老衰で崩御している。外交では1877年にインド皇帝を兼ね、インドをはじめとする広大な海外植民地を支配。現在も世界各地に残る女王の名を冠した地名こそ、英国統治の名残である。ヴィクトリア島(カナダ)、ヴィクトリア湖(ケニア・ウガンダ・タンザニア)、ヴィクトリア滝(ジンバブエ・ザンビア)、ヴィクトリア・ハーバー(香港)、ヴィクトリアランド(南極大陸)、ヴィクトリア(世界各地の都市名)、ヴィクトリア・パーク(世界各地の公園)などもし英国のトップが女王でなかったら? 時代は異なっていたかもしれない。先頃、崩御されたエリザベス2世(Elizabeth the Second)(1926年~2022年9月)女王にも重なる事だが、「帝国の母」「慈愛」のイメージは聖母をイメージさせる。女王の存在は大英帝国の拡大にも維持にも繋がったらしい。ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)とナザレ運動(Nazarene Movement)Pre-Raphaelite Brotherhood(ラファエル前派兄弟団)はヴィクトリア朝のロンドンで1848年に結成された同じ趣向を持つ英国の芸術家(画家、詩人、美術評論家)らによって結成されたグループです。簡単に言うと、発起人である当初のメンバーはロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(Royal Academy of Arts)の生徒で、学校が押す伝統的な絵画技法やテーマが「古すぎる」と意義を唱えたのです。※ Royal Academy of Arts・・王立芸術アカデミーは英国立の美術学校の事。詳しくは後で解説しますが、ラファエロ以降のマニエリスム的完成された古典ではなく、彼らが求めたのは自分達の思うままに好きな手法で、好きな絵を描きたい。と言うのが当初の目的でした。つまり、英国画壇を牽引してきたロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの初代会長、ジョシュア・レイノルズ(Sir Joshua Reynolds)(1723年~1792年)の方針を否定したと言う事です。初期のラファエル前派兄弟団に明確なテーマがあったわけではないが、保守、伝統を重んじる学校にはむかった絵(最初の展示会は1849年)は物議をかもしたのは確か。参考にジョシュア・レイノルズ(Sir Joshua Reynolds)の作品を紹介。ウィキメディアから借りました。幼児サミュエル(The Infant Samuel) 1776年ファーブル美術館(Musée Fabre)サミュエル(Samuel)は 旧約聖書「サムエル記」に登場するユダヤの預言者であり指導者。子供の頃から神の言葉の伝言をした?ジョシュア・レイノルズ自身が推奨した理想の絵画は聖書や伝説やギリシャ・ローマの古典を題材とするもの。そう言う絵は王侯貴族が持つにふさわしい格式ある絵と定義できます。実際、19世紀のヴィクトリア朝の急速な社会変化を見れば、反古典に走るのも道理。絵画を欲する層が変わってきている事も大きい。貴族の没落もある。。時代もめまぐるしく変化し、生活は近代化している中で特別な絵画の需要は減ったのだろう。代わりに絵画の需要は本の中にこそ増えて行く。でもアカデミーは新しい物を採り入れるのさえ拒絶する。先に動いてしまったもの勝ち? ラファエル前派兄弟団は改革運動の派であると自らを定義した。解り易い名前を付けた。「Pre-Raphaelite Brotherhood」の頭文字から「P.R.B.」と署名。広報誌として定期刊行物 「The Germ 」を発行。グループの討論は「ラファエル前派ジャーナル」に記録したと言う。同士のサークルである。彼らの考えに同調する者は追随して自身の作品を公開した。ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(Royal Academy of Arts)の教授らは足元で変な活動を始めた彼らを歓迎はしなかったろう。ところで、こうした新しい考えは、すでにドイツで始まっていた。ナザレ運動(Nazarene Movement)1809年、ウイーンではthe Brotherhood of St. Luke(聖ルカ兄弟団)と言うグループが結成されていた。その彼らが求めた芸術スタイルはナザレ派(Nazarener)と呼ばれる。精神的価値を具体化した芸術に戻ることを望み、中世後期と初期ルネサンスの芸術家にインスピレーションを求める。また彼らも新古典主義とアカデミーのシステムに異を唱えて生まれている。ただ、ナザレ派の行動はラファエル前派よりもはるかにマニアック。彼らはローマに住み着き中世に戻るべく半修道院生活をしながら活動。宗教的なテーマが多い。ナザレ派は職人技術である中世のフレスコ画を復活させる試みもしている。フレスコ画もまたラファエル前派はその活動で国会議事堂の再建で活用を試みているが、彼らは失敗しているらしい。ドイツ ロマン主義の画家の中から出たナザレ派。欧州の中ではいち早く行動はしたが、ナザレ運動(Nazarene Movement)は限りなく中世の復刻に近い? 職人気質で生真面目なドイツ人らしいが誰でもマネできるものではない。ラファエロ前派兄弟団の創設は、ナザレ派しかり、ドイツですでに始まっていた美術改革の影響を受けたからと思われるが、少なくとも彼らはもっと自由だ。あまり深く考えていなかったのかもしれないが・・。彼らの活動が英国画壇に新しい風潮をもたらし、画壇に改革を起こしたのは確か。古典主義からの離脱。ラファエル前派は過渡期を成している。実際ラファエル前派兄弟団自体の活動は5年ほどで終わり、グループはそれぞれのステップに進んで行く。テーマはより文学に寄って行くので象徴主義と言うよりはロマン主義的である。※ 英国のロマン主義は英国古典文学からくるものが多い。※ フランスで起きたロマン主義と英国で起きたロマン主義はかなり別物。ラファエル前派とジョン・ラスキン(John Ruskin)そもそもラファエル前派兄弟団(Pre-Raphaelite Brotherhood)の語彙は何を意味しているのか?ラファエルのラファエルは盛期ルネサンスを代表するイタリアの巨匠であるラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)(1483年~1520年)に由来している。※ 新プラトン主義の思想はルネサンスの文芸・美術にも大きな影響を与えたと言うが、ラファエロは新プラトン主義を美術作品に昇華したとして高い評価をされている。一般的にラファエロは、古代ギリシア・ローマの芸術に回帰し「古典主義」を完成した芸術家と位置付けされている。古典の代名詞であるラファエロに対して古典偏重の19世紀のアカデミーにおける美術教育を揶揄する意味で「ラファエロ以前(Pre-Raphaelite)」という言葉を使ったらしい。つまり根底にあるのは「反アカデミズム」と考えられる。実際、ラファエル前派は様々な芸術様式で描かれていて、ナザレ派のように、必ずしも中世後期や初期ルネッサンスの様式に戻ったわけではない。むしろ、英国における象徴主義美術の先駆けともとらえられている。1848年、ラファエル前派結成1849年、3人は「P.R.B」と謎のサインを入れた絵画を発表。※ 「P.R.B」は、Pre-Raphaelite Brotherhood(ラファエル前派兄弟団)の頭文字であった。Brotherhood(兄弟団)と言うネーミングに中世の秘密結社を意識した? 遊び心かな?1850年、「P.R.B」のサインの意味を公表した時に美術界にスキャンダルが起きたという。1851年5月、ジョン・ラスキンはラファエル前派兄弟団を擁護する手紙をタイムズに書いた。世間がラファエロ前派兄弟団の絵をバッシングする中で批評家のジョン・ラスキン(John Ruskin)(1819年~1900年)だけが彼らの活動を支持したのだ。※ これ以降ラスキンとラファエル前派兄弟団の関係は密接になって行くのだが、その関係故ラスキンは妻を失った。後で触れます。これもスキャンダルです。ジョン・ラスキン(John Ruskin)のポートレート 1863年ウィキメディアから借りました。ジョン・ラスキン(John Ruskin)(1819年~1900年)「自然をありのままに再現すべきだ」「神の創造物である自然に完全さを見い出せる。」宗教色の強い教育を受けてきたラスキンには神性と美を結びつけた独特の美学があったらしい。「美は神からの贈り物」、「すべての偉大な芸術家は美しさを認識」、「想像力を使って創造し、象徴的に表現せよ」と主張。彼の擁護するターナーと同じ系譜であり本質は同じとラファエル前派をラスキンは擁護した。博学な彼は社会思想家であり作家、哲学者、美術評論家と多くの肩書きを持つ。そして彼の社会への影響は大きかった。むしろ以降ラファエル前派はラスキンの主張に寄って行った? のではなはいか? とさえ思う。実際、後からラファエロ前派の改革に加わるエドワード・バーン・ジョーンズ、ウィリアム・モリス、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスらの絵画はラスキンの主張に沿っている。創史のメンバー1848年、ラファエル前派結成創史のメンバー3人は国立美術学校、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(Royal Academy of Arts, RA)の生徒。画家 ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)(1829年~1896年)画家・詩人 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)画家 ウィリアム・ホルマン・ハント (William Holman Hunt)(1827年~1910年)3人によって設立され後に4人加わり活動が始まった。作家、評論家 ウィリアム・マイケル・ロセッティ(William Michael Rossetti)(1829年~1919年)※ ダンテ・ガブリエル・ロセッティの兄弟画家 ジェームズ・コリンソン(James Collinson)(1825年~1881年)※ ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが気に入りラファエル前派の同胞団に推薦。評論家 フレデリック・ジョージ・スティーブンス(Frederick George Stephens)(1827年~1907年)彫刻家 トーマス・ウールナー(Thomas Woolner)(1825年~1892年)ナザレ運動を一部モデルにした7人のメンバーでラファエル前派(Pre-Raphaelite)兄弟団(Brotherhood)を結成した。1853年、ラファエル前派解散ラファエル前派兄弟団の初期作品1849年発表作品 ラファエル前派としての最初の作品?ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)からThe Girlhood of Mary Virgin ウィキメディアからかりました。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティはラファエロ前派、創設の初期メンバーの1人。日本語訳のタイトルでは「聖母マリアの少女時代」となっている。後に聖母となるマリアが母アンナに刺繍の手ほどきを受けている図である。聖母となるマリアの懐妊(受胎告知)につながる話? であるが、実際にこのような内容は聖書には無い。内容は全くの創作。でも一般に受胎告知につながる小物(白百合、天使、ハト、シュロ、天使の輪)がこれでもかと散りばめられている。象徴主義の先駆けと言われるところかもしれない。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)から1850年発表作品 上の「少女時代」に続いて出された聖母マリアの「受胎告知」図Ecce Ancilla Domini! ウィキメディアからかりました。聖母となるマリアの懐妊(受胎告知)を大天使ガブリエルが知らせる図であるが、これも今までのセオリーと全く違う。聖書に扱われる絵には定型と言ってさしつかえないほぼ決まった構図がある。受胎告知もそう。形式から何から全てを否定してオリジナルにしたみたいですね本来のアイテムである白百合は、刺繍の中にも描かれている。また、天使は浮いているから人でないのは分かるが、翼も無い。参考に中世来の受胎告知の定番スタイルを紹介。多分最初にこのポーズで描いたのは初期ルネッサンスの画家フラ・アンジェリコ(Fra' Angelico)(1390年 / 1395年頃~1455年)。ラファエロもダ・ヴィンチもこのスタイルを使用。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)(1452年~1519年)Annunciation(受胎告知) 1472年ウィキメディアから借りました。所蔵 Uffizi Gallery 画家 ウィリアム・ホルマン・ハント (William Holman Hunt)(1827年~1910年)からThe Light of the World (世界の光) (Manchester version) 所蔵 Manchester Art Gallery 上の絵はManchester versionと呼ばれる小品。ウィキメディアから借りました。黙示録 3:20 ドアを叩くキリスト。これは閉ざされた心の扉を開きたまえ。と言う神からのメッセージを現した寓話。今までおそらく聖書でこのテーマを絵にした者はいなかったかもしれない。敢えてハントは選んだらしい。最初に描かれたのはラファエル前派兄弟団結成中。1849年~1850年頃に製作が開始され1854年完成。最初の作品はオックスフォード大学(University of Oxford)キーブルカレッジ(Keble Colleg)に併設されたチャペル(Chapel)にあるらしい。※ キーブルカレッジ(Keble Colleg)は創設1870年、カトリックと国教会の調和を試みた英国国教会の主教である。教会で大切にされている絵と言う事だ。この作品は複数描かれている事からもハントの代表作といえる作品。彼の絵は、鮮やかな色と細部へのこだわりによる精巧さを持って象徴性を示す。ジョン・ラスキンからの影響と言われている。ラファエル前派は1853年に解散するが、方向性を違えて別方向にメンバーが進む中で、ハントだけはラファエル前派兄弟団創設の理念を最後まで忠実に守り通している。つまり、初心から最後まで信念がブレなかったのは3人の中で彼だけなのだ。ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)(1829年~1896年)The Return of the Dove to the Ark (鳩の箱舟への帰還) 1851年ウィキメディアから借りました。所蔵 Ashmolean Museum 旧約聖書 創世記 6~9 ノアの方舟(Noah's Ark)から大洪水の中、一対の選ばれた動物だけがノアの造った船にのり難を逃れた。洪水は40日40夜続き水は150日の間引かず、船はアララト山の上で地上に戻れる日を待った。飛ばしたハトがオリーブの枝を加えて戻った瞬間の情景らしい。地上にまもなく降りられるだろうと言う安堵を示した絵らしい。これはノアの方舟(Noah's Ark)の一編の情景を描いたものだが、ノアの方舟を表現する時は船と海のような洪水が定番。※ ハト、オリーブの枝、荒海、木造の船、一対の動物。などはノアの箱船における象徴のアイテムである。これはノアの方舟の話しが解っている人前提の絵。でも聖書の話しとして見るなら時代考証も合っていない。2人の少女を描く為のモチーフにハトとオリーブを使ただけ?逆にハトとオリーブの象徴のみで創世記と言い張る所が凄いタイトルがThe Return of the Dove to the Ark (鳩の箱舟への帰還)と、言い切っているのだから相当な非難を浴びたでしょうね。でもミレイの絵は古典寄りの正統派。技量があるからこの後発表するオフィーリアは絶賛される。ところで彼らが宗教画を描いたのは1833年にオックスフォード大学で始まったオックスフォードムーブメント(Oxford Movement)(カトリックリバイバル)を意識してのものらしい。カトリックリバイバル運動はまた19世紀のロマン主義芸術家や著述家の間にゴシック・リバイバル(建築)のブームをもたらす。これは19世紀英国における一種の宗教改革。複雑なので今回は避けます。よく彼らの作品は「中世後期と初期ルネサンスの芸術家にインスピレーションを求めた。」などと紹介されてているが、以上彼らの初期作品を見るとルネッサンス以前の思想がどうこうと言うより、単にラファエロ以降にテーマの定型画題が決まった。と言う事への反発が大きいのかな? と思った。つまり描くテーマにおけるモチーフは自分の感性で決めたい。中世の巨匠のスタイルを踏襲するのは嫌。画家自身が画題からイメージしたものを描いてこそ画家の想いも主張も表現できる。この考え方は画家から、彼らを芸術家に昇格させたものだったと思う。そしてまたこうした考えが象徴主義(symbolisme)を先駆けたのかもしれない。ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)(1829年~1896年)Ophelia(オフィーリア) 1852年所蔵 Tate Britainモデル エリザベス・シダル(Elizabeth Siddal)(1829年~1862年)ウィリアム シェイクスピア(William Shakespeare)(1564年~1616年)の戯曲悲劇「ハムレット(Hamlet)」1601年頃の作品から溺れる直前の川で歌うオフィーリア(Ophelia)を表現。オフィーリアの死と詳細に表現された自然の情景。そして何より美しさと儚さ?この作品は、1852年、ロイヤル アカデミー展で展示され称賛された。ところで、ラファエル前派の絵は女性が多い。特に脆弱な? 儚い?そんな女性像が彼らの間で人気の主題だったらしい。だから初期のメンバーはモデルを共有している。そしてモデルとの恋愛関係も複雑。妻になったり不倫関係があったり・・。だからラファエル前派の絵はモデルが誰か? にもチェックポイントがある。上のオフィーリアのモデル エリザベス・シダル(Elizabeth Siddal)(1829年~1862年)は長い婚約期間の後にロセッティの妻となった。シダルは最初、ラファエル前派に心酔した画家ウォルター・デヴェレル(Walter Howell Deverell)(1827年~1854年)に見いだされ、モデルを務めた。その後彼が紹介してラファエル前派兄弟団の初期3人(ハント、ミレー、ロセッティ)のモデルも務める事になる。因みに、オフィーリアではリアリティーを出す為に、エリザベス・シダルは浴槽に浸かってモデルを務めた。描かれたのは真冬。ミレーが夢中になり湯がさめたが彼女は何も言わずにモデルを続け肺炎になっている。真面目な人だったのね。父が慰謝料を請求している。この絵を見るためにテート・ブリテン(Tate Britain)まで行きましたが、貸出中? 無かったのです。美術館内の撮影は可能でしたが、割と高い位置にあるので他の絵もさほどきれいには撮影できていません。どこかで他の絵は紹介します。1853年ラファエル前派兄弟団 解散1853 年、ミレーはロイヤル・アカデミー(Royal Academy)の準会員に選出され、すぐにアカデミーの正会員に選出された。この事が1853年、ラファエル前派兄弟団自体の解散に繋がったのは間違いない。もっとも、彼らが始めたラファエル前派の活動を信奉する者は後からも続いたが・・。1848年に結婚した妻エフィー・グレイ(Effie Gray)の件ではヴィクトリア女王を怒らせたが、ミレーはヴィクトリア女王に気に入られていたので1885年、準男爵(baronet)の爵位ももらっている。※ エフィー・グレイ(Effie Gray)(1828年~1897年)はラスキンの元妻だった。ずっと順風満帆だったわけではないが、1896年にレイトン卿が亡くなった後は、ついにロイヤル・アカデミーの会長に選出されている。同年亡くなったが・・。ジョン・エヴァレット・ミレーの絵は古典派の重鎮に気にいられるだけの技術があったと言う事だ。一番の出世頭である。先に触れたが、ウィリアム・ホルマン・ハントは初期の想いを最後まで貫いた。一方、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティも他のラファエル前派の画家たち同様、聖書、伝説、文学などに題材を求めた作品を多く描いたが、当時の画壇に名を連ねるレベルの画家としての技量はなかったと言える。でも彼は詩を書き、自ら挿絵をした。彼の絵は挿絵画家としては成功している。装飾的・耽美的な彼の作品は非常に魅力的な絵だ。彼の代表作に数えられているのがダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)Beata Beatrix (ベアタ・ベアトリクス)(祝福されしベアトリーチェ) 1863年頃ウィキメディアからかりました。所蔵 Tate Britainモデル エリザベス・シダル(Elizabeth Siddal)(1829年~1862年)1852年エリザベス・シダルは自殺した。死産後にウツが酷くなりアヘンチンキ (laudanum)を常用していた。事故か?と思ったが遺書があったそうだ。でも当時、自殺では教会で埋葬されないからロセッティは遺書を燃やしてしまった。翌年(1853年)から、ロセッティはダンテ(Dante Alighieri)(1265年~1321年)をテーマにした作品に取り組む。ダンテの運命の人ベアトリーチェ・ポルティナーリ (Beatrice Portinari)(1266年?~1290年?)は中世来有名な女性。ロセッティは自分をダンテに重ねた? そしてシダルをベアトリーチェに重ねた? 妻への追悼? の作品として描いた。※ 1294年のダンテの詩「 La Vita Nuova(新しい人生)」から。神曲にもベアトリーチェは登場している。ロセッティは彼女の死をただ伝えるのではなく象徴的に描いた。霊的な変容を幻想的に描いたらしい。彼女の肖像画として、またロセッティの代表作として? Beata Beatrix (ベアタ・ベアトリクス) は最も知られた作品なのである。このテーマだけで1本は書けそうだけど超短縮しました。数年前に確か東京の三菱一号館美術館でラファエル前派関連? の催しがありダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの作品が数点来ていた。太っぱらなこの美術館ではスマホによる撮影が許可されていたのでその写真を公開します。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)Venus Verticordia(魔性のヴィーナス) 1863年~1868年頃所蔵 Russell-Cotes Art Gallery & Museum左手に持つのは美の象徴である黄金のリンゴ。つまり彼女はヴィーナス(Venus)右手に持つのはキューピッドの矢。→心変わりをさせる。スイカズラは、ビクトリア朝時代の愛の象徴らしい。象徴で示したそれは、美の女神の誘惑を示しているのだろう。美術館の解説では本作は「魔性のヴィーナス」とタイトルされていたが、別の解説に「心変わりを誘うヴィーナス」とあった。誘惑の捉え方も色々だな・・と思う。もしかしたらロセッティ唯一の裸体? 当時はまだ裸体を描くには難があったが、古典にならって? 神の裸体は描けたのかもしれない。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)The Bllessed Damozel(祝福されし乙女) 1875年~1881年所蔵 National Museums Liverpool若くして世をさり、天国で恋人と再開するのを心待ちにしている乙女。ロセッティ自身が機関誌に発表した詩を描いた作品。下段の男性は地上に残っている恋人らしい。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)Mnemosyne ムネモシューネー(記憶の女神) 1876年~1881年所蔵 Delaware Art Museum確証をとっていませんが、モデルは ジェーン・モリス(Jane Morris)でしょうね。記憶の女神が持つ右手の容器には、飲むと過去を想い出せる水がはいってぃるらしい。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)The Day Dream(デイドリーム) 1880年所蔵 Victoria & Albert Museumモデル ジェーン・モリス(Jane Morris)(1839年~1914年)左手に持つのはスイカズラ。ビクトリア朝時代の愛の象徴ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)Proserpine(プロセルピナ) 1874年モデル ジェーン・モリス(Jane Morris)(1839年~1914年)※ 1859年、ウィリアム・モリス(William Morris)(1834年~1896年)と結婚。※ ロセッティとの関係は1865年に始まり、ロセッティの死1882年まで続いた?ザクロを持った冥界の女王プロセルピナ(Proserpine)はローマ神話の神。※ ギリシャ神話ではペルセポネ(Persephonē)。冥府の神プルートー(Plūtō)の妻である。そして母は豊穣の女神デーメーテール(Dēmētēr)実はプロセルピナはプルートに誘拐され無理矢理 冥界で妻にされた。母は彼女をとりもどそうとしたが、冥界のザクロ実を6粒口にしていた事から1年の半分は冥界に住まなければならなくなった。古来ザクロは種子が多い事から豊穣のシンボルであったらしい。キリスト教では再生と不死に対する希望のシンボルらしいが・・。香炉は不死を現す?彼女が居るのは暗い冥界。バックの光の窓は地上? アイヴィーは記憶と時間の経過。絵ではプロセルピナはザクロをにぎり恨めしく思って居るのでは? と言う風に見える。別バージョンでソネット付きがあり、そこでは「一度味わったら、ここで私を悩ませなければならない悲惨な果物」と言っている。さて、細かくやっているとキリが無いので、全部解説入れませんでした。抜けている所あります。皆さん自分で捜してください。実際、本などで紹介されていない絵もあります。今日はこの辺で中止します。まだ3人しか紹介してませんが長くなりました。ラファエロ前派兄弟団は多くのヴィクトリア朝の画家たちに少なからず影響を与えたが、メンーバーはそれぞれ独自に別の道に進んで行く。5年程の活動であったが、英国の芸術に一つのカテゴリーを造った。次回は後続のラファエル前派に類する以下の人達とアーツ&クラフツ運動などもいれるかもしれません。行き当たりばったりで書いているのでこれと言った構想はまだ無いですが・・。ウィリアム・モリス(William Morris)(1834年~1896年)エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse)(1849年~1917年)※ 好きな画家ばかりを集めて紹介しています。Back number ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 1 ヴィクトリア朝リンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 2バーン=ジョーンズとモリス関連 numberリンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)リンク ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のサロメ(Salome)
2022年12月14日
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後年、書いた「ラファエロ前派」のリンク先を追加しました。19世紀と言う時代はいろんな意味で激動の時代であった。むろん産業革命は大きい。フランスにおいては特に政治体制が2転3転している。当然、市民生活も変わり思想も変わらざる終えない。カメラが登場し、肖像画と言う分野を失った画家らは新たな境地を求めざる終えなかった。実際、写実画は衰退し写真に取って変わっている。※「ボタンを押すだけ」と言う一般大衆向けのカメラ(Kodak)が発売されたのは1888年。世に出したのは現「Eastman Kodak Company」の創業者である。もはやリアルでは勝てないとリアルな描写を放棄した印象派が現れたのもこうした時代背景があったからだ。一方、昔に固執する者は当然いただろうし、全てに嫌気をさして虚構の世界を構築して内にこもる者もいた。詩人は感情を文字にして表現。画家は絵で示してみせた。19世紀後半は世紀末思想も含めて特にいろんな思想家が現れた時代でもあったのだ。さらに、ややこしいのは、思想は同一でも、国により呼び方が違ったりする事だ。○○派がとにかく多すぎる。でも非常に面白い時代です。そんなわけで今回は美術ネタです。以前、「世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salome)」を紹介した時に、いつかギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のサロメも紹介したいと思っていた。ビアズリーのサロメと同じだけ思い入れもあるしモローのサロメは幻想的でとても美しいのだ。ビアズリーのサロメと同様に最初に見付けたのは高校時代。画家の他の絵も含めてより興味を持ったのは20代になってから。ラファエロ前派の流れから再びたどり付いた時だ。当時、今もそうだが、この画家はあまり日本で知られていない。尚更、画像も限られていた。時々美術書でとりあげられるサロメと数点の神話画? くらい。※ インターネットの無い時代である。自ら美術書で見付けなければ出会えなかった。私が最初に興味引かれたのはサロメをテーマとしていたから。そして魅惑的なサロメと、他にない幻想的世界感の作品に衝撃を受けたものだ。そのうち、画家の美術館がパリにある事を知ると、いつかそこに行き他の作品を見たいと願ったのだ。その願いが叶うのはずっと後の事。今回はその美術館で撮影した写真をベースに紹介予定ですが、2007年の撮影です。デジカメの能力があまりよく無かった事。(たぶん解像度が低かった。)その日パリの天気が曇天だった事。また、美術館は古い屋敷が利用されているので絵画を撮影するには暗すぎた事。つまり写真が暗い事と絵画に関してはボケて直接利用できない事がネックとなって、なかなか紹介に至れなかったのです。それ故、今回、絵画に関しては、ウィキメディアや本などから引用させていただきました。全体にギュスターヴ・モローの解説書のようになってしまった感があります。f^^*)ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のサロメ(Salome)サロメ(Salome)とは?モローのサロメが象徴派に与えた影響モローのサロメ(Salomé)ヘロデ王の前で踊るサロメ出現(Apparition) 初期サロン作品オイディプスとスフィンクス(Oedipus and the Sphinx )オルフェウス(Orpheus)ヘリオフィル(大陽愛好)とヘリオフォビー(大陽恐怖)ギュスターヴ・モロー美術館(Musée national Gustave-Moreau)シャセリオーの弟子?ヘシオドスとミューズ (Hesiod and the Muse)求婚者(未完成) The Suitors [unfinished] ユピテルとセメレー(Jupiter and Semele) モローの水彩画 耽美(たんび)な象徴派パエトーン(Phaëthōn) 耽美(たんび)な水彩画妖精とグリフォン(gryphon)キマイラ(Chimaira) 死せる詩人を運ぶケンタウロスヴェネツィア(Venezia)象徴主義(symbolisme)スカイア門のヘレネー(Helena)パリスの審判からのトロイア戦争サロメ(Salome)とは?サロメ(Salome)は1世紀頃のパレスチナを支配していたイスラエルの王ヘロデ・アンティパス(Herod Antipas)(BC20年~AD39 年)(在位;BC4年~39年)の義理の娘。実在の人物。時代はキリスト教が現れる頃。ヘロデ・アンティパスの所領の中、死海周辺の荒野で隠遁(いんとん)して修行生活をしていた隠修士のヨハネ(John)がいた。彼はヨルダン川でイエスに洗礼をほどこしたイエスの先輩修道士。(それ故、後世「洗礼者ヨハネ(John the Baptist)」と呼ばれる。)隠修士のヨハネはヘロデ・アンティパスの命令で首を落とされ、殉教する。福音書では、ヨハネがヘロデ王の結婚を非難した事から捉えられ、結果的にヘロデに斬首されるのであるが、ヨハネを殺し、その首を求めたのが義理の美しい娘サロメであると伝えられている。ヘロデは義理の娘の舞の褒美に、彼女が望んだ物を与えると約束した。サロメは母の望みを聞いてヨハネの首を求めたのである。※ 福音書では「ヘロディアの娘」と記され、サロメの名は無いらしい。※ 新約聖書の福音書の他、古代イスラエルの著述家フラウィウス・ヨセフスが著した「ユダヤ古代誌」に伝えられる。洗礼者ヨハネの首を求めた猟奇性? キリスト教徒にとっては悪女である彼女の知名度は古来から高かく、敢えて調べると、多くの画家がサロメと銀の盆に乗ったヨハネの首を描いている。ヨハネの処刑はあくまでヘロデ・アンティパスの政治的決断と解釈する向きもあるが「褒美に欲しい・・。」と言うエピソードは話題性が高い。後世に伝えられるに十分。啓発された者は多かった。このサロメの猟奇性と異常性? に魔性の女を当て、1893年、戯曲「サロメ(Salome)」を書いたのがオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)(1854年~1900年)である。前回「世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)」で紹介している。リンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)ところが、今回初めて知った。モローの描いたサロメが全ての発端だった事を・・。モローのサロメが象徴派に与えた影響1876年、サロンにおいてギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)は2点のサロメを出展する。モローのサロメを観て、まず先に影響を受けたのがフランスのデカダン派の作家ジョリス=カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans)(1848年~1907年)である。彼が1884年に刊行した「さかしま(À rebours)」。その中で主人公はモローの幻想的な絵画「ヘロデ王の前で踊るサロメ・出現」等を身の回りにおいて自らが好む世界を造り陶酔。主人公の精神はどんどん現実から離れ精神を病んで行く。この「さかしま」に啓発されたのが同じく作家のオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)(1854年~1900年)だ。彼は戯曲「サロメ(Salomé)」を1893年執筆するのであるが、ワイルドのサロメは猟奇性をさらに加えてモローの上を行っていた。ワイルドのサロメでは、彼女は洗礼者ヨハネに恋して? 受け入れられない想いを胸に彼の落とされた生首に接吻するのである。そのワイルドのサロメに挿絵をつけたのがオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)だったわけで、ビアズリーはまた彼の解釈で妖女サロメを描いたのである。ギュスターヴ・モローの作品は彼らに影響を与えた? と言うよりは、むしろ彼らの求めていた退廃的で耽美な作品をモロー作品の中に見て驚喜した? 結果、モローはデカダンス派(décadence)と同一のように扱われる事になる。※ デカダンス(décadence)は「退廃的な」の意。異常で奇っ怪が好きなどのフェチ(特殊な性癖)が求めた退廃的で耽美な美。また在り方。※ フェチ → フェティシズム( fetishism)モローのサロメ(Salome)ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)(1826年~1898年)1870年~1876年にモローは複数のサロメを描いている。なぜサロメに焦点を当てたのかはわからなかったが、モローの描くサロメは魅惑的だった。モローのこの頃の作品は、間違いなく「女性の魔性」を表現する事に注がれている。1876年の官展(サロン)に2つのサロメが出展。1.ヘロデ王の前で踊るサロメ(Salome Dancing before Herod)油性2.出現(Apparition) 水彩モローの中で長く温められていたであろう妖艶で神秘的なサロメ。それは神がかって巫女的な存在にさえ見える。彼女は歴史的悪女である。当然、普通のそこらへんの女性では到底なり得ない存在であるはずだが、一歩引いて見ると何があってもひるまず意志を通す強い女性像も浮かび上がる? モローが描こうとしたのは狂気の中で自我を満足させるべく踊る異常な女? ではなく、本当は彼の当世の女性への認識? 世の女性はみんなこうじゃないか? と、思って描いていたのではないか? とも思える。つまり選ばれた女性ではなく、女性誰もが共通して持つ内面? を表現してみせた作品? 彼は実際、女性に対して消極的だった。もっと言えば消極的だったのは女性ばかりではないが・・。「女性はかくも美しいが怖い」そんな畏怖(いふ)がモローの描くサロメに見え無くもない。本当の所は本人に聞かないと解らないけどさ・・。ヘロデ王の前で踊るサロメヘロデ王の前で踊るサロメ (Salome Dancing before Herod)1876年 油性ロサンゼルスのハマー美術館(Hammer Museum)この作品は、1876年パリのサロンに出品された作品で描くのに7年かかったと言われている。構想が固まる前に試行錯誤があった? 1876年には「出現」、他複数のサロメが描かれている。驚くべき所は、様々な文化的要素が複合された作品でもある事。全体にオリエタルの意匠が観て取れるが、それこそ、モローの勉強の成果なのだろう。彼の両親はモローが芸術方面に向かう事を全面的にバックアップし、その為にギリシャ語やラテン語、古典文学を学ぶ事も進めているし、芸術家としてのキャリアを積む意味でプライベートのイタリア旅行にも長期に出している。※ イタリアには2度大旅行に出ている。実際、モローの家は父が建築家、母が音楽家で裕福であった。彼は終生お金に苦労する事はなく、現在美術館となっている彼のアトリエ兼住居の家も父が購入して残してくれている。彼が意欲的に作品を売らなかったのもお金に困っていなかったからだろう。そう言う意味で世に流れた作品は多くはなく、世界的な知名度は低いのかもしれない。下の作品はモロー美術館で撮影。構想段階の習作と思われる。下の作品も「ヘロデ王の前で踊るサロメ」なのであるが、こちらにはサブタイトル? 別名で仕分けされている。入れ墨のサロメ(Salome Tattooed) 油性 1876年の制作 ギュスターヴ・モロー美術館同じくヘロデの前で踊るサロメなのであるが、サロメの体や兵士などに文様が描かれている。確かにサロメの体のは入れ墨に見え無くもないが、これはあくまでサロメに着せるドレスの下絵の構想段階と思われる。次に紹介する出現の衣装に近い。兵士の方もこれからかぶせられる帽子? 衣装の下絵? つまり入れ墨のサロメは習作の一つと考えられる。ただ、この作品はこれだけで確かに完成している。これはこれで十分美しいのでこのまま残したのか?※ こちらの作品には水彩バージョンも存在。ルーブルにあるらしい。出現(Apparition) Apparitionは「幽霊」とか「幻影」など「 死者が突然現われる現象」の意味がある。サロメでは日本訳が「出現」となっているので、Apparitionには「出現」がタイトルにあてられているが、知らない人から見たら「何のこと?」と思うだろう。出現は、まさに斬首されたヨハネの首がサロメの前に浮かんで現れた所?普通はそう思う所だが・・。「名画への旅 音楽をめざす絵画」では違う解釈がされていた。踊るサロメの前に、まだ斬首されていないのに、血のしたたるヨハネの生首の幻影が現れた。しかも、他の者らにそれは見え無い。それは一瞬の事だったようで、サロメは何事もなく舞を続けるのである。そして、見事な舞の褒美として、「ヨハネの首を銀の盆に乗せて賜れ。」とヘロデに希望を伝え、ヘロデはサロメの望み通り、この後、斬首したヨハネの生首を銀の盆に乗せてサロメに与えるのである。幻影は、予知夢的な啓示? と、とれるかも・・。確かに、こちらの方が理にかなっているかも・・。ヨハネの首と対峙(たいじ)するサロメ。普通のダンスバージョンと違って、出現の方はサロメの顔が険しい。出現(Apparition) 1876年 油性 ギュスターヴ・モロー美術館油性の「出現」は自前の写真しかなかったので、ボケてて拡大ができません。ウィキメディアのは色調調整されているようで、バックに書き込まれたイレズミ部分が出過ぎてたので却下しました。一説には、モローはこの油性の絵を手元に残していたのでイレズミ部分を後年書き足したのだと言う。出現(Apparition) 1876年 水彩 オルセー美術家の美術書にルーブル所蔵の出現(Apparition) の水彩画が載っていたので比べたら、オルセーと全く同じであった。説明では確かに水彩と明記されているが、水彩なら両作品は尚更異なってしかるべき。これはもしかしたらリトグラフ? あるいはエッチングに彩色した作品なのではなかろうか? と疑問が出た。下はルーブル作品の方の拡大図を借りました。「名画への旅 音楽をめざす絵画」からモローは、もともと体が弱く、姉も早世している事から両親は彼を非常に過保護に育てた。過保護ながらも彼の意志を尊重し、でも道しるべは両親が付けている。彼が陰キャになったのはそれ故だ。古典を学んでいたが、テオドール・シャセリオーに出会うと彼を追いかけ古典は止めた。本当にシャセリオーの絵に感銘したからか? シャセリオー自身に恋をしたからか? は謎だ。だが、シャセリオーを失い。彼は傷心のイタリア旅行に出る。1859年に帰国して1861年に「オイディプスとスフィンクス」を描く。(サロン出典は1864年)この頃から独自な作風を展開。この作品は皇帝ナポレオン3世(Napoléon III) (1808年~1873年)(在任:1848年~1852年)が購入。ナポレオン3世には宮殿に招待されたりしている。それ故か? 1870年(44歳)、国防軍として従軍もしている。※ パリ・コミューン(Paris Commune)(1871年)の時はすでに退役しているが、おそらくプロレタリアではなく、ブルジョア側の人だろう。初期サロン作品 (サロメ発表以前)オイディプスとスフィンクス(Oedipus and the Sphinx )1864年、イタリア留学から帰国してサロンに出品した「オイディプスとスフィンクス(Oedipus and the Sphinx )」がパリのサロンで大きな注目を集め受賞。熱狂的なファンやコレクターがついたらしい。オイディプスとスフィンクス(Oedipus and the Sphinx )1864年油性 メトロポリタン美術館 所蔵 テーベからデルフォイに戻る旅路、スフィンクスに謎かけをされているオイディプスQuestion: What walks on four feet in the morning, two in the afternoon and three at night?