Oh To Be Wicked Once Again

Oh To Be Wicked Once Again

「ONJO Tour 2006@京都」での感覚について

いつも普通に聴いていてはよく分からないことをする大友良英。
僕は、こういうタイプの演奏家はいつも注意深く聴くんですが、なぜか今回は、
「何をしようとしているんだろう、なんとかその一端を理解してやろう。あるいは少なくとも理解した気分になってやろう。」
というような考え(っていつもそこまでどぎつく考えているわけではないですが)が浮かんできませんでした。
いつもは能動的に演奏を聴くのですが、今回は受動的に演奏を聞いてしまっていたわけです。
・・・これは一体どういうわけだろうと純粋に不思議な気分になりました。



今回のライブの直前に買った、佐々木敦「テクノイズ・マテリアリズム」を帰ってから読んでいると、その中で、大友良英と今回もメンバーに入っているSachiko M(松原幸子)とがかつて2人で活動していたデュオ、Filamentに関して次のような一節がありました。


〔1〕 そこでは(注:Filamentでの活動においては)「音を聴くこと」の方が「音を発すること」よりも重要な意味を持っている。・・・まずはじめに耳を澄ますこと、そこにある「音」を触知すること。・・・その時、否定辞の連鎖としてあった筈の「引き算」は、サイレンスに「ひとつの音」が加わるという意味で、ポジティヴな「足し算」へと、少なくとも、そのはじまりへと転換するだろう。
(佐々木敦「テクノイズ・マテリアリズム」p160)



どういうことなのか。この本を読んだ上で、僕なりの理解と僕なりの言葉で、できるだけわかりやすく説明するとこうです。


 まず前提として、Filamentはとりわけ松原幸子の持つ意識から、音の「引き算」をその活動目的としました。
 これまでの演奏一般は、すごく乱暴に言うと、音を重ねて重ねて、「どうだオレの演奏テクニックは!」、「どうだオレの曲構成は!」、というものを見せるもの=自意識の強いものでした。即興演奏の場合でさえも、一種の「芸」として、暗黙のルールのようなものに従うものが大半で、即興以前にうまい演奏・へたな演奏というものが想定されているのであり、したがって口に出すことはなくとも、「盛り上がるツボをちゃんと押さえて、お客さんも大喜びのいい即興ができましたよ(ニヤリ)」という発言が出てきうるように、そこには明確に自意識が存在しているわけです(もしも自意識のない即興があるとしたら、それはすなわち再現不可能な即興であり、聴衆も全くなにがなんだかわからなくて、空恐ろしいものになるでしょうが、実際にはそのようなことはほとんどありえません)。
 こういった自意識をそぎ落として、「演奏」ではなく「音そのもの」を聴こうというのが、ここでいう音の「引き算」です。つまり音の「引き算」によって算出され聞こえてくる「音そのもの」とは、自意識のない音、たとえば「風にそよいで木の葉がザワザワと聞こえるような感じで聞こえるギターの音」=「仮に演奏家が居なくてもひとりでに鳴るとしたらこんな音がするんじゃないかというギターの音」だったりするわけです。
 しかし、音を発するという「行為」を行う以上、そこには「なんか音を出す」という最低限の自意識=演奏家(厳密な表現ではないですがわかりやすいのでとりあえずこれで)は存在せざるを得ないわけです。頑張って音の「引き算」をしても、どうあがいても0にはならない(演奏家がいるわけですから)。