朝は4足、昼は2足。夜に3足で歩くの何だ?スフィンクスの出題にオイディプスは始めて正解を出した。答えは人間の一生である。生まれたばかりの時は4足歩行し、やがて2足で歩行するが、晩年には杖をついて2足+1で3足となる。もし、オイディプスが不正解であれば、オイディプスの命は捕られ食われていたが、彼は正解した。逆にスフィンクスが驚き、海に身を投げて自殺してしまった。それによりテーベの都はスフィクスから解放され自由になる。この話しは非常に有名な寓話であるが、スフィンクスとオイディプスのやり取りが、奇妙に静止した男女の関係で現されている。つまり旅人を食う怪物と旅人との関係を今まで無かった新しい構図で表現。男女の関係まで匂わす見つめ合う二人に、もはや男と女の駆け引きがそこに見えるようだ。しかも、彼女はすぐにも食いつける態勢で男の答えを待っている。だが、慌てる事なく、冷静に答えを引き出す男。モローは終生結婚はしなかった。非常に親しい女友達はいたが・・。批判には臆病で隠士になりがちだが、男女の関係にはもっと慎重だったのかもしれない。オルフェウス(Orpheus)オルフェウスの竪琴と首を抱きかかえる少女の図。オルフェウスの首は自身の竪琴(リラ)の上に乗せられている。オルセー美術館所蔵 1865年 油性 1867年のパリ万国博覧会で展示オルフェウス(Orpheus)は、ギリシア神話に登場する吟遊詩人(ぎんゆうしじん)で竪琴(たてごと)・リラ(Lyr)の名手。冥界に愛妻エウリュディケ(Eurydíkē)を連れ戻しに行く話しは有名であるが、あと少しの所で願いは叶わなかった。妻を失ってからのオルフェウスは自暴自棄になり、その振るまいからディオニソス(Dionysos)の怒りをかう事となり、ディオニソスは自身の女性信奉者マイナスを使って彼を殺させる。オルフェウスはマイナス(狂乱する女の意がある)によって八つ裂きにされて川に投げ込まれ、最終的には彼のバラバラにされた体と竪琴(Lyr)はレスボス島(Lesbos)まで流れ着くのである。因みに、川を流れながらもオルフェウスの首は、歌を歌いながら流れて行ったと言う。レスボスの島民は彼の死を悼(いた)んで墓を築いて詩人を葬ったそうだ。絵画は流れ着いたオルフェウスの頭部と竪琴を拾って悼み偲ぶ(いたみしのぶ)少女の姿である。※ 「オルフェウスの頭をリラに乗せたトラキアの少女」との解説もあるが、神話ではオルフェウスが流れついた地はレスボス島なのである。因みに、アポロンはオルフェウスの死を悲しみ、その竪琴を天に挙げ、それが琴座(ことざ)となった。1866年サロンに出品され、1867年のパリ万国博覧会で展示。因みに、この万博には42か国が参加。日本国も初参加していて将軍徳川慶喜の弟 徳川昭武が幕府を代表してパリに行っている。江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展。この辺りまでは純粋にロマン主義と言える。全体に、こういった神話やアーサー王と騎士物語などのテーマが好まれた時代なのである。1869年には「プロメテウス(Prométhée)」をサロンで発表。メダルを獲得したが、マスコミからの批判が厳しく以降1876年までサロンへの出典はしていない。批判は保守(古典)すぎた事。皆は「オイディプスとスフィンクス」以上を期待していたかららしい。※「プロメテウス」もモローの手元に残り美術館にあります。写真がボケてて出せなくて・・。今と変わらないのだとつくづく思う。色々言われて人間不信となったモローは屋敷に引きこもり隠者のような生活をしていたようだ。でも、高踏派の詩人や、耽美主義の知的ブルジョワなど少数ながら熱烈なファンはいたらしい。時代は第2帝政時代。第1帝政時代のフランス国の借金返済と景気の回復にナポレオン3世も頑張ってはいたが1871年起こるパリ・コミューン(Paris Commune)。まさに古い体制から新しい体制へと移行する過渡期であった。ヘリオフィル(大陽愛好)とヘリオフォビー(大陽恐怖)もともとモローはエコール・デ・ボザールを退学した後もテオドール・シャセリオー(Théodore Chassériau)(1819年~1856年)などロマン派の影響を受けている。※ エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)はパリ国立高等美術学校。ところで、イタリア旅行ではエドガー・ドガ(Edgar Degas)(1834年~1917年)と知り合い仲良くなっている。私費でのイタリア旅行で出会い、意気投合したが、ドガは帰国後エドゥアール・マネら印象派の影響を受け、モローとは完全に方向性を違えた。モローの方はより古典古代の神話や聖書などの歴史画に集中し続け1860年に先に紹介したオイディプスとスフィンクスを描いている。かつて澁澤龍彦氏(1928年~1987年)は19世紀絵画の流れに昼と夜がある事を示唆し、ヘリオフィル(大陽愛好)とヘリオフォビー(大陽恐怖)と名付け分類している。ヘリオフィル(大陽愛好)・・バルビゾン派、印象派、後期印象派ヘリオフォビー(大陽恐怖)・・象徴派やデカダンス派ドガとモローはまさに正反対の道に進んで行く。太陽光の元、戸外ので絵を描き始めた印象派に対して、モローは部屋にこもり、夜間にガスライトの明かりで絵を描いている。※ 陰キャだからと言うより、夜の方がのめり込みやすかったのだろうと思う。ところで、ヘリオフィル(大陽愛好)とヘリオフォビー(大陽恐怖)のワードは他に無い。井上ひさし氏も「父と暮らせば」の中でググったらしいが「解らなかった」と書いている。私もかなり調べた。結果、そもそもヘリオフィルとヘリオフォビーの読みに問題があったようだ。たぶん下の語から来ていると思われる。好光性の (heliophilous) → (heliophile)日光恐怖症 (heliophobia)構想7年? 1876年、満を持してモローはサロメを世に出す。この出展によりモローは、ロマン派の枠の中でもマニアックなデカダン寄りの象徴派(symbolistes)と位置づけされたと思われる。ギュスターヴ・モロー美術館(Musée national Gustave-Moreau)1853年から画家ギュスターヴ・モローが自宅兼アトリエとして暮らした邸宅がモローの死後、コレクションと共にフランス国に寄贈され、1903年に美術館として開館している。※ 彼には相続させる遺族が誰1人いなかったからだろう。1853年にモローの父が購入し、最上階をモローのアトリエにして、モローと同居していた。住所 14, rue de La Rochefoucauld 75009 Parisシャセリオーの弟子?1848年(22歳)、エコール・デ・ボザールを退学したのはテオドール・シャセリオーの絵に感銘したからだと言う。その後モローはシャセリオーの家の近くにアトリエを借りている。つまり、これはモローが古典からロマン派への移行を示した事件である。 ※ テオドール・シャセリオー(Théodore Chassériau)(1819年~1856年)7歳年上のシャセリオーを師と仰ぎ、非常に仲が良かったようだ。もちろんシャセリオーからの影響は大きい。彼のサロメに見える俗にオリエンタルと呼んでいるが、イスラムチックな意匠はシャセリオーの影響ではないか? と思う。だから1856年、シャセリオーが37歳の若さで亡くなった時のモローの悲しみは深かった。ドラクロワが葬儀の時のモローを日記に記(しる)すくらいに・・。実際、公の仕事さえ全て止めて籠もる? モローの状態を心配した両親はイタリア旅行を提案する。モローが2度目のイタリア旅行に立ったのは心を癒やす為であったのだ。旅行と行っても1857年~1859年と長期である。この間に巨匠の名画を見て、模写し、勉強した成果は後年に役立っているはず。この旅でドガに会うのである。キリストやゴルゴダの丘などモローは宗教画も描いている。ゴルゴダ(Golgotha)モローは生涯に15000点以上の絵画、水彩画、素描を制作。サロンへの出展も個展による作品販売にも関心が無かったので自宅にはたくさんの作品が残されていた。亡くなった時点で1200点の絵画と水彩画、10000点の素描があったと言う。実はモローは亡くなる前からアトリエを自身のコレクションの展示場にする構想を持っていたらしい。だからそれ故、作品をあまり手放さなかった? のかもしれない。美術館は本当に一般の民家。しかも客は自分らしかいない。美術館としては、決して広いとは言えないが屋敷には所狭しと絵画が並べられていた。正直、壁面一杯に掛けられた絵に面食らった。真似して私も寝室に7点ほど飾っている。その一つがモロー美術館で購入したリトグラフなのだが、長らくオルフェウスと勘違いしていた。ヘシオドスとミューズ (Hesiod and the Muse) 1891年左 リトグラフ 私物 右 木版に油性 オルセー美術館所蔵額装しているので反射があり自分のは撮影できず、素材は他から借りてきました。本当は記念にサロメを買いたかったのですが、美術館の女性に「そんなの買うな」と言われてこちらを薦められました。ヘシオドス(Hesiod)(BC740~BC670年頃)ホメロスと並ぶ古代ギリシアの叙事詩人。実在の人物羊飼いだったヘシオドスは突然天啓を受けた。ミューズの霊感を受け詩人となる。今は解らないが、私が行った時点で撮影は自由にさせてもらえたので写真は結構撮ったが、暗いのと、高い位置にある絵画の撮影はボケた写真ばかり。撮影に適した環境では無かった。写真はかなり明るくしています。それでも、観た事の無い作品に心が躍ったのだ。ずっと来たかったあこがれの場所だったし・・。上のアトリエの正面に飾られている絵求婚者(未完成) The Suitors [unfinished] 油性 1852年~1896年 385cm × 343cm以前、トロイア戦争から帰還するオデュッセウス(Odysseus)の長い旅の話しを「海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦」の所でウォーターハウス(Waterhouse )の絵と共に紹介した事があるが、この作品も古代ギリシアの吟遊詩人ホメロス(Homeros)の叙事詩「オデュッセイア(Odysseia)」第22歌のお話である。神のイタズラ? 10年近く放浪の旅をして帰国するとオデュッセウスの美しい妻ペネロペ(Penelope)にはたくさんの求婚者(The Suitors)がいて、事もあろうに男等は家で宴会を開いていた。オデュッセウスは怒り妻の求婚者を全員 弓で射殺すのである。つまりこの絵は大量殺戮の風景なのであるが、画面の中には女神アテナイの不思議な姿が中空に存在する。アテナイは戦いの神。オデュッセウスに何か啓示を与えたのか? 不思議な構成の構図なのである。そもそもこの絵は1852年から制作が始まったものの一時中断して1882年頃から再開され1896年に完成。当初の予定とは着地点が変わったのではないか? なんとなく迷走の果て・・と言う気がする。ユピテルとセメレー(Jupiter and Semele) 1894年~1895年 モロー美術館ギリシャ神話であるならゼウスとセメレー(Zeus and Semele) なのだが・・。モローはイタリア留学しているからローマ神話で描いているのかな?ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)(1826年~1898年)が亡くなる2年前に4ヶ月ほどで書き上げたと言われる大作。ゼウス(Zeus)の浮気相手であるテーバイの王女セメレー(Semele)はゼウスの妻ヘレナの罠にかかって死ぬ事になる。ゼウスは妻にばれぬよう、浮気の時はいつも変身して時に鷲、時に黄金の雨などになり女性に近づいている。「愛の証に私の願いを一つ聞いてほしい」セメレーはゼウス(Zeus)に真の姿を見せるよう迫った。しかしセメレーは人間。天空を支配するゼウスの本体は生身の人間では絶える事ができない。セメレーはゼウス(神)から発せられる閃光(せんこう)に焼かれて絶命する。この絵はゼウスが姿を現しセメレーが驚いている所。ところで、この時セメレーは妊娠6ヶ月。胎児はヘルメス(Hermēs)が取り上げ、ゼウスの大腿の中に縫い込んで妻から隠した。その子がディオニソス(Dionysos)である。モローは胃がんで1年煩い、1898年4月18日に亡くなったが、その死は遺言で公開せず、葬儀はひっそりと行われたそうだ。モローの水彩画 耽美(たんび)な象徴派サロメでは計り知れなかったモローの本当の美学? が展開されていた。製作年不詳がほとんどの水彩画 本から持ってきました。よってカラーはオリジナルとかなり異なるかも。パエトーン(Phaëthōn) 水彩 1878年 99cm × 65cm 水彩としては大きめルーブル美術館 サロメのすぐ後? の作品か?古代ギリシャでは太陽は天空を翔ける太陽神ヘリオス(Hēlios)の乗る4頭立て戦車だと考えられていた。太陽神は朝、東から戦車で出発して夕に西に降りる。※ Hēliosは太陽を意味する語。※ 太陽神ヘリオス(Hēlios)とギリシャ神話の太陽神アポローン(Apollōn)は紀元前にはすでに同一視されている。絵画はアポローン(Apollōn)の息子であるパエトーン(Phaëthōn)の悲劇の死をドラマティックに美しく表現した作品である。パエトーンは自分が太陽神アポローンの息子である事を証明しようと父の太陽の戦車を借りて天に昇るのであるが、御者がアポローンで無い事に気付いた馬車は天を暴走する。太陽が暴走するのである。地上にも多大な被害を与えたのでゼウスは雷(いかづち)でパエトーンを射殺(いころ)して馬車の暴走を止めようとしている光景だ。まるでBGMが聞こえてきそうな絵画なのだ。ドラマティックな内容だけに多くの画家が描いているテーマだが、モローのこの作は今までの神話画とは一線を画す作品だ。これから死ぬ運命のパエトーンが神々しさの中心に据えられている。死ぬ時も神々のドラマはこんなにも美しい。ところで、モローの作品は、どれもただの神話や歴史のドラマを表現するもので終わっていない。ドラマのストーリー自体が装飾されているのだ。他の画家がリアルを追求した古典画とはあきらかに違う。彼の解釈で加えられた怪物? など細部にわたるまで計算された構成やバランスはまるでデザイン画を見るようだ。悲劇であるのに、パエトーンの死を美しく脚色。かつその美しさの中にストーリー性まで盛り込まれた神話画に彼の美学を見た気がする。独創性? これこそが彼が象徴派(しょうちょうは・symbolistes)とされる所以だろう。耽美(たんび)な水彩画以下に紹介する水彩4点は、私が耽美(たんび)だなと思った作品を載せました。そもそも耽美(たんび)とは何だ? と言う話しなのですが・・。美に耽(ふけ)ると書いて耽美(たんび)と読むよう、何よりも美しさに最高の価値を置く考え方だそうです。例えば、道徳的、倫理的にアウトであっても耽美(たんび)は、見る人の価値観で最高の美になり得る。だから、それは多数の人が見て必ずしも美しい物ばかりではないようです。たいていの人が、明らかに恐怖を感じる作品であっても、その中に美を見いだす人もいるわけですから・・。それ故に耽美派と言われると幅は広くなる?ところでモローは象徴主義派のみならず、耽美派にも数えられています。でも彼自身で「私は耽美派です」とは言ってないし、おそらく「象徴派です」とも言っていないのではないかと思います。世間が、今そうカテゴライズ(categorize)するのは、当時の耽美派や象徴派の文芸作家らが、自分の理念に合致した彼の作品をかってに称賛し、彼の活動を支援し、「同好の士」に入れたからではないか? と言う気が多分にします。実際、先に紹介したユイスマンやワイルドがモローを象徴派にカテゴライズした人達です。そもそも、象徴主義も耽美もデカダンスも曖昧な感覚の理念で、文芸でこそ表現しえる世界感です。そう考えると、画家達のカテゴリーは評論家による所が大きいのかな? と思います。最も印象派やキュビズムなどは別ですが・・。ギュスターヴ・モローの場合は、本人は思想など考えもせず、ただ描きたかった絵を描いていただけだったのではないか? と言う気がします。彼が批評されるのを避けて、サロン出展を止めアトリエでただ描き続けた行為が、そう思わせるのです。妖精とグリフォン(gryphon) 水彩 製作年不詳 モロー美術館妖精? 女神? グリフォン(gryphon)は彼女のペットか? 僕(しもべ)か?※ グリフォン(gryphon)は、鳥(猛禽類)の頭と翼を持ち、獅子のような下半身と龍のような御を持つ伝説の生物です。配置のバランスとカラーが絶妙な所で均衡をとっている。文芸の方でオスカー・ワイルドも耽美に入っていますが、彼の場合またちょっと特殊です。退廃的な(décadence)所に美を感じる? 惹かれる? デカダン派 (décadentisme)にも入れられます。※ デカダン派は得に文芸の方に使われる語彙です。生首に口吻(くちづけ)させるようなサロメを執筆しているのですからワイルドは間違いなくデカダン派です。では画家ビアズリーは? サロメにおいてデカダン派に入れられているようですが、本質はデカダンではないはずです。彼はワイルドのサロメに衝撃は受けたけど、ただ挿絵をしただけの人。画家の場合、依頼で描く場合もあるので。キマイラ(Chimaira) 水彩 製作年不詳 モロー美術館本来のキマイラ(Chimaira)は、ライオンの頭部に山羊の胴体、蛇の下肢を持つ怪物。生物学的に異質な生物の組みあわせと解釈出来なくも無い。それだけ種類も多く描かれている。ここでは下肢こそ蛇のようだが、上半身は立派な翼を持った大天使にさえ見える。美女と怪物? 二人は恋人同士なのか? キマイラは女性をやさしく抱え幻想的な夕闇の中をいずこへ?この作品もバランスが良い。何よりドラマティックだ。死せる詩人を運ぶケンタウロス 水彩 製作年不詳 モロー美術館竪琴(たてごと)から、ケンタウロスが抱きかかえているのはオルフェウス(Orpheus)と解釈できない事も無いが・・。先にオルフェウス(Orpheus)を紹介している。彼は八つ裂きにされて川に投げ込まれたのだ。両性具有的な詩人の体を悲しみの中で優しく抱える半人半獣のケンタウロス(Centaurus)。美女と野獣のような両者の関係性。強いはずのケンタウロスから感じられるのは悲哀と絶望。実にしみじみとする。「いとあはれ」な光景だ。ヴェネツィア(Venezia) 水彩 製作年不詳 モロー美術館優雅に守護聖人によりかかる美女はヴェネツィアの街その者である。以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)」で紹介しているが、ヴェネツィアは福音書記者マルコを守護聖人に持つ街。※ マルコのアトリビュートは獅子。またヴェネツィアは花嫁であり、アドリア海はヴェネツィアの夫でもある。ヴェネツィアに旅行したモローはヴェネツィアをこんな風に感じたのか?だとしたら流石の想像力です。耽美ではあるが、むしろヴェネツィアの美しさを象徴的に描いた作品だ。私の好みは、当然美しい者が美しく描かれて居なければ嫌。多少の悲哀と儚さがあり、幻想的であればなお良い。構図が完璧・・と言うのは絶対条件です。象徴主義(symbolisme)象徴主義(symbolisme)は世紀末の文芸から生まれた。世紀末的退廃ムードが漂っていた時代である。不安や衰退など負が蔓延していた?反古典主義から始まったロマン派は現実派と夢想家に別れた。現実派 → 写実主義夢想家 → 象徴主義(幻想の中にも希望がある?) デカダン(不健康で無気力、悲観的)※ 象徴主義とデカダンは明確には定義できないそうだ。夢想家は自分の自由な発想で想像力を駆使し神秘的な夢や幻想、また神話の世界を描く事で内面を象徴的に表現しようとした。それはルネッサンス以前のゴシック的な精神性だったと言う。※ 実は私にもよく解っていないフランスの象徴主義を代表する3人の作家シャルル=ピエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire)(1821年~1867年)ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年~1896年)アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud)(1854年~1891年)象徴的表現を駆使した幻想的な文学者。過去と夢と幻想に溺れた人達だ。英国ではラファエロ前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)の画家らが象徴派にあたる。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti )(1828年~1882年)ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais)(1829年~1896年)エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones)(1833年~1898年)ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt)(1827年~1910年)同じ時代の同じ位置にいるイギリスで、ラファエロ前派が描いたのはテーマそのものが古典ではなくシェークスピアやダンテの小説の中に登場してくるはかない女性。あるいは魔性の女そのものを描いている。ラファエロ前派の方がむしろはっきり解る象徴派(symbolistes)だ。いつかラファエロ前派もやりたいです。※ ラファエロ前派 書きました。リンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 1 ヴィクトリア朝リンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 2バーン=ジョーンズとモリス最後にモロー作品の中で象徴派と感じる作品を挙げてみた。私的には、ある意味分かりやすい作品だと思うが、抽象(ちゅうしょう)すぎて当時のロマン派主義者は気に入らなかったらしい。それ故、この作品は酷評され、モローは傷つきサロンからの撤退を決めた。もはや自分の為にのみ描きたい物を描くようになったらしい。スカイア門のヘレネー(Helena) 油性 製作年不詳(1880年頃?) モロー美術館パリスの審判からのトロイア戦争天界の三美神(TOP3の美女)ヘラ(Hērā)・アテーナ(Athēnā)・アプロディーテー(Aphrodītē)パリス(Paris)は天界のTOP3の美女(ヘラ、アテナイ、アプロディーテー)から1番を決めなくてはならなくなった。※ パリスはトロイア(イリオス)王の息子。3人はそれぞれパリスを買収する。パリスは「最も美しい女を与える」としたアプロディーテーの買収にのり、彼女に黄金のリンゴを与え1番とした。そしてパリスは地上で最も美しいと言われるヘレネー(Helena)を妻にしようとするのだが、ヘレネーはすでに人妻(スパルタ王メネラオスの妻)だった事からヘレネーを略奪したパリス王子はスパルタの敵となりトロイア戦争にまで発展する。※ トロイア戦争はスパルタ vs トロイア(イリオス)の戦いであり歴史的事実らしい。スカイア門は古に滅んだトロイアの街(イリオス)のメイン・ゲートである。スパルタの妃であるヘレネーがトロイアの街(イリオス)に近づいて来る姿に物見の塔から見て居たトロイアの長老達は嘆く。「恐ろしいほどに美しい。」彼らには死の女神が近づく様に見えたのだろう。トロイの街はヘレネーが来た事で惨劇の血を流したのである。絵は、白い街と白いヘレネーのドレスが惨劇の血で汚れている様なのである。もはやヘレネーに顔さえ描かれてはいないけど、邪魔な物を排除して本質が伝えられた作品だと思う。モローのファンとしては、美しすぎるヘレネーを観たいと言う気持ちはが解りすぎるほど解るが・・。モローは、そもそも古典から正統に学んでいるからか? 美術アカデミーが好む寓話や伝統的な聖書や神話などの古典画をテーマにたくさんの絵を描いている。とは言え、その古典に独自装飾を施し、高尚で神秘的で美しい作品を描いている。そうか、彼の絵は「詩」そのものなのかもしれない。おわり・・お疲れ様です m(_ _)m関連 Back numberリンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)リンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 1 ヴィクトリア朝リンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 2バーン=ジョーンズとモリス
2022年01月16日
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遅ればせながら新年おめでとうございます m( _ _ )m最もコロナ感染者の増大で、皆さんおいそれと新年を祝う気にはなれなかったと思いますが・・。私の方、年末退院した母が家に来ていてちょっと介護状態です。なかなか書く時間がとれませんでした集中できる時間は母が寝た深夜のみ。でも日中の疲れでパソコン前で知らずに眠っている事が多くキーボードを枕にしていたのには驚きました。「マリー・アントワネットの居城 3」まもなく載せるところですが、その前に大発見をしたので先にそちらを紹介します。実は以前紹介した「ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓」の所で残っていた疑問が解決したのです。革命期に暴かれた墓の棺から発見された心臓の容器と溶けてミイラ化した心臓。それらで絵を描いた人がいた事を紹介しています。リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓その絵と画家、そして驚く事にそれらは絵の具として確かに売られていたようなのです。溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brownマミーブラウン(英Mummy brown)(仏Brun momie)パリの教会に納められていたフランス歴代王ら貴人の心臓。それらは香料が使われていたので腐らずミイラ化して残っていたらしい。「Mummy brown」の「Mummy 」はミイラの意。アルザス生まれの画家、Martin Drolling(1752年~1817年)彼の描いた「台所の場景」はまさにミイラ化した溶けた心臓をなすりつけて描いた絵であった。写真はウィキメディアからInterieur d'une cuisine par Martin Drolling邦題「台所の場景」 1815年ルーブル美術館所蔵グラッシュ効果はあるが乾燥し、ひび割れやすかったらしい。2枚目(写真上)ひび割れが見えるように部分アップしました。彼は革命期に貴人のミイラ化した心臓を買い入れ、それをチューブに詰めて画布に塗りつけたそうだ。絵画の描き方で、透明感ある仕上げにする技法がある。それがグラッシュとかグレーズと言う技法である。ルネッサンス期にファン・アイク、デューラー、クラナッハらが使用したのは油絵具を樹脂性のワニスで溶き、薄い透明な絵具層を何層も塗り重ねると言うもの。現在はワニスと言う専用の樹脂から造られたメディウムが販売されていて、それを直接塗布しても良いし、絵具を少し入れて色づけし重ねて塗ったりして効果を出す。それを画家Martin Drollingはミイラ化して溶けた心臓で描いたらすばらしいグラッシュの効果をもたらしたと言う事らしい。Martin Drollingは、貴人の心臓で同じ効果をあけだが、実は16~17世紀にそれら類似品は存在していたのかもしれない。少なくとも、19世紀にはマミーブラウン(英Mummy brown)とか(仏Brun momie)と言う名の絵の具として実際に販売されていた。ウィキペディアには、マミーブラウンの材料が「エジプト産のヒト、あるいはネコ科動物のミイラを原料として製造されていた。」と記述されているので、エジプト由来のミイラ物は以前から存在していたのかもしれない。でもMartin Drollingは確かに革命期に流出した人の心臓でそれらを描いている。上の絵がそのものだと言われると気分が悪くなる人もいるかもしれない。それにしても「Mummy brown」は確かにミイラの茶色そのものだった。実際販売されていたマミーブラウンはラファエル前派の画家が好んで使用していた絵の具らしい。ラファエル前派はファンであるが全く知らなかった。19世紀になり、マミーブラウンの原材料が知れ渡ると需要は減ったようだ。ラファエル前派の画家エドワード・バーン=ジョーンズ( Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)も使用を取りやめて絵具をチューブごと庭に埋葬したと伝えられている。私の長らくの疑問、その疑問は同じ本の中に書いてあったのだ。今回A・カストロの「マリー・アントワネット」を読み返していてルイ15世の崩御の箇所で見つけてしまった。※ A・カストロの「マリー・アントワネット」は私が小学生の時に買って読んだ本で数十年ぶりにその本を読み返している所です。ルイ15世は天然痘で亡くなり、あまりの腐敗の早さ故に伝統の心臓の抜き取りができなかったそうだ。だからこそ、彼の心臓は絵の具にはならなかったと言う書き方がされていた。もし、小学生の時にこの答えに気づいていたら「ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓」は書いていなかったかもしれない。ところで、私も19世紀の絵画の模写を何枚かしているのですが、その透明感のグラッシュ効果を出す為に重ね塗りの経験があります。案外重ね塗りは下のが溶けてきたりするので難しいのです。それにどう味を出すか悩んでブラウンを混ぜたりあれこれしていましたが、そうかマミーブラウン使っていたのか・・と納得した次第です。
2021年01月13日
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ラストにミラノ勅令後のキリスト教を追記しました。タイトルも変更さて、前回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)」では、ローマ街道(Via Romana)を紹介しましたが、今回は街道に関連して単独でローマ帝国内でのキリスト教の伝播について紹介します。ただ、単独にするにあたり大きく構成の見直しをしました。キリスト教を知らない人への説明と当時の帝政期のローマの事情も加えたのですが、盛りだくさんになって大変な事に・・。2本分あるかも。ローマ帝国の帝政期、ローマ帝国はローマ建国の神々を棄ててキリスト教を国教に制定しています。キリスト教はこの帝政期に発生し成長拡大した宗教なのです。何より短期間でキリスト教が地中海世界に広まったのは、ローマ街道の存在があったからこそです。ローマ帝国の支配圏が広域に拡大。強いローマ帝国により地中海からは海賊が消え船の移動もスムーズに。陸路は道が整備されローマ街道はその支配圏を編目のようにつないだ。国境さえも容易に越えられるようになったので、一般の旅行を安全に、しかも容易にした。それはキリストの使徒(しと)らの伝導の助けとなったのである。今回写真にアヤソフィアのモザイク画も使用しています。1985年「イスタンブール歴史地域」の一部としてユネスコの世界遺産に登録されたアヤソフィア(Ayasofya)はキリスト教の教会とイスラムのモスク時代を経て、トルコ共和国建国以降は博物館として存在。2006年からはキリスト教徒も正教会の信者もイスラム教徒も祈れる場所として仲良く存在していたのですが、現政権のエルドアン大統領は支持率upの為にアヤソフィアを完全モスク化して独占する話しが浮上し世界に衝撃が走っています。ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)キリスト誕生を紀元として造られた西暦アヤソフィア(Ayasofya)問題イエス・キリストの誕生ペテロの墓所サン・ビエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)新約聖書とキリスト教徒異教徒に広がるキリスト教 ペンテコステの日の奇跡使徒(apostolos)パウロの伝道帝政期前半のローマ帝国 ・帝政ローマを立て直し、キリスト教徒を迫害したディオクレティアヌス帝 ・キリスト教を認めたコンスタンティヌス1世ミラノ勅令後のキリスト教キリスト誕生を紀元として造られた西暦現在の西暦(せいれき)と言う暦(こよみ)はイエス・キリストの誕生した年を元年として造られた紀年法となっている。※ 正確に言うならイエス・キリストの生誕はもう少し前、BC7~BC4年の間らしいが・・。西暦を案出したのは5世紀のローマの神学者ディオニシウス・エクシグウス(Dionysius Exiguus)(470年頃 ~544年頃)と言われている。彼は神学のみならず数学にも天文学にも精通した人物だったらしい。キリスト紀元 A.D.(anno domini)は私もよく使用するが、ラテン語で「主の年」を意味する略号である。同じく紀元前のB.C.(Before Chlist)は「キリスト以前」を示す略号だったのである。但しゼロの概念が無かった時代なのでキリストの紀年法に紀元ゼロ年は存在しない。紀元1年の前年は、紀元前1年。負数で紀元前の年を1年ずつずらして対応しているので紀元前10年は西暦 ではマイナス9年となるそうだ。※ 紀元0年は存在しないが天文学では計算上不都合が生じるので西暦0年が存在する。因みに、キリスト紀元の使用開始は532年らしいが、欧州で使用され始めるのは10世紀頃。世界に広まるのは18世紀頃らしい。それはおそらくキリスト教の宣教活動に関係していると思われる。イスタンブールのアヤソフィア、堂内後陣アプスの半円ドームに描かれたモザイク画 聖母子イスラムの支配時代、アヤソフィアはあまりに立派であったので壊さずにモスクとして再利用されていた。モザイク画は破壊されるか漆喰で塗り固められ一部が現在に残っている。この黄金タイルの壁画も漆喰で塗り固められていた? 調べたがそれは解らなかった。もしかしたらこの聖母はイスラムの時代もそのまま残っていた可能性がある。意外であるがイスラムにおけるマリアの地位は高い。コーランにも何度も登場し母として、女性として崇敬されていた? らしいのだ。因みにこれら修復にはアメリカン・エキスプレス社の資金援助もあったと言う。下は聖母の図像がある天井イスラム、モスクの説教壇ミンバルが下に置かれている。本来キリスト教では内陣に位置する場所。アヤソフィア(Ayasofya)問題アヤソフィア(Ayasofya)は最初キリスト教徒が建てた大聖堂であった。コンスタンティヌス1世は330年、都をローマから東方の交易都市であったアナトリア半島のギリシアの植民都市ビュザンティオンに遷都すると、そこに古代ローマの街と同じように街造りを進めた。※ コンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)コンスタンティヌス1世は丘に広場やバシリカを建て給水施設(イェレバタン・サラユ )を建設。ビュザンティオンのキリスト教の大聖堂として建設されたのがアヤソフィア(Aagia Sophia)です。献堂は帝の子、コンスタンティヌス2世によるもの。建設は350年頃。360年2月献堂。※ 今の聖堂の形になるのは10世紀頃と考えられる。一時は帝政期のローマの首都となったビュザンティオン(コンスタンチノープル、現トルコのイスタンブール)。コンスタンチノープルがイスラムに陥落すると1453年大聖堂はイスラムのモスクに変わる。その後オスマン帝国の時代を経て、トルコ共和国が建国された時、建国の父であり初代大統領のアタチュルク(Atatürk)により1934年あらゆる祈りの場から外されここは博物館となった。キリスト教徒にとっても、ギリシャ正教会にとっても、イスラムにとってもコンスタンチノープルは聖都。それはアタチュルクの素晴らしい英断(えいだん)であったと思う。今回の事態はそれを冒涜(ぼうとく)するもの。そもそも2006年に祈りの解放をした事が問題。今回の一件は予見できたはず。イスラムのモスクの形はこのアヤソフィアが原点になっていると言う。イエス・キリストの誕生キリスト紀元にかかっているのが帝政ローマの初代皇帝アウグストゥスの時代である。そして2代皇帝ティベリウスの時に成人し、活動し、十字架にかけられた事になる。イエス・キリストは死海近くのユダヤの地、ベツレヘムで生まれた。父はヨセフ。母はマリア。聖書では聖母マリアは精霊により懐妊した事になっているのでヨセフは夫であるがキリストの父の扱いにはなっていない。が、正統と言う意味では父ヨセフの血筋がダビデ・ソロモン王につながるのでイエス・キリストは正統なユダヤの王と言う位置づけになっているのである。父ヨセフの本業は修道士であり、下界にいる時は大工をして暮らしていたと考えられる。母マリアも修道女であった。血筋を守ると言う意味で二人は婚約し結婚したのである。※ イエス・キリストは突然宗教に目覚めたそこら辺のお兄さんでは無く、もともと戒律の厳しいユダヤ系の宗団の中にいたからこそ・・なのである。以前「無原罪の御宿り日」の所で紹介しているが、ローマ・カトリック内でもマリアの無原罪問題は長らく論争された教義の一つ。当然カトリックでは、イエス・キリストは神の子なので人間の両親から生まれたと解釈するのはタブーである。ではこの説はどこからか? 実はマタイによる福音書の冒頭「イエス・キリストの系譜」に血脈の事はしっかり書かれている。後は死海文書の研究と照合による史実? 「イエスのミステリー(NHK出版)」から。バチカン美術館入口のプレゼピオ(Presepi) クリスマスシーズンのみです。プレゼピオ(Presepi)はキリストの生誕の祝いの場景を現すフィギュア。キリストが生まれたのは12月25日。帝政ローマの国教となった時に決定された。※ マタイとルカによる福音書にはキリストの誕生日の章はあるが季節も特定できない。マギ(magi)の来訪が翌年1月6日。その日がイエスの洗礼を記念する日。公現祭・エピファニー(epiphany) と定められた。つまり1月6日の公現祭までがキリスト生誕の祝い日である。※ 2017年12月「聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日」で聖母マリアの結婚と懐妊、人間の原罪についても書いていますリンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日※ マギ(magi)とキリストの誕生日については以下にリンク マギ(magi)の正体ペテロの墓所サン・ビエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)バチカンのサン・ビエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)はアヤソフィアより少し早く326年頃コンスタンティヌス1世(ローマ皇帝)によりローマの教会として建設された。聖ペテロの墓の上に建設された殉教者記念教会堂がサン・ビエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)であり、現在それは、世界に13億人とも言われるカトリック信者を持つカトリック教会と東方典礼カトリック教会の総本山となっている。聖堂ファサードの上にはキリストを中心とする聖人らが並ぶ。下は堂内に置かれて居る使徒ペテロの座像。御利益? 唯一足が触れる像である。天国の鍵を預けられたペテロ。鍵は彼のアトリビュート(象徴)となるアイテムである。※ 天国とは死後に復活をかけた審判が行われた時にのみ開かれる天上世界である。鍵はその扉の鍵。ペテロは最初の弟子なので使徒の中でも地位は高い。が、パウロ程に旅はほとんどしていないようだ。異教徒への布教も、あまり乗り気ではなかった? と読める所もある。だが彼には天国の門の番人としての役割が与えられている。彼にはまだこれから大仕事が待っているのである。下の写真はウィキメディアのヴァチカンからパノラマ写真を仮りてきましたサンピエトロ広場は広く人も多く正面全景の撮影は非常に難しい。うらやましい写真です。アヤソフィア堂内のモザイク壁画、 デイシス(Deisis)のキリスト 1260年頃デイシス(Deisis)は中央にキリスト。左手に聖書。右手が祝福する形をとる。左側に聖母、右に洗礼者ヨハネを抱く絵画でビザンティンの代表的イコンのスタイル。正教会では聖像と呼ばれるもの。このデイシスのモザイク画は立体感も出ていて最高傑作と言われる一品。イスラムの支配時代、この黄金タイルの壁画は漆喰で塗り固められていたと思われる。下部が無いのは、痛みだけでなく、モザイク画の石はタリスマン(お守り)として売られていたからもあるのだろう。もし、モスク化されたら、これらは隠されるようだ。そもそも西側の資金を使って修復されてきたのに・・。新約聖書とキリスト教徒以前「死海文書」とクムラン宗団について紹介した事がある。リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)そこでは文書の発見とクムラン宗団の存在についてしか紹介していないが、イエス・キリストも彼の父ヨセフもそしてイエス・キリストの洗礼者であるヨハネもまたクムラン宗団の一員であったと解釈されるに至っている。キリスト教がユダヤ教をベースにしているのは単にユダヤの地で生まれただけでは無く、分派したユダヤの教団の一員であったからだ。イエス・キリストの足跡以前も紹介していますが、カペナウム周辺のガリラヤ湖です。カペナウムに住む漁師シモン・ペトロとアンデレ兄弟を最初の弟子とし彼らの家に滞在して説法していたらしい。同じくガリラ湖で親子3人で漁師をしていたゼベタイの子、ヤコブとヨハネ兄弟は父(ゼベタイ)を残し弟子となる。彼らはイエス・キリストの最初の使徒である。初代教会ではシモン・ペトロとゼベタイの子ヨハネが中心的役割を担う事になる。キリスト亡き後に彼らは活躍するが迫害がひどくなり殉教(じゅんきょう)する。シモン・ペトロは、キリスト教が公認された後に彼の墓の上にサン・ピエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)が建立。ローマ・カトリックの総本山となる。(前述紹介済み)ゼベタイの子ヨハネは、キリスト亡き後、聖母マリアを託される。彼女をエフェソスに送り、自分は逮捕されて流刑地パトモス島で黙示録(もくじろく)を執筆。福音書記者ヨハネと同一と考えられている。ゼベタイの子ヤコブは殉教すると弟子らが彼の遺骸をパレスチナからなぜかスペインに運ぶ? そして彼の墓地の上に9世紀になってサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)が建立し巡礼地となる。(聖書でなく、外伝による。)ヴァチカンのペトロの墓とサンティアゴのヤコブの墓の上の教会堂は、聖地エルサレムと並ぶキリスト教の3大巡礼地となっている。※ サンティアゴ・デ・コンポステーラは巡礼路も扱っているので長編です。一部のみリンクのせます。リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)※ バチカンについてもあちこちで取り上げてますが・・。リンク 天使と悪魔とヴァチカンリンク ヴァチカンとシスティナ礼拝堂※ 聖母マリアについて書いています。リンク 聖母マリアの家とマリア崇敬※ 以前キリストが主に説法してまわったガリラヤ湖を紹介しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」が合わさってできている。「旧約聖書」は神との契約に従い歴史の中に生きてきたユダヤ民族の話しがまとめられている。(預言書も含まれる。)ユダヤ教の唯一のテキストである。イエス・キリストに関係するのは「新約聖書」の部分である。神の代理人である救済者イエス・キリストの教えと奇跡の話しを後世弟子らがまとめて編纂したものが「新約聖書」なのである。ザックリ言うと、「新訳聖書」はイエス・キリストの言行を描く四つの「福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)」をメインとして使徒ペトロとパウロのによる布教活動など初期のキリスト教史が描かれた「使徒言行録」。使徒パウロが門徒らに送った「パウロの書簡」などから成っている。つまり使徒らによって書かれた「新訳聖書」の部分がキリスト教のテキストなのである。実際、キリスト自体が生きて活動していた時間は非常に短い。推定で34歳くらいで亡くなっているので活動は10年ほど? 彼の教えに感銘し弟子となった使徒(しと)らがローマ帝国内に伝導した事によってキリスト教は世界宗教にまで発展して行ったのである。因みにキリストが磔刑にされて亡くなったエルサレムのゴルゴダの丘とされる所に聖墳墓教会が建立されています。正直本当の場所かは定かで無い気がしますが、以下に紹介しています。リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)エルサレム聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)Via Dolorosa(苦難の道)からの教会です。全景写真が修復中で微妙なので下の写真はウィキメディアの聖墳墓教会から借りてきました堂の入り口です。異教徒に広がるキリスト教 ペンテコステの日の奇跡ここで、はっきりさせておきたいのは、ユダヤ教徒であったキリストが当初説法したのは回りのユダヤ民族に向けてであった。しかし、イエス・キリストが昇天し、使徒らが伝導を始めるとそれはユダヤ人以外の異民族にも広げられた。むしろユダヤ人よりも抵抗が無い分、異教の者の方が受け入れやすかったと言う理由もあっただろう。が、最もそれを可能にしたのは学識あるサウロ(後のパウロ)の加入であった。※ ギリシャ名パウロ(Paulo)とヘブライ名サウロ(Saul)「使徒言行録9サウロの回心」では「異邦人や王達、またイスラエルの子らに私の名前を伝える為に私が選んだ器である。」とイエス・キリスト自らサウロを宣教者として選んだ事が記されている。※ 彼はユダヤ教のファリサイ派( Pharisaeus)に属し、当初キリスト教徒らを迫害していた人物であった。グリーンの→がペンテコステ以降の信徒'(しんと)の移動? 伝道?ステファノの殉教以降がブルーパウロの布教をレッドでしるしたが、実際のパウロは、何度も各地を巡っている。ペンテコステ以降使徒言行録には、ペンテコスの日に起きた神の奇跡により信徒(しんと)らは突然異教の言葉が話せるようになったと言う話しがある。そして信徒らはエルサレムから方々に散り布教を始めたと言う。※ ペンテコステ(Pentecostes)聖霊降臨(せいれいこうりん)の日復活したイエスは弟子たちに「近いうちに聖霊が降る」ことを予言。それはユダヤ教の春の収穫感謝祭の「五旬祭の日」であった。キリスト教徒は以降ペンテコステの日を聖霊降臨(せいれいこうりん)の日として祭った。ステファノの殉教以降ステファノ(Stefano)はギリシャ語を話すユダヤ人であり、キリスト教初の殉教者であった。彼の殉教の裏には初期教会の中で起きていた「ヘブライスト」vs「ヘレニスト」の問題があったらしい※ ヘブライ語(ユダヤ語)を話すユダヤ人がヘブライスト(Hebrew)ユダヤ人であるがギリシャ語を話すステファノ(Stefano)はヘレニスト(Hellenist)でありギリシャ語を話すステファノがユダヤ教の批判をしたと密告? ファリサイ派は怒り石打ちの刑を執行。ステファノは殉教。これ以降に迫害はひどくなり使徒らはフェニキア、キプロス,アンティオキアまで逃げた。ギリシャ語を話せる者が助けて伝道活動もできたようだ。※ 因みにステファノの刑の時にパウロが立ち会っていたらしい。つまりこの時点でパウロはまだキリスト教徒の天敵であった。使徒(apostolos)パウロの伝道パウロ(Paul)はローマの属州キリキアの州都タルソス生まれ(現トルコ)。ローマ市民権を持つファリサイ派のユダヤ人であった。先に「使徒言行録9サウロの回心」で紹介した通り、イエスの死後にキリスト教徒となった為に直弟子ではなく、12使徒からは外れているので狭義には使徒(しと)(apostolos)ではない。しかし、パウロはギリシア語とヘブライ語を話し、読み書きができるので漁師の初期メンバーより記録して残す事が可能。教会や信徒(しんと)らの疑問に答える手紙などたくさん出し新訳聖書にはパウロの書簡が「13書簡」採用され貢献している。パウロの功績は東地中海やバルカン半島にまで及ぶ異邦人の世界への率先した伝道の拡大である。かなり奥地まで立ち寄って講話をし、教会を建て、書簡も使って指導している。何よりイエスが救世主キリストであると言う信仰的理解と説明を成して彼は一貫したキリスト教の教義を確立。各教会に指導している事だ。4つの福音書が意味するのは4つの考えの違う団体があったから? と言う説もある。直接イエスから福音を聞いた使徒達の伝承では後にブレが生じる。パウロは直接イエスに合っていないからこそ、真理と確信を求めたのかもしれない。バウロはまだ未完全な初期キリスト教の基板を作ったと言える重要な人物なのである。ところで、回心以前のパウロはステファノの刑にもかかわるほどキリスト教徒の迫害をしていた為、キリスト教徒からはなかなか信用されず、元のユダヤ教のファリサイ派からは裏切り者として度々命を狙われていた。初期キリスト教徒の迫害は、ローマ帝国ではなく、ユダヤ教徒からの憎悪によるものが多かったようだ。パウロを祀るローマのサンパオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(Basilica di San Paolo fuori le mura)の像 ウィキメディアから借りてきた写真ですが、この写真に関してはの像の部分拡大の為に切り取りました。パウロの布教については、初期2009年7月「使徒パウロの布教とギリシャ正教会」で紹介しています。この写真はその時にも使用しています。リンク 使徒パウロの布教とギリシャ正教会ローマの五大バジリカの一つであり、こちらもコンスタンティヌス1世により聖パウロの墓を祀るメモリアルとして創建された堂が前身。キリスト教の波及はまさに聖地エルサレムからシナイを出て、エジプトへ、メソポタミアへ、そしてアナトリア半島からバルカン半島へと散った。特に拠点となったのがシリアのアンティオキアである。当時、ローマ帝国の第3の都市であったアンティオキアには多くの異民族が住んでいた。キリスト教もこの中で受け入れられ異教徒の信者も増え教会ができ、さらにギリシア文化の影響を受けて発展している。もともとパウロの出身はキリキアの州都タルソスなので近いこの場所になじみもあったのかもしれない。パウロはアンティオキアの教会を拠点に伝道の旅に出ていく。キリスト教がエーゲ海域を中心に広まっている? と思ったのは地理的要因もさる事ながら、誰よりも伝道に力を入れたパウロ自身がギリシャ語を話せたと言う事が大きかったのだろう。※ 使徒言行録によればパウロは3回の大きな伝道の旅を行っている。※ 反感の多い土地でも、めげずに長期滞在している。聖書にはパウロの宣教の旅のルート図も載っている。下はパウロの伝道コースでの一つです。聖書から持ってきました。陸路が赤、海路が青ラインです。パウロが布教した当時はなかったビュザンティオン(コンスタンテチノープル)をピンクの星で印ました。ビュザンティオンは東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都となる場所です。場所はボスポラス海峡 (Bosporus)の所。キリスト教を認めたローマ皇帝コンスタンティヌス1世がローマを捨て、330年ビュザンティオン(コンスタンティノポリス)にキリスト教の都市を建設した理由がなんとなく解りました。当時のキリスト教の中心地は確かにここのようです。ところで、イエスとその弟子らが布教していた頃の1~2世紀はローマ帝国の黄金期の時代に重なる。ローマ帝国の威力による(パワーバランス)は、奇しくも地中海沿岸含む欧州の平和と安定をもたらした。冒頭ふれたように短期間でキリスト教が地中海世界に広まったのは、ローマ街道の存在があったからこそです。パウロは旅も多くしたが書簡で各地の教会を指導している。郵便の無かった時代、その書簡はパウロの弟子によって運ばれていたのである。インターネットで超簡単に伝わる現在と比べると書簡の重みも違うでしょうね。帝政期前半のローマ帝国一応おさらいに古代ローマの政治体制の年代を入れておきます。BC753?~BC509 王政期BC509~BC27 共和政期BC27年~AD395年~476~1453年 帝政期※ 帝政期は節目の年も入れました。アウグストゥスが初代皇帝として即位し、ローマ帝国はリニューアルされ帝政期が始まる。アウグストゥスは巧に元老院をまとめ元首政(Principatus)を開始。BC27年~共和制時代にはただの都市国家ローマであったが、帝政期の始まりは巨大な領土を得た大帝国である。が、帝政期前半、安泰とも思えたローマ帝国であるが、紀元後、3世紀までに度々内乱が勃発している。ローマ内戦(68年から70年)4皇帝の年ローマ内戦(192年~197年)5皇帝の年ローマローマ内戦(238年)6皇帝の年 軍人皇帝時代へそれは帝政移行後も、軍事と政治の両方が皇帝に委ねられたからだ。皇帝は国家の最高指導者であり、前線における軍の司令官でもあった。このシステムでは同時に2つの才能が要求されたのである。実際、皇帝自身に軍才は無くてもその采配により当初は問題無く機能していたらしいが・・。しかし領土が拡大して度々対外からの侵略を受けるようになると皇帝の能力は大きな問題となる。終身の存在である皇帝を退位させる事は難しい。結果、クーデターや暗殺などによる交代が増えたのである。最初はアウグストゥスに始まるクラウディウスの家系がネロ帝で絶えた後に起きている。ローマ内戦 (68年~70年) 4皇帝の年地方の属州総督らがが帝位を争って内乱を起こし短い間に4人の皇帝が就いた。ローマ内戦 (192年~197年) 5皇帝の年この時もハドリアヌス帝やアントニヌス帝の家系アウレリウスが途絶えた時だ。しかも暗殺によって・・。そして3世紀の悲劇と呼ばれる6人も皇帝が交代すると言う異常事態が起きる。ローマ内戦 (238年) 6皇帝の年前皇帝を暗殺し、軍事力だけで帝位を強奪した蛮族出身のマクシミヌス・トラクス以降238年だけで6人の皇帝が出た。それを含む253年~284年(31年間)、俗に軍人皇帝時代とも呼ばれ22人もの皇帝が誕生。皇帝の権威は大きく失墜(しっつい)したのである。また、この時、彼らローマ人が帝国防衛を怠り、皇帝に就く事に執着して内乱を起こしていた間に東方からはササン朝ペルシャが、北方からはゴート人を始めとするゲルマン人が帝国領に侵略を始めガリアでは属州民の反乱も起きていたのである。帝政ローマを立て直し、キリスト教徒を迫害したディオクレティアヌス帝この侵略者と内政の騒乱と言う危機を納めたのがディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(244年~311年)(在位:284年~305年)である。彼は属州民出身の軍人皇帝であったが良き指導者であった。広大なローマ帝国の統治と前線での指揮を皇帝1人で行うのは困難と、帝国を東西に分けての統治を考えた。またそれぞれに副帝もつけたので2人の正帝(アウグストゥス)と2人の副帝(カエサル)による実質4人の皇帝による統治、テトラルキア(tetrarchia)を考案した。任期も造り、特定の一族に権力が集中する世襲制をも避けた制度であったらしい。が、ディオクレティアヌス帝の退位以降テトラルキアは崩壊する。またディオクレティアヌス帝は、キリスト教徒に対して最大の迫害(はくがい)を行った皇帝でもある。全てはローマをまとめる為であったが・・。ディオクレティアヌス帝の治世、キリスト教徒は政府や軍内部にも増加。この頃キリスト教徒は帝国の総人口の1割、500万~600万人に上っていたと推定されている。多神教であらゆる宗教を認めていたローマ帝国ではあるが、東方からのマニ教もこの頃帝国に流入。303年2月、キリスト教徒に対する迫害は突然始まったと言う。4皇帝の中でディオクレティアヌス管理下のパレスチナとエジプトは特に反抗的な教徒が多かったと言う事で迫害は長く続いたらしい。キリスト教を認めたコンスタンティヌス1世ディオクレティアヌスの政治改革を引き継いで帝国の再統一を果したのがコンスタンティヌス1世である。コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌスとは反対に324年の戦いではキリスト教徒の力を利用してマクセンティウス(Maxentius)に勝利。コンスタンティヌス1世の軍隊はその時、キリスト軍となり勝利者としてローマに入場。マクセンティウスもまたキリスト教徒への迫害を続けた1人であった為、キリスト教徒と反キリストの戦いとなったのである。※ 2018年12月「クリスマス(Christmas)のルーツ」の中、「ラバルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略」で紹介しています。リンク クリスマス(Christmas)のルーツそもそもディオクレティアヌスが起こした迫害の時でも、迫害には差があり、コンスタンティヌス1世の領地ガリア、ブリタニアではたいした迫害も起きていないし殉教者も出なかったらしい。AD313年、コンスタンティヌス1世は信教の自由を認めるミラノ勅令を発布。(キリスト教が公認された)※ コンスタンティヌス帝とミラノ勅令(Edictum Mediolanense)したについても2018年12月「クリスマス(Christmas)のルーツ」で紹介しています。また、2014年09月「サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)」で書いています。リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)官僚制を整備し、文官と武官を分離。彼は地中海世界で最も信頼される貨幣として流通するソリドゥス(Solidus)金貨を発行。※ 11世紀後頃から金貨の純度が悪化。信頼は低下して消えていく。さらに330年には皇帝コンスタンティヌス1世はローマをすて首都を東方(現トルコ)のコンスタンティノポリスに移転。コンスタンティノポリスはキリスト教の街として発展する。キリスト教に好意的なコンスタンティヌス1世のご機嫌とりの為に周囲はキリスト教に改宗していく。それは都市や村落単位でもそうだったらしい。アヤソフィアのモザイク画から右にコンスタンチノープルの街を献上するコンスタンティヌス1世左にアヤソフィアを献堂するユスティニアヌス1世南西の入り口のティンバヌムに描かれているがもしモスク化したら隠される図かも・・。コンスタンティヌス1世は死の間際にを洗礼を受けコンスタンティノポリスでキリスト教徒として葬儀が行われ、13人目の使徒として扱われ埋葬されたそうだ。(後にすぐ列聖されたらしい。)※ キリスト教の聖人として正式に認定されたと言う事。キリスト教をローマ帝国の国教に押し上げた業績が評価されたのだ。が、これがローマの元老院との軋轢を生む。後継者争いで帝国はまた分裂する。※ コンスタンティヌス帝と東のリキニウス帝が共同で発令したミラノ勅令(ちょくれい)は「信仰の自由を保障する」と言うものでキリスト教が正式にローマ帝国の国教になるのはテオドシウス1世の時代。アヤソフィァのインペリアル・ゲートのモザイク画皇帝だけが利用できた教会の正面入口のティンバヌムのモザイク右のメダリオンが大天使ガブリエル左のメダリオンが聖母マリアキリストに礼拝を行う皇帝が誰なのが謎。レオ6世またはその息子コンスタンティヌス7世説があり、ややレオ6世より。私的には光背(aureola)が就いているのでコンスタンティヌス1世ではないかとも思う。光背(aureola)は、普通なら聖人として列聖されている人物が付けるもの。だが、東ローマでは、テオドシウス帝にしてもなぜか皇帝の頭に光背(aureolaを付けたがる傾向がある。モスクになったらこれも隠されますね。ミラノ勅令後のキリスト教とにかく帝政期にキリスト教は誕生し、確立された。キリスト教がローマ帝国の国教に認定されるには各宗派のすり合わせが必要。共通の統一教義が不可欠であり、それがが皇帝の元に造られまとめられた。325年5月に開催された第1ニカイア公会議はキリスト教史における最初の全教会規模の大会議となる。一歩間違えればキリスト教会の大分裂、これはなかなか大変な会議であったと思う。失敗すればコンスタンティヌス1世も破滅? ストレスはいかに?因みに、数多くできたキリスト教の分派の中には、かなり離れた解釈をする所もありここで正統か? 異端か? ふるいにかけられ排斥された教派もある。もしキリスト教がローマの国教になっていなければ、ここまでしっかりキリスト教の教義は後世に残され確立されてはなかっただろう。ところで「信仰の自由を保障する」ミラノ勅令の時点では、キリスト教が国教になったわけではなかったが、キリスト教徒は「マウントをとった」感にあふれていた。迫害は逆転。キリスト教徒がキリスト教徒以外に向けての迫害を始めたのである。キリスト教を入れたら長くなりすぎました。キリも無いし今回はこのへんで終わります。関係リンクリンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
2020年07月29日
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今回バックナンバーの紹介かねて美術館で直接撮影したフェルメールの絵を紹介。そしてフェルメールの贋作画家として知られるハン・ファン・メーヘレンをここぞとばかり紹介して新年の挨拶に代えさせてもらいます。m(_ _)mヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレンフェルメール作品の減少とハン・ファン・メーヘレン(Han van Meegeren)メーヘレンのこだわりデルフトとヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)フェルメール作品フェルメールと言うとフランドルを代表する画家ですが、謎の多き画家でもあります。その理由のひとつが作品数が少ない事。デルフトの聖ルカス・ギルド(St.Lucas Gilde)に親方登録していた画家であったのに・・。簡単に言えば親方登録もなされた公認の画家であったけれど、当時は取り立てて目立つ事もなく地味、死後に作品は散逸。彼は忘れ去られた画家であったからです。忘れられた理由は弟子を育てなかった事。彼の継承者がいなかった事。何より貧乏だった事があげられるのでしょう。画家のアトリエ(The Art of painting) ウィーン美術史美術館所蔵 1665年頃この作品はナチスの略奪絵画として奪われ、1945年、オーストリアの岩塩坑(おそらくハルシュタット?)から発見されたと言う。画家はフェルメール自身とされる。フェルメール作品の減少とハン・ファン・メーヘレン(Han van Meegeren)1866年、フランス人美術史家テオフィル・トレ-ビュルガー (Theophile Thore-Burger) が最初にフェルメールを紹介した目録では作品は66点。20世紀初めには作品は43点となり、逆に1940年代には作品は増えている。そして今現在、疑う余地なく真筆と認められている作品は33点しかない。そもそも作品が増えたり減ったりしたのはなぜか?最初の作品の中には他の画家の作品が紛れていた事がある。では増えた理由は?その不思議な現象の理由は、フェルメール作品に多くの偽物が発見されているからです。偽物は、フェルメール作品に限った事ではないのですが、とにかくフェルメール作品には多い。他の画家の作品にフェルメールのサインを施した物もあったであろうが、それよりフェルメール作品には、ウルトラ級の偽物が存在していたからだ。稀代の天才(きだいのてんさい)と、あえて呼ばせてもらうが、ハン・ファン・メーヘレン(Han van Meegeren)(1889年~1947年)はフェルメールが描いたかのように新たにフェルメールの作品を生み出す天才であった。彼の才能は、本人が偽物だと証言しても、評論家が、逆に信じないと言うほど本物っぽく造られていた。ナチスの元帥ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)(1893年~1946年)でさえ、だまされてメーヘレンの作品を購入する為に略奪絵画200点を売りさばき、購入費にあてようとさえしていたと言う。※ 結果的にメーヘレンは戦後は英雄扱いされるにいたる。※ ナチスの略奪絵画については、2018年3月「ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)」で詳しく紹介しています。リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection私的には、ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermee)を考える時にどうしてもハン・ファン・メーヘレン(Han van Meegeren)の存在がちらついてしまうのです。それはハン・ファン・メーヘレンが、フェルメールのスタイルをそのまま借りた自身のスタイルを確立し、自身のアイデアでフェルメールが描いたかもしれない作品を描いているからで、考えようによっては二人のフェルメールが存在しているようなもの。フェルメールとメーヘレンの作品はー同一に評価されても良いのではないか? とさえ思ってしまいます。因みにメーヘレンはピカソなども簡単に模倣して見せたと言う。でもメーヘレン自身ピカソなど認めていなかった。彼は贋作ビジネスをするにしても、自身が認めた一流の画家の贋作しかしたくないと言い放ったと言う。(「私はフェルメール」より)天文学者 ルーブル美術館所蔵 1668年頃この絵もまたナチスの略奪絵画の一つとしてオーストリアで発見されている。フェルメールがこれだけクローズアップされたのはナチスとファン・メーヘレンのおかげと言っても過言ではないかも・・。メーヘレンのこだわり技術はパーフェクト、どんな作品でも簡単にマネる事ができたらしい。メーヘレンのフェルメールの贋作は1923年頃から現われ、1946年まで確認できている。特筆するのは1937年以降は宗教画が多くなっている事。これはフェルメール自身があまり描いていないテーマなのだ。あえてメーヘレンは選んだようだが・・。フェルメールは結婚により改宗(プロテスタント→カトリック)したとは言え、もともとはプロテスタントだったので、宗教画の依頼がなければ取り立てて興味もなかったのかもしれないし、プロテスタントの多いデルフトで需要がなかったのかもしれない。※ 1653年4月20日にカタリナ・ボルネスとの結婚の条件にカトリックの信者になる事が入れられていた。これについては「デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)」フェルメールの結婚で紹介しています。リンク先は次のコーナーに。.メーヘレンは下準備とその素材に並々ならぬこだわりで臨んでいます。フェルメールが使ったであろう顔料と絵の具を使用する。もちろん手作りである。それは顔料の科学分析をパスする為に・・。筆はアナグマの毛を使用。実際フェルメールが使用していたのはアナグマの毛筆らしい。17世紀のキャンパスを用意し、X線を使用しても何も写らないくらい元の絵画を削り落とす。それはキャンパスの時代特定をパスする為に・・。絵の具層を硬化させる。アルコール・テストに耐えるよう古画に見られる絵の具層の亀裂を再現する事。この研究には1年以上ついやしたらしい。.彼は「絵画の科学調査」の本を読み、科学テストをパスする為の研究を重ねたと言う。結果、古画風に見せる為の技法としてプラスチックを利用したらしい。とにかく当時は一部の研究者をだませればよかったらしいのでその対策を講じる事が最重要だったらしい。.デルフトのマルクト広場(Markt Delft)と新教会(Nieuwe Kerk)新教会(Nieuwe Kerk)とは、プロテスタントの教会。フェルメールはここで誕生の洗礼を受けている。ザックリ言うとこの新教会の左手に結婚前の家があり、結婚後の家はこのすぐ右手に住まい、撮影場所の市長舎で結婚届けを出している。.デルフトのマルクト広場(Markt Delft)とデルフトの市長舎(Stadhuis van Delft)フェルメールが結婚に関する同意書に署名したのはこの市長舎である。デルフトとヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)かつてデルフトを訪問。そこはフェルメールが生まれ、生活し、眠っている場所。当時、特集した「デルフト(Delft)」の中で紹介しています。フェルメールの誕生から生活。結婚から活動など現地で調べたネタで構成されています。2016年9月「デルフト(Delft) 1 (デルフトの眺望)」リンク デルフト(Delft) 1 (デルフトの眺望)2016年9月「デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)」リンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)2016年9月「デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)」リンク デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)2016年10月「デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓」リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓.ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer )(1632年~1675年)謎の多い画家ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)であるが、デルフト(Delft)に行くとさすがに彼の足跡があちこちに残っている。まさに、そこは画家、ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)の一生が閉じ込められた街だからである。決して長生きとはいえないヨハネス・フェルメールの人生。驚く事にその行動範囲が非情に狭かった事がわかった。.フェルメールが残した風景画で真作と認められているのはたった2点。デルフトの眺望(Gezicht op Delft) マウリッツハイス美術館所蔵 1660年~1661年頃フランスの小説家、マルセル・プルースト(Marcel Proust)(1871年~1922年)はフェルメールを特に高く評価。彼はこのデルフトの眺望(Gezicht op Delft)を「この世で最も美しい絵画を見た。」と表現。プルーストに重要なインスピレーションを与えた作品であり、彼の終生の大作「失われた時を求めて」のラストの表現に起用されている。とは言え、前も書いたが、この絵が描かれる6年前(1654年)にデルフト(Delft)では大きな爆発事故があり街の4分の1が吹きとんでいる。この絵は吹き飛んでいない側(対角)から描かれている。※ 「デルフト(Delft) 1 (デルフトの眺望)」で書いています。小路 アムステルダム国立美術館所蔵 1658年頃青衣の女 アムステルダム国立美術館所蔵 1663年~1664年頃現在はマリア・ファン・イエッセ教会(Maria van Jesse Kerk)の一部となっているが、フェルメールが結婚した後に長く暮らした義母の家が残っている。フェルメールの部屋は北向きで、小さな窓が一つ。フェルメールの絵の特徴である少し高めの小さな窓からの明かりと反射。この絵の女性が、もしフェルメールの妻(カタリナ・ボルネス)だとしたら納得である。まさに彼の絵は、その部屋で描かれたに違いない。 レースを編む女 ルーブル美術館所蔵 1670年写真がぼやけているのではなく、元々の絵がぼやけているのだ。最先端の光学機器、カメラ・オブ・スクーラを覗いて描かれたと思われるフェルメールの特徴ともいえるぼかし。肉眼ではこんな絵は描けないようだ。フェルメールは貧乏のどん底で、43歳で亡くなっている。義母のおかげで、かろうじて教会には埋葬されたものの、墓石が買えず、名無しのプレートの下に埋められたので本当の場所は分からなくなってしまった。ほとんど破産状態だったという。だから作品のほとんどは死後に散逸している。当時のフランドルはプロテスタントが多数を占め、かつ商人文化が盛りだったので、風俗画が売れたのだろう。顧客は一般の人々である。たわいない人々の日常生活を描いた絵が多いのもフランドル故なのかもしれない。もしカトリックが優勢な場所に暮らしていたなら、宗教画を描いていただろうし、そうした絵は残っていたに違いない。恐れ多くてつぶせないからね。彼にどの程度の顧客がいたのか? 依頼された絵ならともかく、生活に密着した絵のほとんどは、妻とか、義母とか、義母のところのお手伝いさんとか、そんな身近な人がモデルになっていたのではないか? と想像する。牛乳を注ぐ女 アムステルダム国立美術館所蔵 1658年~1660年頃。真珠の耳飾の少女(青いターバンの少女) マウリッツハイス美術館所蔵 1665年~1666年頃モデルが特定できていないこともあり、実在の人物ではないのではないか? との意見もある「真珠の耳飾の少女」あるいは「青いターバンの少女」 。フェルメールは天然のラピスラズリを好んで使用している事からやはり「青いターバンの少女」 の方がシックリくる気がする。フェルメールの死後、競売にかけられた絵の一つ。ターバンがオランダ的でないとか、当時のファッションでないとか言われているが、フェルメールの生きた時代デルフトは海運で繁栄を見せていた。オランダ東インド会社の支部も置かれていたのだ。彼女はフランドルの女ではないのかもしれない。前回ハーグに行った時にはマウリッツハイス美術館は改装工事中。この絵画は世界ドサ回り中の為にハーグにはありませんでした以前のビデオを写真に切り取ったものです。※ 美術館では改修工事中にオファーのある美術館に目玉を貸し出すようです。今回、またまた絵画の話しになってしまいましたが、絵だけでなく、関連して街などもいろいろ紹介する方向で構成していきたいと思います。m(_ _)m
2019年01月03日
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キリスト教関連のback numberをラストに関追加しました。昨年末に書き残した分の再開です。2017年12月 「聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent)」リンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent)2017年12月 「聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日」リンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日今回は「クリスマスのルーツ」の紹介ですが、その前にローマ帝国が当初迫害していたキリスト教を公認したばかりかキリスト教を国教に据えて、国家戦略に利用した話からつなげます。12月25日と言う日は、そもそもローマ帝国時代の祝祭日であったからなのです。クリスマス(Christmas)のルーツコンスタンティヌス帝とキリスト教コンスタンティヌス帝にまつわる建造物ラバルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略ラバルム(Labarum)誕生の疑問ガッラ・プラキディア廟堂(Mausoleo di Galla Placidia)の壁画ミラノ勅令からのキリスト教ミトラ教の冬至の祭りとクリスマスコンスタンティヌス帝とキリスト教2017年12月「メドゥーサ(Medousa)の首」の所でも触れていますが、キリスト教を公認した最初のローマ皇帝は、コンスタンティヌス1世(在位:306年~337年)です。 正確に言えば、あらゆる宗教の信仰を認めたのがコンスタンティヌス1世です。聖遺物の所でもしばしば名前を上げてきた、最初の聖遺物収集家でもあるコンスタンティヌス1世の母ヘレナ(Helena)(246年or250年~330年)はカトリックの信者であったが、息子であるコンスタンティヌス1世がキリスト教徒の洗礼を受けるのは彼が亡くなる直前なのです。それなのに彼は非常によくキリスト教徒をフォローした。たとえば教会に土地などの免税、寄進、遺贈の促進、司教への下級裁判権付与などさまざまな特典をつけて優遇。かくして教会建築のラッシュを向かえる。※ バチカンのサンピエトロ寺院やミラノのサンタンブロージョ聖堂などリンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)リンク バチカンとシスティナ礼拝堂リンク 天使と悪魔とヴァチカンペテロが殉教した丘にバシリカ聖堂をたてさせたのもコンスタンティヌス1世である。ヴァチカンのサンピエトロ聖堂がその一つもともと市壁外で墓地の連なっていた平原アゲル・ヴァティカヌスの地域振興の為に、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令(313年)の後、326年~333年にかけてペテロの墓所があるとされるこれら墓地の上にバシリカの聖堂を建立。旧サンピエトロ聖堂である。アエリウス橋からの道を整備すると沿道には民家ができ、教会のまわりには修道院が立ち並び、司教の館も建設された。8世紀にはアルプスの向こうから聖ペテロを参詣する為の巡礼者が殺到したらしい。リンク バチカンとシスティナ礼拝堂リンク 聖ペテロの魚(St. Peter's fish)と聖ペトロリンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂ミラノ勅令を発表した、コンスタンティヌス帝とリキニウス帝が会談した場所にはサンタンブロージョ聖堂が建立された。ミラノ最古の教会である。コンスタンティヌス帝とリキニウス帝の会談が行われたマッシミーノ(Massimino)皇帝の宮殿があた場所建立したのはミラノで司教であったアンブロージョ (Ambrogio)(340年? ~397年) 。聖堂の古い部分にはミトラ教の意匠が残っているので転用したものかもしれない。※ コンスタンティヌス帝がキリスト教の洗礼を受けて以降、ミトラの神殿はキリスト教徒に次々襲われ破壊されていったらしい。後にアンブロージョ (Ambrogio)が亡くなり聖人認定されると堂は聖アンブロージョを祀った堂としてサンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio)と呼ばれるようになった。リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)ミラノ勅令以降キリスト教以外の宗教でも宗教改革が行われている。ミトラ教などは生け贄など儀式が禁止され、コンスタンティヌス2世の頃は異教の神殿破壊もすすめられた。さらに、「メドゥーサ(Medousa)の首」の所ですでに紹介していますが、コンスタンティヌス1世は、異教にまみれたローマを捨て、ビュザンティオン(コンスタンティノポリス)にキリスト教の都市を建設。※ 「メドゥーサ(Medousa)の首」の所、ビュザンティオン(コンスタンティノポリス)の給水施設イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)の建設者として紹介しています。リンク メドゥーサ(Medousa)の首また、キリスト教の体裁を整える為に325年には全教会の代表者を集めた第1回ニカイア公会議を主催し、典礼などすり合わせなど行ったり、今日のキリスト教の基盤造りを進めている。つまり、コンスタンティヌス1世は、突然にキリスト教を国教にしたのではなく、ゆるやかに、国の宗教に適するように教義に関しても、きちんとした体系を造って国民の支持基盤を固めてから移行しているのである。そしていつしか、増えるキリスト教徒はかつての異教から立場が逆転。皇帝の指導と庇護の下に置かれ国家戦略の内に置かれた事により、キリスト教は爆発的に発展したのである。アヤソフィア(Aagia Sophia)モザイク画からキリストにビュザンティオン(コンスタンティノポリス)を献上するコンスタンティヌス1世(モザイク画一部分)※ ビュザンティオンとは、西ローマの首都であったコンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)の事です。ビュザンティオンのキリスト教の大聖堂として建設されたのがアヤソフィア(Aagia Sophia)です。献堂は帝の子、コンスタンティウス2世によるもの。建設は350年頃。360年2月献堂。ちょっと余談ラバルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略コンスタンティヌス1世は自分の守護神は太陽神だと信じていた。在位宣言した後、310年にはオータンの神殿でアポロの幻を見て勝利を確信したらしいが、彼はミトラ教(Mithraism)の信者であったのだ。150年頃、ローマ帝国内で瞬く間に信奉者を増やしたミトラ教は後にキリスト教にやぶれて消えて行くが、コンスタンティヌス1世がミトラ教の信者であっても不思議では無いくらい当事のローマでは浸透していた信仰であったようだ。ただ、コンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)が帝位に就く頃のローマ帝国内では、迫害されても尚、キリスト教の信者の数は増え続けていた。312年、ローマに進軍するコンスタンティヌス1世は再び幻? お告げ? を受けたらしい。「彼の兵に神の印を付けて戦いに挑め」と言われ彼はそうした。「神の印」? しかし、それはミトラの神ではなく、キリストの印であった。キリストをギリシャ語綴り「Χριστος」にして、最初の2文字「Χ」と「Ρ」を併せた紋章である。後にそれはローマ帝国正規軍の紋章の一つになったラバルム(Labarum)と言われる印である。ウィキメディアからかりました。このXPの組文字を円形で囲んだモノグラム、ラバルム(Labarum)はキリストの象徴となっている。つまり、彼の軍隊はその時、キリスト軍となり、ライバル、マクセンティウス(Maxentius)(278年頃~ 312年)をローマ近郊ミルヴィオ橋でやぶり勝利者としてローマに入場。キリスト側が勝利したと言う話しなのだ。この戦いの勝利を記念してコンスタンティヌス帝を称える凱旋門がローマのコロッセオ近くに建設された。コンスタンティヌスの凱旋門(Arcus Constantini)である。現在もそれは現存する最大の凱旋門として残っている。ところが・・。ラバルム(Labarum)誕生の疑問これは年代的にも初期キリスト教美術に繋がる彫刻がほどこされた門であるのだが、門の裏表、写真を拡大して探したが、ラバルム(Labarum)の紋章が一つも無い。ラバルム(Labarum)を掲げてこの戦いに勝利したのであるならば、印が無いわけがない。そう考えると、「無い」のは、そもそもラバルム(Labarum)の意匠の誕生の歴史話自体がマユツバなのではないか? と、思ったのである。キリスト教が広まりはじめた頃の、ローマ帝国の西半分はラテン語が、東半分ではギリシャ語が公用語だったらしいので、シンプルにギリシャ語圏での紋章かもしれない。唯一発見できたラバルム(Labarum)の写真を下に紹介下はラベンナのサン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale)に隣接するガッラ・プラキディア廟堂(Mausoleo di Galla Placidia)の壁画からズームアウト5世紀、テオドシウス1世の娘ガッラ・プラキディア(Galla Placidia)(390年頃~450年)による献堂西ローマ帝国の首都がラヴェンナ(Ravenna)に遷り、東ゴート王国建国までの間と考えられている。サン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale)の建造よりも前になる。ミラノ勅令からのキリスト教313年、バルカン地方の東方正帝リキニウスと西方正帝コンスタンティヌス1世は、連名で信教の自由を認めるミラノ勅令(Edictum Mediolanense)を発布し、キリスト教を公認した。コンスタンティヌス1世の勝因は、キリスト教徒を迫害するマクセンティウスに対抗し、キリスト教徒の組織力を利用した事だろう。つまり異教徒vsキリスト教の戦いに置き換えた。と言うことだ。そしてキリスト教は彼に勝利をもたらしてくれた。すると今度は、キリスト教を国家戦略の要にしようと画策する。それが325年の第1回ニカイア公会議の開催に繋がる。未熟なキリスト教を形ある宗教にする為、今まで地域によりバラツキのあった決まり事や祭り事をまとめ、統一の典礼として公に決める事だ。(その方が国としても扱い易い。)そうしてできた祭典の中にキリストの誕生日問題も盛り込まれていたと思われる。※ 聖書に誕生日を特定する記述は無いが、345年にはすでに12月25日に決まっていたらしい。そしてこの時、結果的に、キリスト教の会議に皇帝の力が関与せざる終えない基盤も造られたのである。ミトラ教の冬至の祭りとクリスマス最初に紹介したよう、12月25日は、ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)(BC100年~BC44年)が、BC46制定したユリウス暦上の冬至(とうじ)にあたり、もともとローマでは祝祭日として祝われていた日であった。※ BC46年は、カエサルが強大な権限を有する政務官である独裁官(Dictator)に選出された年である。ユリウス暦の実施は、BC45年1月1日から。※ 4世紀頃のローマでは年間200日を超える祝祭や競技の祭りがあったらしい。冬至(とうじ)は、日本でもおなじみ、一年のうち夜が最も長く昼(日の出から日没)が短い日の事。この日を境に日没時間が延び始める訳だが、これを古代ローマでは、死と再生に結びつけ、太陽が生まれ変わる日と位置づけされたらしい。再生するには一度、死ななければならないと言う概念は、ギリシャ・ローマ、あるいはエジプトやシリアなどもっと古代からの思想でもある。ローマではソル・インウィクトゥス(不敗の太陽神)の誕生の祭りとしてもともと市民になじみがあった日だったわけです。かくして皇帝や教会関係者など諸々の事情があっての事でしょうが、異教の生誕歳はキリストの誕生日にすりかわったようです。エピファニー(epiphany)を現したのがプレセピオ(Presepio)キリストの誕生日と共に、外せないのがキリストの生誕を世に知らしめた公現祭です。エピファニー(epiphany)は、ギリシャ語で出現を意味するもの。以前「マギ(magi)の正体」で詳しく紹介していますが、イエスがベツレヘムで生まれた時にそれを星により知った者達(東方の賢者)がイエスの元にやってきて、祝福とプレゼント置いていったお話です。※ その賢者は異教の司祭マギ(magi)として紹介されていますが、その実態は不明。※ 2017年12月「無原罪の御宿り日」で紹介。2013年12月にも「マギ(magi)の正体」で触れています。リンク マギ(magi)の正体このエピファニー(epiphany)の制定についてもいろい事情があったようです。そもそも発祥はアリクサンドリアと言われ、元は誕生と洗礼の同時の祝い日だったようです。現在のエピファニー(epiphany)はカトリックでは1月6日。12月25日のクリスマスが制定された事で祝日は分割されたようです。そこにも各所諸々の事情があったようですし、宗派で微妙に異なるようです。アヤソフィア(Aagia Sophia)モザイク画からキリストに贈物をするヨアンネス2世と皇后エレーヌの図の一部抜粋ところでクリスマスにクリスマスツリーを飾る慣習は15世紀から。1419年に、フライブルクのパン職人の信心会が聖霊救貧院にツリーを飾ったのが始めと言われる。※ 2009年12月「ディンケルスビュール 2 (巨大ツリーと消防はしご車) 」の中で紹介。リンク ディンケルスビュール 2 (巨大ツリーと消防はしご車)キリスト教関連back numberリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