 じゃあ「引き算」の完成を阻むこの演奏家という存在を、「引き算」においてどう扱えばいいのか。


 この問題については以下のような一節がありました。


〔2〕 「引き算」を極めていった果てに、しかしどうしても消去することの出来ないものが残る。それは「自意識」と呼ばれるものだ。それは可能な限りマイナスの方向へ導かれていったとしても、けっしてゼロになることはない。そこには「音」を発している、発しようとしている、発するということを考えている「私」、そして「音」を聴いている、聴こうとしている、聴くということを考えている「私」が必ず存在しているからだ。ミニマムな「聴取」と、ミニマムな「発音」を行なう、ミニマムな「意志」を持った、ミニマムな「私=自意識」・・・・・・
 フィラメントとは、大友良英と松原幸子という二個の人間が、このような意味でのミニマムな「私」というものを、ある紛れもない厳格さを保ちつつ、互いに参照=反射し合いながら、ある時間、ある空間において、ある意味ではきわめて消極的な、だがある意味では決定的でもある接触と切り結びと相互貫入、すなわち「出会い」を、常に一度限りの出来事として実現しようとする、繊細かつ野心的な「実験」のことなのである。
(佐々木敦「テクノイズ・マテリアリズム」pp.159-160)



つまり、演奏家=私(自意識)という存在を明確に認めてしまうということです。ただし、それは「聴く私」と「音を発する私」という最小限のレベルにとどめるのであって、あくまでメインは「音そのもの」なわけです。

 そして、これまで幾度となく発してきた自意識の付着した音を、「聴く私」と「音を発する私」の最低限の自意識だけを残す形でどんどんそぎ落として(「引き算」して)いった結果として、かえって立ち現れてくる「音」そのものを聴くこと=〔1〕にいう「音を聴くこと」、耳を澄ますこと、「音」を触知すること、となるのです。「足し算」というのはその立ち現れ方を表す比喩に過ぎないのであって、ここまでで述べてきた「引き算」とは若干言葉の用法が異なっているような気がしますが、まあそれはいいことにしましょう。


 大友良英は基本的に現在もこの路線で活動を行っているようです。
 そうした彼の考えは、「音楽は無力だからこそ美しい・・・音楽家はただひたすら音を出すだけの無力な存在であるべきだ」という、かつて 05年11月29日の日記 でもとりあげた言葉にも表れています(ってことに今気づきました)。


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 したがって、最初に掲げた「不思議な気分」は、以下のように説明できるのではないでしょうか。

>「何をしようとしているんだろう、なんとかその一端を理解してやろう。あるいは少なくとも理解した気分になってやろう。」

という能動的に演奏に向かういつもの行為は、それが大友良英の演奏に対する場合には、一言で言えば「音を聴くこと」となっていたのであり、僕はそれを無意識に実践していたんじゃないでしょうか(理解してやろうと演奏に臨んだ結果、いつも感想を持つのは音響のよさだったりするわけですが)。


そして、
>今回は受動的に演奏を聞いてしまっていたわけです。

という現象が生じたのは、
・・・今回の演奏はONJOオリジナルの要素を付加しているとはいえ、エリック・ドルフィーのカバー演奏です。しかもかなりオリジナルに忠実に演奏されているということのようですから、そこには当然のことながら、ドルフィーがどのように演奏していたかについて、それを探求しようとする演奏者の「自意識」が存在しています。それを僕は敏感に感じ取ったからではないでしょうか。つまり、自ら「音を聴くこと」をしなくても、向こうのほうから自意識の付着した音がやってくる。今回の演奏に限ってはそういう類のものだったのではないでしょうか。


 とすれば、仮に佐々木氏の大友氏についての考察が的確であり、かつ、その考察についての僕の理解が適切であるというという条件付きではありますが、大友良英が意図してこれまで活動してきたことを、自分はもしかしたら感覚的にではあるけれど的確につかめていたのかもしれないなあ、だとしたらうれしいな、というまあそれだけの話なんですが。


 ・・・わかりやすく説明するって言っておきながら、全然わかりやすくない( ̄ー ̄;
 まあそういう小難しい話は置いておくとしても、とにかくこんな風に「音ってなんだー!」とそれこそ人生かけて追究している大友良英の姿には心打たれるものがあります。彼の考えていることを理解できようとできまいと、そのことだけは強く感じます。



06/02/26


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