2018年12月06日
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今回は1度見たら忘れる事はない、極めて特異な世紀末(Fin de siècle)の画家、オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)(1872年~1898年)の紹介です。最初の出会いは高校一年。その時記憶した絵は、今リビングに飾られている。世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)サロメ(Salomé)と私オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)サロメと首の主ビアズリーとジャポネズリー(Japonaiserie)サロメ(Salomé)と私I have kissed thy mouth, Iokanaan,I have kissed thy mouth.There was a itter taste on thy lips.Was it the taste of blood?Nay; but perchance it was the taste of loveおまえの口に口づけしたよ。ヨカナーンおまえの口に口づけしたよ。おまえの唇は苦い味がした。血の味か?いや、たぶんそれは恋の味。※ サロメは首の主にささやきながらその生首に口づけした。それは生前の首の主に「ソドムの娘、パピロンの娘」とののしられ、触れる事も許さなかったからだ。それでもサロメは一瞬でヨカナーンを愛してしまった?これはオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)(1854年~1900年)の戯曲「サロメ(Salomé)」(1893年)の作品の一説だ。ワイルドの聖書の物語に発した大胆な創作。とりわけその作品の挿絵には衝撃が走った。高校一年の時の事だった。作品の不謹慎さもさることながら、作品の中の主人公サロメをより、妖女にしたてた挿絵のサロメに魅入られたのは私だけではないだろう。.挿絵の主はオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)(1872年~1898年)知る人ぞ知る鬼才だ。1度見たら忘れないほどに非常に個性的な絵を描く画家(イラストレーター)だ。独特な怪異な彼の絵は、夢に見て怖いと思う人もいるかもしれない。でも、怖く気持ち悪い中にも不思議と引きつける魔力を持っていて、私はそれを忘れる事ができなかった。そして、その想いにより、その作品を後年手に入れる事になる。.新宿の小田急美術館でヴイクトリア&アルバート美術館所蔵のビアズリー展が開催された時だ。もっとも25歳と言う若さで夭折した作家の肉筆画は無く、ほぼほぼ古い本の一部を額装したものばかりの展示会であったと思う。.その絵が下「The Studio」Vol.1 No.1 である。絵の部分10×20cmくらい。 リビングに飾っている。.1893年、オスカー・ワイルドが「Salome」を発表すると、それに啓発されたビアズリーはかってにサロメを描き雑誌「The Studio」Vol.1 No.1 の創刊号に掲載。それにより英語版のイラストには、ビアズリーのイラストが抜擢、採用される事になる。そもそも「サロメ」の初版は1893年2月にフランスで刊行されていた。英語版の初版が刊行されたのは1894年2月。しかもそれはフランス語で書かれた書を英訳して刊行されている。.因みにその英訳をしたアルフレッド・ダグラス卿(Lord Alfred Bruce Douglas)(1870年~1945年)がオスカー・ワイルドの同性の恋人であり、翌年1895年にその父親から告訴されオスカー・ワイルドは転落して行く事になる。.I have kissed thy mouth, Iokanaan,おまえの口に口づけしたよ。ヨカナーンイラストの中でも、サロメを代表する挿絵がこの生首へのキスシーンであるが、マガジンに発表されたものと英語版とは微妙に違う。.下は本の挿絵の「サロメと首」 現代版の英語の本の挿絵から撮影まるで夢見がちな乙女のようにヨハネの首に想いを寄せるサロメ。顔は怖いけど、スタジオ作品(「The Studio」Vol.1 No.1)よりは可愛いサロメがいる。.プラトニックな嘆きこちらは可愛らしサロメの純粋な愛。でも拒否され、ののしられ、こばまれたが故?後に憎悪に変わる。ビアズリーの本からの撮影ですが、この絵は岩波文庫のサロメにも掲載されています。.それにしても16歳の私は何を考えていたのでしょうね。もっとも、ビアズリーのサロメだけでなく、後々ギュスターブ・モローの描いたサロメも手にい入れようとしていた私は、ビアズリーの絵よりもむしろ王女サロメのファンだったのかもしれない。※ モローのサロメは美術館の人に止められて、代わりにオルフェゥスを購入。こちらは寝室に飾っている。因みにモローのサロメの方は幻想的で美しさが際立つ。モロー作品もいつか紹介したい。.オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)最初に言ってしまうが、短命な彼の肉筆画は見た事が無い。もともと挿絵画家として世間に認知された彼の作品は、当時出版された本の中の印刷によるものくらいしか無い。だから作品展と言っても、かつて印刷された古い本のページを切り取って、額装したものくらいしかお目にかかれないのである。19世紀の本の発行数はそもそも多くは無い。加えて今現在どれだけの本が残っているのか?※「The Studio」Vol.1 No.1 の絵はもう手に入らないらしい。.父方から工芸家としての才能を母方から音楽や美術など芸術に対する本格的な教育を受けて育ったビアズリーは確かに芸術に対してマルチな才能を有していた。特に絵に関して、彼を画家へと薦めたのはラファエル前派を代表する画家エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)だったと言う。.なるほど、ビアズリーとラファエル前派の関係はここから始まり、ウィリアム・モリスとの接点もここにあったわけである。※ モリスとバーンジョーンズはオックスフォード大学時代の友人らしい。.ウィリアム・モリス(William Morris)(1834年~1896年)は、産業革命期のイギリスで、失われつつあった中世のクラフトマンシップを再興しようと活動したデザイナーである。特にテキスタイルで知られていると思うが彼の美しい本の装丁は、ビアズリーの作品の中にもその影響が見える。.トリスタンとイゾルデトリストラム卿を看病する麗しのイゾルデウィリアム・モリスの影響がみられる挿絵.産業革命とモリスが提唱したクラフトマンシップの工芸デザインが世紀末のイギリスで花開く頃、文芸の方も中世を題材にした物語が次々発表される。「サロメ」しかり、「アーサー王伝」、「トリスタンとイゾルデ」、「タンホイザー」などビアズリーの才能はその中で見いだされたのである。.世紀末に好まれたのもまたロマン主義的モチーフである。中世へのあこがれや回帰的な意味もあったのかもしれないが、ハッキリ言えるのは、明らかに文化文明が市民全体に降りてきている事。アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)自体は、まだ特別な金持ちのものでしか無かったけれど、文芸は市民の中で確実に消化されてきていた。ラファエル前派の作品はやりはまだ金持ちの物。でもビアズリーの作品は市民に寄り添った所にあったのは間違いない。だから時にアイロニー(皮肉)を込めた卑猥な作品も多々描いているし、下のような作品も描いている。ゴルフをたしなむ婦人 私の所持している作品ゴルフってそんな昔からあったのね。と思って購入した作品を額装。.ビアズリーはアーサー王の挿絵もしているが、この頃はラファエル前派的な挿絵である。独特な悪魔的な彼の絵は独自の感性で描かれ、サロメの中で特に発揮されている。(オスカーワイルド自身は気に入らなかったらしいが・・。)作品を食ったとも言える衝撃の彼の挿絵は私ばかりか、あらゆる読者に強い印象に与えたに違い無い。.サロメと首の主サロメ(Salomé)は旧約聖書の中で幼児虐殺をしてユダヤの王の誕生を阻止しようとしたヘロデ王の娘である。娘のサロメに邪(よこしま)な目を向ける王の求めでサロメは踊りを披露させられる。その褒美に、王さえも幽閉する事しかできなかった荒野の修道士であり予言者であるヨカナーンの首を落とす事を求めたのである。.生前のヨカナーンと一目惚れするサロメまさにエキゾチック(Exotic)と言う形容詞が当てはまる。実はちょっとばかり日本的に描いているらしい。いわゆるジャポネズリー(Japonaiserie)と言う作品なのだ。これこそイギリスで起きたアーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)がそもそも日本の影響を多分に受けたジャポニスム(Japonisme)が根底にあった事に関係している。サロメが首を落とさせてまで求め、焦がれた首の主、ヨカナーンとは、実は洗礼者ヨハネの事。※ バプテスマのヨハネ(John the Baptist)(BC2年頃 ~36年頃).以前聖母子像を紹介した事があるが、幼児キリストと一緒にいる子供こそが、実は荒野で修行するキリストの先輩修道士であり、キリストに水の洗礼を施したヨハネなのである。それ故、彼は「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる事になる。※ 2017年12月「聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent)」リンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent).ところで、異常なサロメの愛情を見たヘロデ王は恐れおののく事になる。サロメの為にヨハネを殺してしまった事に後悔したのだ。結果、ヘロデ王はサロメをも殺してしまうのである。.サロメの死こちらは可愛らしいサロメである。実は挿絵のテイストが違うのではないか? と言うほど主人公サロメの顔は変わっている。老婆になったり、性格の悪そうな女の顔になったり、上のように普通に若く美しい女性であったり・・と。まるで別人のように異なる。内面と言う仮面を被っている・・と言う見方もできるが、本当のサロメの顔はどれ?.死して欲や邪鬼が消え、無防備になったこの顔は、乙女サロメである。この姿だったなら、ヨカナーンも心を動かしたかもしれない。(厳格な修道士だからあり得ないけどね。).ビアズリーの作品は、その毒々しさが魅力であるのは解るが、先ほど触れたように後半はシンプルに可愛い女性もたくさん描いている。下は、私のお気に入り作品の一つであり、所持している作品。ヴィーナスとタンホイザーの口絵から「ヴイーナスと境界神」反射、がありバックを修正しました。最初に載せた時と色が変わった。もっと地は白いです。拡大作品は買ってきたコピーから。上の絵はヴイーナス山の入口に立つヴィーナス。そこは人の住む現実の世界ではない異世界にある。境界神はその境に建つ門なのだろう。ビアズリーはワーグナーを敬愛していたらしい。1895年ワーグナーの祖国ドイツに滞在中に「ヴィーナスとタンホイザー」とその挿絵を執筆。家で本を見ながら、この絵も欲しい・・と再び美術館に行って手にいれた作品を額装。こちらは寝室に飾っています。.ヴィーナスとタンホイザーの話しは以前「ルードビッヒ2世の執務室」の所で紹介しています。 2018年3月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー」リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー.イゾルデ ステュデオ誌1895年10月号付録 写真は買ってきたコピーから。.ビアズリーとジャポネズリー(Japonaiserie)ビアズリーがちょっと日本を意識して描いた絵。サロメ 黒いケープ浮世絵の美人画のフォルムを意識した作品?孔雀(くじゃく)の裳裾(もすそ)サロメの母ヘロデアスと兵隊※ 裳裾(もすそ)とは女性の礼服のローブの事。トレーン(train)とも。孔雀は日本には本来いない鳥だからちょっとアジアとチャンポンになっているが、構図はやはり浮世絵の美人画。特にこの孔雀のローブは着物にヒントが有ったりして・・。私の所持している3点、全て傾向が違う。傾向としては、初期はラファエル前派的な絵、そしてサロメの時に見るジャポネズリー(Japonaiserie)の取り入れられた絵。そして後半のサヴォイ誌に見るロマンティックな絵。.代表作として語られるのがワイルドのサロメである故、ビアズリーと言えば毒々しさが印象の画家のイメージでまとまってしまう。が、流行の日本が意識された作品がまさにこの時代である。何しろこの頃イギリスでは日本ブーム。ジャポニスム(Japonisme)が流行っていた時代である。最も、ほとんどの者は日本をよく知らなかったらしくワイルドなど「日本は幻の国だ」とも言っていたらしいくらい知識は皆に無かったらしい。あるのはもっぱら浮世絵情報である。ゴッホはもろに油絵で浮世絵風な絵を描いたが、ビアズリーは浮世絵のフォルムや構図をちょっとだけ戴いて自分の作品を生み出した。先ほども書いたが、ちょっとだけ日本がビアズリーのジャポネズリー(Japonaiserie)作品なのである。そこがアーサー王を描いた頃の作品との転換点になる。.サヴォイ2号 リマの聖女ローズ昇天 1896年アーサー・シモンズの招きで「サヴォイ」誌の美術編集者となり創刊に参加。初版はクリスマスカードで聖母子を描き、2号で「リマの聖女ローズ昇天」を描いている。ちょっとマンガチックですけど普通にロマンチックな絵です。サロメの時のような毒々しさは無くなっています。1667年、ローマ教皇クレメンス9世により列福され、1671年にクレメンス10世により最初のアメリカ大陸初の聖人として、列聖されたペルー生まれの聖女。.世紀末のイギリスでは外せない画家(イラストレーター)ですが、「サロメ」と一体視された所が多く、ワイルドの転落の影響を受けて巻き添えで社会から廃絶されてイギリスを出ている。フランス、ベルギー、ドイツなど周り、最後は南フランスのマントン(Menton)で1898年3月16日、結核のため逝去。亡くなる直前には聖徒伝を読みふけっていたらしい。25歳で逝くなんて早すぎです。もっと作品を見たかった。それにしてもマントンに行った事はあるけど全然知りませんでした。※ 以前「マントン(Menton)での思い出」を書いてます。 おわり関連 back numberリンク ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のサロメ(Salome)
2018年11月05日
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タイトル変更しました。旧 最新 詐欺「法務省を語る」&ブレイクの描く地獄 → ダンテの描いた地獄の図& 法務省を語る詐欺師一昨日、母の所に詐欺(さぎ)の手紙が届いたらしい。以前1度オレオレ詐欺で振り込み寸前までひっかかった母の所には、以降、度々詐欺らしい電話がかかるように・・。おかげで母は家電にほとんど出なくなった。昨年末は、「あなたのカードが詐欺に使用されたらしい。」と警察を名乗る電話が。「カードは家にありますよ。」と言うと、「確認に家に行くので住所を教えてください。」と言うので「警察が住所を聞くのはおかしい・・」と詐欺だと気付いたらしい。これは近年最も主流になっていた年寄りを騙す詐欺師の手法であったが、一昨日、新しいのがやってきたのだ。今度は法務省を名乗る手紙らしい。そんな訳で詐欺師に憤りながら、彼らがどんな地獄に落ちるのか? 「ダンテの神曲」で拾ってみた。ウィリアム・ブレイクの描く地獄はなかなか興味深い。なぜなら彼は幻視の能力を使って挿絵を描いているからだ。それにしても、詐欺師の罪は重い。殺人ではないから、たいした罪ではないかと思っているのかもしれないが、道徳的観点から言えば暴力を振るう者よりも罪は重いのだ。犯人は地獄に落ちろ・・前に母がオレオレにあった時も思ったようで、その時は「ロダンの地獄の門」(2010年3月)を紹介していました ( ̄▽ ̄;)アハハ…ダンテの描いた地獄の図 & 法務省を語る詐欺師最新詐欺「法務省を語る」ダンテの地獄図幻視者ウィリアム・ブレイク(William Blake)地獄の解説オレオレ詐欺師が落ちる地獄最新詐欺「法務省を語る」まだ手紙の本体を直接確認していないが・・。「あなた宛に訴訟が起こされました。」と言う内容らしい。反論があるなら期限内に返答をしなければ訴訟を起こしたものの言い分が通ってしまうから連絡をしろと言うような事らしい。しかも期限は翌日と間がない。人に相談される前にまず電話をかけさせようと言う魂胆のようだ。電話は当然詐欺師の所。そこで今度は法務省の人間を名乗り年寄りをだまくらかすのだろう。※ 担当部署の名前と電話があり、そこにかけるよう書かれていたらしい。担当部署名だけで怪しそうだったけどね。聞けば近所のお年寄り仲間も似たり寄ったり。年寄りを狙う最低のサギ師らがあの手この手で毎日のように年寄りの貯金をかすめ取ろうとしているこの現状。情けないにもほどがある。オレオレ詐欺の電話かけなど、当然こう言う詐欺をする集団の年齢は若い方に部類するのだろう。年寄りが、人生かけて一生懸命 貯めた最後のお金を、本来働き盛りの若者が、まともに働かずして、横取りするなんて考えられない悪行である。人の行為として一番やっては行けない事だと親や学校では誰も教えてくれなかったのだろうか?最も最近その親も駄目駄目なのが多いからね。近年の日本の教育には、道徳教育の分野が欠けているのではないか? と思う。逆ギレする親かいるから悪い子がいても他人の子を叱れなくなったし・・。それに詐欺以外にも「人として」ちょっとあり得ない事件が多すぎる昨今だ。日本人の行く末に本当に不安を感じる。以前紹介した事がある六道輪廻(ろくどうりんね)で考えると死後の転生があるとするなら、彼らの落ちる先は大叫喚地獄(だいきょうかんじごく)に間違いない。※ 大叫喚地獄では罪状により細かく振り分けられている。キリスト教で言っても、もちろんか地獄落ちである。それもかなり深い地獄の底に・・。キリスト教の地獄を皆がイメージするよう表現したのが「ダンテの神曲」である。そして「ダンテの神曲」では罪の深さが明確化され受ける罰も表現されている。地獄はすり鉢のごとく成り、底に向かう毎に裁きは重くなる。そして恐ろしい地獄の姿を細かく紹介している。今回はダンテの神曲に挿絵した画家の絵を入れて地獄の紹介を少々。以前は入口の地獄門を紹介したから今度は詐欺師の落ちる地獄のステージを確認。ダンテ神曲の地獄編 地獄の見取り図 バチカン教皇庁図書館サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli),地獄の峡(かい)(La voragine infernale) (1490年)ダンテの地獄図上の絵は地下に食い込んだ地獄の断面図です。サンドロ・ボッティチェッリ( Sandro Botticelli)(1445年~1510年) ルネサンス期のイタリア・フィレンツェを代表する画家。彼はメディチ家の依頼でダンテの神曲の挿絵を残していた。素描約90点、彩色4点。写真はバチカン教皇庁図書館のアーカイブから持ってきました。これは解像度が低いですが、元絵は羊皮紙に描かれていたものらしい。NTTデータが技術協力したデジタル・アーカイビング事業。スキャンしてバチカン教皇庁図書館に収められている作品の一つです。色合いは、ほぼオリジナルではないかと・・。ダンテと彼の詩(Dante e il suo poema) 1465年フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(Santa Maria del Fiore)のフレスコ画ドメニコ・ディ・ミケリーノ(Domenico di Michelino) (1417年~1491年) ※ ウィキメディァより、パブリックドメインになっいたので借りてきました。ダンテが左手に持つのは叙事詩「神曲」。左手バック、フィレンツェの街。彼の背後に見えるのが煉獄(れんごく)右手が指すのが地獄の行進。下は部分拡大。ダンテは著書「神曲( La Divina Commedia)」の中で地獄を描いているが、本来「神曲」は「地獄篇」、「煉獄(れんごく)篇」、「天国篇」の3部から成る。そして各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から構成されている。※ ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)(1265年~1321年)イタリアの詩人、哲学者、政治家。※ 地獄編の成立は1304年から1308年頃とされる。地獄の入口 地獄の門地獄の門の碑文 ウィリアム・ブレイク(William Blake)ロンドン、ナショナル・ギャラリー(National Gallery)臓 撮影は本から※ ウィリアム・ブレイク(William Blake)(1757年~1827年) イギリスの詩人、画家、銅版画家。※ プーブリウス・ウェルギリウス・マーロー(Publius Vergilius Maro)(BC70年~BC19年)共和制ローマ時代のラテン文学の詩人。青い服がウェルギリウス。赤い服がダンテ。物語はダンテ(Dante)が、ローマの詩人ウェルギリウス(Vergilius)に連れられて地獄門をくぐり数々の罪の地獄を観て回るところから始まる。地獄の入口、地獄門には銘文が刻まれている。それは一人称の形で語りかけられた、門(もん)自身の自己紹介らしい。その最後に「この門をくぐる者は一切の望みを捨てよ。(Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate)」と書かれている。実は正確にはキリスト教の聖典に地獄は表現されていない。黙示録はあるが・・。神曲」はあくまでダンテの創作した地獄の姿である。しかし、この作品が登場した中世より、キリスト教圏では地獄の有様が決定したと言える。とは言え、ダンテが求めたのは正義。正義を表現する為に地獄は産み出されたと言えるかも・・・。ダンテと神曲、地獄門については以下で紹介しています。かなり昔なので、書き直したい気もしますが・・2010年3月「オルセー美術館 番外編 (ロダン・地獄の門)」リンク オルセー美術館 番外編 (ロダン・地獄の門)2009年7月「最後の審判 1 (ダンテの神曲)」リンク 最後の審判 1 (ダンテの神曲)2009年7月「最後の審判 2 (福音書と黙示録)」リンク 最後の審判 2 (福音書と黙示録)そしてこのダンテの叙事詩は、実に写実的に表現されている。それ故に後世、啓発された画家らによってダンテの意図したのに近い挿絵がなされている。前出、ボテイチェリの「地獄の峡」はダン・ブラウンの映画「インフェルノ(inferno)」でも取り上げられている有名な絵図である。また、イラストレーターであったギュスターヴ・ドレ も「神曲」の挿絵を1861年~1868年に描いている。「ドレの神曲」「ドレの聖書」もある。※ ギュスターヴ・ドレ (Gustave Dore)(1832年~1883年)幻視者ウィリアム・ブレイク(William Blake)そして、近年ダンテの神曲の本に挿絵されるのが、ウィリアム・ブレイク(William Blake)である。※ ウィリアム・ブレイク(William Blake)(1757年~1827年) イギリスの詩人、画家、銅版画家。冒頭に触れたが、ブレイクは幻視者(Visionary)の異名を持つ。つまり霊や異境の怪物が見えたらしいのだ。彼は出会った幽霊の絵も残しているようだし・・。ブレイクが覚醒したのは愛する弟ロバートの死(1787年)からだったらしい。以降彼は弟の魂と交信し続けたと言う。そして、同時に独自のヴィジョンを使って? 彼はシェィクスピアやダンテ、あるいは聖書の挿絵を描き始めた。ブレイクが観た怪物 ロンドン、テイトギャラリー蔵写真は本から持ってきました。怪物は何度かブレイクの所に来たらしい。もともと繁盛した洋品店の家で生まれた彼は父の応援もあり、しっかり絵の勉強をさせてもらっている。版画家の元に弟子入りすると7年の徒弟時代に版画のあらゆる技法をマスター。当時は挿絵もしていたので、徒弟が終わると実家で銅版画家として婦人誌の挿絵の仕事を始めたようだ。25歳で結婚もしたが、父と弟が相次いでなくなると生活は大変だったらしい。何しろ俗世の事、ましてお金儲けは苦手だったようだから・・。1788年、詩と画像を一枚の銅版画に載せると言う「彩色版画(Illuminated Printing)」を考案。この色刷り印刷は活気的だった。これによりブレイクは自分の印刷機で自分の本を印刷することが可能になった。※ 1788年「無垢の歌」。1794年「経験の歌」これらは「Illuminated books」として発売されている。それにしてもこの技法、亡くなった弟の霊が教えてくれたものだったらしい地獄の解説地獄は9の圏から構成されている。大きくは3つ。強欲の罪。暴力の罪。欺瞞(ぎまん)の罪。ダンテの地獄では一番重いのが欺瞞(ぎまん)の罪である。上方のピンクが「地獄の門」。黄色の十字がエルサレム。赤で記した所がオレオレ詐欺師らが落ちる地獄である。ほぼ底の方である。下の絵は所持している「神曲」の挿絵から撮影したので白黒です。本来はカラーのはず。地獄の上層 第2圏(自制喪失の愛欲の罪の地獄)地獄の第2圏(自制喪失の貪欲者の罪の地獄)3つの頭を持つケルベロス。貪欲者を食らっているのかよく見えないが裂かれた有様か?地獄の下層 熱砂の荒野ここは暴力者が落ちる地獄。乾ききった砂漠の上に裸かで歩く亡者に容赦なく火の塊が落ちてくる。つまり灼熱の地獄なのだ。地獄の下層 第八圏 悪の嚢 (ふくろ) マレボルジェ(Malebolge)の中、3つめのステージ、聖物売買者の地獄貪欲な教皇らが、炎の穴に落とされて焼かれている?オレオレ詐欺師が落ちる地獄地獄の最下層(第九圏)に流れるコーキュースト(Cocytus)の少し手前、第八圏の中でも底の方の地獄。悪の嚢 (ふくろ) マレボルジェ(Malebolge)の第七の嚢 (ふくろ)あるいは第八の嚢 (ふくろ)だろう。※ 第八圏は十の嚢 (ふくろ)からなってる。※ 第七の嚢 (ふくろ)と第八の嚢 (ふくろ)の話は第24歌から第25歌にある。地獄の下層 第八圏 7つめのステージ 第七の嚢 (ふくろ) 盗人の地獄。毒蛇のいる猛火の中を裸の亡者が走る。ここは盗人の地獄。ヘビは彼らの頭と腰と尾を刺し、貫き、彼らをとらえてとぐろを巻く。そして火を受けた亡者は灰になるまで焼かれて果てる。そしてすぐにまた元に戻ってまたヘビに貫かれてまた燃える。ここではそれがエンドレスに続き苦しみが途絶える事はない。こちらもフィレンツェの3盗賊の受け苦である。ちょっとマンガチックな絵である。翼を広げた6本足のドラゴンが盗賊に食らいついている。そして悪意を以て罪を犯した彼ら詐欺師が落ちる地獄は第八圏である。ダンテの神曲の「地獄編」中でも、この第八圏の悪の嚢 (ふくろ)、マレボルジェ(Malebolge)の解説は長い。地獄の下層 第八圏 8つめのステージ 第八の嚢 (ふくろ)レボルジェ(Malebolge)の解説は長い。地獄の下層 第八圏 8つめのステージ 第八の嚢 (ふくろ謀(はか)りを回らして他を欺(あざ)向いた者達が落ちる地獄。亡者一人一人を包むように火焔(かえん)に身を焼かれ続ける。その炎の揺らめきは彼方まで連なる。つまりたくさんいる亡者がみんな火に包まれて燃えている図なのである。第八の圏にはまだ9と10のステージがあり体を引き裂かれると言う責め苦が待っています。そして最も最下層には嘆きの川、コキュートス(Cocytus)と呼ばれる氷地獄が待っている。それでも「神曲」は全体を通して亡者が焼かれるパターンが多い気がします。特にこの第八圏のマレボルジェ(Malebolge)ではヘビと猛火の責め苦が多い気がする。実はダンテはこの「神曲( La Divina Commedia)」を神の喜劇(Commedia)として描いたと言う。簡易に読んでもらいたかったかららしい。敢えて俗語で書き下ろしたようだし・・。が、内容は、総じて、地獄編は行いに対して、必ず報いは受ける事になる。と言う教訓のよう。例えそれが生前でなかったとしても、魂が裁きを受ける事になると言うのがキリスト教であり、ダンテの神曲です。だから生前、人として正しく生きなさい。と示唆しているのかな? と思いきや、実はダンテは神曲の中で自分に酷い仕打ちをした者達を地獄に落として責め苦を与えているのです。ちょっとした仕返しですね。そう言う意味で娯楽本的要素も含めていたか?ダンテもまた普通の人だったと言う事ですが、普通の人ではなかった? のが、挿絵をしたブレイクです。彼は詩人でもありロマン主義を代表するの天才ですが、生前彼を評価する者は少なくやはり生活は貧しかったらしいです。今やイギリスでも世界でも有名なブレイクですが、霊的要素で? それとも悟ったから? 後年の作品はだんだんに難解になっていたそうです。いつか、作品を見つけたらまた改めてとりあげたいテーマとなりました。個人的にはヒ素中毒の影響があるのでは? との疑問はありますが・・。最後に聖書をテーマにした「カインとアベル」から弟アベルを殺して逃げるカインの図です。かたわらには両親のアダムとエヴァがいて、エヴァのうちひしがれた姿と情けなくも悲嘆にくれるアダムの顔が印象的な絵です。ロンドン、テイトギャラリー蔵 1826年頃。 32.4cm×43.2cm人類初の殺人者となったカイン。このテーマをブレイクは幾度も描いているそうです。おまけに、「アベルの幽霊」と言う作品もあるらしい。実在かどうか解らないアベルに、まさか会ったのか次回再び「東京クルーズ」に戻って続きをやります。
2018年07月08日
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日本では、ツリーが撤去され、門松が建てられ始めましたが、実はまだキリストの生誕祝いは終わっていません。なぜなら、キリストが生まれた時にその知らせを星で知ったマギ(magi)が、星をたよりにベツレヘムにやって来るまで日数があるのです。彼らマギ(magi)がベビー・イエスを拝み、祝いの品を渡すのは1月6日、公現祭・エピファニー(epiphany)の日。それ故、カトリックの国では、最低でも1月6日まではクリスマスツリー(Christmas tree)やプレセピオ(Presepio)は飾られたままとなります。決して撤去が遅いわけではないのです マギ(magi)については、2013年12月「マギ(magi)の正体で紹介しています。リンク マギ(magi)の正体加えて言うと、東方教会では、エピファニー(epiphany)は別の意味合いを持っています。東方では、イエスの洗礼を記念する日がエピファニー(epiphany)なのだそうです。イエスの洗礼とは、大人になったイエスが(洗礼者)ヨハネよりヨルダン川で水の洗礼を受けた日。これはエジプト起源の祝いだそうで。元はナイル川の神、オシリス神崇拝から来ているらしい。そんな訳でクリスマスは過ぎましたが、「クリスマス歳時記 2」をつづけさせてもらいます。聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日プレセピオ(Presepio)無原罪の御宿り日(The Immaculate Conception of the Blessed Virgin Mary)12月8日ムリーリョの「無原罪の御宿り フイリポリッピ(Fra Filippo Lippi)の受胎告知ラファエロ 聖母の結婚 (Sposalizio della Vergine)プレゼピオ(Presepio)父の入院で予定がくるいましたが、「クリスマス歳時記」を書こうかと思ったきっかけは、たまたまその日が「無原罪の御宿り日」(12月8日)であったから。※ プレゼピオ(Presepio)を飾るのは12月8日(無原罪の御宿り日)の日と決まっている。プレゼピオ(Presepio)はキリスト降誕の情景をフィギュアで現したオブジェです。そもそもは、識字率の低かった欧州で、生誕の物語を演じて見せたのが始まりだったらしい。一説には、アッシジ(Assisi)の聖フランチェスコ(San Francesco)(1182年~1226年)が考案したとも言われている。バチカン美術館の入口にあったものザルツブルグの聖アンドラ教会にあったものイタリアでは等身大の人形が飾られる事もあるらしいが、家庭用はミニチュア。パターンが幾つか決まっていて、納屋で生まれた所。マギが東方より訪ねてくる所。納屋でキリストに祝いの品を渡す所。天使が集まる所等々。※ 2013年12月「マギ(magi)の正体」の所でもプレゼピオ(Presepio)を紹介。すでに冒頭で触れたが、マギ(magi)が来訪する翌年の1月6日、公現祭・エピファニー(epiphany)の日までは当然ながらプレゼピオ(Presepio)は飾られている事になる。プラド美術館 ムリーリョの「無原罪の御宿り ベネラブレス(Venerables)」1678年バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolome Esteban Murillo)(1617年~1682年)スペインでは非常に人気のある画家です。日本ではあまり知られていないかもしれませんが・・。マリア信仰の厚かったスペインでは、特に聖母の純潔性を描いた作品は圧倒的な人気があったと言う。その中でもムリーリョの「無原罪の御宿り」は代表格である。下の拡大写真はウキペディアから借りてきました。自分の写真はボケ気味で拡大が無理だったので。無原罪の御宿り日(The Immaculate Conception of the Blessed Virgin Mary)12月8日「無原罪の御宿り日」とは何か? 日本人には聞き慣れない言葉だろう。無原罪とは「原罪を持たない」と言う事。では、そもそも原罪とは何か?それは創世記、アダム(Adam)とエヴァ(Eve)が神の意向に背いてリンゴを食べた事に始まる人間の生まれながらに持った罪の事である。しかし、人間の女性で唯一、原罪を持たずに生まれてきた者がいる。それが神の子とされるイエス・キリストを宿したマリアの事である。しかもマリアはこの世に命を得た瞬間(母アンナの体内に宿った時)から無垢な者として存在したとされる。その記念すべき日が、無限罪の御宿り日(The Immaculate Conception of the Blessed Virgin Mary)なのである。※ ローマ・カトリック内でもマリアの無原罪問題は長らく論争された教義であるが1854年に教皇が公認。カトリック信者の多い国では12月8日は法廷休日に認定されているそうだ。因みにパナマでは母の日に認定されているらしい。ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)祭壇画に描かれた無原罪の聖母目に留まったので撮影していたが、聖母マリアの貫禄に恐れ入ったのかな?※ 正教会ではマリアの無原罪を認めていない。マリアに栄光が得られるのは、神の子イエス・キリストを生んで聖母となった時。ところで、「処女懐胎」とも言われる理由は、マリアの懐妊は、性交による所でなく、天の聖霊によって子が宿された事。大天使ガブリエルによるマリアへの受胎告知がそれを示している。フイリポリッピ(Fra Filippo Lippi)の受胎告知 アルテビナコテークから受胎告知も多くの画家が描いているが、中でも優美で特に素敵な絵の一つです。ルネッサンス期の画家で、サンドロボッティチェリの師匠であるフイリポリッピ(Fra Filippo Lippi)(1406年~1469年)の作品。受胎告知では共通に、マリアとマリアに告知するユリの花を持った大天使ガブリエルがいる。彼は神の言葉を伝える天使なのである。この絵はそれだけではない。時代の流行もあるのだろうが・・。下の絵の左上、天上人からの金の光の帯が鳩(聖霊)を通してマリアに届く。それによりマリアは懐妊する。精霊による懐妊が、レオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知よりも解り易い。子供を産んでもなお、彼女は純潔であると言う事を象徴している絵である。だが、教義では、もっと深く清純とされた。マリアはすでに彼女の母アンナのお腹に宿った時から原罪を持たないで生まれたクリーンな人とされている。無原罪の聖母の絵画はスペインで特に好まれたらしい。因みに、現実的に考えると、マリアにはヨセフと言う夫がいる。以前読んだ興味深い本によればダビテ・ソロモンの血をひく家系とされる修道士ヨセフは、当然子孫を残さなければならない。彼には婚約者がいた。それが修道女マリアである。しかし婚約中に懐妊してしまったので正式に二人の子とは認定されず、処女懐胎と言う流れになったらしい。そしてヨセフは3年に1度下界に降りて結婚生活を営んだ。その時の職業が大工であったそうだ。※ 「イエスのミステリー」死海文書で謎を解く NHK出版 原題 「Jesus The Man」 Barbara THIERINGついでなのでマリアの結婚の絵画を紹介。非常に珍しいタイトルであるが、何とラファエロの名品である。ブレラ美術館 ラファエロ 聖母の結婚 (Sposalizio della Vergine) 1504年頃サン・フランチェスコ聖堂サン・ジュゼッペ礼拝堂(ペルージャ近郊のチッタ・ディ・カステッロ)の為の祭壇画として制作。この祭壇画はラファエロが21歳の時。この絵画では、神の子を産む、マリアの結婚相手を司祭が選んでいるらしい。杖に花が咲いた大工ヨセフが夫として選ばれた・・と言う内容らしいが・・。先に紹介したように、実際はダビテ・ソロモン王の血をひくヨセフありきの二人の結婚である。ところで、この作品はラファエロの師、ピエトロ・ペルジーノの「ペテロに鍵を渡すキリスト」(システィナ礼拝堂)に構図がそっくり一緒。建物、人物の配置、遠近を使用した床の描き方まで・・。ペルジーノの弟子をしていたのは4年程。この頃は師の影響がかなり強く出ているが、それでもラファエロらしい人物像がすでに表現されている。ブレラ美術館でも目玉の一つになっている。因みに、師匠ペルジーノの技術を吸収したラファエロは、この祭壇画製作の後すぐ、フィレンツェに移りレオナルドやミケランジェロから刺激を受ける事になる。クリスマスのルーツについて書く予定が、着地点が変わりました。次回番外の形で載せるか検討中。ところで前回ラストに出した問題の解答ですが、あの聖母子の製作者はサルバドール・ダリ(Salvador Dalí)(1904年~1989年)でした 来年になりますが、清明神社と秦氏の関連で松尾大社を紹介予定です。
2017年12月27日
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さて、長らくお休みしておりましたが、今回はクリスマスイベントに関する話を・・。クリスマスイベントと言っても、俗なパーティーの事ではありません。真面目にカトリック信者のクリスマスイベントを幾つか紹介 今回写真は三角構図の聖母子を中心に選びました。※ 写真は、美術館で撮ってきた全て自前の写真です。映り込みなど、正面から撮影できなかった絵もありますが・・。聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent)聖母子の絵画(ダ・ヴィンチとラファエロ)クリスマス(Christmas)歳時記アドべント(Advent)聖ニコラウスの日((Saint Nicholas of Myra)12月6日聖母子の絵画(ダ・ヴィンチとラファエロ)聖母子を描いた絵画はローマ時代から存在し、ルネッサンス期には大量の聖母子が描かれた。が、芸術性の高さでも取り分け知られているのが、レオナルド・ダ・ヴィンチとラファエロ・サンティの三角構図の聖母子であろう。※ 三角構図とは、四角いキャンパスや写真のレイアウトを決める時に、三角形の構図に収めると、バランスが良く、まとまり感が出て、失敗が少ないのだ。ダ・ヴィンチは特に三角構図を好んだらしい。わざと三角構図に描き込むと言うよりは、恐らく自然と落ち着きのあるバランスが三角構図の発見であったと思われる。三角構図はモナリザにも利用されているが、聖母子で言うなら、2人よりも3人の方がバランスが良いのは明らか。※ 聖母子とは母マリアと幼児キリストである。聖母子絵画に3人?聖母子以外に加えられるのは、聖母マリアの母であるアンナや、マリアの従姉妹エリザベスの息子ヨハネ。とり分けヨハネは、後にキリストに水の洗礼をした為に洗礼者ヨハネと呼ばれる。絵画に幼児が二人居る時は、キリストとヨハネに間違い無い。因みにマリアとエリザベス、キリストとヨハネの4人のバージョンもある。イエス・キリスト(英 Jesus Christ) ナザレのイエス(BC6年~BC4年頃誕生~AC30年頃)洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)(英 John the Baptist)(BC6年~BC2年頃誕生~AC36年頃)ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)(1483年~1520年)の作品からウイーン美術史美術館からのラファエロベルベデーレの聖母子(Madonna del Belvedere)orプラトの聖母(Madonna del prato)or 草原の聖母 と呼ばれる。1506年十字の杖を持つのがヨハネ聖母がいない二人だけの絵画もある。可愛い幼児二人はそれだけで絵になる。ルーブル美術館からのラファエロ聖母子と幼児聖ヨハネ(Madonna col Bambino e san Giovannino)美しき庭師(Bella Giardinier)1507年アルテピナコテークからのラファエロカニジャーニの聖家族 (Sacra Famiglia Canigiani)1507年※ カニージャ(Canigiani)は最初に所蔵していたフィレンツェの一族の名前らしい。聖母子と、聖母の母アンナ、父ヨアヒム、洗礼者ヨハネマリアの両親が加わる絵は、滅多に無い。(これだけかも?)アルテピナコテークには、別のラファエロの聖母子もある。こちらの絵はフィレンツェのピッティ宮殿にあるトンド(円形)の小椅子の聖母と構図が一緒。だからか? 構図がちょっと不自然。無理に収めた? トリーミングされた感がある。次はレオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)(1452年~1519年)の作品からルーブル美術館からのダ・ヴィンチ聖アンナと聖母子1510年頃聖母子と共にいるのは、姿は若いが、マリアの母アンナとされる。マリアの母アンナの登場は、恐らく、聖母マリアの「無原罪の御宿り」が公認されてからではないかと思う。※ 「無原罪の御宿り」については、次回歳時記で紹介します。ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)で見つけた絵画を紹介。ラファエロにも、ダ・ヴィンチにも似た聖母子の絵は、実は上の絵が元になっているらしい。描いたのは、ダ・ヴィンチの弟子の一人、チェーザレ・ダ・セスト(Cesare de Sesto)(1477年~1523年)聖母子と子羊(Madonna con il Bambino el'agnello)1515年弟子のチェーザレは、明らかに師匠ダ・ヴィンチの作品を真似しています。しかし、そこにはマリアの母、アンナがいない。何故いないか? 実はこれは論争になっている謎なのです。真実は解りませんが、チェーザレ作品はシンプルに幸せそうな聖母子そのものです。三角構図にはブレがあるが・・。一方、聖アンナがいるダ・ヴィンチ作品の方は、確かに三角構図になっているようですが・・。安定よりも、むしろ構図に違和感を憶える気がします。もろもろのバランスが崩れている気がします。聖アンナを後から足した感じが満載です。いや、むしろいろいろ書き直したのかもしれない。そしてバランスが崩れたのか?三角構図は、二等辺三角形だからこそ美しい。巨匠を真似してもやっぱりひと味ちがうんですね ※ 20014年9月「ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)」を紹介。その中でそこの目玉サンドロ・ボッティチェリの聖母子も紹介しています。リンク ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)クリスマス(Christmas)歳時記神社仏閣、教会と、なんでも参拝する日本人にとって、12月25日のクリスマスはただのパーティー・イベントでしか無い。しかし、クリスチャンの人にとって、クリスマスは特別なイベントの日なのである。特にローマ・カトリック圏では12月に入ると、クリスマスを迎えるの為の準備がおごそかに進められて行く。その始まりの一つがアドベント(Advent)である。※ 正教会やプロテスタントでもクリスマスの祝い方は異なります。アドベント(Advent)※ 2009年12月「ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)」の中でアドベント(Advent)の紹介をしていますが・・。アドベント(Advent)は、ラテン語のAdventus(到来、降臨)に由来する。簡単に言えば、キリストの降誕日(クリスマス)まで、カウントダウン方式で降臨を待ち、祝うと言うイベントです。※ ローマ・カトリック、ルター派では待降節と呼ぶ。期間はキリスト誕生(降誕日)の前約4週間。しかし、開始日(Advent Sunday)は毎年異なり、11月30日の使徒アンデレの日に一番近い日曜日が第一主日(First Sunday of Advent)と設定される。アドベント第一主日(First Sunday of Advent)アドベント第二主日アドベント第三主日アドベント第四主日アドベントの終了は12月24日の日没後つまり、クリスマスまで4回の日曜日を過ごしてクリスマスを迎える事になる。祭司が紫色または青色の典礼服を着用し、最初の紫色または青色のアドベント蝋燭(ろうそく)がミサで灯され始まる。皆も家でリースに飾ったろうそくに灯りをともし(一週毎に1本づつ増やす)その日を待つのである。そこら辺のイルミネーションの点灯式とは次元が違います。そもそもは東方教会において洗礼志願者が断食と悔改めを実践する準備期間であったらしい。西方教会では待降節までの典礼として取り入れたようだが、儀式はあくまで厳かに。祈るのはイエスの人間界への降臨を顧み祝い、未来における降臨(最後の審判)を待ち、悔い改め、慎み深く心の準備を整えてその日を待つ。願わくば、最後の審判の裁きで、蘇れる事を望んで・・。つまり、本来のクリスマスは楽しむものではなく、あくまで、キリストの誕生日を祝う祭典だと言う事です。当然祝うのは家族単位。恋人同士で一夜を過ごすなどあり得ない。敬虔なるカトリックの信者の方から見たら、信者でもない日本の勘違いクリスマスには驚くのでしょうね。また、アドベント(Adventus)の期間内には、12月6日の聖ニコラウスの日や、12月8日無原罪の御宿り日も含まれている。それは共に今のクリスマスに関係する日である。聖ニコラウスの日(Saint Nicholas of Myra)12月6日ミュラ(Myra)の聖ニコラウス(Saint Nicholas)(270年頃~343年)ミュラ(現トルコ)の司教であったニコラウスの伝説は、日本人のほとんどは聞いた事も無いと思うが、それこそが、クリスマスのブレゼントの由来となる話なのだ。前にも触れているが、どうも12月25日に子供達にプレゼントをする習慣は、実は新大陸のアメリカから始まったと言われている。つまり、本来は12月6日がプレゼントデー。それは聖ニコラウスに因んだイベントであったらしい。3世紀、貧しさで身売りされそうになった三姉妹の為に、聖ニコラウスは彼女らの家に干してあった靴下の中に金貨を入れて救ったと言う。靴下や長靴にプレゼントを入れると言うルーツはその靴下にあったらしい。だからオランダでは25日よりも、聖ニコラウスの日である6日にプレゼントをもらうのがポピュラーだそうだ。12月6日が聖ニコラウスの記憶日(命日)だから。因みに、プレゼントの慣習は、オランダ移民によりアメリカへ伝わったとされる。聖ニコラウスはSaint Nicholas→Sinter Klaas(オランダの発音)→オランダ訛りでSanta Clausとなったと言う説もある。が、ちょっと疑問なのは、アメリカに伝えたオランダ移民は間違いなく清教徒であろう。つまりプロテスタントである。プロテスタントは聖人崇拝は無いはずなんだけどな (・_・?) ハテ?※ 2009年12月「ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)」では聖ニコラウスの日についても書いています。クリスマス歳時記 次回につづきますが、その前にクイズです。下の聖母子は誰の作品でしょう超有名人ですよ。
2017年12月21日
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タイトルとカテゴリーを変更しました。今回はちょっと趣向を変えて、ウイーン美術史美術館所蔵からちょっと怖い絵画を紹介。製作者は超有名なバロックの巨匠、フランドル出身のルーベンスです 合わせて紹介する写真は以前紹介した事のある所ですが、今回は視点を変えての紹介となります。ところで、遅れた理由はもう一つ。今回も紹介にあたり、ルーベンスの来歴と、その絵画のモチーフとなった伝説(ギリシャ神話)を再度調べていたら、例によって、どんどん方向性が変わってきてしまいました。最初、一枚の絵画から始まったテーマは、ヴィザンティン帝国の創建の時代に遡り、ヴィザンティオンに帝国の首都を置いたコンスタンティヌス1世に辿りつき、さらに彼が造った? ローマ帝国正規軍の紋章ラバルム(Labarum)に行きつきました。しかし、ラバルム(Labarum)に興味はあるが、今回は断念。全くもって今回の内容にはひっかからないのですそなこんなで、どこかで必ずやりたいテーマがまた一つ増えました。ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首ルーベンスのメドゥーサ(Medousa)色調絵画バルール(Valeur)メドゥーサ(Medousa)は何者か?イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)のメドゥーサイェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)の建設者ルーベンスのメドゥーサ(Medousa)とりあえず、ウイーン美術史美術館所蔵の絵画から紹介。The Head of Medusa 1617年 ~1618年ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens) (1577年~1640年)ヘビは動物専門の画家フランス・スナイデルス(Frans Snyders)、(1579年~1657年)作品はギリシャ神話の怪物メドゥーサ(Medousa)がペルセウスに退治され首を落とされた所のようです。ゴルゴーン(Gorgōn)3姉妹のうち、不死身で無い3女、メドゥーサはペルセウスの宿題の為にターゲットにされます。そもそもはペルセウスの母ダナエに言い寄るポリュデクテスに彼女の首を差し出す約束をしたからでした。メドゥーサ(Medousa)は髪が蛇,見るものを石にする目を持つ。(もとは普通に美女だったらしい。)ペルセウスはアテナイ神とヘルメス神の助けを受けて彼女を捜索して殺し首を持ち帰る事に成功。その首は死んでもまだ効力を発揮。最終的にはポリュデクテスを石にした後にアテナイ神に献上。アテナイ神はメドゥーサの首を自分の山羊皮の楯アイギスにはめ込み最強の盾にした。小品ながら非常にドラマティックに描かれている。ヘビやファイア・サラマンダーは専門家のフランス・スナイデルスの筆であるが、メドゥーサの見開かれた眼と総合演出はさすがルーベンスである。特に押さえられた配色の、しかも暗色の中でメドゥーサの青白い顔の色は取り分け目立つ。いつもなら、ルーベンスの女性は赤色を刺した暖色で、プルプルの肌つやを持つのが特徴だ。ここでは怪物で、なおさら死人なので赤みこそ無いが、確かにルーベンスなのだ。どこの誰のオーダーで描かれたのかは解らないが、異質ながらも引きつける魅力は小品でも十分ある。さすがルーベンスなのか? さすがメドゥーサなのか? 因みにギリシャ神話では、メドゥーサの血についての伝説が幾つかある。1. メドゥーサの首からあふれ出た血から、空駆ける天馬ペガサス(ラテン語|Pegasus)が生まれた。2. 切り落とされたメドゥーサの首から滴り落ちた血はペルセウスによって2つの瓶に集められ、アテナイに献上された。右側の血管から流れて右の瓶に入った血には死者を蘇生させる効果が、左側の血管から流れて左の瓶に入った血には人を殺す力があったとされる。色調絵画バルール(Valeur)これらはバルール(Valeur)と呼ばれる技術が使われた作品に分類されそうだ。バルール(Valeur)を説明するのは難しいが、構図(配置)や色の明暗(色調)による視覚効果を狙ったりと、五感に訴えた表現作品と言える。巨匠だからこそ怪物の迫力が伝わるバルール(Valeur)である。その成功によりこの絵の完成度は増している。1620年代から1640年代にかけて、原色を用いず、色彩を抑制(淡褐色などごく限った色)。その中で明暗の変化を利用して雰囲気を出した作品がフランドルで流行している。※ この時期は服飾においても、白と黒の地味な服装が流行。風景画の中にも海と空だけの海景などまさに単色の世界が出現。その新傾向の絵画は、色調絵画とか、単色様式とか日本訳されているようだが、これがバルール(Valeur)作品をさしているのだろう。またこれらに共通するのが、断片的作品。広大な景色からごく一部分を抜き取って表現したもの。「メドウーサの首」はまさしくそう。本来なら、メドゥーサを退治するペルセウスが画面にいても良いし、何よりメドゥーサの体全体があっても良い。これら限られたアイテムで表現する効果は確かに面白いが、実は何より、効率の良い仕事なのである。膨大化する絵画需用をこなす為に編み出した妙案かもしれない。従来の大きな作品では製作時間がかかりすぎる。これらは時短作品でもあるのだ。写真左下のファィア・サラマンダー因みに2012年06月「グエル公園(Parc Guell) 2 (グエル公園のファサード) 」で紹介したファサードを飾る謎のトカゲの正体がこれ。やはり欧州には多く生息しているようですね。リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー)メドゥーサ(Medousa)は何者か?ところで、メドゥーサ(Medousa)は、海の神ポルキッュスの娘。そもそもは美しい髪と瞳を持つ絶世の美女だったそうだ。彼女はアテナイ神と張り合い彼女の逆鱗に触れて醜い、おぞましい怪物の姿に変えられたと言う。美しい髪は蛇に。美しい瞳は見る者を石に変える邪眼(じゃがん)に。別の伝承では、さらに歯はイノシシのごとく、顔は醜悪。黄金の大きな翼を持っていたとも・・。それはアテナイ神の呪いである。ギリシャ神話は読んでいて、つくづく神は傲慢で我が儘だと思っていたが、結構たちが悪い気がする。メドゥーサは洞窟に潜んでいただけなのに、わざわざ探されて退治されてしまうのである。ちょっと、いや、かなり気の毒だ。※ この話は英雄物語(ペルセウスの物語)に書かれている。でも本来のメドゥーサ(Medousa)はギリシャ以前の時代に土地に土着していた豊穣の神様として、東地中海からエーゲ海に至る地域で信仰されていた女神だった。以前紹介したナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)はメドゥーサ(Medousa)の目玉の形をした護符。アレクサンダー大王の没後にヘレニズムの文化が始まったとされるが、それ以前からメドゥーサ(Medoūsa)信仰は存在していた。それはギリシャの神々の体系がつくられるよりも前だったと推測できる。実はメドゥーサについては、以前触れていた事がある。2009年05月「地下宮殿とメドゥーサ (Medousa)」2009年05月「メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 1」2009年05月「メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 2 パルテノン」※ 若干読みにくい所を書き換えました。以前は毎日更新していたので内容も浅いですが・・ この際、メドゥーサ (Medousa)を掘り下げて、以前メドゥーサ寝殿に飾られていたかもしれないメドゥーサ像を再び紹介する事にしました。それは以前紹介した地下寝殿に現存する部分ですが、視点を変えて見てみてください。※ 実はダン・ブラウンの小説「インフェルノ」で思いだしDVDで確認しました。遺跡の内容は今も変化無し。「インフェルノ」ではクライマックスに地下宮殿で激戦している。イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)のメドゥーサ5世紀にどこからかもたらされた石として、事もあろうに地下貯水槽の柱に転用されてしまった悲しいメドゥーサのヘッドの話です。それは現在のトルコの首都イスタンブール。かつてのコンスタンティノープルに設置された古代ローマの地下貯水槽(イェレバタン・サライ ・Yerebatan Sarnici)に置かれています。地下貯水槽とは言え、美しさでは世界一と言える列柱廊の並ぶバシリカ造りと言う事から地下宮殿 (イェレバタン・サラユ・Yerebatan Sarayı)とも呼ばれ、また英語ではバシリカのある貯水槽(バシリカ・シスタン・Basilica Cistern)で知られています。それは1985年「イスタンブールの歴史地区」としてユネスコ世界文化遺産に登録された遺跡です。Yerebatan(地下)、Sarayı(宮殿) と言いわれる理由が解る。まるで大聖堂の中の光景。でも、ここはイスタンブールの地下に掘られた貯水槽なのである。(現在は使用されていないが・・。)場所はアヤ・ソフィアに近いイエレバタン通り。ここはビザンチン時代のセブンヒルズ(7つの丘)の一つで、コンスタンティヌス帝が都を築いた時の最初の丘にあたる。当初の丘の中心には公共広場(Stoa Basilica)(アウグストゥス大広場)があり、その地下にそれは造られた。給水施設が近代化された時に、ここの使用はとりやめ、今はただの池となってしまった。1960年代に天井近くまであった水は抜かれ清掃され、今は観光と時々コンサートなどのイベントが催されている。イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)の建設者最初にビュザンティオン(コンスタンティノポリス)に給水施設を造ったのはローマ帝国を再統一したコンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)とされる。皇帝は330年、都をローマから東方の交易都市であったアナトリア半島のギリシアの植民都市ビュザンティオンに遷都すると、そこに古代ローマの街と同じように街造りを進めた。※ ビュザンティオンは後にコンスタンティノポリスとなり、現在はイスタンブールと名を変えた。※ 東側のローマ帝国は後に東西に分裂するが、旧都市名ビュザンティオンから東ローマ帝国はビザンティン帝国とも呼ばれる。ローマの街造りは上下水道に始まる。そして浴場の建設ははずせない。水は黒海の近くから運ばれ、かつてはイスタンブール大学のあった場所に90万平米の大型貯水槽が造られ、一端そこに貯めてから宮殿やアヤ・ソフィアに供給された。当初は広場に大聖堂もあったらしいが、476年火災が起きた。(後に聖堂は再建)そしてユスティニアヌス1世 (Justinianus I)(483年~565年)(在位、518年~527年)の時代に貯水槽は拡大される。それが今に残る地下貯水槽(イェレバタン・サライ ・Yerebatan Sarnici)である。長さ140m。幅70m。天井を支える8mの花崗岩。柱は4mおきに28本ずつ12列。全部で336本。それぞれの柱には細かい模様が彫られ、コリント式の柱頭が付いている。ここの建築には7000人の奴隷が使役されたと言う。そのバシリカ構造と壮観さから地下宮殿(イェレバタン・サラユ ・Yerebatan Sarayı)と呼ばれるようになったと言う。1453年にオスマン帝国が征服され、現代に至るまこの給水施設はトプカピ宮殿に水を供給したと言う。泥水5000トンが抜かれ、足場が組まれ、一般公開されるに至ったのは1987年。この建設の資材は再利用なのである。実はローマの都市は案外リサイクルで成り立っている。ユスティニアヌス1世は黒海沿岸の城塞を取り壊し資材を運んだ。また、近くのヘレニズム時代の遺跡からも資材を調達。かくしてどこからかここにとんでもない物が運ばれたのである。メドゥーサ(Medoūsa)の首実はこれは写真を逆さにしたものなのである。本当の姿は下。全体を見せると、こんな感じに置かれている。置かれている・・・と言うより、実際はこんな使われ方をしている・・と言う事に着目。またこんな横倒し使用のもある。メドウーサの顔が踏みつけられたかのような粗雑な扱いにビックリするが、これは当然メドゥーサ信仰の無い者達の仕業である。この置き方は敢えてサイズ調整の為だと前回書いたが、悪意があるのは確か。コンスタンテイノポリスを造ったコンスタンティヌス帝)(在位:306年~337年)は初めてキリスト教を公認したローマ皇帝である。正確に言えば、あらゆる宗教の信仰を認めた皇帝なのである。だから彼の治世には以前のヘレニズムの時代の神様も、同様に大事にされていたはず。実はユスティニアヌス1世 がここの建築をするまでの間にキリスト教がローマ帝国の国教になったのである。392年、テオドシウス1世は(Theodosius)(347年~395年)(在位:379年~395年)キリスト教を東ローマ帝国の国教と制定。異文化の神殿破壊や遺跡の排除がこの後に始まったのだと推測される。ここを建設したユスティニアヌス1世 (Justinianus I)(在位、518年~527年)の時代には他文化の遺跡等を破壊する事は何でも無い事だったのだろう。上に向きを変えて、気付いた事がある。口が半開き。もう一つは口を閉じていた。まさかこれは・・。神社の境内にある狛犬。あるいは寺の門前の仁王像に同じ。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像なのではないか?もし、そう解釈するなら、この像は神殿か何かの入口に飾られていた像だった可能性が・・。ユスティニアヌス1世は黒海沿岸の古い城塞を壊してここの資材の一部とした。ひょっとするとその城塞の入口には一対のメドゥーサ(Medoūsa)の顔がはめ込まれていたのかもしれない。ついでに気になっていた柱について・・。中には変わった模様の柱がある。これについては目玉飾りで被われた柱と解釈。ここを建設した時に使役された奴隷が7000人?古代のテキストでは、列の涙が貯水槽の建設中に死亡した何百もの奴隷たちに敬意を表していると記されているとか・・。しかしキリスト教で「奴隷に敬意を現す遺物」を造る事は考えられない。単純に、これもどこかの遺跡からのリサイクル(柱)と思う。それにこの柄、これは涙と言うより、まさにナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)そのものではないか?つまり、これらはメドゥーサ(Medousa)の目玉そのものと解釈した方が納得がいく。目玉の付いた柱は、どこかの寝殿から持って来た物の可能性は高いが、護符として、わざとそこに建てた可能もあるかも・・。参考にうちのナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)の写真左のは縦11.5cmあります。トルコのお守りで、守るものの対象に合わせて目玉の大きさを選ぶのが良いとされています。詳しくは前に書いたのを見てください。メドゥーサ(Medoūsa)の首 おわり
2017年12月04日
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今回のクラナッハ作品を出すにあたり、絵画のタイトルを調べる為にインターネットで各美術館やクラナッハを検索。その中で「Lady Justice」と言うタイトルの素敵な絵を見つけた。パブリックドメインになっていたので紹介したくて、でも美術館や来歴を確認しようとしてちょっと奇妙な事が起きた。書かれている美術館そのもののホームページ見つからない。写真提供者の氏名も公表されていない。その作品のタイトルを検索しても、同じ提供写真にしか行き着かないのだ。(・_・?) ハテ?私も美術書は今まで散々見ているけれど過去にそれを見た事は一度もない。公開されていない絵? と言う事は可能性あるが、それにしてもその画像だけはいろんな人が利用しているにもかかわらず、誰も作品を直接見たふしがない。それ以外の写真が全くないのだ。そもそも、クラナッハの工房では速筆して納品する為に、同じ素材の使い回しが多い。その為のテンプレートまであったらしいのだ。だから同タイトル作品は複数存在するし、若干差し替えた似て非なる作品もできあがる。つまりクラナッハ作品はたくさんあるけれど、構図や物語などで分類していくと、人物が違うだけで同じ作品だったり、ちょっとポーズを変えて神話から聖書の話に持って行くなどの技が使われている。そんな作品をクラナッハでなく、弟子達が量産していたので作品数は多いのだ。もちろん最後にクラナッハのチェックは入るが・・。確かに「Lady Justice」はクラナッハの要素満載の絵である。ただしクラナッハの作としてはできが良い感じがする。整いすぎている感があるのだ。絵柄から発注者が裁判所の関係ではないかと想像できるが、それならよけいに来歴があってしかるべきだ。2日かけてあれこれ探してたどりついた結論は「ちょっと怪しいかも・・。」である。※ 作品(「Lady Justice」)は気になるでしょうから最後にのせておきます。クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)Venus en Amor(ヴィーナスとアモール)アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)のコレクション16世紀、優秀な芸術家は宮廷芸術家として各地の王侯君主の宮廷に招かれ、君主の賓客、廷臣、友人、年棒付きの専任芸術家として優遇され、地元の組合(ギルド)からは解放された自由な立場が与えられたそうだ。※ 石工ギルドも地元組合(ギルド)に縛られない特権を持っていた。ティツィアーノのように貴族の称号を与えられる事もあったようだし、ラファエロなどは彼自身が王侯の貴族のような振る舞いをしていたと言う。クラナッハ(Cranach)は1508年ザクセン選帝侯フリードリッヒ3世より盾形紋章(Escutcheon)を与えらている。(その時点での爵位は付されていない。)1508年はクラナッハがネーデルランドで少年時代のカール5世の肖像画を描いた年だ。ザクセン宮廷からの名代で出向いたからか? 宮廷画家としてのクラナッハの順応は素早かったようだ。クラナッハ(Cranach)は絵だけで無く、宮廷衣装や近衛兵の武具を飾る紋章のデザインもしているし、この頃は古代神話を題材にした作品が多かったようだ。もちろんそれらは自身の工房で多作され、フリードリッヒ3世の依頼をはもとより、地元教会祭壇画などの依頼も驚くほどのスピードでこなしていたと言う。そんな所から「速筆の画家」とあだ名されたらしい。Venus en Amor(ヴィーナスとアモール)ベルギー王立美術館(Musées royaux des beaux-arts de Belgique)Venus en Amor(ヴィーナスとアモール) ※ アモール=キューピッド 1531年Cupid complaining to Venus(ヴィーナスに不平を言うキューピッド)と言う事をテーマにした寓意画だそうだ。何とも魅惑的な色っぽいヴィーナスである。クラナッハ独特の小さなバランスの悪い胸が気にもならないほど。女神を裸体で描くのは北方では初の試みだったそうだ。しかし、南が完璧なプロポーションと近寄りがたい美を古典の女神の姿に求め表現したのとは異なり、クラナッハのそれはヌードとしてのエロティックさ満載だ。母である美の女神の美しい肢体は解剖学的にはおかしいと思う。小顔で手足は長く、かつ、お腹がポッコリと出ていると言う不思議なこだわり。そして書き添えられている薄いベールは、かつてキリストにふんどしをつけた画家のような隠しではなく、敢えて強調する為の策だったそうだ。また、当世風の羽根飾りのつば広の帽子に大きな首回りのアクセサリーは、何も身にまとっていない事をより強調した効果? でもあるのだろう。クラナッハが描いたのは理想美ではなく、官能を刺激する女性のエロティシズム(eroticism)? なのかも。ロンドンに同じ構図の絵があり、そちらのタイトルではVenus mit Amor als Honigdieb(ハチミツ泥棒アモールとヴィーナス)になっている。それにしても神の子を抱くマリアよりもリアリティーがある母子はこちらかもしれない。この絵はナポレオンの意匠の蜜蜂を調べていた時に見つけた絵だ。(自分で撮影してきた写真です。)余談だが、この額縁にBalon(バロン) クラナッハと書かれていた。クラナッハは貴族の仲間入り? 男爵に昇格?子供なのにやけに足が長いキューピッドである。ヴィーナスの足も長がすぎるが・・。クラナッハもそう言う意味では現実的でない体を描く。ルネッサンスが求めた究極の美の形とも全く違うが・・。ナショナル・ギャラリー ロンドン(National Gallery London)Venus mit Amor als Honigdieb(ハツミツ泥棒アモールとヴィーナス) 1537年こちらはウィキメディァから借りて来た写真です。(パブリックドメインで公開)流行の帽子とアクセサリーを身に付けるヴィーナス。6年経過して帽子が派手になりポーズも大胆になっている。でもベルギーの作品の方が色っぽい。バックには前よりも彩色豊にはっきり景色が描かれている。多分明らかに依頼者の意向が反映された絵と思われる。割に派手な彩色は、まさか家具の一部でも無ければ使わなさそうだが・・。教訓が込められた作品であるが、裸婦をメインにしているので今回はあまり触れない。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)のコレクションそれよりも驚くのはこの絵の来歴だ。この派手めな彩色絵画の来歴を今ナショナル・ギャラリーは必死で追い、一般から情報を求めていると言うなぜ?それはこの絵がヒトラーが所有していたコレクションの中にあったらしい事が判ってきたからだ。(ヒトラーは古典派嗜好であった。)今はまだ裏付け取りをしている最中らしい。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)(1889年~1945年)は「ナチス・ドイツの総統」と表現した方が早いが、正式には国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )の総統である。以前2016年「ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション」ホフブロイハウス(Hofbräuhaus)の中ですでに触れたが、もともと画学生であったヒトラーは名画のコレクターであった。コレクターと言うと体裁は良いが、実際は権力により集めまくったコレクションである。(とはい言え画家になる事をあきらめても、なお、求めた芸術への執着には感服する。)※ リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション※ リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)前出、ヒルデブラント・グルリット(Hildebrand Gurlitt)(1895年~1956年)は美術品の審美眼と人脈の広さをヨーゼフ・ゲッベルスに買われてアドルフ・ヒトラーの為の美術館のディーラーとして働いていた男だ。謎とされているのが1909年~1945年。ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring) (1893年~1946年)の名前も出て来ている。件(くだん)の「Venus en Amor(ヴィーナスとアモール)」の絵がヒトラーのコレクションの一部であった事が間違いなく証明されるなら、この絵には「ヒトラー(Hitler)のコレクション」と言う輝く来歴が付与され、もともと価値ある絵であるが、もっともっと高額の絵画に変身する事になるだろう。(ナショナル・ギャラリーが必死になるのも当然ですね)ウイーン 美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)ロトと娘いやらしそうな年寄りの行為により旧約聖書の話ながら卑猥さを感じずにはいられない。内容も父との近親そうかんである。※ 漢字で入力できませんでした。理由は子孫を残す為に姉妹で唯一の男である父の子を求めたのである。絵は父が酒に酔わされて娘に仕掛けられている所である。因みに二人はやがて子供を出産。長女の息子「モアブ」はモアブ人の祖となり次女の息子は「ベン・アミ」はアモンの人の祖となった。なんか本当に生々しい感じがします。Lady Justice最後に冒頭話が及んだ出所の怪しい件(くだん)の裸婦。「Lady Justice」を紹介Amsterdam Fridart Stichting(アムステルダム フリダート財団) 1537年Lady JusticeJustice as a naked Woman with Sword and Scales(剣と秤を持つ裸の女性としての正義)Lady Justiceは、裁判所のシンボルに置かれている審判の女神像の原型である。16世紀頃から目に目隠しがされる。クラナッハの要素満載であるが、実はクラナッハにしては美し過ぎるし完璧過ぎるのがちょっとひっかかった。剣の下方に前回紹介したクラナッハのサインも入っているようだ。果たしてこの絵は、そもそも本当にあるのか?クラナッハ(Cranach)おわります。案外興味深い画家でしたね。※ 「クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)」ではクラナッハが画家以上に実業家であった側面を紹介しています。特にマルティン・ルターとの関係は驚きです。リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)
2017年04月02日
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ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)については、美術館紹介の時に度々載せてきていますが今回撮りためていたクラナッハ官能の裸婦像を中心にまとめて紹介しようかと思います。(全2回になりました。)※ 写真の9割は自分で美術館で撮りだめしていたものです。ミュンヘン アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)ウイーン 美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)ウイーン 造形美術アカデミー (Gemäldegalerie der Akademie der bildenden Künste) ベルギー王立美術館(Musées royaux des beaux-arts de Belgique)きっかけは2017年1月「ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠」の時に見つけた「蜂に刺されるキューピッド」の絵でした。この絵には別の意味で非常に興味のある話題が秘められていました。正直クラナッハは好きな画家にランクしていなかったので、(イタリア絵画のが好き)北方系は今まで興味を持って見る事はほとんどありませんでした。が、オーストリア、ドイツ、ベルギーなどの美術館にはとにかく作品が多数。改めて興味を持ってクラナッハと言う画家を確認すると、クラナッハの作品は宗教画の中でさえも、あふれる独特なエロティシズム感。大人の邪(よこしま)な目を使って覗(のぞ)くと見えて来る官能美。そこに行き着く?そして驚いたのは画家自身の画家以外の才能でした。クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)ザクセン選帝侯の宮廷画家クラナッハクラナッハ家の紋章とモノグラムのサインマルティン・ルターとの親交とビジネスルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)(1472年~1553年)は北方ルネッサンス期の画家です。※ この場合の北方とは、アルプス以北のドイツやネーデルランドを指したが、広義ではイタリア以外の国でのルネッサンスを総じた呼称。当時神聖ローマ帝国内であったドイツのフランケン地方クラーナハで画家で工房を持つ父の元に誕生。名前のクラナッハ(Cranach)はそこに由来している。同時期のドイツの画家としては、デューラーやホルバインに並ぶ大御所である。自身の工房でも大成功を収め、ヴイッテンベルクの宮廷画家としても活躍、かつ、資金の運用にいろいろ起業しているやり手なのである。特に、宗教改革においては画家以外のビジネスで大成した実業家でもあった。(後で詳しく紹介)ウイーン 美術史美術館(Kunsthistorisches Museum) Adam and Eve(アダムとエヴァ)先ず、お気に入りの一枚から紹介。クラナッハ(Cranach)の裸婦にしてはシンプルに美しく、多くの画家がアダムとエヴァを描いているが、宗教目線をはずして、最も美しいアダムとエヴァだと気に入った作品である。創世記、天地創造によって最初に神により創作された人がAdam and Eve(アダムとエヴァ)である。このタイプの絵の形はおそらく祭壇画の蓋絵(ふたえ)として描かれたのではないかと想像する。ウイーン 美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)Paradise(楽園) Garden of Eden(エデンの園) 1530年創世記、天地創造の一幕Garden of Eden(エデンの園)背景は神がアダムを創作し、エヴァを創作し、二人がヘビに騙されて木の実を食して神の怒りをかい楽園を追放される姿が描かれている。下は二人に説教している図最初に紹介したアダムとエヴァの制作年代が不明であったが、ひょっとしたらこの絵とモデルが一緒かもしれない。ミュンヘン アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) Goldenes Zeitalter(黄金時代) 1530年※ この絵はすでに「アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)」で一度紹介していますが、敢えて載せました。ギリシャ神話から来る黄金時代は遙か昔、人は神々と共に争いのない素晴らしい世界で暮らしていた。と言う理想的世界を示している。働かずとも、食となる木の実がたわわに実る楽園で人々は毎日愉快に踊って暮らしていると言う図なのだろう。黄金時代はシンプルに表現すると「最も素晴らしかった時代」と表現できる。最近では何かの最盛期を指して「〇〇の黄金時代」と例えられる言葉だ。面白い事にこの絵が描かれた1530年と言う時代はまさにクラナッハの黄金時代なのである。ザクセン選帝侯の宮廷画家クラナッハイタリアで起きたルネッサンス(Renaissance)がアルプスを超えるまでには時間を要した。2016年2月「アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラー」でイタリアで勉強したきたデューラーがドイツで最初のルネッサンスの画家となったと紹介したがデューラーが神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に仕え宮廷画家になるのは1512年の事。一方ルーカス・クラナッハは画業は父の工房で学び、30歳くらいまで父を手伝っていた事が確認されている。逆にその頃のクラナッハ作品は無い。(工房では父の名前で作品を出していたと思われる。)以前、ドイツでは一人前になる前に人生の意義を探求する為の遍歴の旅に出る慣習があると書いたが、1501年頃からウイーンに赴き人文学者のサークルに入って思想の面からイタリアルネッサンスの理念に鼓舞したと言われている。ウイーンは文化の中心地であり、人脈作りもあったのかもしれない。画家としては1503年にはすでに一流印刷会社の下絵を描いていて、この頃ザクセン選帝侯の目にとまった?1505年にザクセン選帝侯フリードリッヒ3世(Friedrich III)に請われ宮廷画家としてヴイッテンベルク(Wittenberg)へ向かった。以降クラナッハは3代のザクセン選帝侯に仕える事となる。(42年間? )クラナッハが仕えたザクセン選帝侯3人フリードリッヒ3世(Friedrich III)(1463年~1525年)(在位:1486年~1525年)ヨハン(Johann)(1468年~1532年)(在位:1525年~1532年)ヨハン・フリードリヒ(Johann Friedrich )(1503年~1554年)(在位:1532年~1547年)裸婦ではないが・・クラナッハぽい絵として紹介。ウイーン 美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)Die Prinzessinnen von Sachsen(ザクセンの王女)Sidonie, Aemilia ,Sibylle 1535年Sidonia (1518-1575) Emilia (1516-1591) Sibylla (1515-1592),描かれた1535年はヨハン・フリードリヒ(Johann Friedrich )の治世。3人の王女はヨハンの娘。ヨハン・フリードリヒの姉妹と思われる。※ クラナッハをスカウトしたフリードリッヒ3世には正妻がいなかった。次代は弟ヨハンが継いだ。クラナッハの女性像はデューラーがイタリアルネッサンスから学んできたような理想のプロポーションとは程遠い。良く言えば個性的。悪く言えば田舎臭いかもしれない。(当時は新鮮だったのだろうが・・)でもそれがクラナッハらしさであるのは間違いない。面白い程個性的だ。クラナッハの黄金時代、クラナッハらしい特性の一つ。1530年以降? 当時流行の派手なアクセサリーと帽子を付けた女性像を描き始めている。例え裸婦でも装身具を身に付けさせたクラナッハのねらいは?ウイーン 造形美術アカデミー (Gemäldegalerie der Akademie der bildenden Künste)Lucretia(ルクレティア) 1532年上の絵の左下に黄色で囲んだ所にクラナッハのサインが入っています。アクセサリーを身に付けていないのでちょっと疑問だけど・・。下も以前紹介した絵であるが、上と同じくサインの部分を囲みました。ミュンヘン アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) Lucretia(ルクレティア)製作年代が不明であるが、ザクセンの王女と同じアクセサリーを付けている事から推察して1532年~1535年あたり?このLucretia(ルクレティア)の正確なタイトルはDer Selbstmord der Lucretia(ルクレティアの自殺)だ。これについては以前デューラーの所で説明済み。Lucretia(ルクレティア)やJudith(ユーディット)はクラナッハだけでなく多くの画家がモチーフに選び数多くの作品が残されている。人物の顔がまばらな事からモチーフを利用した肖像画の特性を持った絵なのかもしれない。※ ユーディットの場合たいてい服をきている事から奥方。裸婦のルクレティアは愛人の肖像画?だとしたらルクレティアは裸婦を描く為の方便に利用された絵かもしれない。クラナッハ家の紋章とモノグラムのサインクラナッハ家の紋章 王冠を被ったドラゴンが指輪を加えている図?ウィキメディァからパブリックドメインになっていたのを借りてきました。赤の部分は手製で書き込みました。この図を簡略化(上の赤で書いた部分)したものをサインとして晩年のクラナッハは絵に描き込んでいたそうだ。(実際絵を拡大して幾つかからそれらを発見した。)前にデューラーのサインについて紹介した事がある。1500年以降の作品にはデューラーのサインマークが記されるようになり、やがてそれは北方ヨーロッパの画家達も真似る所となった。ウイーン 美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)※ 全てに入っているわけではない。マルティン・ルターとの親交とビジネスザクセン選帝侯の城があったヴイッテンベルク(Wittenberg)は、宗教改革の爆心地である。それはクラナッハを呼んだフリードリッヒ3世(Friedrich III)がヴィッテンベルク大学を創設し、1508年、マルティン・ルターを教授として招いていているからだ。下は以前紹介した事がありますが、クラナッハ作のマルティン・ルター夫婦の肖像です。ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli) 1529年ルターは修道士であったが、自身でおこなった宗教改革後、まさに新約聖書の発行後にカタリーナ・フォン・ボラという15歳年下で26歳の元修道女と結婚している。1525年6月、41歳の時だ。ルターとの親交は1511年頃にはすでにあったようだ。祭壇画の制作も増えていた時期だが、肖像画の依頼も増えマルティン・ルター(Martin Luther)(1483年~1546年)自身の肖像画も多く残されている。アルテピナコテークの所で、クラナッハとルターについてはちらっと触れたが、二人が親友であったのは間違いない。1517年、当時ヨーロッパ最大の聖遺物を有していたヴィッテンベルク(Wittenberg)の教会。ヴィッテンベルク大学神学教授であったルターはヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけ、宗教改革の口火を切った。その後ルターは神聖ローマ帝国のヴォルムス帝国議会で異端として破門を受ける事になる。マルティン・ルターが保護を求めたのがザクセン選帝侯である。時のフリードリッヒ3世は彼をヴァルトブルク城(Wartburg Castle)内にかくまいルターはそこで聖書の翻訳活動をしたのである。それが世に有名なルター翻訳の新約聖書刊行である。(1522年9月)以下にはルターの新約聖書発刊に関する記録を記した。1522年9月、ルターがラテン語からドイツ語に翻訳した「新約聖書」が大版で出版。(9月聖書)同年テクストが改稿され挿絵も訂正。1524年モーセ五書・歴史書・詩書1526年ヨナ書、ハバクク書、1528年ゼカリヤ書、イザヤ書1529年、新約聖書が基礎から校正され、1530年には最終的な編集。1529年ソロモンの知恵1530年ダニエル書、エゼキエル書の注釈付き1531年詩篇が最終的な形で完成。1522年9月に新約聖書が印刷されてから、テクストは度々改稿。また少しずつ内容が増えて加わり新約聖書だけでもどれだけの印刷を要したか。驚くなかれ。これらは全て独占で印刷されていた。この新約聖書初版を印刷した会社こそが、ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)の起業した会社だったのである 1525年、クラナッハは宮廷に出入りする宝飾家クリスティァン・デーリングと共に印刷会社設立の許可をフリードリッヒ3世より取り付け、ルターの新約聖書の独占印刷権を獲得したと言うわけだ。上に示したように続編も多数発行され、膨大な印刷を行った為にヴイッテンベルクの他の印刷会社は全て消え、そればかりか印刷でトップであたライプツィヒを抜いてヴイッテンベルクは出版の中心地になったと言う。もともと事業家で製薬の会社なども持っていたクラナッハには、さらに莫大なお金が舞い込み、1528年の所得申告ではヴィッテンベルクを代表する金持ちになっていたそうだ。1534年ルターは旧約聖書の出版も行うのであるが、クラナッハは1533年に会社を売却している。先ほどクラナッハの黄金期と言ったのは地位も名声もお金も手に入れたと言う意味があったからである。さらに加えるとクラナッハは1537年から3期(9年?) ヴイッテンベルクの市長を勤めている。もはや画家としての才よりも事業家としての才能の方がまさっていたのではないか?と、色々思ったわけだ。クラナッハ(Cranach)の裸婦 つづくリンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)
2017年03月29日
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何やら世界が不穏になってきた昨今です。全ては新アメリカ大統領のドナルド・ジョン・トランプ(Donald John Trump)(1946年~)氏のけんか腰の外交のせいです。これは彼のビジネススタルなのでしょうか?本来対等であるべき外交にまでこんな高圧的な、しかも言いがかりのイチャモン付けて失礼にもほどがある・・と思う所です。まして入国制限まで付けられた7か国(イラク、シリア、イラン、リビア、ソマリア、スーダン、イエメン)にとっては怒り心頭でしょう。テロ対策とか言ってますが、実際911に関わったのにサウジやアラブが入っていないのが腑(ふ)に落ちない。(特に911の犯人19人のうち15人がサウジ国籍。)またトルコやインドネシアだってリストに入りそうなのに・・。どうもこのけんか先のリストはトランプ氏のビジネス先やパートナーが意図的に? 除外されているらしい。アラブ首長国連邦(UAE)にはトランプ氏の所持するゴルフコースと豪邸があり、サウジアラビアではトランプ氏の同国ホテル事業参入があるらしい。トルコには彼の象徴であるトランプタワーがボスフォラス海峡前に建ている。(マニラにもトランプタワーあり。)エジプトとインドネシアでは会社複数保有。ちゃっかり自分の都合を除いてテロ対策と言いはっている所があざとすぎる気がします。ぜんぜんフェアじゃないそれにしてもアメリカ国民の半数がこれら入国対策に同意していると言う電話アンケートの結果には驚いた。寛容で常に正義・・と、私達はアメリカ人を過大評価していたのかもしれない。さて、今回は前回載せきれなかったフォンテーヌブロー宮殿のナポレオンや王妃の居室を紹介します。但し、写真がかなり古く(2005年~2010年の複数日に撮影)現在のものとは異なる所もあるかも・・。ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)ナポレオンの居室帝政様式・アンピール様式(style Empire)皇妃の寝室(マリーアントワネットのベッド)ナポレオンの図書館前回ちょこっと紹介しているが、フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)はブルボン王家からの宮殿ではあるが、ナポレオンが改修して住まいとした事でナポレオン時代が偲べる宮殿でもある。※ 住人としてはナポレオン3世が最後であるが、彼はプローニュにあるサン・クルー宮殿に好んで住んでいたのでここはナポレオン1世当時の姿が残されているようだ。ナポレオンの寝室壁にはナボレオンのNをモチーフにした意匠が・・。下はナポレオンのベッド何だかとても小さく見えます。そう、ナポレオンは身長168cmと小柄。とは言え、当時のフランス人の身長としては平均らしいです。最後の住人フォンテーヌブロー宮殿はナポレオンの第一帝政の時に修復され家具調度が新たに購入されています。それ以前の王達の調度はフランス革命後に盗まれ、荒らされ、売り飛ばされたりと城はかなり荒廃。ナポレオン失脚後は一時王政復古などもあったが、最終的にナポレオンの甥であるナポレオン3世が最後の住人となっている。(近年の政治的諸事情は除く)テキスタイルなどはもしかしたら近年修復されて変わっているのかもしれませんが、家具調度についてはナポレオン時代の帝政様式の物で間違いないと思われます。ナポレオンの執務室(小寝室)ナポレオンは多くの時間をこの執務室で過ごしていたと言う。その為だろうか? 1811年に天蓋付きの小寝台まで置かれた。ちょっと休もうか・・と言う時に良い感じのサイズ 後ろの絵は移動できなかったのですかね。下もナポレオンの私室全てナポレオンの使用した当時の物。この部屋でナポレオンが退位の意志を決めたと言われる事から「退位の間」とも呼ばているらしい。帝政様式・アンピール様式(style Empire)新古典様式の延長にある様式であるが、ナポレオンの帝政(Empire)と言うよりは、古代ローマ帝国の帝政(Empire)時代を意識したデザインとなっている。この様式ははっきり言ってナポレオンの時代に限定されたスタイルと言って過言でない。ナポレオンのイタリア遠征、エジプト遠征など彼の見識から来る好みだった? と思わざるおえないデザインは、ナポレオンの住居した宮殿の室内装飾や家具に主に出てくる。建築では凱旋門など、新古典様式か? 帝政様式か? と判断に迷うものもある。その実態は、そもそも新古典様式自体も当時古代遺跡の発掘がピークになってきた事から古代に対するあこがれや意匠が流行に取り入れられた事から発しているからだ。ナポレオン時代の帝政様式は、以前の新古典様式が手本にした古典ギリシャやローマのデザインに加えて、エジプトの意匠が加わった事。金を多く用いたアラブ的な派手さを求めた事が異なる。(以前パリの装飾美術館でそれら家具を見学した時に正直ちょっと成金趣味的に思えた。)デスクやサイドテーブル、椅子の足が帝政様式ではギリシャ神話のスフィンクスやあるいはメソポタミア神話のイシュタルのような有翼半人の神などが使用されているのも大きな個性だ。下はウィーンの宝物館のキャビネットの足これらは明らかに新古典様式とは一線を画す。皇妃の寝室(マリーアントワネットのベッド)こちらもドアに帝政様式がうかがえる。ベット前肘掛け椅子も帝政様式です。当時カメラの画質がよく無いのでボケ気味ですが・・。肘掛けのささえの部分が有翼のギリシャ神話のスフィンクスになっている。紛れもない帝政様式の椅子である。天井の主な部分はルイ13世の王妃でルイ14世の母でもあったアンヌ・ドーリッシュ(Anne d'Autriche)(1601年~1666年)の為に製作されている。壁紙ならぬ壁に貼られた絹地はロココっぽいな・・と思ったらルイ16世時代末のリヨンの反物を模して織られたものらしい。現在置かれているベッドはルイ16世の妃マリー・アントワネット( Marie Antoinette)(1755年~1793年)の為に1787年に製作された物。つまりこの部屋は皇妃達の寝室であるが、マリー・アントワネットの部屋と言うていで修復されているのだ。確かにベットはベルサイユ宮殿のものと似ている。※ 2009年6月「ベルサイユ宮殿 7 (マリー・アントワネットの寝室) 」で写真載せています。 同じくベルサイユシリーズで「ベルサイユ宮殿(15 (マリー・アントワネット) 」なども書いています。しかし、革命の少し前の完成。マリー・アントワネットは一度もこのベッドを使用する事はなかったと言われている。ではこのベッドを使用したのは?ナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ( Joséphine de Beauharnais)(1763年~1814年)である。※ 1804年ナポレオンが即位すると彼女も皇后に戴冠。しかし1810年に離婚。離婚の条件に終生の皇后の称号を得て余生はナポレオンの所持していたマルメゾン城と多額の年金をもらって過ごしたと言う。そして次にナポレオンの妃となったマリー・ルイーズ(Maria Luisa)(1791年~1847年)も使用したのか? それについては不明。何しろナポレオンが退位を決意した時に彼女はずっとルーブルの一角にあるテュイルリー宮殿(Palais des Tuileries)で過ごしていたからだ。※ ナポレオンの公式の宮殿はテュイルリー宮殿であった。その後フランス第二帝政の皇帝となったナポレオン3世(Napoléon III)(1808年~1873年)の時代には皇后ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo)(1826年~1920年)が使用している。ウジェニーはマリー・アントワネットの大ファンだったらしく肖像画や遺品をコレクションして公開していたと言うから彼女は喜んでこのベットを使用したであろう。ディアナの回廊(Galerie de Diane)全長80m。内装は王政復古時代のもの。第二帝政時代にナポレオン3世が図書館に改築。両壁の本箱にはナポレオンの蔵書16000冊も所蔵されているらしい。ディアナ(Diane)は天井の絵画のテーマになっている月の女神で狩猟や貞節の女神ともされている。この宮殿がそもそも狩猟の館から発展しているのでテーマになったのかもしれない。ナポレオンの図書館実はナポレオンはかなりの読書家として知られている。パリの陸軍士官学校の時代に訛り(なまり)のせいで友達がなく、読書にあけくれていたと言われているが、実際最後の流刑地セントヘレナ島にも大量の本が持ち込まれたそうだ。またこの宮殿にも彼の蔵書がたくさん残されていて、その為に? ナポレオン3世によりディアナの回廊は図書館に改築したのかもしれない。地球儀はナポレオン発注のものらしい。別の時には地球儀の代わりにこんな物が飾られていた。ナポレオンの像ではないと思うがどうして立っていられるのだろう。凄いフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)現在は「フォンテーヌブローの宮殿と庭園」として1981年、ユネスコ世界文化遺産に登録されている。ルーブル要塞ができた頃? 11世紀にはパリ郊外のフォンテーヌブロー(Fontainebleau)にも狩り場としてすでに城館が建てられていたらしい。前出ルーブルの要塞を建造したフィリップ2世(Philippe II)(1165年~1223年)が第三次十字軍帰還のパーティーをしている事や前王、ルイ7世(Louis VII)(1120年~1180年)の頃に特許条が発布されている事から城館はそれ以前に存在し、ルーブルより前にあったのではないか? と推定される。但しフィリップ2世もルイ9世もフォンテーヌブロー(Fontainebleau)で生まれて没した美男公のフィリップ4世もまた公式の住まいはパリの裁判所宮(Palais du Justice)であった。フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)が立派な宮殿になるのはフランソワ1世(François Ier)(1494年~1547年)の時代である。ルーブル宮殿同様に当時ロワールの貴族に人気のあったイタリア・ルネッサンス様式が採用されて建築された。フランソワ1世の回廊は見物である。今回はナポレオンに絞ってフォンテーヌブロー宮殿の紹介をしました。
2017年02月03日
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ウイーンの王宮にある宝物館の写真を見返していて、ナポレオンの子息(ナポレオン2世)の為に造られたベビーベットが目に留まった。あまりの豪華さに写真撮影していたのだ。よくよく見るとベットにはたくさんの蜂がデザインされている。どうもナポレオンが蜂を意匠に使用していたらしい。最初は紋章における蜂について調べて見たのだが、ナポレオン関連のあちらこちらから蜂の意匠が現れるので結局ナポレオンの歴史も追ってしまった。そして気付けばナポレオンの住まいであったフォンテーヌブロー宮殿にも案の定、ナポレオンの玉座に蜂がいっぱい。いろいろ迷走したが、初心に戻って今回はナポレオンの紋章に関する所にしぼって紹介する事にしました。ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠オーストリア皇女との間に生まれたナポレオンの息子象徴としての鷲と蜜蜂蜜蜂の紋章(Emblème de l'abeille)フォンテーヌブロー宮殿ナポレオンの玉座の蜜蜂ウイーンの宝物館に展示されているナポレオン2世のベビーベット鷲はナポレオンの紋章である。オーストリア皇女との間に生まれたナポレオンの息子1810年4月ルーブル宮殿の礼拝堂でナポレオンは2度目の結婚をした。相手は敗戦国オーストリアの皇女。マリー・ルイーズ(Maria Luisa)(1791年~1847年)ナポレオンはオーストリアの敵。彼女は泣く泣くナポレオンに嫁いだそうだ。マリー19歳。すでに皇帝となっていたナポレオンは41歳。しかしナポレオンはマリーにとても優しく彼女もいつしかナポレオンが好きになったらしい。そして1811年3月。ナポレオンとの間に第一子誕生。それが将来ナポレオン2世となるナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルト(Napoléon François Charles Joseph Bonaparte)(1811年~1832年)である。※ 母の実家、オーストリアではライヒシュタット公フランツ(Franz,Herzog von Reichstadt)として知られる。敵であるナポレオンの名前が使用される事はなかった。難産で危険なお産だったそうだ。一時マリーとベビーの命が天秤にかけられ、ナポレオンは迷わず妻の命を優先しろ。・・と言ったそうだが、幸い二人とも助かり、特に息子誕生にナポレオンは非常に喜んだらしい。その喜びによりナポレオン・フランソワは生まれながらにしてローマ王に即位したのである。下のベビーベットの天蓋には女神が月桂冠を授けている。ベットのレリーフにはローマ建国の神話であるオオカミとロームルス (Romulus) とレムス (Remus) が描かれていて、それだけでこのベットがナポレオン・フランソワのものだと解るのだ。さらによく見るとベットには蜂がたくさん装飾されている。そもそも今回の謎はここから始まったのである。これは何の印?下の豪華な衣装箱? にもプリントや刺繍ではなく、金属の蜂がたくさん装飾されている。ウイーンの宝物館にあったマリー・ルイーズ(Maria Luisa)(1791年~1847年)の肖像画マリーのドレスにもローブにも蜂が刺繍されている。これはブルボン王家がアイリスの紋章をたくさんプリントしているのに似ている。フランス読みでマリー・ルイーズ(Maria Luisa)としましたが、オーストリアではマリア・ルイーザ(Marie Louise)。彼女の棺を2014年「カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降」で紹介しています。リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降ちょうどその中にシシイこと、エリーザベト(Elisabet)の柩も載っているのでよかったら見てねウイーンの宝物館にあったナポレオンの肖像画ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年~1821年)ナポレオンの紋章の黄金の鷲(ワシ)が胸にたくさん付いている?いや、これは1802年にナポレオンが創設したレジオンドヌール勲章(L'ordre national de la légion d'honneur)のようだ。たぶん第一帝政スタイル。レジオンドヌール勲章は現在も存在するフランスで最も名誉ある勲章。形が時代で少しずつ変わっているようなのだ。※ 勲章には1~5等までのランクがあり、北野武さんがフランスから贈られた勲章がこれである。ところでナポレオンは地中海に浮かぶコルシカ島の出身であるが、フランス貴族と同等の権利を持つそこそこ裕福な家の子弟。家に家紋があってもおかしくないが、どうもその筋からではなさそう。因みに10歳の時にパリに留学。15歳で陸軍士官学校に入学して11ヶ月で卒業。非常に優秀だったそうだ。象徴としての鷲と蜜蜂鷲は強いので古来勇気や正義、また不死の象徴となるアイテムである。神話においては空の使者、神の使者や神が鷲に変身する事もあったので、古代ローマ帝国でも国章となっていたようだし他にも多くの帝国(オーストリア、ドイツ、スペイン、ハンガリーetc)や貴族が家紋に入れ、街や教会のシンボルにもされている。また福音所記者マルコのシンボルでもある。、強い信念をアピールしたい所が使用するアイテムかも・・。よく見れば騎士のローブに蜂が描かれている。では蜂の意味は? 蜂は間違いなく蜜蜂である。なぜなら蜂が採取してくる蜜が貴重な栄養源であり神の食べ物であるから。それ故、蜜蜂としての意匠だけでなく、蜂の巣や養蜂の巣箱なども同じく紋章の中に使われています。調べて見ると蜂や巣箱を家紋にしている所が結構ありました。ローマ教皇ウルバヌス8世の紋章ローマ教皇ウルバヌス8世(Urbanus VIII)(1568年~1644年)(在位:1623年~1644年)実家であるバルベリーニ(Barberini)家の蜂が由来らしい。おそらく3匹の蜂は三位一体にひっかけていると思われる。蜜蜂は集団で社会生活をするところから活発、勤勉。労働、また社会的結束や秩序のシンボルです。勤勉や秩序は修道士達の模範です。また蜂の巣を教会にみたて、蜂は熱心に共同体に変わらぬ忠誠(活発、労働、社会的結束)をつくす信徒とも解釈されます。甘い蜜をつくり出す事から甘美と言う意味あいもあり、言葉による誘惑なども含まれ弁のたった聖アンブロシウスやクレルヴォーの聖ベルナルドゥスのアトリビュート(attribute)にもなっているそうです。※ アトリビュート(attribute)は宗教画などの中で聖人を表すための象徴的なアイテムとなるもの。蜜蜂の紋章(Emblème de l'abeille) (加筆訂正の部分)王政においては絶対君主性に関連づけられ特に女王の巣箱の支配は強い王政の象徴でもあったようです。しかしナポレオンの場合ナポレオンは蜜蜂の帰属性や社会的結束を自分の統治する帝国の理想に求めたのか? と最初は思いましたが・・。真意はナポレオンの理想でなく、ナポレオン自身の意志の表明のようでした。国民の支持により選ばれた皇帝(ナポレオン)はもとの地位にこだわりなく能力のある者を積極的に登用し、きちんとした中央集権的な国造りに着手。先人には敬意を表しつつ、しかし革命直後のような恐怖政治は否定。革命の自由平等は失わず、しかし秩序ある国造りの実現。そして国の内外にフランスの栄光を実現させると言う強い目的と意志。第一帝政、第二帝政のシンボルとして、奉仕、自己犠牲、社会への忠誠などを象徴する蜜蜂(ミツバチ)がスローガンと言うよりはむしろナポレオン自身の強い意志として使われたらしいのだ。良い統治者になる。と言う志しを蜜蜂の意匠が示していたと言う事になる。ナポレオンの開いたフランス第一帝政の国章 (ウキメディアコモンズより借りてきました。)黄金の鷲と黄金の蜜蜂の意匠ブルボン王家の紋章フルール・ド・リス(fleur-de-lis)の意匠絶対君主であったブルボン王家ではアイリスをシンプルにデザインした意匠を使用している。フルール・ド・リス(fleur-de-lis)である。493年、キリスト教への改宗したフランス、メロヴィング朝の最初の君主。クロヴィス1世が王家の紋章に最初に採用して以降キリスト教徒のフランス王を象徴するものになったとか・・。フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)門の上にあるのはナポレオンの意匠、黄金の鷲足につかんでいるのは雷(いかづち)らしい。12世にはすでに居城があったと言われている。現在にいたる宮殿を造ったのはフランソワ1世(François Ier)(1494年~1547年)の治世らしい。宮殿は何度も改築されている。特にフランス革命においては調度品が売り払われ宮殿は荒廃。ナポレオンはそんなフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)を自分の権威の象徴として修復してここに住んだのである。ナポレオンの玉座天蓋にも蜂が無数に刺繍されている。椅子にも蜂がいっぱい。やっぱりナポレオンの蜜蜂の使いかたはブルボン家のフルール・ド・リス(fleur-de-lis)のテキスタイル用デザインをかなり意識したか、真似た物であるのは間違いなさそう。フォンテーヌブロー宮殿には他にナポレオンの執務室や寝室。マリーアントワネットの寝室はジョセフィーヌの寝室にもなっていて公開されている。古い写真になるが部屋の中は変わらないだろうから近日紹介するかも・・。..追記 2017年2月「ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式」の中、フォンテーヌブロー宮殿内の「ナポレオンの居室」や「マリーアントワネットのベッド」を紹介していすます。よかったらリンク先を見てね。リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式リンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子リンク ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Greenリンク ロゼッタ・ストーンとナポレオン
2017年01月27日
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1648年、欧州では80年戦争と30年戦争が終結する。80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)は、スペイン・ハプスブルグ家支配となったオランダが結果的にスペインから独立する戦争である。オラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)はネーデルラント連邦共和国を作り途中休戦をはさみつつスペイン軍と闘争しネーデルラント連邦共和国として自立した。一方30年戦争(1618年~1648年)は、カトリック教会の弾圧に対するプロテスタントの反乱が発端の宗教戦争であった。当時欧州中に力を持っていたローマカトリック教会。また神聖ローマ帝国及びハプスブルグ家所領の内部でおきた宗教戦争は結果的に欧州中を巻き込んだ民族闘争や反体勢運動に発展。いろんな思惑が絡んだ所領争いも加わり、結果、神聖ローマ帝国およびハプスブルグ家支配体制の縮小と言う打撃を与え欧州の国際情勢を一変させる事になる。また本来の宗教戦争の方はヴェストファーレン(Westphalian)条約によりカトリックとプロテスタントの同権が定められ万事教皇により左右される事もなくなった。※ ヴェストファーレン(Westphalian)条約は関係国以外の欧州の国も参加して行われ、その取り決めは参加国で遵守されると言う初の国際条約となったのだ。共にこれら戦いでネーデルラント連邦共和国は国家として認められたばかりでなく、神聖ローマ帝国からの離脱も認められた大勝利であった。ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)10代の時の事、デルフト(Delft)の街も当事国である。デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)マルクト広場 デルフト(Markt Delft)聖ルカス・ギルド(St.Lucas Gilde)空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)とメッヘレン(Mechelen)義母と同居した家市長舎 デルフト(Stadhuis Delft)新教会(Nieuwe Kerk)1736年のデルフト(Delft)の街ピンク・・・マルクト広場と新教会(プロテスタント系)ブルー・・・デルフト市長舎イエロー・・・旧教会(カトリック系)★A・・・フェルメール生家の場所★B・・・フェルメール住居の場所戦争が終結して自由を得、街は活気づく。さらにオランダでは1602年に連合の株式商社、オランダ東インド会社を設立。香辛料など貿易により巨万の富を築き始めた所だ。(前回もふれたが、デルフトにもオランダ東インド会社の支社があった。)画家、ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)(1632年~1675年)の生涯はとても短いが、自由で平和な時代にデルフトで過ごしていた事は知っておいた方が良い。彼はデルフトで生まれてほとんどこの街を出る事はなかったと言われている。確かにこの広場周辺にフェルメールの足跡が多く残っている。しかも彼はこの広場の周りで生まれ育ち仕事をし、かつ結婚してもこの周辺に住み続けたのである。今回はデルフトのマルクト広場(Markt Delft)とフェルメール関連を紹介。マルクト(Markt)広場はその街の台所である。もちろんイベント広場にもなったが、個人商店が少ない時代、あちこちから持ち寄られた商品が並び広場は賑わった事だろう。新教会(Nieuwe Kerk)広場の反対にはデルフトの市長舎が相対して建っている。新教会と市長舎の紹介は次回にした。新教会の上からマルクト広場を撮影(写真右がほぼ北)広場北側店舗現在は飲食や土産物屋が並ぶ広場前であるが、かつてはギルドハウスが並んでいたはずだ。この建物すぐ裏手に小運河があり、その通りにフェルメールが親方登録していた「聖ルカス」画家組合の建物がある。聖ルカス・ギルド(St.Lucas Gilde)現在はフェルメール・センター・デルフトとなっている建物はかつてのギルドハウスのレプリカである。フェルメールが1653年に親方登録し、1662年と1670年に理事も務めていた「聖ルカス・ギルド(St.Lucas Gilde)」と言う画家の親方組合(ギルド)が17~18世紀に存在していた。建物には他に3軒の表章があるので4軒は入居していたのか?モールのデザインから画家の組合、表装の組合、彫刻家の組合、タペストリーの組合のようだ。下は画家の組合の表章(看板?)。建物名にもなっている聖ルカス・ギルド(St.Lucas Gilde)の印イーゼルやパレットなど見て解る看板である。※ 聖ルカス・ギルド(St.Lucas Gilde)と建物に入っているが、スペルがSt.Lukasではないか?St.Lukas(聖ルカ)は福音所記者の聖ルカであり、画家の守護聖人になっているので納得できる。再び新教会からの写真(北側 教会の足下)ブルーの矢印が聖ルカス・ギルドの位置。イエローの円内あたりににフェルメールの生家である「空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)」の場所。※ 英語で「空飛ぶキツネ」はフライング・フォックス(Flying fox)となっているが元はデ・フリーヘンデ・フォス(De Vliegende Vos)である。フォルダース運河25,26番地なので聖ルカス・ギルド(フォルダース運河21番)の並びは間違いない。曖昧なのは確認していない事と、現在私邸になっていて印が無い?空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)とメッヘレン(Mechelen)フェルメールの生家である。フェルメールの父は居酒屋兼宿泊所を経営、また画商もしていたし、サテンの織物職人でもあったらしい。1630年代に父が経営していた居酒屋兼宿泊所が空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)である。この店は賃貸であり、後に父は広場に面した場所に新しく店を購入していている。それがメッヘレン(Mechelen)である。(たぶん当初店舗は2軒同時経営。)フェルメールは1632年誕生なのでメッヘレン(Mechelen)は誕生後? に購入されていると思われるが、実際フェルメール一家がハウス・メッヘレン(Mechelen)に住居を移すのは彼が9歳の時らしい。(デルフトのインフォメーションのパンフより)※ その頃彼の父はレイニール・ヤンスゾーン・フォス(Reijnier Janszoon Vos)からファン・デル・メールに名前を変えている。ひょっとするとこの時に空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)を手放したのかもしれない。因みにフェルメールの父は1652年10月(彼が20歳の時)負傷して突然亡くなり、フェルメールが宿を引き継ぐと共にメッヘレン(Mechelen)購入の借金も負う事になる。(これがそもそもの借金の元凶である ) 右下見切れているが、ブルーの矢印の先が聖ルカス・ギルドの位置。同じく右下の赤い矢印が看板のある建物で、隣のピンクでしるした所が今は取り壊されたフェルメールの父が購入してフェルメールにも引き継がれた居酒屋兼宿屋のメッヘレン(Mechelen)の場所である。フェルメールが生まれた1632年10月にメッヘレン(Mechelen)が建っていた場所・・と書かれているが、本当は違う。メッヘレン(Mechelen)は広場に通じる道路拡張工事の為に1889年に取り壊されているのだ。※ デルフトのインフォメーションでもらったフェルメールの足跡と言うパンフに書かれている。広場南側店舗写真の尖塔がマリア・ファン・イエッセ教会(新教会は左側)新教会の上から見たマリア・ファン・イエッセ教会(Maria van Jesse Kerk)赤い矢印がフェルメールが創作活動していた家だった所義母と同居した家なぜマリア・ファン・イエッセ教会(Maria van Jesse Kerk)が出で来るか?実はフェルメールが結婚してから割と長く住んだのが義理の母の家。それが後に教会の一角になってしまったからだ。教会の建設は1875年~1882年。割と近年である。ネオ・ゴシックの教会はローマ・カトリックの教会でデルフトの全てのカトリック教会を統べる聖ウルスラ教区の一つだそうだ。フェルメールは1653年4月に結婚。この家には1654年から1675年の亡くなるまで住んでいる。つまり彼の生涯で最も長く暮らしたのがこの家で、彼はこの2階のまさにこの北側にアトリエを置いて創作活動をしていたのだそうだ。それは彼の作品の中に義母が所有する絵画が出て来る事からも解るそうで、彼の室内の作品のほとんどはこの部屋の中がモデルになっていたのかも知れない。表には何やら表記あり4ヶ国語が書かれていましたが、英語表記がなくよく解らないで帰ってきました。そもそもデルフトで出されている地図は解りにくく、場所を特定できない事がほとんどです。この時も近くをうろうろ。まさか教会になっていたなんて知らなかったので・・。街に何カ所がキュービックのフェルメール案内がありますが、それも非常に解りにくく、かえって迷子になる感じでした。今あらゆる地図や資料を駆使して今回いろいろ特定した所です尚、教会の案内にフェルメールの話は一切出てきていませんでした。今もこの街には当時の建物がリフォームされて使い続けられて居ますが、今を大事にしているようで建物が残っていても所有者との問題があり中は伺い知れない所がけっこうあるようです。商売っ気がないのかも・・。フェルメールの墓については、「デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓」で書いています。リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓※ デルフト全般にフェルメールとなっています。次回市長舎 デルフト(Stadhuis Delft)と新教会(Nieuwe Kerk)につづくリンク デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)フェルメールについては以下にも書いています。リンク ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレン
2016年09月21日
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デルフト(Delft)と聞くとたいていの人はまずデルフト(Delft)焼きを思い浮かべるだろう。実際ツアーでデルフト(Delft)に寄れば、必ず焼き物工場の見学に行く。そのデルフト(Delft)焼きは16世紀にマヨルカ(Maiolica)焼きの陶工達が移り住んだ事から地場産業として発展する。その最盛期は17世紀であるが、皮肉にもオランダ東インド会社が中国より大量の美しい陶磁器を輸入すると早くも売れなくなってしまったそうだ。生き残りをかけたデルフト(Delft)焼きは中国磁器や伊万里に似せた白地にブルーの彩色を施した陶器を製造。それがデルフト・ブルーと言われる青い模様の誕生にもなった。しかも当時絵柄も中国のイメージに寄せたものを製作。今までの欧州の陶磁器にないエキゾチックな? いや、怪しいアジアンデザインで欧州での新たな人気を獲得して行く事になる。※ 以前「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)」でデルフト焼きでできたキッチンを紹介。よかったら見てね。ところでデルフト(Delft)焼きは17世紀にはそんなに裕福でない一般家庭でもすでに使用されていた。それはフェルメール(Vermeer)の絵画の中にあれこれ登場して来る。そう、デルフト(Delft)は画家、ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)の一生が閉じ込められた街でもあるのだ。彼はこの街で生まれ育ち画家となり、画商となり、ここで亡くなった。街を訪れる人の目的の半分は実はヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)にあるのだ。デルフト(Delft) 1 (デルフトの眺望)デルフト(Delft)デルフトの眺望(Gezicht op Delft)カーレル・ファブリツィゥスとフェルメールハーグより、デルフトへは路面電車1本で行ける。思いの他近かった。ハーグ中央から15分くらい。 路面電車の路線図1番の路面電車は北海の街からハーグを経由してデルフトに向かう。路面電車を降りて1本中の道に入ると、運河の街である事がわかる。古都と呼ぶにふさわしい旧市街。小さなデルフトの街は運河で囲まれた城塞都市だったようだ。見える時計の付いた塔はデルフトの旧教会。そしてその隣にはネーデルランド連邦共和国の初代君主となったオラニエ公ウィレム1世(Willem I)の宮殿であったプリンセンホフ(Prinsenhof)が博物館となって公開されている。※ 現在のオランダの君主はオラニエ公ウィレム一世の子孫にあたる。旧教会ここにフェルメールが眠っている。立派な貴族の館か?商館のようなものが立ち並ぶ旧教会近くの運河沿い。こちらではそれらが普通に今も住居などとして利用されている。デルフト(Delft)の街の地図黄色丸・・旧教会 緑丸・・・プリンセンホフ濃いピンク・・・新教会 薄青丸・・・市長舎赤丸・・・デルフトの眺望を描いた視点黒丸・・・1654年10月12日の弾薬庫爆発の爆心地マウリッツハイム美術館所蔵 デルフトの眺望(Gezicht op Delft) 制作1660〜1661年頃ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)(1632年~1675年)17世紀には風景画は結構描かれたそうだが、フェルメールが残したのはたった2点のみ。その一つがデルフトの眺望(Gezicht op Delft)。ドラマチックな雲を配する空ときらめく水面のすがすがしい美しさの対比がより街を際立てている。一見穏やかなデルフト(Delft)の街に見えるが実は悲劇の影もしょっている。実はこの作品が描かれる6年前(1654年)にデルフト(Delft)では大きな爆発事故があり街の4分の1が吹き飛ぶ悲劇があった。(爆薬庫に引火して火薬40トンが爆発)死者は100人以上、負傷数千人と言う惨劇で、この時フェルメールの先輩画家も亡くなっている。この絵はそんな街のキズを隠して存在していている。※ 上の地図で描いた黒丸が火薬庫の爆心地。部分拡大右の塔・・・新教会 教会の左下・・ロッテルダム門 その左の塔のある建物・・スヒーダム門左端の三角・・・旧教会カーレル・ファブリツィウスとフェルメール亡くなったカーレル・ファブリツィウス(Carel Fabritius)(1622年~1654年)はレンブラントのできの良い弟子の一人。フェルメールは彼の影響を非常に受けていて、亡くなった後はよりカーレル・ファブリツィゥスのスタイルが現れていると言う。(残念ながら彼の作品は爆破の影響でほとんど焼けてしまい残っているものは少ない。)フェルメールは1652年に20歳で結婚して翌1653年に「聖ルカ」画家組合に親方登録をしている。通常6年の修行を要するのでその間はデルフトを出てどこかで徒弟している筈なのだが、それが不明。ひよっとするとフェルメールもまたレンブラントの弟子だったのでは? と勘ぐったりする。カーレル・ファブリツィウスは1652年にデルフトにやってきて親方登録をしている。フェルメールが呼び寄せたせたのかもしれない。フェルメールの家は画商でもあったからだ。室内の人物像の多いフェルメール作品の中で風景画は異種の作品である。なぜこの絵は描かれたのか?街の惨劇の鎮魂だとする人もいるが、シンプルに考えて見た。私の個人的想像のみであるが、この年にフェルメールは金持ちの義母と同居を始めている。父からの負の遺産を相続した彼はずっと借金に追われた人生を送る。(彼の死後に妻が破産申し立て)義母の援助がもしかしてこの絵に繋がるかもしれない・・。デルフトの眺望(Gezicht op Delft)を描いた場所は今も存在する旧市街南の外れのスヒー港残念ながら写真は新教会のみ。フェルメールの時代オランダで4番目に大きな都市だったと言うデルフトはオランダ東インド会社の支部も置かれていた。当時重要な商業地であり芸術の拠点でもあったそうだ。フェルメールとデルフト(Delft)つづくリンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)リンク デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)リンク デルフト(Delft) 5 (新教会からのデルフト眺望)リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)リンク ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレンリンク デルフト焼き(Delfts blauwx)
2016年09月14日
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ちょっと書き加えました。Break Time (一休み)ジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo)(1527年~1593年)ウイーンの写真を見返していて、美術史美術館で面白い絵を発見。イタリアのマニエリスムの画家なのにちょっと奇妙な絵を描く人だ。その絵は江戸末期の奇抜な作風の浮世絵師、歌川 国芳(うたがわ くによし)(1797年~1861年)の「寄せ絵」を思い起こさせる。(1566年製作の「法曹(giurista)」はまさに同じ。)彼の作品はウイーン(美術史美術館)、パリ(ルーブル)、スウェーデンの城にあると言う。(後で詳しく・・。)もともとミラノ出身だった彼はステンドグラス作家として出発。ウイーンではオーストリア大公フェルディナント1世に招かれて宮廷画家として活躍。以降、フェルディナント1世、ルドルフ2世の下でも宮廷お抱え絵師として勤務し、その絵は欧州の身分ある人の所に贈答品としても贈られた。また彼の非凡な才能は絵画だけでなく衣装のデザインやイベントなどにも発揮されたと聞く。当時人気の画家だったのは間違いない。ジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo)(1527年~1593年)アルチンボルドの仕えた神聖ローマ皇帝フェルディナント1世(Ferdinand I)(1503年~1564年)マクシミリアン2世(Maximilian II)(1527年~1576年)ルドルフ2世(Rudolf II)(1552年~1612年)ウイーン美術史美術館所蔵 連作「四季」の夏 1563年制作宮廷画家になったのは1562年。連作「四季」は着任の翌年に描かれている事になる。実はこの絵、ルーブル美術館にも同じ物がある。しかし、あちらの制作は1573年。しかも淵に植物のフレーム付き。なぜ?実はジュゼッペ・アルチンボルドの作品は贈答品として欧州の王族に随分配られているからだそうだ。ルーブルの作品はどれも1573年制作。それはマクシミリアン2世(1527年~1576年)がザクセン選帝侯アウグストにプレゼントする為にコピーされたものかもしれない。実りの夏のモデルは女性のようだ。(四季の春と夏は女性。秋冬は老いた男性。)春を撮影していなかった。その時になかったのかもしれない。また秋に関してはウイーンの作品は消失。よってルーブルのみ。年代からして最初に描かれたのは間違いなくフェルディナント1世の為。首には「Arcimboldo」の銘。肩の方には「1563年」と刻まれている。因みにルーブル作品は1573年になっていた。胸に刺さっているのはアーティチョーク(Artichoke)アザミの改良は古代ギリシャ・ローマから始まり食用としては15世紀にナポリ近郊で栽培されたそうだ。当時フェルディナント1世の宮殿にはイタリア文化があふれていた事も示しているのかも・・。連作「四季」の中で「夏」は一番完成度が高い作品。ウイーン美術史美術館所蔵 連作「四季」の冬 1563年制作こちらもルーブルの作品は1573年製作。枯れかけたブドウの木のようだ。仏教で言えば、まさに「諸行無常」の世界感である。ミラノ出身の彼をウイーンに呼んだのは神聖ローマ皇帝にしてウイーン大公、ボヘミア王でハンガリー王であるハプスブルグ家のフェルディナント1世(Ferdinand I)(1503年~1564年)。彼は前回ふれたカール5世の弟でもある。フェルディナント1世は遡る事、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のウイーンのダブル結婚の結果、ボヘミア・ハンガリー王の娘アンナ・ヤギエロ(Anna Jagiello)と結婚。フェルディナント1世は妃の為にプラハ城内に離宮を建設しているそうで二人の仲はとても良かったらしい。ウイーン美術史美術館所蔵 連作「四大元素」の火 1566年制作「四大元素」とは、大気、火、大地、水を擬人化したもの。ウイーン美術史美術館の本によれば、この作品はマクシミリアン2世(Maximilian II)(1527年~1576年)の為に描かれたものらしい。確かにマクシミリアン2世が神聖ローマ皇帝になったのが1564年。若干36歳の時である。この絵はその2年後に制作されているから38歳の皇帝の姿かも・・。なぜなら首には金羊毛勲章を下げているからだ。金羊毛勲章は、金羊毛騎士団の証であり、当時はすでにハプスブルグ家に継承されていた。これについてはどこかで詳しくやりたいです 現在もスペインでは王家の与える勲章として存在していて、日本の天皇陛下も明治天皇以下全て叙勲されているもので基本 王族しか与えられない。(騎士団には入れない)※ 金羊毛勲章は2018年6月「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」にて書きました。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)体の部分は大砲や鉄砲など武器ざんまい。燃える闘志でも示したのでしょうか?ウイーン美術史美術館所蔵 連作「四大元素」の水 1566年制作ちょっとグロさが際立ちますが、これは真珠のイヤリングとネックレスをしているので女性の肖像のようです。なぜ水なのか解りません。むしろこれは魚類図鑑です。コロンブスが新大陸を発見してから欧州には無かった動植物が輸入されてきました。とは言え、なかなか庶民が目にする事はできません。また王族と言えど、美術品と違って鮮度の重要なものはやはり簡単に目にする機会はありません。まして生もののコレクションは無理です。実物の代わりにコレクションする・・と言うたぐいの絵なのか解りませんが、このようなコラージュはともかく、17世紀に入ると博物学のような静物画が増えてくるのです。さて、3人目の皇帝ルドルフ2世(Rudolf II)(1552年~1612年)はプラハ城をメインの居城としたようで、宮殿には専用の美術室を造り、コレクションした作品を飾っていたと言います。特に前出紹介したアルチンボルドの連作「四大元素」の火などマクシミリアン2世のコレクションもそこに加えられていたようです。実はそれらコレクションは17世紀に入って、多くの作品がスウェーデン軍により略奪され散逸。その中にはルドルフ2世自身を描かせた「ウェルトゥムヌスに扮したルドルフ2世」(1590年頃)が含まれており、現在それはスウェーデン、スクークロスター城(Skokloster Castle)にあるらしい。参考の為にウイキペディアよりパブリックドメインになっていたので借りてきました。スウェーデンSkokloster Castle 「ウェルトゥムヌスに扮したルドルフ2世」 1590年~1591年頃製作ウェルトゥムヌス(Vertumnus)・・ローマ神話に出てくる果樹と果物の神様。様々な形態に変身できるらしい。タイトルに 「ウェルトゥムヌスに扮したルドルフ2世」と付いているのでまさしくこれは神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(Rudolf II)(1552年~1612年)の為の肖像画である。しかし、晩年のアルチンボルドはルドルフ2世への忠誠を誓いつつ体調が悪く故郷のミラノに戻っていたそうだ。この作品は故郷で製作されて送られてきたアルチンボルドとその弟子の共作らしい。違和感を感じるのはその為か?当時、神聖ローマ皇帝3代(親子3代)が夢中になった絵師である。人気は彼の死後も続き結構 贋作が造られたらしい。しかし、その後バロックが流行るとアルチンボルドの名さえ忘れられ、20世紀に入ってシュルーレアリストが見つけるまで埋もれていたらしい。ウイーン美術史美術館では特に目が留まったのでしっかり撮影してました。アルチンボルドの絵は良くも悪くも目立つ絵です。
2016年06月12日
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Break Time(一休み)桂宮宜仁(かつらのみや・よしひと)さまが8日に薨去(こうきょ)されたと宮内庁より発表がありました。「薨去(こうきょ)」? 初めて聞いたような言葉だな・・と思い調べてみました 薨去(こうきょ)」は皇族でも皇太子妃や親王や内親王、あるいは位階が三位以上の者に使う言葉だそうです。かつて昭和が終わった時に「天皇陛下の崩御(ほうぎょ)」と言葉が使われましたが、天皇陛下や皇太后、皇后さまが亡くなられた時には「崩御(ほうぎょ)」を使うそうで他に皇太子や大臣などの場合には「薨御(こうぎょ)」皇族内の王や女王、あるいは位階が四位、五位以上の者 の場合は「卒去(そっきょ、しゅっきょ)」 を使うのが本来のようです。宮内庁は確かにこの言葉を使用していましたが、ネットのニュースなどは「逝去」とか「亡くなった」と言うものばかり。本来「身分のある人」の場合はこれらの言葉を使い分けなければならないようです。それにしても聖徳太子の「冠位十二階」に始まった日本の位階制度。形は変わってもまだ存在していたのですね さて今回はペギン会の前にちょっと番外でブルージュ・カードの紹介と、珍しいアートの紹介です。ブルージュ・カードとジャック・カロ(Jacques Callot)ブルージュ・カード(Love Brugge)ジャック・カロ(Jacques Callot)ブルージュ・カード(Love Brugge)観光客の為のお得用観光カードの発行は今やいろいろな国で行われています。(乗り物だけでなく、美術館や神社、仏閣などにも安く入れる)日本でも行われていて、京都などで外人さんがパスを出しているのをよく見かけますが、これは外国人対象で自国民には適用されません。京都などどこも観覧料が高いのでうらやましいな・・と思いつつ自分も海外に出た時はチャッカリ恩恵をうけています。ブルージュの観光カードはブルージュ26の美術館や運河クルーズなどが割引、もしくは無料で利用できるカードとなっています。もちろん有料で観光局で販売。今回は運河クルーズの他、ありとあらゆる美術館を時間が許す限り入りたおしてきました 冊子とカード赤いスワンのカードが大人用。(デザインは変わるかもしれない)冊子の中ブルーのカードが学生用学生用と大人用があり48時間用と72時間用があり大人48h・・35ユーロ 72h・・40ユーロ(2013年)メムリンク美術館だけで入場8ユーロする。ちまちま払っているとかなりの金額になるので2日以上滞在するなら購入して美術館に入りまくった方がお得です。そんなカードを利用してちょっと入った変わり種のアートを紹介。ジャック・カロ(Jacques Callot)ブランギン美術館アーレンツハイス(Brangyn Museum Arentshuis)の特別展で見つけた細密画の巨匠の作品です。入館して手渡されたのがルーペ 1人1本。 (・_・?) ハテ?なるほど、こうして見る為なのね。実物の2倍以上に拡大しています。細かすぎる この方は全てにこだわりを持って描いているのが感じられます。作品はバロック期に活躍した版画家 ジャック・カロ(Jacques Callot)ジャック・カロ(Jacques Callot)(1592年~1635年)ロレーヌ地方の裕福な家の出身だそうで、ローマ、フィレンツェと勉強していたらしい。フィレンツェではメディチ家の目にとまり、多く注文を受けていたと言うのだからさぞ才能を買われていたのだろう。晩年故郷に戻ってからはフランスやスペインの宮廷からの依頼を多く受け、当時欧州ではかなり有名な画家だったそうだ。かのレンブラントがカロの作品のコレクターだったと言うのだから驚く。(レンブラントの趣味って・・・・)それにしても非常に細密な気の遠くなるような細かさの作品ばかりなのだ。しかもドローイングで描くだけでも困難なのにエッチングでの版画である。制作には従来には無かた道具や薬品に加えて高度な技術が駆使されているのは言うまでも無いだろう。今なら、フォト・エッチングでなら可能か?画家はよほど目が良かったのか? 全ての作品がルーペなしに鑑賞出来ないのです。そう言えば細密画が流行った時代がありました。エリザベス1世(Elizabeth I)(1533年~1603年)の時代。恋人の写真ならぬ細密画を描かせて密かに持ち歩いた・・と言うペンダントやブローチが貴族の間で造られています。細密画の需用がいろいろあったのかもしれませんね。その技術を壮大な絵画に仕上げたのがジャック・カロ(Jacques Callot)なのかもしれません。今回の目玉・・とも言えるドラゴンが舞い降りる作品 タイトル不明下にも上にも魑魅魍魎がたくさん戦いをしています。何の場面を表現しているのか不明ですが、ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)の影響があるのは確かです。日本円のお札の模様みたい。作品は小さいので写真撮影も難しく、あまり綺麗にとれていませんし、見えやすくする為にほぼ全ての作品を拡大して、さらに色調の調整をしています。上のドラゴンは実物の4倍くらいにはなっていると思います。当時欧州で有名だった・・と言うのに、日本ではほとんど紹介されていない画家だと思います。作品は驚異的に素晴らしいのに、全体に小さいから何となく大きな感動がないかもしれないけどこんな面白い作品に出会うチャンスもあるので、ローカルの美術館も悪くないかもしれません。おわり
2014年06月08日
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Break Time(一休み)ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボスピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel)ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)ヒエロニムス・コック(Hieronymus cock)16世紀のブラバント(現ベルギー)を代表する画家にピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel)がいる。ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel de Oude)(1525年or1530年~1569年)現在もフランドル派の画家として代表される彼の作品は、日本では当時のフランドルの街や素朴な農民を描いた風景画家として浸透している。しかし、それらは彼の後期作品の一部で、実は諺(ことわざ)で皮肉った風刺画家としてのブリューゲルの作品の方が彼らしくて面白い。ところで彼はもっと不思議な絵を描いていた時代がある。日本ではほとんど知られていないかも知れないが、それは限りなくヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)に近い幻想絵画である。諺の風刺画の延長線にも見えるが、明らかにそれら作品はヒエロニムス・ボスを意識したもの・・いや、完全に真似した作品であった。ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)(1450年頃~1516年)ルネサンス期のネーデルラント(現ベルギー、オランダ国境)の画家で、彼もまたフランドル派の画家として知られている。もっともフランドル派と言っても特殊すぎる彼の絵画はどこにも分類できない絵画であるが・・。ブリューゲルはヒエロニムス・ボスが亡くなったずっと後の画家である。二人にもちろん接点は無かったのだが、1550年代末になってヒエロニムス・ボスのブームが到来するのである。ボスの怪異な絵画は生前からかなりのマニア人気があったようだが、それは死後も続き、実はかなりの模倣作品が市場に現れたそうだ。(現在でもオリジナルか識別できない作品もあるらしい・・。)実際ブリューゲルは雇い主である版画印刷会社のヒエロニムス・コック(Hieronymus cock)に請われてボスの偽物絵画を描かされていたようだ。ヒエロニムス・コック(Hieronymus cock or Wellens de Cock )(1518年~1570年)1548年にアントワープに戻った彼は出版社を立ち上げローマで見てきた巨匠の作品を版画(エッチング)にして頒布。北部ヨーロッパにイタリアのルネサンス絵画を紹介し普及させた立役者だそうだ。二人はヒエロニムス・ボス風のこの世の物ではない奇っ怪な生き物が登場する幻想版画を発行している。コックからすればヒエロニムス・ボスの未発表作・・として売りたかったのが本音だったろう。それだけヒエロニムス・ボスの絵は売れたのだそうだ。よくブリューゲルは「第二のボス」とも称されたそうだが売るために敢えて乗っかった・・と言う所が本当だろう。実際ブリューゲルが幻想画を描いていたのはヒエロニムス・コックと組んでいた数年に限られているらしい。ベルギー王立美術館にはブリューゲルの「叛逆天使の墜落(The Fall of the Rebel Angels)」(1562年)が収蔵されている。大天使ミカエルが率いる天使軍VS 堕天使サタン(ルシファー)をはじめとした魔界軍との戦いもともとサタンも天の住人(天使)だった。それ故にサタンは堕天使と呼ばれている。天の支配者に戦いを挑んだ元天使は異様な姿に身を変えて魔界に落とされ彼らは悪魔になった。この絵画は「善である天使」と「悪である堕天使」の戦いの図である。しかし通常天の方が勝さり美しく描かれるはずの絵画は、この絵ではむしろ異形の怪物の方が目立っている。ちょっとコミカルでさえある不思議な構成だが明らかに足を止めて見入る作品になっている。それにしてもブリューゲルの怪物は怪物であるけれど美しい。ムール貝の羽や虫からインスピレーションを得たと思える甲冑など案外当時の身の回りにあるなじみの物から構成されているように思う。王立美術館にはヒエロニムス・ボスと思われる祭壇画も展示されていた。「聖アントニウスの誘惑(The Temptation of St. Anthony)」実はこの絵は本来リスボン国立美術館所蔵になっている。だから王立美術館のこの作品は本物なのか解らない。奇っ怪な生物はブリューゲルのそれと比べて不気味で怖い。それにしても写真上の魚のボートは流線型で実に未来的だ。当時このような着想が浮かんだヒエロニムス・ボスは何を見ていたのだろう。ブリューゲルについては、2012年03月お知らせの中で「バベルの塔 」の写真を紹介していますが、今年またウィーンに行くので写真撮り直してきます。そしてヒエロニムス・ボスを探してまた紹介できれば・・と思います。(コーティングされた絵画を撮影するのはちょっと難しいのですが・・。)そう言えば二人に共通点がありました。彼らは共に特殊な教義の宗教のfraternity(フラタニティ)に所属していた・・と言う事です。特殊な宗教観が常人が考え着かない異形の世界を発想させたのでしょうか?fraternity(フラタニティ)については2013年09月「2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソン」の中で「(fraternity)とギルド(craft guild)」について書いていますから良かったら見てね。リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソンヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)については、2016年02月ウイーンの造形美術アカデミーで書いています。「造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)」「造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き)」そこの目玉がヒエロニムス・ボスの最後の審判(The Last Judgment)なのです。リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き)おわり
2014年02月16日
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イヴの日、ジェームズ・ロリンズの「マギの聖骨」を読み始めた。クリスマスにふさわしいネタだと思った。(文庫上下巻800ページもので実はまだ読み終わってはいない。)「マギの聖骨」のマギ(magi)は、キリストの生誕の時に贈り物を渡した東方から来た賢者の事である。このマギ(magi)のお骨がケルンの大聖堂に置かれていると言う。(ケルンの大聖堂には行った事はあるが知らなかった。)このお骨を見つけて来たのも実はコンスタンティヌス1世の母ヘレナ(Helena)(246年/250年~330年)だったそうだ。(「十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1」 の中で紹介。)リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1ヘレナ(Helena)の聖遺物収拾はハイ・クラスの遺物ばかりであるが、ぶっちゃけ信憑性はかなり低そうな気がする。(もちろんカトリック教会ではヘレナ(Helena)の集めてきた遺物を本物として扱っている。)マギ(magi)の正体マギ(magi)プレゼピオ(Presepio)実は聖書の中でマギについて語ってるのはマタイによる福音書のみである。(マルコやヨハネによる福音書には生誕の話すら無い。)マギ(magi)マギ登場のくだりを簡単に説明するとイエスがベツレヘムで生まれた時にそれを星により知った者達が東方からヘロデ王を訪ねて来た。「ユダヤ人の王はどこか?」ヘロデ王はかなり驚いたはずだ。なぜなら自分の周りにベビーは生まれていない。彼は自分にとって変わる王の出現を恐れ、後にベツレヘム周辺で生まれた2歳以下のベビーを皆殺しにしている。三博士の旅サセッタ(Sassetta)(1392年~1450or1451年)預言書には、メシアはベツレヘムで誕生するとあったので、それを聞いた東方から来た者達はベツレヘムに向かった。ベツレヘムでは星の導きにより、彼らはイエス(キリスト)を見つける事ができベビー・、イエスを拝み、宝の箱を開けると、乳香、没薬、黄金を献げた。「乳香、没薬、黄金」の贈り物のくだりが、ソロモン王を訪問したシヴァの女王が持って来た贈り物と同じだったような記憶が・・。(シヴァは現在のイエメンあたりとされる。)あえて、ソロモン王をなぞったのかもしれない。イエスはアブラハムから始まり、ダビデ、ソロモン王を先祖に持つ子孫であるとされるからだ。三博士の礼拝アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)(1471年~1528年)星によって導かれた・・と言うくだりより、東方から来たのは占星術者か? 天文学者か? とにかく学者とか、博士とか、賢者・・と訳される事になる。(英語のMagicの語源はマギ(magi)から由来しているそうだ。)一般的には「東方三博士」と聞いた事があると思うが、聖書にマギの人数についての下りは無い。後に3人とされたのは、贈り物である乳香、没薬、黄金の3点から来ているそうだ。しかも、後世(7世紀頃)ご丁寧に名前が与えられた。メルキオール(黄金・・・王権の象徴、青年の姿の賢者)バルタザール(乳香・・・神性の象徴、壮年の姿の賢者)カスパール(没薬・・・将来の受難である死の象徴、老人の姿の賢者)三博士の礼拝ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel)(1525年-1530年頃生~1569年)ではマギはどこから来たか? 何人か? 東方とはどこか?聖書には東方から来た・・とだけ書かれている。中世の絵画にはマギの一人に黒人が描かれていて、3人は3つの大陸の王だ・・と言う解釈がされていた。(私もずっとそうだと思っていた。)しかし、東方の占星術をあやつる者・・分析すると当時中東、西アジアを納めていたパルティア王国(Parthia) (BC247年頃~228年)のゾロアスター教の司祭達だった可能性が高いようだ。「マギ(magi)の名はゾロアスター教の司祭「マジュース مجوس majūs」から由来? 」と言う説があるからだ。ドレの聖書よりギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)(1832年~1888年)ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)因みにこのゾロアスター教は後にササン朝ペルシャ(Sassanian Persia)に引き継がれ、宗教政策の主軸になるとミトラ(Mitra)神が祀られる。ミトラの神官もマギ(magi)である。プレゼピオ(Presepio)キリスト降誕の情景を表すフィギュアがある。イタリアではプレゼピオ(Presepio)と呼ばれ、欧州ではツリーを飾るよりプレゼピオを飾る方がポピュラーだと聞く。サン・シュルピス教会(Saint-Sulpice)に飾られていたプレゼピオ(Presepio)・・・たぶんサン・シュルピス教会はダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」の中で紹介されていたローズ・ライン(日時計)のある教会です。マギ(magi)はプレゼピオ(Presepio)の中に絶対存在している。プレゼピオ(Presepio)を飾るのは12月8日(無限罪の御宿り日)~翌年の1月6日(公現祭)まで。西方教会では、1月6日がマギの来訪日とされているからだそうだ。それ故、欧米ではクリスマスの飾りは年明け6日までまで飾られている。ところで、キリストの誕生日はいつか?実は聖書に誕生日を特定する記述は無い・・が、345年にはすでに12月25日に決まっていたらしい。ローマ帝政期、ローマとその属州で広く信奉されていたミトラ教は前述のミトラ(Mitra)神(太陽神)を祀る宗教であり、その最大の祭りが太陽の復活する冬至の祭り。それが12月25日だったようで、どうやらそれがキリストの誕生日決定の由来だったようだ。うちのプレゼピオ(Presepio) ※ カトリック系の病院に寄附したので今は無い。毎年サロンで飾られています。ベビー・イエス、マリア、ヨセフ、東方からの3博士、天使、羊飼い、牛、ロバ、ヒツジ、ラクダうちのマギ(magi)にも黒人がいる。3大陸の王説はかなり浸透してしまっているようです。基本的にはプレゼピオ(Presepio)の中のマギは異教徒を象徴しているのでどこの出身でも良いのかもしれないが・・。ルカによる福音書ではマリアとヨセフが住民登録の為にベツレヘム入りをする。しかもマリアは出産状態に入ってしまったが宿屋は無かった。マリアはどこかの小屋で出産し、ベビーは飼い葉桶(家畜のエサ箱)に寝かされた。プレゼピオ(Presepio)はイタリア語でベビー・ベットの意味もあるらしい。飼い葉桶から馬小屋だった・・と言う絵もあるが、飼い葉桶を使うのは馬だけではない。プレゼピオ(Presepio)では牛かロバがアイテムである。小説・・マギの聖骨ところで、前述、Magicの語源はマギ(magi)と紹介したが・・。ジェームズ・ロリンズの「マギの聖骨」は「マギの骨」ではなく、「Magicの骨」であった。つまり本物のマギの骨ではなく、骨のようにマギが造り出した特殊な物質・・と言う話であったのだ。ダン・ブラウンの小説が史実的にもリアルなのに対し、ジェームズ・ロリンズの作品はアン・リアルすぎた。史実の解釈にも疑問が多く、話が非現実な方向の展開になり、完全なるフィクションが逆に興味に対しての面白みに欠けてしまった。サスペンス小説・・と言う観点で考えればそれなりだが・・。私的にはちょとガッカリだった。それにしてもマギの骨がどうして見つかったのか? 不思議である。どこともわからない東方の国の、しかも数世紀たった人間の骨がDNAでも調べない限り本物と断定できるわけがないのだから・・。ヘレナ(Helena)はカモにされて騙されたのかもね・・。ちょっと変わり種系のリンク先リンク ファティマの聖母巡礼(ファティマ第三の預言)
2013年12月27日
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前作からの引き続きです。リンク モンマルトル 5 (ユトリロ 1 恋多きユトリロの母)自由奔放、かつ恋多きユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon)(1865年~1938年)から今回は愛情を知らずに育ったかわいそうなユトリロの話しです。モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)(1883年~1955年)モンマルトル 6 (ユトリロ 2 モンマルトルを描いた画家)フランス(France)、パリ(paris)セーヌ川右岸18区 モンマルトル(Montmartre)モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo) Part 2モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)アル中人生画家ユトリロの誕生ユトリロの名前モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)ユトリロは結構日本では有名なはずなのになぜか本が少ない。解った事は、彼の絵画の類するジャンルが明確には無い事のようだ・・。そして、彼がこれといった著名な友人をもっていたわけでもない(唯一モデイリアーニと息が合った)ので、関連して取り上げられる事もないし、誰かに影響されたと言う事もないからのようだ。もう一つ驚くのは、わずかであるが見つけた本を読むと、「ユトリロやその母について語られている内容がほとんど全て異なっている」と言う事である。かつて、これほど食い違う見解をされている人物は他にいないだろう。誰が正しい事を語っているのか・・。なぜここまで認識がずれているのか・・。いろんな意味で謎の多い画家だ・・・。サン・ピエール教会と後ろに見えるのはサクレ・クール寺院 オルセー美術館彼が描いたのはモンマルトルの風景が多かった。ユトリロは誰から教えられるでもなく、最初から素朴ながらも完成された自分の表現をもっていたと言われています。現在のサン・ピエール教会昔は、ローマ神殿の跡と言われた所に、12世紀、モンマルトルの女子大修道院の礼拝堂としてこの教会は建設された。見学者が外に多いのはやはりユトリロの作品に思いを馳せているからか?モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)(1883年~1955年)アル中人生ユトリロは、あんな自由奔放な母から生まれた。(それは事実)母に育てられたような事実もなく、育ての祖母は彼が幼少の頃から酒を与えていたらしい。(有力な理由は、彼を大人しくさせる為・・と思われる。)そのおかげで彼は子供の頃からアル中になったのだ。(一説には赤ちゃんの頃からミルクやスープに混ぜられて与えられていたと書いた本もある。子守がめんどうだったのでアルコールを飲ませて寝かしつけていた可能性は考えられる。あの母の母なのだ・・・。)小学生の頃はすでにアル中で、13歳の頃には学校の行き帰りにも飲酒をして酔って帰ってくる子供だったと書いた本もある。アルコールひっくるめて、非行で、中学を中退している。(事実である。)でも、何よりも事実なのは、彼が親の愛情に飢えて育った哀れな子・・と言う事である。どんな子供でも本能で親の愛情を求めるものだ。それなのに母は男遊びと絵を描く事だけに忙しく、彼は預けられたまま。しかも父もいないのだ。(子供の頃のユトリロの写真はどれも物寂しげな顔をしている。)彼の内向的な性格は友を作るどころか、いじめの対象になっていて、それら寂しさがよりアルコールに向かったとしても不思議ではない。子供なのにアルコールで逃避する事を覚えてしまった彼はずっとアルコールに捕らわれて中毒患者となり幾度かの入院につながる。彼の人生を語るのに、奔放な母と酒と絵は切り離せない象徴だ。多分訪れた事のない人でも感じるであろう「なつかしさ」が感じられるのも彼の作品の特徴である。 オルセー美術館一昔前のパリをしみじみ感じられる路地である。画家ユトリロの誕生1901年(17歳)アルコール中毒による衰弱のため療養所に入れられ、1903年医師の勧めがあり、彼は絵筆をにぎる事になる。ここで、母が彼に絵の指導をしたと書いている本もあるが、確かに絵の世界に彼を向けたのは彼女ではあるが、大方では彼女は一切見なかったとされ、描く対象も母、シュザンヌ・ヴァラドンが人物を情熱的に描く人だったのに対して、彼は風景しか描かなかったし、作風もなんら影響を与える事はなかったとされている。彼は誰からも技法の手ほどきは受けず、ほぼ独学であったようです。(母もまさか彼に絵の才能があるとは、気付かず、彼の絵が売れ出して初めて気がついたようだ。)「モンマニー時代」、「白の時代」、「クロワゾンの時代」、「色彩の時代」に分けられる。ユトリロの作風は、とりわけ「白の時代」(1910年~1914年)の評価が一番高い。絵を描きはじめてからの5年の修業時代(モンマニー時代)に、風景画家としての最高の表現を見つけて白の時代を迎えます。親しまれる彼の風景画は最初から良く売れたようです。画廊とも契約して、描けばお金は入り、また酒を買う。酒を買う為に一生懸命描いていたようで、一向にアルコールから立ち直れる事はなかったようです。、特に下の「コタンの小路」は白の時代の代表的な作品として取り上げられています。美術書より・・ポンピドーセンター所蔵階段を上るとサクレ・クール寺院人一人いない路地。窓も閉ざされ、静まりかえる虚しい空間はアルコール中毒の患者の心情を写した物だと書いている本もある。病院と酒場を往復して入院中は記憶と絵はがきを頼りに描いたと言う・・。現実の活気に満ちた街は彼の中にはなかったのだ。それでも彼の描く街には親近感がとてもある。壁の白は、リアルに汚れて人の生きている生活を感じる事ができる。思わずさわりたくなるような質感は、寂しい静物画なのにみんなが求めたくなる穏やかさを感じる。まさしくそれは、ユトリロの白なのだ。ユトリロの名前ところで、彼がユトリロ姓を名乗るのは、一説には1891年(7歳)で、父親と思われるスペイン人のミゲル・ユトリロが認知したからだと言われています。実際彼は認知はしたが、本当に父かどうかわからない。何しろヴァラドン自身が否定していたたと言う。それでも彼がユトリロを名乗ったのは父が恋しかったからなのかもしれない・・。(実は不明なのだ。)クロワゾン時代と思われる・・・輪郭が強調されている オルセー美術館壁の白は・・・絵の具に漆食(しっくい)や砂を混ぜて壁の感触を表現。ノートルダム寺院かも・・彼は母を愛していたけれど、彼女はユトリロの連れてきた彼より3つも若い友人と恋人になり、母の愛はやはり自分には来なかった。第一次大戦後の3人の奇妙な共同生活で、再び孤独感になった彼はやはり酒を飲むか描くかしかなかっようだ。そして、刑務所にも入った。母と義理の父となったもと友人はユトリロの管理に奔走されるのである。そして思いついたのが、ユトリロを結婚させる事である。1935年、ユトリロ51歳で結婚。「とうとう自由だ、万歳」と喜んだのは、むしろユトリロだったそうだ。妻となった女性は母の友人で彼より12歳も年上であったが、彼の尻をたたいて絵を描かせ、結果的に全てを仕切りユトリロの最後を看取ったようだ。1955年、肺充血で死去。ユトリロ71歳。遺骸はサクレ・クールに安置され、サン・ヴァンサン墓地に埋葬。5万人の群衆が葬列に加わったそうだ。次回フニクラーレでモンマルトルは終える予定です。リンク モンマルトル 7 (フニクラーレ 1)
2010年04月15日
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ユトリロの紹介をする前振りのつもりで書いていたらやけに長くなってしまい、ユトリロと独立させる事にしました。モンマルトル 5 (ユトリロ 1 恋多きユトリロの母)フランス(France)、パリ(paris)セーヌ川右岸18区 モンマルトル(Montmartre)モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo) Part 1 シュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon)(1865年~1938年)恋多き母シュザンヌ・ヴァラドン「パリ派」を指すエコールド・パリの1人であるモーリス・ユトリロは、海外からモンマルトルやモンパルナスに集まったボヘミアンな画学生とは違って、このモンマルトルで生まれて育ち、画家となった人である。私たちが知るその絵は、このモンマルトルを描いた作品が多い。さて、彼を紹介する為には、まず彼の母の紹介からしなければならないのだ・・。恋多き母シュザンヌ・ヴァラドンシュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon)(1865年~1938年)本名マリー・クレマチーヌ・ヴァラドンは、最終的に画家であるが、ユトリロの母として知られている。彼女自身私生児で、母と共に5歳の時にパリに出るが、貧困の中で10代始めから様々な仕事に就き、一時はサーカスのブランコ乗りにもなっている。(おそらく母に売られたのだろう)しかし、良く知られているのはルノワールやロートレック、ドガらのモデルを努めた事と同時に彼らの愛人でもあった事である。ルノワールがアリーヌと結婚した翌年41歳の時にシュザンヌに会っている。シュザンヌ16歳の時でそれからしばらくルノワールの愛人になるが、公然と浮気をして、ユトリロを身籠もる事になる。下の「都会のダンス」部分はシュザンヌがモデルでこの時彼女は18歳でお腹にユトリロがいたらしい。もちろんユトリロも私生児しとて生まれるのである。ブランコで腰を痛めて、サーカスを出なければならず、生きる為にモデルになったようですが、美しい彼女にとってそれは天職でした。この都会のダンスの少し前に彼女はラパン・アジルで19歳のロートレックに出会うのである。恋をしたのはロートレックで、彼は「君をシュザンヌで呼びたい」と言う。本名マリーはルノワールが彼女の名を呼ぶ時に使用する。ロートレックはそれが嫌だったらしい。そして、シュザンヌはそれを受け入れルノワールと別れてシュザンヌ・ヴァラドンになり、ロートレックの愛人になるのである。シュザンヌはその後出産すると母を呼び寄せてユトリロを母預けにしてしまうのである。出産してすぐロートレックのアパートで同棲が始まる。その頃ロートレックが彼女を描いた絵「酒を飲む女または宿酔い」が下である。 まだ十代なのに随分やさぐれてしまった感がある絵である。2人の関係は長くはなかった。理由は、ロートレックが敬愛していた画家、エドガー・ドガに彼女を紹介し、結果的にドガが彼女を弟子にしたいと申し出たからだそうだ。彼女に絵の才能があったのは事実であるが、弟子とは愛人になる事と同じだったらしい。ドガ52歳の時であるが、シュザンヌの方が積極的だったらしい。言うまでもなく、ロートレックが傷つき、ドガにも彼女にも2度と会わなかったようだ。シュザンヌとモーリス・ユトリロ親子シュザンヌは28歳の時に作曲家の、エリック・サティと交際。彼はシュザンヌに彼女に300通を超える手紙を書いたらしいが半年で破局。しかし、ドガとの師弟関係は続いていたようだ。画家としてサロン出典もしている。青い部屋ロートレロックの影響が見られると言われる作品・・美術書から31歳で資産家のポール・ムージスと結婚するも44歳の時に息子より3歳年下の画家志望の青年アンドレ・ユッテル(23歳)を恋人にして離婚。49歳でユッテルと正式に結婚。画家としては、彼女の主要作品がフランス政府によって買い上げられ、後にパリ国立近代美術館に所蔵されるまでになるのだが、余りに恋の遍歴がすさまじく、そちらの印象の方が強いのである。1896年~ユトリロと母(シュザンヌ・ヴァラドン)が住んでいたアパート(現在モンマルトル博物館)ラパン・アジルのすぐ近所である。今回は正面の写真がありません。ユトリロにつづくリンク モンマルトル 6 (ユトリロ 2 モンマルトルを描いた画家)
2010年04月14日
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芸術家をたくさん輩出しているので簡単には語れない・・でも今回はあまり踏み込まないで行くつもりです。モンマルトル 4 (テルトル広場とモンマルトルの芸術家)フランス(France)、パリ(paris)セーヌ川右岸18区 モンマルトル(Montmartre)テルトル広場(Place du Tertre)モンマルトルに集った芸術家達ローマ時代にはメルクリウス(マーキュリー)の神殿があったと言われるモンマルトルの丘は、サクレ・クール寺院を境にして西側が観光客で賑わう地区となり、東はアフリカ系移民が多く暮らすシャトー・ルージュ地区となっています。 サクレ・クール寺院の北西側からテルトル広場に入る道角。絵かき達はここまで進出していた。(実は縄張りがあるらしい・・。)テルトル広場に抜ける道は土産物とカフェだらけ。モンマルトルがパリに編入される以前は西側に位置するテルトル広場が、村の中心であり、1790年には村役場があった場所。大聖堂の西方にあるスクエア型の広場中央はカフェ・レストランで広場の周りもカフェが立ち並ぶ。そこを画家の卵? 画学生? 自称画家? 達が所狭しと、作品をもって即売と同時に観光客の似顔絵を描いている。完全に商用化した観光用の出店である。これは、今に始まった事ではない。1850年から1914年にかけて(第一次世界大戦前)、モンマルトルはパリの芸術家のサークルで、印象派など前の世代の芸術家たちが寄り集まる場所であった。が、このような観光化や高級住宅街となってしまったモンマルトルを嫌って1910年頃から、画家達は家賃の安いセーヌ川左岸(14区)のモンパルナスに移動してしまったのだ。大部分? ほとんど? 全て? は 土産用程度の絵で、売っている絵も本人が描いているわけではないかもしれない。似顔絵描きの出している見本の絵も、見せ絵であって本人が描いた絵でないかもしれない。(よくあるのだ・・・。見せ絵を売って欲しいと言ったら法外な値段を付けて買わせないようにした事がある。)今モデルになっている女性の顔は右下の見せ絵の女性と瓜二つである。彼女は客寄せのサクラかもしれない。今更絵を描いてもらう人がいるのか? と思いきや・・・結構いるようで驚く。旅の記念に似顔絵を描いてもらうかor何か掘り出し物はないかな? と探して見るのも確かに旅の楽しみだ・・・バティニョール地区からモンマルトルへ・・そしてモンパルナスへ最初に印象派の画家達がアトリエを構えたのは、モンマルトルの西隣のバティニョール地区でした。カフェが芸術家の御用達になって談義がかわされたと言う話は前回しましたが、バティニョール地区のカフェ・ゲルボワは画家のマネ、モネ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、シスレー、ピサロ、バジール、小説家のゾラや批評家などが集まっては談義した事で有名です。ルノワールもモンマルトルの絵を描いた事は紹介しましたが、モンマルトル界隈のカフェやキャバレーに移動するのは次世代の画家達です。まだ牧歌的な風景が残るモンマルトルは物価も安く暮らしやすい事から1850年~1914年にかけて画家や彫刻家、文学者が集まりだしたと言われています。・・が、バティニョールからはほど近い場所で、しかも歓楽街のピガールも足下にあるので、もともと行動の範囲だったかもしれない。後期印象派に属する画家やピカソ等のキュビズムの画家。1900年代に入ってエコール・ド・パリの面々も現れています。が、先に紹介したように、彼らもじきにモンパルナスに移ってしまい、モンマルトルの画家の代名詞はロートレックやユトリロに尽きるのでしょう。客引きが、ちょっと五月蠅いが、これも含めて今はモンマルトルなのだ・・。今回は写真もないので追求しませんが、芸術家のたまり場をさらっと紹介だけしておきます。ラ・ボンヌ・フランケットレストラン。1850年から1900年までディアズ、ピサロ、ドガ、シスレー、セザンヌ、ロートレック、ルノワール、モネ、ゾラ等のバティニョール地区の画家らが集まっています。アトリエ洗濯船モンマルトルにあった安アパートは、セーヌに浮かぶ洗濯用の船のように歩くとギシギシするボロだったらしいが、(1970年火災で消失、現在復元されたらしい)1904年から1909年まで、ピカソが暮らし、モディリアニもここにアトリエを構えていた。そして、アポリネール、コクトーやマティスらもここに出入りしていたと言う。キュビズム全盛の頃らしい。モンマルトル博物館1875年~1876年までルノワールが住み、1896年~ユトリロやその画家でもあった母(シュザンヌ・ヴァラドン)が住んでいたアパートは今は美術館になっている。ユトリロの母は画家になる前はルノワールや、ロートレックのモデルをし、ドガに油彩を習っている。ラパン・アジル「飛び出すウサギ」と訳される酒場(キャバレー)は、ユトリロがしばしば題材にした店ですが、ユトリロ、モディリアニ、ピカソ、ローランサン、ヴラマンクらがここで談義語したようです。(当時からシャンソニエだったかは不明。)シャ・ノワール(黒猫)丘の下の文学キャバレー「黒猫」にはベルリオズ(作家)や亡命してパリにいたハインリッヒ・ハイネ(詩人)、らも通ったという。モンマルトルにはこうした画家達のアパートや、アトリエや彼らの通ったカフェやキャバレー、レストランがあり、好きな人達にはたまらなく魅力的な場所なのは言うまでもないでしょう。モンマルトルつづくリンク モンマルトル 5 (ユトリロ 1 恋多きユトリロの母)
2010年04月13日
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スペイン・セビーリャ 9 (聖アントニウスと画家ムリリョ)スペイン(Espana)アンダルシア(Andalucía)州、州都セビーリャ(Sevilla)県、県都セビーリャ(Sevilla)セビーリャ大聖堂(Catedral Sevilla)の礼拝堂前回王室礼拝堂を囲む柵で終わっているのですが、実は王室礼拝堂の写真はありません・・・たぶん入れなかったのだと思います。(王家の墓も中にあるようです。)今回は王室礼拝堂には触れずに他の礼拝堂をいくつか紹介します。前回のコロンブスの墓所からの撮影左翼(北側)の扉の前にある礼拝堂。名前は不明。どこにも書いてないので、さほど重要視されていないのか?(場所的にはよいはずなのだが・・。)祭りの時の祭典などはここを使うようです。上の礼拝堂を左に行った所、同じく北側の側廊でも西の入り口の左手あたり。サン・アントニオの礼拝堂は有名です。サン・アントニオ礼拝堂(Capilla de San Antonio)このセビーリャ出身のムリリョの絵画によって祀られています。上段がバプテスマ(洗礼者)のヨハネによるイエスの水の洗礼(水の洗礼は最初の洗礼)ムリリョは幼児キリストとを洗礼するヨハネの図も描いています。好きなモチーフなのでしょう。下段が聖アントニオの前に幼児イエス・キリストが出現した図だと思います。聖アントニオについては、中々詳しい事が知られていませがこの教会ではなぜか、縁結びの聖人とか、捜し物や無くし物の聖人とされていて、この礼拝堂は人気があるようです。以前、この絵画の聖アントニオの部分だけが切り取られて盗まれたそうです。盗難の聖人が盗難されたと言うオチですが、無事に戻ってこれたそうです。訂正聖アントニオ(Antonius)はたくさんいました。この聖アントニオは聖アントニオ(パドバ)司祭教会博士の方だったようです。聖アントニオ(Antonius)聖アントニオ(パドバ)司祭教会博士 (1195年~1231年)本名はフェルナンド・マルティンス・デ・ブラォン(Fernando Martins de Bulhão)ポルトガル、リスボンで貴族の子として生まれるが15歳でアウグスチノ会に入り、司祭となる。後にフランシスコ会に入り、志願して北アフリカのモロッコに渡り決死の宣教活動をしたそうです。病気で帰国後に便説を認められ、説教活動で福音を広めたと言う。36歳で亡くなり遺骸はパドバの聖堂に葬られたのだがその墓で多くの奇跡があったと言う。こちらの聖人はなぜか紛失物を捜すときの神様。婚姻・花嫁の守護の聖人として知られているそうで、それがこの教会の聖アントニオでした。最初の聖アントニオも残して置きます。聖アントニオ(Antonius)(251年頃~356年)(聖アントニオ修道院長)聖アトニウスとも・・。エジプトの隠修士。私の知る情報では、313年ミラノ勅令後に迫害のなくなったキリスト教徒の中で、自ら苦行を強いて荒野に出た隠修士がおり、生涯を苦行に捧げ殉教した聖アントニオは修道士の祖とされる人物です。親交のあったアタナシオスによる著「聖アントニウス伝」によりラテン語訳されたものがローマ帝国全土(西洋)に広まり、修道士達の模範となったようです。だから彼を祀る所が多いのでしょう。彼のような修道者と呼ばれる人達がカッパドキア地方からテーベやニトリアの荒れ野に出現し、やがて彼らがコミュニティーを作って共同生活をしたのが修道院です。9月「モン・サン・ミッシェル 11 (初期修道制の成り立ち) 」の中で隠修士については触れています。画家バルトロメ・エステバン・ムリリョ(Bartolome Esteban Murillo)(1617年~1682年)バロック期のスペイン、セビーリャ出身の画家で、作品の多くは宗教画だそうです。画家の100選にも乗っていなかった・・。日本ではあまり紹介されていない画家ですが、スペインでの人気は絶大です。聖母マリアの純潔性をあらわした「無原罪の御宿り」は何点か描かれていますが少女の愛らしさが残る純真無垢な乙女として描かれたマリア様の絵は信者でなくても飾りたくなる絵です。宝物館のムリリョの「無原罪の御宿り」つづく聖アトニウスとも・・。エジプトの隠修士。私の知る情報では、313年ミラノ勅令後に迫害のなくなったキリスト教徒の中で、自ら苦行を強いて荒野に出た隠修士がおり、生涯を苦行に捧げ殉教した聖アントニオは修道士の祖とされる人物です。親交のあったアタナシオスによる著「聖アントニウス伝」によりラテン語訳されたものがローマ帝国全土(西洋)に広まり、修道士達の模範となったようです。だから彼を祀る所が多いのでしょう。彼のような修道者と呼ばれる人達がカッパドキア地方からテーベやニトリアの荒れ野に出現し、やがて彼らがコミュニティーを作って共同生活をしたのが修道院です。9月「モン・サン・ミッシェル 11 (初期修道制の成り立ち) 」の中で隠修士については触れています。場所の確定ができませんが・・。どこか側廊の礼拝所です。つづく
2010年03月10日
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Break Time (一休み)セビーリャ大聖堂(Catedral Sevilla)の受胎告知セビーリャ大聖堂には何枚かの名画が置かれています。その中で今回はフラ・アンジェリコの受胎告知を紹介です。多くの画家が受胎告知を描いていますが、一番素朴ながら味わいのあるのがフラ・アンジリコの作品だと思います。フラ・アンジェリコ(Fra Angelico)(1395年~1455年)イタリア、ルネサンス期の画家。本名はグイード・ディ・ピエトロで通称がフラ・アンジェリコ「天使のような」なのだそうです。フィレンツェのサン・マルコ修道院のフレスコ画の「受胎告知」が特に有名で、かつて見に行った事がありますが、彼の名声の主たる部分は教会壁画としてのモニュメンタルな装飾と言う所にあるようです。セビーリャ大聖堂(Catedral Sevilla)所蔵の受胎告知こちらは移動可能な祭壇画のようです。あちこちで見るな・・と思っていたらこの図柄を実は何枚も描いているようです。(微妙に家の中の背景が異なっています。)受胎告知新約聖書において、天使ガブリエルが降臨して未婚のマリアにイエス・キリストを懐胎した事を告げるシーンをさしています。いわゆる「処女懐胎」と言う事で神の子を身ごもったとされる話です。これによりイエス・キリストの父は神であると言う事になり、誕生と同時に神の子となったわけです。参考にウキペディアと美術書から写真をもってきました。(解像度もサイズも下げてます)サンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院所蔵コルトナー教区美術館この3点の中ではセビーリャの作品が一番落ち着いている気がします。3点目の家の柱の構図が違うのが気になりますが・・・。フラ・アンジェリコは、ドミニコ会に入信して、修道士をしながら、写本装飾によって芸術の道に入ったそうです。彼の人柄を「宗教そして、芸術以外の世俗事に全く感心を示さない敬虔な人間」とヴァザーリは伝えているようです。(本当にまじめな人だったようです。)宗教界だけでなく、俗界にも評判が伝わり、制作依頼に応えるべく旅をして制作をしていたようです。その中で注文に応えて描いた作品なのでしょう。中には「派手にして」・・とか・・。フラ・アンジェリコの作品彼の絵画は、テンペラ画よりも、フレスコ画と言う淡いぼやけた彩色の中でこそ、やさしさや慎み深さ、神への賛美が伺える気がします。サン・マルコ修道院の僧坊は狭く息苦しい程の小さな穴にも似た小部屋で、その中で清貧に甘んじながらただひたすら神の栄光を伝えるべく画業にいそしんだからなのかもしれません。(壁画は退色が激しく写真では表現できません。こればかりは実物を見ないと真価がわからない・・と思います。)番外・・・「処女懐胎」の真実前述、敢えて私が未婚のマリアと書いたのは、実は彼女は大工のヨセフと婚約中だったからです。大工ヨセフの本業は修道士です。子孫を残す義務を果たすべく下界にいるときは大工をしていたようです。業界から怒られるかも知れませんが、婚約中にできた子がイエスのようです。(修道士が婚約中に妊娠させる事は許されなかった。)ただ、ヨセフはただの修道士ではなく、遡ればダビデ・ソロモン王の系譜に繋がるユダヤの王の血脈なのです。そう言う意味においてイエスはユダヤの王である事は間違いないのですが・・。問題はもう一つあります。婚約中にできた彼を正当なユダヤの王としない一派がいました。弟派です。何年かに一度下界に降りて子作りをしているのでイエスには弟がいたようです。弟は正式な結婚の後に生まれた子です。兄派と弟派の対立があり、先に「ユダヤの王は私だ」と宣言したのがイエスのようです。(発見された死海文書からこのように伝えられています。)
2010年03月10日
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予定に反して長くなってしまいました。要するにムンクは難しいのです。せめて彼のバック・グラウンドが解れば作品の理解に近づけるかな? と私自身が思う訳です。Part 3エドヴァルト・ムンク(Edvard Munch) (1863年~ 1944年)1890年代は、ベルリン、コペンハーゲン、パリなどヨーロッパ各地を転々とし、毎年夏は故国ノルウェーのオースゴールストランの海岸で過したと言います。1899年、「桟橋の上の少女たち」白夜の故郷を描いたのかもしれません。夜沈まない太陽、故に少女は外にいるのでしょう。叫びに見られる流れるような橋は彼のスタイルとなっているようです1902年3月、第5回ベルリン分離派展出品された「フリーズ・オブ・ライフ」(生命のフリーズ)一連の装飾的な絵画」であると画家が明言した作品(22点)、「愛の芽生え」「愛の開花と移ろい」「生の不安」「死」という4つのセクションに分けられた作品の中のムンクの作品の代表作の中に彼の最も有名な絵があります。この連作は、愛と死に対する彼の個人的なイメージによる連作で、一般の人の思う愛と死とはかけ離れたイメージなので、彼の心理を理解する事が作品を理解することなのかもしれません。一般の作品のように共感する部分はほとんど見つからないでしょう。1893年、「生の不安」のセクション、「叫び」。「叫び」は4点制作されているそうです。故郷のフィヨルドに沈む太陽が血のように赤く空を染めた時、自然を貫く叫び声を感じたと言う作品です。あまりの赤い空とフイヨルドに啓発されたと思われる作品は特異な姿の男の顔で描かれています。誰もが一度は目にした作品です。(顔は、シカンのミイラの顔をモチーフにしたとも言われています。)生命のフリーズ」の中の一作品であり、本当は、単独の絵画としてではなく、連作として鑑賞してほしい作品なのだそうです。下に北海の朝焼けの写真があります。夕日ではありませんが、彼の見た血の色に近いかもしれません。ムンクがこの絵を発表した時は、当時の評論家たちに酷評されたそうですが、後世高く評価されるようになったそうです。2004年8月22日2は、「マドンナ」と共に盗難に遭い、2006年8月31日にオスロ警察によって回収されています。発砲事件と精神異常とにかく彼は変わり者だったようです。女性のエクスタシーの瞬間の絵を描いて、それを「死体の微笑み」と説明するなど、幼児期からの死との対面はあらゆる物に対して暗い影を落としたようです。それは恋愛に対しても同じだったようで、異性には臆病で女性からは逃げ腰だったのでしょう。1902年の夏、オースゴールストランで過ごしていたムンクは、以前の恋人のトゥラ・ラーセンと有名な発砲事件を起こして指(1本)を失しなう事故を起こしています。結婚を迫るトゥラ・ラーセンの狂言自殺のとばっちりでした。(以来彼の絵の中で彼女は「憎しみ」と「殺人者」となって出てくるそうです。)発砲事件と彼の作品に対する酷評と疲労? で、精神が不安定になってアルコールに溺れるようになり迫害妄想に取りつかれて精神異常をきたし、1908年から1909年にかけて、デンマークの著名な精神科医のもとで療養生活(8か月)も送っています。「私は、自分の病気を捨て去る気にはなれない。私の芸術の中には、病気のおかげでこうむっている部分がたくさんあるのだ。」彼は、自身の作品が神経症により、独創性を受けていたことを理解していたようです。だから病気を棄て去る気にはならなかったようですが、これを機に彼は精神の病を克服しようとして努力しています。それは同時に独創性の放棄に繋がったのか、以降の彼の作品は変わっています。不眠に悩まされながらも穏やかな作品を描いているからです。表現主義者である事には変わりありませんが、面白みのなくなった絵は記憶にも残りません。そう言う意味で「叫び」は一度見たら忘れられないインパクト大の作品です。「フリーズ・オブ・ライフ」(生命のフリーズ)は彼の最高傑作です。第二次大戦が勃発し、ノルウェーはナチス・ドイツの占領下におかれます。ドイツの美術館の彼の作品はナチス・ドイツに退廃芸術のレッテルを貼られ、没収され、売り払われた挙句、ナチスの爆撃でノルウェーの自宅の窓が破壊されたおりに気管支炎起こして1944年の1月に世を去っています。ムンクが亡くなった時、ベットのかたわらにはドフトエフスキーの「悪霊」が置かれていたそうです。
2009年08月17日
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Part 2エドヴァルト・ムンク(Edvard Munch) (1863年~ 1944年)1889年から1891年まで今度は国からの奨学金で再びパリで勉強を始めています。象徴主義当時欧州で流行しはじめていた象徴主義にふれて多大な影響を受けています。象徴主義は人間の内面や夢、神秘性などを象徴的に表現しようとするものです。後期印象派か象徴主義かと言うならば当時のムンクの作品はテーマ性から見ても象徴主義に入るのですが、象徴主義の唱道(しょうどう)者として紹介されながら属していません。俗に象徴主義の絵画はもっと甘美に、退廃的なロマンティシズムがあるものです。ムンクの作品にはロマンティシズムは皆無です。1892年、ベルリン芸術家協会展覧会から招かれて作品を出品。「できそこないの絵」(芸術とは全く無縁の物)と撤去を要請され逆に注目を浴びる事となり、各地に作品の展示を要請されて、一躍有名になったのです。(運も必要とはこの事です。)分離派ムンクを擁護したグループはこの後脱退してベルリン分離派を結成しています。ムンク自身は彼らと仲間であったようですが、彼自身の作品には見てわかる一般的な分離派の陰は皆無です。ただ作品におけるコンセプトに分離派の流れを感じとれますが・・・。特殊な環境故に育った我が道を行く彼の絵画(彼の精神性が込められた絵画)は普通の人間の理解を超えるところがあるのは事実です。後にベルリン分離派に影響されて結成されたウィーン分離派の旗手がグスタフ・クリムトです。造形美術としての活動は、アーツ・アンド・クラフツ、アール・ヌーヴォーなどに影響を受け、モダンデザインへの道を切り開た新しいスタイルでありながら、世紀末の退廃的、官能的作品が特徴です。フリーズ・オブ・ライフ」(生命のフリーズ)の発表1902年3月、第5回ベルリン分離派展ベルリンに住み着き、デンマークや故郷ノルウェーなどで1890年代に制作した「叫び」、「接吻」、「吸血鬼」、「マドンナ」、「灰」などの一連の作品を「フリーズ・オブ・ライフ」(生命のフリーズ)として発表する機会が来ます。一連の装飾的な絵画」であると画家が明言した作品(22点)、「愛の芽生え」「愛の開花と移ろい」「生の不安」「死」という4つのセクションに分けられ、横一列に並べて展示されたそうです。「愛の芽生え」のセクションには「接吻」、「マドンナ」「愛の開花と移ろい」には「吸血鬼」、「生命のダンス」「生の不安」には「不安」、「叫び」「死」には゜病室での死」、「メタボリズム」等が発表されています。「愛の芽生え」のセクションには「マドンナ」1894年~1895年に5つのヴァージョンの「マドンナ」を制作。その内の1点です。「叫び」についでムンクらしいポピュラーな絵です。マドンナ(マリア)を描いた物としては物議のある絵です。若く官能的で、好色的な様は処女マリアにはほど遠く、彼の示す、無垢? と、どん欲な性と死のイメージは彼のゆがんだ性を示しているのか? (明らかに娼婦をモデルにしているのがわかるが・・。)この絵も、「叫び」と共に、2004年8月22日盗難に遭い、2006年8月31日にオスロ警察によって回収されています。「愛の開花と移ろい」のセクション、「生命のダンス」バックはフィヨルドの海岸線と海のようです。中央の情熱的な女性は性的誘惑のシンボル。左の白い服の女性は無垢を現し、ダンスへの参加を望んでいるのだそうで、反対に右の黒衣の女性は死、または尼僧と解釈され、もはやダンスは傍観するだけの存在なのだそうです。「処女と娼婦と尼僧は女の三相」と言うのがムンクの女性観のようです。次回叫びです。(長いので切りました。)
2009年08月17日
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ムンク美術館の写真があるので紹介しようかと思っていたのですが、ムンクは好みではないので、勉強不足でした。(資料を読んでいたら朝になってしまって・・。)しかも、彼の絵画の分析は難しいな・・。そんなわけ語る事はあまりないと思いますが、前半部、彼の画業をめざした初期印象派の影響の見える作品と自画像のみ先に公開する事にしました。エドヴァルト・ムンク(Edvard Munch)(1863年~ 1944年)ノルウェー出身の画家であり、版画家であり、装飾画家です。彼の作品で「叫び」は特に有名ですが(インパクトで・・)、おそらくそれ以外の彼の作品を知っている人はほとんどいないでしょう。81歳まで存命しているので、作品はとても多いはずなのですが、それはなぜか? 私が思うに、彼の作品は通常の絵画の分類に区分しにくく、テーマの中で扱われる事があまりないから見かけないのかもしれません。また、後半彼は自分の作品をまとめて飾りたがり手放すのを嫌ったと言います。その為、彼の死後にまとめて寄贈されたノルウェーのオスロにあるムンク美術館に作品が集中している事も原因でしょう。(ギュスターブ・モローもそうでした。)もう一つ原因は、彼の作品は「マドンナ」はともかく、コレクションして飾るには不気味さがありますし、ぶっちゃけ画家として腕があるかと言うと疑問符もあります。自分スタイルを確立した個性派と言う点で評価され、「叫び」で完結してしまっている感は否めないですね。1895年頃の32歳頃のエドヴァルト・ムンク自画像。1868年、エドヴァルド・ムンクが5歳の年に結核で母を失い、1877年には姉も結核で亡くなったそうです。幼少期に立て続けに起きた不幸はエドヴァルト少年の心に深い傷跡を残し、生涯消えることのなかった苦悩は、彼の作品の中に繰り返し現れる病室と死のイメージによって推し量られています。1885~1886年に制作された「病める子」ムンク美術館所蔵。同じテーマで何度も描かれているこの作品は、まさしく幼児期の思い出から生まれたようです。パリでゴーギャンの義弟と親交があり、後期印象派の作品にふれた直後の最初の作品のようです。普通の印象派の作品よりも精神性の込められた深い作品(重すぎる)だと思いますが、テーマが暗いので何ですが、良い絵である事は間違いありません。(奇抜な彼の作品にもこんな深い精神性が閉じ込められているのか? )彼自身も病気がちで、部屋に閉じ込められている事が多かったそうです。加えて、軍医だった父も妻の死以降、信仰にのめり込み、狂気手前だったようで、「病気と狂気と死が私のゆりかごの番をする黒い天使たちであり、生涯私に付きまとって離れなかった。」と後年語ったそうです。(彼自身も精神を病んだ時期があります。)故郷ノルウェーでは狭すぎ、1883年、パリに向かいます。そしてゴーギャンの、ファン・ゴッホなどのポスト印象派の画家たちに大きな影響を受けたそうです。上の2点は額縁付きで撮影したものをトリーミングして載せました。つづく
2009年08月17日
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ちょこっと紹介のつもりが・・。運河から跳ね橋、跳ね橋からゴッホ、アルルへとどんどん横道にそれて行ってます・・。しかも、半分に切ってより長ーくなってしまいました。オランダで生まれたとは言え、ゴッホの活動は、パリや主に南仏です。彼を援助してくれていた父親が亡くなると(32才の時)2度とオランダには戻っていません。故郷オランダと言うより、「両親の懐に帰っていた。」のだと思います。彼の画家としての足跡はフランスにあります。フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)(1853年~1890年)ポスト印象派あるいは、後期印象派の代表的画家ですが、生前に売れたのはたった一枚の絵(「赤いぶどう畑」プーシキン美術館)だけだったそうです。下は、ゴッホ(36才)の肖像画です。フランス、オルセー美術館所蔵。1889年(5月以降)に描かれたこの自画像はサン・レミのサン・ボール・ド・モゾール修道院兼精神病院で療養中に描いた最後の自画像とされています。写真が少し鮮やかに写り過ぎているようですが、自分を観察、分析するようなこの肖像画に、彼の気難しさと不穏な気配を感じます。落した右耳を見せないようにポーズがとられています。1853年3月30日にオランダ南部のズンデルト(ベルギーに近い)に生まれます。祖父、父共に牧師だったそうです。貧しい村だったそうですが、牧師の息子としても、彼の親族にしても裕福なようで、(田舎の上流階級? )どちらかと言えばお坊ちゃま育ちだったようです。生涯、常に誰かの援助を受けないと生計の立てられない人生を送っています。それは生まれついての脳の障害があったから? なのかもしれませんが・・。仕事にしても、恋愛にしても三行半(みくだりはん)状態での失敗あるいは挫折の連続で、挫折の度に人生の方向を変え、最終的に画家に落ち着いたわけです。他人とのトラブルが多く、(パリを出たのも喧嘩が発端)人とのコミニュケーションが苦手? また物に対する執着も強かった? 狂気的にのめり込む性質だったのか? 画家ゴーギャンとのトラブルは、画家として憧れ、崇拝し、同志としてあるいは友として愛した彼に三行半を突きつけられた事件でした。パリで居られなくなり、南仏アルルに楽国(芸術家のコロニーの建設)を夢見て、1888年早春に着いた頃は明るい絵を描いています。それは、仲間(最終的にはゴーギャンのみ10月に到着)を待っている時です。ゴーギャンとの事件は1888年12月の事です。下は、その頃描かれたアルルに借りた黄色い家の寝室です。フランス、オルセー美術館所蔵。(実物より発色が良すぎるかもしれません。)1888年早春にアルルに着いてから、パリの仲間を待っている間ルンルン気分でゴッホは黄色の寝室を描いています。黄色の部屋の寝室の絵がアムステルダムのゴッホ美術館(撮影禁止)にあります。この青の部屋は塗り替えられたのではなくイメージの色なのでしょうか? この絵はオルセー美術館所蔵ですが、写真で撮ってきたので、来歴がわかりません。最初の内はうまく行っていた関係は、束縛されるのが嫌いなゴーギャンをうっとうしがらせます。そもそもゴーギャンはテオ(ゴッホの弟)に頼まれて旅費をもらって来ていました。事件は、「ゴッホがカミソリを持ってゴーギャンにかかっていった。」と言われています。結果ゴーギャンを傷つけられなかったゴッホは「自分の右耳をそぎ落とした。」と言われています。(が、「ゴーギャンが切ったのでは? 」と言う説もあるようです。)恋愛どころか、死を意味するくらいのショックで傷が癒えても立ち直れず、より、精神的に不安定になり、奇行を行ったのでしょう。「狂人を監禁せよ」と言う地元住民80人の嘆願書により、病院に監禁されています。エスパース・ヴァン・ゴッホ(Espace Van Gogh)下は、アルルにある後世エスパース・ヴァン・ゴッホと名が付けられたゴッホの監禁されていた精神病院です。おそらく1889年3月からサン・レミの精神病院(5月に入所)に自ら向かうまでに隔離されていた病院です。1989年に一般に開放されたらしいです。この庭の、この角度で彼は絵を残してします。ゴーギャンとの事件以降、発作は頻繁に・・てんかん、分裂症、生まれながらの脳への障害により精神は悪化していったと言われています。(アブサン(薬草系のリキュール)の飲酒中毒が脳への負担を大きくしたとも言われています。)下は、この庭に建てられた看板です。ここで、この絵が描かれたようです。本家はどこか不明です。3ヶ月毎に起こるひきつけ、幻覚の発作を繰り返し、良くなる事はないながらも絵を描き続けてるので、ゴッホの作品は起伏の良い時と悪い時が一目で判ります。この作品は精神に冷静さがもたれてきた退院前くらいなのではないでしょうか? 退院してすぐ、彼は決断し、自らサン・レミの病院に赴いています。サン・レミの病院(1889年5月~1890年5月?)では、僅か1年あまりに200点もの作品を描いたといわれています。1890年5月には、弟テオと共にオーヴェールに移り住んでいます。精神も安定して筆が進んでいたようですが、テオの経済事情が悪くなり、心配したゴッホの病状は再び鬱期に入ります。そして、拳銃で自ら胸を撃ち、2日後に弟テオの腕の中で亡くなったそうです。1890年7月29日(37才)下は、最後の地、オーヴェール・シュル・オワーズで亡くなる前に描かれたオーヴェールの教会。1890年5~7月の間に制作。フランス、オルセー美術館所蔵。ゴッホの紹介でたいてい使われる絵です。オーヴェールについたばかりの頃の作品かもしれません。ゴッホの家の近くの教会であり、ゴッホと弟テオの墓の近くでもあるそうです。この教会のリアル写真があったはずですが、ネガ写真なので載せませんでした。ゴッホ家の家系図は16世紀まで遡り、代々金銀細工師か、牧師の職であったそうです。画商となった弟テオの助けを受けながらの画業に入る前、16才で伯父の経営する画商の合併会社グーピル商会で画商として努め、24才の時にはロンドンで伝道師を志し、伝道師にもなれなかった彼は、結局画家の道を選択しています。彼の血の環境は芸術か、聖職かへ進むべくあったのかもしれません。が、精神の病は彼の人生を思うに進ませず、破綻させて行きます。それでも、そんな精神錯乱しながらも描いた個性ある特異な作品の評価は後世になって驚くべき評価額となって世間を驚かせています。(本人が知ったら卒倒するかも・・。)せっかくアムステルダムに国立ゴッホ美術館があるのにそこの作品が載せられなくて残念です。でも、ぶっちゃけ私の記憶では、地味な絵(有名な絵はあまりない)しかなかったような・・。 (浮世絵にはまっていたのが判る作品はけっこうありました。)良い絵は、アメリカ人に買われて海を渡っているのでは?印象派の画家を最初に評価したのは、アメリカ人の富豪達ですから・・。
2009年08月06日
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敢えて違う角度からめったに取り上げられないものを選んで紹介しています。ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)(1475年~1564年)下は、バチカンのサン・ピエトロ寺院の正面部分です。建築設計競技によって ドナト・ブラマンテが主任建築家に任命され、1506年に起工。1514年にブラマンテが死ぬと、大聖堂の主任建築家はラファエロとなったそうです。1546年にはミケランジェロも主任建築家となっています。かつてドナト・ブラマンテとはライバルでした。教皇達は、自分の栄光の為にミケランジェロを働かせる事を望んだと言われています。サン・ビエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の壁面墓碑1513年、教皇ユリウス2世が、ミケランジェロに自分の墓碑を依頼したまま他界。1505年より約束されていた大がかりな墓碑の建築をミケランジェロは手がけるに手がけられず40年引きずり、悩ませられたそうです。1547年に完成された教皇ユリウス2世の廟堂は縮小されてサン・ピエトロの中に制作。ミケランジェロの作で「モーセ」像は有名です。下は、サン・ビエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の壁面墓碑の一部のモーセ像です。当初40体の彫刻を作るはずが、忙しすぎて自分で3体しか制作できなかったようです。メディチ家礼拝堂新廟メディチ家出身のレオ10世(ロレンツォの次男で駄目ピエロの弟)が教皇に即位。彼により、ミケランジェロはフィレンツェに戻り、サン・ロレンッオ教会の外観の設計など、メディチ家の仕事をするように言われます。図書館やメディチ家礼拝堂の新聖器室などを建設。1520~1533年に作られたメディチ家礼拝堂の新廟には、ロレンツォ2世の「暁と黄昏」とジュリアーノの「昼と夜」のすばらしいミケランジェロ制作のの墓碑があります。下は、ウルビーノ公ロレンツォ2世の墓碑の部分。(以前とりあげています。)石を彫ったとは思えない素晴らしい作品です。電動ドリルもない時代にミケランジェロはどうしてこうも細やかに、まるで粘土でも彫るかのようにできるのか? 天才以上に本当に神の業です。一体彫るのにどれだけかかるのか・・。法王レオ10世の下で枢機卿として有能な手腕を発揮していたクレメンス7世が、教皇に即位した頃は不安定な国際情勢の中で、イタリアを巡るフランスと神聖ローマ帝国との戦闘の最中でした。マルティン・ルターによる宗教改革運動もあってクレメンスはサンタンジェロ城に幽閉、市内では殺戮、破壊、略奪、等の惨劇が繰り広げられていたそうです。ミケランジェロもそんな時代に翻弄され、フイレンツェの共和制を守って奮戦した為、メディチ家による処刑は免がれず、市内に隠れて不明(1975年にサン・ロレンッオ教会が隠れ場所だった事が判明)でしたが、墓所の建設と引き換えに赦免され、メディチ家礼拝堂の完成がなされます。ミケランジェロは、同士を裏切った罪にさいなまれ、また、彼の熱愛した「共和制の祖国フィレンツェ」の崩壊に絶望しローマに移ってから2度とフィレンツェに戻る事はなかったといいます。システィナ礼拝堂の祭壇壁画、「最後の審判」ローマに戻ると教皇クレメンス7世からシステイナ礼拝堂の祭壇壁画を依頼され、続く教皇パウルス3世もこの仕事の継続を望んだ為、(1536年~1541年)完成させます。巨大なフレスコ画による祭壇画は、ミケランジェロ自身が精神的な苦悩をした恐ろしいビジョンで描かれていると言われています。助手の手を借りずに一人で仕上げたと言われる壁画は、足場から落ちて大怪我したときも医師の手助けさえ拒否した程だったそうです。下の正面がシスティナ礼拝堂のフレスコ画、「最後の審判」です。、(1536年~1541年)ラテン語、賛美歌「ディエス・イラエ(神の怒り)と、ミケランジェロが暗記したダンテの「地獄編(小説)から大きなインスピレーションを得たとされ、畏敬の念を起こさせる大画面の構成になっています。1981年から1994年までに修復作業が行われ、ススで汚れていた壁画・天井画は洗浄され製作当時の鮮やかな色彩が蘇りました。(驚く程鮮やかで意外にポップな色で驚きました。古い美術書の写真は殆ど洗浄前の薄暗いものです。)最後の審判の紹介は別にやります。目的があるので・・。1544年と1545年の2度に渡って死を覚悟するほどの病気にかかります。明らかに教皇たちの過大な製作依頼が彼の体力を弱めていったようです。教皇パウルス3世はミケランジェロをサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家にし、その後3人の教皇のもと生涯続くことになり、存命中には完成しなかったそうです。1564年2月18日88才で亡くなります。ミケランジェロは敬虔なるカトリック教徒だったそうです。しかし、隠遁者で、内向的で憂鬱質であり、情緒的に激情する事もあったと言うので、恐らくうつ病の気があったのではないかと思います。節度ある生活を送っていたとされますが、召使が長く続く事がなかったそうです。また、彼は他の芸術家とは比べられないほど男性の裸体に興味を示し、夢中になっていたとまで言われ、ホモ・セクシャルだったとされていました。確かに、システィナ礼拝堂の巫女のモデルは、女性ではなく男性であったとされていて「そうなのかな?」と思う部分もありますが、彼は己のもつ芸術性にこだわりのある芸術家ですから、必要であれば男性の裸像に興味を示すこと自体は別に不思議ではないのでは? と私は思います。(筋肉フェチだったかも?)彼は単におく手で女性に接触がない職業だけに不器用だったのではないか? (顔のコンプレックスもあるし・・)彼の人生の後半に現れたペスカラ侯爵未亡人のヴィットリア・コロンナとの精神的な友情? は老いて静かに神と人生を語り合う相手として大切な存在だったのだと思います。もし、彼が10年若ければ結婚もあったのではないか? (出会いは61才)13才より好きで芸術の道に入り、自由に発想し、自分のこだわりが発揮できた時が彼の一番の幸せな時? と考えると大好きな祖国フィレンツェのダビデの像を制作していた時だったのでは? と思います。喜んで、奮発して特大サイズでダビデを彫ったのかな? と思ったりします。ミケランジェロは終わります・・・。でも・・やはり・・一枚紹介しておきます。先に「最後の審判」番外編です。右の脱皮した後のような皮がミケランジェロです。何を表して描いたのか? 「すでに気持ちはここにない? 」 or「自分は救われるべき人間ではない? 皮くらいで? 」
2009年07月11日
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前回に引き続き・・。やはり、ミケランジェロは一言で説明できる人ではありません。確かに長生きもしていますが、偉大な芸術家すぎて作品1つ1つも深すぎて大変です。ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)(1475年~1564年)フィレンツェを離れベネチアへ、そしてボローニャで1年過ごしフィレンツェに1度戻ると「眠れるキューピッド」(1495年~1496年)を制作。「古代の作品としても通用するだろう。」と言われたこの作品は後に古代彫刻としてローマで売り払われていた事件が発生。この事件を契機にローマに招請されたミケランジェロは、「バッコス」を制作し、フランス人枢機卿のジャン・ピレール・ド・ラグロラの為に「ピエタ」を制作します。それが、彼の代表作にも数えられるサン・ピエトロ寺院の聖母子像です。「ピエタ(Pieta)」制作(1498年~1500年)「ピエタ(Pieta)」は十字架から降ろされた息子キリストの亡骸を腕に抱く母マリアをモチーフとした聖母子を表現するものです。目を見はる美しさは、古典的な理想美の中にも抑制された美を表現した、独創性を持っています。この作品は、彼に不朽の名声をもたらし、一気にイタリア彫刻界の頂点に立たせた作品です。(以前「ミケランジェロ作メディチ家礼拝堂」の所で写真だけ紹介しています。)1501年英雄としてフィレンツェに戻ると、前回紹介した「ダビデ」(1501年~1504年)を制作。(この時彼はまだ26才なんですね。)ダビデ像は当時市庁舎として使用されていたヴェッキオ宮殿前に、ロレンツォの死後共和制にもどっていたフィレンツェの共和国の自由と、勇気と美徳のシンボルとされます。ローマで(ヴァチカンで)ユリウス2世(在位1503年~1513年)が即位すると再びローマに招請され、ミケランジェロはこの後7人の教皇に仕えて振り回されながら仕事をする事になります。下は当時ラファエロの描いたミケランジェロです。彼の肖像画は、老いたものばかりなので、彼の人物像がわかりやすい作品です。 一風変わった思索家といった感じですね。因みに欠けていますが、左上の白い衣装がラファエロ本人です。下は、上の作品の全景です。バチカン署名の間のラファエロ作。「アテナイの学堂」 制作1509年15011年。中心の赤い衣装がプラトンで右の青衣がアリストテレスです。1508年に教皇ユリウス2世から依頼された署名の間の壁面と天井画の成功で、ラファエロはルネッサンス最大の画家としての評価を得ています。ミケランジェロと同時期に、ほぼ隣で仕事をしていたわけです。ラファエロはレオナルド・ダ・ビンチの影響を受けた人ですが、ここでの仕事でミケランジェロを賛美したのかもしれません。最初の下絵に彼はいなかったのですから・・。サン・ピエトロ大聖堂の全面改築教皇ユリウス2世は、建築家ブラマンテに設計を一任します。同時にミケランジェロにシスティナ礼拝堂の天井画を描くよう支持するのですが、もともと絵画は自分の専門ではなかった事もあり気乗りのしない仕事だったようです。暑く蒸し風呂の様な部屋で、足場の悪い中、上を向いて描くと言う制作で、絵の具はしたたり目の中に落ちるといったつらく苦しいものだったそうです。(特にフレスコ画は1日の描く分が決められてしまうので時間制限がつく。)確か女装して逃げた事もあったような記憶が・・。タイトルを忘れましたが、高校の頃に読んだミケランジェロの事を書いた本にそんな細かい記述があったような・・。なんだかんだと4年の歳月をかけて完成1512年の事です。「天地創造画」下が、制作期間(1508年~1512年)をかけたシステイナ礼拝堂の天井画です。「創世記」をテーマにした9つの場面が描かれたもので、一般に「天地創造画」と言われています。(バチカンにある絵の中でも有名な一つです。)一番中心、神がアダムに向かって手を差し伸べる場面が、「アダムの創造」です。その二つ右が「アダムとエヴァの原罪とエデンの園からの追放」食べてはならないりんごをヘビにそそのかされてエヴアが食べ、アダムに勧めた人間の原罪を表現しています。この作品も説明するには特集で何本かになるので、今回はスルーします。人々は畏怖の念を持って「天使の技」を見るために何100kmもの旅をして来たといいます。今回もつづく・・。
2009年07月11日
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ダビデ像(David)ミケランジェロ作のダビデ像(David)は、最初フィレンツェのシニョーリア広場のヴェッキオ宮殿の前にありました。下は、ベッキオ宮殿です。メディチ家の居城であった時代もありました。下の右端に注目。かすかに像が見えます。ここが、元の本家のダビデ像があった正位置です。1873年ダヴィデ像は、外にあると損傷を受けやすい(酸性雨とか・・年月の摩耗)ので、保存の為にフィレンツェに美術学校の美術館であるアカデミア美術館(Galleria dell Accademia)に移設。下の写真はアカデミアの本物の大理石のダビデですが、私の写真ではありません。1501年~1504年に制作。大理石で身の丈5.17m。ダビデが裸なのは、当初サウルが自分の着ていた甲冑をダビデに着せたのですが、着慣れない甲冑と動きのとれない事に戸惑い、「それらを脱ぎ捨てた。」と聖書に記されていたからだそうです。ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)(1475年~1564年)ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人と多くの肩書きをもちますが、本人は、「私は彫刻家である。」と言い続けたそうです。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティと共にルネサンスの三大巨匠と呼ばれます。名前はミカエル(Michael)+ 天使(angelo)の意。ミケランジェロは、当時トスカーナ地方のカプレーゼで行政官をしていた家に生まれます。父は任期を終えフィレンツェに戻ると、生まれて数週間のミケランジェロをセッティニャーノ近郊の乳母の元に彼を預けたのだそうです。セッティニャーノは石切場が多く、乳母の父も夫も石工であった事が、彼の人生が決まる環境となりました。「私は、乳母の乳といっしょに、彫刻を作るのに使う鉄槌やノミも吸い取ったのだ。」と後にジョークを飛ばしていたそうです。芸術の道に進んだのは彼自身の希望で、(親は彼を文法学校に通わせていた。)13歳(1488年)の時にフィレンツェで一番成功していたドメニコ・ギルランダイオに弟子入りし1年で頭角を現します。当時メディチ家の庭園にあったロレンツォ・ディ・メディチ(1449年~1492年)の新しい彫刻家の為の学校で学ぶチャンスを得ますが、才能のあった彼は学友の嫉妬心からいじめにあっていました。弱い者いじめの若い彫刻家ピエトロ・トリジャーノに顔面を殴打され、鼻の骨を砕かれています。ミケランジェロはこの事件と傷で、「生涯(心理的な)傷跡を残した。」と思われると、彼の親友のジョルジュ・ヴァザーリ(ヴァザーリの廻廊の建築家にして、「画家・彫刻家・建築家列伝」の著者)が記しているそうです。容姿に劣等感を持ち、さらに気難しい性格になった事は間違いないようです。ところで、ロレンツォ・ディ・メディチ(1449年~1492年)はフィレンツェの主要な美術家を、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、ミラノに積極的に派遣し、フィレンツェのルネサンス美術をイタリア中に広めています。これは特異なロレンツォの外交政策の一端といわれますが、彼の代にメディチ家は最盛時(黄金時代)を迎え、盛期ルネサンスと重なります。芸術を愛したロレンツォが43歳の若さで病死し、息子のピエロ(1472年~1503年) が20歳の若さで家督を継ぎますが、もともと人望に乏しく、ロレンツォが「愚か者」と評した長男です。ロレンツォ亡き後のフィレンツェは衰退し始めます。同時に、芸術に興味のないピエロはミケランジェロに強い失望を与えました。この頃の不安なフィレンツェに不穏な事件がもう一つあります。サヴォナローラの登場です。サヴォナローラの事は別の機会にとりあげますが、彼の耳鳴りする説法により、ミケランジェロは仕事を辞めてフィレンツェから逃れて行きました。つづく
2009年07月10日
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マタイによる福音書17章「神殿税を納める」の中で、キリストがペテロにこう言います。「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると。銀貨が1枚見つかるはずだ。それを取って私とあなたの分として納めなさい。」聖ペテロの魚(St. Peter's fish)と聖ペトロ聖ペテロの魚(St. Peter's fish)聖ペトロ下の魚がその魚です。聖ペテロの魚と呼ばれるセント・ピーター・フィッシュ(St. Peter's fish)です。今やガリラヤ湖の名物だそうです。ガリラヤ湖は、イスラエル7北部に位置する国内最大の湖。周囲53km、南北に21km、東西に13km。面積166平方kmの。最大深度は43m。海抜マイナス213m。「ガリラヤの海」など「海」と呼ばれることもあったが、純粋な淡水湖である。だから魚も淡水魚で、ティラピアではないか? と思われる。ティラピア(Tilapia)はスズキ目シクリッド科に属す魚だそうだ。ナイルティラピアかも ? 日本では外来生物に入るカワスズメ(モザンビークティラピア)が近種。鯛類とは全くの別種で、生息環境も異なる。※ 2019年8月「アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ」の中「ガリラヤ湖、ゲネサレト湖畔と使徒ペトロ」でガリラ湖についてもっと詳しく書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ聖ペトロペテロ(シモン・ペトロ)はキリストの最初の弟子の1人、12使徒のリーダーとなる存在である。彼はもともとガリラヤ湖で弟と漁師をしていた。マタイによる福音書4章「4人の漁師を弟子にする」でキリストがペテロ兄弟に言います。「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。2人はすぐに網を捨てて従った。下はバチカンのサンピエトロ大聖堂の中にある聖ペテロの座像です。13世紀アルノルフォ・ディ・カンビオ作皆がペテロの右足をキスしたり、なでて行くので摩滅しています。バチカンのサンピエトロ寺院はペテロの亡骸の上に建てられた教会です。64年、神聖ローマ皇帝の迫害の為に殉教したキリストの弟子ペテロはバチカンの丘に葬られます。349年になって、その後にペテロの墓と聖ピエトロ聖堂が建築されました。カトリックではペテロを初代のローマ教皇とみなしています。これは「天の国の鍵」をペテロがキリストから受け取った事で、その権威を与えられ、それをローマ司教としてのローマ教皇が継承したとみなすからだそうです。上のペテロが左手に握っている2本の鍵が天国の鍵です。ペテロを表す物として、天国の2本の鍵と逆さ十字(聖ペテロ十字)が用いられます。(ペテロは逆さ磔刑で殉教した。)聖名祝日はカトリックでは6月27日、正教会では7月12日です。
2009年05月17日
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